聖書一日一章

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1日 新約・使徒一二章
 教会への迫害は強まり、ついに初めての殉教者が出た。一二使徒の一人ヤコブ(二)が殺されたのである(彼は、一七節に出てくる主イエスの弟のヤコブとは別人である)。
 迫害者たちは、さらにペテロを捕らえ、監禁した。このとき教会は、ペテロのために「熱心に祈り続けていた」(五)。
 主はその祈りに答え、御使いを遣わしてペテロを助け出された。ペテロは助け出されて、兄弟姉妹たちのところへ行った。
 女中が応対に出てきたが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門をあけもしないで奥へかけこみ、ペテロが門のところに立っていると皆に告げた。ところが皆は、
 「あなたは気が狂っているのだ」
 と言ったという(一五)。彼らはペテロが助け出されるよう祈っていたというのに、いざその祈りが答えられると、「まさか、そんなことあるものか」と言ったのである! これは、祈りが答えられることを信じていない者の言葉である。
 初代教会の人々の信仰も、ある時は私たちと同様この程度のものだったのかと思うと、かえって親しみがわいてくる。
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2日 旧約・第二サム一九章
 反乱軍への勝利を悲哀となし、凱旋軍を逃走者のように帰らせたのは、もともとヨアブが、王子アブシャロムを殺したからであった。
 なのにヨアブは、王子の死を悼む王の心に少しの同情もなく、皮肉の言葉をあびせるだけであった(六)。ダビデは、むやみな反論はしなかったが、事態の収拾に努めたのち、ヨアブを更迭した(一三)。
 そののち、ダビデ王を迎えようとシムイがやって来た。彼はかつて、アブシャロム軍から逃げるダビデを見て、のろった人物である(一六・七)。
 シムイは結局、如才なく立ち回る日和見主義者で、ダビデ王が勝利をおさめると、いち早く王を迎えて謝罪した。ダビデは寛容にも、彼をゆるした。
 一方メフィボシェテの、ダビデに対する忠誠無私な態度は、じつにうるわしい。彼は王の恵みに対する感謝の情にあふれ、一言の不平もなく、権利を欲せず、ただ王をもって満足している(二四〜二八)。
 人間の価値は、危機の時に真に知られる。私たちはこれらの人間模様の中に、人生というものを読みとるのである。
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3日 旧約・第二サム二〇章
 ダビデはもはや、そばめの所に通わなかった。それは彼女たちが、彼の息子アブシャロムに犯されたからである(一六・二二)。
 ダビデはこのとき、家臣であったヨアブをすでに更迭していた。しかし、ヨアブは復権する機会をねらっていた。ヨアブは、自分の代わりにアマサが登用されたのを見てねたみ、機会を見てアマサを殺した。
 ヨアブはまた、反逆者シェバの首を得ることに成功し、全イスラエルを平定した。こうしてヨアブは、イスラエル全軍の長、すなわち将軍に復帰した(二三)。
 しかし将軍ヨアブは、決してダビデ王に忠実ではなかった。彼は権力を欲し、そのためには手段を選ばない人物であった。
 本章において、私たちはイスラエルにおける悲しい現実を見る。これらの現実はすべて、あのウリヤの妻バテ・シェバとの姦淫に発したダビデの罪に起因していた。
 もしダビデが罪を犯さなかったなら、三節の罪のない婦人たちが辱められ閉じこめられることはなく、シェバが反逆者となって命を失うこともなかったろう。また、アマサも殺されなかったろうし、ヨアブも殺戮者となることはなかったのである。
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4日 新約・ヤコブ一章
 ヤコブの手紙は、主イエスの弟のヤコブが書いた手紙と言われている(マタ一三・五五)。
 彼はヨセフとマリヤを両親とし、イエスを兄として育った。イエスの復活以前は信者ではなかったが、復活後に信者となった(ガラ一・一九)。彼はエルサレム教会の重要な指導者だった。
 彼の書いたこの手紙は、信仰があれば行ないはなくてもよいとする誤りを正す内容を、特色としている。
 ヤコブの手紙は、キリスト教会において、しばしば誤解を受けてきた。宗教改革者ルターも、この書を「わらの書」と呼び、不用の書とする偏見に陥っていた。
 しかしこの書は、実際には非常に重要なことを説いている。行ないを重視するこの書は、パウロの信仰義認と矛盾するのではないかとする議論もあるが、こうした議論が出るのは聖書と信仰義認をよく理解していないからである。
 パウロは、救いの条件としての行ないを否定したが、救いの結果、あるいは信仰から出る行ないを否定したわけではない。ヤコブの説いているのは、生きた信仰には行ないが伴うということである(二二)。それらは両方とも真実である。
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5日 旧約・第二サム二一章
 ギブオン人は、かつてヨシュアが彼らを生存させようと主の名によって誓った民であった(ヨシ九・一五)。
 ところがこのギブオン人を、サウルは滅ぼそうとした。それで今イスラエルに災いが臨み、ききんが三年にわたって続いていた。
ダビデは、事態を打開するため、ギブオン人の代表者たちを呼び、彼らの要求を聞いた。彼らの要求は、七人の命を犠牲に差し出せというものであった。
 かつてギブオン人を滅ぼそうとした人々は、サウルをはじめ皆すでに死んでいたから、ギブオン人たちは彼らの代わりに、サウルの子を七人要求した。
 ダビデはこの要求を飲まざるを得なかった。こうしてサウルの子たち七人は、ギブオン人によって処刑され、さらしものにされた。
 そのうちの二人の母であったリツパは、このとき遺体のそばを離れず、連日連夜、空の鳥や野の獣から遺体を守った。そののち、彼らの骨はサウルやヨナタンの骨とともに、手厚く葬られた。
 かつてサウル王がなしたことは、ここでも大きな悲しみをもたらした。王の罪は国全体に、また世代を越えて災禍をもたらしたのである。
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6日 旧約・第二サム二二章
 ダビデは、主に対して賛歌を歌った。この賛歌は、詩篇一八篇とほぼ同じである。
 神は、波乱万丈のダビデの生涯を導かれた。彼の生涯は、成功と失敗、栄光と屈辱、歓喜と恐怖、義と罪、平安と苦悩、転落と回復の間を行き来するものであった。
 こうした中で、ダビデは主をあがめて生きることを学んだ。彼の詩篇には、そうした心境がよくあらわれている。
 ダビデが主から捨てられなかったのは、結局、周囲の状況がどう変わろうと、彼がつねに主の前に真実に生きようと欲したからである。彼は光が見えないときにも、光を信じた。
 ダビデは「主は私のささえであった」(一九)と告白している。彼は自分の人生の中心に、主を据えた。彼は主を愛し、つねに主に対して忠実に生きたいと欲した。
 私たちもダビデと同様、主の一兵士である。神は、ご自身を愛し、ご自身に忠実な者たちを決して捨てられない。ダビデは、
 「主は生きておられる」(四七)
 と語ったが、私たちクリスチャンの人生は、主が生きておられることを命がけで実証するためにある、と言って過言ではないであろう。
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7日 新約・使徒一三章
 この頃から、サウロ、別名でパウロは、教会で力を持ってくる。サウロはユダヤ名であり、パウロはローマ名である。
 彼はアンテオケで説教をして、多くの人々を信仰に導いた。彼の語った内容は、キリストの降誕に至る神のご計画、預言の成就、キリストの十字架、復活、罪の赦し、また解放であった。
 パウロは説教の中で、ダビデの詩篇を二箇所引用している。三三節に詩篇二・七が、また三五節に詩篇一六・一〇が引用されている。
 ダビデは預言者であり、彼はキリストに関する預言を行なった。ただし、ここでいう「預言」は、いわゆる「予言」とは若干異なっている。
 「予言」は未来のことを言い当てることだが、「預言」は「言葉を預かる」と書くように、神の言葉を預かって人に伝えることである。それは単に未来に関するだけでなく、過去・現在・未来に関するものを含んでいる。
 ダビデの詩篇は、一般的に自分の経験を語ったものであることが多い。しかし彼は、神の霊感によって語った。それでその詩篇には、キリストに関する預言的内容が含まれていたのである。
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8日 旧約・第二サム二三章
 ダビデのもとに、ヤショブアム、エルアザル、シャマという三勇士がいた(八〜一七)。
 三勇士は、ダビデがかつてサウルに追われて放浪していたとき、収穫の忙しい時であるにもかかわらず、アドラムのほら穴にいるダビデのもとに、はせ参じた者たちであった(一三)。
 ダビデはその後、ペリシテ人との戦いに備えた。これは先の五・一七〜二一に記されている戦闘のことである。そのとき、ペリシテ人の先陣はベツレヘムにいた。
 ダビデはしきりにベツレヘムの井戸の水を欲しがった。三勇士はそれを知ると、危険をかえりみず、勇敢にもそこへ行って水を汲んできた。
 彼らはきっと、ダビデの恩愛に感じ、この主君のためには命をかけて奉仕しようという心に燃えていたのであろう。
 われらの主は、ちょうどアドラムのほら穴にいるダビデのように、世から卑しめられ、拒まれている。また、人々の魂の救われることを求めて、渇きを訴えておられる。
 主のご要求は、ただ魂の救われることである。私たちは主のご恩愛に感じ、身命を賭してそのご要求におこたえしたい。
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9日 旧約・第二サム二四章
 「主は・・・・ダビデを動かして」イスラエルの人口調査に向かわせた(一)。
 ここで主語は「主」となっているが、第一歴代誌二一・一に同じ記事があって、そこでは「サタン」となっている。直接ダビデに働きかけたのはサタンであったが、すべては神の許容のもとにあったのである。
 人口調査をしたことがなぜ罪であったのか。人口調査自体が悪いのか。そうではない。ダビデがのちに「良心のとがめを感じた」(一〇)ことから見ると、彼はおそらく、うぬぼれと高慢の気持ちから人口調査をしたのであろう。
 彼は神の力よりも、人の数の多さに頼ろうとしたのかも知れない。あるいは、自分がいかに多い民の上に君臨しているかを知って、満足を得たかったのかも知れない。
 いずれにしても、彼の行為は神の裁きを招いた。ダビデはへり下り、アラウナの打ち場に祭壇を築いて、悔改めの祈りをささげた。
 じつはアラウナの打ち場は、のちにソロモンが神殿を立てる場所である。主イエスの十字架が立てられる場所も、すぐ隣りである。この一帯は、あがないのための聖地として、古くから摂理されていた。
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10日 新約・ヤコブ二章
 ヤコブは、「行ないのない信仰は、死んでいる」(二六)と説いている。真の信仰には、信仰的行ないが伴う。
 使徒パウロは、人は「律法の行ない」によっては救われない、と説いた。律法の行ない、すなわち外面的な行為によって人が救われるのではない。救いには内面的なもの――信仰が必要である。
 では「信仰」とは何だろうか。それは神に信頼し、神の命令に従うことである。信仰が本物なら、それには信仰的行ないが伴うはずである。
 内面に真のものがあるなら、それは外面にも現われる。生きた信仰には、内面の心だけでなく、外面的行為も伴うのである。
 私たちは、外面的行為によって救われるのではない。そうではなく、外面の行為にまで現われるような、生きた内面的信仰によって救われるのである。私たちは、
 「私は信仰しているから、善行をする必要はない」
 と言うことはできない。信仰があるなら当然、善行も伴うはずである。使徒パウロも、積極的に善行をしなさいと言っている(ガラ六・九)。
 私たちは、救われるために善行をするのではなく、信仰しているから善行もするのである。
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11日 旧約・第一列王記一章
 列王記第一・第二は、サムエル記に続くイスラエルの歴史である。
 ダビデの後、ソロモンが王となる。しかしソロモンの死後に、王国は分裂。イスラエル統一王国は、北王国イスラエルと南王国ユダとになる。
 北王国イスラエルには一九人の王が交代するが、やがて紀元前七二一年になってアッシリヤ帝国に捕囚となり、滅亡する。南王国ユダには、二〇人の王が交代するが、やがて紀元前五八六年になってバビロン帝国に捕囚となる。
 本書は、それまでのおよそ四〇〇年間に及ぶ、南北両王国の盛衰記である。
 一章は、ダビデが老人になったところから始まる。ダビデは、まだソロモンを正式な後継ぎとして王位に任命していなかった。
 それをいいことに、ハギテを母とするダビデの四男アドニヤが、野心を抱いて自分勝手に王座についてしまった(五)。あの家臣ヨアブも、アドニヤに組みした。これはダビデへの反逆行為である。
 しかし、預言者ナタンやバテ・シェバの言葉によって、ダビデは無事にソロモンを王位につけることができた。
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12日 旧約・第一列王記二章
 かつてダビデの四男アドニヤは、祭司エブヤタルや家臣ヨアブと共に反逆して、王位をねらった(一・七)。アドニヤは悔い改めず、この時もまだ王位をねらっていた。
 彼は、アビシャグを妻として与えて欲しいと言った(一七)。しかし、アビシャグはダビデの妻である。彼女と結婚することは、自分が王位につくことを意味する。
 二二節のソロモンの言葉は、アドニヤのたくらみが王位継承にあるなら、アドニヤは単刀直入にそう言うべきだという非難である。
 アドニヤの言葉は明らかに、ソロモンを王としてお立てになった神への反逆だった。これにより、アドニヤは自分の命を落とした。
 一方、アドニヤと組んで反逆者となった祭司エブヤタルは罷免され、反逆者ヨアブも殺された。さらにシムイも、長くエルサレムに住んだのち、自ら誓いを破ったために殺された。
 こうして反逆者は一掃され、王国の基礎は確立した。しかしこれらのことは、ソロモンが個人的な報復心からなしたことではなく、国に正義を行なうべき公人としてなしたことであった。当時、王は審判者でもあったのである。
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13日 新約・使徒一四章
 パウロによって奇跡が起こされると、人々はパウロとバルナバを、人間の姿をとって来た神々と思い、いけにえを捧げようとした(一三)。
 ちょうどそこはギリシャ文化の地域だったから、人々はギリシャ神話にちなみ、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼んだ。もしパウロたちがそれを受け入れれば、彼らはきっと新興宗教の教祖に祭りあげられたであろう。
 今日も、奇跡や不思議なことをなして、自分を「神の化身」等と呼んでいる新興宗教の教祖がいる。しかし、パウロたちは自分たちを決して神の化身とはしなかった。
 彼らは衣を裂いて、人々の行為をとめた。「衣を裂く」とは、神への冒涜を恐れて、嘆く感情を表現するものである。そして言った。
 「私たちも皆さんと同じ人間です」。
 私たちは、人々から偉い者のように見られるために奇跡を行なう力を欲してはいけない。私たちは、キリストがあがめられるために、すべてをなすべきである。
 病人のいやしのために私たちが祈るのは、「祈れ」と主が言われるからである。あとは、主のお働きなのである。
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14日 旧約・第一列王記三章
神はソロモンに、
 「あなたに何を与えようか。願え」
 と言われた。するとソロモンは、富でも、名誉でも、長寿でも、敵のいのちでもなく、ただ民を治めるための正しい判断力と知恵を求めた。
 この願いは、神のみこころにかなった。神は彼に、優れた判断力と知恵をお与えになった。さらに、ソロモンが求めなかったもの――富と誉れをもお与えになった。
 ここに私たちは、キリスト教の特色を見る。宗教には「魂の親」型のものと「自動販売機」型のものとがある。キリスト教は「魂の親」型である。
 親は、子の願いが良いものなら、かなえてあげようとする。しかし悪い願いなら、かなえるのではなく、それが悪いものであると教えるようにする。
 神は魂の親であるから、私たちの願いに対し、そのような態度で臨まれる。子を思う親の気持ちで、神は人の願いを聞かれるのである。
 これに対し、世の多くの御利益宗教は「自動販売機」型である。信者の支払う金額の違い等によって、戒名の格が違ってきたりする。ギブ・アンド・テイクの宗教なのである。
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15日 旧約・第一列王記四章
 神の祝福と、ソロモンの英知のもと、イスラエルは平和と繁栄を享受した。
 ソロモンの王国の版図(二一)は、イスラエル人の国として、それ以前になく、またそれ以後もない広さであった。これはかつて、神がアブラハムにお与えになった約束の成就である(創世一五・一八)。
 紀元前一〇世紀のこの時代において、ソロモンの王国は、全世界において最大の王国だった。その名声は、全ての近隣諸国にとどろいていた。
 ソロモンが持っていた馬屋、精錬所、溶鉱炉、るつぼ、石切り場、そのほか当時の建物の廃虚などの多くは、考古学者の手により発掘されている。それらはすべて、聖書の記事の真実性を裏づけている。
 ソロモンの治世において、人々は「ぶどうの木の下や、いちじくの木の下で」安心して住んだ(二五)。この言葉は、平和と繁栄を示す慣用句であって、聖書によく出てくる。
 世の終わりに持たれるキリストの千年王国に関しても、この言葉が用いられている(ミカ四・一〜四)。ソロモンの王国の平和と繁栄は、来たるべき千年王国の予型であると言うこともできる。
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16日 新約・ヤコブ三章
 「ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です」(二)。
 人は言葉で成功することもあれば、言葉で失敗することもある。言葉で良いことをすることもあれば、言葉で罪を犯すこともある。
 同じ舌で、神を讃美することもあれば、人をのろうこともある。舌を制御することは、非常に重要である。
 ある教会の婦人たちの集まりに、求道中の女性がやって来た。しかし、その集まりに出ているクリスチャンたちの多くは、まだ世的な習慣から抜けておらず、人のうわさ話が好きで、おしゃべりと言えば陰口や、不満、不平、悪口、また独善的な論議に走ることが多かった。
 求道中の女性は、そこに来るまでは熱心に求めていた。しかし、その集まりで話される事柄を聞いているうちに、彼女はすっかり求道心を失ってしまった。そして以後、二度と教会に来ることがなかった。
 クリスチャンになっても、舌を制御することを、日々学ばなければならない。それは人を救うこともある一方で、人を滅ぼすこともあるのである。
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17日 旧約・第一列王記五章
 ソロモンは、神殿建設のための準備にとりかかった。
 彼はレバノンから木材を大量に集め、山から高価な石を切り出した。石は神殿の礎に据えるためであり(一七)、木材は建物をたてるためであった。
 ソロモンはこのとき、ヒラム王の協力を得ている。ヒラムは、イスラエル一二部族の一つナフタリ族のやもめの子であったが(七・一四)、小国ツロの王となり、ダビデやソロモンと友情を保っていた。
 神殿というと、私たちはとかく、全体が石造りのものを想像してしまわないだろうか。しかし、ソロモン建造の神殿は、礎に石が使われたものの、上部の建物は木造であった。
 私たちは日本において、つねに木で造られる神社建築を見ているが、ソロモンの神殿もそれに似たものだったのである。ただし、もちろんソロモンの神殿のほうが、日本のいかなる神社よりもはるかに古いことは言うまでもない。
 かつてダビデは戦争の人であったので、神は彼に神殿建築をお許しにならなかった。しかし神はそれを、ソロモンにお許しになった。神はそれぞれの人に、それぞれの使命をお与えになるのである。
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18日 旧約・第一列王記六章
 神殿は、本堂と内堂に分かれていた(五)。本堂は聖所、内堂は至聖所のことである。
 日本でも、神社は拝殿と本殿に分かれている。両者のそれぞれの機能も、互いに似ていた。
 また、神殿全体は金箔でおおわれた(二二)。日本の神社の中にも、古い神社の中には、金箔が張られているものが少なくない。
 さらに、日本の皇室のマークである「菊の紋」は、じつは中東、とくにイスラエル起源ではないか、と言われている。今日も、エルサレム城壁の西の門の上部に、日本の皇室の菊の紋と全く同じデザインの彫り物がある。それは皇室の菊の紋と同じく、一六枚の花びらからなる花模様である。
 ほかにもイスラエルや中東諸国で、菊の紋が発見されており、古代から菊の紋は宗教や王位関係の重要なマークだったと考えられている。
 ソロモンは神殿の中に、「花模様」の彫り物を彫った(二九)。この花模様の彫り物の中には、おそらく菊の紋もあったのではないか。
 そしてそれを起源として、やがて遠く日本にも菊の紋が伝えられ、皇室の紋章となったのではないか、と説く学者もいる。
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19日 新約・使徒一五章
 ユダヤ教徒からクリスチャンに改宗した人々の中には、極端な人々がいて、「割礼を受けなければ救われない」と説いた(一)。それで混乱が起こった。
 混乱を収拾するため、エルサレムで会議が持たれた。激しい論争の後、ペテロ、バルナバ、パウロらが語ったが、さらに「ヤコブ」も語った。この「ヤコブ」は、ヤコブの手紙の著者である。
 結局彼の「ただ偶像に供えて汚れた物と、不品行と、絞め殺した物と血とを避けるように書き送るべき」との意見が採用された(二〇)。
 「絞め殺した物と血」と言われているのは、絞め殺した物には血が残っているので、食べてはならないとされていたからである。
 今日も、教会内で論争が生じることがある。しかしそのような時、私たちが注意すべきことは、神の導きを祈ること、依怙地にならないこと、また正しい判断と知恵を追求することである。
 もしそのような態度がなければ、論争や議論は教会に分裂を生むだけで、益はない。しかしそのような態度があるなら、論争や議論も益を生み、新たな結束と宣教の力をもたらすであろう。
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20日 旧約・第一列王記七章
 ソロモンの神殿の基本形は、かつてモーセが造った幕屋であった。しかしすべての寸法は、幕屋のときの二倍に造られた。神殿は、長さ二六メートル、幅九メートル、高さ一三メートルであった。
 至聖所には契約の箱が置かれ、幕を隔てた聖所には、中央に金の香の壇、また金の燭台が北側に五つ、南側に五つ、また供えのパンの机も北側に五つ、南側に五つ置かれた。
 東には玄関があり、高さ八メートルの二つの青銅の柱があって、右の柱はヤキン、左の柱はボアズと呼ばれた。
 北、南、西側には、神殿の壁に面して、三階建ての脇屋が建て巡らされ、祭司の使用に供された。神殿の前面には、全焼のいけにえ用に巨大な青銅製の祭壇が設けられた。
 もう少し南寄りの所には、円形の大きな洗盤(海)があった。小型の持ち運び可能の洗盤も、一〇個備え付けられていた。
 神殿は「内庭」と「大庭」で囲まれていた。ソロモンの宮殿は、大庭の中にあったと思われる。神殿、および宮殿の壮麗さは、近隣諸国のうらやむものであった。それはやがて他国の王たちの欲心の目標となり、災禍の種ともなる。
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21日 旧約・第一列王記八章
 ソロモンは神殿完成後、「あなたがとこしえにお住まいになる所を確かに建てました」(一三)と言った。しかしそののち、
 「それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。じつに、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです」(二七)
 と祈って、神の前にへりくだっている。
 神は、神殿にご自身の御名を置く、と言われた(二九)。そこでソロモンは、もし民がこの所に向かって祈るときは、その祈りと願いを聞いてくださるようにと神に祈った。
 この所に向かって祈るとは、神の御名とその約束に信頼することを表す。のちの日にダニエルも、遠くバビロンの地から、ここに向かって祈った(ダニ六・一〇)。
新約聖書は、今日では私たちクリスチャン自身が「神の宮」、すなわち神殿だと教えている。全クリスチャンの集合体が、「キリストのからだ」と呼ばれる一つの神の宮――神殿を形成しているのである。
 神はこの宮に、ご自身の御名を置かれる。私たちはキリストを通して、神に祈りをささげるのである。
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22日 新約・ヤコブ四章
 「なすべき正しいことを知っていながら行なわないなら、それはその人の罪です」(一七)。
 罪には二種類ある。「する罪」(sin of commission)と、「しない罪」(sin of omission)である。
 盗み、殺人、姦淫、憎しみ、傲慢、ねたみ、そしり、よこしま等は「する罪」である。一方、「しない罪」というのがある。それは「なすべき正しいことを知っていながら行なわない」ことである。
 クリスチャンは、なすべき正しいことを教えられている人々である。しかしそれを知りながら、もし実践しないなら、それは罪だと聖書はいう。
 私たちはどうだろうか。私たちは御言葉を学んだら、それを実践しているだろうか。
 人々の間で評判の良い敬虔なクリスチャンがいた。彼は長生きして天に召された。葬儀ののち、遺族は遺品を整理したが、その中に彼の愛用していた聖書があった。
 その聖書を開いてみると、あちこちに「や」と「た」の文字が記されていた。じつは「や」は「やってみた」、「た」は「たしかだった」の略だったのである。
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23日 旧約・第一列王記九章
 主の宮(神殿)とソロモンの王宮が完成したときが、ソロモンの治世の絶頂期であった。
 人は絶頂にのぼると、心がゆるみやすい。そこで神は、再びソロモンに現われて、彼に約束と、警告をお与えになった。
 三〜五節には、「あなた」と単数代名詞が使われている。これは神がソロモンにお与えになった約束である。しかし、六節以降は「あなたがた」と複数代名詞になり、後代にイスラエルが神に背いて罰せられるという予言的警告に変わる。
 神はご自身の目と心を神殿に置かれた。しかし、もしイスラエルが服従しないなら、神殿をご自身の前から投げ捨てるとさえ言われる(七)。
 神は神殿の存在うんぬんよりも、人々の服従を喜ばれるのである。服従がなければ、神殿には何の意味もない。後代に預言者エレミヤも、
 「あなたがたは『これは主の宮、主の宮、主の宮だ』と言っている偽りの言葉を信頼してはならない」(エレ七・四)
 と述べた。ソロモンは、神殿完成後、いっそう主の教えに励むべきであった。しかし悲しいことに、彼は以後、少しずつ主の御教えからそれていく。
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24日 旧約・第一列王一〇章
 「シェバ」(一)は、アラビア南西部にあった国である。シェバの女王はソロモンのもとにやってきて、その知恵と栄華に驚き、感嘆して言った。
 「なんとしあわせなことでしょう。あなたにつく人たちは」(八)。
 しかし、私たちはソロモンよりも優れたかたを知っている。われらの主イエス・キリストである。「見なさい。ここにソロモンよりもまさった者がいる」(マタ一二・四二)。
 ソロモンは、諸国の王の感嘆の的になっていた。けれども本章において、私たちはすでに彼の愚行の萌芽を見る。かつて神は、イスラエルの王になる者に対し、妻と、馬と、自分のための富を多く持ってはならないと命じられた(申命一七・一六〜一七)。ソロモンは、この三つとも多くした。
 富そのものは悪ではないが、ソロモンは自分のぜいたくに走るのではなく、もっと国の貧民の福祉や、民全体の生活レベルの向上に努めるべきであった。
 しかし彼の栄華は、民の苦役のうえに成り立っていた(一二・四)。ソロモンは彼らの犠牲の上に、栄華を追求した。彼は頭は良かったが、平凡な愚かさに陥ったのである。
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25日 新約・使徒一六章
 パウロ一行は、ムシヤ(現在のトルコ共和国西部)のあたりから、東方のビテニヤへ行こうとしたが、イエスの御霊によってそれを禁じられた(七)。
 おそらく聖霊による預言があったか、摂理によって道を閉ざされたのであろう。そこで彼らは、西方の海岸都市トロアスに下って行った。
 トロアスでパウロは夢を見た。その夢により彼らは、神の導きが、さらに西方のマケドニアに行くことにあると確信した。
 彼らは、船でマケドニアに渡っていった。こうして最初のヨーロッパ伝道が始まったのである。
 キリスト教は以後、西へ西へと伝えられていった。イスラエルに始まったキリスト教は、ローマ帝国に伝えられ、中心地はローマに移る。
 以後キリスト教の中心は、中世にフランスやドイツへ移り、近世にはイギリスやアメリカ、また現代にはアメリカ、韓国、中国、さらに他のアジア諸国に移り、アフリカや南米にもリバイバルが進行中である。
 こうして福音の中心は西へ西へと移り、最終的には全世界を一周して、再びイスラエルにおいて終結する。日本も、この流れに取り残されてはならない。
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26日 旧約・第一列王一一章
 聖書中、ソロモンの堕落と背教の描写以上に悲しい記事はない。
 ソロモンには優れた知恵の賜物があった。しかしその知恵も、神の御教えに対する不従順から彼を救わなかった。
 ソロモンは自分の欲に負けたのである。彼は神のご命令に反して、偶像崇拝の異教の女たちを「愛して離れなかった」。
 彼の妻とそばめの数は、合計一〇〇〇名にも及んだ(三)。彼女たちが、彼の心をほかの神々に向けようとし、彼はその言いなりになった。
 ソロモンの心は、異教の女たちから離れず、神の御教えから離れた。もし彼が、神の御教えを愛して離れなかったら、彼の生涯はいよいよ輝きを増したであろうに。
 ソロモンは、偶像崇拝のための「高き所」を築いた。しかし彼の築くべきは、そんなものではなく、聖書学校や、他の教育施設等であった。
 人間は何と堕落しやすいものであろう。たとえ知恵があっても、その人が信仰的に正しい生涯を送れるかどうかは別なのである。
 私たちに必要なのは、神のみことばを日々、昼も夜も思い、口ずさむことである。
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27日 旧約・第一列王一二章
 イスラエル統一王国は、ソロモンの罪によって神の祝福を失い、彼の死後、南北に分断された。本章は、そのときの次第を説明するものである。
イスラエル統一王国は、紀元前九三三年に、南王国ユダと北王国イスラエルとに分裂した。
 南王国ユダには、ユダ族とベニヤミン族がつき、ソロモンの子レハブアムが王となった。一方、北王国イスラエルには残りの一〇部族がつき、ヤロブアムが王となった。
 一六節の「ダビデよ。今、あなたの家を見よ」とは、二部族しか残らない南王国ユダの現実を見よ、というあざけりの言葉である。
 統一王国は引き裂かれ、以後、時代は暗黒時代へと入っていく。北王国においても南王国においても、数々の罪が積み重ねられていく。
 とくに北王国においては、一九人の王が現われるが、いずれも罪深い、悪名高い王たちである。しかし南王国においては、二〇人現われる王のうち、幾人かは神に従う良い王たちが現われる。
 これは、ダビデの子孫からキリストを来たらせるという神のお約束により、神が南王国に恵みを残されたからである。
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28日 新約・ヤコブ五章
 「主が来られるまで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています」。
 パレスチナでは、年に二度、雨期がある。秋と春である。人々は秋の雨期に種をまき、春の雨期の後に収穫をした。
 だから秋の雨は「前の雨」、春の雨は「後の雨」とも呼ばれた。「前の雨」(秋)は、土地をうるおし耕作を可能にし、「後の雨」(春)は、穀物を成長させ実らせるものであった。
 主の再臨に至るまでのキリスト教時代においても、二度の雨期がある。
 「前の雨」は、初代教会に降った聖霊の雨である。そして「後の雨」は、主の再臨が間近になった時代に降るものであり、全世界にリバイバルという大収穫をもたらす聖霊の雨である。
 現代は、その「後の雨」がすでに降り始めている時代である。大収穫は間近である。そして主のご再臨も間近である。
 私たちは、あらゆる困難を耐え忍びながら、自分の置かれた場所で、主から与えられた務めを全うしなければならない。
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29日 旧約・第一列王一三章
 ひとりの預言者が、ヤロブアム王の前に現われ、罪を責め、預言した[「ヨシヤ」(二)とは、約三〇〇年後の宗教改革者である]。
 預言者は帰る途中、ひとりの老預言者に出会った。この老預言者は、ベテルに住みヤロブアムの罪を身近に見ながら、責めることもせず、ただ見過ごしていた人物である。
 老預言者は、若い頃は神に忠実だったのかも知れないが、その頃は不忠実な者に堕落していたのである。
 彼は、若い預言者のしたことを知ったとき、自分の不忠実を悔い改めるべきであった。しかし、彼は自分の不忠実をかくすために、同じ不忠実の罪を若い預言者に犯させようとたくらんだ。
 老預言者はウソをついて、若い預言者が神の命令に背くように仕向けた。若い預言者は、マンマとだまされてしまった。
 私たちも、すべての霊を信ぜず(一ヨハ四・一)、ことに霊的な言葉をもって誘う者に警戒しなければならない。自分の不忠実をかくすために、預言や霊的な言葉を持ち出して若い忠実な信者を惑わす人々が、ときにいる。しかし、私たちは聖書に記されている事柄に立って、右にも左にもそれてはならない。
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30日 旧約・第一列王一四章
 ヤロブアムの子アヒヤは、ヤロブアム家の中でただ一人、神のみこころにかなった者であった(一三)。
 しかしアヒヤは、病気にかかっていち早く死んだ。これは後にヤロブアム家に臨むわざわいを経験させないための、神の配慮だったのかも知れない。ヤロブアム家の者はみな野ざらしの死体となり、動物に食われるが、ただ一人アヒヤは安らかに墓に葬られたのである。
 一方、南王国ユダの人々も、主の目の前に悪を行なった。これは北王国の人々による感化も手伝ったと思われる。
 そのため、ソロモンの死からわずか五年にして、神殿の備品が異邦人によって略奪された(二六)。主は神殿を見捨てられたのである。
 レハブアム王は、奪われた金の盾のかわりに青銅の盾をつくり、わずかに威厳を保とうとした。しかし神がお望みになったことは、そんなものでうわべをつくろうことではなく、ご自身への服従であった。
 今日も、私たちに必要なのは、儀式や教理や学識で自分をりっぱな信者に見せることではない。主への全き服従と、聖霊の力に満たされることこそが大切なのである。
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31日 新約・使徒一七章
 使徒パウロは、ユダヤ人にはユダヤ人向けの説教を、ギリシャ人にはギリシャ人向けの説教をした。語ることは結局イエス・キリストの福音なのだが、アプローチの仕方は、相手の文化や知識に応じて変えたのである。
 ギリシャ人と日本人は、いくつかの点で似ている。ギリシャの土着宗教は多神教であるが、日本の土着宗教も、八百万の神々を拝む多神教である。ギリシャ人は教育程度が高く、多くの教養に通じていたが、日本人も教育程度が高く、教養に通じている。
 日本人の多くは、ギリシャ人と同様、自分の知らないものを拝んでいる。だから私たちは、本当の神様を人々に伝えなければならない。
 パウロは、ユダヤとは違う文化環境にある異邦人に自分が福音を伝えることに、決して躊躇しなかった。彼は自分を「異邦人の使徒」と呼んで、いかなる人々にも果敢に福音を伝えた。
 日本は、宣教が困難な国だと言われる。しかし、そんなことはどの国でも言われてきたことである。もしそう思う人ばかりだったら、キリスト教は決して、これほどまでに世界に広がらなかったであろう。
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