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1日 新約・二コリント六章
私たちは、知っているといないとにかかわらず、誰でも、神から多くの恵みを受けている。神は私たちの人生の至るところに、恵みの御手をさしのべておられる。
その私たちに、使徒パウロはすすめる。
「神の恵みをむだに受けないようにしてください」(一)。
私たちは今まで、神の恵みを、いつも充分な感謝をもって受けとめてきただろうか。もし感謝をもって受け取ってこなかったのだとしたら、それは神の恵みをむだにしていることなのである。
また私たちは神の恵みを、人生の次の段階へのステップとして役立ててきただろうか。もし役立てなかったとしたら、私たちは神の恵みをむだにしているのである。
私たちは、自分の人生の様々な局面を思い出さなければならない。苦しい時もあっただろうが、そういうときも、今から思えば神の恵みの御手が自分をささえていてくれたのではないだろうか。
あなたはそれに関して、神に充分な感謝をささげたか。その神の恵みを役立てたか。新年のこの日に、それをかえりみよう。
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2日 旧約・出エジ二七章
幕屋と、日本の神社とは幾つかの点で似たところがある、と言われている。
たとえば幕屋が聖所と至聖所という二つの部屋からなっているように、神社も、礼拝をする拝殿と、その奥の本殿とに分かれている。とくに住吉造りなどの構造は、幕屋によく似ている。
神社において、一般の人は拝殿の前で祈る。幕屋においても、人々は聖所の前で祈った。
また神社の拝殿には一般の人々は入れず、ましてや本殿には入れなかった。同様に幕屋においても、聖所には祭司のみが入ることができ、ましてや至聖所は大祭司だけが年に一度入るだけだった。
幕屋はまた、内部が常に赤い色(または赤と紫)をしていた(出エ三六・八)。同様に日本の神社も、朱い色で塗られているものが多い。とくに古い神社はそうである。
ほかにも、神社と幕屋の類似点が指摘されている。これについて、この類似は、古代イスラエルの失われた一〇部族の一部が古代日本にもやって来たからではないか、との説がある。つまり、神社が幕屋に幾分似たところがあるのは、そのなごりかも知れないと言われている。
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3日 新約・マルコ一一章
イエスは、ろばに乗ってエルサレムに入られた(七)。軍人のように馬に乗ってではなく、小さなろばに乗って、ゆっくりと入られたのである。
イエスは、ろばを引いてこさせるとき、
「主がお入用なのです」
と言うよう、弟子たちに命じられた(三)。このろばは、こうして、イエスをエルサレムにお連れするという光栄にあずかった。
それは短い時間のことだったが、ろばは主の必要に応えることができたのである。主は私たちに対しても、
「主がお入用なのです」
と言われている――あなたに対しても。あなたは主のお入用に応えるか?
あなたのなすべきことは、キリストを人々のもとへお送りし、ご紹介することである。それが伝道である。伝道は、私たち自身の思想を伝えることではない。あのろばのように、キリストを人々のもとへお送りし、人々にご紹介することである。
あとは、キリストがご自身で語って下さるのである。
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4日 旧約・出エジプト二八章
ここに、エポデと呼ばれる大祭司用の装束の作り方が示されている。
エポデは祭司が一番外側にまとった四角い布で、肩にかけて下にたらし、腰のあたりを帯で結ぶようになっていた。祭司は幕屋で仕えるときは、これを着用した。
とくに大祭司用のエポデは、きらびやかな色の糸で作られ、宝石等により、けんらん優美なものになっていた。
しかし一般の祭司用のエポデは、もっと単純なものだった。第二サムエル二二・一八には、八五人の祭司たちが亜麻布のエポデを着ていた、とある。彼らのエポデは、装飾のない、ごく簡単なものであったろう。
それはちょうど、日本の神社の神主が一番上に着る四角い布に似たものだった、と思われる。ユダヤ教のラビ=M・トケイヤー氏はこう言っている。
「神社の神官が着る白いリンネル(亜麻布)の衣服は、古代イスラエルの祭司が着た白いリンネルの服と、全く同じ様な形をしている。神官のはく袴も、ローブも、前にたらしている布も、胸の前につけている特別な布も、古代イスラエルの祭司が身につけていた衣服に、非常によく似ている」。
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5日 新約・二コリント七章
パウロがコリント人への第一の手紙と第二の手紙の間に「涙ながらに」書いたもう一通の手紙(二・三)によって、コリント教会の人々は悔い改めた(九)。
それは苦難の中にあったパウロにとって、大きな慰めとなった。コリント教会の人々は、パウロにとっても神にとっても、喜びとなったのである(一六)。
「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせる」(一〇)。
神のみこころに添った悲しみは、多くの良い実を結ぶ。まず、救いに至る悔い改め、そして熱心と(一一)、聖潔(一)、また喜びである。
パウロのコリント人への手紙は、私たちに対しても、神のみこころにそった悲しみをうながしているのではないだろうか。
私たちは過去の罪の人生を、充分に神の御前に悲しんだか。あなたが今、もし大きな喜びをもって生きていないとしたら、それは神のみこころに添って充分に悲しまなかったためではないか。
神のみこころに添った悲しみは、人を真の幸福に至らせるのである。
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6日 旧約・出エジプト二九章
「罪のためのいけにえ」は、必ず「宿営の外で焼かなければ」ならなかった(一四)。これに関して、新約のヘブル一三・一一にこう記されている。
「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、(動物の)からだは宿営の外で焼かれるからです。ですからイエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました」。
つまり、イスラエルが代々守ってきた「罪のためのいけにえ」の儀式は、来たるべきキリストの犠牲の予型だったのである。
ちょうど、罪のためのいけにえが宿営(キャンプ)の外で焼かれたように、主イエスもエルサレムの門の外で十字架におかかりになった。十字架のたてられたカルバリーの丘は、エルサレムの門の外にあったのである。
これに限らず、旧約時代に神がイスラエルの民に命じられたすべての儀式は、来たるべき事柄の予型的意味を持っている。
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7日 新約・マルコ一二章
「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった」(一〇)は、詩篇一一八・二二に述べられたキリスト預言の引用である。
「家を建てる者たち」とは、律法学者やパリサイ人をさす。また「石」はキリストのことである。
「それが礎の石になった」とは、律法学者やパリサイ人が見捨てて十字架にかけたキリストが、教会の礎の石となり、神の宮を建て上げたことを意味している。
こうしてキリストは、ご自身が彼らに捨てられること、またその死によって教会を建て上げる事を予言されたのである。
主は、ご自身への反対者から逃げることは、決してなさらなかった。そして、彼らの提出する鋭い質問の数々にも、明確にお答えになった。
カイザルのコインの話(一三〜一七)にしても、復活の話(一八〜二七)、また一番大切な戒め(二八〜三四)のことに関しても、キリストのお答えは、まさに自由自在である。
それは気持ちがよくなるほど、明快で説得力のあるお答えなのだ。あなたも、キリストにご質問したいと思うことがあるだろうか。彼は、あなたの祈りの中で、それにお答え下さるであろう。
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8日 旧約・出エジプト三〇章
幕屋全体と、そこにある器具には、特別に調合された油がそそがれた(二六)。
これは、幕屋を「聖なるもの」とするためであった。「聖なるもの」とは、神のものということである。
このほかにも、イスラエルでは何かを神のものとするときに油を注いだ。ダビデは王となるときに、預言者から油を注がれた。
大祭司も油をそそがれた。また「キリスト」は、「油そそがれた者」の意味である。
さらに、「油」は聖霊の象徴でもある(一ヨハ二・二七)。私たちは信仰に入ったとき、聖霊を受ける。それは私たちに対する「油そそぎ」なのだ。これによって、私たちは聖別され、神のものとなる。
このように、油そそぎ一つをとってみても、聖書には広範囲な一貫性が見られる。
クリスチャンの上には、そそぎの油がとどまっている。そしてその「キリストの油が、すべてのことについて、あなたがたを教える」(一ヨハ二・二七)のである。
自分が神のものとされている自覚を持って生きよう。
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9日 新約・二コリント八章
ここでパウロは、献金について語っている。
献金は、神と教会への愛のあらわれの一つである。私たちは献金によって、教会と聖徒たちの必要に応える。
私たちは、強いられて献金するのではない。愛のゆえに献金し、伝道の必要に応えるのである。
教会に献金することだけが献金ではない。神と隣人のためにささげるお金は、みな献金である。
聖書には、「神を試みてはならない」と記されている(マタ四・七)。しかし、ただ一つの場合に限り、神を試みることが許されている。それは献金についてである。マラキ三・一〇にこう記されている。
「一〇分の一をことごとく、宝物倉に携えてきて、わたし(神)の家の食物とせよ。こうしてわたしを試してみよ。――万軍の主は仰せられる。――私があなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかを、試してみよ」。
一〇分の一献金をもって、神を試してみよ、というのである。あなたはもう、この祝福を経験したか。
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10日 旧約・出エジプト三一章
神は、単に幕屋をつくる方法を示されただけではなかった。神はユダ族のベツァルエルを召し、彼に「知恵と英知と知識」また「神の霊を満たし」て、幕屋製作のあらゆる仕事にあたらせられた。
神は私たちに対しても、ときに仕事や事業を要求される。しかしそのとき、神は同時に、その仕事の遂行に必要なすべての能力をも与えてくださるのである。
その能力は、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントであるが、どれもそれぞれの人がなす仕事のために必要充分なものである。
私たちは感謝してそれを受けとめ、神の仕事遂行のために、与えられた能力をフルに発揮しなければならない。神はそうしたあなたを、豊かに祝福される。
ベツァルエルが製作したものには、大きいものも小さいものもあった。同様にあなたがなすべき仕事にも、大きなものや小さなものがあるであろう。
しかし、大きいものも小さいものも、同じ忠実さをもってあたらなければならない。小事に忠実な人は、大事にも忠実なのである。
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11日 新約・マルコ一三章
キリストは、世の終末とご自身の再来が間近になった時代に関して、予言をされた。
世の終末が間近になると、戦争、地震、ききん、迫害、にせキリスト、にせ預言者等が、あちこちに起こる。しかしそういう中で、キリストの真の福音は全世界に伝えられる。
さらに時が進むと、天変地異がおきるようになる(二四〜二七)。そのときキリストが再来される。
また黙示録によれば、その後キリストによる至福の千年王国が、地上において持たれる。続いて最後の審判があり、万物は神の御前から過ぎ去る。新天新地が創造され、クリスチャンたちは、そこにおける神の王国を継ぐ・・・・。
このように、聖書のいう「世の終末」は、苦難の時ではあるが、決してすべての人が死に絶えてしまう破滅の時ではない。また、誰もが無差別的に死に絶える時でもない。
そのとき滅びるのは、滅びに値する者たちだけである。神を愛し救い主キリストを信じる者が滅びることは、決してない。彼らは、来たるべき神の国を継ぐ。
「世の終末」とは、現在の世と、来たるべき世との境界にすぎないのである。
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12日 旧約・出エジ三二章
モーセが山上で律法を授けられているまさにその時、山の下では民が早くも堕落していた。彼らはヤハウェ宗教にカナンの偶像崇拝を混ぜたものを信奉し始めていたのである。
神の御怒りは燃え上がる。しかしモーセは神の御前に、知恵と愛とをもってとりなす(一一〜一四)。このとりなしの祈りは、祈りの模範である。
モーセのとりなしによって、成人男子だけでも六〇万人以上いる民全体への裁きは、まぬがれた。しかし、すべての裁きが免れるわけではなかった。神はモーセを通し、最も罪深い約三千人に裁きを下されたのである(二八)。
彼らに直接刑を下したのは、主のもとに集まったレビ族の者たちであった。同族の者が同族の者を殺す――ここに厳しさがある。民は神ご自身の手による裁きはまぬがれたが、自分たちの手で同族を裁かなければならなかった。
このようなことは、もちろん今日ではあり得ないことである。しかし神の近くにいたイスラエルの民は、神の御前に聖であることが非常に強く要求された。彼らは神の峻厳な裁きをも、見なければならなかったのである。
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13日 新約・二コリ九章
「神は喜んで与える人を愛してくださいます」(七)。
献金は、神のため、また隣人のためになす愛のわざである。しかしそれはまた、結局は自分のためにもなる。私たちはこの愛の行ないにより、神のさらなる祝福の中に入り、愛の意味を深く知るようになるからである。
教会になす献金も、自分で行なう伝道に用いるお金も、また慈善のためにささげるお金も、みな広い意味での献金である。
要は、自分の収入のうち一〇分の九は、自分の生活や楽しみのために用いてもよいが、少なくとも一〇分の一は、神のため、人のために用いなさいということである。
だから献金は、非常に理にかなっている。それは教会のため、人々のため、また私たちの愛の成長のために、必要不可欠のものである。
献金は、自分の教会の集会献金や、月定献金等だけでもよいが、もしできれば、自分が特に心にかけている貧しい伝道者や伝道団体、また新たな働きのためにささげることも必要であろう。
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14日 旧約・出エジ三三章
私たちはしばしば、神と人間の関係は単に主人としもべの関係であって、しもべは主人に盲目的に従うのだと思っている。
しかし、聖書の示す神と人間の関係は、決してそのようなものではない。神が人間の前に主体的に行動されるように、人間も神の前に主体的に発言し、行動することが許されているのである。ある人が、
「人間が神と議論することは罪ですか」
と尋ねたことがある。聖書によれば、それは必ずしも罪ではない。実際モーセは、へりくだりながらも神と議論をしている(一五)。彼は神に対して、反対意見さえ申し上げているのである。
モーセは、いわゆる「イエスマン」――yesとばかり言っている人ではなかった。彼は、自分の考えを大胆に申し上げる優秀な家来のように行動したのである。
モーセは常に、神の栄光と愛の原則に立って、神と対話した。モーセが「神のみこころにかなっている」(一二)と言われたのは、そこに理由がある。
彼はへりくだりながらも、神の栄光と愛のために主体的に発言・行動したので、神に喜ばれたのである。
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15日 新約・マルコ一四章
鶏が二度目に鳴いたのを聞き、主イエスのお言葉を思い出して、男泣きに泣いたペテロの心情は(七二)、私たちも充分に察することができる。
それは私たちも、しばしばペテロのような経験をするからである。私たちは、主イエスのためならば何でもしよう、死をも厭うまい、と思うことがある。
ところが、しばらくすると、そんな純粋な気持ちとは全く違っている自分に気づくのである。まるで「イエスなどという人は知らない」というような生活をしている。
それほど、私たちは弱く愚かな者たちである。しかしあのペテロも、キリストの復活ののち、聖霊を受けてからは、死をも厭わない強い人物に変わった。
ペテロは、ローマの迫害にあって殉教の死を遂げるとき、
「イエス様と同じように十字架にかけられるのでは、もったいない。私を逆さにして十字架につけてください」
と言って、自ら頭と足を逆さにして「逆さ十字架」にかかったという。彼は主イエスのためには、もはや死をも恐れない人間に変わっていたのである。
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16日 旧約・出エジ三四章
「今ここで、わたしは契約を結ぼう」(一〇)
とヤハウェの神は言われた。この「契約」ということが、神と人間の間の関係を理解する上で、きわめて重要である。
たとえばエジプトのパロ(王)と、その民との間には、「契約」は存在しない。パロは民を征服し、抑圧し、支配するのみである。
両者を結びつけるものは単に、パロの、民に対する強権である。民の主体性は認められていない。
しかし、神と人間は、契約によって互いに結びつけられる。ここには、人間側の主体性が認められているのである。
すなわち、人々には神の御教えを守ることが要求されるが、それを人々が守れば、神の側ではその人々を祝福するという義務が生じる。これが、神が人との間に結ばれた契約である。
そこには神の自由な意志と、人間の自由な意志が認められている。神の自由な意志と、人間の自由意志とが結び付けられるのが、契約なのである。
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17日 新約・二コリ一〇章
かつてイエスの弟子たちが道を歩いているとき、自分たちの誰が一番偉いかと話し合っていて、あとで主イエスにしかられたという記事が福音書に載っているが、コリント教会にもそのような人々がいたらしい(一二)。
しかし、そうしたことが気になるのは、信仰がまだ幼稚だからである。誰が偉いのでもない。私たちの魂の優劣は、本来どんぐりの背くらべで、大きな違いはない。
もし誰かが、何か優れたものを持っているとすれば、それは主からのものであって、私たちが誇るべきものではない。
最近の日本の新興宗教においては、しばしば誰の魂が一番すぐれているかとか、誰が一番の「高級霊」だとか、考えることが多い。なかには、そのために謙虚さを忘れて、自分が一番の「高級霊」だと思いこむ人もあり、教祖化する人も出てくる。
私たちは、そのような間違いに陥ってはならない。
誰の魂が高級なのでもない。もし人に良いものが認められるとすれば、それはみな、主が与えてくださったものなのである。私たちは人ではなく、主を誇るべきである。
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18日 旧約・出エジ三五章
幕屋は、人々が心からささげる物によって造られた(二一)。これは、のちにダビデが神殿建築のために準備したときも、またバビロン捕囚後に帰還民が第二神殿を建造したときも、同様であった(一歴代二九・五〜一七、エズ一・六、二・六八)。
他の国々では、為政者の権力誇示のために、民に対する重税によって神殿を造ることがあったが、イスラエルにおいてはそうではなかったのである。
私たちの教会においても、会堂はつねに、人々が心からささげるものによって造り上げられる。なかには、大工を一切雇わず、設計から施工まですべて教会員がみんなで協力して行ない、会堂を建てあげてしまうところもあると聞く。
幕屋を造る者たちは皆、神からのすぐれた知恵で満たされた(三五)。神のために働こうとする者はみな、神からの知恵を与えられるのである。
あなたは、神を思って「感動し」(二一)、心から進んで神のために働こうと思うだろうか。もし思うなら、自分の経験不足や、知恵不足を嘆く必要はない。神が、その時々に必要な知恵を与えてくださるからである。
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19日 新約・マルコ一五章
イエスの十字架のもとで人々は、
「おお、神殿を打ち壊して三日で建てる人よ」
と言ってののしった(二九)。
これはイエスがあるとき、
「この神殿をこわしてみなさい。わたしはそれを三日で建てよう」
とおっしゃったことに関連して言われたものであろう(ヨハ二・一九)。しかしイエスが「神殿」という言葉で意味されたのは、ご自分の体のことであった。
「イエスはご自分の体のことを言われたのである」(ヨハ二・二一)
と言われている。イエスの御体は、真の神殿である。その神殿は十字架上で壊されるが、三日後には本当に建て直されることになる。
私たち人間には、死はすべての終わり、という観念が強い。しかし、主イエスにおいてはそうではなかった。それは一つの通過点に過ぎなかった。
もっとも主イエスの場合は、私たちの罪を一身に背負って死ぬという重大な使命があったので、死は激しい苦しみを伴った。けれども彼は、その苦しみの向こうに復活があることを、知っておられたのである。
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20日 旧約・出エジ三六章
幕屋建設のために人々が自ら進んで持ってきたものは、あり余るほどあって、途中で持ってくることをやめなければならないほどであった(七)。
人々は喜びながら、幕屋建設の奉仕にあたった。ここでは、幕屋の周囲の幕や、上にかける天幕などが作られている。
幕屋の上にかける天幕は、真ん中が高く、両側が低くなっていて、ちょうど日本の神社の屋根が山の形をしているのに似ている。
「ケルビム」(八)というのは、神の臨在を示す天的存在で、御使いとも考えられる。一般に、手足を持つ有翼の像に作られる。これは契約の箱の「贖いのふた」に二つ、向かい合うようにつけられた。
「アカシア材」(二〇)は、堅牢であるために、幕屋建設に用いられた。幕屋建設にはこのように木の板や木の柱が使われたが、これは、のちにソロモンが建造した神殿においても同様であった。
おもな材料は木だったのである。これも、日本の神社の場合と似ている。しかし、日本の神社に真の神はおられない。幕屋には、真の神がご臨在を置かれたのである。
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21日 新約・二コリ一一章
「主イエス・キリストの父なる神、永遠にほめたたえられるかたは、私が偽りを言っていないのをご存知です」(三一)
とパウロは語った。私たちの行動も言葉も、喜びも悲しみも、すべてを知っていてくださるかたが、天におられるのである。
パウロは、多くの苦難にあった(二四〜二八)。その時の辛さは、経験したものでなければわからない。しかし、ひとり天の父は、それを理解していてくださる。
天の父は、あなたのすべてをも、理解していてくださる。
あなたの過去をすべて知っている人間が、どこにいるだろうか。あなたの夫、妻、親、友人でさえ、あなたの過去のすべては知らないであろう。
あなたの過去には、良いことも悪いことも、楽しいことも辛いことも、様々のことがあった。そのすべてを、神は知っておられる。そのうえで、あなたを愛しておられるのである。
神はすべてを知った上で、あなたを愛する、と言われる。そしてあなたの証人となってくださる。あなたを慰め、あなたを守り、救いに入れさせ、祝福に導かれるのである。
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22日 旧約・出エジ三七章
契約の箱は、その「基部に」(三)つまり下部に、二本の横棒をつけて持ち運びができるようになっていた。
しばしば契約の箱は、上部に横棒がついていたように描かれる場合があるが、本当は下部だったに違いない(一三〜一四節も参照)。それはちょうど、日本の神社の「おみこし」のように、人々が肩にかつげるようになっていたのである。
ここから、神社のおみこしの遠い起源はユダヤの契約の箱にある、という説がある。
一七節以降では、「燭台」が作られている。これは、中心をなす一本の幹から両側に六つの枝が出ているもので、その上に七つのともしび皿が乗っていた。
そのため「七枝の燭台」ともいい、ユダヤの象徴の一つである。
これら、幕屋に設置されたものは、のちのソロモン建造による第一神殿、またゼルバベルとヘロデ建造の第二神殿でも、同様に設置される。
ユダヤ人は今、エルサレムに第三神殿を建設したいと熱望している。第三神殿建設の際には、再びこの旧約聖書の記述をもとに、注意深く様々なものが作られるであろう。
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23日 新約・マルコ一六章
「あの方はよみがえられました」(六)は、原語では「・・・・よみがえらされました」で、受動態である。これは、キリストの復活が神のわざであることを示す。
マルコ福音書のこの最終章は、本当は、キリストの復活を知った女たちが墓から走り去ったことを述べる八節で終わりである。九節以降は、二世紀になって追加されたものであることを示す写本上の証拠がある。
しかし、八節で終わるのはどう見ても不自然だ。だから、今は失われている他の末尾があったに違いない、と考える学者が多い。
それが何らかの原因で失われたため、他の福音書との調和をはかるため、九節以降が加えられた。しかし、そのときは注意深く、事実にそった記述が行なわれたに違いない。だから九節以降も、内容は同じように信頼してよいものである。
キリストの弟子たちは、キリストの復活を聞いても、最初は信じられなかった(一四)。これはそれほど、キリストの死が確実なものだった、ということも意味している。
死後三日目といえば、ふつうなら腐敗が始まっている。キリストはそのような中から復活されたのである。
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24日 旧約・出エジ三八章
幕屋は、全体的に紫色、または深紅色に見えたであろう(一八)。それは神聖な色とされた。
幕屋は、イスラエルの人々が神に会うための場所である。人々は注意深く、主のためにすべての設置物を作った。
幕屋は、二つの部屋――「聖所」「至聖所」が奥にあって、そのまわりに庭があり、手前の庭には洗盤と祭壇が設置された。
今日の日本の神社には、誰がいくら寄付したとか書いてある札が、しばしばたくさん並んで前庭に立てられている。しかしイスラエルの幕屋には、そのような札はもちろんなかった。
幕屋は、人々が自分の名を売るところではなかったのである。それは神がご自分の臨在を置かれる場所であり、最も神聖なところだった。
今日、キリスト者の一人一人の体は、神の住まわれる幕屋であり、神殿であることを、私たちは覚えよう。「私たちは生ける神の宮である」(二コリ六・一六)。
神がかつて幕屋にご臨在を置かれたように、今日神は、キリスト者の一人一人の体にご臨在を置かれるのである。
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25日 新約・二コリ一二章
第三の天にまで上げられたという「ひとりの人」(二)とは、おそらくパウロ自身である。パウロは、自分のこの神秘的な体験を誇らないために、控えめに第三者的な表現にしたのであろう。
パウロは自分の神秘体験を、この箇所でしか語っていない。しかしそれを、彼が口数少なく語るだけなのは、たとえ多く語っても、結局人々にはよくわからないからである。
ある人が外国へ行って、楽園のような素晴らしい景色を見たとしよう。その人が自分の国に帰って人々に自分の体験を語ったとしても、人々はあまりピンとこないだろう。人々は自分の目で見ない限り、ただ聞くだけではよく理解しないのである。
だからパウロも、自分の神秘体験をあまり語ろうとしない。しかしその体験は、彼の内ではきわめて大きな意味を持っていたはずである。
第一の天は鳥の飛ぶ空をいい(創世一・八)、第二の天は宇宙空間(創世一・一四)、第三の天は天国である、と言われる。彼は、肉体のままであったか、魂の体外離脱によったかはわからないが、天国をかいま見る恵みにあずかったのである。
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26日 旧約・出エジ三九章
「イスラエル人は、すべて主がモーセに命じられたとおりに、そのすべての奉仕を行なった」(四二)。
イスラエルの人々は、主のための熱心と工夫をもって、「神の宮」である幕屋建設のために、すべての奉仕にあたった。
現在、私たちにとって「神の宮」には二つの意味がある。第一に神の宮は、私たち一人一人の体である。私たちは自分の体を神の宮――幕屋と考えて、いつも清く保たなければならない。
第二に、教会は神の宮である。ここでいう教会とは会堂ではなく、「公同の教会」すなわち全クリスチャンの集合のことである。
すべてのクリスチャンは、一つの公同の教会、一つの「キリストの体」という「神の宮」を形成している。各人はその部分なのである。
私たちは、その神の宮を建て上げる者たちである。神の宮の礎石はキリストご自身であり、私たちクリスチャンは、他の部分を担当する。ある人は壁の板の一部となり、ある人は柱の装飾品となる。
私たちは、それぞれに担当する部分を、主のための熱心と工夫をもって事にあたるべきである。
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27日 新約・ルカ一章
マリヤは、
「本当に、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(三八)
と言った。ここにマリヤの信仰を見ることができる。彼女は、まだ見ていないことを従順に信受したのである。
しかし、この段階では、彼女のうちに疑念が全くなかったわけではないだろう。彼女はまだ半信半疑の状態だったかもしれない。
けれども、エリサベツの言葉を聞くと、彼女のうちから一切の疑念が取り払われた。エリサベツは、マリヤの声を聞いたとき胎内の子が喜んでおどった、と述べた。また、
「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう」(四五)
と彼女にすすめた。これを聞いたマリヤは、あの日御使いから受けた言葉が、真実であったことを知った。そして主をあがめる「マグニフィカト」と呼ばれるあの美しい賛歌を、唱えたのである(四六〜五五)。
キリストは、マリヤの信仰を通してこの世に来られた。そして今も、キリストは私たちの信仰を通して、世の人々に伝えられるのである。
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28日 旧約・出エジ四〇章
ついに幕屋が完成し、主の栄光がその幕屋に満ちた(三五)。また幕屋の上には雲があり、それは主のご臨在のしるしであった。
今日で言えば、クリスチャンは荒野のイスラエル人に、キリストは幕屋に、聖霊は雲に相当する。神は、私たちの内におられるキリストによって私たちと共に住まわれ、そこには聖霊の雲がある。
そして荒野のようなこの世を、私たちは神と共に歩んで行く。イスラエルの幕屋は、このことの予型なのである。
神は、昼も夜も、私たちと共におられ、共に進んでくださる。「昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった」(三八)。
シナイ半島の荒野において、昼は暑く、夜は寒い。主の雲は、昼は彼らにすずしいかげをつくり、夜は雲の中の火が彼らに暖を与えた。
そのように、聖霊の雲はいつも私たちと共にあり、昼は私たちに力を、夜は慰めと安息を与えてくださる。
神は、幕屋によってイスラエルの民の中に住まわれた。ちょうどそのように、神は今はキリストによって、私たちと共におられる。それを覚え、今日も感謝して歩んで行こう。
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29日 新約・二コリ一三章
パウロは、自分が神から受けた権威について、
「この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではない」(一〇)
と言っている。彼はつねに、人々を築き上げることを考えた。
教会の牧師が説教するのは、何のためか。それは人々を、生き生きしたクリスチャンに築き上げるためである。断罪するのではなく、生かすためである。私たちが一番に語るべきは「福音」――良き知らせであって、裁きの言葉ではない。
現在、日本のあちこちの道ぞいに、黒い金属板に白い文字で「死後裁きにあう」とか「見よ、私はすぐに来る」「神はすべてを見ている」とか書いたものを貼っているのが見受けられる。
これを推進している団体は、熱心に伝道しているようなのだが、どうも板に記された言葉に、暗いものが多い。裁きの言葉が多いのである。
間違った言葉ではないのだが、どうも人々の評判が悪いのが残念だ。クリスチャンの間でも、評判が良くないのではないか。同じするなら、裁きの言葉よりも、良き知らせを書いたほうが、伝道の成果があがるのではないか。
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30日 旧約・レビ記一章
レビ記は、幕屋完成に続いて、祭司たちのために与えられた一つの手引き書である。そこには、主に受け入れられる礼拝をどのように指導し、民に教えるべきかが記されている。
旧約時代には、「全焼のいけにえ」と呼ばれるものがなされた。これは人の罪のあがないのためで、動物の血が祭壇のまわりにかけられ、動物の体は、皮以外は祭壇の上で焼かれたのである。
なぜこのようなことが行なわれたかというと、それは人々の罪が赦され、人々が神に近づくために必ず「血の犠牲」が必要であることを、イスラエルの民に教え込むためであった。
神は、来たるべきキリストの血の犠牲による救いを理解させる下準備とするために、動物犠牲の儀式をイスラエルの人々に命じられたのである。
すなわち、旧約時代のいけにえの儀式は、キリストの十字架の死の予型である。民は、いけにえをささげるたびに、
「血を流すことなしに罪の赦しはあり得ない」(ヘブ九・二二)
という真理を強く教え込まれたのである。
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