聖書一日一章

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1日 旧約・レビ記一七章
 異邦人の宗教の中には、しばしば動物の血を飲んだり、食べたりするものがあった。しかしイスラエルでは、いかなる動物の血も食べることを禁じられた(一〇)。
 また、血は無為に流してはならなかった。動物の血を流してよいのは、主にささげるあがないの場合(三)、および、動物の肉を食べるために殺す場合だけであった(一三)。
 動物を偶像にささげることは、強く禁止された(七)。また、単なる狩りの楽しみを満たすために動物を殺すことも禁じられた。
 肉を食用にするために動物を殺す場合は、その血をすべて大地に注ぎ出し、その上に土をかける必要があった(一三)。
 こうして血はつねに、主、または大地に返された。これは、殺された動物の命が安息に入るためであった。
 この血に関する規定は、「代々守るべき永遠のおきて」(七)である。それは今日も有効の律法である(使徒一五・二九)。
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2日 新約・ルカ一〇章
 「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」
 と主イエスは言われた。
 私たちの喜ぶべきことは、悪霊追放の力でも、超能力でも、奇跡を行なう力でもない。ただ、自分の名が天の「いのちの書」に書き記されていることである。つまり救われている、という事実である。
 神は奇跡を行なう力を、たとえ奇跡を行なっても得意にならず、ただ神に栄光を帰する人々だけに、与えられる。
 もし、奇跡を行なう力が今のあなたに与えられていないとすれば、それは奇跡の力が与えられると、きっとあなたは得意になって、神に栄光を帰すことを忘れ、神の御名を汚すからだと思ってよい。
 奇跡を行なうことによって、もしあなたが堕落するならば、あなたは奇跡を行なえないほうが良いのである。
 大切なのは、奇跡を行なうことではない。自分の名が天に記されていること、それで充分なのである。それ以上のことは、許された人々にのみ、与えられている。
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3日 旧約・レビ記一八章
 ここに近親相姦(六〜一八)、不品行(二〇)、偶像に子どもをささげること(二一)、男色すなわちホモセックス(二二)、また獣姦(二三)を禁止する戒めが記されている。
 これらの戒めが与えられたのは、これらの行為が当時、近隣諸国で頻繁に行なわれていたことだからである。とくに、イスラエル民族がこれから入って行くべきカナンの地においては、ひどい状態だった(二四)。
 それゆえ、神はその地を罰し、「その地は住民を吐き出す」(二五)と言われている。
 じつは、カナンの地の悪がその頃に満ちるであろうことは、父祖アブラハムにも告げられていた。神はモーセの時代より約六〇〇年も前に、アブラハムにこう告げられた。
 「あなたの子孫は、(エジプトで)四百年のあいだ苦しめられよう。・・・・(彼らは)ここに戻ってくる。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである」(創世一五・一三〜一六)。
 エモリ人とは、カナンの代表的民族であり、カナン人の代名詞である。モーセの時代にカナンの悪が満ちることを、神は大昔に予知して、それを告げておられたのである。
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4日 新約・エペソ三章
 パウロは、自分を「キリスト・イエスの囚人」と呼んだ(一)。彼は、自分自身をそう呼んだのであり、これは彼の自覚だった。
 恋人は、しばしば相手に対して「私はあなたの虜(とりこ)です」と言う。ちょうどそのように、パウロは自分をキリストの虜と呼んだ。これは彼が、
 「人知をはるかに越えたキリストの愛」(一九)
 を知り、
 「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」(一八)
 に目覚めたからである。パウロは、キリストに魅了されてしまったのである。
 私たちは、キリストを知れば知るほど、キリストに魅了される。そして魅了されればされるほど、しだいにキリストに似た者になっていく。
 あなたは、キリストの囚人となっているだろうか。キリストの虜となっているだろうか。
 あなたを幸福にすることのできる者は、あなた自身ではない。それができるのは、あなたを十字架上で救ってくださったキリスト・イエスのみである。
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5日 旧約・レビ記一九章
 神が聖であるから、神の民である私たちも、聖でなければならない(二)。
 「聖」とは分離ということで、汚れから分離することである。神の民は、あらゆる汚れた行為から分離しなければならない。
 私たちは偶像崇拝や、思いやりのないこと、不正な裁判から遠ざからなければならない。憎しみ、復讐、不品行、霊媒、口寄せ、不正から離れなければならない。それは、これらが汚れたことだからである。
 「聖でなければならない」は、第一ペテロ一・一六にも引用されている。その前後には、こう記されている。
 「従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときの様々の欲望に従わず、あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい」(一・一四〜一五)。
 このように、汚れからの分離は、クリスチャンに対しても命じられている。私たちは汚れから分離することによって、神の民であることが知られるのである。
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6日 新約・ルカ一一章
 主イエスは、
 「わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」(ルカ一一・二〇)
 と言われた。神の国が全き形で来るのはキリスト再来の時だが、すでにキリスト初来以来、神の国はその姿を見せ始めている。
 神の国とは神の支配であり、それはキリスト初来に始まり、聖霊による教会時代を経て、キリスト再来によって完成する。神の国は、やがて来るものであり、同時にすでに来始めているものである。
 私たちはこの地上に生きているが、同時に、信仰によって天に結び付けられ、神の国にすでに生きている。私たちはすでに、神の国の国民である。
 神の国の国民には、多くの権利と、また幾つかの義務が与えられている。権利とは、偉大な神の国の資産を継ぐ者とされている、ということである。
 また義務とは、私たちの王である神とキリストの命令に従い、この世で神の栄光を現わす生き方をすることである。
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7日 旧約・レビ記二〇章
 死をもって罰せられる犯罪には、以下のようなものがあった。殺人、誘拐、両親をのろうこと、偶像崇拝、魔術、偽預言者、冒涜、安息日冒涜、姦淫、強姦、男色、獣姦、近親相姦、その他。
 律法のある箇条は、今日では苛酷に思われるかもしれない。しかし、もしあなたがモーセの時代に生きていたならば、あなたはそれを苛酷だとは決して思わなかったであろう。
 モーセの律法は、エジプト、バビロニアや、その他周辺諸国の古代法規のいかなるものにも勝って、人道的、合理的、民主的であった。
 モーセの律法は、人間の尊厳、道徳、人道、正義、平等、自由、平和、博愛を教えた。またそれは、人々の健康や清潔にも配慮する内容だった。
このようにしてイスラエル民族は、神権国家であったとともに、法治国家であった。神は法を通して、イスラエルを支配されたのである。
 「人が支配するのではなく、法が支配する」という法治国家の精神は、後世になって欧米で発達した。日本も法治国家である。法治国家の精神は、もともとはモーセの律法を模範にしたものなのである。
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8日 新約・エペソ四章
 キリスト者の歩みとは、「古き人」を脱ぎ捨て、「新しい人」を着ることである(二二〜二四)。
 「古き人」は原語では単数で、アダムをさす。「新しい人」も単数で、第二のアダムであるイエス・キリストをさす。
 私たちは、信仰によってアダム型人間から、キリスト型人間に生まれ変わる。アダム支配による人間から、キリスト支配による人間に生まれ変わるのである。
 信仰とは、キリストの支配を受け入れることである。キリストの義、永遠の命、愛、聖潔の支配を、自分の魂の中に受け入れることである。
 それが、「新しい人を着る」ということだ。肉体的には変わらなくても、神の目から見ると、あなたの魂はキリストの姿を着ている。
 神は、キリストというフィルターを通して、あなたを見られるのである。あなたはキリストと一体の者とみなされる。
 あなたは、キリストの支配を受け入れているか。あなたはキリストを着ているか。そしてキリストの命や愛は、あなたという存在に、にじみ込んでいるか。
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9日 旧約・レビ記二一章
 これは、一般の人に対するものでなく、祭司たち、および大祭司に対する規定であり、一〜九章の規定の増補である。
 祭司である者は、近親以外の死人に触れてはならず(一〜四)、頭をそってはならず(五)、からだに傷をつけてはならず(五)、結婚する時は処女をめとるべきであった(七)。また祭司は、体に欠陥のない者でなければならなかった(二一)。
 一方大祭司は、神礼拝の務めの最中に肉親の悲報に接したような際にも、その遺体のもとへ行ってはならなかった。彼は務めを続行しなければならなかった(一一〜一二)。
 祭司および大祭司は、聖であることが、強く要求された。クリスチャンに対しても、神は聖であることを求めておられる。
 クリスチャンにとって聖であるとは、霊的な純潔、また聖潔を意味する。心の罪汚れから離れていることである。
 神に近づこうとするなら、私たちは、あらゆる霊的な汚れから離れ、神のみを第一としなければならない。
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10日 新約・ルカ一二章
 私たちが恐れるべきかたは、神のみである。私たちは人を恐れてはならない(四〜五)。
 信仰を持たない者は、神を恐れず、人を恐れる。しかし信仰を持つ者は、神を恐れ、人を恐れない。
 私たちが神を恐れるのは、神を畏敬するからである。神が全能の主権者であられるからである。
 しかし、神を恐れる者は人を恐れない。それは神が味方だからである。神を恐れる者にとって、人の暴力や敵対は、恐怖の対象ではない。
 私たちはしばしば、正しいことをしようとするとき、人の反対にあう。しかし、恐れるべきは人の反対ではない。
 神のみこころにそって歩むことが、大切なのである。偉人とは、神に従うことの力を知っている人である。
 あなたは、今何かを恐れているだろうか。あなたは人の反対を恐れているか。自分の失敗を恐れているか。人の嘲笑を恐れているか。
 もしあなたが何かを恐れているなら、それが本当に恐れるべき対象であるか否かを、よく考えなければならない。
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11日 旧約・レビ記二二章
 全焼のいけにえは、傷のない雄でなければならなかった(一九)。同様に神の小羊イエスは、罪と傷のない方として、十字架上で私達のための全焼のいけにえとなられた。
 エジプト人の学者でヨーゼフという人は、かつてイスラム教徒だった。彼はアラーの神に仕えるため、すべての戒律を守り通す決心をした。
 しかし、戒律を守ろうとするたびに失敗し、結果は無惨な敗北となり、良心の呵責だけが残った。
 彼は良心の呵責から抜け出るため、今度は過激派のイスラム教徒となった。その結果得たものは、索漠とした虚しい思いだけであった。
 彼はその後、ユダヤ教と、エホバの証人に取り組んだ。しかしそこに見いだしたものは、まさしくイスラム教と同じ様な、律法によるがんじがらめの規則と命令であった。
 彼は最後に、イエス・キリストにたどりついた。イエスは彼に、努力や律法の遵守ではなく、ただ子どものような信頼と、共に生きることを要求された。彼の心は平安に満たされた。かつて年に一度、贖いの犠牲として小羊を殺していた元イスラム教徒の彼にとって、キリストの十字架は非常にわかりやすい事柄であった。
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12日 新約・エペソ五章
 「眠っている人よ。目を覚ませ。死者の中から起きあがれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる」
 という一四節の詩は、初代教会の賛美歌の一節であった、と言われる。
 「眠っている人」とは、まだ真理に目覚めておらず、魂が眠っている人のことである。また「死者」とは、神の命をまだ受けておらず、霊的な死の中にある人々のことである。
 私たちは、世の暗闇に眠らず、真理に目覚めなければならない。また、霊的に死んでいる人々の中から起きあがって、立ち上がらなければならない。そうすれば、キリストの光があなたを照らすであろう。
 私たちは、光の中を歩まなければならない。私たちは太陽のような光ではないが、月のような存在である。それは太陽なるキリストの光を受けて、反射して輝く。
 月星は、周囲の暗闇が増せば増すほど、より明るく輝くものだ。私たちも、周囲が悪く暗い時代になればなるほど、より明るく輝く。
 花は、顔を太陽の光に向けて成長する。あなたは、顔をキリストに向けているか。あなたの顔をキリストに向けなさい。そして光を、顔面いっぱいに受けなさい。
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13日 旧約・レビ記二三章
 ユダヤ暦第一月一四日の金曜日の夕暮れに、過越のいけにえがささげられ(五)、一五日の土曜日にパンの祭が始まり(六)、一六日の日曜日に初穂の束が揺り動かされ(一一)、それから五〇日目の日曜日に新しい穀物の捧げ物がささげられた(ペンテコステ 一六)。
 キリストの十字架・復活・聖霊降臨は、この祭にそってなされた。すなわちキリストは、第一月一四日の金曜日の午後三時ごろ、過越の小羊として死なれた。以後私たちは、キリストという「いのちのパン」にあずかることができるようになった。
 キリストはさらに第一月一六日の日曜日に、「初穂」として復活された。また、その五〇日目にあたるペンテコステの日曜日には、聖霊が降臨。教会は、「新しい穀物の捧げ物」として神の御前にささげられた。
 このようにキリストの十字架・復活・聖霊降臨は、連綿として続けられていたユダヤの祭にそってなされた。それは、人々がそれを神からのものとして理解するためであった。
 キリストの復活、および聖霊降臨は日曜日であった。そのため、土曜日であった安息日は、以後使徒たちによって日曜日に変更された(使徒二〇・七、一コリ一六・二)。
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14日 新約・ルカ一三章
 現在、神の「救いの門」は開かれている。しかしやがて、それが閉じられる時が来る(二五)。裁きが始まるからである。
 裁きが始まれば、救いの門は閉じられる。入ろうとするものは、それまでに入らなければならない。
 ちょうど、ノアの大洪水の時と同じである。大洪水が始まると、箱舟の戸は閉められた。ノアが閉めたわけではない。神ご自身がそれを閉められたのである(創世七・一六)。
 そして、もはや誰も中に入れなくなった。世の終わりにも、そうなる。救いの門は、いつまでも開かれているのではない。期限つきなのである。
 すでに門の中に入っている人は、安心してよい。しかし、門が閉められた後にそこに来ても、もはや中へ入れてはもらえない。主人に、
 「私はあなたを知らない」
 と言われてしまうのである(二五)。
中へ入れてもらえない二六節の人々は、キリスト教の福音は聞いたことがある。聖書を教えてもらったこともある。彼らはキリスト教に対して、好意は抱いていたのだ。しかし彼らは、イエス・キリストに対する信仰を持って生きていなかった。
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15日 旧約・レビ記二四章
 イスラエルにおける死刑の方法は、犯罪人に人々が石を投げて殺す、というものであった。
 石といっても、小石ではない。かなり大きな石、または岩を投げつけたのである。神の御名を冒涜したこの男(一一)は、正式な裁判を経て、石打ちの刑に処せられた。
 のちの時代になって、キリストの弟子ステパノは、石打ちの刑で殺され、殉教した(使徒七・五八)。もっとも彼の場合は、正式な裁判を経ていなかった。ユダヤ人は、無実のステパノを殺してしまったのである。
 一方、キリストはどうか。もしキリストがユダヤの方法で処刑されたなら、彼はステパノと同様、石打ちの刑に処せられたはずであった。
 しかし、キリストは十字架刑に処せられた。十字架刑は、ローマの死刑の方法である。
 キリストは、ご自分が石打ちの刑でなく、十字架刑によって死なれることを予知しておられた。ある日、弟子たちにこう語られたのである。
 「人の子(キリスト)は、十字架につけられるために引き渡されます」(マタ二六・二)。
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16日 新約・エペソ六章
「私たちの格闘は、血肉に対するものではなく、この暗闇の世界の支配者たち、また天にいるもろもろの悪霊に対するもの」(一二)
 である。人生においても、伝道においても、私たちはその大半が霊的なものに支配されていることを、常に覚えなければならない。
 私たち人間は、存在の半分を霊の世界に、もう半分を血肉の世界に置いている。だから、霊の世界、および血肉・物質の世界の両方から、私たちは影響を受けているのである。
 多くの人は、血肉・物質の世界からの影響には敏感である。だが、霊の世界からの影響に気づかない人が多い。しかし、すべての人は霊の世界の影響下にある。
 私たちの心が霊の世界の悪の勢力と結ぶか、または善の勢力・神の勢力と結ぶかで、私たちの人生は大きく左右される。人間の心は、わずか一念で、善の勢力にも悪の勢力にも一瞬にして通じるのである。
 私たちは、自分の心をしっかり神につなげ、また神につないでいただいて、霊の世界の悪の勢力と戦わなければならない。
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17日 旧約・レビ記二五章
 これは、「ヨベルの年」に関する律法である。ヨベルの年は主の恵みの年であり、それが来るとあらゆる負債は帳消しにされ、奴隷は解放され、売却した土地も戻ってきた。
 ヨベルの年は、七年ごとの安息年を七回数え、その七回目の安息年の翌年とされた。すなわち五〇年目である(一〇)。だから四九年目と五〇年目に、休みの年が二年続いた。
 それで神は、四八年目の農業を大豊作とさせ、三年間分の収穫を生じさせる、と約束された(二一)。
 イスラエルの民は、教えを守っている限り、この約束に裏切られたことはなかった。彼らは、ヨベルの年が来るたびに、神の御守りと恵みを感じとったのである。
 じつはヨベルの年は、来たるべき神の国の安息と恵みの、下絵である。来たるべき神の国は、いわば「大ヨベル」なのである。
 主イエスは、それを宣教するために世に来られた。主は宣教開始の時、イザヤ書の次の言葉を引用された。
 「ヤハウェはわたしを遣わされた。捕らわれ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために、しいたげられている人々を自由にし、ヤハウェの恵みの年を告げ知らせるために」(ルカ四・一八〜一九)。
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18日 新約・ルカ一四章
 主イエスのたとえの中で、「主人」は、「この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」(二三)と言っている。
 伝道には、二種類の仕方がある。
 一つは、やさしく、ゆっくり導くやり方である。日常生活の中で、未信者に対してやさしく接しながら証しをし、また少しずつ福音を説いていく方法である。
 もう一つは、強引なほどの熱心さをもって福音を説き、相手を入信させる方法である。たとえ相手がいかに反対しようとも、熱誠をこめて話し、説き伏せて信仰に入らせる。「無理にでも」人々を神の国に連れてくるのである。
 これは、結婚のプロポーズにも似ている。やさしく彼氏に導かれてプロポーズに応じる女性もいれば、強引なまでの熱意にほだされて応じる女性もいるであろう。
 伝道の場合も、強引なまでの熱意が必要となることがある。実際に、強引な伝道でなければ救われない、という人も多い。
 アブラハムの甥であったロトは、御使いに手を取られ、強引にソドムから出されたので救われた(創世一九・一六)。
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19日 旧約・レビ記二六章
 ここに、三つのことが語られている。
(1)教えへの従順に伴う繁栄と祝福(三〜一三)、
(2)背教に伴う恐ろしい災厄(一四〜三九)
(3)悔改めに伴う回復(四〇〜四五)
 これらはすべて、イスラエル民族の歴史上に成就した。(1)の繁栄は、イスラエル民族がカナンに入ってから、ソロモン王の時代まで続いた(紀元前一四世紀〜一〇世紀)。
 (2)の災厄は、ソロモン死後の王国分裂から、バビロンよりの帰還まで続いた(紀元前一〇世紀〜六世紀)。
 その後、(3)の回復の約束に伴い、ユダヤ人は紀元前六世紀から紀元一世紀まで、一時的にパレスチナに回復していた。しかし、その後彼らは再び世界に離散し、苦渋をなめ、もう一度(2)が成就した。
 それから、再び(3)が成就する日が来た。それが一九四八年のイスラエル共和国建国の出来事である。以来、イスラエルは今や、完全な究極の回復の時に向かって進んでいる。
 その究極の回復の時とは、キリスト再臨の時である。
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20日 新約・ピリピ一章
 ピリピ人への手紙は、随所にパウロの喜びが言い表されている。
 しかしこの手紙は、パウロの獄中書簡の一つである。パウロが獄にいながら、このような喜びに満たされていたことは、驚くべき事である。
 「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によってキリストのすばらしさが現わされることを求める私の切なる願い」(二〇)
 とパウロは語ったが、これは彼が回心後の全生涯をかけて追い求めたことであった。
 彼は、自分があがめられることを、一切求めなかった。キリストがあがめられることを求めた。
 しかし、単にキリストがあがめられることを求めたのではない。「私の身によって」キリストがあがめられることを、求めたのである。
 彼は、キリストのみわざは信者を通して以外に現わされないことを、熟知していた。だから、彼は自分の身を主にささげ、主に用いていただくことを切に求めた。
 私たちは、キリストがあがめられることを望むだけでは充分ではない。自分の身を通して、キリストのすばらしさが現わされ、キリストがあがめられることを求めるべきなのである。
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21日 旧約・レビ記二七章
 人が主へのささげ物として家畜を差し出すとき、祭司はその評価を行なった(一二)。また家をささげ物として差し出す場合も、祭司は同じようにした(一四)。
 ほかにも、当時祭司は、今日の役人がするようなこともやっていた。こうした律法により、イスラエル社会はきわめて秩序の高い社会となっていたのである。それは他国とは比べ物にならないほどの、高度な社会であった。
 また、この時代からイスラエルでは、文字の読み書きの教育が盛んになされた。祭司も、自分の目でモーセ五書を読んで勉強したのである。
 以後、イスラエル人は、いつの時代も読み書きを大切にしてきた。彼らは誰でも、子どもの時から読み書きに親しんできた。
 このようなことは、他国では考えられないことであった。他国では、読み書きは一部の人たちだけのものだった。
 とくに中世のヨーロッパにおいて、キリスト教徒の一般民衆は、ほとんど読み書きができなかった。しかしその時代においても、ユダヤ人は誰でも読み書きができたのである。
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22日 新約・ルカ一五章
 私たちは、放蕩息子の兄のように(二九〜三〇)、しばしば天の父に対してつぶやくことがあるのではないか。
 「あの人にはあんなにいいことが起こるのに、なぜ私にはいいことが起こらないんだろう。神様は不公平ではないか」
 と言ってつぶやくのである。
 しかし、天の父は何も不公平なことはなさっていない。必要なところに、必要なものを、必要なだけお与えになっておられるのである。
 放蕩息子の兄は、実際は満たされているのに、つぶやいた。彼にはつぶやく理由など、本来何もなかったのである。彼がつぶやいたのは、彼の心がまだ大人でなかった証拠である。
 私たちは、神に対するつぶやきや、不平、愚痴は、きわめて愚かであると知らなければならない。それは神を悲しませ、また怒らせる。
 あなたは、神に対してつぶやいたカインのように、また荒野でつぶやいたイスラエル民族のように、愚かであってはならない。私たちに必要なのは、ただ、感謝なのである。
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23日 旧約・民数記一章
 旧約聖書は、章の数が九二九、新約聖書は二六〇あり、章の数は旧約聖書の方が圧倒的に多い。
 そこで本日からは、聖書通読の速度を調整するために、旧約聖書を二日続けて読み、三日目に新約聖書を読むというサイクルで読み進んでいきたいと思う。そうすれば、新約聖書を二回、旧約聖書を一回通読したところで、ほぼ同じ頃に終了できるであろう。
 今日から見る『民数記』は、出エジプト後のイスラエル民族が荒野を四〇年放浪した時の記録である。
 モーセは、神の命令を受けて、イスラエル民族の人口調査を行なった。その結果は約六〇万人であった(四六)。
 ただしこれは、二〇歳以上の男子だけの数である。また、これにはレビ族の数は含まれていない。
 だからレビ族や、女子供を含めた総計は、二〇〇万人以上に達したはずである。荒野にこれだけの人々がいたのであるから、それは壮観なものだったであろう。
 普通なら、これだけの人々が荒野で四〇年生き延びることは、不可能なことであった。しかしヤハウェ神は、彼らを養ってくださった。
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24日 旧約・民数記二章
 イスラエル民族の荒野における宿営は、整然とした形においてなされた。
 真ん中に幕屋が置かれ、その東西南北に、少し離れた場所に三つずつ部族が宿営した。それで全体的に見ると、宿営は正方形になっていた。
 正方形の東側の辺にイッサカル、ユダ、ゼブルン、南側の辺にシメオン、ルベン、ガド、西側の辺にマナセ、エフライム、ベニヤミン、北側の辺にアシェル、ダン、ナフタリ族が宿営した。それらの真ん中に幕屋が置かれた。
 この正方形という形は、来たるべき新天新地の新エルサレムの形と同じである(黙示二一・一六)。また新エルサレムには、東西南北に三つずつ門があるが、それらの門には「イスラエルの子らの一二部族の名が書いてある」(黙示二一・一二)。
 新エルサレムは、イスラエルの荒野の宿営よりも、はるかに規模が大きいし、神と人の密接度がはるかに高まっている。しかし、荒野の宿営は新エルサレムの予型である、と言うことができるであろう。
 新エルサレムにおいても、人々は整然とした形において、神と共に住むのである。
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25日 新約・ピリピ二章
 キリスト教の教えには、しばしば逆説的なものがある。ある人は、キリスト教の逆説的な二つの教えをあげて、
 「捨つるは得るなり」
 「死なざれば生きず」
 と言った。「捨つるは得るなり」とは、神のために自分を捨てることが本当の自己を得ることである、という意味である。
 キリストは、神のために「ご自分を無にし」(七)、仕える者となられた。ご自分を捨てられたのである。しかし、それこそキリストがキリストたるべき道であった。
 弟子テモテは、若いのに自分自身の利益を求めず、福音と神のためにりっぱな働きをなした(二二)。彼も、自分を捨て、それによって本当の自己を得たのである。
 「死なざれば生きず」も、これに関連している。自分に死ぬことは、本当の自己に生きることである。
 自分の欲や名声を求めず、そうしたものに死んで、キリスト・イエスのうちに自己を見いだすのである。キリストに、私のうちで生きていただくことが大切なのだ。
 もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられる、という境涯に入ることである。
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26日 旧約・民数記三章
 イスラエルの各部族は幕屋を中心に正方形になるように、少し離れたところに宿営したが、幕屋のまわりにはレビ族が宿営した。
 だから幕屋を中心に、まわりにレビ族が、そこから少し離れたところにイスラエルの各部族が正方形に宿営する、という形になっていた。レビ族は、幕屋(聖所)のいろいろな任務を果たす役を負った。
 かつてエジプトで、エジプト人の初子は、人も家畜もみな死んだ。そのときイスラエル人の初子は死をまぬがれたので、主のものと定められた。主はイスラエル人の初子の代わりに、レビ族の人と家畜をご自身のものとされたのである。
 モーセとアロンも、レビ族出身であった。このようにイスラエルには、聖所(幕屋)の務めを果たすために、フルタイムで事にあたった一団の人々が存在した。
 レビ人が選ばれたのは、かつてイスラエルの民がシナイ山のふもとで黄金の子牛の偶像を鋳造したとき、レビ人だけが進んで神に立ち帰って忠誠を誓ったからである(出エ三二・二六)。
 神を第一にする者は、神の近くに住むのである。
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27日 旧約・民数記四章
 幕屋の最も聖なる務めにつくことのできる年齢は、「三〇歳から五〇歳まで」とされた(三)。これは、男子が心身共に充実する年代である。
 主イエスも、三〇歳になってから伝道を始められた。男子にとっては、三〇歳から五〇歳までに何をするかが、人生の大きなポイントである。
 その期間に、自分の欲に仕えるか、または神に仕えるかで、大きく人生は変わる。
 もちろん、ほかの時にも神に仕えることはできる。しかし心身共に充実しているこの年代に、もし神に仕えて行動しないならば、それはもったいないことである。
 三〇歳までは人生の準備期間、と思うのがよいであろう。その期間に、しっかりした信仰と、愛、聖書知識、教養、決断力を養うべきである。
 あのアルバート・シュバイツァーは、そうした考えで、三〇歳までは勉学に励んだ。そして、三〇歳のある朝、宣教雑誌を読んでいるとき、アフリカで医師と宣教師を求めている記事に目がとまり、それに強く心を動かされた。
 彼は、それから医学を学び、三六歳のときに妻と二人でアフリカに渡ったのである。
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28日 新約・ルカ一六章
 財産の管理人は、不正なやり方で友をつくった(一〜七)。これは決してほめるべきことではないが、彼の主人はほめた。それは、管理人の「抜け目ないやり方」に感服したからである。
 この世の人は、賢く立ち回って、未来への備えをしている。不信者は未来の備えに対して抜け目がなく、その点でしばしば信者よりも賢い。
 このたとえ話は、私たちも不信者に負けず、自分に託されたものを有効に用いて未来の備えをなすべきことを、説いたものである。
 「不正の富で自分のために友をつくりなさい」(九)
 は、不正を行なえという意味ではなく、不正に用いられやすい富を有効に善と愛のために用いて、自分のために友をつくれ、という意味である。
 「不正な」とは、終末前の現世を現わす術語で、「この世の」の意味である。この世の富は、不正に用いられることが多い。
 しかしあなたは、それを有効に愛と善のために用いるべきである。そうして、友をたくさんつくっておかなければならない。そうすれば彼らは、あなたを天国で歓迎してくれるであろう。
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29日 旧約・民数記五章
 姦淫を犯したという疑いをかけられた妻のために、姦淫の有無を立証する方法が、ここに語られている(一二〜三一)。
 彼女は幕屋の前で、祭司に渡された特別な水を飲む。そのとき、もし彼女が無罪ならば害を受けず、有罪ならば害を受けた。
 この方法は、人の努力では立証できない場合に限って用いられた。立証は、神ご自身がなされた。
 罪は人には隠せても、神には隠しおおせるものではない。神ご自身が、罪の有無を示されたのである。
 この方法は、姦淫の疑いのある妻の有罪を立証するためにも用いられたが、主眼点はむしろ、貞操を疑われた妻が自分の無罪を立証したいと欲する場合にあった。
姦淫の覚えがないのに貞操を疑われた妻は、自分では無罪を立証する手だてがないから、いつまでも屈辱の中に生きなければならない。それを防ぐために、この方法が語られたのである。
 もしこの方法で、彼女の無罪が立証されれば、彼女は晴れて人々の中を歩くことができたのである。
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30日 旧約・民数記六章
 男または女が、自分を主のものとして特別な誓願を立てる場合、その人は「ナジル人」と呼ばれた。
 「ナジル」は、聖別されたものとか、分離されたものの意味である。氏族名ではなく、特別な奉仕のために、自発的に献身した者たちであった。
 しかし彼らは、世捨て人とはならず、この世の人々の中で暮らした。聖別の期間中、ぶどう酒や強い酒を飲まなかったが、必ずしも禁欲主義者ではなかった。
 またナジル人は、頭髪を切ってはならなかった。長い頭髪は、ナジル人であることの、目に見えるしるしであった。
 ある人は、特定の期間だけでなく、誕生時から終生のナジル人として、神にささげられた。士師サムソン(士師一三・四)、預言者サムエル(一サム一・一一、二八)、バプテスマのヨハネ(ルカ一・一五)などの場合がそれである。
 現代においては、プロテスタントの牧師や宣教師、カトリックの神父やシスターなどが、ナジル人にあたる、と言ってもよいかもしれない。
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31日 新約・ピリピ三章
 パウロは、
 「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです」(一一)
 と言った。パウロの最終的な希望は、世の終わりのキリスト再臨の時、栄光の体に復活させていただくことにあった。
 この望みは、彼の信仰生活の原動力であった。すべて神に従順な者には、世の終わりに栄光の体に復活する、という約束が与えられている。
 それは私たちが魂の全き自由、全き安息、また全き幸福に入る時である。あなたはこの約束をにぎり、その望みを持っているか。
 復活は、私たちの救いの完成する時である。神の救いは、単に魂に対するものではない。最終的には体も救われ、こうして私たちは全存在の救いに到達する。
 パウロは一生をかけて、その復活にあずかるために努力した。自分の力によってではなく、内におられるキリストの御力によって、努力したのである。
 「どうにかして死者の中からの復活に達したい」
 は、彼の魂の叫びであった。私たちも彼と共に、復活をめざして、一心に信仰に励もうではないか。
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