聖書一日一章

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1日 旧約・民数記七章
 幕屋は、出エジプトの第二年の第一月の一日に完成した(出エ四〇・一七)。幕屋には、聖別のしるしとして、油が注がれた(一)。
 族長たちは、幕屋に捧げ物をして、その備品とした。各部族共、ささげ物は全く同じであった。
 これは、どの部族も主の御前に平等であることを示す。また、捧げ物をした順序は、二章の宿営の時の順序と同じであった。
 幕屋の運営は、強制的な税金によってまかなわれたのではなく、民の自主的な捧げ物によってまかなわれた。
 今日も、神の家の運営は、神の民の自主的な捧げ物によってまかなわれている。
 私たちは神の家のために、また神の国のために、何を捧げたか。あなたは真理のために、神の福音のために、何を犠牲にしたか。
 神のみわざは、精神的な、また物質的な捧げ物を通して行なわれる。私たちが捧げることなしに、神のみわざが進むことはない。
 願うだけでは足りない。私たちが、神に与えられた数多くの物の中から心からの捧げ物をすることによって、神は事を進められるのである。
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2日 旧約・民数記八章
 神は、特定の任務のために、特定の者を選ばれる。幕屋の務めのために、神はレビ族の者を選ばれた。
 かつてエジプトで、イスラエル人のすべての初子は神のものと定められた(一七)。その初子の代わりに、神はレビ人をご自分のものとされたのである(一八)。
 レビ人は、「二五歳以上」になると、幕屋の務めにあたった(二四)。四章ではこれは、「三〇歳以上」となっている。おそらく二五歳〜三〇歳までは、見習い期間だったのであろう。
 神は幕屋の務めのために、レビ族を選ばれた。一方、イスラエル民族の王家としては、神はユダ族を選ばれる。ダビデ王やソロモン王は、ユダ族であった。またイエス・キリストも、肉においてはユダ族出身である。
 神は今日も、特定の任務のために、特定の者を選ばれる。ある者を牧師、ある者を宣教師、またある者をこの世の職の中で栄光を現わす者、ある者を家庭の中で栄光を現わす者、ある者を特別な境遇の中で栄光を現わす者に、選ばれる。
 大切なのは、神から自分に与えられた役割を全うすることである。
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3日 新約・ルカ一七章
 十人のらい病人がいやされたのに、神をほめたたえイエスに感謝するために帰ってきた人は、一人だけであった。
 しかも彼は、イスラエル人ではなく、ふだん人々に不信の徒と毛嫌いされていたサマリヤ人であった。イエスは、
 「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻ってきた者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」(一七〜一八)
 と嘆かれた。
 今日も、神から大きな恵みを受けたとき、喜ぶだけで感謝しない人は多い。いやされたあのサマリヤ人は、自分の足で戻ってきて、イエスに感謝をささげ、神をあがめた。感謝には行動が伴うのである。
 今日、自分を顧みて、感謝がないばかりに主イエスを悲しませていることがないか、吟味しよう。
 私たちは、神に対しても人に対しても、感謝を忘れてはならない。感謝は、感謝する人と感謝される人とを共に幸福にする。つぶやきには益がないが、感謝は人を永続的に幸福にするのである。
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4日 旧約・民数記九章
 かつて一年前の第一月の一四日に、イスラエル民族はエジプトの地で、過越のいけにえをささげた。
 その日がめぐって来ようとしていたとき、主は再び過越のいけにえについて語られた(二)。こうして出エジプトの出来事は、毎年毎年覚えられることとなった。
 幕屋の上には、昼は雲がおおい、夜はそれは火のように見えた。雲が幕屋を離れて上ると、すぐそのあとでイスラエル人はいつも旅だった。雲が幕屋の上にとどまっていると、彼らは宿営していた(一八)。
 旅立つも、とどまるも、主の導き次第であった。それは旧約時代から新約時代にわたり、すべての聖徒たちに共通することである。
 かつてアブラハムは、主の導きにより、生まれ故郷を出てカナンの地に向かった(創世一二・一)。また使徒パウロは、あるとき東に伝道に行こうとするとイエスの御霊に禁じられ、西へ伝道に行き、最初のヨーロッパ伝道をなした(使徒一六・七)。
 私たちはつねに、聖霊の雲のご臨在のもとを歩まなければならない。旅立つも、とどまるも、聖霊の雲の行方次第である。
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5日 旧約・民数記一〇章
 モーセの妻チッポラは、異邦のミデヤン人であり、その父ホバブもミデヤン人であったが、イスラエルの民に同行していた(二九)。
 このことから、イスラエルの民は、異邦人排斥をしたわけではないことがわかる。選民意識を持つことは、必ずしも異邦人排斥を意味しない。
 ヤハウェ神に従う者は誰でも、たとえ異邦人であれ、イスラエルの民と同様、同胞の者として扱われたのである。
 しかし当時の人々にとって、故郷を離れることは、心情的に落ち着かないことであった。それでミデヤン人ホバブは、故郷に帰りたいと言った。確かにそれは、彼の自由であった。
 それに対しモーセは、主と共にある幸福を共に分かち合いたいと言って、共に行ってくれるようホバブを説得した。ホバブはそのようにした。
 私たちも、神の幸福にあずかることを喜びとする者を、誰であれ、みな迎え入れるべきである。私たちは神の国の祝宴に、あらゆる人を招かねばならない。
 神の国の幸福は、分かち合えば分かち合うほど、大きくなる性質を持っている。
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6日 新約・ピリピ四章
 パウロは、
 「私は貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っている」(一二)
 と語った。
 世の中には、富におる道を知らない富豪が大勢いる。また、貧しさにおる道を知らない貧民が大勢いる。
 富を自分の欲得のために所有・使用するだけで、神と隣人のために用いない富豪は、富を浪費している。そのような人は、富におる道を知らない。
 一方、貧しい生活をしていても、富を得ることと、それを自分の欲得のために使用することだけを考えている人は、貧しさにおる道を知らない。富豪をねたんだり、恨んだりする人も同様である。
 貧しくて、貧しさにおる道を知らない人は、その貧しさのために滅び、富んでいて、富におる道を知らない人は、その富のために滅びる。
 富んでいるか、貧しいかが問題なのではない。大切なのは、たとえ貧しくても、満ち足りる道を知ることである。また富んでいるならば、その富の正しい用い方を知ることである。
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7日 旧約・民数記一一章
 かつてイスラエル民族はエジプトで奴隷であったが、エジプトは富んだ国であったので、奴隷でさえも豊かな食物にあずかっていた。
 彼らは荒野で、エジプトの食物を慕い、不平を鳴らした(四)。多くの者が、マナだけではいやだと言って、肉を欲しがって泣いた。
 肉なら、やがてカナンの地に行けば、好きなだけ食べられるはずである。しかし彼らは、それまでのしばらくのあいだ耐える、ということを知らなかった。わがままで、欲にかられていたのである。
 主は、彼らにうずらを与えることとされた。ただその前に、七〇人の長老に預言の霊を送って、民のために預言をさせられた(二五)。
 その預言は、主につぶやくことなく、欲にかられることなく、与えられたものを感謝しながら頂くように、呼びかける内容であったろう。
 そののち、うずらが与えられた。民の中には、それにすぐさま動物のように食いついた者が、少なくなかった。主は、彼らの欲望を満たしたうえで、彼らを殺された(三三)。それは、彼らが預言の言葉に聞き従わず、感謝の祈りをささげることもなく、ただ欲望にかられて食らいついたからであろう。
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8日 旧約・民数記一二章
 「モーセという人は、地上の誰にもまさって、非常に謙遜であった」(三)。
 真の偉人は、決して尊大ではなく、むしろ非常に謙遜である。モーセはその模範的人物であった。彼は、自分の姉ミリヤムと兄アロンに非難された時でさえ、自己弁護をせず、黙ってその裁定を主にゆだねた。
 その後ミリヤムだけがらい病になったことから見ると、モーセ非難の主謀者はミリヤムで、アロンはそそのかされてついてきただけなのだろう。
 ミリヤムは表面上、モーセのめとっていたクシュ人の妻のことで、モーセを責めた(一)。しかしそれは口実で、彼女の真意はむしろ、モーセだけが預言者でいることに、ねたみを起こしたことにある(二)。
 ミリヤムは、自分もモーセのような預言者になりたかったのである。
 主は、ミリヤムの非難が不当なものであることを示し、懲らしめのために彼女を七日間らい病にされた。しかしモーセは、祈って言った。
 「神よ。どうか彼女をいやしてください」(一三)。
 モーセは、自分を非難した者のために、とりなしている。ここに彼の真の謙遜さがある。
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9日 新約・ルカ一八章
 主イエスは、
 「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」(一七)
 と言われた。「子どものように受け入れる」とは、「素直に受け入れる」ということである。
 言い替えれば、「教えられやすい心」(teachable heart)をもって受け入れることだ。素直さや、教えられやすい心は、どんな大人になっても大切なことである。
 真理が示されれば、いつでもひざまずいてそれを受け入れ、従っていく。そうした素直さが、たとえ老人になっても必要なのである。
 神殿の遠くで胸をたたいて祈ったあの取税人(一三)、またエリコの町で大声でイエスに救いを求めたあの盲人(三五)は、そのような素直さを心に持っていた。彼らは、自分の罪を認める素直さ、また神に救いを求める素直さを、持っていたのである。
 信仰に入る者と、入らない者との違いは、単にこの素直さにあることが多い。信仰とは素直さである。それはほんのわずかの差であるが、決定的な違いをもたらす。
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10日 旧約・民数記一三章
 これから入ろうとしているカナンの地を探るために、一二人の斥候(スパイ)が遣わされた。彼らはみな、各部族の族長で、イスラエルの主だった人たちであった。
 四〇日の偵察期間を終えて彼らが戻ってきたとき、彼らはカナンが潤った良い地であることを、民に告げた。しかし、そこには背の高く、多くの武器を持つ人々が、堅固な城壁に住んでいる。
 だからそこを占領するのは無理だと、斥候たちのほとんどが弱気を吐いた。しかし、ユダ族のカレブは違っていた。カレブは、「占領できる」と言った(三〇)。
 カレブと他の斥候たちの違いは、主のみわざを覚えているか否かである。他の斥候たちは、自分たちの人間的な力だけを念頭に置いていた。しかしカレブは、自分たちと共におられる神に、より頼んでいた。
 私たちは思い出さなければならない。イスラエルの民をエジプトの強い手から脱出させたのは、誰であったか。また、カナンの地に行けと命じられたのは、誰であったか。
 それは主である。また、カナンの地を探るために斥候を遣わせと命じられたのも、主なのである(一)。
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11日 旧約・民数記一四章
 主を信頼してカナンの地に行くべきだと主張した人は、ユダ族のカレブと、エフライム族のヨシュアだけであった(六)。
 他の者たちは、主への信仰を見せず、かえってカレブとヨシュアを殺そうとした。主は怒って民を絶ち滅ぼすと言われたが、モーセの知恵あるとりなしによって、民は絶滅をまぬがれた(二〇)。
 ただし、主は、反抗した世代はカナンの地に入れないと言われた。結局、大人でカナンの地に入ることになるのは、カレブとヨシュアだけである。
 あとの大人たちは、みな荒野四〇年の放浪生活の中で死に絶えることになる。その間に子どもたちが成長し、その子どもたちの世代がカナンに入るのである(三一)。
 出エジプトをした民は、エジプトでの奴隷生活が身にしみこみ、いつも弱音とつぶやきを吐く人々であった。しかしやがてカナンの地に入る人々は、カレブとヨシュア、および荒野の厳しい環境で生まれ育った、たくましい人々だけである。
 だから、出エジプトをした民と、カナンに入る民とは、カレブとヨシュアを除いて、世代が全く交代するのである。
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12日 新約・コロサイ一章
 コロサイ人への手紙は、使徒パウロの獄中書簡の一つであり、コロサイ教会に宛てて書かれた。
 「この御子のうちにあって、私たちは贖い、すなわち罪の赦しを受けています」(一四)。
 「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(二七)。
 キリスト者は、キリストの内におり、キリストはキリスト者の内におられる。こうしてキリストとキリスト者とは、一体である。
 この一体性が、救いなのだ。私たちは、信仰と聖霊を通してキリストと一体化することにより、キリストの永遠の命、愛、喜び、平安、幸福、義、聖潔と一体化する。
 キリストは、「神の奥義」(二六)である。私たちは、キリストの救いについて思いを巡らすとき、その奥深さと偉大さに、圧倒される思いになる。
 仏教信者から転向してキリスト信者になったある人が、仏教は「奥に入れば入るほど、中がぼやけてくる」と語っていた。
 しかしキリスト教は、奥に入れば入るほど、はっきりと明るいものになり、生命の光と暖かさを感じるようになるのである。
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13日 旧約・民数記一五章
 「主の前には、あなたがたも在留異国人も同じである。あなたがたにも、あなたがたのところにいる在留異国人にも、同一の教え、同一のさばきでなければならない」(一六)
 民の中には、在留異国人も少なからずいた。彼らはイスラエルと主を慕って、一緒についてきたのである。
 イスラエル人と在留異国人は、平等とみなされた。彼らは、主の前に一つの会衆と見られた。これは、とくに古代社会においては驚くべきことである。
 たとえば、ローマ時代において、十字架刑は決してローマ市民には適用されなかった。十字架刑は、恐ろしい刑であるので、異邦人の極悪人にのみ適用されたのである。
 法律を自国民と異邦人とで区別するのは、古代社会では当然のことであった。いや、現代社会でもそうではないだろうか。
 日本でも、外国人は指紋押捺を強要され、また権利の上でかなりの制限を受けている。
 しかしイスラエルにおいては、自国民と在留異国人とは、全く兄弟のように生活したのである。つまり当時から、血縁的つながりよりも、主にある信仰による一致ということが、重要視されていたのである。
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14日 旧約・民数記一六章
 「彼(アロン)が、死んだ者たちと生きている者たちとの間に立ったとき、神罰はやんだ」(四八)。
 神はイスラエルの民を滅ぼそうとされた。それは民が、コラたちの出来事を見たにもかかわらず、なお悔い改めなかったからである(四一)。
 地が開いてコラたちを飲み込んだのは、主がモーセとアロンを指導者として立てておられることの、証明であった(三〇)。
 にもかかわらず、民はモーセとアロンに従わず、かえって二人を非難した。まことにイスラエルの民は、「うなじのこわい民」であった。
 主は怒って、民に神罰を下し始められた。おそらく、何らかの疫病を下されたのであろう。
 しかしアロンが火皿を持ち、死んだ者と生きている者との間に立つと、神罰はやんだ。彼は神と人の間の破れ口に立ったのだ。
 これは、イエス・キリストの贖いの予型でもある。イエスは、神と人の間で十字架にかかられ、破れ口に立ち、神罰を止めてくださった。
 四七節の「贖いをした」は、「おおう」という言葉である。アロンの行為は、イスラエルの民の罪をおおい、キリストのみわざは全人類の罪をおおったのである。
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15日 新約・ルカ一九章
 主イエスが取税人ザアカイの家に入られた時、人々は、
 「あの方は罪人のところに行って客となられた」(七)
 と言った。ザアカイを「罪人」呼ばわりしたのである。人々はザアカイの悪い面に着目した。
 しかしイエスはザアカイについて、
 「この人もアブラハムの子なのですから」(九)
 と言われた。イエスは、ザアカイの良い面に着目されたのである。私たちも、人の悪い面よりも良い面を先に思うことが大切である。
 あなたの近くに、品行の悪い、自分と合わない人間がいるであろうか。確かに、誰にでも悪いところはある。
 しかし、誰にでも良い面が必ずある。その良い面を、先に思わなければならない。
 「あの人も、神に愛されているのだから」
 「あの人も、神に造られた人なのだから」
 と、良い面を先に思うのである。
 こうした態度は、やがてその人から、良い面を引き出すことになるだろう。良い面を見つめていると、良い面が大きく出てくるのである。
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16日 旧約・民数記一七章
 民がこれ以上、モーセとアロンに逆らってつぶやくことのないよう、主は一つのしるしを与えられた。
 イスラエル人は普段の生活から杖を用いる習慣だったので、各族長の杖が、幕屋の契約の箱(あかしの箱)の前に持ってこられた。
 神は、ご自身がアロンを選んでおられることの確証とするため、アロンの杖だけに芽をふかせ、つぼみと、花実をつけられた(八)。これは、アロンの選びを民に知らせ、民がつぶやいて死ぬことのないようにするための、神からのしるしであった。
 イスラエルの民は、これまで一〇回以上神につぶやき、不平をもらしてきた。しかし、これはイスラエルの民だけのことであろうか。
 私たちも、しばしば神に対してつぶやいていないか。あなたは就寝の時、一日を振り返って何度神に感謝したか、また何度神につぶやいたかを、思い起こしてみるべきである。
 感謝した回数と、つぶやいた回数と、一体どちらが多いか。神はなんと忍耐深いかたであろう。まことに、
 「ヤハウェは、あわれみ深く、情け深い神、怒るにおそく、恵みとまことに富むかた」(出エ三四・六)
 である。
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17日 旧約・民数記一八章
 民は、地の産物と家畜の中から常に一〇分の一を、主と幕屋のために捧げた(二六、レビ二七・三〇)。その捧げ物は、「最良の」ものでなければならなかった(一二)。
 祭司とレビ人たちは、幕屋に捧げられたその捧げ物を、自分たちで食べてよかった。それは彼らの労への報酬とされた。
 しかし祭司とレビ人たちも、自分たちに与えられたものの中から一〇分の一を、主にささげた。つまり、民によって捧げられた一〇分の一の一〇分の一を、主への捧げ物としたのである(二六)。
 その捧げ物も、「最良の部分」でなければならなかった(三二)。
 私たちも、主への捧げ物をするとき、自分に与えられたものの中から、最良のものを捧げるべきである。
 神はかつて、ご自分の所有の中から、最良のものを私たちに与えられた。御子イエス・キリストである。だから私たちも、神に、最良のものを捧げなければならない。
 私たちは、自分の人生を神の御前に最良のものにすることによって、それを神に捧げる。最良の人生こそ、最良の捧げ物である。
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18日 新約・コロサイ二章
 十字架は、私たちの罪に対する刑罰の終わりである。神は、私たちを罪人として責めたてる債務証書に、無効を意味する大きなバツ印を書いて、それを十字架に釘づけにされたのである(一四)。
 神の側では、あなたの罪の赦しはすでに成就している。だから信仰者は、それを心に受け入れて、罪の赦しの中を歩んでいく。
 神の側の事実を、自分の事実として受け入れること、それが信仰である。
 十字架はまた、私たちの罪の終わりである。私たちはキリストと共に十字架につけられ、古き人は死んだ。
 神の側では、このことはすでに成就している。だから信仰者は、それを自分の事実として受け入れて、歩んでいかなければならない。罪の人は死んだのである。
 「彼にあって歩みなさい」(六)
 私たちは、キリストにあって歩み、キリストとの一体性を増していかなければならない。一体性が増せば増すほど、あなたは彼の内的事実を自分のものとするだろう。
 キリストの愛、聖潔、喜び、平安、幸福を、あなたは着るようになる。あなたはもはや新しい人なのである。
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19日 旧約・民数記一九章
 死体に触れることは、「汚れ」とみなされた。
 これは実際の汚れではなく、宗教的・儀式的な汚れである。日本にも古くから、死体に触れることを「汚れ」と考える風習がある。
 イスラエルでは、宗教的な汚れを清めるために、「汚れを清める水」というものが用いられた(一二)。これは、傷がなく、くびきを置かれたことのない完全な赤い雌牛をほふり、その灰を水にいれてつくったものである(九)。
 その灰水を、汚れた人にかけると、その人はきよめられるとされた。
 この風習は、人々をキリストに導く「養育係」の一つであった。ヘブル九・一三〜一四に、こう記されている。
 「もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を、汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて、死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう」。
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20日 旧約・民数記二〇章
 ここでモーセは、大きな失敗をしてしまった。彼は神を聖なる者とせず、軽率な言葉を吐いてしまったのである。
 モーセは、アロンと共に、たまったうっぷんを晴らすかのように、民にこう言い放った。
 「逆らう者たちよ。この岩から、私たちがあなたがたために水を出さなければならないのか」(一〇)。
 この言葉は、自分のことを表すだけで、神の聖と力を表していない。それは、民が背いても背いても忍ぶ神の御心を表していない。
 詩篇にはこう記されている。
 「モーセは、彼ら(民)のために、わざわいをこうむった。彼らが主の心に逆らったとき、彼が軽率なことを口にしたからである」(詩篇一〇六・三二〜三三)。
 モーセの言葉は、神の御心を傷つけた。モーセはこの失敗のために、約束の地に入れなくなった。
 私たちも、自分の言葉に気をつけなければならない。とくに、神のみわざに接したようなときは、必ず、
 「私がそれをしたのではありません。主がなされたのです。ほむべきは主です」
 と言わなければならない。主に栄光を帰すことを忘れてはならない。
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21日 新約・ルカ二〇章
 「次の世に入るのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしいと認められる人」(三五)は、さいわいである。
 かつて使徒パウロも、
 「どうにかして死者の中からの復活に達したい」(ピリ三・一一)
 と言った。復活は、私たちの最終的な望みである。
 神はかつて、ご自身を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれた。神は生きている者の神であり、彼らは来たるべき日によみがえるのである。
 神は今日、あなたの神であられるか。そう、あなたの神であられる。
 神があなたの神であられるなら、来たるべき日にあなたは、他のすべての聖徒たちと共に、神の国に復活する。地上の至福の国である千年王国、および新天新地における生活は、あなたのものである。
 そのとき、あなたはもはや「死ぬことができない」(三六)。あなたは神の子として、永遠の生命の体を持って生きるのである。
そこには現世の苦しみから離れた新しい幸福の世界と、新しい人生とが待っている。
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22日 旧約・民数記二一章
 イスラエルの民が罪を犯したとき、神は彼らに「燃える蛇」を送られた(六)。「燃える蛇」とは、かまれた時の焼け付くような痛みと、激しい毒のゆえに、そう呼ばれたのであろう。
 モーセが神に祈ると、神は彼に、蛇の像をつくってそれを旗ざおの上につけるよう、命じられた。モーセは青銅で蛇の像をつくり、さおの上にかかげた。その像を仰ぎ見た者は、みな生きた(九)。
 これは、像に魔術的な力があったからではない。「それを仰ぎ見れば、生きる」という神のお言葉があったから、仰ぎ見ることに力があったのである。仰ぎ見るとは、信仰である。
 これは、十字架の予型である。キリストは、
 「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子(キリスト)もまた上げられなければなりません」(ヨハ三・一四)
 と言われた。キリストは、人々が仰ぎ見て救われるために、十字架に上げられたのである。
 仰ぎ見ることは、誰にでも出来ることである。老若男女、また貴賎の別なく、どこの国の人も出来ることである。神は仰ぎ見ることを、救いの方法と定められたのである。
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23日 旧約・民数記二二章
 バラムは、異邦人であった。しかし神は、このとき彼を、ご自分の預言者として用いようとされた。
 神はバラムを試すために、初めに使いが来たとき、彼を一緒に行かせなかった(一二)。バラムは行かず、このテストは合格した。
 二度目のテストは、次に使いが来たときであった。このとき神はバラムに、「この者たちがあなたを招きに来たのなら、立って彼らと共に行け」と言われた。そして「わたしがあなたに告げることだけを行なえ」、とも命じられた(二〇)。
 しかし、「共に行け」はバラムの心に残ったが、「あなたに告げることだけを行なえ」は、あまり彼の心に残らなかったようである。
 バラムが翌朝出かけると、神の怒りが燃え上がった。それは、神のみこころだけを行なう意志が彼の心から失せて、バラクの手厚いもてなしに期待する気持ちだけがわきあがっていたからである。
 このことは、主の使いがバラムに言った次の言葉から察せられる。「あなたの道が、わたしとは反対に向いていたからだ」(三二)。
 バラムの心は、神のご命令と反対の方向を向いていたのである。
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24日 新約・コロサイ三章
 聖書は、キリストを信じる私たちには、永遠の命が与えられていると言っている。その永遠の命はどこにあるのか。
 それは天にあって「キリストと共に、神のうちに隠されている」(三)。キリストが、「私たちのいのち」なのである。
 だから、私たちの命であるキリストが現われると、私たちもキリストと共に、栄光の体を着せられて復活して出現する(四)。
 つまり、キリストの再臨なしには、私たちの復活もない。また、私たちの復活は、キリスト再臨の時に起こることがわかる。
 だからキリストの再臨は、私たちにとって大いなる希望である。それは私たちの救いの完成する時、永遠の命が開花する時、また私たちの幸福が完成する時である。
 そのような幸福の完成の時が未来に備えられていることは、何という恵みであろう。その時の幸福に比べれば、現在のしばしの苦しみや試練は、取るに足りない。
 私たちの人生は旅である。その旅において、私たちはしばしば苦しみに遭遇する。しかしやがて故郷に帰れば、そこには輝かしい祝福が待っているのである。
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25日 旧約・民数記二三章
 バラムは、
 「主が私の口に置かれること、それを私は忠実に語らなければなりません」(一二)
 と言った。前章においてバラムは、いい加減な気持ちでバラクのもとに行こうとして主の使いから叱責を受けたが、今は悔い改めて、真の預言者になっていた。
 もしバラムが、あのとき叱責を受けなかったとしたら、彼は偽りの預言をしていたかもしれない。しかし、彼はいかなるプレッシャーのもとでも、自分の口に置かれる主の言葉だけを語る者となっていた。
 私たちは、ときおり主からの叱責を受けることがある。しかし大切なのは、叱責を受けた時、それをどう受けとめ、また、どうその後の行動に現わすかである。
 バラムは叱責を受けて、
 「私は罪を犯しました」(二二・三四)
 と言った。そして悔い改め、主のご命令に全く従ったのである。
 一九世紀アメリカの偉大な伝道者、「リバイバリスト」とも呼ばれたチャールズ・フィニーは、
 「信仰の本質は服従である」
 と言っている。御旨に従うことに、信仰の本質があるのである。
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26日 旧約・民数記二四章
 バラムは預言して言った。
 「あなた(イスラエル)を祝福する者は祝福され、あなたをのろう者はのろわれる」(九)。
 ユダヤ民族は、つねに反ユダヤ主義と、親ユダヤ主義の間にはさまれて生き続けてきた。
 かつてドイツのヒトラーは、徹底的な反ユダヤ主義をかかげ、ユダヤ民族をのろい、ついには六〇〇万人のユダヤ人を虐殺した。
 しかしヒトラーはその後どうなったか。彼は無惨な死を遂げ、暴君として人々に記憶されただけである。
 またヒトラーの建設しようとした「ドイツ第三帝国」は、どうなったか。第三帝国は連合軍に破れ、夢と化したのである。
 ユダヤ民族をのろう者は、のろわれる。一方、ユダヤ民族を祝福する者は祝福される。
 ユダヤ民族は、今日も神のご摂理のもとにある。キリスト教会は、ユダヤ民族を祝福すべきである。ユダヤ民族を愛し、その救いのために祈るべきである。
 かつて中世のカトリック教会は、「主イエスを殺したのはユダヤ人だ」と言って、ユダヤ人を迫害した。今日のキリスト教会は、そのような過ちを犯してはならない。
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27日 新約・ルカ二一章
 この貧しいやもめは、「乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れた」(四)
 という。しかし彼女がなぜ、生活費の全部を投げ入れたかは、記されていない。彼女はよほどの思いがあって、それを投げ入れたのであろう。
 彼女は生活費のうちから「多く」を投げ入れたのではない。「全部」を投げ入れたのである。普通に見れば、無謀とも見える行為である。
 そのあと彼女は、一体どのようにして生活するつもりなのだろうか。
 しかしそのような疑問は、愚問であるに違いない。神は彼女を豊かに祝福し、彼女の悩みを解決し、さらに生活も支えられたに違いないからである。
 じつは、イエス・キリストが彼女のこの行為を弟子たちに告げられた背景には、キリストがご自身の命を投げ出す十字架の時がもう数日後に迫っていた、ということがある。
 キリストはあの十字架上で、ご自分の持つすべてを投げ出されたのである――私たちのために。
 その十字架が迫っていたこの時、生活費のすべてを投げ入れたあの貧しいやもめの姿は、キリストの御心に、強い印象を与えたに違いない。
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28日 旧約・民数記二五章
 エジプトで生まれ育ったイスラエル人は、エジプトにいた時に身についたみだらな風習から、なかなか抜けきれなかった。
 彼らは主のみわざの数々を見ながら、この時もまだ、非常に低い道徳状態にとどまっていた。
 一方、イスラエルの民が大勢であるのを見たモアブ人は、自分の国がおびやかされると心配し、ミデヤン人と組んで、イスラエル人を打倒しようとしていた(二二・三〜四)。
 彼らはバラムにイスラエルをのろわせることには失敗したが、別の「たくらみ」をなして、イスラエルをおとしいれようとした(一八)。それはイスラエル人に罪を犯させ、堕落させて、神の怒りを招こうというものであった。
 イスラエル人は、まんまとその計略にはまった。彼らは罪を犯し、神罰(疫病か)が下って、二万四千人が死んだ。
 しかしピネハスの行為によって、その神罰もやみ、イスラエルは絶滅をまぬがれた。
 ピネハスの行為は、個人的な悪意や嫉妬によるものではなく、神とイスラエルのためになしたものであった。彼の行為は、燃え広がる神罰を消火した。
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29日 旧約・民数記二六章
 これは、四〇年に及んだ荒野の放浪生活も、終わりに近い頃のことである。
 かつて荒野生活が始まったばかりの時、イスラエル民族は人口調査を行なった。その結果は、二〇歳以上の男子だけで約六〇万人であった。(民数一章)。
 そして荒野生活が終わろうとしているこのとき、主は再び人口調査を命じられた。その結果はやはり約六〇万人で、ほとんど変化がなかった(五一)。
 しかしその六〇万人は、世代が全く交代していた。初めの六〇万人は、ヨシュアとカレブを除いてすべての者が、荒野生活の中で死に絶えていた。今や荒野で生まれ育った人々が、後の六〇万人を形成していたのである。
 初めの六〇万人は、エジプトで生まれ育った者たちで、わがままで強情な民であった。しかし、後の六〇万人は、荒野で育ったたくましい人々で、主に従うことを学んだ人々であった。
 アロンはすでに死に、モーセも、カナンの地を目前にして死のうとしていた。指導者の地位は、やがてヨシュアにゆずられ、民はカナンの地に入ろうとしていた。
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30日 新約・コロサイ四章
 「あなたがたの言葉が、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい」(六)。
 塩は不思議なものである。塩自体は辛いものだが、適度に料理に入れると、味が引き立ち、甘ささえ出てくる。
 また、塩には腐敗防止作用がある。塩をきかせた食物は、なかなか腐らない。旧約時代には、神への供え物には必ず塩が添えられた。私たちの話す言葉にも、そうした塩的要素を持たせるべきである。
 お世辞を言い、または人の耳に聞こえのいい言葉ばかり話す人は、言葉に砂糖ばかり入れている人である。
 しかし私たちの言葉は、適度な塩味をきかせるべきである。その「塩」とは、とくに「真実」をいう。
 真実は、ときに辛いものだが、消化されると甘いものになる。またそれには、腐敗防止作用がある。真実が生きているところに、腐敗は起こらない。
 私たちの言葉も、行動も、真実によって味付けされるべきである。言葉には、人のまごころと、神への敬虔がこもっていなければならない。
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