聖書一日一章

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1日 新約・ローマ一五章
 クリスチャンは、みなが強いわけではない。強いクリスチャンもいれば、弱いクリスチャンもいる。弱いクリスチャンは強くなろうとするが、すぐに強くなれるわけではない。
 強いクリスチャンも弱いクリスチャンも、いてよい。ただ「力のある者は、力のない人の弱さをになうべき」である(一)。
 ある意味では、人には四種類の人がいる。第一に自分に厳しく他人にも厳しい人。つまり自分の過失には厳しく自分を鞭打つが、他人の過失に対しても厳しく裁く人。
 第二に、自分にやさしく他人にもやさしい人。この人は自分の過失に対して反省がなく、また他人の過失に対してとがめることもない。
 第三に、自分にやさしく他人には厳しい人。自分の過失はたなに上げて、他人の過失に対しては容赦なくとがめる人である。
 そして第四に、自分に厳しく他人にはやさしい人。この人は自分を厳しく鞭打って自己の向上に努め、人の過失に対しては寛大な人である。
 あなたはどのタイプだろうか。第四のタイプの人は、真の強さとやさしさを持っている人である。それこそ、クリスチャンとして成人した者の姿といえよう。
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2日 旧約・創世記三一章
 「テラフィム」(一九)は、偶像の一種で、自分の行動の当否に関して伺いをたてる目的で使用されたものである(ゼカ一〇・二)。
 当時多くの家庭では、家長がこの偶像を持っていた。またテラフィムは相続権にも重要な意味を持っていたから、ラケルはこれを盗んだらしい。
 どうもラケルには、神の導きのみに頼るという信仰が、まだ希薄だったようである。真の神の導きだけに頼るなら、テラフィムなどは全く必要のないものである。
 一方ヤコブは、テラフィムなどに頼らず、すでに神の導きに信頼していた。しかし彼は、出発することをラバンに内緒にし、秘かに旅だった。
 もし彼が全面的に神に信頼していたのなら、もっと公明正大な行動に出ても良かった。それが彼の行動で惜しまれる点である。
 神はヤコブとラバンの間に入って仲裁され、事の成りゆきを導かれた(二四)。神は罪を見ればすぐ裁きをなさる、というかたではない。
 神はこのときのヤコブを、親が幼児を見るように見られたのである。幼児は多くの過ちを犯す。しかし親は、一つ一つの事柄において、少しずつ子を導くのである。
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3日 新約・マタイ一六章
 イエスが弟子たちに「あなたがたは私を誰だと言いますか」と聞かれたとき、ペテロは、「あなたは生ける神の御子キリストです」と答えた(一六)。このようにナザレのイエスを「キリスト」(救い主)と呼ぶのが、キリスト教である。
 世の人はイエスというおかたを、様々に言っている。「偉大な教師」「三大聖人の一人」「偉大な精神的革命家」「キリスト教の開祖」「預言者のうち最も偉大な人」――どれも間違いではない。しかし、イエスをそう呼ぶだけなら、それはまだキリスト教ではない。
 イエスというおかたを「キリスト」と呼ぶとき、初めてキリスト教になるのである。ギリシャ語で「キリスト」、ヘブル語で「メシア」と呼ばれるこの語は、もともとは「油注がれた者」という意味だが、神から遣わされた救い主を意味する称号として用いられている。
 「あなたは私を誰だと言いますか」――これは、一人一人に投げかけられた質問である。イエスはキリストである、と信仰告白するなら、私たちは、彼に心からついていく決意を問われる(二四)。
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4日 旧約・創世記三二章
 ヤコブはいよいよ、エサウの近くまで来た。エサウは仲直りしてくれるだろうか。
 ヤコブは恐れ悩み、神に祈った(九〜一二)。これは模範的祈りで、まず神の約束を持ち出し(九)、へりくだって(一〇前)、祝福を感謝し(一〇後)、苦悩を告白して(一一後)、祈願をささげ(一一前)、ふたたび約束に訴えて祈りを結んだ(一二)。
 続いてヤコブは、贈り物作戦に出た。これを良いとみるか悪いと見るかは、人によるであろう。あまりにも人間的な行動、と言えばそれまでだが、それがヤコブという人だった。
 二四節でヤコブが格闘したという「ある人」とは、天使である(ホセ一二・四)。天使とのこの格闘もまた、祈りの模範である。ヤコブは、もだえるほどに祝福を求めて言った。
 「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ」(二六)。
 私たちはときに、祈りの中で神をつかみ、神をとらえるほどに心を注ぎ出すことが必要である。神はそうした祈りを不快とはお思いにならない。必ずやお応えになるのである。
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5日 新約・ローマ一六章
 最後にパウロは、世話になった兄弟姉妹たちに挨拶を書き送っている。ここに記されたほとんどの人は、詳しいことがわかっていない。
 しかし、これらの名の背景には、それぞれの人の感動的な回心の出来事や、多くの主にあるりっぱな証しがあったに違いない。それらを今知ることができないのが、残念である。
 私たちはパウロやペテロ、アウグスチヌス、フランシス、ウェスレー、フィニー、ムーディ・・・・そのほか多くの偉大なクリスチャンの先達を知っている。しかし彼らの他にも、無名の偉大なクリスチャンたちが数多くいたことを、忘れることはできない。
 今日も日本のあちこちに、日々の生活の中でこつこつと主のわざに励んでいる素晴らしいクリスチャンたちが、たくさんいる。彼らは、新聞などで派手に書き立てられることもない。しかし、みな自分の置かれた所で最善を尽くしているのである。
 人の間での有名・無名は、主の前には何の関係もない。大切なのは、主の前に有名であることである。
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6日 旧約・創世記三三章
 エサウにヤコブを憎ませたのは、ヤコブ自身であった。しかしこのときのヤコブは、自分の過去の過失から逃げようとはせず、それを何とか取り戻そうとしている。
 人は、自分の犯した過去の過失から、とかく逃げたがるものである。もう二度とエサウと会うことがなければどんなにいいだろう、とヤコブが思うこともなかったわけではあるまい。
 しかしヤコブは、過去から逃げなかった。彼はエサウの好意を得ようと、必死の思いで事にあたったのである。ヤコブはエサウに、
 「私はあなたの顔を、神の御顔を見るように見ています」(一〇)
 と言った。これは単なるお世辞ではないに違いない。今や柔和な顔で迎えるエサウの顔と、ペニエルの地で祝福してくださった神の温かさが、二重写しに心に映じたのであろう。
 かつて、単なる「押しのける者」であったヤコブは、このときすでに「へりくだる者」になっていた。彼は二〇年におよぶ試練ののち、神と人の前にへりくだることを知ったのである。それは前章一〇節の祈りの言葉にもあらわれている。
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7日 新約・マタイ一七章
 この章の直前の一六章二八節でイエスは、
 「人の子が御国と共に来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます」
 と言われた。この「来る」は、マルコ九・一では、「到来している」となっている。すなわち、弟子たちの中には、すでに神の国が到来し始めていることを見る人々がいる、ということである。
 続いてイエスは、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて高い山に登り、彼らの前で変貌され、ご自身の本来の栄光をお見せになった。
 神の国とは何か。その「本体はキリストにある」(コロ二・一七)。神の国の至福、愛、清さ、生命の本体は、すべてキリストにある。そのキリストが、今や地上に来ておられるのである。
 その意味で、キリストの初来は、神の国到来のさきがけであった。キリストが地上に来られたことによって、神の国はすでに到来を開始したのである。
 ペテロ、ヤコブ、ヨハネは、その事実を目の当たりにしたのである。
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8日 旧約・創世記三四章
 ヤコブの息子たちは、ディナをはずかしめた人々に、悪巧みによって復讐した(一三、二五)。
 彼らは、神との契約のしるしであった聖なる割礼を、あざむく手段として用いた。また一人の悪への報復として、町の男子全員を殺すという、恐ろしい罪を犯したのである。
 その中心人物はシメオンとレビであったが、ヤコブの他の子らも、町を略奪した(二七)。これではただの強盗と変わらない。
 一つの悪のために何倍もの復讐をすることは、当時の社会ではごく頻繁に行なわれていることだった(創世四・二四)。ヤコブの子らも、それらの人々と同程度の倫理観しか持ち合わせていなかったのである。
 こうした卑劣な行為をなくすために、紀元前一四五〇年になると、十戒その他の律法がモーセを通してイスラエルの民に与えられる。しかしこの時はまだ与えられていなかった。
 ヤコブは、息子シメオンとレビの卑劣な行為を嘆き、晩年にも彼らを叱責している(創世四九・五〜七)。ヤコブはエサウとの和平を達成したばかりであったのに、またこの土地から出て行かなければならなくなった。
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9日 新約・一コリント一章
 パウロも、アポロも、ケパ(ペテロ)も、それぞれに有能であったが、異なった個性を持っていた。そしてコリント教会の人々は、個人的な好みから「私はパウロにつく」「私はアポロに」「私はケパに」「私はキリストにつく」と言って、互いに対立し合っていた(一二)。
 このような分派は、今日の教派間の対立に似ている。それぞれの教派は、それぞれの指導者を頭に、分派を形成しているのである。
 しかし、このような分派は何と不健全なことか。福音は教派ごとにあるのではなく、キリストにあって一つである。
 私たちは、キリストにある一致を目指さなければならない。教派・教団は、一つの体にある各器官のように、それぞれの個性を持ちながらも、互いに協力関係になければならない。
 互いに対立していたら、体は成り立たない。日本の教派・教団が対立していることによって起こる霊的損害は、測り知れないものがある。
 教派・教団が、互いに同じキリストの体の各器官であると認め合い、もっと協力関係がつくれるようになると、日本の伝道は飛躍的に発展するに違いないのだが・・・・。
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10日 旧約・創世記三五章
 ヤコブの子らは、前章で、恐ろしい罪を犯した。しかし神は彼らをすぐに裁くことをせず、むしろ彼らを神の民として整えることを優先された。神はヤコブに祭壇を築くことを命じ、彼らの信仰を刷新された(一)。
 ヤコブは、共にいる者たちの持っていたすべての偶像を取り上げ、それらを地中に埋めた(四)。ヤコブは、このように彼らの間で一種の宗教改革を行なったのである。
 この時まで、ヤコブ一家には偶像が存在していた。偶像が存在するところには、正しい倫理観も発達しない。
 私たちの人生においても、しばしばこのような宗教改革が必要である。私たちは自分の心の中から、あらゆる偶像を取り除かなければならない。
 もし心の中に真の神以上に頼っているもの、慕っているもの、愛しているものがあれば、それらはみな偶像である。それらを取り除かなければならない。
 あなたは神を、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして愛しているか。神を第一にしているか。祝福は、第一であるかたを第一とするところに、注がれるのである。
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11日 新約・マタイ一八章
 かつてレメクという人は、自分を傷つけた人に「七七倍」の復讐をする、と公言した(創世四・二四)。彼と同様に、ヤコブの子シメオンとレビは、妹を辱めた人に何倍もの復讐をした(創世三四章)。
 しかし主イエスは、「七度を七〇倍するまで赦せ」と言われる(二二)。復讐は神のなさることである。人間のなすべきことではない。私たちはすべての悪を忍耐し、悪に対しても善をもって報いるべきである(ロマ一二・一七〜二一)。
 その最高の実例が、我らの主イエス・キリストである。このようにキリスト初来の時になって、神の民に、高潔な教えとその実例とが与えられた。
 私たちは、内なるキリストによって、「七度を七〇倍するまで」つまり限りなく人を赦す。そして悪に対して善をもって報い、不義に対しては愛をもって応えるようにしよう。
 人が自分になした悪も、忘れてしまえば何でもない。赦すとは、忘れることである。そしてそれは、さらに愛にまで進まなければならない。赦しは愛にまで進むとき、はじめて完成する。その愛を与えていただけるよう祈ろう。
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12日 旧約・創世記三六章
 エサウは、エドム人の先祖となった。
 エドム人は、死海からアカバ湾の間の土地に住み着いた。そこはパレスチナのように肥沃ではなく、概してやせた土地であったが、エドム人はイスラエル人よりも早く、そこで王政を敷くようになった。
 エドム人は、しばしばイスラエル人に対して敵意を見せた。しかしイスラエル人は、エドム人を憎まず兄弟として扱い、彼らの生んだ子どもは三代目には主の会衆に加えられると、律法に定められていた(申命二三・七、八)。
 イスラエル人は、同じイサクの子であるエドム人とは戦いを交えたくなかった。しかし、エドム人がしばしば敵対行為を見せたため、何度か戦闘を交えねばならなかった。
 神は、エサウとその子孫にも、恵みを与えられた。しかしエサウの子孫、つまりエドム人は、もはやキリストを来たらせる民からは、はずされたのである。
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13日 新約・一コリント二章
 キリストの十字架は、神の知恵である(七)。このような知恵を、いったい人間の誰が思いついたであろう。
 十字架は神の義であり、神の愛である。そこにおいて神の義と愛はクロスし、義と愛が同時に実現される。
 十字架において、罪の代価は支払われた。私たちは十字架においてキリストと共に死に、キリストと共によみがえる。
 十字架において、私たちはキリストと一体化せられ、神との交わりを回復する。十字架は私たちの救いであり、あがないである。
 私たちは、この神の知恵を語る。それはどんな人間の知恵よりも力強いものであり、生命に満ちたものである。この神の知恵に比べれば、他の一切の人間的な哲学、思想、考えは、無に等しい。
 十字架を知るとき、そこには御霊の働きがある。十字架を語るとき、そこには御霊の臨在がある。宣教とは、キリストの十字架のことばと、御霊によるのである。
 今日も神の知恵を賛美して祈り、感謝して一日をスタートしよう。
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14日 旧約・創世記三七章
 ヨセフは、両親に深く愛されていた(四)。それは彼が、非常に純真な性格だったからであろう。
 ヨセフは二つの夢を見、それを兄たちに告げた。彼は無邪気な気持ちでそれらを告げたのであろうが、思慮には欠けていた。そのためにますます兄達から憎まれるようになった。
 しかし兄達は、何と心が狭く、罪深い人間であったろう。彼らは弟をねたみ、殺意まで抱いた(一八)。
 ヨセフはこの後、エジプトに奴隷として売られる。しかし彼はエジプトで大変な出世をして、ついにエジプトの総理大臣にまで上りつめる。
 やがてききんが起きて、ヤコブ一家はエジプトにのがれ、ヨセフの兄たちも総理大臣ヨセフの前に来て、ひざまずく。しかしヨセフは、子どもの頃自分を殺そうとしたその兄たちを、深い愛を持って迎える。・・・・
 兄たちはこうして彼を通し、真の愛と信仰について学ぶことになる。ヤコブの子らは一人一人、主の御前に訓練されなければならなかった。
 このヨセフは、じつは主イエスの予型的人物の一人である。イエスも、イスラエルの民に捨てられるが、やがてイスラエルの民を救う者となられるのである。
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15日 新約・マタイ一九章
 イエスは青年に、持ち物を売り払って貧しい人たちに与えるように言われた。イエスは、「あなたの隣人をあなた自身と同じように愛せよ」との教えを守っているという彼の主張(二〇)を、立証するよう求められたのである。
 これは金持ちになることがいけない、ということではない。富を得ることはよい。しかし富を得たら、自分の生活に必要な分以上の富を、神と隣人への愛のために用いなければならない。
 富は人々への愛のために用いられるとき、天国の富(二一)に変えられる。しかしもし、自分のために地上に蓄積するだけならば、それは天国への道を妨げるものになる。
 青年は、富を愛のために用いることを知らなかった。彼の心は富にあり、神にはなかった。
 一方、イエスの弟子たちは、何もかも捨ててイエスに従った。イエスは、彼らへの報酬は大きいと告げられた(二九)。
 私たちは、愛のために働くためには、犠牲が求められる。犠牲なくして愛はない。今日あなたが犠牲にすべきものは何であろうか。それを祈りの中で神様に教えていただこう。
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16日 旧約・創世記三八章
 この三八章は、キリストの先祖ともなるペレツ(二九)の出産に関するいきさつを、記すものである。
 タマルは、シェラが成人したのに自分がその妻にされないのを見て、ユダにだまされたと知り、計略によってユダから子を得た。ユダはこのためタマルを殺そうとしたが、タマルとの姦通の証拠を出されては、自分の非を認めるほかなかった(二六)。
 こうして生まれたのがペレツとゼラフであり、ペレツは、キリストの先祖の一人となった(ペレツと、マタイ一・三のパレスは同一人物)。
 彼の出産をめぐる両親の出来事は、何と醜いものであったか。この世では先祖の恥ずべき出来事は、記録から抹消されるのが普通ではないか。しかし聖書は、このような記事をも、あからさまに記したのである。
 三七章と三九章は一つの物語として続いているから、この三八章はとくに無くてもよいものである。しかしこの章は、キリストがこのような罪深い人間世界に降誕されたかたであることを、指し示すために挿入されたのである。
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17日 新約・一コリント三章
 ねたみや争い、分派をするクリスチャンは、まだ「肉に属する人」(一)であり、霊的幼児にすぎない。
 「肉に属する人」とは、まだ自我がキリストに明け渡されておらず、人間的な欲や思いで生きている人のことである。そうした人は、自分の自我に死に、キリストに生きることを学ばなければならない。
 人生の土台はキリストであり、人生の中心はキリストである。私たちの人生は、キリストなしには無に等しい。
 誇るべきはキリストである。私たちは人間を誇るべきではない(二一)。私たちは牧師や、教師、指導者を誇るのではない。キリストを誇るのである。
 牧師も宣教師も、みなキリストの弟子にすぎない。私たちはみな「神の協力者」(九)であり、キリストにあって、神のために働いているのである。明治時代の偉大なクリスチャン――内村鑑三は、
 「私は日本のために。日本は世界のために。世界はキリストのために。そしてすべては神のために」
 と言った。私たちにも、そのような心が必要ではないか。
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18日 旧約・創世記三九章
 ヨセフは、エジプトの侍従長ポティファルの妻の誘惑に、屈することがなかった(一〇)。
 もしその誘惑にのり、罪を犯せば、ヨセフはやがて自分の身に大きな災いを招いたに違いない。彼は誘惑にのらなかった。しかしその結果、彼は監獄に下ることになってしまった(二〇)。
 無実の罪を着せられて、災いをこうむったヨセフは、結局損な道を選んだのであろうか。彼は人生の選択を誤ったのか。そうではない。彼は、結局得な道を選んだのである。なぜなら、彼は主の祝福のもとにとどまったからだ。
 監獄の中でも、主が彼と共におられた(二三)。主のご臨在こそ、私たちの幸福と、成功の源泉である。
 環境や境遇がどう変わろうと、主のご臨在のもとにとどまることに、私たちの進むべき道がある。
 監獄での生活は、ヨセフを聖徒とするために役だった。彼はその中で、ますます主に信頼することを学んだのである。
 そして時期がくれば、やがて主は、彼をその監獄から出してくださるのである。
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19日 新約・マタイ二〇章
 九時から働いた人も、また一二時、三時、五時から働いた人も、同じ報酬一デナリをもらった(一〇)。
 同様に、幼少の頃に信仰に入った人も、大人になって信仰に入った人も、死の間際になって信仰に入った人も、同じ報酬である永遠の命をいただくであろう。これは不公平であろうか。
 いや、不公平ではない。始めからそのような約束なのである。神の恵み深さをねたむ資格は、私たちにはない。
 では、若い頃に信じた人と、老年あるいは死の直前に信じた人との違いは一体どこにあるのか。「若き日に自分の創造主を覚える」ことのメリットは、どこにあるのか。
 それは若き日に信仰を持つことによって、私たちは「神の栄光を現わして生きる」という祝福された生き方を、この地上においてすることができるからである。この生き方は、死の間際に信じたのでは、もはやすることができない。
 人生は一度しかない。あなたは、この人生を大切にしているか。神の栄光を現わしたい、と願っているか。「自分の身によってキリストがあがめられること」(ピリ一・二〇)を願っているか。
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20日 旧約・創世記四〇章
 エジプトの献酌官と調理官は、ふたりとも、同じ夜に夢を見た(五)。
 それらは普通の夢とは違い、すぐに忘れられるようなものではなく、非常にリアルで、ただならぬものであると感じさせるものであった。それらの夢は、主からの預言的幻だったのである。
 ヨセフには、それらの夢の意味を解きあかす霊的能力が、主から与えられていた。そしてヨセフの解きあかし通りに、出来事が起きた。
 調理官は死に、献酌官は再び献酌の役に戻された。しかし献酌官は、ヨセフのことを思い出さず(二三、一四)、彼のことを二年間にわたって忘れてしまった。
 ヨセフはなお二年間、監獄の中で暮らさなければならなかった。主はなぜ自分を、はやく監獄から出してくださらないのか、との思いがヨセフにはなかったであろうか。
 しかし、神には時がある。監獄に入るのに時があり、出るのに時がある。彼はなおしばらくの間、忍耐しなければならなかった。私たちも主にあって忍耐しているならば、必ず神の時が来るのである。
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21日 新約・一コリント四章
 パウロは、自分の良心に恥じることがなかったが、それでも無罪とされるわけではない、と言っている。
 「私をさばくかたは主です」(四)。
 彼は、つねに神への畏れを持って生きていた。「主を畏れることは知恵のはじめである」(箴言一・七)――この言葉は、使徒においても真実なのである。
 この「畏れ」は、危害を加える者への恐怖のことではない。聖なるかたの御前における畏怖である。神学者はこの畏れを「ヌミノーゼ」とも呼ぶ。
 私たちは、救われたことを喜んで生きる一方で、聖なるかたへの畏れの念もつねに持っていなければならない。両方のバランスが大切なのである。どちらが失われても、健全な信仰生活はおくれない。
 私たちをさばくかたは主である。いつの日か世の終わりに、私たちも最後の審判の座に立つ。クリスチャンは天国が保証されているので、滅びへの審判を受けることはないが、「タラント」や「機会」をどれだけ用いたかについて審問を受けることを覚えよう(二コリ五・一〇)。
 そのとき、ある者は褒美を受けるが、叱責を受ける者もあるであろう。
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22日 旧約・創世記四一章
 ヨセフの夢の解きあかし通り、七年の豊作ののちに、七年のききんがやってきた。実際、考古学者は一九〇八年に、
 「続く七年間はナイル川が氾濫せず、この間ずっと、ききんと悲惨がエジプト全土をおおった」
 という古代碑文を発見している。しかしエジプトは、ヨセフを総理大臣に抜てきし、食糧確保の充分な対策をしていたので、生き延びることができた。
 ヨセフは総理大臣の地位まで上りつめ、そこで彼の能力をフルに発揮した。彼の能力は主によるものであった。ヨセフはつねにそれを自覚し、神に栄光を帰すことを忘れなかった(一六)。
 一度は人から捨てられたヨセフである。しかし、神の救いのご計画は、このような者を通して進められている。何と、くすしいことか。神の知恵は人の知恵とは異なり、天が地より高いように高い。
 私たちは、たとえ人から捨てられても、希望を捨てる必要はない。主が共にいてくださるのである。主は高い者を低くされ、低い者を高く上げられる。主はご自身の前にへりくだる者を高く上げ、傲慢な者を低くされるのである。
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23日 新約・マタイ二一章
 イエスは、紀元前六〇〇年頃の預言者ゼカリヤの語った預言(ゼカ九・九)の通り、ろばに乗ってエルサレムに入られた(七)。これは、イエスが十字架上で死なれる週の、日曜日の出来事である。
 イエスはエルサレムに入られて、神殿における人々の腐敗堕落を見、商売人たちを追い出された(一二)。さらに翌朝、いちじくの木を見たが、それが葉のほかに何もなく実がなかったので、それを枯らされた(一九)。
 「いちじく」は旧約聖書では、イスラエルの象徴とされている木である。エルサレム、そしてイスラエルは、イエスの御前にはまさしく、実のならないいちじくであった。イエスがそれを枯らされたことには、やがてエルサレムが神の審判を受けて滅ぼされるという、預言的意味があった。
 これは、それから四〇年後の紀元七〇年に成就した。
 イエスが求めておられるのは、実を結ぶ真の信仰である(二一)。それは「行きたくありません」と言っても、後から悪かったと思って行った「弟」のような信仰である(三〇)。
 そして、パリサイ人や律法学者よりも、イエスの福音を聞いて信じた取税人や遊女のほうが、いまや真の実を結んでいる(三一)。
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24日 旧約・創世記四二章
 ヨセフが兄弟たちに荒々しい態度でのぞんだのは、すべての外国人に対するものであって、兄弟を憎んでのことではなかった。
 もし兄弟を憎んでいたのなら、食糧を持たせずに彼らを帰らせたであろう。しかしヨセフは、兄弟たちの袋に穀物を満たし、代金の銀まで返して帰らせたのである(二五)。
 ヨセフは、彼らをスパイ扱いすることを通して、彼らの現在の心境を探った。ヨセフは彼らの家族のことをしつこく尋ね(四三・七)、弟ベニヤミンのこと(一三)、父が生きているかどうか(一三)、またヨセフを奴隷に売ったことに関する深い後悔(二一)などを知り得た。
 ヨセフは、同じ母の子である弟ベニヤミンに会いたかった。そこで一計を案じ、弟を兄たちと共に再びエジプトに呼び戻すようにした(二〇、二四)。
 ヨセフがこの段階ではまだ父を呼ばなかったのは、白髪の老人になっている父に長旅をさせるのは酷だと、思ったからであろう。
 兄たちがヨセフのことで深い後悔の言葉を口にしたとき、ヨセフは深く感動し、彼らから離れたところに行って、かげでひとり泣いた(二四)。
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25日 新約・一コリント五章
 当時、コリントの町の人々は、全体的に道徳レベルが非常に低く、淫行なども日常的に行なわれていた。そうした中からクリスチャンになった人々の中にも、その罪から抜けきれず、いまだに罪の中にある人々がいた(一)。
 パウロはこうした信者の罪に対して、警告を行なっている。私たちは、「古いパン種」(七)すなわち古い罪の習慣を、捨て去らなければならない。
 過越の小羊キリストは、すでにほふられた(七)。かつてエジプトでは、過越の小羊がほふられた日の夜、エジプトの家々に裁きが下った。
 そのように、この世に対する神の裁きが、いまや始まろうとしている。そして「出エジプト」、すなわち信者がキリストに連れられて罪世から脱出するときも、近づいている。
 そのようなときに、まだ悔い改めていない罪を持って歩んでいるならば、罪世と共に滅びの中に取り残されてしまうであろう。私たちは取り残されないよう、すべての罪から離れようではないか。
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26日 旧約・創世記四三章
 ユダは、この飢餓地帯で生きながらえるために、ベニヤミンと共に再びエジプトへ行くことを、父イスラエル(ヤコブ)に訴えた(八)。
 ユダの固い決意と自己犠牲の精神の前に、イスラエルの心は折れ、エジプト行きを承諾した。そのときイスラエルは、ヨセフへの贈り物を持っていくこと、また返された銀(三五)の問題を解決するために、二倍の銀を持って行くことを勧めた。
 ヨセフは彼らに会うと、まず父の安否を尋ねた。父が元気でいることを知ると、彼は心の内で喜んだが、それを表情に出さないように努力した(二八)。
 ヨセフはまた、同じ母の子であるベニヤミンを見た。ヨセフはなつかしさに胸が熱くなり、奥の部屋に行って泣いた。
 しかし、この段階で自分がヨセフであることを明かすのは、まだ時期尚早であった。エジプト人は、ヘブル人をさげすんでいたからである(三二)。
 自分がヨセフであることを明かすには、もう少し時期を待たねばばらなかった。彼は異邦人の間で賢明にふるまったのである。
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27日 新約・マタイ二二章
 天の御国のたとえで、最初に招待された人々(三)とは、イスラエルの人々である。彼らは天の王から遣わされた預言者たちや、バプテスマのヨハネを殺してしまった(六)。
 つぎに招待されたのは、異邦人である(九)。救いへの招待は、民族、階級のいかんにかかわらず、誰にでも与えられているのである(一〇)。
 「大通りに出て行って、出会った者をみな宴会に招きなさい」(九)とは、私たちに対する神の宣教命令である。私たちは「良い人でも悪い人でも」(一〇)、誰でも神の御国の婚礼に招かねばならない。
 当時、婚礼において、王は参加者に礼服をあてがった(二列王一〇・二二も参照)。だから「礼服を着ていない者」(一一)とは、王からあてがわれた礼服を着るのを、自ら拒んだ人である。
 神は私たちに、キリストの犠牲により、「義の衣」(イザ六一・一〇)という礼服をあてがってくださった。神の国の婚礼には、この礼服を着て出席しなければならない。
 サタンは、この礼服を着るのを拒むが、私たちはそれを着て、身を整えて出席するのである。
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28日 旧約・創世記四四章
 ヨセフは兄たちに、ここで最後のテストを試みる。それは兄たちが真に改心しているかどうかを、知るためであった。
 ヨセフがベニヤミンの袋の中に杯を入れておいたのは(二)、それが見つかったときの兄たちの反応を調べるためである。
 杯がベニヤミンの袋から見つかると、兄たちはエジプトに引き返し、ヨセフの前に出て、全員が奴隷になると申し出た。彼らは連帯責任を負うとの意思表示をしたのである。これは数十年前、ヨセフを売ったときの兄たちの態度とは、全く違ったものであった。
 しかもユダは、父イスラエルとの約束をヨセフに話し、ベニヤミンを連れずには戻れないと言った。そして自分がベニヤミンの身代わりとなって、エジプトに残り、奴隷になると申し出たのである(三三)。
 このユダは、数十年前にヨセフを「殺そう」と言った人である(三七・二六)。しかしユダは今、弟ベニヤミンのために自分が犠牲になると言っている。
 彼らの心は、明らかに変わっていたのだ。
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29日 新約・一コリント六章
 パウロは、
 「すべてのことが私には許されたことです。しかしすべてが益になるわけではありません。・・・・私はどんなことにも支配されません」(一二)
 と言った。彼は真に自由人であった。自由とは、「自律」できることである。自らを律することのできる人を、真の自由人というのである。
 パウロは、キリストの奴隷であるゆえに、真の自由人であった。キリスト者はみな、キリストの奴隷であるゆえに、真の自由人である。
 パウロは、「あなたがたは代価を払って買い取られたのだ」(二〇)と言っている。これは私たちが、キリストの奴隷――しもべであることを意味する。
 私たちがキリストの所有であることを心から認めるとき、私たちは真に罪からの自由、つまり魂の自由を自分のものとすることができる。魂が永遠のいのちの自由な輝きを放ち始めるのを、感ずることができるのである。
 私たちはその自由によって、神の栄光を現わせる者となる(二〇)。
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30日 旧約・創世記四五章
 何と感動的な場面であろう。ヨセフは、そばにいた者をみな部屋から出し、自分のことを兄弟たちに明かした。
 彼はもはや通訳なしに、ヘブル語で彼らに語りかけたのである。ヨセフの口から出た言葉は、兄弟たちを責めるものではなかった(五)。
 もしあなたがヨセフの立場だったら、このような場面で何と言うであろう。自分の前にひざまずいているのは、かつて自分を殺そうとし、エジプトに奴隷として売った人々なのである。
 しかしヨセフは、「神はいのちを救うために、あなたがたより先に私を遣わしてくださったのです」(五)と言った。彼には、神の摂理というものが、はっきりと見えていたのである。
 ヨセフは、父イスラエルをもエジプトに呼ぶよう、兄弟たちにすすめた。
 パロ(ファラオともいう。エジプトの王の称号)もその家臣たちも、ヨセフの家族が来たことを喜んでくれた。これはヨセフがエジプトでいかに信頼されていたかを示すものである。
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31日 新約・マタイ二三章
 主イエスは、律法学者やパリサイ人について、
 「彼らが言うことはみな、行ない、守りなさい。けれども、彼らの行ないをまねてはいけません。彼らは言うことは言うが、実行しないからです」(三)
 と言われた。律法学者やパリサイ人たちの最も大きな欠点は、まさにここにあった。彼らは行動において実践がなく、偽善的だったのである。
 伝道者や、すべてのクリスチャンも、主イエスにこのように言われないよう気をつけなければならない。言うことは言うが、実践がないとなれば、その人は言わないほうが良いのである。
 言って実践がない人より、言わずに実践する人のほうが、はるかにすぐれている。不言実行にせよ、有言実行にせよ、実行に価値がある。
 律法学者やパリサイ人たちは、人の間での誉れを求めた。しかし大切なのは、神の御前での誉れである。
 私たちは、言葉に達者で人に知られる者となるより、実践に重きを置き、神に知られる者となろうではないか。
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