聖書一日一章

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1日 新約・黙示録一四章
 本章は、患難時代末期のクライマックスに入る前に、そこで起こることを示した予告的幻である。
 「一四万四千人」の額には、神の小羊キリストの名と、小羊の父の名とが記してあった(一)。彼らはクリスチャンなのである。
 「一四万四千人」は、「あらゆる民族からなる誰にも数えきれないほど大勢のクリスチャンたち」(七・九)の象徴的姿であろう。彼らは患難時代の末期に天に携挙され、「地上から贖われる」(三)。
 彼らは「初穂」であると言われているが(四)、これは彼らの後にも他に携挙される人々がいるという意味ではない。「初穂」とは、神および小羊に捧げられる「被造物の初穂」の意味である(ヤコ一・一八)。
 また彼らは「女によって汚されたことのない童貞」と言われている。これは彼らがみな独身男性だ、と言う意味ではない。聖書は、人の独身を讃美していない。
 「女」は、悪の都=淫婦「大バビロン」のことである(一八・三)。さらに、聖書は一貫して偶像崇拝を淫行にたとえている。
 天に携挙される者たちは、神以外のものを礼拝しない純潔な者たちなのである。
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2日 旧約・第二歴代誌二一章
 南王国ユダの王ヨラムは、自分の兄弟たちや、王国のつかさたちを殺した(四)。彼らが自分の地位をおびやかす、と思ったのであろう。
 邪悪な者は、他を排除することによって自分の地位を守ろうとする。しかし健全な者は、他と協力し、力を合わせて事業を進めようとする。
 ヨラムは、悪と偶像を愛した。そのため、主は彼を捨て、彼に重い審判を下された。ヨラムの最後は悲惨なものであった。
 民も、ヨラムの死を悲しまなかった。彼は「人々に愛されることなく世を去った」(二〇)。
神と人を愛する者は、神と人から愛される。しかし、神も人も愛さない者は、神と人から捨てられる。
 誰にも愛されることなく世を去ることほど、悲しいことはない。このことが、ヨラムに対する最大の裁きだったと言ってもよい。
 ヨラムのもとには、預言者エリヤから、神の審判を告げる書状が届いた(一二)。しかしエリヤは、ヨラムが王になる以前にすでに昇天していた(二列王三・一一)。
 とすれば、この書状は、ヨラムが王になる前にエリヤが書き残し、弟子に渡しておいた預言ということになる。
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3日 旧約・第二歴代誌二二章
 前章において私たちは、ユダ国の王ヨラムが、兄弟たちを皆殺しにしてしまったことを見た。王家として残ったのは、一人だけだった。
 また本章において、アラビヤ人らの略奪隊が攻めてきたとき、ユダの王家の年長の子らは皆殺しにされ、ただ末子アハズヤだけが生き残った(一)。
 その後、アハズヤが死んだとき、彼の子らは毒婦アタルヤによって皆殺しにされ、ただ幼いヨアシュだけが生き残った(一一)。
 このように、ダビデ王の血統は、非常にか細い糸のようにつながれているだけであった。それは、いつ切れてもおかしくない状態だったのである。
 しかし、もしこれが切れれば、かつて神がダビデに与えられた約束は実現しないことになる。すなわち、神はダビデに言われた。
 「あなたの家とあなたの王国は、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ」(二サム七・一六)。
 この御約束は、やがてダビデの子孫からキリストがお生まれになることによって、究極的成就を見る。このために、神はダビデの血統を保たれたのである。
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4日 新約・黙示録一五章
 患難時代は、「最後の七つの災害」(一)によって、クライマックスを迎える。
 この七つの災害は、次章において「神の激しい怒りの七つの鉢」の幻として、具体的に示されるものである。先に述べたように七つの鉢は、第七のラッパの「後に来る」のではなく、第七のラッパの幻の内容の一部である。
 七つの鉢の災害は、「神の激しい怒り」と呼ばれている。これは明らかに、神による審判として世に下される。
 患難時代に世界は、悪の勢力が増大し、未曾有の邪悪さに包まれる。しかしその最後に、神の決定的な裁きが下されるのである。
 天にいるクリスチャンたちは、そのとき神をほめたたえ、
 「あなたの正しい裁きが明らかにされた」(四)
 と言った。真に「正しい裁き」ができるのは、神の他にはおられない。
 人間にはそれはできない。地上の司法制度も完全ではない。しかしその日、真の正義が実現する。
 「悪者どもが青草の様に、もえいでようと、不法を行なう者どもが皆栄えようと、それは彼らが永遠に滅ぼされるためです」(詩篇九二・七)。
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5日 旧約・第二歴代誌二三章
 「六年間」、祭司エホヤダは妻エホシェバと共に、ダビデの子孫のただ一人の生き残りヨアシュを隠していた(二二・一二)。
 そして「第七年目に」(一)、エホヤダは奮い立って毒婦アタルヤを倒し、ヨアシュを王とした。また偶像を破壊し、主の律法による礼拝制度を回復し、主の宮を清めた。
 このように、祭司エホヤダによる改革は単なる政治上のものではなく、宗教的な革命でもあった。こうして、王国は平和と繁栄を回復した。
 このことは、神のご経綸(支配の方策)に関して予型的に見ても興味深い。すなわち、アダムとエバの堕落以来、この世はサタンの支配下にある。
 しかしその支配は、やがて神が、サタンと毒婦「大バビロン」を倒し、御子キリストを王として立てられる時に終わりを告げる。このキリストは、初来の時に地上に来られた三三年間半を除けば、人類の歴史の「約六千年」にわたって天に隠されている。
 しかし「第七千年期」に入るとき、神はキリストを王としてこの世に君臨させ、地上に「千年王国」と呼ばれる平和と繁栄の時代をもたらされるのである。
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6日 旧約・第二歴代誌二四章
 祭司エホヤダは、「一三〇歳」まで生きた(一五)。
 この時代に人間は一二〇歳を越えて生きることはほとんどなかったから、これは特別なものであった。神は、義人エホヤダを少しでも長生きさせ、ヨアシュ王の国に恵みを施こそうとされたに違いない。
 しかし、エホヤダがいつまでも生きられるわけではない。エホヤダの死後、ヨアシュ王は堕落した。
 ヨアシュは、悔改めを迫った預言者ゼカリヤを、陰謀によって殺した。しかもその殺人を、聖なる「主の宮の庭」において行なった(二一)。
 預言者ゼカリヤの父はバラキヤで、祭司エホヤダは祖父であったと思われる。ゼカリヤの死について、後にイエスはユダヤ人に言われた。
 「わたしが預言者、知者、律法学者たちを遣わすと、おまえたちはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、またある者を会堂でむち打ち、町から町へと迫害していくのです。
 それは義人アベルの血からこのかた、聖所と祭壇との間で殺されたバラキヤの子ザカリヤ(ゼカリヤのこと)の血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです」(マタ二三・三四〜三五)。
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7日 新約・黙示録一六章
 災害が地に及ぶが、「獣」と呼ばれる暴君や人々は、神に対して汚し事を言う。彼らは悔い改めて神をあがめようとはしない。それどころか、神に怒りを向ける。
 「獣」は、諸国の王たちを扇動し、軍隊をイスラエル北方にある広大な草原「ハルマゲドン」に集結させる(一六)。それは、患難時代のもう一つの悪の勢力「大バビロン」と戦い、征服するためである。
 「あの獣は、その淫婦(大バビロン)を憎み、彼女を荒廃させ・・・・彼女を火で焼き尽くすようになります」(一七・一六)。
 「大バビロン」は昔のローマ帝国のことだ、と言う注解者もいるが、これは違う。黙示録は「大バビロン」を、終末における大きな都、巨大な悪の勢力として描いている。
 残念なことだが、この「大バビロン」は、じつは終末の時代のエルサレムであると思われる。なぜなら黙示録一一・八に、
 「(二人の預言者の)死体は・・・・大きな都の大通りにさらされる。彼らの主(キリスト)も、その都で十字架につけられたのである」
 とある。終末の時代に聖なる都エルサレムは、悪の勢力にのっとられ、邪悪な都と化すのである。
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8日 旧約・第二歴代誌二五章
 南王国ユダのアマツヤ王は、北王国イスラエル(エフライムともいう)から、銀一〇〇タラントの大金を払って一〇万人の兵士をやとった。
 しかしそんな時に、神は北王国の人々とは共におられない、との預言者の言葉があった。アマツヤ王はやむなくそれに従い、北王国の兵士たちを返して、自分たちだけで戦いにのぞんだ。神は彼に勝利をお与えになった。
 しかし、一〇〇タラントの金を無駄にしたとの思いは、アマツヤの胸中からぬけなかったようである。彼は戦利品として、敵陣から、きらびやかな偶像を持ち帰った。
 偶像は、たいてい金銀宝石をちりばめており、欲深い者には価値あるものに見える。金に対する彼の執着は、彼に罪を犯させた。
 欲に目がくらんだ者は、霊的にも暗くなる。もし彼が、こののち預言者の言葉に従い、悔い改めたなら、神は彼を高くあげられたであろう。
 しかし、アマツヤは悔い改めなかった。彼は預言者に対し、敵意さえ見せた(一六)。そのため、ついに彼は主からの裁きを受けた。
 私たちにとって、主からの祝福を失うほうが、金銭を失うよりも、もっと恐ろしいのである。
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9日 旧約・第二歴代誌二六章
 ウジヤ王は、並外れて強くなり、「彼の名は遠くまで鳴り響いた」。しかし「彼が強くなると、彼の心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた」(一六)。
 若い頃から王位につき、何でも意のままにしてきた彼である。しかし、そんな彼にもたった一つ、自分の自由にならない、踏み込めない禁制の場所があった。
 神殿である。神殿の建物の内部には、聖別された祭司だけが入ることができた。王でさえも入ってはならないのである。
 生まれてこのかた一度も見たことのない神殿の内部を、彼は一度でいいから見てみたい、との欲求にかられたのであろう。彼は香をたこうとして神殿に入った。
 香をたくこと自体は、敬虔な行為に見える。しかし、神殿に入る資格のない彼にとって、それは主の律法を犯すことであった。
 禁じられていることを、あえてしたいと思うのが人間なのであろうか。かつてアダムとエバも、禁断の実を食べて罪を犯した。
 私たちにはみな、越えてはならない領分というものがある。私たちは謙虚に、主のさとしに従わなければならない。
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10日 新約・黙示録一七章
 患難時代に、聖都エルサレムは悪の都と化し、人々に「大バビロン」と呼ばれるようになる。そこに、「獣」と呼ばれる暴君が現われる。
 「獣」は、一〇か国の軍事同盟国を従え(一二)、エルサレムを拠点に世界支配をたくらむであろう。
 「獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです」(一一)。
 これまでエルサレムは、歴史上、七つの帝国(聖書では単に王ともいう)に支配されてきた。エジプト、アッシリヤ、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、トルコ帝国である。
 八番目の国、すなわち「王」はまだ現われていない。しかし現われれば、それが「獣」である。八番目の「獣」は、過去の七つの国の王たちのうちの獣的人物の再来である。
 ダニエル書は、終末の「獣」が、紀元前二世紀のギリシャ帝国の王アンティオコス・エピファネスの再来であることを暗示している。エピファネスは、エルサレム神殿にゼウス神の偶像を置いて汚した。この偶像を、ユダヤ人は「荒らす憎むべきもの」と呼んだ。
 終末の「獣」も、エルサレムを荒らし、神殿に踏み込み、そこに「荒らす憎むべきもの」を置くであろう。
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11日 旧約・第二歴代二七章
 ヨタムは、「主の神殿に入るようなことはしなかった」(二)。彼は父ウジヤが神殿内部に入っためにらい病になったのを見ていたから、恐れをなしたに違いない。
 ヨタムは、「主の目にかなうことを行なった」。そして「主の前に、自分の道を確かなものとした」(六)。神は彼を祝福された。
 しかし、ヨタムは完全ではなかった。なぜなら「民はなお滅びに向かっていた」とある(二)。民はまだ偶像礼拝の中にあった。
 ヨタムは、自分自身は道徳的に歩んだものの、民に対する伝道に熱心ではなかった。彼は偶像崇拝の温床である「高き所」を取り除かなかった(二列王一五・三五)。
 ヨタムは、聖なる神殿を恐れて宗教的奉仕から遠ざかったのみか、伝道からも身を遠ざけてしまったようである。しかしもし、彼が隣り人への愛に燃え、主の福音伝道に熱心だったならば、わずか四一歳で死ぬようなことはなく、もっと長生きしたであろう。
 道徳的に正しく歩むだけでは足りない。私たちには、福音伝道というキリストご自身からのご命令が与えられている(マタ二八・一九)伝道をおろそかにしないようにしたい。
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12日 旧約・第二歴代二八章
 かつてウジヤ王は、祭司のみが入れる神殿内部に僭越にも入った。ヨタム王は、宗教的奉仕に関心を見せず、神殿に入らなかった。そしてアハズは、主への信仰を拒否し、神殿の「戸を閉じて」しまった(二四)。
 アハズは、神殿内の器具を取り去った上、もはや祭司さえも入れないよう、神殿を閉鎖してしまったのである。
 アハズはまた、子供を火で焼く残酷なモレク礼拝(三)をしたのみか、ほかにも多くの忌むべき宗教を狂信的なまでに信奉した。
 神は彼に反省をうながすため、彼をアラム軍の手に渡したり、アッシリヤ軍によって悩まされた。ところが彼は、悩みの時におよんで「ますます主に対して不信の罪を犯した」(二二)。
 悩みの時に主に立ち返る人と、かえってますます罪に陥る人がいる。この違いは何なのか。
 それは、主の御前にへりくだることのできる心である。へりくだることができるなら、救いに結びつく。しかし、へりくだることができないなら、そのまま罪の深みに陥ってしまう。
 どんなに罪深くても、へりくだれるなら、救われるのである。
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13日 新約・黙示録一八章
 使徒ヨハネは、預言的幻のうちに、天使が大バビロンの崩壊を宣言する光景を目にする。大バビロンには、「一日のうちに、様々の災害」が及ぶという(八)。
 かつて紀元前六世紀に、古代のバビロン帝国は、ペルシャ帝国によって「一日のうちに」滅ぼされた。ちょうどそのように、「大バビロン」と象徴的に呼ばれる終末の巨大な悪の都も、わずか一日のうちに滅ぼされるであろう。
 使徒ヨハネはまた、
 「わが民よ。この女(大バビロン)から離れなさい。その罪にあずからないため、またその災害を受けないためです」(四)
 という声を聞いた。「クリスチャンたちは一四章一節ですでに天に携挙されているのに、なぜこの時クリスチャンたちが地上にいるのだろう」と思う人もあるだろう。
 しかし、一四章の預言的幻はすべて「患難時代末期のどこか」で起こる事柄の予告的幻なのである。だから、患難時代末期に入ったらすぐに携挙があるという意味ではない。携挙は、キリストが再臨されてからである(一テサ五・一七)。携挙は、患難時代末期の終わり頃まで待たなければならない。
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14日 旧約・第二歴代二九章
 ヒゼキヤは父アハズのなした全ての悪を国内から取り除こうとした。
 アハズは、神殿を閉鎖し、神殿にともされていた火を消していたが、その子ヒゼキヤは神殿を開き、内部を二週間かけて清めた。
 また犠牲の供え物を再開し、民がそこで礼拝できるようにした。ヒゼキヤは熱心に、宗教改革に努めた。
 ヒゼキヤに関しては、「この親にしてこの子あり」という諺は通用しなかったのである。彼は父アハズの悪行を引き継がなかった。
 父の悪行を子が改革して取り除く、というのは、たいへん勇気のいることではないだろうか。しかし、ヒゼキヤはそれをなし遂げた。
 私たちは、父がどうだから、母がどうだから、と言ってはいないだろうか。私たちの生き方は、私たち自身が切り開いて行かなければならない。使徒パウロは言った。
 「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリ四・一三)。
 私たちは神の御前に、つねに個人として立っている。クリスチャンに「宿命」という言葉はない。人生のキャンバスは、はじめは白紙である。その白紙に、私たち自身が主にあって人生という絵を描いていく。
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15日 旧約・第二歴代三〇章
 このとき、北王国イスラエルはすでにアッシリヤ捕囚にあい、貧しい民だけが残されていた。
 南王国ユダの王ヒゼキヤは、北王国から残留民をも招き、共に過ぎ越しの祭を行ないたいと願った。
 ヒゼキヤは宮清めを一月中旬に行なったのち、過越の祭を二月に行なった(一五)。過越の祭は本来一月に行なうものだが、差し支えあるときは、ひと月遅れに行なうこととされていた(民数九・一〇、一一)。
 ヒゼキヤがこれを思いついたのは、彼が熱心に律法の書を読み、親しんでいたからである。聖書に親しむ者には、つねに新たな志しが与えられる。
 ヒゼキヤが近衛兵を遣わして伝道させたとき、ある者たちはあざ笑ったが、それでも多くの集団がへりくだってエルサレムに集まってきた。
 過越の祭がひと月遅れになった原因は、身を清めた祭司の少なかったこともあった。しかし人々が熱心に集まってきたのを見て、宮清めの時以来ぐずぐずして、いまだに身を清めていなかった「祭司とレビ人は、恥じて身を聖別し、全焼のいけにえを主の宮に携えてきた」(一五)。
 平信徒の熱心が、不熱心な伝道者を刺激し、感奮させたのである。
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16日 新約・黙示録一九章
 ここで再び、あのクリスチャンの「大群衆」が出てくる。彼らは「花嫁はその用意ができた」(七)と叫ぶ。「小羊の婚姻の時」が来たのである。
 聖書は一貫して、キリストの再臨、クリスチャンの復活、携挙の時を、キリストと教会の「結婚」の時としている。
 そのとき、キリストと教会は全く一心同体になり、キリストの永遠の命が全クリスチャンに流れ込む。クリスチャンは、永遠の命の体を着て出現する。
 「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである」(八)
 とはそれに関連している。永遠の命の体は、正しい行ないしかできない体なのである。
 「開かれた天を見た」とある(一一)。患難時代の終わりに、天が開け、地上世界に再臨のキリストが出現されるのである。彼には大群衆が従っている(一四)。
 キリストは再臨されると、ハルマゲドンに集まった悪の勢力(一六・一六)と戦われる(一九)。キリストは、悪の勢力を一掃し、世の悪に終止符を打たれる。
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17日 旧約・第二歴代三一章
 神殿で奉仕する祭司とレビ人は、民の十分の一の奉納物によって生活するよう、律法に定められていた。
 しかし、当時これが行なわれていなかったため、ヒゼキヤは彼らを「主の律法に専念」させるため、民に十分の一を持ってこさせるように命じた(四)。民は「十分の一を豊富に携えてきた」。
 奉納物はあまりに多く、積み上げるのに四カ月もかかった。祭司とレビ人はそれを食べたが、とても食べきれないほどの量であった。これは民の信仰復興の結果、主の祝福が豊かに臨んだからである。
 祭司とレビ人も、それまでの怠慢を自ら恥じ、身を清めて聖職に立ち返ったから(三〇・一五)、この祝福にあずかれた。彼らは、豊かな祝福を見たから立ち返ったのではない。立ち返ったから、豊かな祝福にあずかれたのである。
 ヒゼキヤについて最後に、
 「彼は、彼が始めたすべてのわざにおいて、すなわち神の宮の奉仕、律法、命令において神に求め、心を尽くして行ない、その目的をはたした」(二一)
 とある。私たちの人生についても、この幸福な結論が記されるようでありたい。
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18日 旧約・第二歴代三二章
 ヒゼキヤのような善い王も、「自分に与えられた恵みにしたがって報いようとせず、かえってその心を高ぶらせた」ことがあった(二五)。
 もしヒゼキヤが、高慢になったままだったら、他の王たちと同様、主の祝福を失ったであろう。しかし、彼は「その心の高ぶりを捨てて、へりくだった」(二六)。すると主の祝福は再び彼に臨んだ。
 主の祝福に生きることができるか否かは、心の状態の非常に微妙な差がもたらす。高慢になり、慢心してしまったとき、それに気づいて、へりくだれるか否かが、主の祝福のすべてを左右するのである。
 主の祝福を左右するものは、私たちの能力でも、地位でも、家系でもない。ただ一つ、心である。
 祝福と、幸福は違う。幸福は主観的なものだが、祝福は客観的な恵みである。
 世の多くの人は幸福を求めるが、祝福を求めない。しかし、主の祝福なくして、真の幸福はない。
 世には「わざわいなる幸福」というものがある。本人は幸福と思っていても、それが罪と滅びへの道であることがある。
 私たちの求めるべきは、そうした幸福ではなく、主の祝福なのである。
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19日 新約・黙示録二〇章
 ハルマゲドンの決戦のあと、キリストは全世界を支配下に置かれる。
 キリストは、千年王国を開始される。これは地上の世界的王国であって、真の義と平和と繁栄の国である(イザ二・三、六五・二〇〜二五、ゼカ一四・九)。
 この間、サタンは「底知れぬ所」と呼ばれるよみの最下層の牢につながれている。
 千年王国の前に、第一の復活があり、千年王国の終わりに第二の復活がある。
 第一の復活の際には、クリスチャン殉教者たちが復活する(四)。
 一方、第二の復活は、ハデス(よみ)の死者たちの復活である(一三)。彼らは、神の最後の審判の法廷で、最終的に天国か地獄(火の池)かの決定を受ける。
 したがって、第一の復活は単に殉教者たちの復活ではなく、全時代の全世界のクリスチャンの復活であると思われる。実際、殉教者たちの復活の幻の前に、「多くの座を見た」(四)とある。これはそれを指しているのだろう。
 第一の復活にあずかる者たちには、「第二の死(魂の滅び)は何の力も持っていない」(六)。彼らは永遠の命に生きるからである。
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20日 旧約・第二歴代三三章
 先に、世には「わざわいなる幸福」というものがあると述べた。本章では、私たちは「不幸という祝福」があることを見る。
 マナセは、多くの罪を積み重ねたために、主からの審判を受け、不幸のどん底に落とされた。彼はイスラエルの北東に隣接する大国アッシリヤに捕らえられ、足かせにつながれ、ひどい仕打ちを受けたのである。
 マナセは、ひどい悩みと苦しみに落ちた。これほどの不幸があろうか。しかし、世の不幸は、心の持ち方しだいで祝福に変えられる。
 マナセは「神の前に大いにへりくだって、神に祈った」。すると「神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された」(一二)。
 マナセは、イスラエル史上最悪の罪を犯した人間である。しかし、本当にへりくだって悔い改めると、神は彼を赦してくださった。神の恵みは何と深いことであろうか。
 マナセは、神に赦されると、自分の築いた偶像を破壊し、主への信仰に立った。こうして、アッシリヤで経験した不幸は、彼への祝福となったのである。私たちの人生においても、不幸が祝福になることがある。
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21日 旧約・第二歴代三四章
 ヨシヤが回心したのは、まだ一五歳の頃であった(一、三)。今で言えば、中学三年生くらいである。
 しかし彼の回心は、彼の生涯に、また国家の未来に大きな影響を与えた。「若き日に自分の造り主をおぼえる」(伝道一二・一)ことが、いかに大切かを知る。
 ヨシヤは、二〇歳頃になって、南王国ユダとエルサレムをきよめ始め、国内の偶像を破壊した。その改革が始まって六年後、神殿の中からモーセの律法の書が発見された。
 律法の書はそれまで、神殿の奥でホコリをかぶっていたのである。これは、当時いかに神の御言葉が軽んじられていたかを示すものである。
 真摯に生きる者には、神の言葉が発見される時がある。ヨシヤは律法の書の言葉を聞いたとき、自分のそれまでの改革がいかに不十分だったかを知り、全き改革に着手する決意をする(三一)。
 神の言葉の明るい光のもとになされる改革は、単に良心や伝説のほのかな光に基づいてなされる改革との間に、大きな開きが出る。
 私たちの人生においても、単に良心に基づいて生きるのと、神の言葉に基づいて生きるのとでは、最終的に大きな差となる。
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22日 新約・黙示録二一章
 現在の天地が過ぎ去り、神とキリストの御前で「最後の審判」と呼ばれる死者に対する裁判がなされた後、新天新地が創造される。
 新天新地には、「新エルサレム」がある。新エルサレムは「天から下ってきた」ものであり(二)、もともとは旧い天にあった。それは「天にあるエルサレム」(ヘブ一二・二二)が、そこに下ってきたものなのである。
 「天にあるエルサレム」は天国のことである。昔は、国といえば都市国家だったから、天国は「天にあるエルサレム」とも呼ばれた。
 天国が新天新地に下ってきて、それが新エルサレムと呼ばれる。新エルサレムは、新しい天と新しい地の交点に位置し、天と地を結ぶ。
 だから、そこでは神と人が共に住む(三)。神と人の間には、もはや何の障壁もない。
 それは単なる霊の世界ではない。現在の物質世界とは異なる新しい事物の体制のもとに、新しい世界が広がっている。
 人々は永遠の命の体を持つため、その世界には「死がない」(四)。病気も、苦しみも、悲しみもない。それは限りない平安と、絶対的幸福の世界なのである。
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23日 旧約・第二歴代三五章
 この過越の祭は、「預言者サムエルの時代からこのかた」なかったほどの、大きな祭であった(一八)。
この立派な祭ができたのは、ヨシヤが「ダビデの文書」また「ソロモンの書き付け」(四)をよく研究したからでもある。彼の熱心は、知識に裏づけられていた。
 熱心なだけでは足りない。それは知識と、良識に裏づけられていなければならない。
 ヨシヤは、全般的には立派な生涯を送った。この時代における随一の王であったと言ってよい。
 しかし聖書は、王たちの治世を英雄物語としては記さない。王であれ、誰であれ、聖書は真実のみを記す。人の失敗や、汚点、短所等も、あからさまに記す。
 ヨシヤは生涯の終わりに、失敗をおかした。エジプト王ネコがユダ国を撃ちに来たのではないのに、ネコの親切な注意にも耳を貸さず、その軍と戦おうとしたのである。
 ヨシヤには、エジプトと戦う理由は何もなかった。しかし彼は何を思ったのか、「変装して」戦いに出て、いたずらに戦死してしまった。
とはいえ、彼の死は全国民の悲しみとなった。死を惜しまれる王は多くはない。
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24日 旧約・第二歴代三六章
 バビロン帝国は、紀元前六〇六年に南王国ユダを侵略し、第一回の捕囚を行なった。
 その七〇年後、バビロンはペルシャ帝国によって滅ぼされてしまう。ペルシャは、ユダヤ人の祖国帰還を許してくれたため、ユダヤ人は紀元前五三六年に第一回帰還をする。
 これらのことは、あらかじめ預言者エレミヤによって、すべて予言されたことだった(エレ二五・一一)。
 紀元前六〇六〜五三六年の七〇年にわたり、こうしてパレスチナの土地はユダヤ人による罪の汚染から解放され、「安息を得た」(二一)。
 律法には、土地は七年に一度、全く耕作されず安息年としなければならない、とある(レビ二五・四)。
 七〇年の七倍は四九〇年であり、紀元前五三六年の四九〇年前は、紀元前一〇二六年だ。これはほぼサウルが王に即位した頃である。つまり、イスラエルに王制が始まってから、七〇年を六回繰り返した後、七回目の七〇年に、神は強制的にパレスチナに安息を与えられた。
 本当は、最後の七〇年は、善い王が現われることによって安息となって欲しかった。しかし、罪が積み重なったため、神は強制的にこの地に安息を与えられたのである。
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25日 新約・黙示録二二章
 天国が新天新地に下ってきて出来た新エルサレムには、「いのちの水の川」がある(一)。
 「いのちの水の川」は、信じる者の魂の奥底から流れ出ると主イエスが言われた、あの「生ける水の川」(ヨハ七・三九)と同じであろう。
 川の岸には「いのちの木」がある。これはかつてエデンの園にあり、人間の堕落後は天国に隠されていた。
 アダムとエバは、いのちの木からは取って食べなかった。しかしその日、クリスチャンはその木の実を食べることができる。
 「いのちの木」は原語で単数である。一本の木が「川の両岸に」あるというのは、現在の事物の体制では不可能である。これは新天新地における事物の秩序が、現在の天地とは異なるということであろう。
 いのちの木の実は、「諸国の民をいやした」(二)とある。これは新エルサレムに病気があるという意味ではない。
 そこには「もはや、悲しみ、叫び、苦しみもない」(二一・四)と言われているからである。これはいのちの木の実は人々の健康のためであり、健康を支え、保つの意味である。
 新エルサレムは、文字通りパラダイスなのである。
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26日 旧約・エズラ記一章
 本書は、バビロン捕囚以後のユダヤ人の歴史を伝えるものである。
 紀元前五三六年に、バビロン帝国はペルシャ帝国によって滅ぼされた。ペルシャ王クロスは、その年に勅令を発し、バビロンに捕囚となっていたユダヤ人たちが故国へ帰還することを許し、また奨励した(一)。
 神はご自身の計画を実現するため、しばしば外国の王、また異教徒の王さえもお用いになる。ここではペルシャの王クロスが用いられている。預言者イザヤも、クロスについて語っている(イザ四四・二八)。
 ユダヤ人のバビロンからの帰還は、預言者エレミヤがかつて予言したことの成就であった(エレ二九・一〇)。エレミヤは、第一次帰還は第一次捕囚の七〇年後だと、捕囚が始まる前に予言していた。
 ペルシャ王クロスは、ユダヤ人に、エルサレムへ帰って神殿を再建するよう命じた(三)。神は全世界の神である。神はペルシャの王にも、信仰をお与えになった。
 ユダヤ人は、バビロンからの帰還を「第二の出エジプト(エクソダス)」と呼んでいる。それは壮大な脱出体験であった。
 主にあって生きる者は、ときに同じ様に壮大な脱出体験をする。
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27日 旧約・エズラ記二章
 紀元前五三六年に、四万二三六〇名の人々は、指導者ゼルバベルのもとにパレスチナに帰還した(六四)。
 そのうち約三万人はユダ族であったが、他の人々はユダ以外の部族の人々であった(一〇・二五)。これは、帰還民がエルサレムに向かう際に北王国イスラエルの捕囚地も通ったため、その地のイスラエル人が帰還隊に参加したからかも知れない。
 つまりこのとき帰還したのは、単にユダ族だけではなく、他の一一部族の人々も若干含まれていた。
 「ウリムとトンミムを使える祭司が起こるまでは」という言葉が、六三節にある。これは帰還民が、帰還したあとに律法に完全に従って生きようと決意していたことを、表している。
 バビロン捕囚の前まで、ユダヤ人は何度も偶像崇拝に陥った。しかし、バビロン捕囚以降、ユダヤ人は二度と偶像崇拝に陥ることがなくなる。それは二〇世紀の今日に至るまで事実なのである。
 だからバビロン捕囚の出来事は、ユダヤ人にとって決定的な出来事であった。神のなさることに無駄はない。
 もちろん、私たちの人生においてもそうである。
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28日 新約・マタイ一章
 今日から、新約聖書の二回目の通読に入る。
 預言者イザヤは、紀元前七五〇年頃に、来たるべきメシヤは処女から生まれ、「インマヌエル」と呼ばれると予言していた(二三、イザ七・一四)。これはヘブル語で「神は私たちと共におられる」という意味であり、主イエスのもう一つのお名前である。
 イエス・キリストの降誕の意味は、「神は私たちと共におられる」が具体化したことであった。神ヤハウェは、イエスにおいて地上に来られたのである。
 私たちはこのイエスに結びつくことにより、「神は私たちと共におられる」という事実を自分のものとする。神はイエスによって、あなたと共におられる。
 力強い信仰の生涯を歩めるか否かは、結局のところ、「神は私と共におられる」という臨在信仰に目覚めるか否かにある。心を澄まして常に祈っている者は、神の臨在を知っている。
 罪を行なう者は神の目を恐れる。しかし、神の御旨に生きる者は、神が共にいて自分を見てくださっていることに、限りない平安を覚えるものである。
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29日 旧約・エズラ記三章
 新しい神殿の基が据えられたとき、前の神殿を見たことのある多くの老人たちは、大声をあげて泣いた(一二)。新しい神殿は、ソロモンによって建造された壮麗な神殿に比べ、格段に見劣りしたからである。
 しかしなかには、自分たちがこれまで体験してきた悲惨さを思い、ようやく据えられた神殿の基を見て、感きわまって泣いた人々もいたであろう。
 一方、「ほかの多くの人々は、喜びにあふれて声を張り上げた」。これら泣く声も、喜びの声も、ともに、すべてのいけにえにまさる神への捧げ物になった。
 私たちの涙も、喜びの声も、真実な心から出るものはみな、神への良き捧げ物になる。人生に必要なのは、涙である。喜びである。
 感動のない人生ほど、むなしいものはない。何か一つでも、心に刻み込まれた感動があるなら、それが私たちの生きた証しである。
 神殿再建にたずさわった人々は、その歴史的事業の場に自分もいた、ということを、死に至るまで感動をもって思い起こしたに違いない。
 神のなさる事業に自分も参加すること、これ以上に感動的なことがあろうか。
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30日 旧約・エズラ記四章
 「ユダとベニヤミンの敵たち」(一)とは、サマリヤ以北に住んでいた民である。彼らはアッシリヤの王によって移住させられた人々であった(二)。
 彼らは、神殿を共に建てたいと申し出た。しかし、彼らが二心の者たちであることを指導者ゼルバベルは見抜いていたので(二列王一七・三三参照)、この申し出を断った。
 たぶん彼らは、神殿を共に建てるふりをしてそれを妨害するか、事業に参加することによってエルサレムでの支配権を獲得しようとしていたのであろう。
 申し出が断られると、彼らは本性を現わし、神殿再建を阻止しようと妨害に出た。彼らはペルシャ王に手紙を送り、エルサレムはやがてペルシャに反逆することになるという印象を与えた。
 人をねたむ者は、人の悪口を言いふらす。この妨害のために、一五年間も工事が中止された。
 このとき指導者ゼルバベルは、妨害を防ぐために、予めペルシャの新しい王アルタシャスタとの間に、もっと信頼関係を築くよう努力しておくべきだったのかも知れない。
 私たちは人生を歩むにあたって、様々の気配りが必要である。
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31日 新約・ローマ一章
 「義人は信仰によって生きる」(一七)――これはハバクク書二・四の引用であるが、新約聖書の信仰義認の神学の中心思想となっているものである。
 私たちは、律法の行ないによって義と認められるのではなく、主イエスを信じる信仰によって神の前に義と認められる。信仰によって生きる者が、「義人」「正しい人」と呼ばれる。
 また、それだけでなく、義人は信仰によって生きる。すなわち信仰に始まり、最後まで信仰に生きる。人の義は信仰のうちにある。信仰は義人のエッセンスである。
 信仰は、神との関係である。私たちは、自分のなした事柄によって神に評価されるのではなく、神とのどういう関係をもってそれらをなしたかについて、評価を受けるのである。
 私たちは何をなすにしても、信仰をもってなさなければ、神の前には意味がない。たとえどんなに立派に見えることや、善行をなしても、信仰に裏づけられていなければ、それは神の栄光を現わすものとはならない。
 「信仰に始まり、信仰に進む」こと、そこに信者の成長がある。
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