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1日 旧約・雅歌二章
花嫁は花婿を慕って言う。「私の愛する方は私のもの。私はあの方のもの」(一六)。
この文章の順番に気をつけてほしい。これはじつは、六章三節では次のようになる。
「私は私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」。
順序が反対になる。私たちはここに、愛の成長を見る。
愛は、はじめは所有したがるものである。「私の愛する方は私のもの」。その次に、「私はあの方のもの」となる。
しかし、愛が成長してくると、自分が愛する者を所有するというよりは、むしろ自分が愛する者のために生きているという意識に変わってくる。そして「私は私の愛する方のもの」、つぎに「私の愛する方は私のもの」という告白に至るのである。
キリストとクリスチャンの関係においても、そうである。クリスチャンにおいて愛が成長してくると、自分はキリストのために生きている、という意識に目覚める。
そして、「私は私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」という告白に至る。愛とは一体となることである。愛の成長は生き方を変える。
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2日 新約・ルカ二四章
世界には、多くの巨大な墓がある。
エジプトのピラミッドは古代エジプトの王たちの墓だし、日本の巨大な仁徳天皇陵をはじめとする天皇陵も、巨大な墓である。
インドには、タジ・マハールという美しい建物がある。これは昔インドの王が、愛する妃の死を悼んで彼女のために建てた墓である。
ロシアには、ロシア革命の英雄レーニンを祭ったレーニン廟がある。そこには過去形で、
「まことにレーニンは世界の救い主であった」
と記されている。
しかし、私たちの求めているおかたは、このような墓の中にいる者たちではない。
「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです」(五〜六)。
救い主は、死者の中にはおられない。彼はよみがえられたのである。そして今も生きておられる。
イエス・キリストの復活、そして彼が今も生き、現臨しておられる事実は、世界で最も偉大な事実である。あの小さな「空の墓」は、私たちに史上最深最大の福音を語っている。
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3日 旧約・雅歌三章
「私は夜、床についても、私の愛している人を捜していました」(一)
とは、花嫁の見た夢を言っているのであろう。彼女は花婿を見失って捜す夢を見た。
花婿がなかなか見つからない。しかしやがて見つけ、彼女の母の家の奥の間に彼をお連れする(四)。
ここには、花嫁の深層心理がうかがえる。花婿を失いたくないという気持ちと、つねに一緒にいたいという想い。
地上の男女の恋愛感情がそうなら、ましてや、私たちが神を愛し、キリストを思う気持ちが何にもまさって強いものとなるとしても、それは自然なことではないか。
神を愛し、キリストを思う心は、男女の恋愛感情以上に、私たち人間にとってきわめて本質的である。それは本性の奥からわき上がるのであって、全身全霊を支配する。
神を愛する者は、つねに神と共にいたいと欲する。キリストを愛する者は、つねにキリストと共に歩みたいと願う。
男女の恋愛は、一時期で終わることも少なくない。しかし、神とキリストへの愛は、一生のものである。
私たちは恋愛以上の思いをもって、信仰を深めたい。
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4日 旧約・雅歌四章
花婿は、花嫁の美しさを讃えている。彼は、彼女の目、髪、歯、くちびる、頬、首すじ、乳房、そして、まなざしの美しさをたたえる。
彼にとってそれらは、この世のあらゆる最上のもの、大自然のすべての美しいものにまさって美しく思えた。彼女の女性としての美しさは、神が創造された造形のなかで、最高のものと感じられる。
古来、画家や、彫刻家、写真家など、芸術にたずさわる人々は、好んで女性の美しい身体を題材としてきた。これは理由のないことではない。
人間、とりわけ女性の身体は、神の造形の中でも、とくに傑作なのである。だから、アダムがエバを初めて見たときに感嘆したのも当然のことであった。
これは性的欲望とは別の、純粋な美への感動である。神は、美を楽しむことを人に許しておられる。
聖書は、花婿が花嫁の美を楽しみ、両者が愛に戯れることを決して卑しまない。恋愛も、性も、結婚も、罪に陥らない限りは、みな良いものである。
神は人生に、多くの楽しみを添えて下さっている。大切なのは、その良いものを悪いものに変えてしまわないことである。
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5日 新約・Tテサロニケ三章
パウロは、テサロニケ教会の人々が信仰と愛に堅く立っていると、テモテを通して伝え聞いた。
彼らはパウロたちの働きのために日夜祈り、またパウロたちと再会したいと、しきりに願っていたのである(六)。これはパウロたちにとって大きな喜び、また慰めとなった。
パウロたちだけではない。あなたのためにも、日夜祈ってくれている兄弟姉妹たちが必ずいることを、あなたは忘れてはいけない。
今はその兄弟姉妹たちの顔を見ることはないかも知れないが、彼らはあなたのために神に祈り、とりなしと愛をあらわしてくれている。
地上のクリスチャンたちだけでなく、天上のクリスチャンたちも、地上で生きている私たちのために神に祈ってくれている。私たちを支える手は多い。
そして何より、聖霊が私たちを支えて下さっている。
「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなして下さいます」(ロマ八・二六)。
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6日 旧約・雅歌五章
花婿は、花嫁を「私の妹」と呼んでいる(一)。これは文字通りの妹ということではなく、花嫁を自分の妹のように愛らしく思う花婿の気持ちを表したものである。「私の鳩」(二)という表現も同様である。
花嫁はある夜、眠っていたが「心はさめていた」。すると、そこに花婿がやって来て、戸をたたいた。
これが彼女の夢の中のことなのか、現実のことなのかは、はっきりしない。が、はじめ彼女は花婿が部屋に入るのを拒絶する。彼女は後悔して、少ししてから戸を開けるが、花婿はもう去ってしまっていた。
彼女は彼を捜しに町に出ていく。しかし、夜回りは彼女をいかがわしい商売女と思いこみ、彼女を打ちたたいた(七)。
彼女はエルサレムの女たちに、花婿を見つけて自分の愛を伝えてほしいと懇願する(八)。
エルサレムの娘たちは、どうしてそんなにあの花婿がいいのですか、と聞く(九)。それに対して花嫁は、「あの方のすべてがいとしい」と告白する。
恋愛は、ちょうど小鳥がピヨピヨと鳴くのと同じく、生ある者の営みの一部である。それは神が人にお与えになった生の豊かさである。
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7日 旧約・雅歌六章
エルサレムの女たちは、花婿を一緒に捜しましょうと言ってくれる(一)。そのとき花嫁は、愛における最も本質的な告白をする。
「私は私の愛する方のもの。私の愛する方は私のもの」(三)。
この告白と、二章一六節の告白との違いに注意しなければならない。花嫁の愛は、しだいに成長している。
恋愛においても、真実の愛は決して人間の品性を下げることはない。むしろ上げる。
一三節で、花嫁は「シュラムの女」と呼ばれている。これはシュラム出身、またはシュネム出身の女の意味であろうと言われる。
列王記によると、ダビデの晩年にダビデの付き添いとなった非常に美しい娘で「シュネム人アビシャグ」という女性がいた。「シュラムの女」とは彼女のことではないか、との説がある(T列王一・一〜四、一五、二・一七〜二二)。
また、「シュラム」というヘブル語を「ソロモン」の女性形と解し、それに定冠詞がついていることから、「ソロモンの女」――すなわちソロモン王の花嫁の意味に解する学者もいる。
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8日 新約・ヨハネ一章
「この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(一二)。
キリストを信じた者は、「神の子」としての特権を得る。
私たちは自分の力で神の子になるのではない。神の御子キリストにあって、御子キリストを通して神の子なのである。
例えば大学の学生は、大学にあって、大学を通して学生である。大学がなければその人も学生ではない。
同様に、御子キリストにあって、キリストを通して神の子なのである。キリストぬきでは、私たちは神の子ではない。
私たちが神の子であるなら、私たちは神の実子なのか。それとも養子なのか。ガラテヤ四・五には、
「私たちが子としての身分を受けるようになるため」
とある。この言葉によれば私たちは養子である。しかし、今日の箇所であるヨハネ一章の一三節には、
「ただ神によって生まれた」
とある。神の子として「生まれた」という以上、単なる養子ではない。私たちは、単なる養子以上の者――養子であり実子でもあるような者なのである。
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9日 旧約・雅歌七章
花婿は、再び花嫁の身体の美しさを讃える。それは彼女の足から、頭の髪にまでおよぶ。
「あなたの目は・・・・ヘシュボンの池」とは、その池のように澄んでいるという意味であろう。また「鼻は・・・・レバノンのやぐらのようだ」とは、そのやぐらのように鼻筋が通っているという意味であろう。
いずれにしても、目と池、鼻とやぐらではずいぶん大きさが違うから、現代人ならこのようなたとえは用いないであろうが、古代では恋人の間で用いられたようである。
それは古代においては、現代のような環境汚染がなく、美しいものが多かったからであろう。花婿にとって花嫁は、この世のすべての美しい物を凝縮した者のように、美しく見えた。
恋人にとって、一緒にいる時間は、何にもまして幸福なものである。私たち人間は、たった一人では幸福になれないように造られている。
恋人がそうなら、ましてや、神を愛する者は、神と共にいる時間が最も幸福である。神のみそばにいるだけでよい。
近くにいるだけで幸福なのである。人生は、神に近づく旅である。
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10日 旧約・雅歌八章
花嫁は、花婿が自分の本当の兄弟であったなら、外で彼に会い、口づけしても、「だれも私をさげすまないでしょうに」という(一)。こうして彼女は、彼に対する深い愛を言い表す。
八〜九節は、花嫁の兄弟たちの言葉である。彼らは、もし彼女が結婚するなら、その結婚の日まで「城壁」のようになって彼女を悪い者たちから守り、彼女の純潔を守ってあげよう、と言う。
花嫁はそれに対し、自分は「城壁」のように純潔を守った、と告白する(一〇)。
ソロモンは花嫁に、ぶどう畑を与える(一一〜一二)。花嫁は、
「私の愛する方よ。急いで下さい」
と言う。この言葉は新約聖書・ヨハネの黙示録の主題と同じである。
「御霊も花嫁も言う。『来て下さい』。これを聞く者は『来て下さい』と言いなさい。・・・・『しかり、わたし(キリスト)はすぐに来る」(二二・一七〜二〇)。
ユダヤ人も、毎年、祭のときに、雅歌の言葉を朗読する。それは神への愛を言い表すためである。
私たちキリスト者は、花婿なるキリストの再臨を、深い愛と希望をもって待ち望む。
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11日 新約・Tテサ四章
キリストが再臨されると、そのとき生き残っている私たちは、「たちまち彼らと一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会う」(一七)。
これは「携挙」と呼ばれる出来事である。携挙に関して現在クリスチャンの間に、携挙は患難時代の直前であるという説(患難前携挙説)と、患難時代の終わり頃であるという説(患難末期携挙説)とがある。
テサロニケ人への手紙のこの言葉も、患難末期携挙説に合致する。
なぜなら、空中で主と「会う」と訳されたギリシャ原語アパンテーシスは、じつは「会う」ではなく「出迎える」の意味だからである。
実際、この原語は「花婿を出迎える一〇人の娘」のたとえにおいて、「そら、花婿だ。迎えに出よ」(マタ二五・六)等と訳されている。この言葉は、聖書の他の箇所では常に「出迎える」と訳されている。
この言葉には、「相手と会って、その人とずっとそこにいる」という意味はない。これは「行って出迎えたら、その人と一緒にすぐ元の地に戻ってくる」の意味なのである。
この事実は、患難末期携挙説によく一致する。しかし、患難前携挙説には一致しない。
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12日 旧約・イザヤ書一章
本書は、預言者イザヤが、紀元前八世紀に神から啓示された預言の言葉を書き記したものである。
伝承によれば、イザヤの父アモツは、ユダの王アマツヤの兄弟であったという。それが事実なら、イザヤは王の近親者であった。
当時、イスラエル統一王国はすでに分裂し、南王国ユダと北王国イスラエルとに分かれていた。イザヤはとくに南王国ユダに関して預言した預言者である。
イザヤは、すでに北王国イスラエルがアッシリヤ帝国によって占領され、破壊され、捕囚された惨劇を見ていた。そして彼は、南王国ユダに関しても、神の裁きが近づいていると告げたのである。
南王国のヒゼキヤ王は、善い王であり、改革を志したが、その改革は、民の腐敗した生活の表面をかすかになでさすった程度であった。民の腐敗と、罪に病める心は、ますますひどくなるばかりだった。
イザヤは冒頭から、神の啓示に基づき、民の罪を痛烈に指摘する。彼の顔には、非常な憂いと、怒りと、また涙が浮かんでいたであろう。
彼は憂国の士であった。今日の日本に必要なのも、彼のような憂国の人である。
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13日 旧約・イザヤ書二章
イザヤの預言は、じつに壮大である。
イザヤの預言は、彼の時代のことにとどまらない。はるか未来のこと――キリスト再臨後の千年王国のことや、新天新地にまで及んでいる。
とくに五三章においては、キリストの十字架のことまで見ている。
イザヤの預言においては、これらイザヤの時代に関する預言、キリストの初来に関する預言、キリストの再来や、その後のことに関する預言などが、幾度も交互に出てくる。
必ずしも時代順に語られるというわけではない。しかし、彼は裁きを語ったと思えば、つぎに後の回復を語り、また彼の時代のことを語ったと思えば、すぐに、終末の至福の時代についても目を向けるのである。
本章においてもそうである。彼は当時の民の罪を語った直後に、「終わりの日」(二)に現わされる至福の時代の預言に移っている。彼は
「終わりから今を見ている」のである。
終末の回復ということから、当時の世界を見ている。だから彼の預言には、希望がある。
裁きは厳しいが、その向こうには回復がある。彼は歴史全体から「今」を見ているのである。
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14日 新約・ヨハネ二章
イエスは、「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」(一九)と言われた。
それを聞いて、ユダヤ人たちは地上のエルサレム神殿のことだと思った。
「しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである」(二一)
と記されている。
イエスの御体は真の神殿である。神殿とは、神と人が出会う場であり、イエスは神と人が出会う真正の場となられた方なのである。
私たちは、イエスにあって神と出会い、イエスにあって神を礼拝している。
ペンテコステ以後、教会は「キリストのからだ」と呼ばれている。ここには奥義がある。全クリスチャンの集合体である教会(一つしかない)は、キリストの御体であり、真の霊的神殿なのである。
地上の目に見えるエルサレム神殿は、紀元七〇年にローマ軍によって破壊され、壊滅した。しかし、「キリストのからだ」という目に見えない霊的な神殿は、以後もキリスト者たちにおいて脈々と続いているのである。
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15日 旧約・イザヤ書三章
神の裁きは、「エルサレムとユダから、ささえとたよりを除かれる」(一)という形で行なわれる。
「すべて頼みのパン、すべて頼みの水」が除かれ、また「勇士と戦士、さばきつかさと預言者、占い師と長老、五〇人隊の長老と高官、議官と賢い細工人、巧みにまじないをかける者」など、民のおもだった人々がみな除かれる。
これは、紀元前六〇六年、また五八六年にバビロン帝国が南王国ユダに攻め寄せてきて、民のおもだった者たちをみな捕囚として連れ去って行った時に成就した。つまりイザヤは、一〇〇年以上先に起きる事柄を預言しているのである。
「捕囚」というのは、大国が征服した国々を無力化するために行なう占領政策の一環であった。民のおもだった者たちをみな本国に連れ去ってしまうので、あとに残る者たちは、貧しい人々や教育のない者たちばかりであった。
国は無力化し、二度と征服者に反乱を企てることができない(四)。こうして南王国ユダの人々は、神に仕える幸いと、罪に仕える災いとの相違を、思い知らなければならなかったのである。
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16日 旧約・イザヤ書四章
一節の「その日、七人の女が一人の男にすがりついて言う」とは、戦争で男が減ったので、一人の男に多くの女が結婚を申し込む有り様を描いている。
しかし、二節以降で、イザヤはすぐさま後の日の回復の預言に移る。彼の預言においては、審判と回復の預言が交互に出てくる。
審判とは、回復へのプロセスの一つにすぎないからである。
ここに「主の若枝」という言葉が出てくる(二)。これは預言書にしばしば出てくる言葉であって、来たるべきメシヤを現わす象徴表現である。「主の若枝」とは、同じイザヤ書の五三章二節に、
「彼は主の前に若枝のように芽生え・・・・」
と言われているキリストのことである。。
「主の若枝」の出現によって、やがてエルサレムの罪は洗い清められる(四)。彼は「麗しく、栄光に輝き」、「イスラエルののがれた者」(レムナント)の「威光と飾りになる」。
また、彼によって罪を洗い清められた者たちは「いのちの書に記される」(三)。イザヤの目には、すべてが見えていたのである。
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17日 新約・Tテサ五章
キリストの再臨の日、すなわち「主の日が、夜中の盗人のように来る」(二)。
聖書を知らない者や、不信者に対しては、主の日は盗人のように来る。しかし、神を信じ、聖書を学んでいる者たちに対してはそうではない。
「兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にはいないのですから、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません」(四)。
私たちは、キリスト再臨の日の正確な日時を特定することはできない。しかし、その日が近づいたとき、時のしるしを見て、「主の来られるのは近い」と悟ることはできる。
使徒パウロは、こうしてキリスト再臨のことを語ったのち、「慎み深くしていること」また「いつも善を行なうよう務める」ことを勧める。キリストの再臨は、私たちの道徳的生活の基盤だからである。
終末のことを誤解して、自暴自棄な奔放な生活を歩む無神論者はいる。しかしキリスト者は、終末のことを知っているから、ますます道徳を大切にする。
これは、終わりから今を見て生きる生き方、または終末論的生き方と言ってもいい。キリストの再臨は、私たちの究極的希望である。
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18日 旧約・イザヤ書五章
イスラエルは「ぶどう畑」、神はそのオーナーにたとえられている。
神であるオーナーは、そこを耕し、石を取り除き、良いぶどうを植え、やぐらを立て、酒ぶねまで作って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、そこにできたのは酢いぶどうであった。
つまり神は、イスラエルの人々、ユダの人々(ユダヤ人)を喜んで植え、彼らに公正を待ち望んだのに、そこに見られたのは「流血」であった。また正義を望んだのに、そこに見られたのは「泣き叫び」であった。
神は言われる。
「わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酢いぶどうができたのか」。
イスラエルの民は答えることができない。そこで神は言われる。
「今度はわたしがあなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑にすることを。・・・・わたしはこれを滅びるままにしておく」(五〜六)。
神はこうして、わかりやすいたとえを用いて、ご自身の御旨を語られる。しかし、このような説明まで付け加えるのは、民に悔改めを期待しておられるからである。
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19日 旧約・イザヤ書六章
ウジヤ王が死んだ年に、イザヤは神ヤハウェを見る、という体験をする。
彼は神の御顔を見たのではないが(神の御顔を見た者はいない)、霊的に神のみそばに上げられ、その栄光の一部を見たのである。
ウジヤは、南王国で永く善政を敷いた王であった。彼のあとには、アハズという悪王が立ち、南王国ユダを堕落させていく。地上の世界だけを見れば、イザヤの前には絶望的状況が待っていた。
しかしそのときイザヤは、永遠の王なる神を仰ぎ見る。そのみそばでは、天使の一種であるセラフィムが、「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主」と呼び交わしていた。
イザヤは、神の聖と栄光に接して、畏怖に震え上がる(五)。しかし、罪赦される恵みにあずかった彼は、
「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」
との神のみことばを受けて、
「ここに私がおります。私を遣わして下さい」(八)
と答える。クリスチャンとくに伝道者は、この体験が必要である。神のみことばの前に、「ここに私がおります。私を遣わして下さい」と応答するのである。
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20日 新約・ヨハネ三章
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません」(一四)。
かつてイスラエルの民が罪を犯したとき、神の裁きが下り、民の多くが毒蛇にかまれて死んでいった。そのときモーセは、神の命令によって、青銅で蛇の像をつくり、旗ざおの上にかかげた。
すると、たとえ蛇にかまれた者であっても、その像を「仰ぎ見ると、生きた」(民数二一・九)。
なぜ彼らは生きることができたのか。その像に力があったからか。そうではない。像自体に力はなかった。
彼らが生きることができたのは、神の御言葉があったからである。
「それを仰ぎ見れば生きる」(民数二一・八)という御言葉があったからである。その御言葉に、人を救う力があった。
主の十字架も同様である。「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられる」と主が語られたから、主の十字架を仰ぎ見れば救われる。
また、「地の果てのすべてのものよ。私を仰ぎ見て救われよ」(イザ四五・二二)という御言葉があるから、私たちは、仰ぎ見ることによって救われるのである。
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21日 旧約・イザヤ書七章
南王国ユダは、破滅の危機にさらされていた。
アラム帝国と北王国イスラエルは、大国アッシリヤ帝国と戦うために同盟を組み、南王国ユダのアハズにもその同盟に加わるよう呼びかけた。アハズがこれを拒否すると、両国はユダを攻めてきたのである。
アハズは震えおののき、もう南王国ユダはだめだと思った。しかし、神は預言者イザヤを通して、南王国ユダが絶滅したりすることはあり得ない、と言われる(七)。
なぜなら、南王国ユダは将来イエス・キリストが降誕される民として残されなければならないからである。エフライム(北王国イスラエル)は粉砕されるが、南王国ユダはキリストの降誕までは存続しなければならない。
キリスト降誕こそ、神がユダを選んでおられることのしるしである。
「それゆえ、主みずから、あなたがたに一つのしるしを与えられる。見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」(一四)。
この預言は、イザヤ時代に生まれてくる男の子のことも念頭に置かれているが(一五、二二)、究極的にはキリストにおいて成就する。
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22日 旧約・イザヤ書八章
預言者イザヤには、妻がいた。その妻にも預言能力があった(三)。
イザヤと妻の間には、二人の子どもが生まれた。一人はシュアル・ヤシュブといい(七・三)、もう一人はマヘル・シャラル・ハシュ・バズであった(三)。
兄の名シュアル・ヤシュブは、「残りの者たちは帰ってくる」の意味である。これは、南王国ユダはやがてバビロン帝国によって捕囚されるが、彼らの残りの者たち(レムナント)は再び祖国に帰って来るであろう、という預言的な名前である。
一方、弟の名マヘル・シャラル・ハシュ・バズは、「略奪者が急いで来る」の意味である。これは、
「ダマスコの財宝とサマリヤの分捕り物が、アッシリヤの王の前に持ち去られる」
ことを預言した名であった。ダマスコとはアラム帝国(の首都)、サマリヤとは北王国イスラエル(の首都)である。
子どもの名前までが、預言的意味を持っていた。イスラエルのすべての人々は、その子たちの名を口にするたびに、同時にイザヤのメッセージを口にしていたことになる。こうしてイザヤのメッセージは、不信者の間でさえ、語り継がれた。
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23日 新約・Uテサ一章
信仰に入ってから肉体の死までの期間に、私たちがこの地上に留め置かれるのは、私たちを「神の国にふさわしい者とする」(五)訓練の期間とするためである。
「神の国」、すなわち死後の霊的な目に見えない天国、またキリスト再臨後の目に見える地上の千年王国、また万物更新後の新天新地に行けば、もはや患難も苦悩も迫害も悲しみも病もない。
私たちは、一刻も早くそのような至福の世界に入りたいと願うし、私たちの終極がそのような未来であると思うことは、本当に大きな慰めである。
しかし、その至福の世界にすぐ入れられるのではなく、しばらく地上に留め置かれるということの意味を、よく理解しなければならない。
この地上で、私たちは「神の国にふさわしい者」となるための訓練を受けている。人生に起こるあらゆる事柄は、私たちを神の国にふさわしい者とするための訓練である。
だから、人生に起こるあらゆる事柄に対し、私たちはいつも前向きに対処していく。どんなことからも逃げないようにしよう。現実から逃避してはならない。あなたには、主イエスが共におられるのである。
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24日 旧約・イザヤ書九章
イザヤは、現在のイスラエル民族への神の裁きを語りながらも、しばしば後の日の回復と救いについても触れる。
ちょうど、空をおおう暗雲の裂け目から一筋の光がさし込むように、イザヤの口からはしばしば、将来の救いと回復に関するメッセージがこぼれる。
「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。異邦人のガリラヤは光栄を受けた・・・・」(一)。
イスラエルの地は、苦しみを受けるが、そののち光栄を受けるであろう。それはガリラヤ地方に、メシヤが出現されるからである(マタ四・一二〜一七)。
主イエスは、ガリラヤ地方で宣教を始められた。屈辱を受けたこの地が、光栄の地となったのである。
「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる」(六)。
これは、イスラエルにメシヤが来られるとの、明確な予言である。先の七章一四節の「インマヌエル」も、究極的にこの「ひとりのみどりご」をさし、キリストを意味する。
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25日 旧約・イザヤ書一〇章
このとき、アッシリヤ帝国はすでに、紀元前七二一年に北王国イスラエルを征服していた(一一)。
神はアッシリヤを、罪にまみれる北王国イスラエルに対するご自身の「怒りの杖」(五)となされたのである。アッシリヤを用いて、神は北王国の罪を裁かれた。
このアッシリヤは、さらに南王国ユダにも進入し、そこを征服しようとしていた。
南王国ユダも罪にまみれているから、このままアッシリヤの進軍を許し、南王国に裁きを下すのもよいかも知れない。しかし、神はそうはされなかった。
それは、アッシリヤがひどく高ぶったからである(一二)。神はその高慢に怒り、アッシリヤが南王国ユダを征服することをお許しにならなかった。
実際、アッシリヤは南王国ユダにしばしば進入したものの、それを征服することはできなかった。
しばらくして、アッシリヤは神の鉄槌のもとに滅びることになる。やがて力をつけてくるバビロン帝国によって攻撃を受け、アッシリヤは紀元前六〇七年に滅ぼされる。
まことに「おごれる者、久しからず」である。
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26日 新約・ヨハネ四章
当時、ユダヤ教のラビ(教師)は、決して女性と一対一では話さなかった。ふつう挨拶も交わさなかった。もしラビが女性と一対一で話しているところを誰かに見られでもしたら、それは彼の名声の破滅であった。
ましてや、相手の女性が五回も離婚経験があって今は別の男性と同棲しているというような女性なら、なおさらのことだった。ところが主イエスは、このサマリヤの女性に自ら近づいて来て、話しかけられた。
女性に話しかけたというこの出来事は、今日の私たちの感覚からすれば普通の事と思えるかも知れない。しかし当時のユダヤ人から見れば、革命的といってもよいことだったのである(二七)。
これはまた、仏教の創始者シャカとも対照的である。シャカは女性には積極的に伝道しなかった。女性は決して仏になれないと、シャカは考えていたからである。
のちに弟子たちにせがまれて、シャカは女性の弟子も持つようにはなるものの、女性が女性のままで仏になれるとは決して考えなかった。
ところが、主イエスは女性にも積極的に伝道された。それはキリスト教では、男も女も同じように神の子になって救われるからである。
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27日 旧約・イザヤ書一一章
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊がとどまる」(一〜二)。
「エッサイ」とは、ダビデの父である。彼の血統から「新芽」が生え、そこからやがて、「若枝」と象徴的に呼ばれるメシヤが来られる。
彼の上に「主の霊がとどまる」。彼こそ、神の国を地上にもたらして下さるメシヤ・イエスである。
このイザヤの預言に見られるのは、レムナント(残りの者)の思想である。
イスラエル民族は一本の木にたとえられている。イスラエル民族は罪を犯し、神の裁きを受けて、バッサリとその木は切り倒される。
あとに残ったのは、「切り株」(六・一三)であり「根株」にすぎない。しかし、ダビデの血統である「根株」からは、やがて小さな「新芽が生える」。これは神の民の命と伝統が、残りの者――レムナントたちによって受け継がれることを意味する。
彼らの中に、やがて「若枝」が出て、「実を結ぶ」。つまり最後の残りの者、もしくは真の残りの者として、メシヤが来られるのである。
このようにイエス・キリストは、レムナント(残りの者)の代表、また頭として来られた。
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28日 旧約・イザヤ書一二章
来たるべきメシヤ(キリスト)は、最終的に神の国を地上にもたらして下さる。
とくにキリストの再臨において、、キリストは地上の悪を一掃し、悪に終止符を打って、地上に真の平和と義と繁栄を確立される(一一・四)。
また、彼の「千年王国」では、「狼は小羊とともに宿り、ひょうは子やぎと共に伏す」(一一・六)。すなわち、動物たちはみな草食になり、弱肉強食もなくなる。
また「主を知ることが、海をおおう水のように地を満たす」(一一・九)であろう。その日には、一切の偽宗教は姿を消す。宗教はただ一つ、神ヤハウェとその御子イエスを信じる教えだけになる。
「キリスト教」という名称すらなくなるであろう。なぜなら、これは他の宗教からキリスト教を区別するための名称にすぎないからである。
教派も存在しない。その日には神の教えはただ一つである。人々はみな言うであろう。
「見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ(ヤハウェの短縮形)、主(ヤハウェ)は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた」(二)。
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29日 新約・Uテサ二章
「神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、はじめから救いにお選びになった」(一三)。
神は、私たちが福音を聞くことによって信仰に入ることを、あらかじめ予知しておられた。それで、その信仰をよしとされた神は、御霊による聖めによって、私たちを「はじめから救いにお選びになった」。
私たちは、いろいろな宗教の中から、自分でキリスト教の神を選んで信じたように思うかも知れない。が、じつは神のほうで私たちを選んで下さっているのである。
神は私たちの信仰をよしとし、私たちを選んで下さった。救いの基盤は、神ご自身の権威にある。神が救いを定めて下さったのである。
私たちは自分の内側を見れば、不確かなものでいっぱいであることを知っている。しかし、神の側は確かである。
つねに神を見上げ、このかたにすがっていくとき、私たちは自らの信仰を全うし、救いの達成に至る。
つねに神につながっていよう。起きるときも、寝るときも、何をするときも。神はあなたを内側から強めて下さる。
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30日 旧約・イザヤ書一三章
イザヤの時代、世界の支配的勢力はアッシリヤ帝国であり、バビロンはその属国に過ぎなかった。しかし、バビロンはのちにアッシリヤを倒し、中東世界の支配者となる。
本章においてイザヤは、そのバビロン勃興の一〇〇年以上前に預言して、バビロンの勃興、およびその後の没落と、廃墟化までを、すべて言い尽くしてしまう。
「彼らは遠い国、天の果てからやって来る。彼らは全世界を滅ぼすための、主とその憤りの器だ」(五)。
バビロン帝国は、アッシリヤを倒し、またたく間に中東世界全域を征服、支配した(紀元前六〇六年)。バビロンはその後、巨大な繁栄を誇る。その繁栄は「バビロンの栄華」として今日も有名である。
しかしそのバビロンも、のちにメディア・ペルシャ帝国によって、打ち倒される(紀元前五三六年)。
「見よ。私は彼らに対してメディア人を奮い立たせる」(一七)。
バビロンは、メディア・ペルシャ帝国に滅ぼされる。栄華を誇ったバビロン市は、その後、廃墟と化していく(一九〜二二)。
そして今日も廃墟のままである。あなたがイラクに行くなら、その廃墟を自分の目で見ることができる。
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31日 旧約・イザヤ書一四章
この預言は、「アハズ王が死んだ年」(二八)、すなわち紀元前七一五年に与えられた。
イザヤはこの年に、やがて起こるべきバビロン捕囚だけでなく、さらにその後のことまでを預言する。
南王国ユダは、バビロン捕囚後に神からの憐れみを受け、回復するであろう(一)。一方、ユダの人々を苦しめたバビロン帝国は、アッシリヤ帝国(二五)と同様、高慢の罪を裁かれて滅亡する。
古代世界において「バビロンの栄華」は有名であり、当時の人々はバビロン帝国は千年、いや永遠に繁栄し続けるであろうとさえ思ったに違いない。しかしイザヤは、このバビロン帝国の繁栄も、一瞬にして終わりを告げると予告する。
一二〜一五節の、
「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。・・・・あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる」
とは、文脈上はバビロン帝国のことである(四)。しかし多くの聖書学者は、この言葉にはサタンの堕落と最期が二重写しに語られているようだ、と述べてきた。
バビロン帝国の最期は、サタンの最期の絵でもある。
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