聖書一日一章

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1日 旧約・出エジプト一一章
 パロ自身は、モーセとイスラエルの民を嫌っていた。しかし、パロの家臣たちやエジプトの民は、そうではなかった。彼らは、モーセを尊敬し、イスラエル人に対しても好意を抱いていたのである(三)。
 これは、数多くの災いがエジプト人に下されたあとだけに、注目すべきことである。
 幾度も繰り返された災いによって、エジプト人地区は大打撃を受けた。一方イスラエル人地区は、無傷のままである。通常なら、エジプト人はイスラエル人を憎むところではないか。
 しかし彼らは、イスラエル人を憎まなかった。むしろ好意を抱いたのである。それはモーセの態度がりっぱであったこと、またイスラエル人も、エジプト人に対して「ざまあ見ろ」というような嘲笑的な態度をとらなかったからに違いない。
 イスラエル人はむしろ、パロの強情のために苦難にあっているエジプトの庶民に対して、同情的であったと思われる。彼らは人の不幸を喜ばなかった。
 エジプト人自身も、パロの圧政には嫌気がさしていて災害をイスラエル人のせいとは考えず、パロの強情のゆえであると考えたのであろう。
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2日 新約・マルコ三章
 主イエスによれば、人は安息日においても、積極的に善を行なったり、いのちを救うべきである。主は、安息日においても、積極的にいやしのわざをなされた。
 イエスは律法学者たちに、安息日には命を救うことを求められた。ところが彼らはその日に、「イエスをどうして葬り去ろうかと相談」し始めたのである(六)。
 こうした敵意は、彼らが真の宗教者でなかったことを証明するものである。真に神に仕えるならば、何が真に聖書的かを見分けられるはずだからである。
 彼らは、神に対して熱心であったゆえにイエスを殺そうとしたのではない。イエスをねたんだゆえに、殺そうと計ったのである。
 その後イエスは、一二弟子を定められた(一六)。彼らは、とくにイエスのみそばで訓練を受けるために選ばれた者たちである。
 かつてヤコブの一二人の息子は、イスラエルの一二部族を形成した。それと同様にイエスが一二弟子を持たれたのは、彼らを新しいイスラエル――すなわちクリスチャンたちという、新しい神の民の祖とするためだったのである。
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3日 旧約・出エジプト一二章
 第十の災いを前にして、神はイスラエルの民に新しい暦を与えられた。それは、出エジプトの月を第一の月とするものであった。
 神はまた、「過越の祭」に関する定めを告げられた。これはイスラエルの民が、出エジプトの日以来、毎年守るべきものである。
 過越の祭は、出エジプトの日以来、イスラエル人の間で毎年行なわれた。その祭において、小羊が「夕暮れに」ほふられ(六)、その血が家の二本の門柱と、かもいにつけられる。
 その血を見て、神の裁きはその家を過ぎ越す。これはキリストの犠牲の血潮による救いの予型である。神は、あがないの小羊キリストの血潮を見て、私たちへの裁きを過ぎ越すのである。
 紀元一世紀の歴史家ヨセフスによると、ユダヤ人は過越の小羊を午後三時頃ほふっていた。キリストも、過越の祭の最中、過越の小羊がほふられる時刻である午後三時頃、息を引き取られた(マタ二七・四六)。
 出エジプトの際の過越の小羊は、キリストの犠牲の予型であるため、神はそれを毎年祭として記念するよう、イスラエルの民に命じられたのである。
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4日 新約・一コリント一五章
 聖書は、キリストにある死者を「眠った者」(二〇)と呼んでいる。それは、眠りがやがて目覚めとなるように、キリストにある死者は、みなやがて復活するからである。
 キリストは、世の終わりに行なわれるこのキリスト者の集団的復活の「初穂」(二〇)となるために、復活された。初穂が実ればやがて大収穫の時が来るように、やがて定められた時に、キリスト者の集団的復活があるのである。
 私たちの現在の体は「血肉の体」であるが、復活の時に与えられる体は、血肉のものではない。「御霊の体」(四四)である。
 それは、現在の世界の物質によって構成されているものではない。新しい世界の秩序形態に適応するような要素で構成された体なのである。
 「御霊の体」とは、目に見えない、とらえどころのない体ということではない。キリストの復活体が弟子たちの目に見える明確な形を持っていたように、キリスト者の復活体も、明確な形を持っている。
 「御霊の体」の第一の意味は、キリストに属する体、ということである(四五)。それはキリストの永遠の生命を体現した体なのだ。
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5日 旧約・出エジプト一三章
 神がイスラエルの民をエジプトから連れ出されたとき、神は民を、カナンへの近道には導かれなかった。わざと「遠回り」をさせたのである(一七)。
 それはペリシテ人との戦いを避けるためであった(一七)。しかしそこには、やがて「葦の海」(紅海)において海を開くという大奇跡を通じ、神の力を示す、という目的もあったのである。
 私たちは、神の導きによって新たな一歩を踏みだすとき、新たな困難にぶつかり、自分は「遠回り」をしているのではないか、と思えるようなことがある。
 しかし、じつはそれが神のご計画であり、それが真の近道なのである。神は困難の中で、私たちに何事かを教えようとされる。それをあなたはのがしてはならない。
 神は、昼は雲の柱をもって、夜は火の柱をもって、イスラエルの民を導かれた(二一)。神は私たちにも、聖霊の雲と聖霊の火を送り、私たちを導かれる。。
 神のご臨在の中を歩むことが、私たちの力である。主に信頼して、今日も歩もう。
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6日 新約・マルコ四章
 主イエスの教えによれば、神の国は「成長する」ものである(二六)。それはちょうど、地にまかれた種のように発芽し、苗となり、穂となり、実となる。
 神の国は、天上と地上において成長する。天上における神の国は、神、キリスト、および天に帰ったクリスチャンたちである。それは、天に帰るクリスチャンの増加と共に、成長する。
 一方、地上における神の国は、地上でキリストを信じるクリスチャンたちである。それは地上のクリスチャンたちの増加と共に、成長する。
 やがて、「収穫の時」(二九)が来ると、地上のクリスチャンたちは携挙され、地上から刈り取られて、天上に入れられる。こうして天上と地上の神の国とは、そのとき一体化するのである。
 地上の神の国は、どのようにして成長するのか。「良い地」(八)に種がまかれることによってである。私たちは、地を耕して、良い地をつくらなければならない。
 私たちは伝道をして、やせた土地のような人々の心、また雑草や石の多い人々の心を主と共に開墾して、福音の種を蒔くべきである。
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7日 旧約・出エジプト一四章
 神はイスラエルの民に遠回りをさせたうえ、さらに、今まで来た道を引き返せ、と言われる(二)。
 それはエジプト人の前で、主の御力を現わすためであった。また、イスラエル人の信仰を訓練するためだったのである。
 イスラエル人の多くは、まだ奴隷根性の持ち主で、エジプトに未練を持つ者も多かった。彼らは、荒野で死ぬくらいならエジプトで仕えていたほうがましだ、と言った(一二)。
 しかし、モーセはイスラエルの民を率いて、この紅海(葦の海)を渡り、新たな地に入る。
 紅海は左右に開いて、エジプト人を飲み込み、その後元通りになった。イスラエル人は助かった。しかしこれにより、イスラエル人は、もはやエジプトに帰りたくても帰ることはできなくなったのである。
 後ろは海だ。イスラエル人は以後、「背水の陣」となって、前進あるのみである。私たちも人生の中で、紅海を渡り、エジプトをあとにしなければならない時がある。
 私たちは過去に生きてはならない。過去をあとにし、神の導かれる将来に向かって、勇気をもって踏み出さなければならない時があるのである。
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8日 新約・一コリント一六章
 パウロは、
 「強くありなさい。いっさいのことを愛をもって行ないなさい」(一三〜一四)
 と言っている。まことに、アガペーの愛を行なうには、「強さ」が必要である。強靭な信念と、固い信仰からのみ、真のアガペーの愛が生じる。
 蒋介石が、反対者に負けずに、敗戦国・日本への寛大措置を断行できたのは、なぜか。それは彼が男らしく、強く、アガペーの愛を持っていたからである(本誌今月号「蒋介石の温情」)。
 またキング牧師が、心ない白人に暴力をふるわれながら、暴力に暴力をもって報いず、善をもって応え、公民権運動を展開できたのは、なぜか。それは彼が真に男らしく、強く、アガペーの愛をもっていたからである。
 アガペーの愛を実践するには、しばしば大きな勇気と、大胆さと、またいかなる反対者にも負けない強さが必要である。
 そのような真の強さが与えられるよう、主に願い求めよう。
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9日 旧約・出エジプト一五章
 神の命令によって、イスラエルの民は紅海を渡ったが、紅海の向こうの地には地平線まで荒野が続いていた。
 水もなく、やっとオアシスがあって水にありついたものの、にがくて飲めなかった。しかしモーセが、神に示された一本の木を水に投げ入れると、水は甘くなった(二五)。
 この木は、私たちの人生で言えば、キリストの十字架にあたる。
 私たちは、たとえ新しい生活を始めても、しばしば古い過去のにがにがしい記憶が心にわきあがってきて、苦しめられることがある。しかしそのにがい記憶の池に、十字架という一本の木を投げ入れると、その水も甘いものに変えられるのである。
 私たちが十字架のイエスを見上げる時、過去のにがにがしい記憶は消えうせる。そして主イエスの与えられる永遠のいのちの甘い水が、魂の奥底からわきあがってくるのを感じるのである。
 神は、私たちに語られる。
 「私は主(ヤハウェ)、あなたをいやす者である」(二六)。
 十字架をつねに心に抱きながら、人生を生きよう。
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10日 新約・マルコ五章
 長血の女は、イエスの「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と「考えていた」(二八)。
 この「考えていた」は、直訳では「言っていた」である。彼女は、信じたことを告白していた。ここに「信仰」がある。
 つづいて彼女がイエスの着物にふれると、「すぐに血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを体に感じた」(二九)。つまり、「信仰」につづいて「体験」がある。
 それで充分と言えば、充分であろう。しかし主イエスは、さらに彼女に「あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい」と言われた(三四)。イエスは彼女に、「確証」をお与えになったのである。
 病をいやした第一の力は、本当は彼女の信仰ではない。主イエスの恵みによる。しかしそれでも、主イエスは「あなたの信仰があなたを直したのです」と言って、彼女の信仰を励まされた。
 私たちの信仰は、ときにこのような主からの確証が必要である。私たちの信仰は、弱く、もろい。しかしたとえ、からし種ほどの小さな信仰であったとしても、用いれば豊かな実をならすことができると、主は励ましてくださるのである。
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11日 旧約・出エジプト一六章
 エジプトを出たイスラエルの民は、二〇歳以上の男子だけで約六〇万人だったから(民数一・四六)、女・子供を合わせれば、二〇〇万人以上いたはずである。
 この大群衆が、どうやって荒野で食物を得るのか。神は不思議な方法で、荒野にいる彼らに食物を与えられた。うずら、およびマナと呼ばれるパンである。
 シナイ地方には、春になると、甘い黄白色のビーズ玉に似た濃いシロップ状の液を付着させる、ぎょりゅうの木がある。この液は結晶し、大きくなると地上に落ち、朝日を受けて、きらきらと輝く。
 この自然現象を、神は超自然的方法で増やし、イスラエルの民を養うために用いられたのかも知れない。
 神はマナを、毎日、その日に必要な分だけ与えられた。何日か分、あるいは何か月分かをまとめて与えてくだされば、イスラエルの人々は安心だったであろうが、神はそのようにはなさらなかった。
 神の方法は、日々、必要なものを備えることである。主イエスも、
 「日々の糧を今日もお与え下さい」
 と祈るよう、私たちに教えられた。必要なものは、日々、与えられるのである。
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12日 新約・二コリント一章
 「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人々をも慰めることができるのです」(四)
 とパウロは言った。実際パウロは、アジア(今日のトルコ)で、大きな苦しみにあった(八)。
 具体的にアジアでのこの苦しみが何であったかは、よくわからないが、いずれにしてもパウロは、キリストのために数多くの苦しみを経験してきたのである。
 それは必ずしも、平穏無事の「バラ色の人生」ではなかった。むしろ極度の苦しみと、極度の喜び・幸福感が交錯するものだった、と言ったほうが当たっているかもしれない。
 キリスト者も、しばしば困難や、悩み、苦しみを経験することがある。しかし、それは他人の苦しみや辛さを、思いやることができるようになるためである。
 神は、無駄なことはなさらない。今あなたが苦しみの中にあるとしても、その苦しみが無駄になるようなことは決してない。やがてその苦しみが「主にあって益とされた」と思えるような日が、必ず来るのである。
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13日 旧約・出エジ一七章
 イスラエルとアマレクとの戦いにおいて、モーセが手を上げて祈っている時はイスラエルが優勢になり、手を降ろしているときはアマレクが優勢になった。
 しかしモーセの手が重くなったので、アロンとホルは、両側からモーセの手を支えた(一二)。そして、イスラエルはついに勝利を得た。
 私たちの祈りにおいても、自分の祈りの手をクリスチャンの兄弟姉妹が支えてくれている、と感じることがある。兄弟姉妹が祈ってくれているので、自分の祈りの手も、長く上げていることができるのである。
 私たちは、自分一人では弱い。兄弟姉妹の支えが必要だ。兄弟姉妹だけではない。主イエスは、目に見えない天使たちを送って、私たちの祈りの手を支えてくださるのである。
 神は、このような協力態勢をよみされる。神の民が、主に向かって一丸となるとき、神の民は力を得るのである。
 あなたは今日、祈りの手を上げているか。あなたの両わきには、いつも兄弟姉妹や、天使たちの力ぞえがあることを覚えよう。
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14日 新約・マルコ六章
 大勢の群衆を前にして、主イエスは弟子たちに、
 「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物をあげなさい」(三七)
 と言われる。普通に考えるなら、こんな無茶な話はない。そこにいた群衆は二〇歳以上の男子だけで五千人であったから、女・子供を合わせれば二万人以上いたはずである。
 しかしイエスは、実際に弟子たちの手を通し、彼らに食物を与えられた――弟子たちの持ってきたわずか五つのパンと、二匹の魚を用いて。
 さて今日、大勢のしいたげられた人々、貧乏な人々、苦しみの中にある人々を前にして、主イエスは私たちにこう言われているのではないか。
 「あなたがたで、あの人たちの必要に応えなさい」。
 もちろん、私たちの手元にあるものだけでそれをなすのは、不可能であろう。しかし私たちの手元にあるわずかのものを、信仰をもって主イエスにささげ、イエスに用いていただくなら、それは大勢の人々の必要に応え得るものとなるのである。
 イエスは、私たちの捧げるものを用い、私たちの手を通して、ご自身のみわざをなしてくださる方である。
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15日 旧約・出エジ一八章
 モーセはそれまで、民の間のすべての事件をさばいていたので、モーセも民も疲れていた。それを見たモーセのしゅうとイテロは、良い提案を行なった。
 その提案は、民にとって重要な要件はモーセが責任を持ち、細かな民事的要件はグループの長が責任を持つようにせよ、というものであった。
 モーセはこの提案が良いことを知ると、すぐさまそれを採用した(二四)。他人の提案に聞く耳を持つこと、これは指導者になるための重要な条件である。
 すぐれた指導者のかたわらには、すぐれた参謀がいる。良い働きをなすリーダーは、良い側近に恵まれている。
 私たちに口が一つ、耳が二つ与えられているのは、私たちが自分のしゃべる言葉の二倍は聞く必要があるからである。すぐれた指導者は、自分で語る言葉の二倍は、人々に聞く。すなわち「衆知を集め」たうえで、自分で判断するのである。
 神はしばしば、身近な人を通じて、みこころを語られる。すぐれた指導者に必要なものは、神への信仰と、知恵、判断力、実行力、そして、謙虚さである。
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16日 新約・二コリント二章
 三節に「あのような手紙を書いたのは・・・・」とあるが、コリント人への手紙は、第一の手紙と第二の手紙の間に、もう一つの手紙があった。
 「あのような手紙」とはその手紙をさすもので、現存はしていないが、パウロが「涙ながらに」記したものであった。
 コリント教会にはどうも、大きな罪を犯し、そののち多数の人から処罰を受けて悔改めた人がいたらしい(六)。その人に関して、ある人々はもっと重い処罰をすべきと考えた。しかしパウロは、「あの処罰で充分」だから赦してあげるように、とすすめている。
 処罰は、厳しすぎると良くない結果を生む。本人が立ち直れるだけの余力は、つねに与えなくてはならない。
 大切なのは、どんなことも、愛をもって行なうことである。パウロは、その人への愛を確認することを勧めている(八)。
 クリスチャンも、しばしば罪を犯す。しかし大切なのは、罪を犯したあと、立ち直れるようにしてあげることである。断罪するのではなく、愛をもって悔改めに導くのである。
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17日 旧約・出エジ一九章
 シナイ山は、かつて出エジプトの前、モーセが初めて神の御声を聞いた場所である。そこにモーセは、イスラエルの大群衆を連れて戻ってきた。
シナイ山にご臨在を現わされた神は、イスラエルの民に関して言われた。
 「もしあなたがたがわたしの声に聞き従うなら・・・・あなたがたはすべての国々の民の中にあって・・・・祭司の王国、聖なる国民となる」(六)。
 全世界の民は神のものである(五)。しかし、イスラエル民族は、全世界にあってとくに「祭司」の役目を果たすために選ばれたのだ。
 神は、祭司の国となるべきイスラエルに対し、偉大な祝福を与え、同時に、イスラエルが守るべき義務を示された。
 祭司は、とくに神の御前に聖別された者でなければならない。通常よりもっと身を清く保つことが要求されるのである。イスラエルの民も神に近づくにあたって、身を清めることが要求された(一〇)。
神はイスラエルを、全世界へ祝福を来たらせるためのパイプ役として訓練される。彼らを通して、神の救いのご計画が、全世界へもたらされるのである。
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18日 新約・マルコ七章
 外側から人に入って、人を汚し得るものは何もない。人から出てくるものが人を汚すのである(一五)。人を汚し得るものは、人の中から出てくる罪のみである。
 口から人の中に入る食物が、人を汚すことはない。それは腹に入り、やがてかわやに流されてしまう(一九)。
 同様に、他人が自分になした何かの行為が自分を汚す、ということもない。
 あなたは今まで、誰かに、何かいやなことをされたことがあるだろうか。侮辱を受けたことがあるだろうか。たとえあったとしても、他人のなしたそうした行為があなたという人間を汚す、ということは決してない。
 外から人に入るものが、人を汚すことはないのである。だからあなたは、過去に人が自分になしたいかなる行為をも、くやんではならない。そうしたものは、あなたの尊厳に何の関係もないのだ。
 あなたを汚し得るものは、あなたの内なる罪のみである。清い心だけが、あなたを内側から清くする。
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19日 旧約・出エジ二〇章
 十戒の前文に、
 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」(二)
 とある。十戒のすべての戒めは、この事実が前提になっている。まず神による救いがあり、次に戒めと、それに対する服従がある。
 そしてこの戒めは、それに服従する者が幸福になるためのものである。十戒は、私たちが幸福になるための最低限のルールなのだ。
 このルールなくしては、神との正しい関係も、隣人との正しい関係もない。今日も、十戒はきわめて重要である。
 十戒の前半は、神に関する戒めであり、それは、
 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命六・五)
 という戒めによって完成されるものである。また十戒の後半は、人に関する戒めであり、それは、
 「あなたの隣人を、あなた自身と同じように愛しなさい」(レビ一九・一八)
 という戒めによって完成される。私たちは愛によって、十戒の真の精神を完成するのである。
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20日 新約・二コリント三章
 キリスト者の目標は何か。それは、キリストに似た者となることである。
 キリストの愛、聖潔、勇気、大胆、力、思いやり、優しさ、・・・・そうしたものを自分の身につけ、キリストに似た者となることである。私たちは、キリストを見つめて生きることにより、しだいに内なるアダムのかたちは消えうせ、キリストのかたちが生まれてくる。
 「鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行く」(一八)。
 私たちは、鏡のようになるべきである。そこに主の御姿をうつし出すのだ。私たちは、曇りのない鏡にならなければならない。おおいがかかっているなら、取り除かなければならない。
 澄んだ湖が境面のように樹々の姿を写し出すように、清い心は、境面のようにキリストの御姿を写し出す。
 私たちはキリストを写し出す「鏡」、またキリストのみこころのあらわれた「キリストの手紙」(三)となりたいものである。
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21日 旧約・出エジ二一章
 当時のオリエント世界において、奴隷制はごく一般的なものであった。イスラエルにおいても、奴隷制は許容されたが、それは厳しい条件下においてであった。
 当時は戦争による死者が多く、身寄りもなく生き残る人々がいた。彼らは、社会制度も発達しておらず産業もなかったこの時代において、簡単には就職できなかった。
 こうした人々が救われる唯一の道は、誰か裕福な人の家に奴隷となって住み込むことだった。イスラエルにおける奴隷制は、こうした身寄りのない人々を救う一つの手段だったとも言えよう。
 だから奴隷とはいえ、虐待することは厳に禁じられていた(二〇)。そして六年間仕えれば、七年目には自由の身として無償で去ることができると、律法に定められていた(二)。
 そのほか律法には、細かい実際的な事柄が定められている。あなたはきっと、律法がいかに配慮に満ちたものかを発見されるであろう。
 世の中で誤解されている「目には目を、歯には歯を」(二四)も、前後関係を読めば、決して復讐を奨励したものではなく、とかく無制限になりやすい報復に制限をつけたものであることが、わかるのである。
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22日 新約・マルコ八章
 二段階に分けて盲目をいやされた人の記事(二二〜二六)は、私たちに霊的な開眼について深く教えるものである。
 この盲人は最初、半分くらいだけ見えるようになった(二四)。しかし、もう一度イエスが両目に手を触れられ、「彼が見つめていると」、すっかり見えるようになった。
 これはイエスの力が足りなかったからか。そうではない。イエスは、私たちにあることを教えようとされたのである。
 それは、続く二七節以降のことだ。ペテロはイエスについて、「あなたはキリストです」と言った(二九)。しかし、そのすぐあとでペテロは、イエスが十字架のことを予言なさったことに対し、イエスをいさめ始めた(三二)。
 これはペテロの霊的開眼が、まだ半分だったことを示す。他の弟子たちも、この時はまだキリストに関する完全な理解に到達しておらず、霊的開眼は半分であった。
 しかし、彼らがキリストを「見つめていると」、彼らの眼はやがて完全に開かれるようになる。すなわち、キリストの復活以降になって、彼らの眼は完全に開かれるのである。
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23日 旧約・出エジ二二章
 ここでも、非常に実際的な律法が語られる。
 盗みをした者を罰し、また盗みにあった者に補償する法(一〜一七)、呪術禁止法、獣姦禁止法(一九)、外国人保護法(二一)、貧民救済法(二二〜二七)、その他が語られている。
 これらの法はみな、社会正義と公正のためである。これらのすぐれた律法が、日本で弥馬台国が出来る(紀元前三世紀)より、約一七〇〇年も前に成立していたのである。
 とくに「在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない」(二一)は、今日の世界においても重要な法ではないか。ドイツでは、ネオ・ナチによる外国人排斥運動が盛んになり、外国人は苦しめられている。
 日本でも、関東大震災において、多くの朝鮮人が虐殺されたことが知られている。国内の政治情勢や経済情勢が悪くなると、とかく人々は、それを在留外国人のせいにする傾向があるのである。
 イスラエル人は、この律法の持つ意味をすぐさま理解した。なぜなら、かつてイスラエル人自身が、エジプトの国で在留外国人だったからである。
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24日 新約・二コリント四章
 主イエスは、私たちの救い主、王の王となるために、今から約二千年前に地上に来られ、この世を歩まれた。
 そして今も天で生きておられ、やがて来たるべき日に再び来られる。「私たちは自分自身を宣べ伝えるのではなく」、この「主なるキリスト・イエスを宣べ伝える」(五)。
 私たちの身は「土の器」(七)に過ぎず、私たち自身は取るに足りない者だ。しかしこの「土の器」の中に、私たちはキリストという偉大な宝をいただいている。
 主イエスは、今は私たちの肉眼では見えない。しかし、それは私たちが、見えるものでなく見えないものによって歩むためである。
 見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続く(一八)。私たちは、目に見えないものに従って歩むことを、深く学ばなければならない。
 神の真理、キリストのいのち、愛、善・・・・など、いずれも目に見えない。しかし、そこにこそ、私たちを真理と幸福に導くものがある。
 あなたの目を閉じなさい。そして心を神に向けるなら、そこに大きな新しい世界が見えてくるであろう。
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25日 旧約・出エジ二三章
 こうした律法を読んでいると、律法は何かの「うるさい規定」とか「冷たい規律」ではなく、むしろ、しいたげられた者を保護し、人々に高度の倫理と知恵を教える、血の通った温かい教えであることがわかってくる。
 たとえば、一〜三節や六〜八節は裁判の公正を教え、四〜五節は敵への愛と温情、九節は在留異国人への温情を教えている。貧者の保護のことも忘れられていない(六、一一)。
 七年目には土地を休ませよとの安息年の教え(一一)も、大きな収穫をあげるための知恵なのである。あまり連作をすると、かえって土地がやせ、収穫が減少する。土地を周期的に休ませたほうが、良い結果を生むのである。
 七日目には休むという安息日の教えも(一二)、人間の体のためである。そのときにはすべての奴隷も、異国人も、牛や馬も休ませられた。
 なお、イスラエルの領土を「葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また荒野からユーフラテス川に至るまでとする」(三一)という御言葉は、ソロモン王(紀元前一〇世紀)の時代に、文字通り成就した。
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26日 新約・マルコ九章
 イエスは、しばしばご自身の十字架と復活について、弟子たちに予告しておられた(九、三一)。
 弟子たちはその言葉を理解しなかったが、やがて十字架と復活の出来事が起きたのちに、すべてを理解するようになる。イエスは、十字架と復活のあとに弟子たちがすべてを悟れるように、あらかじめ幾つかの予告をして、布石を敷かれたのである。
 弟子たちは、このときまだ信仰の学校においては「小学生程度」であった。道を歩いているときには、自分たちの誰が一番偉いかと論じ合ったり(三四)、まだ信仰的に幼稚だったのである。
 しかし主イエスは、そうした彼らを、少しずつ導かれた。イエスは、「人の先に立ちたいと思うなら、みなに仕える者となりなさい」(三五)と教え、また子どもを尊ぶこと(三七)、身を清く保つこと(四三〜五〇)、人々と和合して暮らすこと(五〇)などを教えられた。
 私たちは信仰の学校において、どの程度の学年に達しているだろうか。ほとんどのクリスチャンは、まだ低学年に違いない。主イエスの御教えを、今日もしっかり学ぼう。
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27日 旧約・出エジ二四章
 モーセとアロン、ナダブとアビブ、それにイスラエルの長老七〇人は、シナイ山をのぼって行き、そこで「神を仰ぎ見た」(一〇)。モーセは主の近くまで行き、彼以外の人々は、「遠く離れた」(一)所から神を仰ぎ見たのである。
 「御足の下にはサファイアを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった」
 と言われている。
 しかし、彼らが「神を仰ぎ見た」といっても、それはおそらく神の栄光の一部を見たというに過ぎないであろう。神の御顔を見るならば死ぬ、と言われているからである。モーセも、神の近くまで行ったが、神の栄光の一部を見るにとどまったはずである。
 この時、神の栄光を見た人々は、イスラエルの民のうち一部の人々に過ぎなかった。
 しかしやがて、新エルサレムにおいて、人々は神の御顔をも仰ぎ見るようになる(黙示二二・四)。もはやそのときには、からだが贖われて罪が全く存在しないため、人は神を、顔と顔を合わせて見るようになるのである。
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28日 新約・二コリント五章
 「私たちの住まいである地上の幕屋」(一)とは、肉体のことである。肉体が死ぬと、クリスチャンの魂は、天国の家に迎えられる。
 この世にあっては「新しい生き方」(一七)が保証され、死後にあっては天国が保証されているのが、クリスチャンである。クリスチャンになることは、すべてが変わることなのだ。
 「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(一七)
 と言われている。もちろん、クリスチャンになったからといって、あなたの生活環境が大きく変わるわけではないし、つきあう人間がすべて総入れ替えするわけでもない。
 しかし、生活環境に対するあなたの関わり方、また周囲の人々へのあなたの関わり方、あなたの心の持ち方が、信仰によって全く変えられるのである。
 周囲に対する自分の関わり方、また自分の心の持ち方が変わる時、すべてが変わる。過去のいやな経験も益と変えられ、現在の苦しい状況もさいわいなものとなる。
 あなたには、未来を力強く切り開いていく力が与えられる。キリストの御恵みと、彼に対する信仰によって、切り開いていくのである。
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29日 旧約・出エジ二五章
 幕屋は、「山で示される型どおりに」作られた(四〇)。これは地上の幕屋が、じつは天上にある幕屋(ヘブ九・一一)の型、すなわちモデルだったからである。
 この時造るよう命じられた幕屋は、移動可能の小型神殿といってもよいもので、荒野の四〇年の流浪の間、つねにイスラエルの民と共に移動することとなる。
 神は、もちろんこのような幕屋の中に限定されるかたではない。神は宇宙より偉大なかたである。しかし、神はイスラエルの中にご臨在を置く象徴として、この幕屋を造るよう命じられた。
 神はその幕屋において、イスラエルの民と会われたのである。
 幕屋の中に入れられた「契約の箱」(一〇〜二二)は、箱の両側に二本の横棒をつけたもので、神社のおみこしに幾分か似ている。実際、神社のおみこしの遠い起源は、イスラエルの契約の箱にあるという説もある。
 この箱の中には、十戒の二枚の石の板も収められる。また、この箱のふたは「贖いのふた」と呼ばれ(一七)、そこで贖罪の儀式が執り行われた。
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30日 新約・マルコ一〇章
 主イエスは、
 「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう」(二三)
 と言われた。これは金持ちは絶対に天国へ行けない、ということであろうか。そうではない。金持ちには二種類の人々がいる。
 一つには、自分の快楽と安心のために、財産を蓄積する人。「自分のための富」に執着している人々である。こうした人々が神の国に入ることは、らくだが針の穴を通るより、もっと難しい。
 しかしもう一つ、人々のために富を活用しようと、富の創出に尽力している人々もいる。
 たとえばある人は、自分は口べたで説教はできず、文章も下手で文書伝道もできないが、金儲けはうまいと言って、商売で大きなお金をつくり、毎月出来るだけ多額の献金を教会にしている。
 またアンドリュー・カーネギーという人は、世界で指折りの富豪だったが、壮年になって、自分の富をそっくり社会事業や福祉事業のために投げだした。
 こうした金持ちは、神の国に遠いであろうか。いや、非常に近いのである。
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31日 旧約・出エジ二六章
 幕屋の内部は、「聖所」と「至聖所」と呼ばれる二つの部屋に分かれていた(二三)。そして聖所と至聖所の間は、「垂れ幕」によって仕切られていた。
 年一回の大贖罪日に、大祭司は犠牲の動物の血をたずさえて聖所に入り、垂れ幕を開けて、さらにその奥の至聖所に入って贖いの儀式を執り行った。
 この幕屋を基本にして造ったのが「神殿」なのだが、主イエスの時代には、ヘロデ神殿または第二神殿と呼ばれる神殿がたっていた(第一神殿はソロモン建造の神殿)。
 福音書の記事によると、主イエスの死の時、神殿の聖所と至聖所を隔てる垂れ幕が「上から下まで真二つに裂けた」(マタ二七・五一)。
 もし誰かが人為的にそれを裂いたのなら、この神殿の巨大な垂れ幕を「下から上に」裂いたに違いない。しかし垂れ幕は「上から下まで」真二つに裂けた。あたかも天よりの力によって裂けたように、裂けたのである。
 これはじつは、キリストが真の「大祭司」として天の神殿で贖いを全うされたことを示す、象徴的な出来事であった(ヘブ九・一一〜一二、一〇・二〇)。
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