聖書一日一章

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1日 新約・マタイ一七章
 弟子たちは、旧約聖書の当時の一般的な解釈に従い、メシヤは、エリヤ再来の後に来て神の支配をもたらして下さる(マラ四・五)、と理解していた。
 しかし、弟子たちの理解していないことがあった。それは、再来のエリヤであるバプテスマのヨハネは殺されること、またメシヤであるイエスも殺されることであった。だからイエスが、
 「人の子もまた・・・・(エリヤと)同じように苦しめられようとしています。・・・・人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります」(一二、二二〜二三)
 と言われたとき、弟子たちは「非常に悲しんだ」。
 「殺されてしまっては、どうして神の支配が地上にもたらされるだろうか」――そのような思いが、彼らの内にあったに違いない。
 しかし、神の思いは人の思いよりも高く、優れている。
 メシヤが死んで復活することは、旧約聖書に予言されていたことであった(イザ五三・一〇)。神の支配が地上に及ぶためには、十字架の死と復活によって、まず罪の贖いがなされねばならなかったのである。
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2日 旧約・ヨブ記三四章
 エリフは、ヨブを罪人また悪人の一人に数える。しかし、それは先の三人の友の主張のようにではない。
 エリフは、ヨブの過ちを指摘して言う。ヨブは自分は正しく神は間違っていると言わんばかりに言い返すことにおいて、過ちをおかしている。
 「どうかヨブが最後までためされるように。彼は不法者のように言い返しをするから。彼は自分の罪にそむきの罪を加え、私たちの間で手を打ち鳴らし、神に対して言葉数を多くする」(三六〜三七)。
 事実、ヨブは神の統治能力等は認めたものの、神の正しさに関しては、しばしば疑問の言葉を発していた(九・二二〜二四等)。ヨブの態度は、自分を正しいとするあまり神を罪に定めてしまう危険性がある、とエリフは感じた。
 エリフは言う。誰が「正しく力ある方を・・・・罪に定めることができようか」(一七)。人が王に向かって、「よこしまな者」と言えるだろうか。神が不正を行なわれることは、絶対にない。
 エリフはヨブに、「悔い改めよ」とは言わない。しかし、自分がどのような態度を取るべきかを「あなたが選ぶがよい」(三三)と述べる。
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3日 旧約・ヨブ記三五章
 エリフは、ここでもヨブの自己義認を問題にする。
 エリフの主張はこうである。人の正しさは、ただ人間社会にかかわりを持つだけである(八)。それは神に何かを与えたり、神の正しさを補ったりするわけではない(七)。
 自分の正しさを主張するより、神の正しさをどこまでも信頼することが、私たちの道ではないか。
 ヨブの祈りと訴えは、すでに神の前にある。だからヨブは、いたずらに口を開いて多くの言い分を述べるのではなく、むしろ神に信頼して待ち望むべきなのである。
 「訴えは神の前にある。あなたは神を待て」(一四)。
 神は傲慢な者の祈りを聞かれない(一二〜一三)。御前にへり下るとき、神はやがてご自身を現わしてくださるであろう。
 エリフがこう主張する間、ヨブは黙って聞いていた。ヨブは先の三人の友の時のようには、彼に反論していない。エリフの言葉はヨブの心を静め、謙虚にさせるのに有効だったのであろう。
 私たちに大切なのは、謙虚さ、また謙遜である。神の前にへり下る心である。堅い頑固な心ではなく、やわらかい、砕かれやすい心である。
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4日 新約・第一コリント一章
 「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力です」(一八)。
 キリストの十字架の贖いのみわざは、神の知恵による。それは高慢な哲学者や思想家等には、単純すぎて愚かなものに見えるであろう。しかし、実際にはそれはじつに素晴らしい神の方法であって、信じる私たちを救う力を持つ。
 私たちが宣べ伝えるのは、「十字架につけられたキリスト」(二三)である。このキリストに、贖いがあり、救いがあり、永遠の命があり、絶対的幸福がある。
 私たちが宣べ伝えるのは、自分の思想ではない。神の思想、神の真理でなければならない。そうでなければ、私たちの宣教は無価値である。
 たとえ何百人の集会、何千、何万人の集会を持てるようになったとしても、もしキリストと十字架が宣べ伝えられていないなら、それは無価値である。
 人々は十字架の贖いを知って救われ、キリストに生きることを学ばなければならない。そこにこそ、人生における最高の幸福の秘訣がある。
 キリストは私たちのために、命を捧げてくださった。私たちも、彼のために自分の生涯を捧げる。
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5日 旧約・ヨブ記三六章
 神は、正しい者さえも、高慢の罪から清めるために苦難に渡されることがある。
 「神は正しい者から目を離さず、彼らを王たちとともに王座に着け、永遠に座に着かせて、高められる。もし彼らが鎖で縛られ、悩みのなわに捕らえられると、そのとき神は彼らのしたことを彼らに告げ、彼らがおごり高ぶったそむきの罪を告げる」(七〜九)。
 エリフの考えによれば、この苦難は、ヨブが高慢から清められるためであった。
 ヨブは苦難の中で、いつしか神よりも自分を正しいとする態度に陥っていた。高慢で、かたくなな心になりかけていた。
 ヨブは倫理的には正しい生活を送っていたが、心のうちには高慢の根があったことになる。それが、苦難を通して現われた。
 ヨブが真の聖徒となるために、この高慢が徹底的に打ち砕かれる必要があった。自分自身の義により頼んでいるうちは、人は真の聖徒にはなり得ない。
 人は、神を教えたり、指図したり、責めたりすることはできない(二二〜二四)。人は常に、神の前にへりくだらなければならない。
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6日 旧約・ヨブ記三七章
 本章は、エリフの最後の言葉である。この次の章になると、神ご自身が介入し、ヨブに向かって語りかけられる。
 本章の二節で、エリフは「しかと聞け。その御声の荒れ狂うのを。その御口から出るとどろきを」と言っている。これは、いなずまのように次章でヨブに語りかけられる神の御声を予感させる。
 自然界において、いなずま、雪、大雨、つむじ風、氷等、どれもみな神のみわざであり、じつに峻厳である。その前には、人間も動物もうずくまる(七〜八)。
 神は、私たちをはるかに超えておられる。この神の前に出て、私たちはいったい何を語ることができようか。人は堕落して理性が暗い者なのに、どうして神に反抗したり、議論できるだろうか。
 神は、能力において完全であるように、正義においても完全であられる。私たちは神の正義を疑って争うことはできない。
 人が太陽を直視できないように、威光に満ちた神を直視することはできない。人は神をおそれなければならない。自分の知恵と義により頼む者は、神の顧みを受けることができない(二四)。
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7日 新約・マタイ一八章
 「あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら・・・・」(三五)。
 小さな、こざかしい心は、他人が自分になした悪い事をいつまでも根に持つ。しかし、大きな心は、人の過ちや罪を寛大に赦す。
 大きな心を持つなら、他人が自分になした少々の悪事など、たいしたこととは思わなくなってくる。そんなことを心の中で根に持つこと自体、つまらなく思えてくるのである。
 大きな心とは、人生の目的をしっかり見据えた生き方である。「私の人生は神と人を愛するためであり、愛を学ぶために私は世にあるのだ」という心である。
 また大きな心は、自分を真に評価して下さるかたが天におられる、という自覚である。人の評価がどうあれ、自分を本当に正しく評価してくれるかたが天におられるなら、人が私に対してなした悪事など、たいしたことではない。
 私たちは、神を愛することによって、大きな心を持つことができる。神は大きなかただからである。神は私たちの心をいやし、私たちの受けた損害を償って下さる。
 人を赦そう。私たちは祝福を受け継ぐために召されたのである。
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8日 旧約・ヨブ記三八章
 エリフの弁論に対してヨブが答える間を置かず、神が突然介入される。神はついにヨブに語りかけられた。
 ヨブは、神の御前に出て思いの限り質問をぶつけてみたい、と思っていた。しかし、神はご自身のほうから現われて、ヨブに質問をぶつけられた。
 「さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ」(三)。
 神は、天地創造のみわざを背景に、矢継ぎ早に質問を発せられる。それはヨブに、自分の無知を悟らせ、被造物としての立場を確認させるためであった。
神は、ご自身の全知、全能、また主権を明らかにされた。それはヨブの苦難の背景にも、計り知れないご自身の計画と配慮があったことを、ヨブに悟らせるためであった。
 神はなぜ、ここになってヨブの前に現われられたのか。神は矢継ぎ早に質問を発せられたが、ヨブを滅ぼそうとはされていない。むしろヨブの心を見つめながら、ヨブを諭し導こうとしておられる。
 ヨブは神に会うことを求めた。そしてついに、神のほうからヨブに会って下さった。神は、ヨブを愛しておられたからである。
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9日 旧約・ヨブ記三九章
 神は続けて、生物界の創造のみわざに関して語られる。
 成長した動物たちの姿は人目にふれることもあるが、その成長過程の多くは、人間には未知の部分が多い。野やぎや野鹿の妊娠、出産、親離れなどは、人目につかない所で起こっている(一)。
 しかし、神はそのすべてを熟知しておられる。彼らの創造者は神だからである。
 だちょうという動物は、翼を持っているのに、こうのとりのようには飛べない(一三)。また、だちょうの自分の子に対する配慮のなさは、広く知られていた(哀歌四・三)。神がその知恵を、だちょうに授けなかったからである(一七)。
 しかし、このように飛ぶこともできず、知恵において劣るだちょうも、走ることにかけては馬よりも早い(一八)。神はご自身の主権によって、一方に長所を、一方には短所を与えられるのである。
 神はこの世界を、非常にバラエティに富んだものとされた。人の目には、良く見えるものと悪く見えるものがある。しかし、人知にはそう思えても、神の思いは人の思いを超えている。
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10日 新約・第一コリ二章
 「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えて下さったものは、みなそうである」(九)。
 私たちが「奇跡」を体験することは、素晴らしいことである。病気の人がいやされ、悪霊につかれた人が悪霊を追い出されるなどの奇跡を体験するなら、それは素晴らしいことである。
 しかし、そうした奇跡は病気の人や、悪霊につかれた人しか体験することができない。けれども、神を愛する者が誰でも体験できる奇跡がある。それは人生の奇跡を体験することである。
 神はご自身を愛する者たちのために、いまだ目が見ず、耳が聞かず、人の心に思い浮かぶこともなかったような奇跡的祝福の人生を用意していて下さる。
 神を愛するクリスチャンたちは、新たな人生を与えられ、失望から希望へ、悲しみから喜びへ、不安から平安へ、不幸から揺るぎない幸福へと変えられた。これは周囲の者から見ても、自分で考えてみても、「奇跡」なのである。
 奇跡は、誰でも体験できる。
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11日 旧約・ヨブ記四〇章
 「あなたは自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか」(八)
 と神はヨブに言われた。神よりも自分の義を主張するヨブの態度に、過ちがあったのである。
 もしヨブが正しいなら、ヨブが自分で自分の義を主張する必要は全くなかった。天使たちがそれを証言してくれるからである。また神ご自身が、ヨブの義を知っておられる。
 しかし、ヨブは言葉を並び立てて自分の義を主張した。たしかに彼は義人であったが、神よりも自分の義を多くの言葉で主張するようになったという点において、高慢の過ちをおかしたのである。
 高慢は、義人が陥りやすい過ちである。しかし、それが取り除かれない限り、真の聖徒にはなり得ない。
 ヨブは、苦難と、論争と、神の出現とによって、ついに高慢を打ち砕かれて言った。
 「ああ、私はつまらない者です。あなたに何と口答えできましょう。私はただ手を口に当てるばかりです」(四)。
 私たちは、神の御前では無に等しい。たとえ地上で、ひとかどの者になれたとしても、私たちは神の御前では、つたない僕に過ぎないことを忘れてはならない。
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12日 旧約・ヨブ記四一章
 「レビヤタン」(一)は、ワニと訳されることもあったが、これはワニではない。なぜなら詩篇一〇四・二六によると、レビヤタンは海に住んでいた。ワニは海には住まない。
 創造論に立つ科学者の多くは、「レビヤタン」は、今はすでに絶滅した「海の巨獣」(創世一・二一)の一種と考えている。実際、化石記録によれば、かつての海にはシー・モンスターとも呼ばれるプレシオサウルスなどの巨獣が生きていた。
 プレシオサウルス等の特徴は、本章で述べられたレビヤタンの特徴とよく一致している。
 また創造論者は、前章一五節の「河馬」も、じつは河馬ではなく、恐竜の一種と考えている。パレスチナで一番大きい動物は河馬と考えて、ヨブ記の訳者はこう訳したのだが、四〇・一七には「その尾は杉の木のように垂れ」とある。
 恐竜の尾は太く、まさに杉の木のように垂れている。しかし河馬の尾は、あるかないかわからないくらい小さい。だから、この原語は河馬ではなく、恐竜の一種をさしていると、創造論者は考えている。また、恐竜がノアの大洪水の直後頃まで生きていたことを示す証拠も、見つかっている。
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13日 新約・マタイ一九章
 カルト教団・オウム真理教は、出家信者に対し、彼らの全財産を教団へ寄進するよう求めていた。オウム教団はこうして、その巻き上げたお金を罪悪のために用いていた。
 しかし主イエスは、金持ちの青年に対し、全財産を教団へ寄進することではなく、彼の場合、それを貧しい人に施すようお求めになった(二一)。それは青年に、天に宝を積ませるためであった。
 神がお求めになるのは、お金ではなく、お金を神と人への愛に活用しようとする心である。
 人間の価値は、お金をいかに神と人のために有効活用したか、において大きく現われる。この基準はお金を持たない人には当てはまらないだろうが、お金を多く持てば持つほど、人の価値はこれによって知れる。
 お金を多くつくり出すには、能力がいる。しかし神の御前で問われるのは、その能力よりもお金をいかに有効利用したかである。お金を、自分の欲得のためでなく、愛のためにどれだけ使ったかである(二一)。
 愛の事業に用いるなら、神はあなたに、さらに多くのお金をまかせて下さるであろう。神が関心を持っておられるのは、あなたのお金の使用方法と、使用目的である。
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14日 旧約・ヨブ記四二章
 ヨブは、自分のこうべを垂れ、「まことに私は自分で悟り得ないことを告げました」(三)と懺悔した。
 このとき、ヨブの頭脳に、義人がなぜ苦難に会うのかということに関して、論理的回答が与えられていたわけではない。しかし、彼は神ご自身の前に出た時、自分の無罪であるという誇りと、知識の誇りを捨てることができた。
 たとえ自分が無罪であっても、それは誇るべきことではなく、すべては神の恵みである。この確信に立ったとき、ヨブは満足した。謙遜と服従の思いをもって、神のご摂理に信頼することができたのである。
 この後、神は、ヨブの三人の友が神について真実を語らなかったことについて、三人を叱責された(七)。
 神はヨブの後半生を、前の半生よりも祝福された(一二)。ヨブの健康は回復され、以前の二倍の所有物が与えられた。親戚友人も帰ってきて、新しい息子・娘たちも与えられた。彼は幸福であり、その後なんと一四〇年も生きた(一六)。
 私たちも、ヨブと同じように、やがて天国また来たるべき神の国において、今の地上の苦難を償われたうえ、二倍以上にされた大きな祝福の中に、幸福に住むのである。
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15日 旧約・詩篇一篇
 幸いな人とは、「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ」人である(二)。「その人は何をしても栄える」(三)。
 幸福の基本は、財産でも、地位でも、名誉でもない。主の御教えである。それが人生の方向づけをするからである。また主の御教えに従う人は、上からの祝福を得る。
 私たちは本当に、これがわかっているであろうか。私たちが求めるべきことは、財産を増し加えることか。また人から好かれ、誉められることか。
 いや、私たちが何よりも求めるべきは、御教えに従って祝福をいただくことである。従順には、祝福が伴う。あなたはすでにこれを体験したか。
 神を体験する道は、単に教会に通うことにあるのではない。単に所定のお祈りをすることにあるのでもない。それは神の御教えを実行することにある。そのとき、私たちは神をはっきりと体験できる。
 もし「自分はまだ神の存在をあまり身近に感じたことがない」という人がいるとすれば、それはこれまでに神に従ったことが少なかったからにほかならない。
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16日 新約・第一コリ三章
 「あなたがたは神の神殿(単数)であり、神の御霊があなたがたに宿っていることを知らないのですか」(一六)。
 昔、ソロモンの時代に、目に見える神殿が造られた。それは今はない。
 しかし、今日、生きた神殿が地上に存在する。それはクリスチャンたちである。クリスチャンたちは、全体で一つの神殿を形成している。一人一人は、その神殿の部分である。
 ある人は神殿の柱であり、ある人は壁であり、ある人は庭の踏み石であるが、どれも尊く、なくてはならない。それらはみな、聖なるものである。
 私たちの体は神殿であるから、それを不品行や欲得の巣窟としてはならない。またタバコの煙をはいて、その神殿に煙突をつけるようでは困る。
 酒に酔って、神殿を酒樽にしてはいけないし、華美な化粧を施して、安っぽくしてもいけない。私たちの体には、神の御霊が宿っており、聖なる場所だからである。
 また、体が神殿であるとすれば、私たちはそこから悪い思いを取り除くべきである。私たちの内側が、真に神を礼拝する場となるよう祈ろう。
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17日 旧約・詩篇二篇
 本篇は、「メシヤ詩篇」と呼ばれる預言詩の一つである。
 二節の「主(太文字)と、主に油を注がれた者」とは、ヤハウェ神と、メシヤなるイエスをさす。また、
 「主はわたしに言われた」(七)
 は「ヤハウェはイエスに言われた」との意味である。
 「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ」(七)
 は、ヤハウェ神の御子としてイエスが生まれたことを示す(ヘブ一・五)。「きょう」とは特定の日ではなく、むしろ永遠の「きょう」であり、イエスが永遠において神から生まれ出たことをいう。
 九節の「鉄の杖で彼らを打ち砕き」の表現は、黙示録では再臨のキリストに関して使われている(黙示一二・五)。
 「地をその果て果てまで、あなたの所有として与える」(八)は、最終的に世界がメシヤの支配下に置かれることを予言したものである。
 このように本篇は、御子イエスによってもたらされる支配に関して、「ヤハウェの定め」(七)すなわち神のご計画を述べたものである。本篇の作者は、これを神の霊感によって語った。
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18日 旧約・詩篇三篇
 本篇は、ダビデ王がその子アブシャロムの裏切りを受け、王座を追われ、逃亡生活に入らなければならなかった時に作られた(二サム一五〜一七章)。
 国民はこのとき、ダビデを見て、「彼に神の救いはない」と言ってあざけった(二)。
 もともと、ダビデがこのような惨めな状況に追い込まれたのは、彼自身が犯した罪(バテシェバ事件)が原因であった。この惨めな状況は、ダビデ自身の罪に対する報いなのである。
 ダビデはそれを知っていた。しかし、彼は絶望しなかった。
 ダビデはこの報いを、誠実に、謙虚に受けとめるなら、神はいつかまた自分を「高く上げてくださる」(三)と信じていた。彼は神の救いを信じていたのである。
 ダビデはまた、自分を見てあざけった民に対して、祝福の言葉を送っている。
 「あなたの祝福があなたの民の上にありますように」(八)。
 ある人々は、人からあざけられると、その者たちにいつか復讐し、見返してやろうという思いを持つ。しかし、ダビデはそのようなちっぽけな心の持ち主ではなかった。
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19日 新約・マタイ二〇章
 イエスは、エルサレムに向かう途中、弟子たちに、ご自分がもうすぐ十字架の死を遂げ、三日目によみがえるとお告げになった(一九)。
 しかし、弟子たちはこの意味を理解しなかった。彼らは、そんなことはあり得ない、と思っていたからである。
 弟子たちのこの時の理解は、イエスはエルサレムに行って、きっと力ある多くの奇跡を行ない、イスラエルをローマ帝国の支配下から解放してくださるであろう、というものであった。
 イエスはご自身の御国を、地上のイスラエルにもたらされ、政治的王になられる、と思っていたのである。
 ゼベダイの子たちの母がイエスに願って、子たちをイエスの王座の右と左にすわらせて欲しいと言ったのも(二〇)、こうした背景のもとにある。
 しかしイエスは、ご自分がやがて十字架にかかって、「多くの人のための贖いの代価として自分のいのちを与える」(二八)と宣言された。
 神の国を地上にもたらすためには、十字架と復活を通し、人々の罪の贖いがまずなされなければならなかった。それは、神の国は贖われた者たちの上に築かれるからである。
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20日 旧約・詩篇四篇
 ダビデは神を、「私の義なる神」(一)と呼んでいる。
 これは「「私の義」である神」の意味である。もしダビデの内に義があるとすれば、それは彼自身の義ではなく、神による義である、とダビデは理解していた。
 また、神はダビデの正しさを弁護してくださるゆえに、神ご自身がダビデの義なのである。
 神は私たちに義の衣を着せ、私たちを正しい者として扱ってくださる。本当は罪深い者なのに、信仰のゆえに、義なる者として扱ってくださる。これは何という大きな恵みであろうか。
 だから、ダビデはますます、神に「義のいけにえ」を捧げようと決意する(五)。義のいけにえとは、神の御前になす正しい生き方という、いけにえである。
 主イエスは、私たちを罪と滅びから救うために、ご自分の命を捧げてくださった。私たちはこの主イエスと、父なる神に、何を捧げることができるだろうか。
 私たちが捧げられるものは、何かの金品ではない。神にはそれらは不用である。神に対する最も麗しい捧げ物は、信仰と愛に満ちた生き方なのである。
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21日 旧約・詩篇五篇
 「主よ。まことに、あなたは正しい者を祝福し、大盾で囲むように愛で彼を囲まれます」(一二)。
 「正しい者」とは、どんな人か。罪を犯したことのない人か。そうではない。罪を犯したことのない人などいない。
 すべての人は罪を犯した。この詩篇を語ったダビデでさえ、過去に大きな罪を犯したことがある。
 正しい者とは、罪を犯したとき、真実な悔改めを見せる人である。ダビデはこの真実な悔改めのゆえに、正しい人と言われた。
 正しい者とはまた、神により頼む人である。神の導きなしで、正しい生き方ができる人などいない。
 「あなたの義によって私を導いてください」(八)
 という心を、常に神に向けて持ち続ける人こそ、正しい。神ぬきの正しさなど、存在しない。
 もし、私たちがこれからの半生を神の御前に正しく生きることができたとすれば、それは、私たちの信仰をよみしてくださった神の憐れみである。
 そこには、私たちの誇るべきものは何もない。すべては神の恵みである。神の栄光こそ、われらの喜びである。
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22日 新約・第一コリ四章
 パウロは、コリント教会の人々に対し「あなたがたは・・・・王様になっています」(八)と、皮肉たっぷりに彼らの高慢を指摘している。
 コリント教会の人々は、信仰を持ちながらも、非常に世俗的であった。使徒たちは苦難と迫害の中にも福音宣教に励んでいるのに(一一)、彼らは安楽な生活をしながら、ただ自分たち以外の人々の悪口や、陰口を言っては日を過ごしていたらしい(三)。
 こうした自己満足的な信仰は、今日でもしばしば見られる。自分は何もしないのに、ただ教会内の兄弟姉妹の言動を見ては、いろいろと批判するのである。
 しかしこれでは、独善的な、ただの評論家に過ぎない。キリスト者の生き方は、評論にあるのではなく、愛の実践にある。
 貧民窟に住んで貧民を助けながら伝道した賀川豊彦は、「口先だけのキリスト教の時代は過ぎ去った」と言って、愛を実践した。
 愛の実践がなければ、キリスト教は死んだも同然である。私たちは王様になっていてはいけない。私たちは、しもべにならなければならない。主イエスと同じように、私たちは人に仕えるのである。
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23日 旧約・詩篇六篇
 ご利益宗教などでは、信者が不幸に会うと、信心が足りないとか、修行が足りないとか、お布施が足りないとか言われる。
 しかしクリスチャンは、苦しいことや悲しいことに出会っても、そのようには考えない。これは試練として自分に臨んだものであって、私たちを清め、鍛え、さらに用いられる聖徒となすためなのである。
 試練は、それを乗り越えると、力になる。
 クリスチャンは、試練の中でさえ恵みを感じることができる。それは試練の中でも、その辛さを訴える相手がいるからである。
 ダビデは、試練の中で神に、「あなたの恵みのゆえに私をお救い下さい」(四)と訴えた。自分の辛さを知り、自分をどのように導くのが一番良いかを知り尽くしているかたが、天におられるのである。
 しかも、このかたは必ずや、私たちの涙の祈りを聞き入れてくださる。ダビデは、
 「主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる」(八〜九)
 と言った。涙の祈りは、やがて神が答えて下さるという確信となる。
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24日 旧約・詩篇七篇
 表題には、「ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に歌った」とあるが、クシュという人物については聖書に記録がない。
 しかし、ダビデが王座を追われて避難するときにダビデをのろったあのベニヤミン人シムイのことだろう、と言う人もいる(二サム一六・五〜一一)。ただし、明確なことはわからない。
 いずれにせよ、ダビデはこのとき、「親しい友に悪い仕打ちをした」「敵対する者から、ゆえなく奪った」「不正をした」等、様々な嫌疑をかけられて、人々から非難されていたようである(三〜四)。
 神を知らない者なら、こうした無実の罪を着せられたとき、ただ悲嘆にくれるほかない。
 しかし、ダビデは神を知っている。正しいことについても、罪についても、真実を知っているかたがダビデと共におられる。だから、ダビデは絶望しない。
 「主よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください」(八)。
 たとえ、すべての人が敵となるようなときも、神は私の味方である。そして神は、いつしか正しい者の義を真昼のように明らかにされる。
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25日 新約・マタイ二一章
 主イエスの語られた「ぶどう園」のたとえ話(三三)の中で、「主人」は神、「ぶどう園」はイスラエル、「農夫たち」はイスラエルの指導者たちをさす。
 そして、ぶどう園に遣わされた「しもべたち」とは、旧約の預言者たちであるが、彼らはイスラエルの指導者たちに殺されてしまった。
 その後、主人は自分の息子を遣わしたが、農夫たちはその息子をも「ぶどう園の外に追い出して殺してしまった」(三九)。
 これは、エルサレム城壁の外で、主イエスが十字架にかけられて殺されたことを言っている。また、
 「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった」(四二)
 は、詩篇一一八・二二の預言である。これは、イスラエル指導者から捨てられて殺された主イエスが、神の国の礎の石、すなわち土台となることを述べている。
 イエスは、ご自分の死に方とその意味とについて、あらかじめ様々な言葉で語られた。イエスの十字架の死は、偶然でも、単なる殉教の死でもなかったのである。
 イエスは神の予知と計画に基づき、神の国を来たらせるために、十字架の贖いの死を遂げられた。
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26日 旧約・詩篇八篇
 私たちは悠遠な星々を見上げるとき、「人の子とは何者なのでしょう」(四)と思う。
 広大無辺の宇宙に比べれば、人間など、本当にちっぽけな存在である。そのちっぽけな人間が、この宇宙の中で一体どんな価値を持つのか。
 また、人間の生きるのは、せいぜい七〇〜八〇年前後。永遠の尺度から見れば、ごくわずかな期間に過ぎない。
 偉大な永遠の神が、こんなちっぽけな人間を愛し、顧みてくださっているとは、いったいどういうことなのだろうか。
 その秘密は、神が人をご自身のかたちに造られた、という事実にある(創世一・二七)。
 人は、物理的には微小な存在にすぎない。が、それはちょうど砂浜に輝く一粒のダイヤモンドのように、神の御目には尊い存在である。
 また人間は、神にとっては子どものように大切な存在である。子どもは親のもとで育ってこそ、幸福な生き方ができる。私たちも、親であり創造者である神のもとにあって、初めて幸福な生き方ができる。
 宇宙の目的も、生命の目的も、人生の目的も、神を知ることによってわかってくるのである。
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27日 旧約・詩篇九篇
 「御名を知る者はあなたに拠り頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てになりませんでした」(一〇)。
 世の人々はしばしば、「神にすがるなんて弱い人間のすることだ」と言う。しかし、私たちが神にすがり、拠り頼むのは、私たちが他の人々よりも弱いからではない。
 むしろ、神の強さを知っているからである。また神が創造者であり、私たちの偉大な父だからである。子どもは、人生の重要な選択をすべきときに、父に相談し、アドバイスをもらおうとするのは当然である。
 さらに、父からの援助も、もし必要なら受けて決して悪いことではない。私たちは、子どもが父により頼むように、王国の民が王により頼むように、神により頼む。
 神により頼むことは、決して弱いことでも、女々しいことでもない。むしろ神により頼まないことこそ、傲慢である。
 人間は、神と共に生きてこそ、真の幸福を得られるように造られている。神により頼むなら、神は惜しみなく、その偉大な力を働かせてくださるであろう。そして私たちの人生を輝かせ、幸福に満ちたものとされる。
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28日 新約・第一コリ五章
 もし私たちの内に、未信者時代の古い罪が今も生きているなら、それは「古いパン種」(七)である。私たちはそれを取り除かなければならない。
 「ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませる」のである。罪は、たとえ小さくても、私たちの人生全体に大きな影響を及ぼす。
 魚を釣り上げるには、小さな釣り針をその口にひっかけるだけでよい。牛を動かすには、その鼻の穴に鼻輪をかけて引くだけでよい。
 サタンは、私たちの小さな罪を釣り針や鼻輪にして、私たちを自在に操ってしまう。罪がある限り、私たちは本当には自由になれないのである。
 真の自由は、心のきよさにある。たとえ、今日今晩、突然心臓が止まって天に召されたとしても、恐れなく神の御前に立てる――それがきよさである。
 また、今の生活がことごとく天のスクリーンに映し出され、すべての隣人がそれを見ることになるとしても、自分は何も恥じることがないという生活――それがきよさである。
 自分の内に古いパン種がないか、よく調べよう。
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