聖書一日一章

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1日 旧約・詩篇一〇篇
 本篇は元来、前の詩篇九篇と一つの詩であった(一つのアレフベート歌――いろは歌になっている)。
 この詩篇は、悪人の栄えを嘆いたものである。平和な国・現代の日本に暮らしていると、この詩篇はピンとこないかも知れない。
 しかし、ダビデの当時、彼の周囲には、様々な暴虐が見られた。悪人は「神はいない」「神は私を見ていない」と言って、人殺しをし、財産を奪い、悪意に満ちた言葉を吐いていた。
 こうした状況が周囲に数多く見られるとき、神と真理を愛する者は、どうして嘆かずにいられるだろう。
 ダビデは、神のすみやかな裁きと、神による弱者の救済に期待した。彼は、しいたげられた人々が救われるよう、神に祈った(一八)。
 やがて悪人が、日本においても、今までになく栄える時代がやって来るであろう。終末の時代には悪人が増える、と聖書は予言しているからである(二テモ三・一〜五)。
 そのような時が来ても、キリスト者は悪人に組みせず、神にあって、しいたげられた人々の救済に立ち上がる者たちであってほしい。
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2日 旧約・詩篇一一篇
 ダビデは、どこまでも神の正義を信じている。
 「主のみこころは、暴虐を好む者を憎む」(五)。
 神は正義である。ところが、世の人はしばしば言う――「神が存在するというなら、なぜ世の中に悪があるのか。もし神が存在するなら、その神は悪を放置する神であり、正義でも愛でもない」。
 しかし、神が正義であり愛のおかたであるという信仰は、キリスト教において最も大切なものである。
 神は決して、悪を放置しておられるのではない。神はすべての人が悔改めに進むのを望んでおられるのであって、悔改めのための機会と、福音宣教のための時間を私たちに与えてくださっているのである。
 神がもう悪を許さない、という時がいずれ来る。その時には悪人はたちまち滅ぼされ、一方で神の義に生きる者は救われて高く上げられる。
 しかし、生まれつきの悪人がいるわけではないし、生まれつきの義人がいるわけでもない。人はほんのわずかの心の動きで、悪にも傾き、善にも傾く。
 私たちの使命は、福音宣教によって、すべての人の心を神の真理と善に傾かせ、救いに導くことにある。
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3日 新約・マタイ二二章
 
ユダヤでは、兄弟が子のないまま死んだとき、他の兄弟がその妻をめとって、家系を絶やさないようにすることが義務づけられていた(申命二五・五)。二四節のサドカイ派の質問は、これに基づいたものである。
 サドカイ派は、神の存在を信じていたが、霊の存在は信ぜず、死後の世界も、終末の復活も、未来における応報も、天使の存在も信じなかった(使徒二三・八)。自分たちを「進歩的な人間」と考えていた彼らは、現代の合理主義者たちと、ある面で通じるところがある。
 サドカイ派の人々は、復活がないことを主張しようとして、七人の夫の妻となった女性のことを話した。それに対する主イエスのお答えは、
 「復活の時には、人はめとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです」(三〇)
 であった。これは、復活した聖徒たちには、もはやこの世の結婚状態はなくなり、男も女もなく、御使いたちのようになる、ということである。男性でも女性でもない、人間における性別自体がなくなるのである。
 それは、来たるべき世では花嫁なる教会と花婿なるキリストが、完全な結婚状態に入るからである。
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4日 旧約・詩篇一二篇
 
言葉は、目に見えない。しかしそれは、話す人間の人格を見せてくれる。
 「うそ」「へつらい」「二心」「傲慢」(二〜三)の言葉は、人間の内なる悪からわき出る。それは、他の人々との健全な人間関係を破壊するばかりか、話す本人の人格を地に落とす。
 人を最も汚すものは、その人の内から出るそうした言葉や、行動である。人の内側から出てくるものが、人を汚す。
 私たちは、不真実な言葉を百万語話すより、たとえ一語でも真実な言葉を話す人になりたい。流れるように美しく話すことができず、たとえ、どもるようであっても、真理と愛の言葉だけを語りたい。
 私たちは、考えもなく、あれこれとただ気ままに話すおしゃべりにはなりたくない。むしろ「この言葉は主の福音と人々への愛をあらわすものだろうか」ということを常に考えながら、言葉を選びたい。
 言葉は、目には見えないが、ある場合は偉大な働きをし、ある場合はこの上ない悪を犯す。その違いは、言葉のもとである心から生まれる。
 真実な言葉の人になろう。
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5日 旧約・詩篇一三篇
 
ダビデは、患難辛苦をなめた人であり、人生の辛さや、悲しみをよく知っていた。
 ダビデの詩篇の多くは、そうした悲しみの中で生まれた。この詩篇も、悲しみの中で彼がどのように祈ったかを示している。ダビデは苦難の中にある時、神に対して自分の嘆きを隠さなかった。
 「いつまで御顔を私からお隠しになるのですか」(一)。
 これは彼が神を恨んでいるのではなく、神への信仰を捨てているわけでもない。人は悲しみの中にあるとき、嘆いてよい。しかし他の人に対して嘆くのではなく、むしろ神の御前に嘆くがよい。嘆きを、神に対してぶつけるところに、神への信頼がある。
 ダビデは、神の御前に涙をもって祈るが、その祈りは希望と感謝と讃美で終わっている。「私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあなたの救いを喜びます」(五)。
 現実には、ダビデはまだ苦難から脱出できたわけではない。しかし、祈った彼の心は、すでに祈りが聞かれたとの確信を得ている。
 神の御前に嘆きを注ぎ出すなら、それは、やがて神の救いのみわざを見るという確信に変わるのである。
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6日 新約・第一コリ六章
 
コリント教会では、クリスチャンがクリスチャンを告訴し、それをノン・クリスチャンの裁判官に依頼する、というようなことが行なわれていたらしい(六)。
 現代のある教会でのこと、牧師と役員との間に、意見の対立があった。ある日、牧師は礼拝説教の中で、名前は出さなかったものの、二人の役員を非難する話をした。
 聞いた人々はすぐさま、誰のことを言っているのかわかった。礼拝後、幾人かの信徒がその役員のところに来て、同情を示した。
 また以来、その教会の雰囲気が変わってしまった。数人が他教会へ転会していった。ほかの者たちも、教会へ行く足が重くなった。
 こうした話は、私たちの心を痛めてやまない。コリント教会だけでなく、現代の教会にも、しばしばこうしたことがあるのは残念である。
 しかし、「そもそも互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北」(七)である。
 人間関係は、決して簡単ではない。私たちは、謙遜と知恵に裏づけられた愛を持つ必要がある。
 真の愛を学ぶには、長い時間と訓練が必要である。私たちはそれを、一生涯かけて学ぶ。
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7日 旧約・詩篇一四篇
 「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている」(一)。
 人の心は、悪いものに傾くと、「神はいない」と言い始める。また反対に、無神論を教え込まれて「神はいない」と思うようになれば、人の心は悪いものに傾きやすくなる。
 無神論からは決して良いものは生まれない。その顕著な例が、二〇世紀に存在した。
 マルクスやエンゲルス、レーニンらは、ダーウィンの進化論をも利用して、無神論と唯物論を発展させた。そこから共産主義が生まれ、共産革命が起こった。
 その結果は、何百万人もの反対者の粛正、および、皆が貧乏と恐怖政治の中に置かれること、また侵略や経済の破綻であった。
 無神論思想はまた、哲学者ニーチェに引き継がれた。彼は神なき世界における「超人」思想を説いた。その「超人」に自分がなろうとしたのが、ナチス・ドイツのヒトラーであった。
 ヒトラーは世界を荒しまわり、数えきれないほど多くの人を殺した。無神論は結局、人間に破滅的な結果をもたらす。これは単に歴史においてだけでなく、個人の人生においてもそうである。
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8日 旧約・詩篇一五篇
 日本では昔から、正しく生きることよりも、人々との和が重んじられた。しかしイスラエルでは、和よりも、神の御前に正しく生きることが重んじられた。
 「道徳」という言葉は、今日の日本では、死語になりつつあるように思える。とくに青少年の間では、そうではないだろうか。
 ダビデは、道徳的に正しく生きることの価値を熱心に説く。私たちにも彼のような情熱があるだろうか。
 道徳的に生きることは、何か気取ることでも意地をはることでもない。本当に道徳的に生きている人は、謙遜・柔和で、温かみがあり、愛情に満ちている。
 真の道徳は信仰から来る。また愛から来る。誰が、主の聖なる山シオンに住むのだろうか。それは「正しく歩み、義を行ない、心の中の真実を語る人」(二)である。
 「その人は舌をもってそしらず、友人に悪を行なわず、隣人への非難を口にしない」(三)。
 信仰と愛によって、私たちは真の道徳を身につけたい。それは私たちの身を通して、キリストと父なる神があがめられるためである(マタ五・一六)。
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9日 新約・マタイ二三章
 イエスは、律法学者やパリサイ人らを非難された。なぜ彼らを非難されたのか。
 彼らがあまりに律法通りの生き方をしたからだろうか。そうではない。むしろ、彼らが律法通りに生きなかったからである。
 「あなたがたは・・・・一〇分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、他のほうもおろそかにしてはいけません」(二三)。
 律法は、正義とあわれみと誠実を教える。イエスは律法学者とパリサイ人たちに、この律法を厳密に守れ、と言われた。
 ある人々は誤解して、イエスは「律法主義」を非難されたと思っている。しかしイエスが非難されたのは、律法ではなく、また律法を守ろうとする情熱でもなく、むしろ律法を守らないことであった。
 私たちは、旧約聖書の律法がいかに正義とあわれみと誠実を教えるものであるかを、思い起こさなければならない。神の律法は良いものであり、麗しいものである。私たちは、律法の教える正義と、あわれみと、誠実を常に心がけよう。
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10日 旧約・詩篇一六篇
 本篇は、キリストに関する預言として、新約聖書・使徒二・二五〜二八に引用されている。とくに一〇節の「まことに、あなたは私の魂をよみに捨ておかず・・・・」は、キリストの復活に関する預言とされている。
 しかし、ダビデ自身が神に捧げた信頼と讃美に見えるこの詩篇が、なぜキリスト預言とされるのか。
 それを知る鍵は、ダビデは単に王だったのではなく「預言者」でもあった(使徒二・三〇)、という事実にある。さらに、ダビデはイエスの予型的人物でもあった。
 そのため、ダビデはイエスの心情を語る詩篇を、神の霊感を受けて預言して語った。「預言」とは単に未来のことを語ることではなく、神の霊感による言葉を語ることをいう。
 「私の魂をよみに捨ておかず・・・・」も、ダビデ自身のことを語ったというより、むしろダビデが神の霊感を受けてイエスのことを預言して言ったのである。
 一〇節だけではない。この詩篇全体がイエスのことを述べている。詩篇二篇、二二篇等も同様である。ダビデは「預言詩」というかたちをとって、主イエスの出来事やイエスの抱く心情等を預言する、預言者だった。
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11日 旧約・詩篇一七篇
 じつに美しい詩篇である。ダビデの敬虔さは、世の何よりも神ご自身を求めることにあった。
 「神よ。私はあなたを呼び求めました。あなたは私に答えてくださるからです」(六)。
 ダビデは、神から来るものが何であれ、祝福であれ、懲らしめであれ、何であれ、すべてを余すところなく受けたいと願っている。私たちはどうであろうか。
 私たちはときに、単に神から与えられる恵みや幸福だけを求めやすい。しかし、本当に求めるべきは、恵みや幸福以上に、神ご自身である。
 たとえば、ふたりの子どもが父の帰宅を待っていた。父が帰って、おみやげを子らに渡す。子らは喜ぶ。しかし別の日、父は帰ったとき、おみやげを持っていない。そのとき一方の子はすぐどこかへ行ってしまったが、もう一方の子は、父の帰宅を喜び、そのもとに来て、はしゃいでいた。
 この子は、おみやげよりも父の存在自体を喜んでいるのである。私たちも、恵みや祝福以上に神ご自身を慕い、喜ぶ。
 「私は、正しい訴えで御顔を仰ぎ見、目覚めるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう」(一五)。
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12日 新約・第一コリ七章
 聖書は決して、独身を讃美していない。
 実際、使徒ペテロには妻がいた。主イエスはペテロのしゅうとめの熱病をいやされたことがある(マタ八・一四)。またペテロをはじめ多くの使徒は、イエスの昇天後、妻を同伴して伝道した(一コリ九・五)。
 これに対し、使徒パウロは独身を貫いた。彼は信者にも、「私の願うところは、すべての人が私のようであることです」(七)と言っている。これは何故だろうか。
 二六節に「現在の危急のときには」とあり、二九節には「時は縮まっています」とある。パウロがこれを語ったとき、初代教会には今までになく激しい迫害が迫っていた。
 パウロは、自分に対しても激しい迫害の手が伸び、自分は牢獄につながれ、最後は死刑になることも知っていた。そのような彼にとって、結婚はメリットよりは、ディメリットになるであろう。
 それでパウロは独身を貫いた。そして信者にも、結婚についてはよく考えるよう勧めたのである。したがって私たちは本章を、当時の緊迫した社会状況をよく理解したうえで読まなければならない。
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13日 旧約・詩篇一八篇
 本篇は、ダビデがサウルの手から救われたときに、神に向かって歌ったものである。ダビデは言った。
 「主は、私の義にしたがって、また御目の前の私の手のきよさにしたがって、私に償いをされた」(二四)。
 私たちの人生には、ときに試練が来る。しかし、試練の中で私たちが神の御前に誠実を保つなら、神はやがて私たちの「手のきよさにしたがって」「償いをされる」。
 神は、償いをされるかたである。かつて、神はヨブに及んだ試練を償って、ヨブに二倍の祝福を与えられた。ダビデも、サウルに追われるという試練をその後償われ、高く上げられて、祝福の人生に入った。
 私たちも、試練に会うことがあれば、常にこのことを思い起こしたい。もし、試練の中でも神を見失うことなく、信仰と誠実を尽くすなら、神はあり余る富をもって、やがてその試練を償い、あふれる祝福として下さる。
 ここにこそ、私たちの信仰がある。試練は決して、無駄に与えられるわけではなく、じつは人生最高の学問の場であることを思い起こそう。
 神の祝福は、試練に勝利した褒章として与えられる。神を待ち望もう。
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14日 旧約・詩篇一九篇
 ダビデは、前の詩篇一八篇の二一節で、「私は主の道を守り、私の神に対して悪を行なわなかった」と言った。これは彼の正直な自覚であった。しかしこの詩篇では、
 「だれが自分の数々のあやまちを悟ることができましょう。どうか、隠れている私の罪をお赦しください。あなたのしもべを傲慢の罪から守ってください」(一二〜一三)
 とも祈っている。ダビデは、自分では罪を犯していないと自覚していたものの、それでも自分の内側に罪が全くないとは思わなかった。「隠れている罪」――自覚していない罪というものがある、と認識したのである。
 神の御前に完全な人は、主イエスを除いてほかに誰もいない。「どうか隠れている私の罪をお赦しください」という祈りを、私たちも忘れることはできない。
 私たちは思いのほか、自分で認識している以上に、罪深い存在である。罪を罪と思っていないところに、私たちの罪深さがある。
 だからこそ、私たちには贖い主が必要とされる。私たちもダビデと共に、神に向かって祈らずにはいられない――「わが岩、わが贖い主、主よ」。
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15日 新約・マタイ二四章
 
二〇世紀になって、世界各地に「私はキリストだ」「再臨のキリストだ」と自称する者たちが多く現われるようになった。
 しかし、キリストの再臨は、人から教えてもらわなければ分からないような性質のものではない。「私はキリストだ」などと、本人に言ってもらう必要は全くない。
 「そら、あそこにいらっしゃる」「ここにいらっしゃる」などと周囲の者から教えてもらう必要もない(二六)。キリストの再臨は、誰にでも即座にわかるかたちで起こるのである。
 それは、いなずまのようである。いなずまは、雲から大地に向けて、下方向に落ちるものという印象があるかも知れないが、科学者によれば、じつは雲から雲に向け、横方向にひらめき渡るものも少なくない。まさに「東から出て、西にひらめく」というように、大空全体をかけめぐるものもあるのである(二七)。
 キリストの再臨は、いなずまがひらめき渡るように、誰にでもわかるかたちで起こる。それはきわめて峻厳、かつ壮大な光景である。
 私たちはその時を待ち望む。それはその時、世界の悪に終止符が打たれ、神の国が到来するからである。
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16日 旧約・詩篇二〇篇
 「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう」(七)。
 世の人々は、しばしば持ち物を誇る。いかに立派な物を持っているか、持ち物がいかに立派であるかを示して、自分がいかに立派な人間かを示そうとする。
 しかしこのようなことは、じつにつまらないことである。人の立派さは、持ち物にあるのではない。本当に偉大な人間は、持ち物を誇ったりしない。
 人の立派さは、神がその人と共におられることにある。神が共におられるとき、アブラハムは富み、ヤコブは救いを得た。モーセは大事業を成し遂げ、ヨシュアは勝利を得た。ダビデは国を確立し、ソロモンはそれを繁栄させた。
 私たちの誇るべきは、神である。創造主なるヤハウェの御名、そしてその御子イエスの御名である。
 私たちは、自分の誇るものに近い存在になっていく。持ち物を誇るなら、その人は持ち物と同じ様な価値と性質を持つ人間になって行く。しかし神を誇るなら、私たちは神のみもとに高く上げられ、人間としての最高最大の幸福に至るのである。
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17日 旧約・詩篇二一篇
 
ダビデは王であったが、民から見れば王であっても、神から見れば僕に過ぎないことをよく理解していた。
 ダビデの生涯には、しばしば失敗や過失、罪があったが、それでも全体的に見れば神への敬虔さに満ちていた。
 「あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう」で始まるこの詩篇には、ダビデの敬虔さがよくあらわれている。神が彼を愛されたのも当然に思える。
 ダビデは罪を犯したとき、サウルのような中途半端な悔改めでなく、真実な悔改めを示した。また、ソロモンのように後半生において堕落することなく、年老いてもますます神を愛してやまなかった。
 サウルもソロモンもダビデも、王となった当初は、みな同じく豊かな祝福を神から受けた。しかしサウルとソロモンは堕落し、一方ダビデは一時堕落しかけたものの、立ち直って聖徒となった。
 私たちの生涯もそのようでありたい。私たちの中で、罪を犯さなかった者がはたしているだろうか。しかし、罪を犯してもなお悔い改めたために神に愛されたダビデの姿は、私たちにとって大きな希望である。
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18日 新約・第一コリ八章
 「知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。人がもし、何かを知っていると思ったら、その人はまだ知らなければならないほどのことも知ってはいないのです」(一〜二)。
 知識は良いものである。ときには、知識は非常に大きな力になる。
 しかし、知識はしばしば人を高ぶらせる。とくに、実質よりも「神学博士」などの肩書きにこだわるようになった伝道者は、あぶないと言わなければならない。
 パウロもペテロもヨハネも、神学博士ではなかった。何の肩書きもない。しかし、彼らは世界をひっくり返した。
 本当の知識を身につけるなら、肩書きなど必要ではない。人々はあなたに、ついて来るであろう。また本当の知識人というものは、決して高ぶらない。
 ギリシャの哲人ソクラテスは、偉大な知識人だったが、自分が無知であることを知ることが知識であると言っていた。使徒パウロも、偉大な知識人だったが、それによって高ぶることはなかった。
 本当の知識人はまた、行動の人である。賀川豊彦は、古今東西の哲学や思想に驚くほど通じていたが、実践的な愛の人だった。
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19日 旧約・詩篇二二篇
 本篇は、キリストの十字架に関する預言詩として、最も重要な詩篇である。
 キリストの十字架において、この詩篇がそのまま成就した。七〜八節の「私を見る者はみな私をあざけります」は、マルコ一五・二九〜三二で成就した。また一八節の「私の着物を・・・・くじ引きにします」は、ヨハネ一九・二四で成就した。
 さらに、キリストが十字架上で発せられた七つの言葉のうち、第四、第五、第六番目の言葉は、みな本詩篇中の言葉である。
 十字架上の第四の言葉「わが神、わが神、どうして・・・・」は、本詩篇冒頭の句そのままである。第五の「わたしはかわく」は、一五節の言葉である。
 また第六の「完了した」は、本詩篇最後の「主のなされた義」の「なされた」に関連して言われた。
 詩篇二二篇は、ダビデが霊感を受けて十字架上のイエスの心情を語った預言詩なのである。主イエスはあのとき、心の中で詩篇二二篇を暗唱しておられたに違いない。
 注目すべきことに、本詩篇は二一節以降、感謝と讃美に変わる。本詩篇は、主の偉大な救いを讃美する歌なのである。
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20日 旧約・詩篇二三篇
 
以前、「エレファント・マン」という映画があった。これはイギリスで本当にあった話をもとに作られたもので、あまりに醜い奇形児に生まれた男の話である。
 背が低く、象の顔に似ていた彼は、「エレファント・マン」と呼ばれていた。その生涯は短かったが、じつに美しい心を持っていた彼は、周囲の者に忘れられない印象を残した。彼はいつも、詩篇二三篇を暗唱していた。
 「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。・・・・」(一)
 彼の人生には、健常者がふつうなら味わうことのできる幸福や、この世の快楽はほとんどなかった。むしろ、人々から怪物扱いされ、さげすまれていた。
 しかし、彼を支えたもの、それは「主は私の羊飼い」ということだった。
 私たちは、「主が私を愛して下さっている」ということを思うとき、それだけで、満ち足りた幸福を感じることができる。
 世が与える幸福には、限界があり、最終的には空しさを伴う。しかし神が与えて下さる幸福は、空しさを伴わない。それは私たちの生命に潤いと躍動を与え、永遠に至るのである。
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21日 新約・マタイ二五章
 しもべたちには、事業の元手として、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラント与えられた。
 これは、ある人には不公平に思えるかも知れない。しかし、タラントは「能力に応じて」(一五)与えられた、と記されている。
 お金の管理運用能力が違うのに、もし、まかせられるお金が同じなら、それはかえって悪平等である。だから、能力に応じてタラントに違いがあるのは、当然であろう。
 五タラント、あるいは二タラントまかせられた人は、それを元手に事業をして、さらに大きなお金をつくった。彼らは生産的であった。
 私たちの人生は、生産的であろうか。単にお金について言っているのではない。私たちは、今生きていることによって、何かを生み出す生活をしているだろうか。
 神は、私たちの人生のために、すでに元手を下さっている。私たちはそれを管理運用して、生産的な人生を歩みたいものである。
 それを死蔵していてはいけない。私たちは、福音宣教において、日常の愛の行ないにおいて、また善の行ないにおいて、常に生産的でありたい。
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22日 旧約・詩篇二四篇
 あるクリスチャン青年が、日曜学校の生徒と共に船に乗り、瀬戸内海を遊覧していた。周囲には美しい島々と大海原、そして紺碧の青空が広がっていた。青年は子どもたちに、
 「ねえ、みんな。この海も島も、すべて僕のお父さんのものなんだよ」
 と言った。みんな目を丸くして、「えっ、ホントー?」「ウッソー」と口々に言う。そこで彼は、
 「いや、ほんとだよ。この素晴らしい大自然は、天におられる私たちの父なる神様のものなんだ。僕や君たちのお父様のものなんだよ」
 と言うと、みなとても感慨深そうに喜ぶのであった。
 「地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである」(一)。
 私たちが住むこの大自然は、私たちのお父様のものである。クリスチャンはそれを知っているから、日本のどこへ行っても、また外国へ行っても、たとえ月へ行っても、あわてる必要がない。
 そこもみな、私たちのお父様のものである。神が私のお父様だ、と知る経験は、じつに巨大な経験である。それは人生観を大きく変えてしまう力を持っている。
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23日 旧約・詩篇二五篇
 
ダビデは、「あなたの恵みによって」(七)、また「御名のために」(一一)私の罪をお赦し下さいと、神に祈っている。
 赦しの根拠は人の側にはなく、ただ神の一方的な愛と義による。だからダビデは、神の御名のために、つまり神ご自身のために、私の罪をお赦し下さいと祈っている。
 この詩篇に現われているように、ダビデはつねに、心底から神にたよって、罪の赦しを求めた人であった。彼はこの心を生涯持ち続けた。
 「主よ。私のたましいは、あなたを仰いでいます」(一)。
 ダビデは、生涯のある時点において一度悔改めの行為をしたというだけでない。彼は以後ずっと、死ぬまで、神を仰いで生きるという生活を続けた。
悔改めが真実なものであるか否かは、その後の生活が証明する。私たちは、この詩篇にあらわれたダビデの心情に、彼の悔改めの真実さをうかがい知ることができる。
 あなたがクリスチャンなら、あなたには悔改めの経験があるはずである。あなたは今も、ダビデのように神を仰いで生きる生活を続けているであろうか。
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24日 新約・第一コリ九章
 
伝道者の生活費に関して、パウロ以外の使徒たちは、教会の献金で生活していた。働く者が報酬を得るのは当然であり、主イエスもそう定められたからである(九〜一四)。
パウロも、伝道者として、教会の献金で生活する権利があった。しかし、彼やバルナバは、その権利を用いず、アルバイトをして生活費をかせいだ(六、一五)。パウロは天幕造りをしばしばしていたのである(使徒一八・三)。
 現代においても、伝道者の中には教会の献金で生活している者もいれば、一方ではこの世の職業をして生活費を得ている人々もいる。
 ある教団では、伝道者がアルバイトをすることは、「必要を満たして下さる主への信仰がない証拠だ」と見られる。しかしある伝道者は、この世の仕事も持って伝道する伝道者がいていいはずだ、と考えてこの世の副業を持つ。
 しかし、どちらも信仰によるしっかりとした考えに立って行なうなら、それで良い。互いに批判すべき筋合いのものでもない。
 大切なのは、自分の場合はどちらのほうがより有効に主に仕えられるかを、よく考えて決めることであろう。
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25日 旧約・詩篇二六篇
 
「私は、数々の集まりの中で、主をほめたたえましょう」(一二)。
 ダビデは、つねに主をほめたたえ、讃美する人だった。彼は、多くの辛い出来事を経験したにもかかわらず、その中でつぶやくことなく、主を讃美した。
 彼が人生において勝利を得たのは、そこに理由がある。つぶやく人は勝利を得ない。つぶやく人は、出エジプト後に荒野でつぶやいて死んだイスラエル人のように、主の祝福をいただくことができない。
 たしかに、ダビデは辛いことにあったとき、主の前に悲しみ、嘆いた。しかし、彼は決してつぶやかなかった。彼は、
 「エジプトに仕えるほうが、この荒野で死ぬよりも良かった」(出エ一四・一二)
 とは言わなかった。過去に未練を持たず、常に主にあって前進したのである。どんなに辛い時も、
 「主よ。私はあなたのおられる家と、あなたの栄光の住まう所を愛します」(八)
 と言い、信仰によって進んだ。
 神の祝福は、讃美の中に宿る。私たちは主を讃美しているだろうか。感謝しているだろうか。われらの神は、われらの讃美の中に住まわれる。
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26日 旧約・詩篇二七篇
 「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを」(四)。
 自分の生涯に関して、人は様々な願いを持つ。ある人は、大金持ちになって、好きなことをして暮らしたいと願う。ある人は、ひとかどの者になり、名を上げて、有名になりたいと願う。
 しかし、社会に出て、社会のコマの一つとして働き始めると、人はやがて人生の空しさ、やるせなさを感じ始める。多少のお金をつくり、地位を得ても、自分には何か足りない、ということがわかってくる。
 そして、人の心の空洞を埋めるものは、お金や地位や名誉などだけでは駄目なことがわかってくる。それらは一時的には人に満足を与えても、いずれ空虚に思えてくるのである。
 人の心の空洞を本当に満たしてくれるものは、創造者なる神の存在のほかにない。ダビデは早くからそれに気づいていた。そして彼は、生涯をかけて、ただ一つのことを願った。
 それは、いのちの日の限り主の家に住むことであった。彼は主を心から愛した。主と共に住むことを願ってやまなかったのである。
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27日 新約・マタイ二六章
 ある人々は、「もしユダの裏切りがなければイエスの十字架がなかったのなら、ユダは滅びるために生まれてきたのか」と非難する。
 しかし、イエスの十字架のために、ユダの裏切りは必ずしも「必要」ではなかった。たとえ裏切りがなくても、遅かれ早かれイエスは捕らえられた。というのはユダヤ人の指導者はすでにイエスを捕らえる計画を立てていたし(四)、イエスはどこにも逃げ隠れされなかったからである。
 これは、ユダの裏切りが神のご意志ではなかったことを、示している。神は不必要なものを意志されるかたではない。ユダの裏切りは、人間の意志であった。彼の意志を神は予知しておられたから、旧約の預言の中にそれを記されたが、初めに人間の意志があり、つぎに神の予知があった。
 ユダにはまた、裏切り後も救われるチャンスがあった。もしユダが悔い改めてイエスのもとへ来れば、ユダは救われたであろう。
 しかし、ユダは絶望しただけで、イエスのもとへ来なかった。私たちは絶望するのではなく、神の救いに信頼し、悔改めと信仰によって永遠の命に入って、「生まれてきてよかった」という人生を歩みたい。
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28日 旧約・詩篇二八篇
 「どうか彼らの羊飼いとなって、いつまでも、彼らを携えて行ってください」(九)。
 ダビデは王であったが、イスラエルを本当に支配するのは自分ではなく、神ご自身であることを、よく理解していた。羊飼いは神ご自身である。
 今日も、王国はたくさんある。日本も、天皇を象徴的な意味とはいえ元首としていることで、ある意味では王国である。
 しかし、そうした王国においては、天地創造の神が本当の王であり、大王であるという意識がない。一方、ダビデの時代のイスラエルにおいては、神が本当の王であり大王であるという、明確な認識が存在した。
 古代イスラエルは、神政政治の国家だった。今日、神政政治の国家は存在しない。民主主義が、もてはやされている。
 しかし民主主義は、過渡的には良い形態であっても、最終的理想の形態ではない。聖書は、最終的理想の国家形態として、神ご自身の神政政治が行なわれる時を予言している。
 すなわち、来たるべき新天新地において、「神は彼らと共に住み、彼らはその民となる」(黙示二一・三)のである。
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29日 旧約・詩篇二九篇
 「主はとこしえに王」(一〇)であられる。だから、
 「御名の栄光を主に帰せよ」(二)。 私たちは、栄光を常に主にお返ししなければならない。イエスは、
 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタ五・一六)
 と言われた。私たちは、良い行ないをすることができたとき、その栄光を自分が取ってはいけない。それは神の栄光であるから、神にお返ししなければならない。栄光を主に帰するのである。
 神の望んでおられることは、あなたが人生で成功をおさめ、幸福になり、良い行ないを積み、栄光を現わすことである。
 私たちは、その栄光を主に帰する。神はそうしたあなたを喜ばれる。それはまた私たちの喜びである。
 神の栄光を見ることは、なんと素晴らしいことであろうか。それは私たち人間にとって、最高の喜びであり、感激である。
 本当の幸福は、豊かな資産に囲まれることにあるのではない。それは神の栄光の中に住むことにある。
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30日 新約・第一コリ一〇章
 
「あなたがたの会った試練は、みな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に合わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます」(一三)。
 大きな試練にあう人もいれば、小さな試練にあう人もいる。これは神の不公平だろうか。
 そうではない。神は期待の大きい人には、その期待の大きさに応じて、大きな試練を与えられる。あの「タラントのたとえ話」でも、しもべたちの「能力に応じて」、ある者にはタラントが多く、ある者には少なく与えられた。試練も同様である。
 試練の大きさは、神の期待の大きさを示している。ヨブは大きな試練を受けたが、それは彼をさらに偉大な聖徒とするためだった。
 私たちは先の聖句が、神が試練の中でも「脱出の道」を備えて下さっている、と述べていることに注意したい。
 試練は、ただ堪え忍ぶために与えられているのではなく、私たちが神により頼むことによって早く「脱出の道」を見いだすことを学ぶために、与えられている。
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31日 旧約・詩篇三〇篇
 「私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します」(一二)。
 力強いクリスチャン生涯の秘訣は、神への讃美と感謝にある。
 ある人が、いつもつぶやく生活を送っていた。彼は給料の少ないことをつぶやき、妻の態度が悪いのをつぶやき、楽しいことがないことをつぶやいていた。
 しかし、彼はある日教会で、主に讃美と感謝を捧げることの祝福について聞いた。彼は感激し、日常のどんな小さなことでも、神に感謝し讃美しようと思い立った。
 彼は朝起きると、自分に健康が与えられていることを感謝した。庭に出ると、美しい自然を創造された神を讃美した。
 食事のときは、日ごとの糧を与えて下さっていること、また味を楽しむことのできる喜びを感謝した。会社へ行くと、仕事を与えられている幸いを感謝した。
 やがて、感謝しながら生きている彼に、変化が起きた。仕事に対する態度を見た上司は、彼を昇進させ、もっとやりがいのある地位につかせてくれた。給料も上がった。
 家庭内でも、妻や子どもたちの彼を見る目が、尊敬と深い愛情に満ちたものになった。
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