聖書一日一章

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1日 新約・ルカ二章
 主イエスは、ご自分が神の子であるという認識を、大人になってからお持ちになったのではない。一二歳の時にはすでに、
 「私が必ず父(神)の家にいる」
 と主張するほど、明確に神の子としての認識を示された(四九)。
 主イエスは、大人になってから突然「目覚めて」、「宗教家」または「教祖」になられたのではない。幼少の頃から、神の子、また神から遣わされた者としての自覚を持っておられた。
 また主イエスは、幼少の頃から知恵にすぐれておられた。
 これらのことは別にしても、彼が三〇歳になるまでごく普通の人間として、人々の中で暮らされたことには大きな意義がある。
 主は、私たちの救い主となるために、全く私たちの一人となられた。彼は女の胎を通してこの世に降誕され、私たちと同様に、赤ん坊時代、少年時代、青年時代を過ごされた。
 彼は私たちの成り立ちを知り、人生の何たるかをも、よく知っておられる。だからこそ、彼は私たちの救い主となることがおできになった、とも言えるのである。
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2日 旧約・レビ記二章
 神への捧げ物には、必ず塩が添えられた(一三)。
 日本でも昔から、神棚に供えるときは、必ず塩を皿にのせて添える風習がある。塩を添えるこの風習の遠い起源はイスラエルにある、との説がある。
 日本ではまた、相撲の時、力士が土俵に塩をまく。欧米人はこれを見て、何で塩をまくのか理解できない。彼らには、そのような風習はないからである。
 しかしユダヤ人なら、それが土俵を清めるためであると、即座に理解する。それはユダヤ人の家庭では、家を清めようとするとき、塩をまく習慣があるからである。
 日本でも、家を清めようとするとき、塩をまくことが今でもある。このような習慣は、ユダヤと日本に共通するものなのである。
 また、「種を入れないパン」(四)は、ヘブル語でマツァーという。「種」とはイースト菌のことであるが、これは小麦からつくった一種の餅である。モチとマツァー――発音まで似ているのは、はたして偶然であろうか。
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3日 新約・ガラテヤ一章
 「私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません」(一一)
 と使徒パウロは言った。福音は、パウロが考えだしたものではなく、誰か人間に教えられたものでもなく、ただキリストの啓示によるものである。
 これは、キリスト教は「下からの宗教」ではなく「上からの宗教」であること、また人間の思索の結果ではなく上からの啓示の結果であることを、示している。
 パウロははじめ、キリスト教に対する熱烈な反対者だった。それが、キリスト教の熱烈な推進者に変わるためには、人間の力だけでは不可能だったであろう。
 主イエスの御声を聞いたあの経験(使徒九・五)によって、パウロは生まれ変わった。以来、彼はキリストに生きる者となった。
 その経験をパウロは、「(神が)御子を私のうちに啓示することをよしとされた」(一六)、と語っている。
 キリストに生きることは、「御子を自分のうちに啓示していただくこと」である。自分のうちに、キリストのかたちが形成されていくことなのである。
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4日 旧約・レビ記三章
 神へのささげ物は、「傷のないもの」(一)でなければならなかった。
 そのように、主イエスは傷のない、つまり罪のない犠牲の小羊として、十字架上で犠牲の死を遂げられた。彼の犠牲が神に受け入れられるために、彼はまったく罪のない者でなければならなかったのである。
 人間世界には、主イエスのほかに、完全な義人はいなかった。十字架上で贖いの犠牲となれる人物は、主イエスをおいて他にはいなかったのである。
 これは、罪のない完全な義人でなければ、あの犠牲の死に耐えられなかった、ということでもある。主イエスは、私たちが神に受け入れられる者となるために、あの犠牲の死を遂げられた。
 私たちは、彼の死を通し、神に近づく。私たちは罪深いので、キリストの犠牲なしには、神の御前に出ることができないのである。
 私たちは、自分たちが神の子とされるために支払われた代価の大きさを、つねに考えるべきである。また、それに対する感謝の思いを新たにし、その感謝を、日頃の愛の行ないにあらわしていくべきである。
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5日 新約・ルカ三章
 バプテスマのヨハネは、来たるべき神の御怒りについて語った(七)。彼は裁きについて語ったのであるが、多くの者が彼のもとに来て、涙を流して悔い改め、神に立ち返った。
 これは、ヨハネの語る言葉が、彼の高潔な人格に裏づけられていたからである。
 またこれは当時、ユダヤの人々の心がいかに神の前に整えられつつあったかをも、示している。人々はヨハネを通し、神の前に素直にへりくだることを学びつつあった。
 時は満ちていた。ヨハネが人々の心を整えていたとき、主イエスは神の国の福音を語るために、公生涯に入られた。
 イエスが福音を語られると、その御言葉は、多くの人々の心に、ちょうどスポンジが水を吸い込むように吸い込まれていった。それも、ヨハネの働きが前もってあったからである。
 ヨハネはまさに、「主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにする」(四)ために現われた人であった。
 彼自身、そのことを明確に自覚していた。ヨハネは主の道備えのために、全力を尽くしたのである。
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6日 旧約・レビ記四章
 イスラエルでは、罪が犯された場合、その贖いのために、犠牲のいけにえが要求された(三)。
 このような厳しい規定がイスラエルに存在したのは、来たるべきキリストのために、民衆の心を準備するためであった。すなわち、人々は犠牲のいけにえを捧げるたびに、罪に対しては犠牲の供え物が必要であることを、心深く教え込まれたのである。
 これは、キリストが来られて十字架上で犠牲のいけにえとなられたとき、人々がその意味を理解するために、きわめて重要なことであった。
 「律法には、後に来るすばらしいものの影はあっても、その実物はない」(ヘブ一〇・一)
 と新約聖書は言っている。律法は影であって、キリストによる贖いが本体だったのである。
 律法は、イスラエルの民に対する「養育係」であった。それは、キリストの贖いの意味を人々に悟らせるための、準備係だったのである。
 だから、私たちは今、旧約聖書の律法を読むことによって、キリストの贖いの意味について理解を深めることができる。影の中にも、本体の姿・形を見ることができるのである。
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7日 新約・ガラテヤ二章
 「ケパ」すなわちペテロの行動には、一貫性がなかった(一一〜一四)。ペテロはこのことで、パウロから叱責を受けた。
 これは、使徒も叱責を受けることがあったことを示している。しかしこのことの後、ペテロは自分の非を認め、「異邦人の信者を割礼なしで受け入れる」というパウロの教えを支持するようになったと思われる。
 割礼の問題にしても、信仰義認の問題にしても、キリスト教は当初大きな反対にあった。大教の現われるところ、必ず反対が起こる。
 パウロはそうした中でも、与えられた啓示に忠実に歩み、信仰義認の教えを宣べ伝えた。義と認められるのは、律法の行ないによるのではない。ただキリスト・イエスに対する信仰によるのである(一六)。
 あなたは、本章二〇節の意味がわかるだろうか。パウロは「もはや自分が生きているのではない」と言った。「キリストが私のうちに生きておられるのです」。
 この言葉に、信仰に生きるパウロの人生のすべてが凝縮されている。私たちも、この言葉を自分の言葉として実感をこめて言えるようになるとき、力強い信仰人生を歩むことができるのである。
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8日 旧約・レビ記五章
 罪を犯したときは、その贖いのために、必ず犠牲をささげることが律法で要求された(六)。これは、罪の贖いのためには必ず犠牲が必要である、という観念を養い、来たるべきキリストの犠牲を理解する準備とするためであった。
 旧約時代、罪の贖いの儀式は、きわめて厳粛なものであった。贖いのためには、必ず血が要求されたのである。
 私たちの罪の贖いのためにも、血が流された。主イエス・キリストの清い血潮である。私たちは日常生活の中で、もし罪を犯したなら、それを悔い改めるとともに、その罪のために十字架にかかられた主に向かって感謝をささげるべきである。
 二千年前に主が十字架上で「永遠の贖い」を全うされたから、私たちは今、犠牲をささげる必要がない。しかし、私たちはもはや犠牲をささげる必要のない分、罪赦された感謝の気持ちを、神にあってなす良い行ないに反映させるべきである。
 多く赦された者ほど、多く愛する。神は今や、罪を犯したときの私たちに、犠牲ではなく、むしろより多くの愛を要求される。
 私たちは愛によって、神との関係を回復するのである。
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9日 新約・ルカ四章
 イエスは、荒野の試練の四〇日目に、サタンからの誘惑を受けられた(三〜一三)。誘惑を受けること自体は、罪ではない。誘惑に負ければ、それが罪となる。
 イエスは、サタンからの誘惑を受けることによって、あのアダムの歩んだ道を踏み直される。かつてアダムは、サタンの巧妙な誘惑の言葉を受け、それにのって罪を犯した。
 しかしイエスは、第二のアダムとして救い主となるために、このアダムの失敗を取り戻さなければならない。そこでイエスは、アダムと同じ様に、サタンの誘惑をお受けになった。
 かつてアダムに対する誘惑は「神のようになれる」ということであった。いまやサタンは、イエスに対しても「この世の一切の権力をあげよう」と誘惑する(六)。
 イエスは、サタンのすべての誘惑を退けられ、アダムの失敗を取り戻された。何によって?――旧約聖書の御言葉の引用によってである。
 私たちも、何を武器としてサタンの誘惑に打ち勝つのか。御言葉を武器とすることによるのである。
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10日 旧約・レビ記六章
 神に何かの供え物をしようとするときは、まず人に対して行なった罪を清算してから、供え物をささげなければならない、と律法は教えた。
 たとえば、もし誰かからだまし取ったような物があれば、それを人に返してから、供え物をささげるのである(五)。
 そのときは、元の物を償うだけでなく、五分の一をそれに加えることも要求された。律法はなんと詳しく、配慮に満ちたものであるか。
 主イエスも次のように言われた。
 「祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思いだしたなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟(同胞の意)と仲直りしなさい。それから来て、その供え物をささげなさい」(マタ五・二三〜二四)。
 私たちは、神を愛するなら、人をも愛さなければならない。あなたは今、すべての隣人と和合して生きているだろうか。
 それとも、誰かに恨まれているだろうか。また誰かに罪を犯しただろうか。もし思い当たることがあれば、それを祈りのうちに解決する努力をしなければならない。
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11日 新約・ガラテヤ三章
 律法を守ることによって、すなわち善行によって救われるためには、私たちは完全でなければならない。「すべてのことを堅く守って実行しなければ」(一〇)救われないのである。
 ちょうど、一つ一つの律法を鎖の一つ一つの輪に例えれば、律法によって救われようとする人は、その鎖をつたって山を登ろうとする人に似ている。良い行ないを積んで、一つ一つの律法の輪をつたって、山を登っていくのである。
 しかし、もしその鎖の輪のうち、一つでも切れたら、つまり律法に違反した行為を一つでも行なったら、どうなるであろうか。鎖はプツンと切れて、その人はまっ逆さまに落ちてしまうだろう。
 他の輪が大丈夫でも、たった一つの輪が切れただけで、落ちてしまうのである。同様に、律法を守ることによって救われようとするなら、私たちは一つでも欠けずに律法を完全に行なわなければならない。
 しかし、それは不可能である。「義人はいない。一人もいない」からだ。私たちは、行ないによってではなく、キリストの恵みにより、彼に対する信仰を通して救われるのである。
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12日 旧約・レビ記七章
 血は、死の証拠であり、だれもが見ることのできる場所に注がれた(二)。キリストの死も、誰もが見ることのできたものである。
 キリストの贖いは、片隅で行なわれたことではない。それは過越の祭の最中、多くの人がエルサレムにつどっていた時に行なわれた。人々のただ中で、主イエスはご自身の尊い血潮を流されたのである。
 罪過のためのいけにえは、焼かれたあと、祭司たちが食べてもよかった(六)。彼らはこの犠牲の肉を食べるとき、その犠牲を思うとともに、体の養いを得、満足を得た。
 同様に、私たちは主イエスの御体にあずかるとき、十字架の犠牲を思い、また魂の養いを得るのである。
 主へのささげ物は、「自分で」主のもとに持ってこなければならなかった(三〇)。どんなに地位の高い人も、部下や、しもべを用いてはならなかった。自分で、が条件である。 あなたは、主に何をささげようとするだろうか。あなたがささげることのできる、最上のものは何か。
 それは、あなたの生涯である。あなたは、それを自分で主にさし出し、主にささげなければならない。
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13日 新約・ルカ五章
 私たちは、毎日毎日伝道しても、あまり多くの回心者を得られないことがある。そして私たちは、夜通し働いて一匹の魚も取れなかったあのシモン・ペテロのように、途方にくれるのである(五)。しかし主は、
 「深みに漕ぎだして・・・・漁をしなさい」(四)
 と言われる。
 私たちが多くの回心者を得られなかった理由は、どこにあるのか。そう、私たちは自分の力で、肉の力で、伝道をしていた。
 私たちは、主イエスに舟に乗っていただかずに、伝道の舟を漕いでいたのである。しかし、主イエスに、共に乗っていただかなければならない。そして「深みに漕ぎ出す」のだ。
 あなたにとって今、その「深み」とは、何だろうか。
 祈りなさい。主はそれを示して下さるであろう。ペテロは、深みに出たとき、
 「でも、お言葉通り網をおろしてみましょう」(五)
 と言った。私たちにも、主からの御言葉が与えられるであろう。そして与えられたら、それを実行しなければならない。
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14日 旧約・レビ記八章
 これは、アロンとその子たちの祭司任職式である。
 祭司は、まず水で身を洗われ(六)、衣を着せられ(七〜九)、油を注がれた(一二)。主のご用をする私たちにも、この順序が大切である。
 すなわち、私たちはまず、神への信仰によって心を洗い清められ、それによって「義の衣」を着せられ(イザ六一・一〇)、さらに聖霊の油を注がれなければならない(一ヨハ二・二七)。
 プロテスタントでは、「万人祭司」と言って、すべての信者は祭司である、と考えられている。すべての信者は祭司となって、人々のために、とりなしをしなければならないのである。
 ユダヤにおいて、祭司たちは自分の身を清く保つことを強く要求された。しかし彼らは、それを何かの「束縛」とは考えず、むしろ非常な喜びと考えたと言われる。彼らは、神に仕えることに聖なる喜びをおぼえたのである。
 私たちも、聖なる働きに召されている。私たちは、民のためにとりなす祭司の役も担っていることをおぼえよう。そして今日も、とりなしの祈りをささげよう。
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15日 新約・ガラテヤ四章
 私たちは、キリストを通して「神の子」である。聖書は、御子が世に遣わされたのは、
 「私たちが子としての身分を受けるようになるため」(五)
 であったと言っている。これは、私たちが神の家族に「養子」となったことを示す表現である。
 しかし、聖書の中には、私たち神の子がむしろ「実子」であることを示す表現もある。
 「この人々は・・・・ただ神によって生まれたのである」(ヨハ一・一三)。
 「生まれた」という以上、実子であろう。
 けれども私たちは、養子なのか実子なのか、で頭を悩ます必要はない。養子とか実子といった表現は、単に神との親しい関係を、わかりやすく人間世界の言葉で言い表したものにすぎない。
 いずれにしても私たちは、神との非常に親しい関係に入れられた。子であり相続人である、という関係である。
 それはキリストによってなされた。私たちは、「キリストを通して」または「キリストにあって」、神の子なのである。
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16日 旧約・レビ記九章
 アロンは、「民のための罪のいけにえ」(一五)や「民のための和解のいけにえ」(一八)をささげる前に、「自分のための罪のいけにえ」をささげねばならなかった(八)。これは、祭司である彼自身にも罪があったから、まず自分のために贖いをなす必要があったのである。
 「大祭司は・・・・自分自身の弱さのゆえに・・・・自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません」(ヘブ五・三)。
 自分自身がまず神との正しい関係になければ、人のためにとりなすことはできない。
 新約聖書によると、大祭司は、キリストの一つの型である。キリストは偉大な大祭司なのだが、キリストは一つの点において、大祭司であったアロンたちとは異なっている。
 それはキリストは、ご自身の罪のためのささげ物をする必要がないということである。ヘブル七・二七に言われている。
 「ほかの大祭司とは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に民の罪のために毎日いけにえをささげる必要がありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです」。
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17日 新約・ルカ六章
 「自分の敵を愛しなさい。・・・・そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたはいと高き方の子と呼ばれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです」(三五)。
 第二次大戦後、この言葉を実行した人物がいる。蒋介石である。
 蒋介石は、大戦中、日本の侵略に対して、中国における抗日戦線を組んだ人である。彼は戦争が終わったとき、敗戦国・日本に対する措置を決定する権限の一端を握っていた。
 しかし、クリスチャンであった彼は、キリストの「汝の敵を愛せよ」の精神のもと、米国のルーズベルト大統領や英国のチャーチル首相を説き伏せ、敵国日本に対する歴史上まれにみる寛大な措置を実現させた。
 その寛大な措置とは、
(1) 天文学的数字に上った戦争賠償金の対日請求権をす べて放棄すること。
(2) 日本の分割占領の阻止。
(3) 中国大陸にいた二〇〇万人余りの日本軍民の早期帰 国の実現。
C 天皇制の存続は日本人の考え方にゆだねる。
 である。この措置によって日本は今日あるを得ている。
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18日 旧約・レビ記一〇章
 アロンの二人の子らは、本来大祭司が一人でなすべき事柄を(出エ三〇・七〜八)、自分たち二人で行なった(一)。
 神のご命令に反することを行なったのである。この軽率な行動は、彼らの身に死をもたらした。
 八節で「飲酒」に対する戒めが挿入されていることから見ると、このときアロンの子らは、酒を飲んでいたのかもしれない。それはともあれ、主の近くにいた彼らにとって、罪は即、死を意味した。
 子たちが死んだとき、アロンは悲しみを外に表さず、むしろ「黙っていた」(三)。自分の子らに対する裁きを見てもなお、つぶやかずにいるのは、つらいことである。しかし彼は、神のなさることに服した。
 アロンの他の子らも、泣き悲しむことは許されたが、過度に嘆き怒って、神の裁きに逆らうような態度をとってはならない、との戒めが与えられた(六)。
 これは、厳しすぎるだろうか。
 しかし、いかに厳しくとも、全世界のために祭司の民とされたイスラエル民族は、それを耐えねばならなかった。この厳しさは、やがて大きな祝福をもって償われるのである。
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19日 新約・ガラテヤ五章
 「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです」(二四)。
 これは、きよめの経験、聖潔の経験を言っている。
 私たちは、キリストの身代わりの死を信じて信者となったとき、過去の罪は赦され、神の御前に義とされた。しかし、信仰生活を歩んでいくとき、肉(自我)の力がときおり頭をもたげ、私たちは内なる罪の力に悩まされる。
 しばしば自分の罪深さは、信仰に入った後に示される。私たちは、そのとき自分がきよめの経験を必要としていることを悟るのである。
 きよめの経験とは、「共に磔になる十字架」である。十字架はもはや、単にあなたの「身代わり」ではない。あなたは、キリストと「共に」十字架につけられたのだ。
 あなたは自分の肉を、様々の情欲や欲望と共に、十字架につけてしまった。これがあなたの実体験となるとき、あなたは罪の力から解放される。
 力強く、神の栄光を現わして生きることができるようになるのである。
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20日 旧約・レビ記一一章
 律法によって、きよい動物すなわち食べてよい動物と、汚れた動物すなわち食べてはならない動物とが、区別された。
 ここでいう「きよい」「汚れた」は、道徳上のことというより、むしろ神に許可されたものと、そうでないものという区別を表している。
 食べてよいとされた動物は、みな実際に食用に適するものばかりである。また食べてはならないとされた動物の多くは、実際に食用に適さないものであり、健康に対する配慮から、食することを禁じられた。
 さらに、一部の動物は、異教の人々と区別するという観点から禁じられたようである。たとえば豚は、よく焼けば食用にできるが、普通は不潔な生き物であり、異邦人との区別という観点から禁じられたと思われる(七)。
 食事に関する律法は、「きよい」「汚れた」という観念をイスラエル人の中に育成するために有効であり、ある期間用いられた。その後、キリストの時代になって、キリストはこの区別を撤廃し、すべての動物をきよいとされた(マコ七・一九)。
 食事に関する律法も、新約時代への「養育係」の一つだったのである。
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21日 新約・ルカ七章
 ここに初めて、死人のよみがえりの奇跡が出てくる。
 福音書には、死人のよみがえりの奇跡が四つ出てくる。イエスが本章において、ナイン町の青年をよみがえらせられたのは(一五)、その最初のものである。
 この青年のよみがえりは、死んで後しばらくしてのことであった。
 次の八章にいくと、ヤイロの娘のよみがえりの記事が出てくる(五五)。彼女も、死んで後しばらくしてからであった。彼女が二番目である。
 三番目によみがえった死人は、ラザロである(ヨハネ一一章)。彼の場合は、死んで後四日目のことであり、死臭がたち始めている頃だった。
 死人のよみがえりは、このように次第に大規模なものとなっていった。
 最後に、第四番目のよみがえりは、主イエスご自身である。そのよみがえりは、ナイン町の青年、ヤイロの娘、ラザロの場合とは、意味が大きく異なるものであった。
 最初の三人は皆、よみがえったが、いずれまた死んだ。しかし主イエスは、私たちの復活のための先駆けとして永遠の命の体に復活し、今も永遠に生きておられるのである。
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22日 旧約・レビ記一二章
 女が身重になり、子を産んだとき、一定の期間汚れるという観念は、古来日本にもある。日本のこの観念の起源は、遠く古代イスラエルにある、という説もある。
 汚れたとされた期間、女は外出することができず、家にこもる必要があった。実際、お産後しばらくは、静養が必要である。つまりこれは彼女のための静養期間だった、と言ってもよい。
 律法には、「ある一定の期間汚れる」という表現がよく出てくる。いつまでも汚れているのではない。一定の期間だけである。
 こうした「汚れ」は、必ず何かの目的を含んでいる。たとえば食物の汚れの規定にしても、産後の汚れの規定にしても、ともに健康への配慮を含んでいるのである。
 汚れの期間、またきよめの期間が満ちると、律法はきよめの儀式をすることを教えた。そのためにふつう羊が用いられたが、貧しい人は「二羽の山鳩か二羽の家鳩」(八)でもよい、と規定されていた。
 主イエスがマリヤからお生まれになったとき、マリヤと夫ヨセフは鳩をささげた(ルカ二・二四)。これは、彼らが貧しかったことを示す。
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23日 新約・ガラテヤ六章
 キリスト教は決して、善行を否定しない。
 私たちは、救われるために善行を積むことはしない。しかし、救われた感謝として、また神と人とを愛するがゆえに、善行を積む。それは天国に宝を積むためである。
 「善を行なうのに飽いてはいけません」(九)
 と聖書は教える。善行は、神が私たちによって喜び、また私たちが神によって喜ぶためである。
 「大事なのは新しい創造」(一五) だ。神によって日々新しく造られながら、日々新しい歩みをしていくことである。
 パウロは、自分は「イエスの焼き印を帯びている」(一七)と語った。「焼き印」とは、所有者のイニシャル型の鉄を棒の先につけ、それを真っ赤に熱して、牛や馬の肌にジューと焼き付けるものである。
 この表現には、パウロの深いキリスト体験が言い表されている。パウロという人間には、キリストというおかたが、その存在の奥深くまで刻印されていた。
私たちを、新しい善き歩みに向かわせる力は、「内に生きておられるキリスト」である。
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24日 旧約・レビ記一三章
 これは、らい病の鑑定についてである。らい病は、強い伝染性はないが伝染病の一つであり、はじめ皮膚にあらわれ、しだいに肉体を腐らせる最も忌むべき病である。
 症状がすすむと、皮膚は真っ白になり、鼻や耳などは腐って落ちてしまう。しかし、聖書に記された「らい病」は、今日でいうハンセン氏病とは若干異なる、という意見もある。
 当時イスラエルにも、らい病患者は少なからずいた。らい病という病気を広めないためには、注意深い扱いが必要だった。そのために、祭司が役にあたった。
 らい病と認定されると、患者は「自分は汚れている」と人々の前で叫ばねばならなかった(四五)。人々が近づいて病気をうつされないためである。また患者は、宿営の外に隔離された(四六)。
 らい病になることは、非常に悲惨なことだったのである。主イエスは、彼らを非常にあわれまれた。
 主イエスは、らい病人に「手を触れて」いやされた(ルカ五・一三)。いやすことはもちろん革命的なことだったが、らい病人に手を伸ばして触れるということだけでも、革命的だったのである。
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25日 新約・ルカ八章
 主イエスは、悪霊を追い出した人に、
 「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい」(三九)
 と言われた。彼は出て行って、神がどんなに大きなことをしてくださったかを、「町中に言い広めた」。彼は神の恵みを、会う人、会う人に証ししたのである。
 それを聞く人々の中には、半信半疑の人や、頭から信じないような人もいたであろうが、それでも彼は、主が「証ししなさい」と言われたのだから、喜んで証しして歩いた。
 日本のクリスチャンも、神がどんなに大きなことをしてくださったかを、もっともっと人々に証しすべきである。
 神の大きな恵みを受けていながら、それを自分の胸に秘めているだけで、人には話さない人が意外にも多いのではないか。この点において日本のクリスチャンは、あまりにも引っ込み思案である。
 あなたの証しを聞きたい、と思っている人々が、大勢いる。また、たとえそうは思っていなくても、聞けば、あとで「聞いて良かった」と思ってくれる人々が大勢いる。
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26日 旧約・レビ記一四章
 らい病人は、血と水と油によってきよめられた(六、八、一七)。これは私たちが、キリストの血と、水のバプテスマ、また聖霊の油によってきよめられることを、象徴している。
 当時、イスラエル以外の国においては、らい病人は忌み嫌われて、しばしば虐殺されたり、焼かれたりした。しかしイスラエルにおいては、もちろんそのようなことはなかった。むしろ、らい病人に対する適切な対応が重視されたのである。
 らい病がいやされた場合、そのことは、祭司という公的な役職によって調査され、さらにきよめの儀式が行なわれることによって、治ったことが公に宣言された。
 もし、こうした公の宣言がなかったら、らい病だった人は、たとえ治っても、人々の中を安心して歩けなかったであろう。しかしイスラエルにおいては、そうした配慮がなされていたため、治癒後は安心して歩けた。
 律法はこのように、非常に実際的な配慮を含むものだったのである。
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27日 新約・エペソ一章
 エペソ人への手紙以降、ピリピ、コロサイ、ピレモンへの手紙までは、「獄中書簡」と呼ばれる。それは、パウロがローマで獄中生活を送っていた時に書かれたものだからである。
 このエペソ一章には、「キリストにあって」という言葉が、何度も出てくる。ギリシャ語でエン・クリストス、英語で in Christ である。
 キリストの救いを理解する鍵は、「キリストにあって」の言葉にある。私たちは神の力により、キリストの「内に」入れられている。目には見えないが、キリストの内に、神秘的な形で一体化されているのである。
 私たちは、キリストの内にあって、罪赦され、義と認められる。なぜならキリストが義であられるので、その内に入れられた者も、義と認められるのである(七)。
 また私たちは、キリストの内にあって、神の子と認められる。キリストが神の御子であられるので、その内にいる者も神の子なのである(五)。
 また私たちは、キリストの内にあって、祝福された人生を歩むことができる。キリストが幸福なかたなので、その内にいる者も、祝福を受けて歩むことができるのである。
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28日 旧約・レビ記一五章
 ここでは、性的な病気のことが言われている。
 こうした病気は、何かの菌によるものと考えられるから、それを「汚れたもの」と考えて、つねに水で洗うべきであった。実際、つねに水で洗い、清潔にするならば、病気の治りは早かったのである。
 つねに身体を清浄に保つべきだとのこうした観念は、早くからイスラエル人に植え付けられた。この風習はイスラエル人だけでなく、日本人にも共通するものである。
 イスラエル人はつねに、水で身体を洗ったから、風呂の風習も発達した。今日も、彼らは毎日風呂に入る。日本人と同じような風呂である。
 世界には、毎日風呂に入る国民は少ない。欧米人はシャワーが普通だ。
 欧米人は、風呂に入るときは、湯船の中で体を洗ってしまう。だから彼らは、日本の銭湯の入り方はわからない。もし教えてあげないと、彼らは湯船の中に石鹸を持ち込んでしまう。
 しかし、イスラエル人はそうではない。彼らは湯船に入る前に、まず体を洗い、それから湯船につかるのである。彼らは、日本の銭湯に行っても、まごつかない。ユダヤの風呂の風習と同じだからである。
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29日 新約・ルカ九章
 「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(二三)。
 イエスの弟子になるには、三つのことが必要である。
 第一に、「自分を捨てる」こと。イエスの弟子は、自分があがめられるためでなく、神とイエスがあがめられるために働き、また自分を利するためでなく、人々を利するために働かねばならない。
 イエスの弟子の第二の条件は、「日々自分の十字架を負う」こと。自分に与えられた使命や、試練、労苦から逃げず、日々喜んでそれを負うことである。
 イエスの弟子の第三の条件は、「キリストについて行く」こと。キリストに対する服従である。キリストの御教えを守ることである。また、キリストと共に生きることである。
 あなたは、神とキリストのために自分を捨てているだろうか。日々自分の十字架を負っているだろうか。キリストに従っているだろうか。
 聖書の御教えが好きだ、というだけでは、イエスの弟子とは言えない。イエスの教えが行動と生活にあらわれてこそ、私たちはイエスの弟子なのである。
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30日 旧約・レビ記一六章
 本章は、「大贖罪日」について記してある。これは、全国民のために一年間の罪の贖いの儀式がとり行なわれた日である。 
大贖罪日は、ユダヤ暦第七の月の一〇日とされ(二九)、一年のうち最も厳粛な日であった。大祭司は年に一度、この日にだけ幕屋の一番奥の部屋――至聖所に入った(一五)。
 大祭司はこの日に、二頭のやぎを用意した。一頭は、ほふってその血を至聖所に持っていくためであり(一五)、もう一頭は、民の罪を背負わせて、生きたまま荒野に放つためであった(二一)。
 この、民の罪を背負って荒野に放たれたやぎは、「アザゼルのやぎ」と呼ばれた。
 これらの儀式の中には、キリストの贖いが、いくつかの形で予表されている。ヘブル九・一一〜一二には、大祭司なるキリストはその死の際、ご自分の血をたずさえて天上の幕屋の至聖所に入られた、と述べている。
 一方、ほふられたやぎはキリストの犠牲を予表し、罪を背負って荒野に放たれたやぎも、キリストの身代わりを予表している。
 キリストは、これらすべてのことを、お一人で成就されたのである。
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31日 新約・エペソ二章
 私たちの人生は、何と交わり、何と授受関係を結ぶかで決まる。
 私たちは信仰を持つ前は、罪の中にあり、サタンとの授受関係にあった(二)。しかし、今や聖霊により、キリスト、および神との授受関係にある。
 「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」(一ヨハ一・三)。
 この「交わり」すなわち授受関係が、永遠の命なのである。
 私たちはキリストとの霊的な授受関係によって、キリストの事実を自分の内的事実とする。
 キリストの十字架の死の事実は、キリストと授受を行なう信仰者にも、同様に事実となる。その人はキリストと共に、あの十字架上で死んだのだ。
 同様に、キリストの復活の事実、また天国への高挙の事実は、信仰者にも事実である(五〜六)。信仰者はすでに、霊的には、永遠の命に復活し、天国に上げられているのである。
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