聖書一日一章

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1日 旧約・ヨブ記一三章
 友人たちの冷たい因果応報論は、神の正しさを主張しようとするものだったのだろう。しかしそれは、現実の世界を説明するものではなく、またヨブを救うものでもなかった。
 ヨブは、たとえ自分が死ぬことになるとしても、神への信仰は変わらないと言う。「神が私を殺しても、私は神を待ち望み、なおも、私の道を神の前に主張しよう」(一五)。ヨブはもはや、友人たちの主張を聞きたいとは思わない。今はむしろ、神ご自身と論ずることを願う。
 ヨブは友人に対する言葉から一転して、神に向かって祈っている。彼のおびえる心を取り去って神ご自身が答えを下さること(二一〜二二)、また罪があるなら知らせてください、と祈った。
 ヨブにとっては、今や神から答えをいただくことが、唯一の慰めとなった。神ご自身が語りかけて下さること――それが救いなのである。
 ヨブが苦難にあったのは、この心境に至るためだったと言っても過言ではない。ヨブは神を待ち望んだ。神からの答えを待ち望んだ。
 神ご自身が答えを下さるなら、それがどのようなものであれ、ヨブにとっては満足であった。ここに彼の真摯な信仰があった。
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2日 新約・マタイ一二章
 「わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(二八)。
 神の国はいつ来るのか。完全な姿で来るのは、キリストの再臨の時である。しかし、キリストのみわざのなされるところにおいて、神の国は部分的にせよ、すでに「来ている」。その姿をかいま見せているのである。
 私たちはキリストのみわざを体験するとき、すでに神の国を体験している。先取り体験である。私たちは「やがて来る世の力を味わった」(ヘブ六・五)。
 神の国の本体は、キリストである。キリストの力、愛、至福、永遠の命、義、平和、繁栄である。それは信仰を通し、聖霊の内住により、この世において先取り体験できる。
 神の国は、死んで天国に行ってから初めて体験できるものではない。地上にいながらにして体験できる。
 神の国は、キリストの再臨の時まで待って初めて体験できるものではない。部分的になら、今、ここで体験できる。
 あなたの顔を天に向けて「主よ、あなたを愛します」と言おう。神の国は、今日にもあなたに臨むであろう。
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3日 旧約・ヨブ記一四章
 ヨブは、「女から生まれた人間は、日が短く、心がかき乱されることでいっぱいです」(一)と、人生のはかなさ、諸行無常、一切皆苦を観じている。
 もし彼が無神論者なら、きっとこのまま厭世主義にとりつかれたであろう。自殺に走ったかも知れない。しかしヨブは自殺に走らない。仏教的な厭離穢土に走るのでもない。
 彼は神を信じている。彼には自分の疑問を訴えるべき相手がある。自分だけで黙々と悩むのではない。彼の悲嘆は行き場のないものではない。ヨブは、人生の究極の答えを与えて下さるかたを知っている。
 「あなたが呼んで下されば、私は答えます」(一五)。
 ヨブは、自分が被造物にすぎないことを知っていたが、苦難のうちに創造主との対話を求めた。
 彼は苦難にあう前は、神の単なる忠実なしもべに過ぎなかった。しもべは、自分の主体的な意思主張を押し殺さなければならない。しかし今や、彼は自由な意思を持つ一個の存在者として、創造者と論じたいと願っている。
 自分の自由な意思で神と向き合うこうした関係こそ、神ご自身の望まれたことであった。
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4日 旧約・ヨブ記一五章
 前章までは、ヨブと友人たちの第一回の論戦であったが、本章から二一章までが第二回の論戦である。
 エリファズは、前回の論戦でヨブを悔い改めさせようとしたが、無理だったので、今度はさらに強い口調でヨブを責めたてている。
 エリファズは、ヨブの言葉は知恵あるどころか「むなしい」ものであって(二)、かえってヨブを罪に定めるものだという。
 彼はまた、「悪者はその一生の間、もだえ苦しむ」(二〇)とも言う。彼の主張は「善人は栄え、悪人は苦しむ。ヨブが苦しんでいるのは、神からの刑罰だ」であった。
 しかし実際には、エリファズの神学は現実の世界に合致していない。かつてソロモン王はこう言った。
 「正しい人が正しいのに滅び(死んだり衰退するの意)、悪者が悪いのに長生きすることがある」(伝道七・一五)。
 ソロモン王のほうが、エリファズよりも現実の世界をよく見ている。この世界は、単純な因果応報論だけでは説明できない。
 そこには、人知の及ばない、もっと深く、様々にからみ合った要素がある。しかし、神を信じる者には、やがて答えが見えてくる。
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5日 新約・ローマ一二章
 「喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい」(一五)。
 ヨブの友人たちに欠けていたことは、このことであった。しかしクリスチャンは、人の喜びと悲しみを共にすることによって、自ら友人となることができる。
 また、「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」(一九)とも教えられている。
 かつてドイツの神学者ボンヘッファーは、ナチスのヒトラーを目の前にしたとき、「殺してやりたい」と思う気持ちを抑えきれなかったという。しかし、結局彼は自分で復讐することを思いとどまった。
 ヒトラーにはやがて、神の怒りが下された。私たちのすべきことは、悪に対して悪をもって報いることではない。善をもって悪に報いることである。「善をもって悪に打ち勝ちなさい」(二一)。
 これには、強固な意志が必要である。愛は単なる感情ではない。それは強固な信仰と、信念と、意志から生まれる。
 神を愛する者は人を愛するし、また人を愛することによって私たちは神を愛している。愛は、愛される人を高め、愛を行なう人を高め、また愛の源である神に栄光をもたらす。
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6日 旧約・ヨブ記一六章
 「今でも天には、私の証人がおられます。私を保証してくださる方は高い所におられます。・・・・その方が、人のために神にとりなしをしてくださいますように。人の子がその友のために」(一九〜二一)。
 ヨブ記には、幾つかのキリスト預言がある。これもその一つである。
 ヨブは、激しい苦しみのゆえに神の前に涙した(二〇)。しかしその焼けつくような苦難の中で、彼は驚くべき神の啓示の光、一筋の光明に触れた。
 それは、ヨブを保証し弁護して下さる証人が天におり、その方がヨブのためにとりなしをして下さるに違いない、ということであった。このとりなし手こそ、まさにイエス・キリストである。
 「キリスト・イエスが、神の右の座につき、私たちのためにとりなしていて下さるのです」(ロマ八・三四)。
 苦しみの中でしか見えない世界、というものがある。ヨブは苦しみの中で、キリストの光を見た。彼は何と幸いな人であったろう。
 ヨブに及んだ苦しみは、決して無駄ではなかった。それは彼の魂を純化し、天の光を見せるに至ったからである。
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7日 旧約・ヨブ記一七章
 友人たちの理路整然としてはいるが血も涙もない冷たい空虚な議論とは異なり、ヨブは、自分の弱い人間性をありのままに暴露しながら、一歩一歩、光明と確信に近づいていく。
 彼は、「私の日は過ぎ去り、私の企て、私の心に抱いたことも破れ去った」(一一)と言った。ヨブは自分の人生にはもはや何の望みもない、と感じている。
 彼の人生はもう終わった。すべては過去のかなたに過ぎ去り、もはや何の望みも、何の幸福もない。しかし、そうした中でヨブは、神に対してただ一つ希望を抱く。
 「どうか、私を保証する者を、あなたのそばに置いて下さい」(三)。
 ヨブは、神に対して希望を持ち続けた。彼の態度は、キリスト者の三大徳――信仰・希望・愛の「希望」について、特に教えてくれる。
 いかなる状況下でも、神への希望を失わない者は救われる。神は、ご自身に頼る者を、決して見捨てられない。
 ヨブは、こうして友人たちと議論するうちに、しだいに人間の救いに関する高度な確信へと、精神の階段をのぼっていく。そしてついに、やがて一九章二五節において、あの驚くべき確信に到達するのである。
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8日 新約・マタイ一三章
 良い地に蒔かれた種は、あるものは一〇〇倍、あるものは六〇倍、あるものは三〇倍の実を結んだ。これは「みことばを聞いて悟る」人のことである(二三)。
 みことばを「聞く」だけでは、みことばの真理はその人のものとはならない。聞いて「悟ら」なければならない。
 「悟る」とはどういうことであろうか。これは、みことばを単に聞き流すのではなく、その深い真理に目覚めることである。
 それには、三つのことを心がけなければならない。第一に、みことばの前後関係に注意しながら、一語一語を熟読することである。
 第二に、みことばが自分自身に語りかけられていると思って、読むべきである。みことばの前にひざまずく思いで読むのである。
 自分の持っている思想で聖書のみことばを料理しよう、と思ってはいけない。むしろ、聖書のみことばによって、あなたの思想が料理されなければならない。
 第三に、聖書を聖書全体から解釈することである。それには引照付聖書等を利用して、関連箇所等にも目を通すとよい。また適切な注解書、解説書等と合わせて読むのもよい。
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9日 旧約・ヨブ記一八章
 ヨブがエリファズの議論に承知しないのを見て、ビルダデは、理路整然とした論法と峻烈な言葉使いで再度の議論をする。
ビルダデは、「悪者どもの光は消え」「不正をする者の住みかは、まことにこのようであり」と、悪人必滅論を説く。これがヨブに関して言ったことは明らかである。
 ヨブが難病に苦しみ、子供たちを失い、自分の死を目前にしている有り様は、ビルダデたちには、神の審判を受けて滅びたソドム・ゴモラのように映ったのであろう。ビルダデたちはヨブを悪人と断定して、悩めるヨブの心を、残酷にも剣で刺し通した。
 ビルダデの言葉がいかに峻烈であったかは、さすがのヨブも次章において哀願して、
 「あなたがた、私の友よ。私をあわれめ」(一九・二一)
 と言ったことでもわかる。ヨブは、追いつめられていた。彼は肉体的、物質的、環境的、家庭的な苦しみだけのときは、まだ耐え得た。しかし、いまやこの霊的・精神的な苦悩によって追いつめられていた。
けれども、ヨブはこのことにより、次章において「私を贖う方」に関して開眼されるのである。
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10日 旧約・ヨブ記一九章
 「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを」(二五)。
 ヨブはついに、生涯において最も重要な確信に至る。彼は天的な贖い主の黙示を得る。贖い主は、後の日に地上に降誕されるのだという。
 ヨブは、苦悩の極致に至ったとき、後の日に地のちりの上に立たれる贖い主キリストの威光を見た。キリストが苦悩に満ちた人間世界のただ中に来臨される、という確信を与えられたのである。
 「私は知っている」という言葉は、この確信が明白なかたちで彼の魂に宿ったことを意味する。何という驚くべき預言であろうか。
 ここにヨブ記の深さがある。ヨブ記は単なる苦難文学ではない。苦難を通して開かれた預言の書なのである。またヨブは、
 「私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。この方を私は自分自身で見る」(二六〜二七)
 とも言った。彼は自分の死後に、神ご自身を見ることを確信した。それだけでなく、現実の苦悩の中で神ご自身を見ることを確信している。実際、このことは四二章五節で現実となる。
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11日 新約・ローマ一三章
 「主イエス・キリストを着る」(一四)とは、どういうことであろうか。
 それは、自分がキリストの内に隠され、キリストご自身が表だって行動されることである。自分がキリストと霊的に深く結合して、古い自我が死に、新しい存在となることである。
 人々はあなたを見るとき、キリストを見る。人々は、キリストの内にあなたを見る。神もまた、キリストの内にあなたをご覧になる。
 あなたの罪深さはキリストの義のうちに隠され、神はキリストの義をあなたの義として見られる。またあなたが良いわざをなすとき、それはあなた自身から出たものではなく、キリストがあなたに与えられたものである。
 私たちに必要なのは、キリストを着ることである。私たちの裸の恥をさらさないようにしなければならない(黙示三・一八)。
 キリスト者の勝利ある人生の秘訣は、キリストと一体になって歩むことにある。すべての良きものは、ここから流れ出る。
 キリストを着ることを願い、静まって今日も祈ろう。神はあなたをキリストの内に包んで下さるであろう。
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12日 旧約・ヨブ記二〇章
 ツォファルもまた、ヨブを悪者扱いする。
 「これが悪者の、神からの分け前、神によって定められた彼の相続財産である」(二九)。
 ツォファルは、ヨブに罪ありとして責めたが、これは単に彼の推測に基づいていた。ヨブの苦難を見て、単にその事実から推測して、それはヨブが罪を犯したからだと断定してしまったのである。
 ここにツォファルの間違いがあった。私たちは、人が苦難にあっているのを見たとき、それはその人が罪を犯したからだと思ってはいけない。
 苦難にあっても、それは罪を原因としているとは限らない。罪の場合もあるが、そうでない場合もある。
 罪を原因とする場合、苦難にあったときに、本人にもそれとわかるものである。しかし、罪を原因としない場合、苦難にあったそのときは何故こんな苦難にあうのかわからない、という場合が多い。
 私たちは、人生において苦難に遭遇することがある。しかし大切なのは、神はこの苦難さえもやがて「益」として下さると信じ(ロマ八・二八)、それに期待して、感謝しながら歩んでいくことである。
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13日 旧約・ヨブ記二一章
 一九章において希望の黙示を得たヨブは、友人の峻烈な非難に対しても、今までのような激しい言葉ではなく、へりくだった静かな態度で答えている(三)。
 ヨブの反論はこうである。ツォファルらは悪人はみな患難を受けると主張するが、現実には悪人が長生きし、繁栄し、平和のうちに死ぬことも多い(七〜一三、二九〜三三)。
 神は罪の報いをその子孫におよぼされるというが、むしろ当人が報いを受けてこそ至当である(一九)。繁栄した悪人も、苦しんだ義人も同様に死を迎える。しかし、最後にさばきを下すのは神である。
 誰がこの神のご支配に反抗し、その計り知れない御旨を教えることができようか(二二)。
 世の悪人の繁栄を思うとき、いったい審判の神はどこにおられるのか、と私たちは思う。詩篇七三篇の作者も、悪人の栄えるのを見てねたみ、世の矛盾を思って疲れ果てた。
 しかし彼は「神の聖所に入り、ついに悪人の最後を悟った」とき、初めて解決を得たという(詩篇七三・一七)。私たちは、未来において神の審判が必ずあることを思うとき、この世での矛盾を嘆く必要はない(二ペテ三・九)。
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14日 新約・マタイ一四章
 ペテロは、キリストを見つめながら水の上を歩いている間は沈まなかったが、周囲の風を見てこわくなったとき、沈みかけてしまった(三〇)。
 これは私たちの人生においても同様である。
 私たちはキリストを見つめながら歩んでいくとき、奇跡とも思えるような人生の歩みを続けることができる。しかし周囲の困難や、反対、さまたげなどに気をとられるようになってしまうと、その中に沈んでしまう。
 どんなときも、困難や、反対、さまたげは周囲にある。しかし、力強く人生を歩んで行くには、キリストから目を離さないことである。
 私たちの到達点は、つねにキリストにある。キリストが「来なさい」と言われるので(二九)、私たちは彼のもとに向かう。
 人生を、キリストに向かって歩むのである。向こう側で、キリストは私たちの歩みを見つめながら、手を広げて待っておられる。
 信仰の薄いために私たちが沈みかけてしまうようなときも、キリストは手を伸ばして助けてくださる(三一)。キリストにあって歩む人生は、なんと幸いなことだろう。
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15日 旧約・ヨブ記二二章
 エリファズは三回目の弁論を行なう。彼は今までのようにヨブを暗に責めるのではなく、あからさまな非難をなし、悔改めを迫る。
 エリファズは、ヨブは弱者を食い物にして富んだのだと主張する(六〜九)。ヨブが金持ちになったのは、貧乏人や、やもめ、みなしごなどをしいたげたからだろう、というのである。
 しかし、これは不当な非難であった。実際は、ヨブに落ち度はなかった。
 エリファズ自身、第一回弁論のとき、ヨブは「多くの人を訓戒し、弱った手を力づけた。あなたの言葉はつまずく者を起こし、くずおれるひざをしっかり立たせた」と、ヨブをほめたではないか(四・三〜四)。
 エリファズは、先に自分が発した言葉と矛盾することを言ったのである。ヨブ自身も、こうした非難は身に覚えがなかった。だから彼は、三一章一六〜二二節でこれに反論している。
 ヨブは、金持ちであったゆえに、人々から不当なねたみを受けることもあったようである。しかし、彼は模範的な富豪であった。彼は神を愛し、貧乏な人々や弱者をつねに顧みていたからである。
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16日 旧約・ヨブ記二三章
 「きょうもまた」(二)とヨブは言ったが、友人たちとの討論はすでに長期間に及んでいた。
 苦悩の日々は、長く続くと感じられることが多い。これでもか、これでもか、と思えるほど続き、「きょうもまた」と言わざるを得ない。
 しかし、これほどの苦しみが続きながら、ヨブは病気のいやし以上に神にお会いすることを求めている。
 「ああ、できれば、どこで神に会えるかを知り、その御座にまで行きたい。私は御前に訴えを並べたて、ことばの限り討論したい」(三〜四)。
 ヨブは神の言葉を聞くことを望んだ。これは彼が、心情的にますます神に近づけられたことを意味する。彼は苦難の中で、神から遠ざかるのではなく、むしろ神に近づいたのである。ヨブはまた、
 「神は私を調べられる。私は金のように出てくる」(一〇)
 と言った。彼は自分の今の苦しみが、自分を精錬し、金のように輝くものとするためであることを感じ始めている。全能者のみこころは絶対であり(一三)、人間には計り知れない。ヨブは、全能者のみこころを恐れながら、どこまでも敬う。そしてそれに従おうと決意しているのである。
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17日 新約・ローマ一四章
 本章は、旧約の律法において「汚れている」とされた食物(レビ一一章)を、食べるか食べないかについて述べたものである。
 食物に関する律法は、旧約時代にイスラエル人の「養育係」(ガラ三・二四)とするために与えられた。しかし、この律法はキリスト教ではもはや適用されない。
 「すべての物はきよい」(二〇、またマコ七・一九)
 とされるのである。しかし、この問題は、初代教会の間で必ずしも意見が一致していなかった。
 これに対しパウロは、意見が違っても、互いにさばいたり侮ったりしてはいけないと述べている。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるからである(一〇)。
 確信は各自で異なる場合もあり得る(五)。しかし大切なのは、すべてを信仰によって行なうことである(二三)。
 「食べ物」のことや「日」のことは、壮大なキリスト教の中では、ごく小さな事柄にすぎない。「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜び」(一七)なのである。
 これらがある限り、皆がキリストにある同じ兄弟姉妹なのである。
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18日 旧約・ヨブ記二四章
 ヨブは、友人たちの議論に対し、さらに反駁を加える。友人たちは悪人は短命であると言うが、現実はそうなっていないと彼はいう。
 ヨブは、殺人者、窃盗、姦通する者等を例にあげている。彼らはしばしば長生きし、安全に住み、安息の中にいる(二二〜二三)。
 友人たちの言うことは当たっていない。しかし、悪人も、善人も、すべての人は結局同じように死んでいく(二四)。死はすべての人に臨む。繁栄した人も、結局、無一物になって世を去っていく(二四)。
 ヨブは、こうした事柄を友人たちへの反駁としてあげている。しかし、ヨブ自身、世の中の矛盾がなぜなのかについて真の解決を得ているわけではない。
 彼はただ、この世は単純な因果応報論だけでは割り切れないものを含んでいると述べる。ヨブは、現実を踏まえているのである。
 キリストは、天の父は善人にも悪人にも等しく太陽をのぼらせ、また等しく雨を降らせられるかただと言われた。神は、悪人を見てもすぐには裁きをお下しにならない。神は憐れみ深く、恵み深く、慈しみに富み、怒るに遅いかただからである。
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19日 旧約・ヨブ記二五章
 ビルダデの三回目の論述は、きわめて短かった。もうあまり話すことがないのだろう。
 ビルダデの言葉は一応、神の絶対的主権にふれるが、現実の悪との関わりを説明していない。また、
 「人はどうして神の前に正しくありえようか」(四)
 は、エリファズの主張を繰り返しただけである(四・一七、一五・一四)。ビルダデもヨブとずいぶん議論してきたが、その思想は進歩していない。
 友人たちの論述は、これで終わる。彼らの主張は、ヨブの悩みに対して何の光も与えなかった。むしろヨブを、暗黒に押しやったのである。
 友人たちの言葉は、部分的に見れば正しい事柄も多かった。しかし、ヨブに対して語る言葉としては、全体的に不適切だった。
 私たちは悩む者に対して、もしたった一言でも適切な言葉を選んで語るなら、大きな光を与えることができる。しかし的外れな言葉なら、たとえ何万語言おうと、相手を良い方向に導くことはできない。
 教条的な諭しだけでは、人は導けない。大切なのは、理解、愛、思いやり、共に泣き共に喜ぶ心、祈り、熱意、誠意である。
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20日 新約・マタイ一五章
 人を汚すものは、その人の内側から出てくるもの、すなわち口から、また心から出てくるものである(一一、一八)。
私たちは、この真理を熟考すべきである。人の陰口や、良くない言葉を口にするたびに、私たちは自分を汚している。良くない心から出た行為をするたびに、自分を汚している。
 結局、自分を汚すものは自分以外にない。人の悪評や、いやがらせがあなたを汚すのではない。あなたを汚すものは、あなたの心の中から出るものだけである。
 私たちは、自分の内から出るそうしたきたないものを、心の底から嫌悪しなければならない。そして汚れを追い出すのである。
 思いが汚れから解放されるときにのみ、私たちは本当に自由を感じることができる。
 それには、心の内にキリスト様に住んでいただくことである。心の王座に住んでいただくことである。
 一日のはじめに、その日の言葉と行為が清いものとなるように祈ろう。また一日の終わりに、言葉と行為が清かったかどうか、反省しよう。
 「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです」(マタ五・八)。
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21日 旧約・ヨブ記二六章
 ヨブははじめに、自分を「無力な者」「知恵のない者」と呼んで言う。こうした自分を、友人たちは「どのようにして助けたのか」(一〜四)。ヨブは、友人たちは無力で知恵のない自分をちっとも助けてくれていない、と訴えたのである。
 続けてヨブは、神の創造の力についてふれるが、
 「見よ。これらはただ神の道の外側にすぎない。私たちはただ、神についてのささやきしか聞いていない」(一四)
 と述べる。私たちは、神の偉大な権能を知り尽くすことはできない。ただへり下って、その前にひれ伏すのみである。人間の知恵など神の前では無きに等しいと、ヨブは述べたのである。
 神の創造のみわざに関するヨブの短い論述の中に、驚くべき表現が幾つかある。地球は「何もない」「虚空」――宇宙空間に掛けられている、と述べられている(七)。地球は、何か目に見えるもので支えられているのではない。
 さらに、水平線は、太陽が昇ったり沈む際に「光とやみの境」となっているが、これは「円」形であると述べられている(一〇)。地球は丸い、と言われているのである。
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22日 旧約・ヨブ記二七章
 もし友人たちの言う通り、ヨブに大罪があるなら、ヨブは神によってとっくに殺されていただろう。しかし、彼は今なお生きている。
 肉体は腐り衰えているものの、精神はしっかりしている。ヨブは今も正常な思考力を保っている。これは神の恵みである。
 そして、ヨブは今なお苦しみの中でさえ神を喜びとし、神を呼んでいる。いったい偽善者は、そのようなことをするだろうか(一〇)。
 偽善者は、苦しみに至ると神を捨てる。しかしヨブは、今なお神に希望を抱き続けている。だから、ヨブは自分に罪はないと偽善で言っているわけではない。
 この苦難は自分の罪のゆえではない、との明らかな確信がヨブの内にはあった。
 「私の良心は生涯私を責めはしない」(六)
 と彼は言った。何と大胆な告白であろう。強がってこう言っているのではない。彼の正直な自己認識なのである。これは使徒パウロが、
 「私は今日まで、全くきよい良心をもって、神の前に生活して来ました」(使徒二三・一)
 と言ったのと同じ心境である。やましさのない人は強い。
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23日 新約・ローマ一五章
 「私が、異邦人のためにキリスト・イエスの仕え人となるために、神から恵みをいただいているからです」(一六)。
 パウロは、自分は異邦人宣教のために神に召された、との明確な意識を持っていた。あなたは、自分が何のために召された、とはっきり言えるだろうか。
 あなたが救われたのは、あなたが永遠の命を受けるためであるが、単にそれだけではない。私達は、それぞれに遣わされている場所がある。
 ある人にとってそれは家庭であり、学校であり、会社であり、また何かの事業、どこかの国、共同体、組織であるかも知れないが、どこにせよ、神があなたを遣わしておられる場所がある。
 私たちは各自、それを明確に知る必要がある。今わからなければ、それがわかるよう祈り求めることである。
 キリスト者には使命がある。それぞれの役割分担がある。あなたの使命、あなたの役割は何か。
 人生の早いうちから、それに気づくことである。人生は短い。自分のために生きるだけでなく、神と人のために何かをなす人生としたいものである。
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24日 旧約・ヨブ記二八章
 真の知恵はどこから来るのか。「主を恐れること、これが知恵である。悪から離れることは悟りである」(二八)。
 神に対する畏怖の心にこそ、真の知恵がある。神を恐れなくなると、人間は堕落する。
 最近、多くの新興宗教が起こってきた。毒ガス・サリンを使用して無差別殺人を引き起こしたオウム真理教の例をあげるまでもなく、新興宗教の中にはカルト(邪教)的なものが少なくない。
 こうしたものの多くは、教祖が自分を神と言ったり、あるいは人間はみな神になれるのだ、と説いたりする。
 しかし、自分が神になれると思うのは、サタンが堕落の際に思ったことと同じである(イザ一四・一四)。人が自分は神になれる、あるいは自分は神だと思ってしまうとき、その人はサタンと同じ高慢の罪を犯している。
 私たちは真の神を恐れなければならない。高慢は、神の御前で、とりわけ厳しい裁きを受ける。
 今日、カルトが増えてきた背景には、神への恐れが希薄になってきたことがある。私たちは真の神の存在を人々に知らせなければならない。
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25日 旧約・ヨブ記二九章
 「ああ、できれば、私は昔の月日のようであったらよいのに。神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに」(二)
 と、ヨブは昔の日々をなつかしむ。
 彼は決して利己的な金持ちではなかった。ヨブは模範的な隣人愛の実行者であり、善良な一市民であった。神も人も、彼を豊かに祝福していた。
 これほどの素晴らしい過去は、そう誰もが持てるものでもない。ヨブが古き良き日々をなつかしむのは、ごく自然な感情であろう。私たちも同情を禁じえない。
 しかし、ヨブが過去において常に祝福を経験してきたのだとすれば、彼は祝福のない状態というものを経験したことがないことになる。彼は常に正しく、常に幸福に生きてきたので、不幸な経験をしたことがなかった。
 これはある意味で、彼の短所であった。人間には不幸な経験がときに必要なのである。不幸な経験のない者は、ある程度までは行っても、それ以上は成長し得ない。
 ヨブは、それまで不幸な経験をしてこなかった分、今ここで不幸をまとめて経験しなければならなかった。それは彼がさらに成長するためであった。
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26日 新約・マタイ一六章
 「誰でも、わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(二四)
 と主イエスは言われた。
 クリスチャンになるとは、三つのことを意味する。第一に「自分を捨てること」。自分の栄光や自分の利益のために生きるのをやめ、すべてを神とキリストの栄光のために生きるのである。
 第二に、「自分の十字架を負う」こと。十字架とは、自分にとって辛いが、しなければならないことである。
 たとえどんなに辛くても、あなた自身がやらなければならないことがある。それがあなたの十字架である。あなたはそれを負わなければならない。あなたの人生の最も辛い、困難な、苦しい場面を、真っ先に微笑みをもって担当しなければならない。
 第三に、この上で主イエスにつき従っていくことである。あなたの救い主は、人生の師であり、先生であり、親であり、主であられる。
 主イエスは、あなたを永遠の命と絶対的幸福に導かれる。主イエスの御足の跡を歩むのである。あの十二弟子たちと同様に、主にお従いしていこう。
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27日 旧約・ヨブ記三〇章
 かつてヨブは、人々の賛嘆とあこがれの的だった。しかし、いまや多くの人々が彼をみて「あざ笑う」(一)。これはヨブにとって、たいへんに辛い、屈辱的経験だった。
 ヨブは、それまで人々から侮辱や、あざけりを受けたことがなかった。彼はこのとき初めて、世の人々から捨てられたキリストと同じような立場を経験したのである。
 「彼(キリスト)はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」
 とイザヤ書五三・三のキリスト預言にあるように、主は人々からさげすまれ、のけ者にされた。
 ヨブは、自分では気づかなかったかも知れないが、このとき贖い主キリストを理解するために非常に重要な経験をさせられていたのである。
 人に捨てられる経験をしたことがなければ、キリストのお気持ちを理解することはできない。内村鑑三も、世の人から捨てられ、のけ者にされ、あざけられた経験をしたとき、はじめてキリストのお気持ちを理解したと語っている。
 私たちの人生は、キリストに近づくためにある。
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28日 旧約・ヨブ記三一章
 ヨブは、大胆に潔白を主張した。
 自分は女性に惑わされず(九)、偽りと不正なく(五)、しもべや、はしための権利を軽んじないで(一三)、貧者弱者を顧み(一六〜二一)、富に信頼せず(二四〜二五)、当時の天体崇拝にも感染せず(二六)、敵をのろわず(二九〜三〇)、異国人に親切にし(三二)、人を欺くことをしなかったと主張した(三九)。
 これは決して虚偽ではなく、たしかに事実であったろう。なぜならヨブ記一・八で神ご自身がこう言われたからである。
 「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」。
 ヨブは、当時随一の義人だった。彼以上に潔白な人間は、他にいなかった。だから、ヨブを偽善者とする三人の友の主張は、たしかに不当であった。
 けれども、こうした論争を続けるうちに、しだいにヨブは、神を正しいとするより、自分自身を正しいとする言葉が増えていた。
 ヨブは、神の義を語るより、自分自身の義を多く主張した。しかし、そうしながら彼は平安を得られなかった。なぜなら、自分の義では真の平安は得られないからである。
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29日 新約・ローマ一六章
 「教会の執事で私たちの姉妹であるフィベ」という言葉が、一節にある。彼女は女性執事であった。初代教会において、女性も重要な役割を担っていた。
 また「家の教会」という言葉が、五節にある。個人の家庭を集会所に解放しているところも多かったのである。
 教会の基本は家庭集会である。教会は、自分の家を解放することに始まる。いつの時代にも、宣教師、伝道者、また献身的な信者は、そのようにして開拓伝道を行なってきた。
 現在、中国には、共産主義政府の弾圧をのがれ、秘かに家で集会を持っている隠れクリスチャンたちが大勢いる。彼らは会堂を持っていないから、自分たちの教会を「家の教会」と呼んでいる。
 家の教会こそ、教会の基本である。たとえ聖日礼拝等のために会堂を持つようになっても、平日には、一〇〜一五人前後の家庭集会をあちこちで持つようにしたほうがよい。
 求道者は、家庭集会のほうが来やすい。そこでは、メッセージよりも、多くの証しと聖書学習がなされるべきである。家庭集会が盛んになれば、日本にキリスト教はもっと早く浸透するであろう。
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30日 旧約・ヨブ記三二章
 エリフは、それまでヨブの三人の友の言葉を、黙って聞いていた。彼らがエリフより年長だったからである。
 しかしエリフは、こみあげる義憤のゆえに、もはや語らずにはいられなくなった。「私にはことばがあふれており、一つの霊が私を圧迫している」(一八)。
 これは預言者エレミヤが、
 「主のみことばは私のうちで、骨の中に閉じこめられて、燃えさかる火のようになり、私は内にしまっておくのに疲れて耐えられません」(エレ二〇・九)
 と言った心境と同じである。私たちも、語るべきことがあるとき黙っていてはならない。
 エリフは、ヨブが願った「仲裁者」の一人として登場する。エリフは、ヨブも三人の友も等しく罪人であること、皆が同様に救い主を必要とすることを明らかにする。
 また、三人の友はヨブを偽善者として訴えたのに対し、エリフは、ヨブが神よりも自分自身を義としたことに関して批判する。またエリフは、創造における偉大さと、黙示における神の恵みを示して、神の前にへり下るべきことを主張する。
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31日 旧約・ヨブ記三三章
 エリフの主張はこうである。
 ヨブは、神よりも自分を義とする態度において正しくない。神は人よりも偉大だからである(一二)。
 神は、様々な方法で語られるが、人はそれに気づかない(一四)。神は病や不幸を通しても、人と語られる(一九)。
 それはしばしば、人の「高ぶり」を取り除くためである(一七)。人が苦難にあえぐとき、たとえ自分で自分の義を主張しなくても、もし一人の御使いが代わってその人の義を証言してくれるようなら、神はすぐにでもその苦難から彼を救い出してくださるであろう(二三〜二六)。
 だからヨブは、自分で自分の義を主張する必要はない。神はやがて彼の魂を「よみの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる」であろう(三〇)。
 「彼が神に祈ると、彼は受け入れられる。彼は喜びをもって御顔を見、神はその人に彼の義を報いて下さる」(二六)。
 また彼は、へり下って神をあがめるであろう(二七)。そして新しい、さらに高い段階の信仰に至るのである。
 これはやがて、ヨブにおいて現実となる。
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