聖書一日一章

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1日 旧約・第一サム九章
 神は、イスラエル最初の王として、サウルをお選びになった(一六)。
 サウルは実際、主の御前に敬虔な人物で、決断力、行動力、思考力等に優れた人物であった。彼は王位にあった後期には堕落したものの、それでも他の人が王になるよりは良かったのである。
 サウルは、はからずも預言者サムエルの所へ行ったとき、自分が王に選ばれたと告げられた(二〇)。サウルはサムエルのところに、
 「この人の言うことはみな必ず実現します」(六)
 と言われてそこへ行ったのである。
 語ることが必ず成就することは、真の預言者の証しであった。成就しないことを語るのは偽預言者である。
 今日、成就しないことを語る偽預言者が少なくない。たとえば、ものみの塔の創始者たちは、自分たちを「預言者」と呼んだが、キリスト再臨の日時に関する彼らの「預言」はすべて外れた。
 また日本の最近のある新興宗教の教祖は、世界の動向について多くの「預言」を行なうのだが、これがほとんど外れている。が、それでも信者が減らないのだから不思議だ。しかし真の預言者とは、サムエルのような人をいうのである。
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2日 新約・使徒二章
 かつてイスラエルは、出エジプトから三日目に紅海を渡った(出エ一二・四〇、一三・二〇、一四・二)。
 さらにユダヤ人の伝承によると、それから五〇日目にシナイ山で律法が授与された(出エ一二・二、六、一九・一、一一)。また律法授与の日には、不従順な民に神の裁きが降り、約「三千人」が死んだ(出エ三二・二八)。
 本章のペンテコステ(五旬節)の出来事は、これらの歴史を「踏み直す」ものである。
 イエスは十字架の死から三日目に復活されたが、このペンテコステは、それから五〇日目にあたる。その日、弟子たちに聖霊が降り、新時代が始まった。またその日、約「三千人」が弟子に加えられた(四一)。
 つまり、ペンテコステの日の出来事は、かつてのシナイ山での律法授与の歴史を踏み直したうえで、さらに新時代を開くものであった。律法の時代はひとまず役割を終え、この日から聖霊の時代が始まったのである。
 聖霊は、父なる神から、御子キリストを通して私たちに注がれた霊である(三三)。この霊によって、私たちは神とイエスに結びつけられている。
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3日 旧約・第一サム一〇章
「油を注ぐ」(一)ことは、王や大祭司の任職式において行なわれた。これは神からの任職を表すものである。
 聖書では、「油」は聖霊の象徴である(一ヨハ二・二七)。イエス・キリストが洗礼を受けられたとき、聖霊が彼に降ったが、これはイエスに対する「油注ぎ」であった。
 「キリスト」すなわち「メシヤ」は、原語では「油注がれた者」の意味である。イエスは、神から救い主として任職されたかたなのである。
 サウルは、イスラエル初代の王として、預言者サムエルにより神からの油注ぎを受けた。神は、ご自身がサウルを選んだことをサウルにも民にも示すために、幾つかしるしとなることを行なわれた。
 サウルが王となった時から、イスラエル統一王国時代が始まる。この時代に王は、サウル↓ダビデ↓ソロモンと三代にわたって交代した。
 サウルは王となるにあたり、王としての責任を告げられた(二五)。
 異邦の国では、王は多くの場合、自分の私利私欲のために民を支配した。しかしイスラエルの王は、自分ではなく、民のために働くことが責任とみなされた。
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4日 旧約・第一サム一一章
 アモン人は、ヤベシュ・ギルアデに住むイスラエル人を包囲し、彼らを征服しようとした。
 アモン人の首領の名「ナハシュ」は蛇の意味であり、彼はエデンでアダムとエバを誘惑したあの蛇――サタンをさえ思わせる。
 ヤベシュ・ギルアデの人々は、強力なアモン人の軍隊を前に、一時は降伏を考えた。しかし、サウルは彼らを助けて、アモン人を打ち破った。
 「ふたりの者が共に残ることはなかった」(一一)
 とは、アモン人の完全な敗北を示す。
 この出来事は、サウルがイスラエルの王として力を持つ者であることを、内外に示すものであった。
 サウルは前章において、くじで王に選ばれたとき、よこしまな者たちの軽蔑を受けた。しかしそれに耐え、「黙っていた」(一〇・二七)。
 また、アモン人との戦いが終わったこの時、サウルを馬鹿にした者たちを殺しましょうと民のある者は提言したが、サウルはその提言を排し、むしろ主の救いに彼らの目を向けた。
 サウルのこうした寛容な態度は、この勝利者をさらに光輝あるものにした。
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5日 新約・ヘブル四章
 神は、六日間の創造のみわざのあと、第七日を安息の日とされた(四)。それと同様に、人類六千年の歴史のあと、一千年におよぶ千年王国、および新エルサレムの安息が私たちを待っている(九)。
 この希望は、初期のクリスチャンたちも明確に持っていた。二世紀前半のキリスト教徒が書いたと見られる文書『バルナバの手紙』には、当時の人々の考えが記されている。
 それによると、アダムからアブラハムまでが約二〇〇〇年、アブラハムからキリストまでが約二〇〇〇年であったように、キリスト教時代も二〇〇〇年続き、ついで安息の一〇〇〇年が来るであろうという。
 ここで注目すべきことは、キリスト教時代が二〇〇〇年続き、そのあとに千年王国が来ると、キリスト教のきわめて初期の人々が考えていたということである。
 キリスト教時代は、すでに二〇〇〇年に達しようとしている。いずれにしても、西暦二〇〇〇年前後が大変動の年になることは、ほぼ間違いないであろう。
 主イエスがいつ来られてもいいように、備えをしよう。
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6日 旧約・第一サム一二章
 「主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ」(二二)。
 イスラエル民族がこれまで多くの罪を重ねながらも、主から完全に捨てられることがなかったのは、イスラエル民族のためというよりも、むしろ主ご自身の「偉大な御名のため」であった。
 これは、クリスチャンたちについても言える。あなたはこれまで、クリスチャンになってからも、罪を犯したことがあるかも知れない。しかし主は、あなたを捨てることをなさらなかった。
 それは、あなたのためというより、むしろ主ご自身の偉大な御名のためである。主は愛と義の神であるので、その御名を汚さないために、あなたを捨てることができない。主はあえて、あなたをご自分の民とされる。
 もし、神が私たちを救うことが単に私たちのためであるなら、その救いは不安定である。なぜなら私たち自身には、救われるべき価値がないからだ。
 しかし、私たちを救うことが主ご自身の御名のためであるなら、その救いは確実である。主はご自身を偽ることが出来ないからである。
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7日 旧約・第一サム一三章
 いけにえを捧げることは、祭司にのみ許されたことであり、たとえ王であってもそれをしてはならなかった。
 サムエルは預言者であり祭司であったから、戦いに際して、全焼のいけにえや和解のいけにえをささげる権利があった。しかしサウルはその権利がないのに、民が不安に陥ったという理由で、自分で勝手にいけにえをささげてしまった(九)。
 これは神への信仰に発したものではなく、民心をつなぎとめるためになされた早まった人間的行為であった。サムエルが約束の日までに来なかったからといって、サウルが自分でいけにえを捧げる権利はなかったのである。
 これは、サウルの犯した最初の重大な罪であった。現代的感覚からすれば、ささいな失敗に思えるかも知れない。
 サウルは何かを盗んだわけでも、人を殺したわけでも、誰を傷つけたわけでもない。しかし、彼は主の命令に背いた。これは主の前では大きな罪であった。
 世の人の感覚でいう重大な「罪」と、聖書のいう重大な「罪」とは必ずしも一致しない。聖書では、不従順が最大の罪とされるのである。
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8日 新約・使徒の働き三章
 使徒ペテロがイエスの御名によっていやした男は、「生まれつき足のきかない男」であった(二)。
 エルサレムの人々の多くは、この男を幼少の頃から知っており、その歩いた姿を見たことがなかった。
 その彼が、急に歩きだし、跳んだりはねたりしながら神を讃美し始めたのだから、その光景は人々に強烈なインパクトを与えた。それは人々の注目を使徒たちに集めるために、充分な出来事であった。
 それはたった一人の人物に起こった奇跡であったが、その影響は甚大であった。あのペンテコステの日の異言に続くこの出来事をきっかけとして、ペテロたちの宣教は爆発的に拡大していく。
 今日も、爆発的なリバイバルが起こるとき、ある小さな奇跡が発端となることがある。
 しかし奇跡は、ただ待っていれば与えられるというものではない。この男のいやしも、ペテロとヨハネが信仰を持って大胆に働きかけたから起きたのである。
 奇跡は決して、自然発生的ではない。それは人の信仰が神の恵みに感応することによって、必然的に発生するものなのである。
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9日 旧約・第一サム一四章
 サウルは、ヨナタンの勝利に刺激され、ペリシテ人と戦った。
 その際サウルは、イスラエルの民に断食の誓いをさせた(二四)。この誓いは一見宗教的に見えるが、決して賢明なものではなかった。
 何も食べずに戦闘をしたイスラエルの民は、激しい空腹に襲われて分捕り物に飛びかかり、血のままで肉を食べるという罪を犯した。
 血のままで食べることは、律法で堅く禁じられていた。こうしてあの無益な誓いが、民に罪を犯させるに至った。その結果、神との交わりも損なわれた(三七)。
 私たちは一切誓ってはならない(マタ五・三四)。また「重い荷をくくって、人の肩にのせ」てはならない(マタ二三・四)。極端な宗教主義は、人を苦しめ、また自分も苦しめることになる。
 サウルはエポデで神意をうかがおうとし(一八)、ざんげのために祭壇を築くなど(三五)、いかにも宗教的のようであったが、その宗教は表面にとらわれたものであった(四四)。
 一方、ヨナタンの信仰には自由があった(二九)。真の宗教は、決して頑迷なものではなく、自由な発想に満ちている。
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10日 旧約・第一サム一五章
 神はサウルに、アマレク人の聖絶を命じられた。これは彼らの人畜を共に滅ぼせ、ということである。
 しかしサウルは、アマレクの王アガグを殺さず、また家畜の最も良いものを惜しんで聖絶しなかった(九)。彼は主のご命令に服従することを軽んじたのである。
 家畜を殺さなかったのは、それをいけにえとして主に捧げるためだとサウルは言ったが(一五)、それは偽善の言い訳に過ぎなかった。
 サウルはさらに、自分は主のご命令に従ったのに、民が勝手に家畜を生かしておいたのだと、自分の過失を民のせいにしている(二一)。
 一方、アガグを生かしておいたことに関しては、サウルは一言の弁解もできなかった。
 サウルは、自分の戦勝記念碑だけは即座に建てた(一二)。また、自分が神から退けられたと聞いたとき、彼は神の前に悔い改めようとするのではなく、むしろ民の間で自分の面目が保たれることを求めた(三〇)。
 過ちをしたとき、どのような態度を取るかで、その人の真価がわかる。また、主に従うことは何にもまさって重要である。サウルはこのテストにおいて、不合格であった。
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11日 新約・ヘブル五章
 メルキゼデクは、かつてアブラハムが甥のロトを救い出すために敵を打ち破ったとき、アブラハムを祝福しに来てくれた人物である(創世一四・一八)。
 メルキゼデクの名は「義の王」の意味であり、彼は当時のシャレム(のちのエルサレム)の王であった。彼はまた「いと高き神の祭司」であった。
 彼についてはそれくらいのことしかわからない。しかしメルキゼデクは、エルサレムで王と祭司の役を担うため神から直接任命され、キリストの予型となった人物なのである。
 キリストは現在、私たちの王であり、また大祭司であられる。さらに、来たるべき新エルサレムにおいても、私たちの王と大祭司の役を務められる。
 彼は「大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いとをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられ」て、神によってその務めに召された(七)。
 私たちも、来たるべき千年王国のとき、祭司と王の役を仰せつかる(黙示二〇・六)。私たちは敬虔な祈りと願いとにより、神の恵みによって、それにふさわしいものに成長していきたい。
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12日 旧約・一サム一六章
 神はサウルを退け、彼に代わる新しい王として、ダビデを選ばれた。
 「人はうわべを見るが、主は心を見る」(七)。
 主はダビデの心を探り、ご自身の予知に基づいて彼を選ばれた。
 このときサウルは、まだ形式上は王の地位にあった。しかし彼はすでに、神の祝福を失っていた。それは彼が、このときもまだ悔い改めていなかったからである(二)。
 本当に悔い改めた者は、自分はどうなってもいい、神のみこころが行なわれますようにと、へりくだるものである。しかしサウルは、自分の地位を守ることだけを考えていた。
 そこで神は、サウルに「悪い霊」を送られた(一四)。これは道徳的に悪いということではなく、情緒不安定の霊、あるいは鬱病の霊など、人間に好ましからざる影響を与える霊のことである。
 悪い心は悪い霊を呼び込む。サウルの心は悪い霊を呼び込み、その心は一層悪くなった。
 一方ダビデは、次の王として神に選ばれてはいたが、すぐに王位につくわけではなく、まずサウルに仕え、人に仕えることを学ばされた。これは彼が、サウルのような傲慢の罪を犯して失敗しないためであった。
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13日 旧約・一サム一七章
 ペリシテ人の挑戦に、サウルは恐れ、意気消沈したのに対し(一一)、ダビデは大いに憤慨し(二六)、自ら戦おうとした。これは主の霊がすでにサウルを去り、ダビデの上にあったからである。
ダビデはこの時、まだ若い紅顔の美少年であった(四二)。その彼がただ一人で、二メートル八六センチの大男ゴリヤテに立ち向かったのである(四)。
 ダビデは最初、サウルのよろいかぶとを着てみたが、所詮、慣れない他人のものを借りたところで役には立たない。彼は結局それを脱ぎ捨てた(三九)。
 私たちも、人生の戦いにおいて、ときに人からの知恵や方法など、借り物を用いようとする。しかし本当に役に立つのは、自分に完全に身についたものだけである。
 ダビデにとって石投げは、幼少から完全に身についたわざだった。私たちも、いざというときは、自分の身についたものだけが効力を発する。
 信仰は、身についていなければ、いざというとき役に立たない。信仰には鍛錬が必要である。頭のてっぺんから足のつま先まで、信仰に満たされるよう祈ろう。
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14日 新約・使徒の働き四章
 「信じた者の群れは、心と思いを一つにして、誰一人その持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた」(三二)。
 当時の社会は貧富の差が激しく、貧しい者は食うにも困る生活をしていたが、初代教会においてはこの問題は解消されていた。初代教会は、キリスト教共産主義と呼ばれる形態をとったのである。
 これは二〇世紀の無神論共産主義とは異なるもので、彼らは制度によってではなく、キリストの愛によって持ち物を共有にしたのである。
 当時まだ小規模の共同体であった初代教会において、これは有効に機能していた。資産家の信者は、教会と宣教の必要に応えるために、資産をお金に換えて持ってきた。
 彼らは何よりも、お金を共有にしたのである。富んだ者も貧しい者も、自分の資産に応じて献金した。
 人がお金を持つとき、それを何に使うかということで、そのひととなりが知られる。神を愛する者は、自分のお金をいかにしたら神と人のために使えるかを、真剣に考える。
 私たちも、お金に生きるのではなく、いかにしたらお金を本当に生かせるかを、常に考えたい。
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15日 旧約・一サム一八章
 人々は「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と歌ったので(七)、サウルはダビデをねたみ、恨んだ。
 サウルのひねくれた心は悪い霊を引き寄せ(一〇)、彼はさらに情緒不安定におちいった。
 サウルはダビデを殺そうと思った。しかし自ら手を下してはまずい。彼は、ペリシテ人との戦いでダビデを戦死させようと考えた(一七)。
 しかしダビデは戦死せず、ペリシテ人を打ち破って、その陽の皮(割礼の時に切り取られる男性の生殖器の包皮)二〇〇を持ち帰り、サウルへの約束を果たしてしまった。
 サウルはますますダビデを恐れ、敵視するようになった。しかし本当は、ダビデはサウルにとって真の「敵」ではなかった。
 サウルは、自己保身だけを考えていたから、ダビデが「敵」に思えた。けれどもダビデこそ、イスラエル全体のことを考えれば、好ましい人物であった。
 私たちは、自分より優れた人物が現われたとき、その人をねたむのではなく、尊ばねばならない。「彼は栄え、私は衰える」(ヨハ三・三〇)と言って、喜んでその人にあとを頼むくらいの謙虚さがほしいものである。
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16日 旧約・一サム一九章
 人の心は、悔改めをすれば、神の憐れみを受けてやがて良い方向へ向かう。しかしサウルは、悔改めをしなかったので、その心はますます悪へと傾いていった(一)。
 善い心は善い霊を引き寄せ、悪い心は悪い霊を引き寄せる。ちょうどラジオが波長の合う電波を受信するように、サウルの心は再び悪霊を引き寄せた(九)。
 サウルは、ダビデがサムエルのところに逃げたと知ったので、ダビデを捕らえようと使者たちを遣わした。使者たちはサムエルらの近くに行くと、預言を始めた。おそらく陶酔状態で神を讃美したり、神託を受けたりしたのであろう。
 サウル自身も、そこへ行くと預言の霊に満たされ、預言を始めた。
 これはちょうど、無線送信機のすぐ近くにラジオを置いた場合に似ている。無線送信機の波長とラジオの受信波長が違う場合でも、送信機付近の電波の強度は非常に強いので、波長が違ってもその電波がラジオに受信されてしまうことがある。
 サムエルと預言者の一団がいるラマの地は、預言の霊が強く満ちていた。それで、誰がそこへ行っても、人は預言の霊に感応したのである。
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17日 新約・ヘブル六章
 私たちは、信仰的にさらに成長することが求められている(一)。
 信仰的にまだ幼児である人と、大人である人がいる。幼児は大人へ、大人はさらに成熟へ進むべきである。
 肉体の成長には、食物、運動、睡眠(休息)が必要である。同様に私たちが霊において成長するためには、神のみことば(聖書)という「食物」を毎日豊かに食べ、伝道や愛の行ないという「運動」を日々行ない、また祈りを通して神の御前に「安息」を得ることが必要である。
 どれが欠けても、健全な成長は望めない。バランスが大切である。
 ある人は聖書をよく学ぶが、伝道や善行や祈りをあまりしない。ある人は伝道や善行はよくするが、聖書学習や祈りはあまりしない。ある人はよく祈るが、聖書学習や伝道、善行をあまりしない。
 これらはいずれも、かたよった信仰である。私たちはバランスある大人に成長したいものである。
 信仰的に大人である人は、信仰的に幼い信者を裁くことがない。また、伝道や善行の面で大きな成果をあげながらも、それを誇ることがなく、ごく当然のように神に栄光を帰す。
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18日 旧約・一サム二〇章
 「エッサイの子(ダビデ)がこの地上に生きている限り、おまえ(ヨナタン)も、おまえの王位も危うくなるのだ」(三一)
 という言葉は、サウルが自分の王位に執着し、王位の世襲を考えていたことを示している。そのために、ダビデは邪魔に思えた。
 ダビデという優れた人物は、傲慢で利己的なサウルにとっては、ねたみと憎悪の的であった。しかし、心のきよい無私のヨナタンにとっては、自分と同じほどに愛を注ぎたいと思わせる相手であった(一七)。
 このとき、ヨナタンはすでに、ダビデが油注がれたことを知っていたのであろうか。ヨナタンは、
 「主が私の父とともにおられたように、あなたとともにおられますように」(一三)
 と言った。この言葉は、彼がすでに知っていたか、あるいはそう感じ始めていたことを示しているように思える。さらに、
 「あなたの恵みをとこしえに私の家から断たないでください」(一五)
 ともヨナタンは言った。古代では、王朝が変わると前王朝の係累を殺すことが多かった。この言葉は、ダビデがそのようなことをしないようにとの願いである。
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19日 旧約・一サム二一章
 ダビデは、王になる油注ぎを受けた人物であるというのに、一人の家来さえ伴っていなかった(一)。
 王になる約束は与えられていたが、現実世界にはその事実がまだ現われていなかったのである。霊の世界では成就していても、物質世界に事実が現われるのは、おうおうにして何年もあとになってからである。
 かつて、アブラハムもそうであった。アブラハムは、自分の子孫が地のちりのように多くなるという神の約束を受けてから、じつに二〇年以上たって、ようやく最初の子イサクを与えられた(創世一三・一六)。
 アブラハムはその二〇年以上の間、多くの試練に会い、失敗も犯した。同様にダビデも、現実世界で王となるまでの間、様々な試練に会わねばならなかった。
 ダビデはサウルの目を避け、逃亡生活を続けた。かつて、無実の罪で追われた男を描いた「逃亡者」という人気テレビドラマシリーズがあったが、このときのダビデはその逃亡者の心情であったろう。
 ダビデは、気違いを装って難を逃れるなど、みじめな生活を強いられた。しかしこうしたことはすべて、彼がやがて王となるための、神からの訓練だったのである。
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20日 新約・使徒五章
アナニヤとサッピラの罪は、代金の一部しか持ってこなかったことにあるのではない。一部だけ持ってきて、残りを自分のために使うのは彼らの自由である(四)。
 もし彼らが「一部だけ持ってきました」と正直に言ったならば、裁きには会わなかったであろう。しかし彼らは、それが代金の全部であるかのようにウソをついた(八)。
 彼らは人に良く見られたいという虚栄をはって、そうしたのであろう。また、ありのままの自分で神の御前に出ることをしなかったのである。
 このような罪は、通常の状態では死ぬほどの裁きに会うものではない。しかし、リバイバルというものは、救いだけでなく、厳粛な裁きも下される時なのである。
 教会のリバイバルをかつて経験したクリスチャンの中には、リバイバルの時に、信者の罪に対して聖霊の厳粛な裁きが下されるのを目撃した、と語る者がいる。
 私たちは、神の前に出るとき、虚栄をはってはならない。ありのままの自分で出なければならない。もし虚栄をはり、人から良く思われたいと思うなら、神はあなたを裁かれるであろう。
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21日 旧約・一サム二二章
 二〇章でダビデが祭司アヒメレクの所へ行ってパンや剣をもらったとき、そこにはサウルの家来の一人ドエグがいて、その様を見ていた(二〇・七)。
 ドエグは、王の歓心を買おうとしてか、機会をみて、自分が祭司アヒメレクのもとで見たことをサウルに告げた(二)。
結局、ドエグはこのために、サウルの命令でなされる大罪に加担することになる。彼は祭司たち八五人を虐殺したうえ、さらに祭司の町の住人や家畜を虐殺した(一八〜一九)。
 上司のご機嫌取りに走ったドエグの罪ももちろんだが、油注がれてイスラエルの王になったサウルが、ここまで堕落したのかと思うと、私たちの胸は痛まずにはおれない。
 この気持ちは、ダビデも同様であったはずである。ダビデはサウルの堕落を思い、激しく胸が痛んだであろう。しかし、サウルはかつて主に選ばれた人である。ダビデは彼を裁こうとはしなかった。
 むしろダビデは、自分は祭司アヒメレクのもとにドエグがいたことに気づきながら不注意だったとし、それを自分の責任とした(二二)。自分で自分を裁くことを忘れないうちは、人は堕落することはない。
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22日 旧約・一サム二三章
 サウルは、ダビデを殺そうと奔走していた。その一方でダビデは、逃亡生活を続けながらもケイラをペリシテ人から救うなど、イスラエルのために働いていた(五)。
 こうしたとき、ヨナタンはダビデに再会することができた。通常であればヨナタンが王位継承者なのだが、ヨナタンは神の御旨を知り、喜んで自分はダビデの次の位に甘んじると言った(一七)。
 ヨナタンは、神に立てられた人を尊び、愛した。私たちも、神に立てられた人を見たならば、その人を尊び、愛さなければならない。
 かつてイスラエルの人々は、王のいない状態はいやだと言って、王制を求め、その結果イスラエルは王制となった。しかし、この時期のイスラエルを見て、士師時代より少しはましになったと言えるであろうか。
 当時は、サウルという王はいたが、霊的には士師時代と同様、暗黒がおおっていた。制度だけでは到底、霊的な進歩は望めないのである。
 しかし、ここに一つの希望が輝き始めていた。神がダビデを訓練し、彼をやがてイスラエルの名君とするために、日々苦難を与えながら教育しておられたのである。
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23日 新約・ヘブル七章
 ここで言っていることは、レビ系でないメルキゼデクがレビ系の祭司よりも上位にある祭司であるということ、そしてキリストはこのメルキゼデクの位に等しい大祭司である、ということである。(一〜一七)。
 つまりキリストの祭司職は、旧約聖書で規定されてきた祭司職よりも上位にある。大祭司キリストの優越性が言われているのである。
 大祭司とは神と人のあいだを仲介する人である。神は聖なるかたであり、人は罪深いので、人はそのままでは神の前に出ることができない。
 しかし私たちにはキリストという大祭司がおられるので、私たちはキリストにあって、神の御前に喜びのうちに進み出ることができる。
 キリストによる仲介は完全である。
 「キリストは・・・・ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります」(二五)。
 「完全に」救ってくださるのである。キリストの救いは中途半端ではない。
 私たちは自分を見るとき、こんないい加減な人間が果たして神の前に出られるのだろうか、と思う。しかしキリストは、そんな私たちを完全に救って、神の前に出させて下さるのである。
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24日 旧約・一サム二四章
 神はダビデに、
 「見よ。わたしはあなたの敵(サウル)をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ」(四)
 と告げておられた。
 しかしダビデは、そのチャンスを得たとき、「彼は主に油そそがれた方だから」と言って、サウルに手をかけることをしなかった(六)。
 もしダビデがサウルを殺したとしても、イスラエルの民はダビデに喜んでついてきたに違いない。王朝が代わるとき、前の王が殺されるのは外国では普通のことである。
 しかしダビデは、サウルを殺さなかった。これは、日本古来の「忠」の精神にも通じるものがある。ダビデは自分の主君に対して、臣下としての本分を全うした。彼は決して主君を裏切ることなく、自分の最善を尽くした。
 真に主君思いの家臣は、主君の過ちを見たとき、自分の命を賭けてでもその過ちを正そうとするものである。ダビデは、そのような家臣であった。
 ダビデは王となる人物であったが、真の家臣でもあった。人に仕えることを知っている者こそ、王にふさわしいのである。
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25日 旧約・一サム二五章
 復讐しにやってくるダビデに対し、ナバルの妻アビガエルは、
 「むだに血を流したり、ご主人さま自身で復讐されたりしたことが、あなたのつまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように」(三一)
 と言ってダビデを止めた。この言葉によってダビデは思い直し、復讐をやめることができたのである。
 アビガエルが夫に無断でパン等を持ち出し、ダビデを止めに向かったことは、命がけの行為であった。この命がけの行為が、アビガエルの家を滅びから、またダビデを罪から救った。
 私たちは、自分で復讐することを禁じられている。復讐は神のすることである(ロマ一二・一九)。
 もしダビデが自分の手で復讐をしていたら、それは彼の汚点となり、民は心の狭い彼に、もはやついて行かなくなったであろう。しかし、ダビデは自分の非を悟るとすぐさま、
 「私が血を流す罪を犯し、私自身の手で復讐しようとしたのをやめさせたあなたに、誉れがあるように」(三三)
 と言ってアビガエルに感謝した。この素直さが、ダビデの偉大さなのである。
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26日 新約・使徒六章
 ユダヤ人はもともとヘブル語を話したが、バビロン捕囚以来、地中海沿岸諸国に離散したユダヤ人も多かったので、外国で生まれた者たちは当時の公用語であるギリシャ語を話した(一)。
 だから当時、旧約聖書のギリシャ語訳である「七〇人訳」というものが盛んに読まれたし、また新約聖書はギリシャ語で書かれた。
 初代教会は、はじめキリスト教共産主義をとっていた。しかし共同体の人数が増えてくると、様々の実務的問題が生じた。一部の人々が、毎日の配給でなおざりにされたりしたのである(一)。
 今日も、教会が大きくなったり、教団が大きくなると、様々の実務的問題をうまく処理していくことが大変重要になる。細かい実務を軽視すると、人々の不満がたまり、聖霊の働きがさまたげられることがある。
 初代教会は、こうした実務的問題を、専門の担当者を選ぶことによって解決した。教会や教団は、規模によって体制を変え、体制を整えていくことが大切なのである。
 これが出来ていない教会は、ある人数まで行くと、そこで成長が止まってしまうことになりかねない。私たちには自由な発想が必要である。
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27日 旧約・一サム二六章
 サウルは、かつて二四章で、ほら穴においてダビデから害を受けなかったとき、声をあげて泣き、ダビデが正しいと言った(二四・一六)。
 ところがここに至って、サウルは再びダビデを殺そうと攻めてきた。もし殺そうと思って来たのでないならば、三千人もの精鋭を連れてくることはなかったであろう(一)。
 サウルは情緒不安定に陥っており、その行動には一貫性がなかった。サウル軍が武装してやって来たので、ダビデは、サウルが再び自分を殺そうとしていることを知った。
 しかしダビデは、忍耐強く家臣としての本分を全うした。ダビデは、再びサウルのすぐ近くまで行って、こっそり槍と水さしを取ってきたが、それはもう一度サウルに、悪意のないことをわかってもらうためであった。
 サウルがどのように死ぬかは、神がお決めになることである(一〇)。ダビデがここですべきことは、自分の置かれた状況で最善を尽くすことであり、実際彼はそうした。
 サウルは、本当は敵ではないダビデを敵と思った。しかしダビデは、現実には敵であるサウルを、敵としては見なかったのである。
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28日 旧約・一サム二七章
 前章で、サウルはダビデを殺さなかった。しかし、いつまたサウルの気が変わるか知れない。
 ダビデは依然として、サウルを避けて生活しなければならなかった。彼は自分でサウルを殺すことをしないと決めた以上、サウルが何らかの原因で王位から退くか、死ぬ時まで待つほかなかった。
 もしクーデターを起こしてサウル王朝を転覆させれば、もうこんな生活はしないで済むのである。しかしダビデは、たとえどんなに辛くとも、神が自分に実際に王位を授けてくださるまで待った。
 ダビデは、ペリシテ人の地でしばらく難をのがれた。ペリシテ人はイスラエルにとっては敵だったが、ダビデはうまく立ち回って彼らに取り入り、そこに住んだのである。
 ダビデがゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人等を襲ったのは(八)、カナンの民を聖絶せよとの神のご命令による(ヨシュア二三・五)。
 ダビデはそれを、ペリシテ人の地に住みながら行なった。サウルに追われながらいるよりは、ペリシテ人の地に住んでいたほうが、彼にとっては良かったのである。
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29日 新約・ヘブル八章
 かつてモーセが幕屋を造ったとき、彼はそれを、山で神から「示された型に従って」造った(五)。
 じつは天には真の幕屋があり、それに似せて、モーセの地上の幕屋が造られた。天の幕屋が「本体」であり、地上の幕屋はその「写し」または「影」なのである(五)。
 私たちの救い主キリストは、この天にある真の幕屋において、大祭司として仕えておられる。つまり天における幕屋や贖いが「本体」であって、旧約の律法による地上の様々の祭儀は、みなその「影」にすぎない。
 クリスチャンが、旧約聖書に記された様々の犠牲の祭儀を今日行なわない理由は、ここにある。クリスチャンはすでに、天における真の贖いにあずかっているので、もはや地上の「影」の祭儀をする必要がないのである。
 これはまた、クリスチャンたちは、旧約の律法に仕えている者たちよりも、いっそう神の近くにおいて仕えている、ということでもある。私たちは、キリストによって神に近づけられた者たちである。
あなたは、いつも神を思い、神を愛して生活しているか。神はあなたのすぐ近くにおられるのである。
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30日 旧約・一サム二八章
 霊媒や口寄せは、律法によって堅く禁じられていたから、サウルは彼らを国内から追い出していた(三)。
 ところがサウルは、危機におよんで自ら霊媒のもとへ行き、伺いをたてた。これは彼の霊的な堕落が、極限に達したことを示す。
 霊媒や口寄せは、死人の霊を呼び出したり、死人と会話したりするが、そこには普通は悪霊が関与しているので、クリスチャンは彼らと関わってはならない。
 しかしこの場合、サウルに警告を与えるために、本当にサムエルの霊が出てきたようである。
 「年老いたかたが上ってこられます」(一四)
 とは、下にある「よみ」からサムエルが上ってきたことを言っている。
 旧約時代、すべての人は死後「よみ」に下った。善人も悪人も、神の民もそうでない者も「よみ」に下った(一九)。
 預言者サムエルも、死後すぐに天国へ行ったのではなく、よみの「慰めの場所」に行っていた(ルカ一六・二五)。彼が天国に入るのは、キリストの昇天の時になってからである(エペ四・八)。
 今日、クリスチャンが死後すぐに天国へ行けることを感謝しよう。
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31日 旧約・一サム二九章
 ダビデはそれまで、ペリシテ人の地でうまく立ち回っていた。しかしここにきて、非常に緊迫した事態に直面した。
 ペリシテ人がイスラエルと戦おうとしたのである。しかしダビデは、本来ペリシテ人の味方ではない。この時もそうである。ダビデの愛するはイスラエルであった。
 ダビデは、ペリシテ人と共に出陣して、戦いの最中にペリシテ人を裏切り、それによってイスラエルに勝利をもたらそうと計画していたのかも知れない。
 しかし、それは神の好まれる道ではなかった。たとえ相手が敵のペリシテ人であっても、裏切りというようなきたない手を使えば、それは後々までもダビデの汚点として語り告がれてしまうであろう。
 ダビデは神の導きにより、ペリシテ軍から外された。彼は、きたない手を使わずに済んだのである。これは神の恵みによる。
 ダビデはこうした状況下で、内心は非常に葛藤があったに違いない。
 私たちもときに、判断が非常に難しい局面に立たされることがある。しかしそうした時、神の導きとご判断を仰ぐことを忘れてはならない。
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