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1日 旧約・第一歴代誌九章
「ユダは、不信の罪のために、バビロンに捕らえ移されていた」(一)。
南王国ユダの人々は、不信仰の罪のために、バビロン捕囚の憂き目にあっていた。
彼らは、どのような不信仰の罪を犯したのであろうか。
彼らは、自分たちの欲望に対して無限にYESと言ってくれる偶像をつくり、それを拝み、真の神の教えを心にとめず、天地の造り主であるかたに反した歩みをなしたのである。
だから、彼らの不信仰とは、すなわち不従順であった。信仰の本質は、神に服従することにある。このこと抜きに、信仰はあり得ない。
しかし、ユダの人々は神に従わなかったために、自分の本来おるべき場所から他へ移されてしまった。
私たちも、神を信じるなら、神に従わなければならない。神の教えを学び、それを心にとめ、口ずさみ、行動に、また生活にあらわすのである。
もし従うことがないなら、神はやがてあなたを、あなたの本来おるべき場所から、他へ移されるであろう。それは、あなたを懲らしめ、反省させ、また悔い改めさせて、神の道に立ち返らせるためである。
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2日 新約・第一ヨハネ三章
「キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています」(二)。
私たちの究極の目標は、「キリストに似た者になる」ことにある。キリストは、私たちの救い主であり、主であるとともに、私たちの模範である。また、私たちの最終目標なのである。
キリストは、永遠の命の躍動を持ったかたであり、真理を体現し、その心には愛が、その行動には善が満ちておられる。それはキリストが父なる神と、心を全く一つにしておられるからである。
私たちの目標は、このキリストのような者になることである。それは最終的にキリストの再臨の時に完成するが、私たちはこの地上の生涯において、一歩ずつその目標に近づくことができるよう歩んでいくのである。
キリストを愛し、キリストを心にみつめていく生活が、それを可能にする。男でも女でも、学者でも、農夫でも、ビジネスマンでも、教師でも、主婦でも、誰であれ、キリストをみつめ、キリストを愛して生きていくなら、キリストと同じ様な愛の人になるであろう。
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3日 旧約・第一歴代誌一〇章
系図が終わり、ここからはイスラエルの歴史が記される。この章では、ダビデの王国に関して記す前に、その序論としてサウル王の最期を記している。
サウルは、「霊媒によって伺いを立て、主に尋ねなかった」(一三)。
今日も、霊媒に伺いを立てる人々が大勢いる。「霊界通信」を行なったり、「自動書記」をする者もいる。古今東西の有名人や、他の死者たちの霊界からの言葉を伝える者の言葉が、しばしばもてはやされている。
さらに、占い師は街角のいたる所にいて、客を集めて繁盛している。彼らの本も、よく売れている。
しかし私たちは、こうしたものと関わりを持ってはならない。それらには、悪霊が関与したものが多いからである。またこうした行為は、聖書の中で、明確に禁じられている(申命一八・一〇)。
以前、子供たちの間で「コックリさん」がはやったことがあったが、今日では悪霊的なもの、オカルト的なものに対して、多くの幼い子供たちが巻き込まれている。
私たちはそうした子供たちに、占いやオカルトは非常に危険なものであることを、ふだんから教えておかなければならない。
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4日 旧約・第一歴代誌一一章
ダビデは、「万軍の主が彼と共におられた」(九)ゆえに、繁栄することができた。
しかし一〇節には、「彼らは、彼(ダビデ)と共に全イスラエルに対する彼の王権を強固にし、イスラエルについて主の言葉の通りに彼を王とした人々である」とある。
つまり、ダビデのような選ばれた人々も、人々の助けがなければ国を得ることができなかった。主が共におられなければ祝福のないことはもちろんであるが、私たちは人の助けを求め、これに感謝する謙遜も持たなければならない。
主が私たちを祝福されるなら、主は必ず私たちに、良き協力者を与えてくださる。自分一人ですべてをなさなければならない、と思う必要はない。また、思ってはならない。
あなたの手の及ばないところに、神は必要な協力者を配置してくださるのである。それは、私たちが高ぶらないためである。すべての栄光は、主のものなのである。
あらゆる成功者のかげには、良き協力者、家臣、参謀、家来、内助者がいた。そうした良き協力者が与えられることは、主の祝福の一つなのである。
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5日 新約・使徒の働き二八章
パウロはマルタ島で、まむしに取り付かれた。が、「振り落として何の害も受けなかった」(五)。これは、かつて主イエスが次のように言われたことの成就の一つである。
「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、蛇をもつかみ・・・・」(マコ一六・一八)。
アメリカの東洋宣教会の代表者であるデューエル師も、次のようなことを語っている。
彼はかつて二〇年間にわたって、インドで宣教師をしていた。ある日、彼は知らずに、コブラの多くいる地に入り込んでしまった。
しかし、彼は結局無事に戻ってきた。戻ってきてから彼は、そこがコブラの多くいる地で、インド人でさえ決してそこには足を踏み入れない、ということを聞かされた。インド人は口々に、
「信じられません。そこに入って無事に戻れたなんて」。
デューエル師はその後、あることを知った。それは、ちょうど彼がそのコブラの地に入った日、またその時刻に、アメリカの兄弟姉妹たちが彼の宣教のために祈ってくれていたのである。
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6日 旧約・第一歴代誌一二章
「日に日に、人々がダビデを助けるため彼のもとに来て、ついに神の陣営のような大陣営となった」(二二)。
主の祝福のもとにあったダビデの人格と、その使命は、巨大な求心力となって人々を引き寄せた。集まってきた者たちは、みなそれぞれに優れた者たちであった。
しかし、集まってきた彼らは、みな初めから優れていたのか。そうではない。彼らは、ダビデと共にいたからこそ、その優秀さが育成され、発揮できたのである。
彼らはダビデと共にいなければ、単なる「烏合の衆」にすぎなかった。彼らは一人の偉大な指導者を得たから、その能力を発揮できたのである。
私たちもそうである。私たちは、一人の偉大な指導者であり主であられるイエス・キリストのもとにいるなら、自分の能力を一〇〇%、いや二〇〇%発揮できるであろう。
しかし、そのもとにいないなら、能力を発揮できないのみか、無意味な行動を積み重ねるだけで、結局は何もできないであろう。
主は、私たちの能力を引き出し、それを育て、発揮させてくださるかたである。主と共に歩もう。
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7日 旧約・第一歴代誌一三章
ダビデは、「神の箱」すなわち契約の箱を、エルサレムに迎えようとした。その意図は良かったが、その方法はまずかった。
神の箱は、二本の横棒をつけて、人々がかついで運ばなければならないと律法に記されていた。ちょうど日本の神社の神輿を運ぶときのようにである。しかしダビデは、それを「車に載せて」運ばせた(七)。
そのためにデコボコ道を行ったとき、箱がひっくり返りそうになり、そのときウザが死んでしまった。
ダビデは事前に、律法に詳しい者に神の箱の運び方を聞き、また自分でも律法をよく調べておくべきだった。しかし、それをしなかったために、犠牲者が出てしまった。
私たちは、できる限り神の教えに精通する必要がある。また、もし自分が精通しておらず、知識が足りないと思えるなら、ことあるごとに精通している人に尋ねるべきなのである。
私たちは、何かの計画を立てたとき、その意図は良くても、方法がまずいために失敗することがある。心も大切だが、方法論も軽視してはならない。手だてや方法についても、時間をかけて検討すべきである。
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8日 新約・第一ヨハネ四章
新約聖書の通読は、「四福音書」から「使徒の働き」までの部分がすでに終了したので、今後はこの第一ヨハネ四章より最後までを、毎回通読していくことにしよう。
「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(二〇)
とある。主にある兄弟姉妹はもちろん、未信者など、隣り人を愛することができないならば、その人は神を愛することもできない。
私たちにとって、遠い所にいる人を心の中で愛することはたやすい。しかし、むしろ難しいのは、自分の近くにいる人を愛することである。
近くにいる人は、エクボだけでなくアバタも見える。その人の長所だけでなく、短所も見える。その短所と自分の短所とがぶつかり合って、いらつくこともある。
しかし、私たちはそうした中にあって、本当の愛とは何かを教えられ、訓練されているのである。もし、気にくわない人が自分の近くに来たら、私たちは神に感謝すべきである。
「神様、愛のない私に、人を愛することを学ぶ機会を与えて下さって感謝します」。
神のなさることに、無駄はない。すべてを神に感謝しよう。
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9日 旧約・第一歴代誌一四章
ダビデは、主のみこころを求め、主に伺いを立てた。そして神の言葉に従って、ペリシテを打ち破り、勝利を得た(一一)。
ペリシテ人はまた侵入してきた。そのときダビデは、先に勝利を得た経験に頼らず、ふたたび神に伺った。神は、今度は別の方法を示された(一四)。
彼は、ことあるごとに神に伺ったのである。私たちも、ことあるごとに、神に祈るべきである。
今日、神は私たちに、ご自身のみこころを三つのものを通して示される。その三つとは、御言葉と摂理と聖霊である。
神のみこころの基本線は、すべて神の御言葉である聖書に記されている。御言葉が最も大切である。
また神は、ご自身のみこころを、摂理を通して示されることがある。周囲の事の成りゆきが、不思議なように神のみこころにそって展開していくのである。
さらに、神はご自身のみこころを聖霊を通して示される。祈っているならば、みこころについて、聖霊が心に確信を与えてくださる。
神のみこころは、それを求める者に、必ず与えられるのである。
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10日 旧約・第一歴代一五章
ダビデは、主の契約の箱をエルサレムに迎えたとき、王としての格式を捨て、自ら飛び跳ねて喜び踊った(二九)。
しかし、それを見た彼の妻ミカルは、夫ダビデを「心の中でさげすんだ」。ダビデは主の前にへりくだって無邪気に踊ったのであるが、ミカルは高ぶっていたのである。このためにミカルは、主の祝福を失い、一生子がなかった(二サム六・二三)。
今日、アフリカのクリスチャンたちや、ペンテコステ系のクリスチャンたちなどは、礼拝のときに手を打ちたたき、全身を動かして喜び踊りながら主を讃美することが多い。
こうした光景は、静かでおごそかな礼拝形式を採用している教派で育った人々には、異様に感じられるかも知れない。しかし私たちは、彼らが礼拝のときに喜び踊っているからという理由で、心の中でさげすむようなことがあってはならない。
聖書を読むと、イスラエルの人々は、礼拝の時に静かにおごそかに御言葉に耳を傾けることもあったが、讃美の時などは祭のように喜び踊ったのである。
教会にも、もっと祭が必要ではないか。教会は喜びに満ちた、楽しい所であって欲しい。
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11日 新約・第一ヨハネ五章
「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠の命を持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」(一三)。
あなたは、自分が永遠の命を持っていることを、知っているだろうか。
主イエスを救い主として信じているなら、あなたはすでに死から命に移され、滅びから永遠の命に入っている。
たとえば、あなたが今晩、寝ているとき、何らかの原因で突然心臓が停止し、あなたは死んだとしよう。そのとき、あなたはどこで目覚めるであろうか。
あなたは天国で目覚めるのである。あなたはそれを知っているか。
あなたは天使に迎えられ、あなたの主であるキリストと、あなたの造り主である父なる神の前に、連れて行かれるのである。
あなたはそこで、安息に入るであろう。よみの力はあなたに届かず、地獄の刑罰はあなたに届かない。
あなたはこれを知っているか。私たちは、キリストへの信仰によって自分の受けている救いがいかに大きなものかを、本当に知ったうえで歩んでいきたい。
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12日 旧約・第一歴代一六章
ダビデは主の箱を迎え入れ、設置したのち、民全員に「丸型のパン、なつめやしの菓子、干しぶどうの菓子を分け与えた」(三)。
日本では、神社の祭のとき、参加者に紅白のまんじゅうや、菓子が配られる。しかしこうした日本の古くからの習慣も、日本が建国されるよりさらに数百年も前――今から三千年も前に、ダビデの王国において実施されていたことであった。
イスラエルの民は、祭が好きであった。祭のとき、彼らは琴をかなで、笛をピーヒャラと鳴らし、ラッパを吹き鳴らし、太鼓をドンドンとたたいて踊ったのである。彼らは、主への讃美と感謝を全身で表した。
日本の神社に伝わる祭は、ときに、イスラエルの古代の祭に似ている。それで、両者の関係について研究している学者も少なくない。
イスラエルの人々は、高らかに主を讃美した。主への讃美と感謝のあるとき、イスラエルはつねに繁栄した。
まことに、神は「イスラエルの讃美を住まいとしておられる」(詩篇二二・三)。神は私たちの讃美の中に、臨在を現わされるのである。
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13日 旧約・第一歴代一七章
一介の羊飼いに過ぎなかったダビデは、主の恵みを受け、王の位にまで上げられた(七)。
奴隷解放で有名なアメリカの大統領リンカーンは、もともと赤貧の家に生まれた農民であり、まともな教育をほとんど受けたことがなかった。しかし独学で勉強をし、弁護士になり、さらには合衆国大統領になって、偉大な業績を残した。
めかけの子として生まれた賀川豊彦は、病気のために二度も死線をさまよったが、その後の自分の生涯を人々への愛のために捧げた。
彼は貧民を助け、伝道をし、さらに日本に初めて協同組合、消費組合、信用組合などをつくった。また世界国家を提唱するなど、平和・慈善活動の先頭に立ち、その名は海外の遠くまで知られた。
キリストの使徒ペテロやヨハネなどは、一介の漁師にすぎなかった。さらに、言うまでもないことだが、われらの主イエスは、一介の大工であられた。
人の価値を決めるものは、家柄や生まれではない。その人自身がどう生きたかである。私たちが大きな生き方をするために、主イエスはすでに道を用意してくださっているのである。
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14日 新約・第二ヨハネ
「イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者」(七)とは、とくにグノーシス主義などをさしている。
グノーシス主義とは一世紀に芽生え、三世紀にはキリスト教会を著しく汚染した危険な異端思想である。
グノーシス主義者たちは、物質世界や肉体は悪である、と教えた。また、善なる神が悪なる物質世界を創造するはずがないから、世界は最下層の半身的存在者エオンによって創造されたとした。彼らはこの考えに基づき、キリストは肉体をとらなかったと主張したのである。
天的キリストは、人間であるイエスを所有して行動したに過ぎず、キリストの受肉ということはなかった、と彼らは教えた。
また、天的キリストは十字架死の前に天に帰還したので、十字架上で死んだのはただの人間イエスに過ぎなかった、とも教えられた。
しかし聖書は、肉体は今は罪によって汚染されているものの、本来神の創造による善なるものであると教えている。また天的キリストは、実際に受肉されたのであり、以後一貫して、一〇〇%神・一〇〇%人のイエスキリストという単一のおかたとして存在しておられるのである。
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15日 旧約・第一歴代一八章
「こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」
と、六節および一三節に、同じ言葉が二度にわたって繰り返されている。ダビデの勝利は、神ヤハウェご自身によるものであった。
これが人生の最大の秘訣である。私たちの勝利は神から来る。神以外のところからは来ない。
二度にわたって記されているが、こうした叙述が二度にわたって記される神のしもべたちの少ないことは、じつに悲しむべきことである。
ある者たちは、生涯の中で一時は勝利を得るものの、それがなかなか長続きしない。ダビデのように連戦連勝とはいかないのである。
それは、彼らは勝利を得ると、それを自分の功績と誤解し、すぐに高ぶってしまうからである。
しかしダビデは、勝利を得たとき、戦利品をすぐさま「主に聖別してささげて」いる(一一)。彼はつねに、栄光を主にお返しすることを忘れなかった。
私たちの連戦連勝の秘訣も、つねに主に栄光を帰することにある。神はご自身をあがめる者に、勝利をお与えになるのである。
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16日 旧約・第一歴代一九章
ダビデは、近隣諸国にイスラエルに対する敵意のない限り、彼らに親切を尽くした。彼はアモン人の王ナハシュの親切を忘れず、ナハシュが死んだとき慰問の使者を遣わした。
それなのにアモン人は、ダビデの使者をはずかしめた上で送り返した。エジプトではひげのあることが恥であったが(創世四一・一四)、イスラエルではひげのないことが恥であった。
アモン人がダビデの使者に対して行なったことは、人々がキリストに対して行なった事柄にも似ている。
キリストは神の使者として、地上に遣わされた。しかし人々は、キリストをはずかしめた上、十字架にはりつけにして殺した。
人々は、キリストを遣わされた神の愛と好意を受け入れなかった。今日もそうである。多くの人は、キリストを遣わされた神の愛と好意を知らず、あるいは疑い、今もって受け入れないでいる。
私たちの務めは、そうした誤解をときほどき、神の愛と好意を彼らにわからせてあげることである。そのためには、私たち自身も神の使者となって、彼らの真ん中に入っていかなければならない。
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17日 新約・第三ヨハネ
「愛する者よ。あなたが魂に幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります」(二)。
ヨハネは、「あなたが・・・・健康であるように」と祈っている。この祈りには、神のみこころがあらわれている。
私たちが魂において、また肉体において、すべての点で幸いを得ることは、神のみこころである。魂の救いを得ることだけがキリストの福音なのではない。
キリストの福音は、魂の救いをはじめ、肉体の健康、家庭生活の豊かさ、社会生活、そして人生のあらゆる局面に及ぶのである。
もしあなたが、いま病にかかっているなら、病から解放されることは根本的に神のみこころだと考えてよい。
あなたをいつまでも病の苦しみにおくことが、神のみこころなのではない。あなたが、神のいやしを受け取れる状態になるなら、すぐにでもいやしが与えられると思うべきである。
神の善意をどんな時でも信じ、感謝するなら、神はあなたの前に、もろもろの善を通らせてくださるであろう(出エ三三・一九)。
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18日 旧約・第一歴代二〇章
ここに、ダビデの敵として、様々な者が登場する。
金一タラントすなわち三・四キロもある王冠をもった王(二)、指が六本ずつで両手両足あわせて二四本の指を持った大男(六)、機織りの巻き棒のように太い柄の槍を持った男(五)、巨人ゴリヤテ(五)などである。
こうした者たちは、見るからに強い者たちであった。しかしダビデは、目に見えないところに強さを持っていた。それは彼の信仰であり、また主が共におられるという事実だったのである。
私たちは、目に見えないところにこそ、強さを持つべきである。私たちの強さは、魂の奥底になければならない。
本当に強い人は、人にはやさしく、逆境に強い。しかし、見せかけの強さの人は、人に対してえばるが、逆境ではつぶれてしまう。
信仰者は、その信仰によって本当の強さを身につけることができる。
信仰は、弱者のためのものである。それは、自分の弱さを知っている人が、本当の強さを身につけるための道なのである。
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19日 旧約・第一歴代二一章
ダビデが人口調査をしたことは、神のみこころをそこなった。
人口調査自体が悪いのではない。かつてモーセは、神の命令を受けて二回も人口調査を行なった(民数記一章、二六章)。
もしダビデが神の命令、あるいは許可を受けて人口調査をしたのなら、彼はわざわいを受けなかったであろう。しかし、ダビデはこのとき事前に祈っていない。
彼は、おそらく人口の多いのを知って神よりも民の数に拠り頼み、自分の力を誇ろうとしたのであろう。
私たちは成功したとき、とかく自分の配下の人間の数の多さや、自分の牧会する教会員数などを誇ったりしやすい。また、それを自分の功績であるかのように思い、自己満足にひたることもある。
しかし、これはたいへん危険なことである。
私たちは、成功したときこそ神の前にへり下り、つつしんで神に栄光を帰さなければならない。神の恵みがなければ、私たちは無に等しいのである。
「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられる」(一ペテ五・五)。
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20日 新約・ユダの手紙
この手紙は、主イエスの弟のユダが記したものである。彼はヨセフとマリヤを両親とし、イエスを兄として育った(マタ一三・五五)。
ユダは、イエスの十字架以前はイエスを救い主として信じていなかった。しかし、その後イエスを信じるようになった(使徒一・一四)。さらには、自分を「イエス・キリストのしもべ」(一)と呼ぶに至ったのである。
さて、ユダは人々の中に「不敬虔な者」「神の恵みを放縦に変えて・・・・キリストを否定する人たち」が入り込んできた、と言っている。これは、一世紀にすでに広がり始めていたグノーシス主義のことであろう。
グノーシス主義には二種類の人々がいた。一つは魂の解放のために、知識(グノーシス)の光を受けるとともに、禁欲を教えるグループである。
もう一つは、光を受けた人々は悪に害されないから、道徳には無関係だと教えたグループである。彼らは肉は結局悪なので、どんな不道徳を行なってもそれは重要性をもたないとし、不道徳を容認した。
しかし、私たちはこうした偽りの哲学にまどわされてはならないのである。
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21日 旧約・第一歴代二二章
ダビデは前章で、主の御使いに導かれて「オルナンの打ち場」に贖いの祭壇を築き、犠牲をささげた。彼はそこに立ち、
「これこそ、神である主の宮だ」
と言った(一)。ダビデはそこを、神殿の建設場所と定めたのである。
そこは、かつてアブラハムがひとり子イサクをささげようとした、まさにその場所である(創世二二・二、二歴代三・一)。そして将来、この地区において、神のひとり子イエス・キリストが私たちの犠牲として、贖いのために十字架にかかられる。
ダビデは戦争の人であったので、神は彼に神殿建設をお許しにならず、その子ソロモンに建設をお許しになった。ダビデは、ソロモンが壮麗な神殿を建て上げることのできるよう、数々の準備を積み重ねた。
一代ではできない事業がある。後継者がやりやすいように準備をすることも、先駆者の務めである。
私たちは人生に、短期計画、中期計画、長期計画をたてるべきである。賢い人は、一日の計、一年の計、一〇年の計、一〇〇年の計・・・・をたてる。
きょうや、あすのことも頭にあるが、一〇〇年先のことも見すえた歩みをしたいものである。
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22日 旧約・第一歴代二三章
ダビデは、将来建てられる神殿のために、祭司職の人々を任命した。神殿が建てられた後に任命するのではない。建てられる前から準備するのである。
ダビデは、彼らの役割分担も細かく定めた。ある者は指揮する者、ある者は門衛、ある者は聖歌隊、ある者は香をたく者となった。聖所担当の者もいれば、庭担当の者、脇部屋担当の者、供え物担当の者、祭担当の者もいた。
教会においても、牧師はすべてを自分でするのではなく、うまく奉仕者をそれぞれの部署に配置しなければならない。そして彼らを育てるのである。
今日、アフリカの黒人教会では、信者が自主的に様々の奉仕に参加し、みんなで主イエスの教会を建て上げていこうという意識がたいへん強いので、非常に伸びているという。
彼らのほとんどは、何かしら奉仕分担を持ち、非常な熱意でそれをやっている。
また集会を持てば、彼らは毎回、各自五分程度の証しや、お勧めを、次から次に間をあけずに行なうことができる。たとえ牧師が説教をしなくても、それだけで充分恵み深い集会となるほどである。
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23日 新約・黙示録一章
ヨハネ黙示録はおもに、未来のキリスト再臨の時のことを記した預言の書である。
「黙示」と言われているのは、この書が、将来起こる出来事の多くを直接的表現で示すことをせず、象徴的表現で間接的に示しているからである。
この書は、一般に難解と言われる。しかし、つねに聖書全体からの解釈を試みるなら、大意を読みとることは決して難しくはない。
神は、「わたしはアルファであり、オメガである」と言われた(八)。アルファとオメガは、ギリシャ語アルファベットの最初と最後の文字である。神はあらゆるものの最初であり、最後なのである。
神は万物の始めを支配されたとともに、万物の終わりをも支配される。だから「終末」「世の終わり」は、神を信じるクリスチャンたちにとって、決して恐怖の時ではない。
それはこの世の悪が一掃され、私たちが悪の世から救われ、永遠の命の体を与えられ、神の国が地上に出現する、救いの完成の時である。
だから、「終末」「世の終わり」はクリスチャンにとっては恐れるべきものではなく、むしろ、待ち望むべきものである。
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24日 旧約・第一歴代二四章
「ナダブとアビフは、その父に先だって死に・・・・」(二)
と記されている。これは彼らが主の前に、命じられたものとは違う異火をささげたからである(レビ一〇・一)。そのために彼らは死んだ。
祭司職の責任は、たいへん重かった。今日も、教会の教職者の責任は重い。ヤコブの手紙にこう言われている。
「多くの者が教師になってはいけません。・・・・私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです」(三・一)。
だから、教会の教職者になった者は常に身をひきしめ、主を畏れつつ歩んでいかなければならない。また信者も、教職者のために常にその職を全うできるよう祈ってほしい。
そうでなければ、どんな人であれ、いつイスラエルのように失敗をおかすか、わからないのである。
私たちはみな弱い人間である。教職者になった者は、格別優れた人間だから教職者になったわけではない。それはただ、主の召しがあったからなのである。
みなに祈られていなければ、いつ堕落するかわからない同じ人間である。教会を建て上げるのは祈りである。
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25日 旧約・第一歴代二五章
ダビデは、四千人を聖歌隊として任命した(二三・五)。聖歌隊は二八八人の長のもとに行動したが(七)、長の中には預言者たちもいた(一)。彼らは音楽を背景に、預言活動をしたのである。
教会において、讃美は非常に重要である。讃美を大切にし、数多く歌い、高らかに讃美がなされる教会は、必ず豊かな祝福を受けている。
集会において、讃美の際に会衆の顔が生き生きとしている教会は、例外なく伸びている。人々は、讃美の中に神の預言を聞くのである。
ある人は、無神論者だったが、自分の心の醜さに悩んでいた。彼はクリスチャンにさそわれて、はじめて教会に行った。
彼が教会に足を踏み入れたとき、集会は始まったばかりで、高らかに讃美がなされていた。彼の心にはその歌の言葉と、その背後にある神の臨在が迫った。
彼はうちしおれ、その場にひざまずかざるを得なかったという。彼は心に神の言葉を聞いたと感じて、クリスチャンになった。
人々は、しばしば讃美の中に神の預言を聞く。讃美の中で、人々は神に近づき、神の愛を知り、神のみこころを受けとめるのである。
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26日 新約・黙示録二章
黙示録二章と三章は、「アジア」(現在のトルコ共和国)にある七つの教会に宛てられた、キリストご自身の言葉である。
黙示録は、七つの教会において輪読された。しかし、黙示録は単にこれら七つの教会に対するものではなく、全時代の全教会に対するメッセージとして読むことができる。なぜなら各教会宛の言葉の終わりに、
「御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」(七、一一等)
と言われているからである。
だから、これらの言葉の多くは、今日の私たちに対しても言われているものである。もし、これらの言葉の当てはまる現状が私たちのうちにあるなら、すぐさま悔い改めて、「はじめの愛」に立ち返らなければならない(四)。
それは、時が近づいているからである。キリストの再臨は、神の正義と聖性が、あますところなく世に現わされる時なのである。
私たちはクリスチャンになったら、その後、きよめ(聖潔)に向かって進んでいく必要がある。心が清くなければ、神を見ることはできないからである。私たちは、神にお会いできる準備ができているであろうか。
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27日 旧約・第一歴代二六章
門衛として最初に選ばれたのは、「コラ」の子孫であった(一)。
コラは、かつてイスラエルの荒野放浪時代に、僭越にもモーセに反逆して、クーデターを起こそうとした人物である(六・三七、民数記一六章)。
その子孫たちが、なんと、聖なる神殿と都を守る重要な役に選ばれたのである。彼らの使命は、人々が僭越にも聖所に入って汚したりしないように、またコラと同じような罪を犯さないように守ることであった。
神は、反逆者の子孫に重要な任務を与えられたのである。コラの子孫たちはきっと、先祖の罪過を払拭する良い機会を得たと、喜んで任にあたったに違いない。
私たちは誰であれ、過去に、何らかの汚点があるのではないか。それが、両親に由来するにせよ、または自分自身の行為に由来するにせよ、そうした汚点は、しばしば今日も私たちの心を責めさいなむ。
しかし神は、過去の汚点を払拭し、汚名を晴らす機会を与えて下さるかたである。「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(二コリ五・一七)。
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28日 旧約・第一歴代二七章
ダビデの常備軍は、一組が二万四千人で、一二組あった。
彼らはみな勇士であった。その中には、やりをふるって一時に八〇〇人を刺し殺したヤショブアム(二、二サム二二・八)、多くの手柄をたて獅子さえも打ち殺したベナヤ(五、二サム二三・二〇)らもいた。
一方、アヒトペル(三三)は、のちにアブシャロムに組みして、ダビデに反逆した人である。彼はそれに失敗して、首をくくって自殺した(二サム一七・二三)。
ヨアブ(三四)は、強い軍人で多くの手柄もたてたが、始終ダビデの心を痛めることをなした。王の晩年には、アドニヤの反乱に組みし、殺された(一列王一・七、二・三四)。
このような人々が、王の最も近いところにいて、重要な地位を占めていたのである。
この悲しむべき事実は、教会においても例外ではない。教会においても、最も高い地位にありながら、なお心において「王の王」イエスに対し反逆者となってしまっている、ということがあり得る。
私たちは一人一人が、常に注意して、自分の心を守らなければならないのである。
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29日 新約・黙示録三章
キリストは言われた。
「わたしも・・・・全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう」(一〇)。
「試練の時」とは、終末の患難時代のことである。キリストはクリスチャンたちを、患難時代に守ってくださるのである。
「守る」という言葉について、患難時代「前」携挙説の人々は、患難時代の直前にクリスチャンの携挙があるから、クリスチャンは患難時代を通過せず、危険から守られるのだと考える。
一方、患難時代「末期」携挙説の人々は、携挙は患難時代の終わり頃であり、クリスチャンは地上において患難の「ただ中で」守られる、と考える。
実際、黙示録によれば、患難時代にも、地上にクリスチャンたちがいる(一八・四)。
また、かつてエジプトでモーセによって十の災いが下されたとき、イスラエルの民はエジプトにいた。しかし彼らは、そのただ中で守られた。
キリストは神にこう祈られた。
「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」(ヨハ一七・一五)。
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30日 旧約・第一歴代二八章
ダビデは、その子ソロモンに、建築すべき神殿の仕様書、すなわち設計図を与えた(一一)。
この設計図は、「主の手による書き物」と呼ばれ(一九)、主ご自身が示されたものであった。
かつてモーセが幕屋の造り方を神ご自身から示されたように、ソロモンの神殿も、神ご自身の示された仕様に従って造られたのである。
じつは、幕屋も神殿もキリストの模型である。
イエスは、ご自身の体を「神殿」と呼ばれた(ヨハ二・一九)。イエスの御体は神殿なのである。
一方で、「公同の教会」も神殿である。公同の教会とは、一つ一つの地域教会の建物のことではなく、世界の全クリスチャンの集合体を意味する。公同の教会はただ一つである。
公同の教会は、聖書で「キリストの体」(単数)と呼ばれており、神の神殿なのである。モーセの幕屋や、ソロモンの神殿は、こうした神殿の模型にすぎない。
人々は、神殿において神に近づき、神の恵みを豊かに受けた。今日クリスチャンは、「キリストの体」という神秘的な名で呼ばれる神殿、すなわち公同の教会において神に近づき、恵みを豊かに受けるのである。
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31日 旧約・第一歴代二九章
ダビデは、神の宮を喜ぶあまり、自分が用意したすべてのものに加えて、自分の宝としていた莫大な金銀を神の宮のためにささげた(三)。
キリスト教は決して、富自体を罪悪視しない。キリスト教はむしろ、富の正しい用い方について明確な主張を持っているのである。
富むこと自体は悪いことではない。儲けることは、正当な方法でなされるなら、良いことである。しかし、儲けて富んだあと、その人が富をどう用いたかが問題なのである。
もし私たちが自分の欲を満たすために富を用い、神と隣人をかえりみないなら、神はいずれ私たちを裁かれる。しかし富を、神と隣人のために豊かに活用するなら、神は豊かに祝福されるのである。
かつてマザー・テレサがノーベル平和賞を受けたとき、彼女は「貧しい人々の代表として受け取ります」と言って、それを受けた。
ノーベル平和賞には、莫大な額の賞金がつく。彼女はそれもいただいて、インドに帰ると、すぐにそのお金で孤児院をつくったのである。
私たちは自分のため以外に、神と隣人のために、今までどれだけお金を使ってきただろうか。
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