聖書一日一章

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1日 旧約・エステル記二章
 エステルのヘブル名は「ハダサ」であった(七)。これは「ミルトスの木」の意味である。一方「エステル」は、ペルシャ語で「星」を意味した。
 彼女はミルトスの木のように美しく、星のように輝いていた。彼女は美しいばかりか、その忠実さと、ひかえめな上品さ、また女らしさのゆえに、異教徒の中でも好感を持たれた(一五)。
 クリスチャン女性も、外的な美しさだけを求めるのではなく、内的な心の美しさを追求する者であってほしい。そうした女性は、異教徒の中でも必ずや好感を持たれるであろう。
 エステルには父も母もいなかった。幼いときに死んだからである。しかし彼女は、モルデカイのもとで心の強い女性に育てられていた。
 モルデカイは、あるとき王の門のところにすわっていたが、そこで、王を殺そうとする宦官たちの陰謀を知った。彼は、王妃になったエステルにそれを告げ、エステルはそれをモルデカイの名で王に告げた。
 宦官たちは死刑になり、陰謀は阻止された。この事件により、エステルだけでなくモルデカイの名も、王に好意を持たれるものとなった。
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2日 旧約・エステル記三章
 ペルシャ王のもとで、ハマンは高い地位に昇進した。彼はやり手であって、その手腕を認められたのであろう。しかし、こういう人物は往々にして野望に満ちている。
 ハマンは「アガグ人」であった(一)。一説によれば、アガグ人はアマレク人の王アガグ(一サム一五・八、二七・八)の子孫である。とすればハマンはアマレク人であった。
 主はかつてイスラエル人に、「アマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない」と命じておられた(申命二五・一九)。しかしイスラエル人はそれを完全には実行しなかったので、アマレク人は生きていたのである。
 人々はハマンの前で、ひざをかがめてひれ伏した。しかしユダヤ人モルデカイは、ハマンの前にひれ伏そうとしなかった(二)。モルデカイは人間礼拝に陥ることを避けたのであろう。
 ハマンはこれに怒り、モルデカイばかりか、ユダヤ民族を皆殺しにしようと謀った。これはハマンの傲慢さの現われである。
 しかしこの傲慢さは、結局ハマンに滅びをもたらすことになる。そしてアマレクの記憶は、ついに、天の下から消し去られるのである。
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3日 新約・マタイ七章
 「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です」(一二)。
 これは「黄金律」と言われる最も重要なキリスト教倫理である。
 この教えを実践する人は、必ずや人々に好かれるであろう。また良い人間関係をつくれるであろう。この教えは愛の具体化だからである。麗しい夫婦、親子、友人関係は、ここから生まれる。
 またこの教えを実行する人は、人に好かれるだけでなく、事業家なら成功し、商人なら繁盛し、経営者なら繁栄するであろう。「自分にして欲しいことを人にもする」ことにこそ、愛とサービスの原点があるからである。
 赤貧の身から事業を起こし、それに成功して大富豪になった人々は、みなこの黄金律を実践した。すべての良きアイデアは、ここから生まれる。
 幸せになりたいと思うなら、できるだけ多くの幸せを人に与えることである。幸せは、与えるところに生まれる。
 与えなさい。そうすれば与えられるであろう。人々はあなたを祝福し、神があなたを幸せにして下さる。
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4日 旧約・エステル記四章
 神が人を恵まれるとき、それには必ず目的がある。
 エステルは、名もない一庶民に過ぎなかったが、王宮に召され、豊かな生活を与えられた。神が彼女を祝福されたのである。
 しかし、人が祝福されるとき、それは神がその人に使命をお与えになったからだ、と私たちは思うべきである。エステルにも、自分に与えられた使命が何であるかを自覚するときが、やって来た。
 ハマンがユダヤ人を根絶しようと謀っていることが知られたとき、モルデカイもエステルも、断食して祈った。モルデカイはエステルに、
 「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかも知れない」(一四)
 と言った。エステルはこの言葉に応え、自分の生命を賭けてユダヤ人を救おうと立ち上がった。彼女は、
 「私は、死ななければならないのでしたら、死にます」(一六)
 と言った。私たちは、自分に対する神の祝福が何のためであるかを思うべきである。「私が今ここに置かれているのは何のためか」に、気づかなければならない。今日も、私たちには自分の人生をかけて遂行すべきことがある。
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5日 旧約・エステル記五章
 「三日目に」(一)とあるが、その三日間は、断食祈祷会が続けられていた(四・一六)。
 祈祷のあと、エステルは行動に出た。彼女は、王に召されていないのに王の所へ行った。しかし、王の愛を受けていた彼女は、無事に王に会うことができた。
 エステルは、王とハマンを宴会に招いた。ハマンをも招いたのは、自分の権内にハマンを置くための、エステルの巧みな計画であった。
 王はエステルが生命の危険をおかしてまでも王の前に出たのを見、また宴会に招いたことを見て、彼女の心にはきっと重大な願いがあると察知した。しかしエステルは、すぐに願いを言わず、それを言うのを先延ばしにした。
 エステルは、人の心を熟知していたのである。先延ばしにされたことにより、王はエステルの心にある秘密の願いをより重大に思い、また彼女の行動に好奇心をそそられたに違いない。
 ハマンは、宴会のあと、自分が重んじられていることを得意に、自慢してまわった。しかし、モルデカイのために自尊心を傷つけられた彼は、それを思うたびに心を乱された。傲慢な者には平安と満足がない。
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6日 新約・ローマ七章
 律法は、私たちに何が罪かということを教え諭してくれた。しかし、律法自体には、私たちを罪から救う力はない。
 今やキリストに結ばれて生きるようになった私達は、新しい御霊によって神に仕えることにより、律法の真の精神を成就し、それを全うする。
 私たちの力は、キリストと共に生きることにある。キリストの力が、私たちに流れ込むのである。
 力強いクリスチャン生涯の秘訣は、キリストと「結婚」した者として歩むことである(四)。キリストと一心同体になって生きるのである。
 キリストと苦楽を共にする。彼は私たちの生涯を、必ずや祝福されたものに導いてくださるであろう。
 自分の内で、善を行なおうとする思いと悪に陥ってしまう心が葛藤を見せるのは、まだ自分とキリストとの交わりが充分でないからである。
 キリストとの交わりが、深まれば深まるほど、私たちはキリストに似た者に変えられていき、善のほか何も行なえない者になっていく。
 私たちに一番必要なのは、キリストご自身である。「主よ、私に必要なのはあなたご自身です。あなたを慕い求めます」。
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7日 旧約・エステル記六章
 ハマンは、モルデカイを恨んでいたから、モルデカイを殺してはずかしめ、木にかけて人々の見せしめにしようと計画していた。
 ところが、ハマンはその自分の手で、モルデカイに栄誉を与えるはめになってしまった(一一)。王服と王冠をモルデカイにつけさせ、町の広場でモルデカイを讃えねばならなかったのである。
 この出来事の背景には、神の見えない摂理の御手があった。王は、眠れない夜に年代記を読み、モルデカイのなしたことに栄誉を与えたいと思うようになったが(三)、これは神の導きによったのである。
 またその日、王の庭にちょうどハマンが来ていた。ハマンはモルデカイ処刑の許可をもらおうと、そこに来ていた(四)。ところが、王がハマンに命じたのは、モルデカイへの叙勲であった。
 なんという皮肉であろう。神のなさるわざは、じつに痛快ではないか。
 神は、私たちへのサタンの策略に対しても、同様のことをなさる。私たちは、神の教えに堅く立って動かされないなら、やがて神のなさる不思議なわざを見て喜ぶであろう。神が味方であるなら、私たちを打ち負かせる者はいない。
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8日 旧約・エステル記七章
 エステルは、初めてここで自分の命のため、また同胞の民族のために王に命乞いをした。また賢明にも、
 「その迫害者は王の損失を償うことができないのです」(四)
 と付け加えた。ユダヤ人が滅びることはペルシャ王にとっても重大な損失になる、と訴えたのである。
 王はハマンに対して怒りを燃やし、彼をすぐさま処罰した。ハマンは、モルデカイを処刑しようとして立てたその絞首台の木に、自分がかけられてしまった。
 ハマンは、自分の陰謀のゆえに、自分の墓穴を掘ったのである。飛ぶ鳥も落とさんばかりに出世の道を歩んだ彼であるが、宰相の地位まで上りつめた所から急転直下、奈落の底に突き落とされた。
 ここに至っては、痛快というより、あわれと言うほかない。古来、「天につばきすれば、おのれに返る」という。聖書にも、
 「穴を掘る者はそれに落ち込み」(伝道一〇・八、詩篇九・一五)
 「彼らの剣はおのれの心臓を貫き」(詩篇三七・一五)
 とある。悪人は、人を害しようとするその剣で、自分の胸を刺し通す。悪の報いは、いずれ自分にやってくるのである。
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9日 新約・マタイ八章
 主イエスは、百人隊長の信仰をおほめになった。百人隊長は、
 「私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます・・・・」(九)
 と言った。彼の言おうとしたことは、
 「主イエス様。ましてやあなた様は、一切の権威をお持ちです。私のしもべの病も、あなた様のお言葉一つで治ります」
 であった。これほどの信仰は、たしかに他の人々には見られないものであった。しかもこの信仰を表明したのは、ユダヤ人ではなく、ローマ兵士だった。
 異邦人も、主イエスからおほめにあずかるほどの立派な信仰を持つことができる。日本人もそうである。
 日本は、世界の中でも、キリスト教徒の殉教者が最も多い国の一つである。また日本人クリスチャンは、全体の数は多くはないものの、社会改革や進歩のために、いつの時代にも中心的な働きを担ってきた。
 私たち日本人も、神の恵みに非常に近い所にいる。私たちは、すべての者が、偉大な信仰者となり得る可能性を持っているのである。
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10日 旧約・エステル記八章
 ハマンは死んだが、ハマンの出したユダヤ人虐殺命令の詔書はまだ生きていた。
 ペルシャ帝国では、王の名で出された詔書は、いかなるものであっても取り消せなかった(八)。王自身でさえ、取り消せなかったのである(ダニ六・一五)。
 そこで、ユダヤ人虐殺計画には、新たに別の詔書をつくって対処するほかなかった。エステルは王に懇願した。すると王は、ユダヤ人を攻撃する者たちに対抗して殺す許可を、ユダヤ人たちに与えた。
 それが許可された日は、一二月一三日であった。まさに、ハマンがユダヤ人虐殺の実行日と予定していた日である。
 新しい詔書が全国に公布されたとき、ユダヤ人はみな喜びに満たされた。しかし彼らだけではなく、シュシャンの町の人々も喜びの声にあふれた(一五)。
 ユダヤ人には友が大勢いたのであろう。ユダヤ教に改宗し、ユダヤ人に帰化する者さえあった(一七)。
 平民モルデカイとエステルの勇気は、危機に臨んだ神の民を救った。それだけでなく、異邦人をも感化して、神の民に加わる者たちを多く起こしたのである。
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11日 旧約・エステル記九章
 陰謀の主ハマンが死んだにもかかわらず、不当にもユダヤ人を滅ぼそうと企てていた者たちは、七万五千人もいた(一六)。ユダヤ人は彼らを剣にかけて殺した。
 このとき、彼らの家財をかすめ奪うことも、ペルシャ王によって許可されていた(八・一一)。にもかかわらず、ユダヤ人はそれらの「獲物には手をかけなかった」(一六)。
 これは、彼らの行為が正当防衛のためで、略奪目的ではなかったことを示す。またユダヤ人は、かつてサウルがおかしたと同じ間違いをおかすまい、と堅く決意していたのであろう。第一サムエル一五章の「分捕り物に飛びかかってはならない」という教訓を、彼らは実行した(一五・三、一九)。
 ユダヤ人の絶滅の日となるかも知れなかった日は、こうして祝宴と喜びの日に変わった。
 以来、一二月一四、一五日は祭りの日と定められ、プリムの祭りと呼ばれた。この祭りは今も、ユダヤ人の間で守られている。
 今日、サタンと悪の勢力は、神の民であるクリスチャンたちを滅ぼそうと謀っている。しかし、来たるべき日に彼らは、キリストと私たちの手で滅ぼされる(黙示一九・一九)。
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12日 新約・ローマ八章
 「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」(二九)。
 「あらかじめ知っておられた人々」とは、クリスチャンたちのことである。神は、彼らが「御子のかたち」と同じ姿になるように定められた。創世記五・三には、
 「アダムは・・・・彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた」
 と記されている。人類にはみな「アダムのかたち」が刻印されている。しかしそのアダムのかたちから、キリストのかたちに移すことが、神の救いのご計画なのである。
 キリストのかたちとは、彼の持つ愛、聖潔、義、力、命等である。私たちは、そうした彼のかたちを受け継ぐよう定められている。
 これはキリストの再臨のときに完成するが、私たちはますます信仰に励み、彼を愛することにより、この地上生活においてそれを「先取り体験」する。
 完成は後の日のことだが、私たちは今その途上にある。完成した時は喜びに満ちるに違いないが、その途上にあることもまた楽しい。
 キリストを愛する者は、キリストの御姿を見ることになるであろう。
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13日 旧約・エステル一〇章
 モルデカイは、宮廷にあって、王に継ぐ高い位についた。その名声は、すべての州に及んだ(三)。
 時は偉大なペルシャ帝国の独裁君主アハシュエロス(クセルクセス)の治世であったが、その宰相のモルデカイと王妃のエステルは、共にユダヤ人だった。そして、二人とも宮廷の頭脳また心臓となっていた。
 このことがあったから、のちにエズラやネヘミヤの事業に道が開けた、と言える。すべては神の摂理のもとにあった。
 かつてエジプトにヨセフがおり、バビロンにはダニエルがいたように、ペルシャには、モルデカイとエステルがいた。異邦の君主が力を持つ時代にあっても、ユダヤ人は常に、世界の行方を左右する地位についてきた。
 今日も、欧米をはじめとする超大国において、政界、財界、官界等の大物にはユダヤ人が多い。神の民として選ばれた彼らは、いつの時代にも世界をリードしてきた。
 やがて、ユダヤ人つまりイスラエル人と、第二イスラエルとも言えるクリスチャンたちとが一体となって、主イエスのみもとに召される時が来る。両者は一つの民となる。それが主の再臨の時なのである。
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14日 旧約・ヨブ記一章
 本書は、「正しい人がなぜ苦しまなければならないのか」を命題にした苦難文学である。
 ヨブ自身は、おそらく族長時代に実在した人物であろう。この書物は、神がなぜアダムとエバに対するサタンの誘惑をお許しになったのか、という疑問に対する答えをも、間接的に提供する。
 ヨブは、地上において随一と言っていいほど、神の前に正しい人であった。しかしサタンは、これに対して異議を唱えた。「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか」(九)と。
 「いたずらに」とは、理由なしに、という意味である。ヨブは下心があって敬虔を装っているだけだ、とサタンは主張した。神の祝福がなければ、ヨブの信仰もなくなる、というのがサタンの主張であった。
 サタンのこの異議は、ヨブだけに関することではなく、宇宙的な問題を提起していた。神とサタンのどちらが強いかというような力の問題ではなく、信仰の価値にかかわる問題である。
 神は、この異議に関して決着させるため、サタンによるヨブへの災いを許容された。しかし、それに一定の制限を加えることを、神はお忘れになっていない(一二)。
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15日 新約・マタイ九章
 本福音書の記者マタイは、取税人であった。取税人は、ローマ政府のために税を取り立てる人であったが、不正徴収や背任行為のかどで民衆から非難されていた。
 今日で言えば、不正に人々から金を吸い上げる暴力団のような面が、当時の彼らにはあったのである。しかし取税人の中には、主イエスの福音を聞いて回心し、弟子となる者も多かった。
 イエスは「取税人や罪人たち」と共に食事をされることが多かった(一〇)。そうした光景を見たパリサイ人たちは、不思議がった(一一)。これは、パリサイ人たちは取税人を軽蔑していたので、決して同じ席にすわらなかったからである。
 当時、取税人であることは恥だった。しかしマタイは、自分の福音書の中に、自分がかつて取税人であったことをはっきり記した。
 「イエスは・・・・収税所にすわっているマタイという人をごらんになって・・・・」(九)。
 「取税人マタイ」(一〇・三)
 マタイは、自分の過去を隠そうとしなかった。彼は自分がどんな所から救われたのかということを、全世界に明らかにしたのである。私たちも、そのようでありたい。
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16日 旧約・ヨブ記二章
 サタンの異議に反して、ヨブが神をのろわなかったので、サタンはさらなる異議を神に向かって唱えた。もし災いがヨブ自身の身に及べば、ヨブはきっと神をのろうであろう、というのである(五)。
 サタンはこれを、前と同じく、天使たち(神の子たち)も集まっている天上会議において主張した(一)。神はサタンに、ヨブの命に触れないことを条件に、ヨブの身体への災いをお許しになった。
 災いが下ったとき、ヨブの妻は愚かなことを言った。彼女の言葉は、「神をのろって死になさい」「誠実を保つことは何の益があるか」という内容であった。妻さえも、ヨブを見捨てたのである。
 ヨブには、もはや何もなくなった。財産も、子どもたちも、自分の健康も、名声も、また妻の愛も、すべて失ったのである。このうえ、生きることに何の望みがあろう。
 これほどの苦難に会った人が、他にいるだろうか。しかしヨブの信仰は、神の祝福があるとか無いとかいった状況を越えていた(一〇)。
 彼の信仰は、状況や環境にとらわれない絶対的なものに近かった。このとき、サタンの主張はもろくも崩れ去ろうとしていた。
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17日 旧約・ヨブ記三章
 ヨブは、妻の愚かな言葉を受けても、心に動揺を見せなかった。
 しかしその後、親しかった三人の友が見舞いに来てくれた。彼らはヨブを見分けることができなかった。
 そればかりか、七日間も近くにいながら、慰めの言葉さえ一言も口にしてくれない(二・一三)。これを見るに及んで、ついにヨブの心に信仰の動揺が生じた。
 ヨブはここに至っても、神をのろってはいない。「これは神のせいだ」とは決して言わない。しかし、彼は自分の生まれた日と、自分の存在をのろった。ヨブは悲嘆と絶望の底に沈んだのである。
 私たちは彼のこの気持ちを理解する。信仰に動揺をきたすこと自体は悪いことではない。危機的状況は、それを乗り越えると、力になる。
 現代人は、悲観と厭世に陥れば、すぐに自殺したがる。しかしヨブは、ここに至っても自殺をしようとは思っていない。
 「なぜ、苦しむ者に光が与えられ、心の痛んだ者に命が与えられるのだろう。死を待ち望んでも、死は来ない」(二〇〜二一)
 ヨブは、絶望の淵に立ちながら、なお心の片隅に神への希望を抱いていた。ここに信仰がある。
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18日 新約・ローマ九章
 「人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、『あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか』と言えるでしょうか」(二〇)。
 私たちはとかく神に、「なぜ私をこのような才能のない者にしたのですか」「なぜこんな容姿にしたのですか」「なぜこんな家庭に生まれる者としたのですか」「なぜこんな環境にしてくれたのですか」等と、愚痴を言いやすい。
 しかし、そう言う私たちはいったい何者か。陶器が、陶器師に向かって「なぜ私をこんなものに造るのですか」と言えるだろうか。
 愚痴を言っている間は、神の測り知れない配慮と愛は見えてこない。神は、ご自身を愛する人々のために、「すべてのことを働かせて益としてくださる」(八・二八)かたなのである。
 神にあっては、益に変えられない事柄は、一つもない。私たちの足りなさ、愚かさ、逆境、ひどい経験、苦難、悲しみ、挫折、・・・・どんなことも、ご自身に従っていく者たちのために、神が益と変えてくださる。
 どんなことも、神の栄光を現わす場となり得る。そして、それは私たちの信仰次第なのである。
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19日 旧約・ヨブ記四章
 本章から、三人の友が一人ずつ、ヨブに対して言葉を述べる。最初は、エリファズである。
 以下、エリファズ、ビルダデ、ツォファルが、交互に三回ずつヨブと問答を繰り返す。その後エリフという人が現われて仲裁し、最後に神が顕現して、ヨブを訓戒されるという構成になっている。
 最初のエリファズの議論の中心は、「だれか罪がないのに滅びた者があるか」(七)、「人は神の前に正しくありえようか」(一七)である。これは真理には違いないだろうが、これを言う彼の態度が冷酷である。
 エリファズは、ヨブに慰めの言葉をかけるどころか、ヨブを責めたてている。ヨブがこんな目にあうのは、過去に何か罪を犯したからだ。それを白状せよ、と言わんばかりの口調である。
 エリファズは優秀な神学者だったようだが、愛がなかった。神は神学を越えるかたなのである。愛を持たない者に、神のご意図は決して見えてこない。
 主イエスの時代にも、エリファズと同じ主張を、パリサイ人がしている(ヨハ九・三四)。しかし、罪を原因としない苦難というものも、あるのである。
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20日 旧約・ヨブ記五章
 エリファズの議論は、「ヨブは罪を犯した。今回下った災いは、罪に対する神からの懲らしめである。だから悔い改めて救われなさい」というものであった。
 エリファズは九〜一六節で神の力を、一七〜二七節で神の恵みを語っている。これらはみな真理である。しかし、これらの言葉をもって彼は、ヨブが隠れた罪人であることを証拠立てようとした。これは真実ではない。
 エリファズは、「苦難はみな罪に対する懲らしめ」という偏狭な既成神学にとらわれて、それを越えた神のご意図を見失っていた。
 また「私なら神に尋ね、私のことを神に訴えよう」(八)――つまり「私なら悔い改めよう」などと言っているのは、自分が苦難を経験したことがないからか。
 エリファズの言葉はむしろ、うぬぼれに聞こえる。もし彼が苦難を経験したことがあれば、もっと同情的な言葉をかけられたであろう。
 私たちは、人が会う苦難をもってその人を裁いたり、退けたりしてはならない。むしろその苦難を、その人に対して示す慈愛の機会とし、その慈愛によって苦難を退けなければならない。
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21日 新約・マタイ一〇章
 多くの人は、神を恐れず、人を恐れる。しかし主イエスは、人を恐れず、ただ神だけを恐れよ、と言われる(二六、二八)。
 主イエスの言われることは、しばしば、人々が常識と思っていることの逆である。しかし、そこにこそ真理がある。
 主イエスはさらに弟子たちに、ご自身に対する全き従順と忠誠を求められた。主が迫害を受けるのだから、ましてはその弟子たちは迫害を受けなければならない。しかしその中でも、従い通さなければならないと主は言われる。
 そうしたとき、家族さえ敵対することもあるであろう。それでも、私たちは自分の十字架を負って主に従うべきだと、主は言われる。
 自分のために生きる者は命を失い、キリストのために自分の命を捧げる者は、その命を自分のものとするであろう(三九)。
 また、主イエスに対する従順と忠誠には、大きな報いが伴う。その人には永遠の命と、絶対的な幸福が与えられるのである。さらに、イエスの弟子を弟子だというので受け入れて、「水一杯でも」(四二)世話をしてくれるような人も、報いから漏れることはない。
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22日 旧約・ヨブ記六章
 ヨブは、自分に下った災いがあまりに重かったために自分の言葉がつい乱暴になってしまった、と認めている(三)。しかしそうした中でも、もし友が一片の同情を見せてくれていたら、嘆くことも少なかったであろう(五)。それもないので、今では死ぬことに慰めを感じると、彼は言う。
 自殺をしようとは思わない。しかし、もし自分の苦難が神の刑罰なら、神の裁きは常に正しいから、神の御手にかかって死ぬことはまた喜びだとさえ言う(九〜一〇)。
 けれどもヨブは、正直に考えて、神からこんな刑罰を受けるべき罪が思い当たらなかった。だから、少なくとも友からは同情が欲しかった。
 しかし、エリファズの口から出たのは、ヨブを責めたてる言葉だけだった(二五)。ヨブの気持ちは、
 「落胆している者には、その友から友情を。さもないと、彼は全能者への恐れを捨てるだろう」(一四)
 であった。同情も慰めも与えずに、ただ理屈で詰問して悔い改めさせようとすれば、人はかえって失望し、自暴自棄になるだけなのである。
 「友はどんな時にも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」(箴言一七・一七)。
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23日 旧約・ヨブ記七章
 日雇い人や奴隷は、苦しみが多いものの、夜には安眠があり、朝には元気な起床もあるであろう。しかしヨブの夜は、辛く悲惨だった(四)。彼は眠ることさえできなかったのである。
 ヨブは神に祈っている。人のいのちは短いのに、なぜ神は自分を「的」とし、災いが及ぶのを許して、重荷を負わせられたのかと(二〇)。
 これはまことに、彼にとって不可解きわまりなかった。私たちの人生に降りかかってくる苦難も、実際不可解なものが多いではないか。
 「自分はそれほどに罪深いのか。もっと罪深くて平穏無事に暮らしている人が、ほかに大勢いるではないか。自分はなぜこんな目に会わなければならないのか」
 だから、ヨブは「自分の口を制することをせず」(一一)、率直に全能者に向かって疑問をぶつけた。
 ヨブは、一個の自由な人格として、全能者という巨大な人格の前に対峙したのである。私たちも、つねに一人一人が一個の人格として、全能者の前に対峙している。
 私たちが人生の疑問を全能者にぶつけることは、決して悪いことではない。むしろ、神はその疑問を待っておられる。
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24日 新約・ローマ一〇章
 「聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう」(一四)。
 私たちは、日本のリバイバルのために祈るべきである。しかしリバイバルは、ただ祈れば起きるというものではない。
 たとえば農夫が、「主よ、どうか豊かな収穫を与えてください」と祈るだけで、外へ出て働かないとしたら、収穫は得られるであろうか。
 得られるはずがない。神は、働く農夫の姿を見て、その祈りを祝して下さる結果、彼に豊かな収穫が与えられるのである。
 リバイバルという魂の大収穫も、同じである。祈るだけで、働かず、御言葉を宣べ伝えないなら、リバイバルは決して起きない。リバイバルを、ただ祈っていれば起きる奇跡のように思ってはならない。
 聞いたことのない方を、どうして信じることができるだろう。人が真理を聞くとき、そこに聖霊が働かれるために、回心が起こる。だから、人が真理を知ることなしに回心することは、決してあり得ない。
 私たちには真理を語るべき責任がある。私たちは隣人に負い目を持っている。御言葉を語るべきという負い目である。
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25日 旧約・ヨブ記八章
 つぎに、ビルダデが口を開いた。ビルダデは、先のエリファズにまさって偏狭な既成神学の力説者であった。彼もまた、ヨブに対して同情を示さない。
 ビルダデはヨブに対し、いつまで激しい風のように乱暴な事を言うのか、と詰めよる。神は正しいのだから、ヨブの子どもたちが死んだのはそれに相当する罪があったからだ、と彼は断定してしまう(四)。
 また、ヨブ自身も悔い改めれば、救われて繁栄が回復されると述べる。結局ビルダデの神学は、
 「義人はつねに繁栄し、悪人はつねに苦難にあう」
 であった。
 しかし、実際の世の中は必ずしもそうはなっていない。義人はしばしば苦難にあい、悪人は栄えている。この世だけを見れば、人の善悪に対して公平な報いが与えられているとは言えない。
 ビルダデの話は、因果応報の論法であった。因果応報説は、ビルダデだけでなく、仏教の中にもある。
 しかし、苦難は必ずしも悪の結果ではない。魂には、苦悩を通してでなければ清められない部分がある。人は、魂をさらに清められるために、苦難にあうことがある。
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26日 旧約・ヨブ記九章
 ヨブには、罪を犯した自覚がない。彼は「私は潔白だ」と主張する。けれどもそれに続けて、
 「しかし私には自分自身がわからない」(二一)
 とも告白する。人は、自分のことですら完全に知っているわけではない。罪がないと思っても、神がお探しになれば、きっと罪が認められるだろう。だからヨブは、
 「たとい私が正しくても、神に答えることはできない。私をさばく方にあわれみを請うだけだ」(一五)
 と述べる。たとえ自分は義人だと思えても、恐れなく神の御前に出ることはできないのである。
 ここに至ってヨブは、ある重要な認識に到達する。人は神との間に「仲裁者」(三三)を持たなければ、恐れなく神の御前に出ることはできない、という事実である。
 ヨブは、この時点でそのような仲裁者が存在するとは思ってもいないし、その仲裁者がイエス・キリストであることも知らない。しかし、仲裁者の必要性について目覚めたのである。
 彼は、苦悩を通してある重要な認識を得た。それは、自分の義では恐れなく神の御前に出られないこと、そして、仲裁者の必要性である。
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27日 新約・マタイ一一章
 私たちは、しばしば奇跡を追い求めやすい。病人のいやし、悪霊追放、そのほか、神の奇跡はどれもすばらしい。
 それらがもっともっと日本で行なわれたら、福音宣教は一気に前進するのに、と思う。そして、奇跡を行なえる力を祈り求める。
 しかし実際には、奇跡がたとえ多くなされても、福音が前進しない場合がある。主イエスは、力あるわざが数多く行なわれながら悔い改めなかった町々を、二〇節以降で責め始められた。
 私たちも、奇跡をたくさん人々に見せることができれば日本にリバイバルが起きる、というような安易な思いを持つべきではない。
 神は、必要な時には奇跡を起こして下さるであろう。しかし、奇跡より大切なものがある。それは真理である。福音宣教は、神とイエスの真理がどれだけ強く人々の前に説き明かされるかにかかっている。
 創造者なる神、人生の目的は神と共に生きる幸福にあること、イエスの救い、永遠の命と天国の至福・・・・それらに関する真理が、力強く説き明かされ、人々に知らされなければならない。
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28日 旧約・ヨブ記一〇章
 ヨブは、自分の疑問を神にぶつける。「なぜ私と争われるのかを、知らせてください」(二)。
 ヨブはそれまで、神の御前に誠実に生きてきた。しかし今や、人生の最後と思えるこの時に、悲惨な状況にあえいでいる。もしこのまま惨めなかたちで人生を終わるのなら、もともと生まれないほうが良かった、と彼は言う。
 ヨブは、この苦しみは理不尽だと、神に不平を訴える。しかし彼は、神を非難しているわけではない。その口調には、なお敬虔さがある。彼はただ率直に疑問をぶつけているのである。
 私たちは苦難の底にあるとき、なぜ神はこの時もだまっておられるのかと、疑問に思うことがある。神の沈黙が、ますます苦しみを増加させるように思えることもある。
 しかし、たとえば金は、熱い炉の中でしばらく精錬されなければ、高純度のものとはならない。また朝顔の花は、二四時間日を当てると、つぼみが開かないという。それが咲くためには、光に先立つ闇と、夜の低温が必要なのである。
 神は人を精錬するために、人をある一定期間、暗黒と苦悩の炉の中に投げ込まれることがある。
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29日 旧約・ヨブ記一一章
 今度は、三人目の友ツォファルが口を開く。
 彼も、先の二人にまさって、その言葉には同情がない。そして単刀直入に、ヨブはおしゃべりで強情だと非難する。ツォファルの論法は、
 「神は不信実な者を知っておられるのだから、悔い改めよ。そうすれば、神はあなたの罪を忘れてくださる」(六、一一)
 である。
 彼の語っていること自体は、間違いではない。彼は正論を語っているし、その内容は真理である。しかし彼の言葉は、ヨブに対しては冷たすぎた。ツォファルの言葉は、ヨブをますます落胆させ、反発させることになる。
 私たちにはなぜ、「仲裁者」(九・三三)が必要なのか。
 仲裁者であるキリストは、私たちが罪を犯したとき、私たちのためにとりなして下さる。
 しかしそれだけでなく、彼は、私たちが自分の犯さなかった罪に関して訴えられたようなときも、それに関して弁護して下さるのである。だから、私たちは仲裁者キリストなしに神の御前に出ることは、できない。
 キリストの仲裁に感謝しよう。
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30日 新約・ローマ一一章
 「神の賜物と召命とは変わることがありません」(二九)。
 イスラエル民族の多くは、今もキリストを拒んでいるために、神から離れている。では、彼らは捨てられたのか。
 そうではない。彼らはキリスト再臨の時に救われて、やがてみなクリスチャンになるのである。こうして栽培種のオリーブであるイスラエル民族と、野生種のオリーブである異邦人クリスチャンとは、最終的に一つの木となる。
 神の召命は変わることがない。これは、私たち一人一人の召命についても言える。神はあなたを神の民に召された。天の座からご覧になって人の心をみそなわす神は、あなたを選んで召し、ご自身の栄光を現わす民の一員とされた。その召命は変わることがない。
 神ご自身のほうからあなたを捨てることは、決してない。あなたは神をどこまでも信頼し、従っていってよいのである。
 ときには、辛いこともあるだろう。「神は私を捨てられたのか」と思えるような時もあるかもしれない。しかし、神はあなたを捨てていない。
 復活の栄光は、十字架の苦難のあとにやって来る。
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31日 旧約・ヨブ記一二章
 ヨブは、自分は神の全知全能と正義をよく知っていると主張する。これについては、三人の友の悟りに劣らない、と彼は言う(三)。
 しかしヨブはさらに、この世の中には三人の友が言うような単純な正義論だけでは理解できない事も多いと、指摘する。地上世界ではしばしば、悪人が栄え(六)、義人が物笑いになっている(四)。
 三人の友は、長年の経験によって知恵ある者であるかのようにあれこれ言うが、本当の知恵と力とはただ神にある(一三)。彼らの言うことときたら、口が食物の味を知るように、耳が言葉を知るように、平凡で無味乾燥なことばかりではないか(一一)。
 すべての生き物の命と、すべての人間の息とは、神の御手のうちにある(一〇)。すべては神のご支配のうちにあるのであり、人間がその奥の意図を完全にはかり知ることはできない。
 だから、三人の友が何でも知っている者であるかのように、あれこれと高飛車に主張するのは適切ではない、とヨブは言っているのである。
 私たちも、苦しむ者を見たとき、高飛車にあれこれと自説を説いてはいけない。
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