聖書一日一章

3年目 10月
10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31

1日 旧約・箴言四章
 
ここで言われている「知恵」とは、生活を便利にする知恵でも、世の中をうまく立ち回っていく知恵でもない。金儲けの知恵でもないし、試験でいい点を取る知恵でもない。
 ここで言われている「知恵」は、人生の真理である。また神の真理である。父ダビデは、子ソロモンに言った。
 「知恵を捨てるな。それがあなたを守る。これを愛せ。これがあなたを保つ。知恵の初めに、知恵を得よ。あなたのすべての財産をかけて、悟りを得よ」(六〜七)。
 「知恵を愛する」は、ギリシャ語でフィロソフィアといい、ここから「哲学」(philosophy)という言葉が生まれた。フィロは「愛する」、ソフィアは「知恵」の意味である。哲学は、もともと知恵を愛する学問――「愛知学」であった。
 しかし、近代の多くの哲学は無神論に陥ったために、むなしい索漠としたものになってしまった。
 私たちに必要なのは、そのようなものではなく、むしろ聖書の福音に基盤を置いた人生哲学、キリスト信仰に貫かれた人生思想である。
 私たちの信念は、神とキリストへの信仰をもとに、築かれ、形成され、発展させられなければならない。
ページ一番上へ

2日 旧約・箴言五章
 ここでは「他国の女」の害悪が語られているが、「他国の女」には(1)遊女、または(2)神の民でない不信者の女性という二つの説がある。
 「あなたの若い時の妻と喜び楽しめ。・・・・いつも彼女の愛に夢中になれ。わが子よ。あなたはどうして他国の女に夢中になり、見知らぬ女の胸を抱くのか」(一八〜二〇)。
 ここでいう「他国の女」は、「見知らぬ女」とも呼ばれ、妻以外の女性である。それは遊女や、不倫相手の女性、または不信者の女性であろう。
 人は自分の妻に満足し、他の女性と姦通してはならない。そうではなく、自分の妻との結婚生活、また家庭生活に喜びを見いだすべきである。
 「妻と喜び楽しめ・・・・」という言葉は、正常な結婚生活における性的喜びが神から与えられた祝福であることを、示している。「彼女の愛に夢中になれ」も、結婚生活における愛情が、祝福であることを意味している。
 聖書は決して禁欲主義ではない。性欲自体は悪いものでも、卑しいものでもない。正常な結婚生活の範囲内にある限り、性欲や性の喜びは肯定されている。
ページ一番上へ

3日 新約・ルカ一四章
 
「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分の命までも憎まない者は、わたしの弟子となることができません」(二六)。
 この「憎む」とは、どういう意味か。これは彼らを文字通り「憎め」ということではない。ユダヤ独特の言い回しで、これは優先順位を意味している。すなわち、
 「キリスト以上に自分の父や、母、妻、子、兄弟、姉妹、自分の命などを愛する者は、キリストの弟子となることができない」
 という意味である。キリストを一番に愛し、他はその次である、という優先順位(プライオリティ)を言っている。「憎む」とは、愛の対象としてはキリスト以下の位に置くことである。
 次の聖句などでも、同様である。
 「自分の命を愛する者はそれを失い、この世でその命を憎む者はそれを保って、永遠の命に至るのです」(ヨハ一二・二五)。
 この「自分の命を憎む」とは、キリスト以上に自分の命を愛さないことである。また「自分の命を愛する者は・・・・」も、キリスト以上に自分の命を愛する者、の意味である。
ページ一番上へ

4日 旧約・箴言六章
 「人が熱い火を踏んで、その足が焼けないだろうか。隣の人の妻と姦通する者は、これと同じこと、その女に触れた者は誰でも罰を免れない」(二八〜二九)。
 箴言がまず警告するのは、姦淫の罪である。ここでは、とくに男性側の姦淫の罪が指摘されているが、現代においては男性だけでなく、女性の姦淫も多くなっている。
 ある若い女性が、妻子ある男性とつき合い、深い関係を持っていた。それを知ったとき、彼女の友人である一人の女性はこう言った。
 「なんて不潔なんでしょう。不倫をするなんて」。
 しかし、そう言った彼女自身、やがて別の妻子ある男性が好きになり、その男性と肉体関係を持った。すると、彼女は友人にこう語ったのである。
 「恋愛って美しいのねぇ」。 
人の姦淫は不潔だが、自分の姦淫は「美しい」と思えてしまう。このへんに、人間の罪性の深さがあるのではないか。
 罪は、はじめは甘く、やがてにがくなり、ついには死に至る。死に至る前に、人は神の御教えに立ち返らなければならない。
ページ一番上へ

5日 旧約・箴言七章
 
ここに出てくる「女」は、人妻であったが、夫の留守の間、着飾って若い男を誘惑していた。彼女は、
 「和解のいけにえをささげて、きょう、私の誓願を果たしました。それで私はあなたに会いに出てきたのです。・・・・さあ、私たちは朝になるまで愛に酔いつぶれ、愛撫し合って楽しみましょう」(一四〜一八)
 と言って男に言い寄る。和解のいけにえとしてささげられた肉は、その日か翌日中に食べることが義務づけられていたから(レビ七・一五〜一七)、一緒にそれを食べて楽しもう、という誘惑である。
 男は、滅びがそこに待ち受けているのも知らず、「ほふり場に引かれていく牛のように」(二二)、ふらふらと女について行ってしまう。彼は、「矢が肝を射通し、鳥がわなに飛び込む」(二三)ような自殺的行為であることがわかっていない。
 「力の限り、見張って、あなたの心を守れ。いのちの泉はこれからわく」(四・二三)。
 私たちは、男も女も、この言葉を肝に命じて、力の限り自分の心を誘惑と罪から守らなければならない。
ページ一番上へ

6日 新約・ピリピ一章
 
「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させて下さることを、私は堅く信じているのです」(六)。
 神は、あなたのうちに「良い働きを始められた」。あなたのすべきことは、その御働きを邪魔しないことである。不信仰や罪によって、その御働きを邪魔してはいけない。
 また、あなたのすべきことは、その御働きを喜びのうちに受け入れることである。神の下さるものを、喜んで残らず頂きます、という心をもってすべて受け取ることである。
 さらに、あなたのすべきことは、その御働きに喜んで協力することである。神のお求めがあれば、それに従い、力を惜しまないことである。
 そうすれば、神の御働きは、あなたの思いをはるかに越えて実りあるものとなるであろう。
 歴史に名を残したり、有名になったりすることだけが人生の成功なのではない。人には、おのおの天分がある。天から与えられた役目、使命がある。
 それを果たしさえすれば、あなたの人生は神の御前に尊いのである。
ページ一番上へ

7日 旧約・箴言八章
 「箴言」は、単なる道徳の訓示にすぎないのであろうか。そうではない。知恵の書と言われるこの「箴言」にも、キリストに関する暗示がある。
 本章で「知恵」は、「わたし」と呼ばれ、人格的に語られている。
 「主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。・・・・
 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた」(二二〜二四)。
 この「わたし」とは、「知恵」――人格的な「知恵」であって、まさに神の御子イエス・キリストにこそ当てはまるものである。
 「キリストは・・・・神の知恵なのです」(Tコリ一・二四)。
 「このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです」(コロ二・三)。
 天地万物をつくり、それを保っている神の知恵のすべては、「神のことば」キリストのうちにある。神は、キリストにあって万物を創造された。だから、本章で語られている人格的な知恵は、イエス・キリストにほかならない。私たちはキリストにつながることによって、真の知恵につながるのである。
ページ一番上へ

8日 旧約・箴言九章
 
「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟りである」(一〇)。
 箴言の主題が、ここで再び繰り返されている。この知恵によって、
 「あなたの日は多くなり、あなたのいのちの年は増す」(一一)
 という約束が与えられている。真の知恵は祝福となる。祝福をもたらす知恵を得ることは、祝福の人生の始まりである。
 知恵、すなわち神の真理を得たいなら、求めることである。知恵は言う。
 「わきまえのない者は誰でも、ここに来なさい。・・・・わきまえのないことを捨てて、生きなさい。悟りのある道を、まっすぐ歩みなさい」(四〜六)。
 同じ約束は、新約聖書においても与えられている。
 「あなたがたの中に、知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」(ヤコ一・五)。
 この約束はすべての人に与えられている。その条件は「願うこと」だけである。願い求めるなら、知恵は必ず与えられるであろう。
ページ一番上へ

9日 新約・ルカ一五章
 「取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄ってきた」(一)。
 「取税人」は当時、汚職と貪欲の代表と見られ、悪党呼ばわりされていた人々である。「罪人たち」は、遊女やヤクザたちと思われる。
 彼らはみな、世間からつまはじきにされていたアウトサイダーだった。イエスは彼らと、食事も一緒にされた。
 今日、ミッション・バラバという伝道グループがある。メンバーは皆、極道歴の長い元ヤクザたちである。しかし今は素晴らしいクリスチャンとなって、良い証しをしている。
 主イエスに始まった初代教会においては、このような伝道グループが数多く存在していたに違いない。初代教会には様々の階層の人々がいた。彼らはみな同じ兄弟姉妹として、心を一つにして交わったのである。
 今日の日本の教会はどうか。ミッション・バラバというようなグループも一部には存在するが、全体的にはまだまだ活力に乏しい。
 はやく、どんな職業、どんな経歴の人も、主イエスを信じて次々に救われていくリバイバルの時が来て欲しい。
ページ一番上へ

10日 旧約・箴言一〇章
 私たち日本人は、「勤勉な国民」と言われてきた。戦後の日本を復興させたのは、日本人の勤勉さとも言われてきた。
 勤勉はありふれたことと思えるかも知れないが、聖書に次のように記されていることを思うと、あらためて大切なことと認識させられるのではないか。
 「無精者の手は人を貧乏にし、勤勉な者の手は人を富ます」(四)。
 この聖句はまた、勤勉によって得られた富は良いものであることをも、示している。その富は勤勉さへの報酬であり、神の祝福なのである。
 発明王エジソンは、「発明は一%のインスピレーション(ひらめき)と、九九%のパースピレーション(汗)だ」と言った。
 発明に限らず、どんな仕事、どんな偉大な事業も、毎日の小さな事柄のこつこつとした積み重ねに始まる。安易な道を追い求める者は、決して大事業を成し遂げることはできない。
 小さなことに不忠実な者は、大きなことにも不忠実である。小さなことにも忠実で、勤勉な者に対しては、神は小さな事柄だけではなく、大きなことをも、まかせてくださるであろう。
ページ一番上へ

11日 旧約・箴言一一章
 
「財産は、激しい怒りの日には役に立たない。しかし正義は人を死から救い出す」(四)。
 富に関して、聖書が私たちに禁じていることの一つは、自分の魂の救いのために富に信頼を置くことである。
 あなたが地上に蓄えた富は、来たるべき神の最後の審判の法廷において、何の役にも立たない。その法廷においてあなたを救うのは、キリストへの信仰によってあなたに与えられる「義」だけである。
 一八世紀のイギリスの偉大な伝道者ジョン・ウェスレーは、言った。
 「もし、助けを金や銀に期待するなら、あなたはみじめなほど間違っている」。
 だから、私たちは自分の救いに関して「たよりにならない富に望みをおいてはならない」(Tテモ六・一七)。
 富が、最後の審判の法廷において役立たないのなら、なぜ私たちは地上に富を蓄えるのであろうか。富は、蓄えたままにせず、自分の死ぬ前に必ず神と人のために役立てておくべきである。
 アンドリュー・カーネギーが言ったように、「富を持ったまま死ぬのは恥である」。
ページ一番上へ

12日 新約・ピリピ二章
 
私たちは、祈っていればもはや努力する必要はないのであろうか。それとも、祈っても、努力する必要があるのであろうか。
 使徒パウロはこう記している。
 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせて下さるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。・・・・そうすれば私は、自分の努力したことが無駄ではなく、苦労したことも無駄ではなかったことを、キリストの日に誇ることができます」(一三〜一六)。
 パウロは、福音の拡大のために祈った。しかし、祈るだけでなく最大限の「努力」もした。彼は涙と汗と血を流して、苦労に苦労を重ねながらも、全身全霊をあげて伝道したのである。
 では、なぜ彼は祈ったのであろうか。それは、彼の努力が実を結ぶようにである。努力しなくても実を結ぶようにではない。
 私たちは、祈りと努力の関係を誤解してはいけない。努力し続けられること自体が、祈りの答えであることも多い。神はあなたのうちに働いて、あなたの努力をご自身のみわざの一環として下さるのである。
ページ一番上へ

13日 旧約・箴言一二章
 「愚か者は自分の道を正しいと思う。しかし、知恵のある者は忠告を聞き入れる」(一五)。
 企業や、組織の中でトップに立った者は、自分の周囲を「YESマン」――上司にYESとしか言えない者たち――で固めてはならない。
 YESマンに囲まれたトップは、必ずや道を誤る。はっきり上司にも自分の考えを言える部下こそ、周囲に置くべきである。
 知恵ある者は、人の忠告に怒らず、それを契機に、自分のなそうとしていたことをもう一度熟考するものである。忠告はありがたく聞くものである。西武鉄道や西武百貨店を造った創業者・堤 康次郎氏はよく、
 「会社の中で満場一致で賛成になった企画は、やめろ。必ず失敗する」
 と語っていた。誰も何も忠告しないとか反対しないような状況からは、決して良いものは生まれない。
 教会の牧師も、周囲のスタッフをYESマンで固めてはいけない。大きい教会、大きい教団になればなるほど、そうである。
 ダビデは、過ちも犯したが人の忠告に聞く耳を持っていたので、正しい道に戻ることができた。私たちも、聞く耳を持つ者でありたい。
ページ一番上へ

14日 旧約・箴言一三章
 「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる」(二四)。
 自分の子に対し、必要なときに愛のむちを与えられない者は、その子を本当には愛していない。新約聖書にも、
 「父が懲らしめることをしない子がいるでしょうか」(ヘブ一二・七)
 とある。いたずらに子におこるのではなく、本当に必要なときに、適切な叱り方をするのである。
 叱り方は、あとで子どもが納得し、受け入れられるようなものでなければならない。親の感情ではなく、親の熱誠が感じられるような叱り方をする必要がある。
 もし単なる感情から怒るのなら、怒らないほうがよい。私たちは、子の成長のために子を愛し、子を叱るのである。
 東京の玉川学園の創始者で「全人教育」の提唱者・小原国芳師は、生徒たちの叱り方がじつにうまかった。生徒たちは、師から叱られたことがあることを、あとで誇りにしたほどである。
 その叱り方には、師の熱誠がすみずみまで感じられた。師はじつに多くの癇癪玉を落としたが、じつに多くの生徒から慕われたのである。
ページ一番上へ

15日 新約・ルカ一六章
 
一九節以降の「ラザロと金持ち」の話は、長い間多くの人々に誤解され、今もその誤解が続いている。
 「リビングバイブル」などにも見られることだが、幾つかの訳は、金持ちは「地獄」に行ったとしている。しかし原語を調べるなら、金持ちは地獄ではなく、「ハデス」に行ったのである(二三)。
 「ハデス」が地獄と異なるものであることは、世の終わりの最後の審判のあとにハデスは地獄(火の池)に捨てられる、と聖書が言っていることから明らかである(黙示二〇・一四)。
 ギリシャ語のハデスは、ヘブル語のシェオールに対する訳語であって、日本語では「よみ」である。ハデス=よみは、最後の審判までの一時的・中間的な死者の場所である。
 それに対し、地獄=ゲヘナは永遠の場所ではあるが、世の終わりの最後の審判で最終的に神から退けられた人々を収容する場所なのである。
 今日、クリスチャンは死後天国へ行き、未信者はよみに下る。一方、地獄は終末的な場所である。私たちは、よみと地獄とを混同しないように注意しなければならない(詳しくは当社刊『聖書に見る死後の世界』を参照)。
ページ一番上へ

16日 旧約・箴言一四章
 「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」(一二)。
 主イエスのたとえ話の中に、ある金持ちが穀物や財産をいっぱい倉にためこみ、自分の魂にこう言ったという話が出てくる。
 「魂よ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ」(ルカ一二・一九)。
 こうして、何年分もの物を蓄えたことは、彼にとって「まっすぐに見える道」であった。それはまさに彼の安心立命の道、幸福の道と思えたのである。
 しかし、彼の魂はその夜のうちに取り去られた。「その道の終わりは死の道」であった。
 これは、クリスチャンは貯金をしてはいけないとか、物を持ってはいけない、という意味ではない。そうではなく、自分の安心立命を神にではなく財産におくことが間違いであることを、教えている。
 人の目にまっすぐに見える道でも、滅びに至る道がある。それは人間の心が曲がっているからである。神の指導なしに、私たちはまっすぐな人生を歩むことはできない。
ページ一番上へ

17日 旧約・箴言一五章
 「謙遜は栄誉に先立つ」(三三)。
 謙遜は、キリスト者にとって重要な徳である。
 主イエスは、良い忠実なしもべの働きに関するたとえ話を語った後、
 「あなたがたも・・・・自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい」(ルカ一七・一〇)
 と語られた。私たちは神のしもべであり、主イエスの弟子である。たとえ何か良いことをすることができたとしても、なすべきことをなしたに過ぎない。それは誇るべきことではなく、当然のことなのである。
 たとえ教会員が何人に増えようと、それは牧師の誇りではなく、神の祝福のもとに忠実な働きをしたに過ぎない。また、人生においてどんなに大きな事業を展開できたとしても、それは自分で誇ることではなく、神の恵みにほかならない。
 私たちは、自分で自分を誇ることを忘れなければならない。栄誉は神がお与えになるものであって、自分で自分に与えるものではない。謙遜を保つ者は、やがて神からの栄誉を賜るであろう。神からの誉れは、あなたを、この上なく幸福にするに違いない。
ページ一番上へ

18日 新約・ピリピ三章
 
私たちは、この地上にあるときから、すでに天国の国民である。天国のパスポートを持っているだけでなく、天国における市民権と永住権を与えられている。
 「私たちの国籍は天にあります」(二〇)。
 あるクリスチャンの老婦人が病床にあり、臨終が間近と思われたため、牧師が呼ばれた。
 牧師はまだ若く、つとめて彼女に同情しつつも、もうすぐ人の死を見なければならないことを恐れ、また悲しんでいる様子であった。ところがその老聖徒は、すっかりくつろいでいて、晴れ晴れと、じつに幸せそうであった。彼女は言った。
 「神様が、お若いあなたを祝福して下さいますように。
 こわいことは何もありませんよ。私は数分のうちに、ヨルダン川(かつてイスラエル民族が約束の地カナンに入るとき渡った川。ここでは死のこと)を渡ろうとしているのです。その川のこちら側も向こう側も、私の天のお父様のものなのです」。
 うれしそうに彼女はそう言うと、しばらくして息を引き取った。彼女は、肉体の死の向こうに神の用意された約束の御国があることを、知っていたのである。
ページ一番上へ

19日 旧約・箴言一六章
 「主は・・・・悪者さえもわざわいの日のために造られた」(四)
 とは、神が悪の創造者であるという意味ではない。悪人は終わりの日に罰せられるが、その悪人でさえも神の支配下にある、という意味である。
 人が見る善悪を超えたところに、神はおられる。神の御思いは人よりも高く、天が地より高いように高い。人はあれこれと心に思い悩むが、究極的な道を知っておられるのは神である。
 「人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる」(一)。
 あなたが、心に何か計画を持つなら、あなたはそれを実行する前に祈ることである。神は答えを下さる。また、あなたは計画自体を、神のご指導のもとに立てるべきである。
 「あなたのしようとすることを主にゆだねよ。そうすれば、あなたの計画はゆるがない」(三)。
 「主はすべてのものをご自分の目的のために造られる」(四)のであるから、私たちは主にあってすべての計画を立てる。
 今日、あなたのしようとしていることは何か。あなたの計画を、主にご指導していただこう。
ページ一番上へ

20日 旧約・箴言一七章
 
「一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる」(一)。
 たとえ貧しく質素でも、平和な家庭は、裕福で争いの絶えない家にまさる。清貧は貪欲よりも優れている。これは「清貧の思想」である。
 一方、聖書の中には「清富の思想」もある。――「与えなさい。そうすれば与えられます」。「自分にして欲しいことを人にもその通りにせよ」。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物をあげなさい」(マタ一四・一六)。
 清富の思想とは、富を生かす生き方である。清富に生きる者は、富に仕えるのではなく、富をして仕えさせる。
 富を得ることだけに尽力するのではなく、つねに、神と人のために富を活用することを考えるのである。
 「友はどんなときも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」(一七)。
 清富に生きる者は、隣人を自分のように愛し、苦しみを分け合う。自分の欲の実現のためではなく、愛の実現のために富を生かす者は、神の祝福に豊かにあずかるであろう。
ページ一番上へ

21日 新約・ルカ一七章
 
使徒たちは主イエスに願って、
 「私たちの信仰を増して下さい」(五)
 と言った。これは私たちも、しばしば願い、祈ることではないだろうか。
 使徒たちは、自分たちの信仰が充分ではないと感じていた。彼らは、しばしば心の中で疑うことがあったし、主イエスご自身のような強い信仰を持ちたいと思ったのである。
 そうすれば、自分たちももっと目覚ましい、大きな奇跡を行なえるかも知れない。また立派な人間になって、もっと良い働きができるかも知れない。
 しかし主のお答えは、「からし種ほどの信仰」があれば充分大きなことができる、というものであった。また、しもべの役目は主人の言いつけに従うことだ、であった(七〜一〇)。
 私たちは、自分の信仰が足りないと言って、不必要なまでに悩む必要はない。神の御前では、私たちが今持っている信仰でも充分なのである。もっと必要な時は、さらに上から与えられるであろう。
 大切なのは、日々、神から与えられた天分を、自分の役目を、使命を忠実に果たしていくことである。
ページ一番上へ

22日 旧約・箴言一八章
 
「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる」(二一)。
 人が話す言葉は、その心の現われであり、行動の基盤である。だから、人はやがて神の最後の審判の法廷において、生活の中で何を話し何を語ったかに関して、裁きを受けることになるだろう。
 舌は、私たちの生と死を分けるものとなる。「死と生は舌に支配される」。
 「死と生」――人々は、このどちらかを愛している。「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」(イザ二二・一三)と言っている者は、死を愛しているのである。
 また「人生は何の価値もない。ただ面白く楽しんで生きればそれでいい」と言っている者も、死を愛しているのである。
 一方、「神様。あなたを愛します。みこころを示し、導いて下さい」と祈る者は、命と命の道を愛している。
 また「主イエスよ。あなたにならう者となれますように。私と共にいてご指導ください」と祈る者は、命を愛している。
 「死と生」――この「どちらかを愛して、人はその実を食べる」。
ページ一番上へ

23日 旧約・箴言一九章
 
「人の心には多くの計画がある。しかし主のはかりごとだけが成る」(二一)。
 私たちの心は、多くの計画や願望を持つ。しかし、最終的に成るのは、神のご計画だけである。
 これは、私たちの心にあるすべての計画をあきらめよ、ということではない。むしろ、私たちは心にある多くの計画のうち、どれが主のみこころで、どれがみこころでないのかを、祈りを通して教え導いて頂く必要がある。
 ふだん、神と共に歩む生き方を心がけているなら、神はご自身の計画にそった思いを、あなたの心の中に植え付けて下さるであろう。
 「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせて下さるのです」(ピリ二・一三)。
 だから私たちは、どれが神のご計画によるものかを、鮮明に理解できるよう祈り求める。
 しかし、自分の心の中に神のご計画による思いが、まだない場合もあるかも知れない。その場合は、自分の心の中のすべての肉的な計画が、神のご計画に取って代わられるよう祈るのである。
ページ一番上へ

24日 新約・ピリピ四章
 
「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい」(四)。
 私たちは、主イエスの贖いと救いのゆえに、つねに喜ぶ。
 もはや、自分の人生のことでは悲しまない。いかなる境遇にあろうと、力強く人生を切り開いて下さる主が共におられるので、自分の人生を心から喜ぶのである。
 もし悲しむことがあるとすれば、自分のことではなく、今も滅びに向かっている多くの人々を思ってである。それは常に、大いなる悲しみとして心にある。それがなくなることはないであろう。
 しかし、その悲哀は心の奥にあるが、一方では絶大な神の愛と恵みを常に喜ぶのである。
 聖書は、「主にあって喜びなさい」と命令形で語る。主にあって喜ぶことが、今も滅びに向かっている多くの人々へ伝道する力にもなるからである。
 また主にあって喜ぶ喜びは、人生を力強く切り開いていく力を私たちに与えてくれるであろう。何かの浮かれ気分ではない。私たちの喜びは、最も根源的なものから、清らかな泉のようにわき出る喜びなのである。
ページ一番上へ

25日 旧約・箴言二〇章
 「なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない」(四)。
 イスラエルでは秋の雨の後、畑を耕して種を蒔く。しかし、なまけ者は、寒いので畑を耕そうとせず、やがて春になっても収穫を得ることができない。
 私たちの人生もそうである。人生にも、冬の時期が必ずある。周囲のどこを見ても、みな枯れたような世界で、こんな状況では何をしても無駄ではないか、と思えるような時期が必ずある。
 また、自分の心も冷え込んで、何もする気がしない、という時もあるであろう。しかし、そうした冬の時にいかに振る舞うかが、その後の人生を大きく左右するのである。
 人生において最も厳しい時期をいかに通るか、いかに乗り越えるかが人生を決める。クリスチャンの小原国芳師が創始した東京の玉川学園の入り口付近には、池の大きな石に、
 「人生の最も苦しい、困難な、辛い、損な場面を、真っ先に微笑みをもって担当せよ」
 と記されている。これは私たちの心にも、刻み込むべき言葉ではないか。
ページ一番上へ

26日 旧約・箴言二一章
 「王の心は、主の手の中にあって水の流れのようだ。みこころのままに向きを変えられる」(一)。
 ダビデ王やソロモン王は、自分の心が「主の手の中にあって水の流れのよう」になり、「みこころのままに向きを変えられる」ことを望んだ。
 私たちの心も、主の御手の中にあって「水の流れ」のようでありたい。
 頑迷な岩石のように主の流れをふさぐ者ではありたくない。主が右に傾ければ右に流れ、左に傾ければ左に流れる清き水のようでありたい。
 また水は、それを入れる器によってどのような形にでもなり得る。丸いびんに入れれば丸くなり、四角いびんに入れれば四角い形になる。自由自在である。
 一カ所にとどまることもできれば、遠い所へ流れていくこともできる。東に行くことも、西、北、南に行くことも可能である。クリスチャンは神の御手にあって、そのようでありたい。
 神の御手の中にあることは、安心であり、平安であり、楽しい、幸福なことである。神は、これからあなたに、どのような形を与えて下さるであろうか。
 あなたの道を神にゆだねよ。
ページ一番上へ

27日 新約・ルカ一八章
 ふたりの人――パリサイ人と取税人が、祈るために宮に上った(一〇)。
 パリサイ人は、自分は取税人のような罪人ではないこと、また律法をよく守る義人であることを感謝して祈った。一方、取税人は深く自分の罪を悔やみ、神のあわれみを乞うて胸を打ちたたいた。
 主イエスによれば、「義と認められて」帰ったのはパリサイ人ではなく、取税人のほうであった。
 パリサイ人が義と認められなかったのは、彼が神の御前で偽りを言ったからではない。「ほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではない」と言ったパリサイ人の言葉はウソではなかった。彼が義とされなかったのは、自分を高くし、取税人をさげすんだからである。
 一方、罪深い取税人は義とされた。それは彼が自分を低くし、ありのままの罪深い自分をあらわにして、神によりすがる信仰を表明したからである。これはまさに、信仰義認の教理である。
 ある神学者は信仰義認の教理はパウロがつくったかのように言うが、そうではない。信仰義認の教理は、もともと主イエスご自身によって説かれた。使徒パウロは、それをさらに詳しく展開させたに過ぎない。
ページ一番上へ

28日 旧約・箴言二二章
 
「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない」(六)。
 国をつくる上で最も大切なのは、教育である。南米ペルーで初の日系大統領になったフジモリ大統領は、さかんに各地に学校をつくっている。やがて教育のある多くの若者たちが、この国を担っていくであろう。
 教育立国こそ、国家再興の基本である。日本も、教育によって敗戦から立ち直った。
 しかし、今日の日本の教育は行き詰まりを見せている。それは知識偏重の教育になっているからである。学校では知識の詰め込みが多く、「全人教育」が行なわれていない。
 全人教育とは、知育・徳育・体育のすべてにわたって、バランスある教育をすることである。現在多くの学校では、とくに徳育が、ほとんど行なわれていないのではないか。
 徳育のできる教師も非常に少ない。それは今日の日本人全体が、真の倫理や道徳の基準を見失っているからと思われる。
 本当に人生の活力となる倫理や道徳は、イエス・キリストの御教えから来る。私たちはこれを実践し、この日本で地の塩、世の光となって導く使命を与えられている。
ページ一番上へ

29日 旧約・箴言二三章
 「真理を買え。それを売ってはならない。知恵と訓戒と悟りも」(二三)。
 自分自身の向上のためには、金銭や時間を惜しまないことである。それはあなたにとって必ず益となる。
 頭脳と心が内容豊かなものとなるために投資することは、決して無駄ではない。知識、知恵、訓戒、悟りは、買ってでも得るものである。真理を得るための犠牲は、必ず報われる。
 今日、とくに青少年には、世界の偉人・聖人の伝記を、うんと読んでもらいたい。
 今日の青少年は、過去の偉大な人物の物語を知らなすぎる。逆境を乗り越え、人生を力強く切り開き、世界を変えていった人物の心と行動の物語を、知らなすぎる。本を読まなすぎる。
 また、もしあなたに小さな子どもがいるなら、子どものベッドで偉人伝を読み聞かせてあげてほしい。その子はやがて、自分でもいろいろな本――伝記だけでなく様々な本を読む子に成長していくであろう。
 あのアブラハム・リンカーンも、母が読み聞かせてくれた多くの物語を通して育った。若い時から真理に目覚めることは、人生を有益にする。
ページ一番上へ

30日 新約・コロサイ一章
 神の御子イエス・キリストは、父なる神ヤハウェからお生まれになった方であり、「造られたすべてのものより先に生まれた方」(一五)である。
 彼は「神のことば」とも呼ばれ、天地万物の創造の際に、父なる神と共にその創造のわざに参与された(一六)。神は万物を御子にあってお造りになったのであり、万物は神のことば=御子イエスにあって存在のうちに保たれている(一七)。
 また、御子イエスは神の奥義であって、私たちの救いの本源であり、完成である。御子イエスを通して、私たちは「神の子」とされ、御子に似た者と変えられる。
 御子イエスの内にあることによって、私たちは罪と滅びからの贖いと、永遠の命を得ている(一四)。御子は神の本質の顕現であり、神のみわざであり、私たちの救いそのものであられる。
 私たちの信仰の目標は、この「キリストにある成人」となることである(二八)。私たちは、信仰に入ったら、いつまでも幼いままいるのではなく、大人にならなければならない。大人の信仰を持ち、全き人、キリストにある成人になるのである。
ページ一番上へ

31日 旧約・箴言二四章
 「正しい者は七たび倒れても、また起きあがるからだ。悪者はつまづいて滅びる」(一六)。
 挫折というものは、誰にでもやって来る。そして高い理想を持つ人ほど、挫折の数は多い。
 しかし、高い理想を失わない人は、挫折のたびに力をつけていくのである。
 あなたがこれまでに一度や二度の挫折を経験したとしても、それは一体何だろうか。「正しい者は七たび倒れても、また起きあがる」。
 「七転び八起き」である。「七転び八起き」は、仏教というより、もとは聖書の言葉と言ってもよいだろう。
 米国のあの偉大な大統領リンカーンは、大統領になるまでに、両手の指で数え切れないほど、落選や挫折を経験している。偉大な事業をなした人で、挫折を経験しなかった人は皆無である。
 私たちはとかく、自分の芽が出ないことを、境遇のせいにしたり、親のせいにしたり、運のせいにしたりしなかっただろうか。
 しかし私たちは自分の人生を、主イエスにあって力強く切り開いていくのである。幾たびかの挫折を乗り越えてこそ、私たちは本物になれる。
ページ一番上へ

聖書一日一章トップページへ
レムナント出版トップページへ