聖書一日一章

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1日 新約聖書・ローマ八章
 私たちは、キリストにある「いのちの御霊の原理」(二)により、罪と滅びから解放された。
 御霊は私たちの中に住み、神を「アバ(お父さんの意)、父」と呼ぶ思いを与えて下さる(一五)。それにより私たちは、自分が神の子とされたこと、また、自分の内に御霊が住んでおられることを知る。
 御霊はさらに、やがて体が贖われるときの希望を私たちにお与えになる(二三)。その希望は、いかなる苦難をも乗り越えさせるものである。
 御霊は、神が私たちを深く愛しておられることを、私たちに確信させて下さる。そして、すべてのことは神によって益と変えられることをも、確信させて下さる(二八)。
 勝利の生活の秘訣は、この御霊にある。
 今日、御霊に対して、あなたの心を開こう。御霊に、心の中で風のように自由に吹いていただこう。そして、御霊が自分の心の支配者となられるよう、御霊を心の王座にお迎えすることである。
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2日 旧約聖書・創世記一七章
 神はアブラムに、「わたしは全能の神である」(一)と言われた。そして九〇歳の白髪の妻サラから、翌年男の子が生まれるであろうと。
 自分も一〇〇歳になろうとしていたアブラムは、これを聞いたとき心の中で笑った(一七)。彼は、まだ完全には信じていなかったのである。
 しかし彼は、神の契約のしるしとして与えられた割礼の命令には従った(一一、二三)。彼は心の中に若干の疑いを持ちながらも、神のおっしゃることには従ったのである。
 この点が、信仰生活の上で大切である。たとえ疑いを抱いても、神の言われたことには素直に従う。
 聖書では、「契約」ということが大切な要素になっている。契約によって、神の自由意志は人間の自由意志と結ばれる。神は、人と契約を結んで、共同事業をしようとされるのである。
 神はこのとき、アブラムにご自身への信頼と服従を要求された。そしてアブラムがそれを果たすなら、彼と彼の子孫を豊かに祝福すると約束された。神はこの契約によって、アブラムの子孫を通し、世にキリストを来たらせようと計画されたのである。
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3日 新約聖書・マタイ九章
 最初の中風の人がいやされたとき、主イエスは誰の信仰を見られたか。イエスは「(運んできた)彼らの信仰を」(二)見られた。
 つぎに長血の女がいやされたとき、主は彼女自身の信仰を見られ、「あなたの信仰があなたをなおした」(二二)と言われた。このようにいやしの力は、病人本人の信仰による場合もあれば、周囲の人の信仰による場合もある。
 埼玉県在住のある主婦は、乳ガンで入院していたが、ある日牧師が祈りに来てくれた。しばらくしてから、彼女の様態は日に日に良くなっていった。
 このとき彼女自身は、とくにりっぱな信仰を持っていたわけではない。いや、わずかに持っているだけであった。しかし、彼女はついにいやされ、退院した。
 担当医は不思議がっていた。また彼女は、あとで長男から、自分が末期ガンだったことを知らされた。
 その後彼女は、神が自分をいやしてくださったことを感謝し、初めて信仰に堅く立って歩むようになった。彼女は自分の信仰によるというより、むしろ、祈りに来てくれた牧師の信仰によっていやされたのである。
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4日 旧約聖書・創世記一八章
 三人の天使は、人間と全く同じような姿でアブラハムのもとへ来た。しかも、彼らのうちのひとりは神ご自身、または神の代理役をつとめる天使であった。
 創世記の記述は、彼らのうちのひとりが神ご自身であるとの印象を与える(一三)。しかし、むしろ神の代理の天使であったと考えたほうが良い。イスラエル民族の父祖ヤコブも、ペニエルの地で神ご自身と格闘したと思ったが、彼の格闘した相手はじつは天使であったと、聖書は記している(創世三二・二二〜三二、ホセ一二・四)。
 神は、ソドムとゴモラの町々を滅ぼそうと考えていることを、アブラハムにお告げになった。アブラハムは、それらの町のすぐ近くに甥のロトが住んでいることをも思い、必死にとりなした。
 神は、それらの町に「十人」の正しい人をも見いだされなかった。しかし、主はロトとその家族だけはそこから助け出された(一九章)。これは、アブラハムのとりなしがあったからである。今日、あなたにも、とりなすべき人がいるのではないか。
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5日 新約聖書・ローマ九章
 パウロは九章から、イスラエル人の救いについて語り始める。
 キリストの福音は、異邦人には爆発的勢いで広がっていったが、イスラエル人(ユダヤ人)への伝道は遅々としていて、イスラエル人でクリスチャンになった者はまだ少数であった。パウロはこのことを「大きな悲しみ」(二)と言っている。
 そしてイスラエル人の救いのためには、自分が身代わりにのろわれてもいい、とさえ言っている(三)。これは、私たちのために十字架にかけられて身代わりにのろわれたキリストの御心と、同じものである。
 かつてイスラエルの指導者モーセも、このような心を持っていた。彼は、同胞がもし救われないのなら、自分の名を神のいのちの書から消し去ってください、とまで述べて神に迫ったのである(出エ三二・三二)。
 あなたは、同胞の救いのために祈るとき、どのような心で祈っているか。同胞の悲惨さを思うとき、私たちは激しい痛みを心に覚えるのである。
 真の愛の祈りは、しばしば深い悲しみから生まれる。悲しみ苦しみもだえることを通して、しばしば私たちは真の愛の祈りに達するのである。
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6日 旧約聖書・創世記一九章
 三人の天使のうち、神の代理の天使は地上から去り、残りのふたりの天使はソドムの町へ入って行った。それは、ソドムの罪をつぶさに見るため、またロトに憐れみをかけるためであった。
 ロトは、完全に正しい人ではなかった。彼の妻や、二人の娘も同様である。しかし神は、アブラハムのとりなしのゆえに、彼らに憐れみをかけられた(一六)。
 考古学的には、このときソドムとゴモラにあった地震のために地中の天然ガスが天高く噴き出し、それに引火して大爆発が起き、灼熱の硫黄と火とが天から降ったのであろう、と言われている。
 ソドムとゴモラは、今は死海の南端付近に沈んでおり、付近からは紀元前二千年頃の町の跡も発掘されている。肥沃な町々は、こうして突如として破滅し、神の裁きを世に伝えている。
 ソドムとゴモラの町々の滅亡は、世の終わりの「火による審判」の一つの予型である。そのときも、助かるのは、神の言われることに聞き従う人々だけである。
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7日 新約聖書・マタイ一〇章
 主は、十二弟子たちに汚れた霊を制する権威を授け、イスラエルの町々におつかわしになった。マルコ六・七によると、主はこのとき、彼らを「二人ずつ」組ませて遣わされた。
 二人ずつというのは、こうした伝道の際に最も良い人数である。一人だと心細いし、また三人だとそのうちの二人が仲良くなり、あとの一人が取り残されたりして、何かと問題が起こる。
 主は彼らに、お金を一銭も持たせず、余分な服も持たせずに遣わされた(九、一〇)。これは、彼らの信仰を訓練するためであった。
 ある神学校の生徒が、この聖書個所を読み、自分も同じことをしようとした。彼は春休みに友人の神学生をさそい、その人と二人で、奥多摩へ「無銭徒歩伝道」に出かけたのである。
 彼らは町々で福音を宣べ伝えて歩き、四日間で四人の明確な回心者を得た。彼らは一銭もお金を持っていなかったが、夜泊まるところも、食事も、行く先々で与えられた。
 「一体どうやって与えられたのか」とあなたが質問されるなら、自分でこれを経験するのが一番であろう。
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8日 旧約聖書・創世記二〇章
 アブラハムは、ここで再び失敗を犯す。やがて初めての子イサクがサラから生まれようとしているのに、長い間の忍耐と信仰の訓練とを台無しにするようなことであった。
 アブラハムが嘘をついたのは、これが二度目である。一度目はエジプトで、妻を妹と言った(一二・一〇〜二〇)。しかし今度はゲラルで同じような嘘をついている。
 サラは確かに、アブラハムの異母妹だったから、「妹」というのはあながち嘘ではない。けれども、彼女は夫のある身だったから、「妻」と言わず「妹」と言ったのは事実を故意に隠すことであった。
 アブラハムはこの嘘のために、ゲラルの王に大変な迷惑をかけてしまう。自分が罪を犯さずとも、人に罪を犯させてしまうことは、良くないことである(九)。
 このことからも、アブラハムは特別優れた聖人君主だったわけではないことがわかる。彼も、神を離れれば普通の人だった。
 神は、人間的に特に優れた人を用いるのではない。神は、しばしばごく普通の人を用いて、みわざを進められる。神は、信仰において成長できる人を用いられるのである。
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9日 新約・ローマ一〇章
 ここでパウロは、イスラエル人の多くがまだキリストを信じることができない一つの原因は、「知識」の不足であると言っている(二、一四)。彼らは、神に対しては熱心であるが、キリストについての正しい知識に不足しているのである。
 今日、日本人の多くも、比較的、宗教には熱心である。しかし彼らの多くがまだクリスチャンでない理由の一つは、キリストに関する正しい知識、聖書に関する正しい知識が不足していることである。
 福音は、まだ日本人に対して充分に説かれていない。信仰において、「知る」ということは大切な要素である。正しい知識が積み重なっていくと、自然に信仰に結びついていくものだ。
 イスラエル人と日本人は、その多くがまだキリスト信者でないという点でも、似かよっている。日本の同胞の救いのために祈ろう。そして自分のできるところから、伝道を開始しよう。
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10日 旧約・創世記二一章
 ついに待望の子イサクが、サラから生まれた。その時サラは九〇歳、アブラハムは一〇〇歳であった。以来、彼らの家庭には、喜びと感謝の笑いが絶えなかった。
 しかし、しばらくして問題が生じた。アブラハムには一四年前、女奴隷ハガルを通して生んだ子イシマエルがいた。その子が、イサクをからかい始めたのである。
 けれども、これだけなら大きな問題ではなかった。これは単に子育て上のことで、教育に関することであった。
 問題だったのはむしろ、女奴隷ハガルと正妻サラの間にあった女の確執である。サラは、ハガルを子と共に追い出すよう、アブラハムに迫った。
 アブラハムは悩んだ。彼は、一四年前に肉の知恵によって愚かなことをしなければ生じなかった問題に、今苦しんでいるのである。
 神はそうした彼にも、解決の道を示された。たとえ自分の失敗でも、へりくだって神の導きを求めれば、神は最善に導いてくださる。
 神はまた、アブラハムの祈りを聞かれただけではない。ハガルの、そしてイシマエルの祈りをも聞かれた(一六〜一七)。
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11日 新約聖書・マタイ一一章
 バプテスマのヨハネは、かつてイエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハ一・二九)と言った人である。彼は神の霊により預言してそう言ったのだが、その本当の意味を、自分でよく理解していたわけではなかった。
 ヨハネは、イエスが地上の王となり、イスラエルをローマ帝国の圧政から解放してくれるはずだとの考えも持っていたに違いない。しかし、イエスは一向にそうされない。自分も獄中に捕らえられたままである。そこで彼は弟子を遣わしてイエスに質問をした(三)。
 私たちは、信仰の上でわからないことができたとき、それを質問するのは悪いことではない。
 獄中でヨハネは、イエスのお答え(五)を聞いた。「盲人が見、足なえが歩き・・・・」とのお答えは、「今や旧約聖書の預言が成就しているではないか」という意味である。
 これはヨハネにとって、きわめて納得のいく回答であったに違いない。ヨハネはやがて獄中で死ぬことになるが、彼はイエスのこのお答えを胸にとめ、自分の目で救い主の姿を見たことに深い感慨を覚えつつ、死に就いたのである。
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12日 旧約・創世記二二章
 一節〜一九節までの出来事は、二つのことを目的として起こった。一つは、これをアブラハムへの「試練」(一)とし、彼の信仰を訓練することであった。
 もう一つは、アブラハムとイサクの出来事を、将来神と御子イエスの間に起こる出来事の予型とすることであった。
 というのは、イエスが神のひとり子であるように、イサクはアブラハムの「ひとり子」である(二)。また、イサクを全焼のいけにえとして捧げよと命じられた場所「モリヤの地」(二)は、後のエルサレムであって(二歴代三・一)、主イエスもそこで死なれたのである。
 アブラハムがモリヤの地に着いたのは、出発後「三日目」(四)であった。彼の心の中でイサクはこの三日間、死んでいた。
 そして三日目に、振り上げた刀を天使に止められた時、「彼はいわばイサクを生き返して渡されたわけである」(ヘブ一一・一九)。同様に、神の御心の中でイエスは、三日間死んでおられた。
 このように、あのモリヤ山上で、アブラハムは神の立場に、またイサクはイエスの立場に立たせられたのである。
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13日 新約・ローマ一一章
 パウロはここで、イスラエル人の救いについて奥義を語る。イスラエル人は、今はかたくなになっているが、それは「異邦人の完成のなる時まで」(二五)であり、やがて世の終わりに「みな救われる」(二六)というのである。
 「異邦人の完成のなる時」とは、福音が全世界に伝えられ、救われるべき異邦人がみな救われて、異邦人に関する神のご計画が完成する時のことである。
 救いは異邦人にまず広まり、最後にイスラエル人が救われる。このときのことについて黙示録には、キリスト再臨の時、「すべての目、ことに彼を突き刺した者たち(イスラエル人)が、彼を見る」(一・七)とある。
 またゼカリヤ書には、その時イスラエル人たちはキリストの再臨を見て「激しく泣く」(一二・一〇)と預言されている。彼らは、二千年前に十字架につけられたかた――槍と釘で「突き刺され」たあのかたがメシア(キリスト)であったと知って、激しく泣き、悔い改めてクリスチャンになるのである。
 一刻も早く、イスラエル人(ユダヤ人)の救われるこの時が来るよう、祈ろうではないか。
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14日 旧約・創世記二三章
 愛妻サラの死後、アブラハムは、初めて土地を手にいれた。それは、小さなサラの墓地であった。
 当時、ヘテ人(歴史学ではヒッタイト)たちは、アブラハムに対して非常に友好的であった。アブラハムは彼らの中で、尊敬されていたのである。それはアブラハムには神が共におられることが、彼らによく知られていたからであった(六)。
 クリスチャンも、世人の中でそうあってほしいものである。私たちは、「あの人には神が共におられる」とわかるような生活をしたいものだ。
 アブラハムも、ヘテ人に対して礼儀正しく振る舞った。彼は正当な手段で墓地を得た。クリスチャンも、世人に対して礼儀を心得なければならない。
 ヘブル人は、ほら穴に遺体を葬りそれを墓地とする習慣であったから、アブラハムはほら穴が欲しいと言ったが、エフロンは畑地もどうかと言った。アブラハムはそれを受け入れ、値切ることもしなかった。
 アブラハムは、高いお金を支払って、わずかの土地を得た。しかし、それはやがて彼の子孫がカナン全土を所有することの先駆けとなった。
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15日 新約・マタイ一二章
 イエスは多くの病人をいやされたが、ユダヤ教パリサイ派の人々は、それにも反対した。彼らは、安息日に病人をいやすのは律法違反だと言ったり(一〇)、イエスは悪霊のかしらベルゼブルの力でそれをなしているのだと言ったりもした(二四)。
偉大な教えの現われるところには、必ずや反対が起こる。イエスはそれらの反対の中で、つねに堂々としておられたし、また適切な答えも返された。
 律法学者やパリサイ派の人々はさらに、「しるしを見せていただきたいのです」(三八)と言った。しかし、これ以上いったいどんなしるしが必要だというのか。
 あのニネベの人々は、預言者ヨナの説教だけで悔い改めた(ヨナ三・一〇)。南の女王は、ソロモンの優れた知恵を聞くために、遠路はるばるやって来た。なのに律法学者やパリサイ派は、キリストの宣教の言葉も知恵の言葉も聞こうとしない。
 そればかりか、しるしばかり求める。しかし、しるしはもう充分与えられている。問題はしるしの有る無しではなく、聞く側の態度なのである。
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16日 旧約・創世記二四章
 私たちは二二章で、アブラハムが神の立場に立たせられ、イサクがイエスの立場に立たせられた出来事を見た。
 イサクはイエスの予型であった。同様に、イサクの結婚したリベカは、教会――すなわちクリスチャンたちの一予型なのである。
 リベカは、神に導かれた花嫁であった(一五)。同様にクリスチャンたちも、イエスの「花嫁」(黙示一九・七)となるべく、神に導かれた者たちである。
 イサクは、「その母サラの天幕にリベカを連れていき」(六七)、そこで彼女をめとり、妻とした。これは何を意味するのか。
 聖書は、天のエルサレムすなわち天国は、「私たちの母」(ガラ四・二六)であると述べている。イサクが母の天幕でリベカを妻としたように、イエスはやがて私たちを母なる天国へ連れていき、そこで私たちを「妻」とし、ご自身と一体の者とされる。
 イサクはリベカを愛し、彼女によって慰めを得た(六七)。イエスも私たちを愛し、私たちによって喜びを受けられる。また私たちも、彼を愛し、彼によって喜びを受けるのである。
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17日 新約・ローマ一二章
 パウロは一二章以降で、実生活に関する様々な教えを語り始める。
 「心の一新によって自分を変えなさい」(二)とは、自分を変えるために能動的な意志、すなわち自分の主体的な意志が必要であることを、意味している。
 自分を変えるためには、何もしないでただ神が自分を変えて下さるのを待っているのではいけない。神は、心の一新によって自分を自ら変え始める者に力を貸し、その変革を完成してくださるのである。
 神はこの場合、アンプ(増幅器)と同じような働きをしてくださる。アンプが、レコードやCDの微弱な信号を耳に聞こえる大きな音に増幅するように、神は、あなたの心に始まった変革の動きを増幅して、あなたをついには新しい人に造り変えてくださるのである。
 だから、自分の心に始まった変革を、祈りの中で神の御前に注ぎ出さなければならない。そうすれば神は、それを受けとめ、力を貸してくださるのである。
 七節以下の倫理に関する教えは、パウロが、キリストとの交わりと、旧約聖書から得たものである。これらの教えを、一つ一つ胸に刻み、自分のものとしよう。
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18日 旧約・創世記二五章
 アブラハムは「全財産をイサクに与えた」(五)。同様に神は、御子イエスの手に「万物をお渡しになった」(ヨハ三・三五)。
 イサクとリベカからは、やがて双子が生まれた。双子のうち、兄はエサウ、弟はヤコブと名付けられた。
 ヤコブが、兄エサウのかかとをつかんで出てきたことは(二六)、その後の彼の性格を象徴している。ヤコブはじつはこの後、兄の地位をひきずり落とすようなことをするのである。
 エサウもエサウで、自分の「長子の権利」をその日の夕食と引き替えるほど、軽薄であった(三四)。このように、聖書は彼らの欠点を、あからさまに描いている。
 二人とも、欠点の持ち主であった。しかし神は、彼らのうちヤコブを選び、キリストを来たらせる民の父祖とされた。
 それはすべてを予知される神が、ヤコブのほうが、訓練すればキリストを来たらせる民の父祖としてふさわしい者となる、と判断されたからである。
 欠点があるからといって、選びから漏れることはない。大切なのは、訓練されれば、神に忠実な者となることである。
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19日 新約・マタイ一三章
 たとえ話は、解釈が一見簡単なようだが、神学者に言わせると、こんなに難しいものはないという。それはキリストのたとえ話は、深遠な真理を内に含んでいるからである。
 「毒麦」のたとえ話(二四〜)は、なぜこの世に悪が存在するか、という問題に対する一つの答えともなっている。なぜ神は、この世の悪を放置し、悪人を放置しておられるのか、と私たちは思う。
 しかしたとえの中では、「毒麦を抜き集めるうちに麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから収穫まで両方とも育つままにしておきなさい」(二九〜三〇)と言われている。
 もし悪人をすぐ滅ぼすなら、その人にはもはや回心の機会はない。しかしいま悪人である者も、回心すれば、明日はりっぱな義人になるかもしれない。
 だから、神はすぐさま裁きをなさらない。神は「収穫の時」、すなわち、神のものとそうでないものとを選り分ける時を、定めておられるのである。
 その時までは、悪の存在は許容されている。しかし、それはいつまでもではない。神は計り知れないご計画のうちに、悪を世界から一掃する日を定めておられる。
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20日 新約・創世記二六章
 イサクは、父アブラハムと同じ失敗を犯した。彼も、妻を妹と言って、滞在先の王に多大な迷惑をかけたのである(七)。
 聖書は、選民の父祖の犯した失敗を遠慮なく記している。だからこそ、聖書の記述は信頼できるとも言える。これは、当時他の国の王が歴史を記すとき、自分の美点ばかり誇大に記したことと、対照的である。
 イサクは、父アブラハムの信仰を継承した(二五)。と共に、神の祝福は彼の上に継承された(二〜四、二二)。
 アブラハムと共に神がおられたように、イサクと共に神がおられることは、世人にもはっきりとわかることだった(二八)。イサクは彼らと和平協定を結び、平和のうちに暮らすこととなった。
しかし彼の悩みは、むしろ家庭内に生じた。エサウは、異邦人で異教徒の娘たちを妻にめとったのである(三四)。このことは、両親にとって悩みの種となった。
 これは、異邦人排斥ということではない。国際結婚が悪いということではない。エサウは、神の民を形成する父祖となるべき位置にいた人である。なのに彼は、信仰の伝統を大切にしなかった。
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21日 新約・ローマ一三章
 キリスト教会において偉大な教父と尊敬されているアウグスチヌスは、このローマ一三章の御言葉によって回心した。
 彼が自分の内なる霊肉の闘争に悩んでいた三二歳のある日、ふと、隣の家から繰り返し歌うような調子の「取れ、読め。取れ、読め」という子どもの声が聞こえてきた。
 アウグスチヌスは、その言葉に導かれるように、聖書を取り、目に入った御言葉を読み始めた。彼の目に最初に入ったのは、ローマ書一三章一三〜一四節の言葉であった。
 彼はその句を読むと、もうそれ以上読もうとはしなかった。またその必要もなかった。というのは、これを読み終わった瞬間、安心の光とでもいったものが彼の心を照らし、すべての疑いの闇を消し去ってしまったからである。
 彼の心は喜びに満たされ、彼はその回心を、すぐさま母モニカに告げた。彼のために長年、日夜祈っていた母は、躍り上がって喜んだ。
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22日 旧約・創世記二七章
 イサクは、子供たちの誕生日に神が妻に言われた「兄は弟につかえる」(二五・二三)という宣言を、知っていたはずである。また、エサウが長子の権利を軽んじ、それを弟に売ったことも知っていたに違いない。
 にもかかわらず、彼は自分の好みのエサウに長子の祝福を与えようとした。これはイサクの過ちであった。
 イサクの言葉を物陰で聞いていたリベカは、奇計を案じ、祝福がヤコブに行くようにした(一〇)。しかしリベカの計画は、夫の盲目を利用する悪質なものであった。神の定められたことが実現するように、との願いもあってのことではあったが。
 リベカに言われてイサクの前に出たヤコブは、母の言う通りに行なった。しかしそこには、単なる母の言いなりの姿ではなく、自発的な欺きの姿が見られる。
 一方エサウは、祝福を奪われたあと、ひどく取り乱し、泣き悲しんでヤコブを恨んだ(四一)。しかし、エサウはもとから長子の権利を、ヤコブに売ってしまっていたはずである。彼にはヤコブを恨むべき理由は、なかった。
 このように、ここには四人四様の不完全な人間の姿がからみ合っている。
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23日 新約・マタイ一四章
 この「国主ヘロデ」とは、紀元前四〜紀元三九年にわたって、ローマ帝国のもとでこの地方を委任統治したヘロデ・アンテパスである。彼は悪名高いヘロデ大王の息子であった。
 ヘロデ・アンテパスは、正しい人であったバプテスマのヨハネを、つまらぬことで殺してしまった(一〜一二)。彼はその罪を負い、そのことで、人々に、また神に対して恐れを抱いていた(一、五)。
 罪は、犯したその人に恐れを抱かせる。人を恐れないはずの国主が、びくびくしているのである。
 ヨハネの獄中での死は、主イエスのもとにも伝えられた。イエスはそれを聞かれると、寂しい所へ去ったが、群衆がついてきたので、彼らを「深く憐れんで、彼らの病気をなおされた」(一四)。
 主イエスには、悲しんでいる暇もなかった。あわれな人物は、あのヘロデだけではない。目の前にいる多くの群衆も、飼う者のない羊のように、悲惨の中にいる。主は、彼らを導くために、今日も忙しく働かれた。
 私たちは、人間の悲惨を思うとき、悲しみに打ちひしがれる。しかし、悲しんでばかりはいられない。今日も、なすべきことがあるからである。
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24日 旧約・創世記二八章
 リベカとイサクは、ヤコブを親戚の家に送りだした(一)。ヤコブはその旅の途中、かつてアブラハムやイサクに与えられたような啓示を受けた(一一〜一五)。
 彼は啓示を受けたとき、へりくだって神を拝し、神のために生きることを決心した(二二)。
 「天に至る道は、バベルの塔のように人の努力によっては開けず、ヤコブのはしごのように、神の啓示によって与えられる」(米田豊)。
 ヤコブはベテルで、天使たちがはしごを「上り下り」しているのを見た(一二)。この順序が大切である。天使たちは、まず祈りを神のもとへ運ぶ。それから神の啓示を人に運んでくるのである。
 このときエサウは、悔い改めるのではなく、自分の欠陥を除くために、ヘブル人の娘をさらにめとって、安易に次から次へと何かを加えるというやり方をしていた(八、九)。
 一方ヤコブは、こののち二〇年間、叔父ラバンのもとで不本意な労働をするはめになる。彼は、自分の蒔いたものをそこで刈り取るのである。それは彼を整えられた者にするための、神の導きであった。
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25日 新約・ローマ一四章
 キリスト教会の発展を阻害する要因の一つは、信者が他の信者を裁くことである。信仰の根本問題でない些細なここまで、人の意見を批判することは、決して発展には結びつかない。
 礼拝の形式や、信者の生活様式、祈りの仕方、賛美歌の種類、メッセージの仕方、洗礼の仕方、聖餐の仕方――こうしたことは、教団や教派によって、かなりの個性がある。
 とかく私たちは、自分の育った教派だけが良いように思いがちだが、それは単に他の教派の雰囲気に慣れていないからである。他の教派にも、それなりの良さがあるものだ。
 私たちは、同じキリストを信じているなら、細かなことで他の兄弟姉妹を裁くべきではない(一)。キリストの御体は、私たちが考えている以上に大きいのである。
 日本の教会がもっと発展するためには、各教団が、もっと他の教団の良い点を研究し、それを取り入れていくことである。また、他の教団と全く交わらないのでなく、むしろ積極的に交わり、互いの理解を深め、協力できることはしていくことが大切ではないだろうか。
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26日 旧約・創世記二九章
かつて人をだましたヤコブは、今度は自分がだまされる番になった。
 ヤコブは愛するラケルを得るために、叔父ラバンのもとで、七年を過ごした。しかし、その後婚礼の夜にやって来たのは、ラケルではなく、姉のレアであった。ヤコブがそれに気づかなかったのは、暗さと、顔のベールのためであった(二五)。
 ヤコブはラケルのために、もう七年ラバンに仕えねばならなくなった。ヤコブはその後もさらに六年ラバンに仕え、結局二〇年不本意な労働をすることになる。
 レアから生まれた子の一人ユダは(三五)、のちにユダ族を形成した。その子孫の中から、ダビデ王や、ソロモンが生まれ、またキリストも降誕される。
 ヤコブの妻となったラケルは、長い間「不妊」(三一)であった。かつてアブラハムの妻サラも、イサクの妻リベカも、長い間不妊であった。神は彼らの子孫を星のように多くすると約束されたのに、長い間彼女たちの胎を閉ざして、彼らを訓練されたのである。
 神はヤコブを選び、ご自身の計画を進める器とされた。しかし、ヤコブは長い間の訓練に耐えねばならなかった。
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27日 新約・マタイ一五章
 主イエスはしばしば、人々の信仰が確かなものかどうか探るために、人から願いを受けても、一度それを突き返される場合がある。
 二二節以下のカナンの娘のいやしの場合もそうであった。女は娘の病のいやしを願ったが、主は一度それを無碍にお断りになった。
 しかしそれは、彼女の信仰の言葉を引き出すためであった。彼女は知恵の言葉をもって、主を説得した。そして主はついに「あなたの信仰はりっぱです」と言われ(二八)、彼女の願いをかなえられた。
 私たちは、願いをかなえて欲しいと思うなら、しばしば神を「説得」するまでに、神に迫らなければならない。
 あのモーセの祈りを見よ。神はある時、イスラエルの民に対して怒りをあらわにされ、民を滅ぼすと宣言された。そのときモーセはかしこまって「わかりました」と、それを受けたか。いや彼は、へりくだりながらも、知恵の言葉を尽くして、民を滅ぼさないように神を説得したのである(出エ三二・一二)。
 神はその説得を怒られたか。いや神はむしろ、モーセの説得を喜ばれ、彼の願いをかなえられたのである。
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28日 旧約・創世記三〇章
当時のヘブル人の間では、結婚していながら女に子がないということは、現代人が考える以上に屈辱的と思われていた。
 それでラケルは、これほどまでに子を欲しがったのである(一)。しかし、子を欲しがるのは良いが、彼女はそのことで謙虚に神に祈るわけではなかった。むしろ、人間的な知恵でそれを解決しようとした(三)。
 サムエルの母ハンナの場合、謙虚に神の前に自分の魂を注ぎ出して、願い求めた(一サム一・一〇)。しかし、ラケルにはそれが欠けていた。祈りの欠乏した家には、争いが絶えない。ラケルはレアとの間に、子どものことで確執を続ける。
 ヤコブの多妻生活は、いかに多くの無用な恋愛競争を引き起こし、その家庭を暗くしたことか。しかし神は、彼の失敗をも代えて、祝福とされる。
 ヤコブはラバンに対して、欲のないように見える条件を、自ら出した(三二)。しかしその裏には、ヤコブの計略があった。
 ラバンの不誠実もさることながら、ヤコブも計略をもってこれに対抗し、ついに多くの群れを持つに至った(四三)。このへんに、ヤコブの性格があらわれている。
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