聖書一日一章

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1日 新約・黙示録四章
 黙示録四章からは、使徒ヨハネに見せられた預言的幻である。本章では、天国の光景が見せられている。
 「御座に着いている方」(二)とは、父なる神である。その「御座の回りに二四の座があった」。「これらの座には・・・・二四人の長老がすわっていた」(四)。
 二四は、一二の二倍である。一二人は旧約の聖徒たち、あとの一二人は新約の聖徒たちであろう。彼らは全てのクリスチャンを代表し、天国で神の御座の近くに侍っている。
 その近くには、「四つの生き物がいた」(六)。この天的生命体は、ケルビムの一種であろう。
 ケルビムは特殊な姿を持つ御使いの仲間であって、エゼキエル書にも出てくる(一・五〜一四)。彼らには様々の姿があるようである。
 ケルビムが神を讃美するとき、二四人の長老は自分の冠を御座の前に投げ出し、讃美して言った。
 「あなたは栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方です」(一一)。
 かつてイギリスのビクトリア女王も、牧師からキリストの再臨について聞いたとき、こう言った。
 「はやく主が来て下さいますように。私は主の御前に私の冠を差し出すでしょう」。
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2日 旧約・第二歴代誌一章
 「高き所」(三)とは礼拝所である。それはもともと山の上に設けられたために、そう呼ばれた。
 しかし後代には、町の中に少し高い段を設けて造ったような礼拝所も、「高き所」と呼ばれた。ソロモンはギブオンの町に、「会見の天幕」すなわち幕屋を安置するために、高き所を築いていた。
 このように高き所は、はじめの頃は必ずしも偶像礼拝とは関係がなかった。しかし、イスラエルではのちに、高き所に偶像が置かれるようになった。それは偶像礼拝の温床として、預言者たちから激しく非難されることになる。
 今日も、日本の神社の多くは、山の上に造られている。それは「高き所」なのである。神社と古代イスラエルの幕屋には似た点も多い、と言われる。しかし今日、神社という「高き所」は、異教礼拝の温床である。
 ソロモンは、神の幕屋において礼拝したのち、イスラエルの王となった。神は彼に、知恵と知識、また富と財宝と誉れをお与えになった。
 知恵と知識はソロモンが求めたから与えられ、富と財宝と誉れは、ソロモンが求めなかったから与えられたのである。
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3日 旧約・第二歴代誌二章
 ツロは、イスラエルの北隣りに位置する国であった。ソロモンはツロの王「フラム」から、神殿と王宮を建設するための資材を調達した。
 「フラム」の名は、第二サムエル五・一一では「ヒラム」である。彼の名は外国語だったから、表記に幅が出た。ちょうど英語のデイヴィッドを、日本でデビッド等とも表記するのと同じである。
 フラムは、ツロ人を父としていた。しかし母方には、イスラエル人の血が流れていた。
 彼の母は、イスラエルの「ダン」族の娘だったと記されている(一四)。ところが第一列王記七・一四においては、フラムは「ナフタリ族のやもめの子」とも言われている。
 これはどういうことか。
 フラムの母は、もともとダン族出身であったが、ナフタリ族の男と結婚したのであろう。しかし、やがて夫が死んで彼女はやもめとなり、その後ツロの人と再婚した。彼らの間に生まれたのが、フラムである。
 フラムは、「天と地とをお造りになったイスラエルの神、主はほむべきかな」と言った(一二)。これは単なる外交辞令ではないであろう。彼はダビデやソロモンの影響を受けて、信仰を持っていたのであろう。
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4日 新約・黙示録五章
 御座にすわっておられる神は、その右の手に「巻き物」を持っておられた。「それは内側にも外側にも文字が書き記され、七つの封印で封じられていた」(一)。
 この「巻き物」こそ、黙示録の預言内容のもとになる巻き物である。巻き物が少しずつ開かれていくたびに、黙示録の預言の言葉と、預言的幻が展開していく。
その巻き物を解き、終末の出来事の行方を支配するべき方は、イエス・キリストのみであった。「ユダ族から出た獅子」「ダビデの根」「ほふられたと見える小羊」といった象徴的表現は、いずれもキリストをさす(五〜六)。
 小羊なるキリストについて、使徒ヨハネは、「ほふられたと見える」という表現を使った。キリストは、十字架上で受けたあの槍の傷や釘の傷を、天に帰られたあとも持ち続けておられるのであろう。
 天のキリストの御体には、あの生々しい傷跡が、今もあるのである。だから、その姿は「ほふられたと見え」た。
 やがて時が来ると、天が開けて、キリストが再臨される。その御体には、十字架の傷跡がはっきり見られるであろう(ゼカ一二・一〇)。
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5日 旧約・第二歴代誌三章
 ソロモンが神殿を建てた場所は、かつてアブラハムがイサクをささげようとしたあの「モリヤ」山上であった(一)。またそこは、かつて主がダビデにご自身を現わされた場所でもある。
 その土地は、ダビデの時代に「エブス人オルナンの打ち場」となっていた(一)。ダビデはその土地を、神殿建設のために、代金を払って買いとったのであった(一歴代二二・二二)。
 だから、以後そこは正式にイスラエル民族の所有となったはずである。ところが二〇世紀の今日はどうかというと、その地はイスラエル民族の支配下にはない。
 「神殿の丘」と呼ばれるその地は、現在イスラム教徒の支配下にある。そこにはイスラム教の寺院が建っている。
 しかし主イエスの予言によれば、やがて終末の時代においてそこにユダヤ人の神殿が再建されるはずである(マタ二四・一五)。そこは再び、イスラエル民族の所有となる可能性がある。
 今後、パレスチナでは目をみはるような変化が、幾つも起こるに違いない。ユダヤ教神殿の再建も、その一つである。
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6日 旧約・第二歴代誌四章
 神殿に設けられた「海」は祭司が身を洗い清めるため、また「洗盤」は全焼のいけにえを洗い清めるためであった。
 これらは、御言葉によって私たちを清め、洗って下さるキリストの恵みを予表するためのものである。
 また、神殿の祭壇はキリストの犠牲を予表する。燭台は、世の光であるキリストを予表し、供えのパンは、天よりのパンであるキリストを予表していた。
 そのほか、神殿のすべてのものはキリストの恵みを予表し、象徴していた。これらはみな、来たるべきキリストの恵みの「影」だったのである(ヘブ一〇・一)。
 神殿の器具は、基本的にはモーセのもとで造られた幕屋のものと同じであるが、あるいは形が大きく、あるいは数が多くなっている。
 たとえば神殿の祭壇は、幕屋の祭壇に比べ、四倍の大きさである。幕屋では洗盤も燭台も机も一つずつであったが、神殿ではいずれも一〇ずつになっている。
 さらに、神殿はすべて金でおおわれ、宝石で飾られた。それは大きさにおいても、数においても、また壮麗さにおいても、はるかに幕屋をしのぐものだったのである。
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7日 新約・黙示録六章
 ここから、神の預言の「巻き物」の封印が解かれはじめる。終末の出来事に関する預言的・象徴的幻が開始されるのである。
 巻き物というものは、簡単に開いたりしないように、ひも等で結ばれている。それが「封印」である。それは普通一箇所だが、この預言の巻き物は七箇所が封印されていた。だから、巻き物が開かれるのは、七つの封印全部が解かれた時である。第一から第六までの封印を解いた時点では、まだ巻き物は開かない。
 つまり、第六までの封印が解かれる時点で現われる預言的幻は、巻き物の「外側に」書き記された言葉によるものである(五・一)。
 第一から第六までの封印の幻は、終末の出来事に関する「本預言」ではない。それはいわば映画の「予告編」のようなものである。
 映画の予告編では、本上映に入る前に、映画の印象的な場面だけが映し出される。封印の幻もそうである。それは決して、患難時代の初期の出来事のみを扱ったものではない。むしろ、患難時代全体のトピックの一部をかいまみているのである。
 封印の幻は、本預言に入る前の予告編であって、患難時代の特徴的情景をかいまみるものである。
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8日 旧約・第二歴代誌五章
 神殿の至聖所には、契約の箱が設置された。
 箱の中には、モーセの十戒を記した二枚の石の板が入れられた。しかし、「二枚の板のほかには何も入っていなかった」(一〇)。
 ヘブル九・四によると、かつて幕屋の契約の箱の中には、十戒の板だけでなく、「マナの入った金のつぼ」、「芽を出したアロンの杖」も入っていた時期があった。
 しかし、それらは偶像化する危険があったからであろうか、何らかの神の導きのもとにやがて除外され、このときには箱の中は十戒の板だけになっていた。
 「マナの入った金のつぼ」は、かつて民のために荒野を乗りきらせた神の恵みを表す。一方「芽を出したアロンの杖」は、大祭司アロンに対する神の任命を表していた。
 しかし、それらはもう過去のことである。今後大切なのは、私たちが現在において、また未来に向かい、ただ神の御教えを拠り所として歩んでいくことである。
 過去に受けた神の恵みも重要だが、今自分が神の御言葉に従って歩んでいるかどうかこそが重要である。神に従って歩むなら、神の栄光の雲は私達から離れることはない。
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9日 旧約・第二歴代誌六章
 ソロモンは神殿を、神の住所、あるいは神の住居として造ったのではなかった。彼は、
 「神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。じつに天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私の建てたこの宮など、なおさらのことです」(一八)
 と言った。ソロモンは神殿を、ただ民の祈りの家として造ったのである。彼は、「この所に向かってささげる祈りを」「あなたの御住まいである天から聞いて」「赦してください」「報いてください」と祈っている。
 彼は外国人についても、彼らがこの宮に来て祈るなら、それをかなえてください、と言っている(三三)。ソロモンは神殿を、単にイスラエル民族のためだけでなく、全人類のために造ったのである。
 神殿は、キリストご自身の御体の模型である。私たちは、「キリストのからだ」という神秘的な名で呼ばれる教会において、神に結び合わされる。教会は神の宮である。
 その神の宮においては、ユダヤ人も異邦人もない。彼らはキリストにあって、一つにされるのである。
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10日 新約・黙示録七章
 本章においては、まだ預言の巻き物は開いていない。巻き物が開かれて本預言が開始されるのは、第七の封印が解かれる時であり、これは次の八章においてである。
 本章では、患難時代に重要な役割をするある一群の人々に関して、預言的幻が記されている。
 ここに、二種類の人々が登場する。第一の人々は、イスラエルの一二部族からそれぞれ一万二千人ずつ、計一四万四千人のイスラエル人たちである(三〜八)。
 第二の人々は、全世界のあらゆる民族からなる、誰にも数えきれないほど大勢のクリスチャンたちである(九〜一七)。
 両者は一見、全く別の人々のように思える。しかし、両者はじつは同じ人々をさしており、一方はその象徴的姿、一方はその実際的姿なのだと考える学者が少なくない。
 「一四万四千人のイスラエル人」の幻は、じつは「誰にも数えきれないほど大勢のクリスチャンたち」を黙示録内に記す際の象徴的姿なのだ、という考えである。
 その根拠として次の聖句があげられている。――ガラ六・一六、ルカ二二・三〇、ヤコ一・一、黙示二一・一二、一六〜一七、他。
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11日 旧約・第二歴代誌七章
 神殿は完成し、天から火が下って祭壇の全焼のいけにえを焼き尽くし、主の栄光がこの宮に満ちた。
 それからソロモン王と民は、牛二万二千頭、羊一二万頭をいけにえとしてささげた。たいへんな数である。
 これは和解のいけにえであり、感謝からするもので、後に民がその肉を食べることができた(一列王八・六三、レビ七・一五)。民は、主の火によって焼かれたその肉を、感謝と畏れを抱きながらいただいたであろう。
 肉を食べることは、聖書では禁じられていない。しかし、肉を食べる際に、私たちは主への畏れと感謝を常に持つべきである。
 さて、神殿の奏楽隊は、かつてダビデが発明した「新しい楽器」を用いて、神に讃美を捧げた(六)。
 ダビデは神を愛し讃美する心が強かったから、楽器まで発明していたのである。ソロモンも、それを受けて、様々な工夫をして神殿を造り上げた。
 神を愛する者は、創造的である。愛というものは、もともと創造的なのである。愛する者は、何をするのが良いだろうかと一心に考える。工夫するのである。だから愛は、おのずから創造する。
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12日 旧約・第二歴代誌八章
 ソロモンは、「パロの娘」すなわちエジプト王の娘をめとって、妻としていた(一一)。
 パロの娘だけではない。彼はやがて、外国から多くの妻を迎え、そばめも囲うようになる。その数は最終的に、妻七〇〇人、そばめ三〇〇人にも及んだ(一列王一一・三)。
 その多くは、近隣諸国と友好関係を結ぶための政略結婚や、人質だった。当時は、平和を保つために、王族間に血縁関係を結ぶことが早道だったのである。
 しかし、もともと政治のために迎えられた彼女たちである。ほとんどは、神ヤハウェに対する信仰を持っていなかった。外国で生まれ育った彼女たちは、偶像教を心の中で信じていた。
 このために、彼女たちは後日ソロモンを堕落させることになる。このときソロモンは、まだ個人としては敬虔さを持っていたが、家庭内に問題をかかえ始めていたのである。
 彼は、ダビデの町は主の箱を迎える聖なる所だからと言って、妻をダビデの町の外に住まわせた(一一)。
 自分の妻を聖所に置くことができないとは、悲しいことである。そのような妻は、もともと迎えるべきではないのである。
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13日 新約・黙示録八章
 いよいよ第七の封印が解かれた。神の預言の巻き物は開かれ、内側の文字による本預言が始まる。
 本預言は、七つのラッパの預言的幻として次々に展開していく。
 ここで、第七の封印の幻の「後に」七つのラッパがあるのではないことに、注意していただきたい。七つのラッパは、第七の封印の幻の「内容」なのである。
 さて、第一のラッパから第四のラッパの幻までは、いずれも自然界に対する災害である。これらの災害の多くは、直径数十キロ程度の小惑星や、彗星などが地球に衝突したときに起こる現象によく似ている。
 この程度の天体が地球に衝突すると、それは火の玉となって地表に激突し、陸地に落ちれば広範囲にわたって火事を起こし(七)、海に落ちれば熱で一瞬にして広範囲の水を気化してしまう。付近の生命はすべて死に絶える(九)。
 また巨大地震(五)を引き起こし、地上の原子力発電所を破壊すれば川の水が汚染され、多くの人が死ぬであろう(一一)。
 さらには、衝突エネルギーで舞い上がった多くのチリは成層圏にまで達し、地上の広範囲を暗黒と化すのである(一二)。
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14日 旧約・第二歴代誌九章
 シェバは、アラビヤ南西部にあった国である。金、宝石、香料等を産出し、それらの通商交易で有名だった。
 シェバの女王は、はるばるそこからやって来て、ソロモンの知恵を聞いた。しかし、私たちはソロモンよりも優れた知恵者を知っている。
 主イエス・キリストは、私たちに人生を力強く切り開いていくための知恵を授けてくださる。聖書の御言葉を通し、また祈りを通して彼に聞きながら歩んでいけば、私たちは人生を間違うことはない。
 かつて神は御子イエスについて言われた。
 「これはわたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」(マコ九・七)。
 信仰の基本は、聞き従うことにある。「聴従」である。聞いて、それに従う。
 もしわからないことがあれば、何でも質問してよい。人生は難問だらけなのだから、質問のない人などいないはずである。
 その質問を主イエスのもとに持っていって、彼に質問を投げかけるのである。彼は必ず適切な答えを下さる。そして納得し、あとはそれに従うのである。
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15日 旧約・第二歴代一〇章
 ソロモンは、治世の後半において偶像崇拝に堕落したために、彼の死後、王国は分裂することになる。
 ソロモンの家来であったヤロブアムは、反逆をくわだてたことがあるために、ソロモンをさけてエジプトに逃げていた。神は預言者アヒヤを通して、ヤロブアムに対し王国のうちの一〇部族を与えると告げておられた(一列王一一・二六〜四〇)。
 ついに、王国が分裂するときがやって来た。ソロモンの子レハブアムは、重大な決断に際して神に聞かず、俗人に意見を聞いて従い、愚かな決断をした。それでヤロブアムと一〇部族は、レハブアムに対して怒り、彼を捨てて離れ去った。
 こうして王国は分裂した。ヤロブアムと一〇部族は北王国イスラエルを形成し、一方レハブアムは南王国を形成した。南王国は、ユダとベニヤミンの二部族だけであった。
 木が枯れ始めると、庭師はその枯れた枝をバッサリと切ってしまう。木は小さくなるが、やがて元気を取り戻し、青葉が出てくるからである。イスラエルは枯れ始めた。しかし、偉大な庭師である神は、枯れた枝をバッサリと切り落とされた。その残った木の株――南王国から、やがて救い主の青葉が出てくるのである。
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16日 新約・黙示録九章
 第五のラッパに見られる「一つの星」「いなご」などの表現は、預言的幻として、物事を象徴化した表現である。実際には「星」は悪魔的なもの、「いなご」は悪霊または病の霊をさしている。
 この第五のラッパの患難は、「額に神の印を押されていない人間にだけ」及んだ(四)。
 額に神の印を押されているあの一四万四千人(七・四)以外の人々にだけ、患難が及んだのである。つまり一四万四千人は、地上にいながらも全く被害を受けなかった。
 もし、「一四万四千人」が「あらゆる民族から成る数えきれないほど大勢のクリスチャンたち」(七・九)の象徴化した姿である、との解釈に立つなら、彼らは、地上にいながらもその患難のただ中で「守られる」わけである(三・一〇)。
 クリスチャンは、患難時代を地上で通過するであろう。しかし、その患難のただ中で守られるのである。
 ちょうど、かつてモーセによってエジプトに一〇の災いが下された時、イスラエル人がエジプトのただ中で守られたのと同じである。
 クリスチャンの空中携挙は、患難時代の終わり頃であると思われる。
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17日 旧約・第二歴代一一章
 北王国イスラエルのヤロブアム王は、自分の民が南王国のエルサレム神殿に礼拝に行ったりしないように、自国内に高き所を設け、偶像を設置した(一五)。
 またヤロブアムは、ヤハウェに仕える祭司たちであるレビ人を解雇した。それでレビ人たちはみな、南王国へやって来た(一三)。
 レビ人たちは南王国で良い感化を与えたらしく、レハブアム王は三年間は主の道を歩んだ(一七)。しかし、わずか三年間であった。その後彼は、強くなるに及んで堕落し、神を離れた。
 クリスチャンの人生においても、信仰に入って四年目くらいに、気のゆるみがやってくることがないか。長く祝福が続くと、やがて高ぶり、神を忘れてしまうことがないか。
 しかし、私たちは年を重ね、強くなるごとに、神への聴従を新たにしていきたい。
 レハブアムは、多くの物資を蓄え、多くの妻を持ち、多くの子供を生んで町々に分散させ、彼らにも多くの妻を探し与えることに努力した。
 しかし、彼の努力すべきは、むしろ神の御言葉を自分の心に蓄え、また民の心に蓄えさせることだったのである。
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18日 旧約・第二歴代一二章
 神は、罪を犯した南王国ユダの民に、審判を下された。彼らを一定の期間、エジプトの王シシャクの支配下に渡されたのである。
 それは地上の諸王の支配下にある災いと、神の支配下にある幸いとの相違を、彼らに思い知らせるためであった(八)。
 神の審判を受けたとき、南王国の王とつかさたちは、
 「主は正しい」(六)
 と言って、へり下った。それで神は、一定期間の懲らしめの後、彼らの国を回復された。
 私たちも、神の懲らしめを受けたとき、「主は正しい」と言ってへりくだることができるであろうか。
 私たちはとかく、自分の姿を忘れて、「なぜ神は私をこんなひどい目に会わせられるのか」と、神を非難しやすい者たちである。しかし神は、ときに愛する者をしかられる。
 神が私たちを、懲らしめの中に置かれることがあるのは、サタンに仕えることの災いと、神に仕える幸いとの相違を、私たちに思い知らせるためである。
 「主は正しい」との信仰は、信仰生活の基本である。「私たちは真実ではなくても、彼は常に真実である」(二テモ二・一三)。
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19日 新約・黙示録一〇章
 「第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられた通りに成就する」(七)。
 第七のラッパは、特別なラッパである。それは患難時代のクライマックスを告げるラッパなのである。
 ある人々が誤解しているように、第七のラッパの幻の「後に」七つの鉢が続くのではない。七つの鉢は、第七のラッパの幻の「内容」の一部なのである。
 それは、七つのラッパが第七の封印の内容であるのと同じである。
 さて、第七のラッパが吹き鳴らされる時が近づき、もう一つの預言の巻き物――「小さな巻き物」が、使徒ヨハネに与えられた(一〇)。これは、第七のラッパの預言的幻を詳しく記した巻き物である。
 使徒ヨハネは、その巻き物を「食べた」。食べるという行為は、聖書では、それが自己の内に展開していくことを意味する。この巻き物を食べることによって、新たな預言活動が始まるのである。
 かつて預言者エゼキエルも、巻き物を食べさせられた。すると彼の口から、預言の言葉が展開していったのである(エゼ二・八〜三・四)。
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20日 旧約・第二歴代一三章
 南王国の王アビヤは、演説をして、自分たちがモーセの律法を忠実に守っていると強調した(一〇)。
 彼らは実際、神ヤハウェに対する信仰心を持っていた。それで北王国イスラエルとの戦いにおいても、神は南王国に勝利を与えられた。
 しかし、アビヤの演説には多分に誇張がある。第一列王記一五・三には、
 「彼(アビヤ)は、父(レハブアム)がかつて犯したすべての罪を行ない・・・・」
 と記されている。彼は全き信仰者ではなかった。いわば半肉半霊の信者である。自我の思いと信仰、また欲深さと敬虔とをあわせ持った、二心の者だったのである。
 神は、そうした者にも憐れみと恵みを施し、ときに勝利を与えられる。しかし、常にではない。
 半肉半霊の信者は、今日も多い。そうした者も、神の恵みを受けることはできる。一時的に勝利を得ることもある。しかし、輝くような人生を歩むことはできない。
 リバイバルは、半肉半霊の信者の集いからは起きない。たとえ数人でも、全身全霊をかけて主に仕える者たちの集いから、リバイバルは起きるのである。
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21日 旧約・第二歴代一四章
 南王国の王アサは、主と心を全く一つにし、忠実に主に仕えた。
 アサは、異教の祭壇を取り除き、偶像を砕いた(三)。それが彼の勝利の秘訣であった。勝利の秘訣は、じつに単純である。
 私たちも、人生において勝利を得たいなら、心の中の偶像と異教の祭壇を砕かなければならない。
 もし、真の神と同じ程度に大切にしているもの、あるいは神以上に慕っているものが心にあるなら、それらはみなあなたの偶像である。私たちはそれを切り倒し、粉々に破壊しなければならない。
 また、心の内に聖書に反する考え、聖書に矛盾する思い、願い、意志等があるなら、それはみな異教である。私たちは異教と、異教の祭壇を、心の中から完全に追放しなければならない。
 たとえ、自分の持つすべてを今日失っても、また命が今日終わりになるとしても、ただ主ご自身が共におられればそれだけで幸福だ、と私たちは言えるであろうか。
 偶像と異教を取り除くとは、そういうことなのである。「他の何物がなくとも、主ご自身が共におられるだけでよい」。その心にこそ、神の力が流れ込むのである。
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22日 新約・黙示録一一章
 患難時代には、エルサレムに、ユダヤ教の神殿が存在しているはずである(一)。
 ユダヤ教神殿は、現在はまだないが、患難時代が中期に入る以前に再建されるのである。
患難時代は初期、中期、末期に分けられる。初期には、戦争、ききん、疫病、不法、地震等が頻発する(ルカ二一・七〜一九)。この初期の時代、あるいはそれ以前に、ユダヤ教神殿は再建されるであろう。ユダヤ人はそこで礼拝をささげる。
 中期に入ると、エルサレムは「獣」と象徴的に呼ばれる暴君によって、包囲される(ルカ二一・二〇)。しかし、エルサレムに神の二人の預言者が現われ、三年半にわたって獣の侵略から守る(三〜七)。
 その三年半が終わると、二人の預言者は「獣」に殺される。しかし彼らは復活し、昇天する。
 その後、患難時代は末期に入る。「獣」は、三年半にわたってエルサレムをふみにじり(二)、自分を神と宣言する(二テサ二・四)。
 それは最も暗黒な期間である。しかし、最終的にキリストが再臨し、悪に終止符を打たれる。その患難時代末期の開始を告げるのが、第七のラッパである。
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23日 旧約・第二歴代一五章
 南王国の王アサの母は、偶像崇拝をやめなかった。彼女は「アシェラのために憎むべき像を造った」。
 アサはそれを見て、彼女を王母の位から退けた。そして彼女の造った偶像を切り倒し、粉々に砕いた(一六)。このようにアサは、たとえ自分の母が相手であろうと、決して偶像を認めなかった。
 私たちは、一般には親に従うよう教えられている。また、いかなる場合も私たちは親を敬う心を失うべきでない。が、万一、親の言うことが神の教えに反するような場合は、迷わずに神に従いたい。
 アサは、南王国に現われた幾人かの改革者の一人であった。良い改革者は、必ずしも良い親から生まれるとは限らない。
 親がたとえ良くないような場合でも、信仰を抱く息子、娘は、偉大な者に成長し得る。なぜなら、主が親となって彼らを育てて下さるからである。
 私たちを本当に育ててくれるのは、天の父である。天の父は、私たちをどう育成し訓練するのが最善かを、知り、心得ておられる。
 つねに天の父と共に歩んでいきたい。
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24日 旧約・第二歴代一六章
 アサ王は、全般的に見れば、りっぱな信仰の生涯を送った(一五・一七)。しかし彼はその治世の終わりに、幾つかの失敗を犯した。
 アサは、北王国の策略に立ち向かおうとしたとき、「アラムの王に拠り頼み」、主に拠り頼まなかった(七)。またその言葉を告げてくれた預言者ハナニに対して怒り、乱暴を働いた(一〇)。
 りっぱな信仰の生涯を送りながら、生涯の終わりに謙虚さと力を失うのは、何と悲しいことであろうか。
 アサは、やがて重い病にかかった。その病は、再び主に拠り頼むための良い機会となったはずである。しかし「彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた」(一二)。
 この「医者」は、今日のような科学的治療をなす医者ではなく、呪術師のことである。当時は、病人のためのまじないや、偶像への祈祷をする者が「医者」と呼ばれた。聖書は、科学的治療の医者を否定していない(マタ九・一二)。大切なのは、私たちが常に主を求め、主と心を一つにすることである。
 「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力を現わしてくださる」(九)。
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25日 新約・黙示録一二章
 神の奥義が成就される時の開始を告げる「第七のラッパ」は吹かれた。すると、患難時代末期において重要な役割をする者たちに関する預言的幻が、次々に現われる。
 本章では、キリストおよび教会と、サタンとの霊的戦いが、象徴化された幻として見せられている。
 「竜」はサタンである。サタンは、エペソ二・二において「空中の権威を持つ支配者」とも呼ばれている。
 「第三の天」(二コリ一二・二)と言えば天国だが、サタンはその下の「第二の天」にいて、人々に影響を与え、支配しているようである。彼は患難時代の末期に直接地に下ってきて、最後の悪行をなす(一二)。
 一方、「女」から生まれた「男の子」(五)は、キリストである。「女の子孫の残りの者」(一七)とは、クリスチャンたちである。
 では、「女」とは何か。ガラテヤ四・二六には「上にあるエルサレムは自由であり、私たちの母です」とある。
 天のエルサレム――天国は、クリスチャンたちの母である。すなわち「女」は、天国を擬人化し象徴化した幻であると思われる。
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26日 旧約・第二歴代一七章
 ヨシャパテは、善い王であった。彼は、「先祖ダビデの最初の道」すなわちバテシェバ事件を起こす前のダビデの道にならい、立派な信仰の道を歩んだ。
 ヨシャパテによって、王国は主の祝福を得、国は堅く立てられた。彼は人望も得た。人々は彼に贈り物をし、富と誉れが豊かに与えられた。
 また、国内に神の言葉が満ちたとき、外の敵は恐れた。神を畏れる者は、外の敵を恐れさせる。ペリシテ人やアラビヤ人でさえ、彼と友好関係を保とうと贈り物を携えてきた。
 敬虔は、人を権威づける。神の前にへり下る者こそ、真の指導者となり得る。
 ヨシャパテのなした事業のうち最も重要なのは、彼が聖書学校をつくったことである。それは巡回聖書学校であった。ヨシャパテは、つかさたちやレビ人を各地に遣わして、主の律法を民に教えた(九)。
 今までイスラエル民族は、主の律法を忘れるたびに失敗を犯してきた。しかし今や国に繁栄を取り戻す道は、主の御教えに立ち返ることである。
 国の基礎をつくるのは教育である。国を復興させ、繁栄させる近道は、「教育立国」である。
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27日 旧約・第二歴代一八章
 南王国の王ヨシャパテは、北王国の王アハブとの間に「縁を結んだ」(一)。
 これはヨシャパテが、アハブの娘を迎えて、自分の子ヨラムと結婚させたことをさしている。
 ヨシャパテの心には、おそらく分断国家の悲哀があったのであろう。彼はいつの日か、南北に分断された祖国を再統一したいと願っていた。
 しかし、北王国のアハブは罪深かった故に、この縁結びによりヨシャパテは災いをこうむることになる。
 神はすでにこのとき、アハブを戦死させることを決めておられた。
 神から遣わされた預言者ミカヤは、アハブに、「攻め上って勝利を得なさい」と言った(一四)。しかしこれは「そんなに言うなら攻め上りなさい」という嘲笑的口調である。
 自分に都合のいい預言だけを聞きたがったアハブに対して、「勝手にしなさい」と言ったのである。
 聞こえのいい預言だけを聞きたがったアハブの態度は、彼の罪深さを表している。彼は、神を自分に仕えさせようとしたのである。私たちも、教会の説教において、自分の耳に聞こえのいい言葉だけを聞こうとしてはならない。それは神を自分に仕えさせることである。
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28日 新約・黙示録一三章
 サタンが第二の天から地上に下って来るとともに、地上にはサタンの化身ともいうべき悪魔的人物が現われる。
 「獣」と象徴的に呼ばれるこの者は、患難時代末期において強大な力を得、世界に君臨し、聖なる都エルサレムを荒らして冒涜の街となす。また人々に圧政をしき、クリスチャンたちを迫害する。
 かつてエデンの園において、サタンは蛇に乗り移って言葉を語った。しかし終末の時代においてサタンは、独裁的人物に乗り移り、彼に恐ろしい力を与えるのである。
 この獣に「一〇本の角があった」(一)とは、この暴君に率いられた一〇か国の同盟国があるという意味である(一七・一二)。
 また、「獣」のもとには「もう一匹の獣」がいるという(一一)。これは、暴君のもとにいる親衛隊長である。ちょうどナチスのヒトラー総統のもとに、親衛隊長ヒムラーがいたのと同じである。
 「獣」の親衛隊長は、残虐なことを行なう一方、奇跡さえ起こす。彼は暴君の偶像をつくる(一四)。
 この偶像は、エルサレム神殿に設置されるに違いない。こうして彼らは、神の怒りを積み上げるのである。
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29日 旧約・第二歴代一九章
 エフーは、勇敢な預言者であった。彼は、ヨシャパテ王が罪深い北王国との間に縁を結んだことについて、
 「主を憎む者を愛してよいのでしょうか。これによってあなたの上に、主の前から怒りが下ります」
 と言った。この「怒り」は、次章後半の出来事で成就を見る。
 しかしエフーは、「あなたには、良いことも幾つか見られます」と言って、ヨシャパテのなした良いことをあげて賞賛した。神は、悪事のために善事を無視する方ではない。
 ヨシャパテ自身も、自分の過失を指摘されたのち、良い行ないをなすのをやめるわけではなく、むしろますます主のために働いた。彼は自ら民の中へ出ていき、彼らを主に立ち返らせた(四)。
 王自ら巡回伝道をなしたのである。彼は、国内の誰よりも多く働いた。真の指導者は、他の誰よりも多く働く。
 私たちには、誰でも、欠点や短所、過失、失敗がある。それらに対する責めは、いずれ自分自身が負わなければならない。
 しかしたとえ失敗があっても、またそれに対する責めがあっても、私たちは心を新たに、今日もますます主のために働くべきである。
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30日 旧約・第二歴代二〇章
 モアブ人とアモン人の大軍が攻めてきた、との報告に、ヨシャパテ王と民はふるえあがった。
 彼らはちょうど、ヘビににらまれたカエルの心境だったに違いない。普通に見れば、到底勝ち目はない。
 しかしヨシャパテは神に祈り、自分の軍勢の先頭に讃美隊を置いた。
 「彼らが喜びの声、讃美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めてきたアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた」(二二)。
 ここで注意してほしい。彼らが讃美の声をあげたとき、目に見える状況は依然として、ユダの国に圧倒的に不利だった。それでも彼らは主のみわざを信じ、高らかに讃美して、主をほめたたえたのである。
 私たちはとかく、困難や試練にあったときに、「ああ、もうダメだ。終わりだ。神様は私を捨てられた」と、つぶやいてしまう。しかし、つぶやいてはならない。
 私たちが讃美の声をあげ、神をほめたたえて、感謝と栄光を帰するなら、神の力が解放される。つぶやきは神の力をとどめ、讃美は神の力を解放する。
 神は、私たちの讃美の中に住まわれるのである。
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