聖書一日一章

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1日 旧約・詩篇三一篇
 
イエスは十字架上で、七つの言葉を発せられた。その第七番目の言葉が、本詩篇の五節、
 「私のたましい(霊)を御手にゆだねます」
 であった(ルカ二三・四六)。またこの節の後半は、「真実の神、主よ。あなたは私を贖い出して下さいました」と続いている。
 まことに、永遠の贖いを私たちのために成し遂げて下さった十字架上のイエスの最後の言葉として、これ以上にふさわしい言葉はない。
 本詩篇は、詩篇二二篇と同様、十字架上のイエスの御苦しみを知るうえで、たいへん貴重である。イエスはこの詩篇の内容に同調されたからこそ、五節の言葉を十字架上で発せられた。
 二三節には、
 「すべて主の聖徒たちよ。主を愛しまつれ。主は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には、きびしく報いをされる。雄々しくあれ。心を強くせよ。すべて主を待ち望む者よ」
 とある。これは、主イエスが私たちに向かって言われている言葉と受け取れる。
 主を愛する者は、雄々しく、心を強くする。彼らは主にあって、人生を力強く切り開いていく。
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2日 新約・マタイ二七章
 人々は、イエスに不利な多くの証言をした。しかし、そのとき「イエスはどんな訴えに対しても、一言もお答えにならなかった。それには総督も非常に驚いた」(一四)。
 ある有名な禅僧は、この箇所を読んだとき、「キリストこそ禅の奥義に達した人だ」と、膝を打って感嘆したという。
 人は不利な証言をされれば、とかく言い返したくなるものである。あること・ないことを言われて、腹を立てない人はまずいないだろう。
 しかしイエスは、一言も口答えされなかった。これは、よほどの精神力と、達観がなければできないことである。
 イエスはまことに、常に堂々たるおかたであった。私たちも、主イエスにならい、その幾分かでも似た者になりたい。
 じつはイエスが不利な証言の前にだまっておられたのは、イザヤ書五三・七の次の預言の成就であった。
 「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれていく小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」。
 イエスの受難を想い、神の恵みに感謝しよう。
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3日 旧約・詩篇三二篇
 表題に「マスキール」とあるが、この意味は不明である。「教訓詩」という説もある。また所々記された「セラ」という言葉は、音楽的な休止符ではないか、といわれている。
 ダビデは言った。
 「私は、自分の罪をあなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう』。すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました」(五)。
 ダビデは正直な人だった。とりわけ神の御前でそうであった。
 私たちが罪の赦しを得るために必要なことは、善行を積むことではなく、まず、正直なことである。
 神は、たとえ私たちが自分の罪を告白しなくても、私たちの罪のすべてを知っておられる。神の御前に何かを隠すことは、誰にもできない。
 それでも、神の御前に故意に自分の罪を隠さず、悔改めの意志と共に正直に、ありのままを申し上げることによって、神は私たちに憐れみを垂れて下さるのである。
 「もし私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめて下さいます」(一ヨハ一・九)。
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4日 旧約・詩篇三三篇
 「主は国々のはかりごとを無効にし、国々の民の計画をむなしくされる」。「主のはかりごとはとこしえに立ち、御心の計画は代々に至る」(一〇〜一一)。
 ここに、人の計画と神の計画がある。ある人々は誤解して、歴史はすべて神の意志によるものだと思っている。しかし、聖書の教えはそうではない。
 人の意志と神の意志がある。人は自由意志に基づいて生活し、歴史をつくる。その歴史には、善もあれば悪もある。
 その歴史に、神はご自身のご計画に基づいて上より介入し、歴史の一部を修正される。そして神は歴史を、最終的にご自身の目的に向かって導かれる。
 その際、神は予知に基づいて予定、すなわち摂理をされている。予定に基づいて予知するのではない。ある人々はそう思っているが、聖書の教えはその逆である。
 はじめに神の予定を持ってくることは、神を悪の創造者とすることである。しかし、はじめに人の自由意志があり、それを神が予知し、それに基づいて神の予定や摂理があるのである。
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5日 新約・第一コリ一一章
 
パウロは、本章の前半でコリント教会の兄弟姉妹をほめ(二)、また後半では、彼らをしかっている(一七)。
 この順序が大切である。私たちが人を動かすためには、人の良いところをほめ、悪いところの指摘はその後にすることである。
 私たちは、とかく人の悪いところを口にしやすいのに、良いところをほめるのは忘れやすい。とくに日本人はそうではないか。
 だからリーダーは、人の良いところに目ざとく着目してほめ、それを伸ばし、一方では、悪いところにすぐ気づき、適切に直してあげられる人でなければならない。
 これは、親が子を育てる場合もそうである。子を叱ってばかりでは、子は決して有能な人間には育たない。叱る前に、ふだんから良いところを自然にほめてあげることである。
 またある人が叱られたとき、その人が、叱った人の言うことを聞くか否かは、その人が叱った人を尊敬しているかどうかにかかっている。
 叱った人への尊敬がなければ、叱られても人は態度を改めようとはしない。私たちは普段から尊敬される者でありたい。
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6日 旧約・詩篇三四篇
 世の多くの人は、「信仰に入ると窮屈になる」とか「不自由になる」と思っている。
 しかし、このダビデの詩篇を読むと、彼がいかに主を信じる信仰に喜びと幸福を感じていたかが伝わってくる。ダビデは言った。
 「私の口には、いつも主への讃美がある。私の魂は主を誇る」「私が主を求めると、主は答えて下さった」「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は」(一、二、八)。
 これをうたうダビデの心情に、「窮屈さ」や「不自由さ」は微塵も見あたらない。彼の魂は幸福であり、その生命は躍動し、豊かな輝きに満ちている。
 とくに、ダビデの時代は旧約聖書の時代であり、律法の時代であったことに注目して欲しい。
 ある人々は、律法に従うことは窮屈なことだと思っている。しかし、主の律法を喜ぶダビデにとって、律法はむしろ彼を幸福にし、自由にするものであった。
 ましてや、今日において主の福音は、私たちをさらに大いなる幸福に導き、真の自由をもたらす。主を信じるものは、幸いである。
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7日 旧約・詩篇三五篇
 
「ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる主は、大いなるかな」(二七)。
 神は、ご自分のしもべの繁栄を喜ばれる。私たちクリスチャンの繁栄は、私たち自身の喜びであるだけでなく、神の喜びでもある。
 クリスチャンの繁栄とは何か。それは第一に、悪に対して打ち勝つ力の豊かさである。悪を退け、善を広める力の豊かさである。
 クリスチャンの繁栄の第二は、宣教の力の豊かさである。次々に回心者が起き、神の勢力が拡大していくことである。
 またクリスチャンの繁栄の第三は、愛のわざの豊かさである。クリスチャンが心を尽くし、知恵を尽くし、経済力や、あらゆる技術さえも用いて、人々のためになることをしていくなら、その愛の豊かさに繁栄がある。
 私たちは繁栄を望む。しかし、私たちの繁栄は神ご自身も望んでおられる。
 その繁栄が実現するためには、何が繁栄なのかを、よく理解しなければならない。そして神のみこころを自分の心とし、自分の強い願望となして、信仰によってたゆまずに歩んでいくなら、繁栄は必ずや手中に下るであろう。
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8日 新約・マタイ二八章
 仏教では、「仏舎利塔」というのを建てる。仏舎利とは釈迦の骨という意味で、釈迦の遺骨をそこに納めているということになっている。
 もっとも、仏舎利塔は各地にあって、たいへん数が多いから、一人の人間の骨を、そんなにたくさんには分けられないはずなのだが。
 それはともかく、仏教では死人を拝む。それに対し、キリスト教では生きたお方を礼拝する。
 マリヤたちは、復活のイエスの「御足を抱いて拝んだ」(九)。一一人の弟子たちは、復活のイエスにお会いして「礼拝した」(一七)。
 この原語は、「神を礼拝する」という場合と同じもので(黙示一九・一〇)、ものみの塔の言うような単なる「敬意を捧げる」の意味ではない。
 ユダヤ人は、神以外の者を決して礼拝しなかった。彼らがイエスを礼拝し、イエスもその礼拝を受け入れられたことは、神のひとり子としてのイエスの神性を示す。
 私たちはイエスの遺骨を礼拝するのではなく、今も生きておられるイエスを礼拝する。私たちと共におられるのは、死者ではなく、一度死んだが復活して永遠に生きておられるかたなのである。
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9日 旧約・詩篇三六篇
 
外国では、日本人の家の多くは木や、紙(障子紙)でできていると思われている。いずれにしても、あまりりっぱな家に住んでいるとは思われていない。
 実際、日本では、年収の何倍ものローンを組んで、ようやくそこそこの家が買える程度である。広い家を建てようと思えば、ときには何億ものお金を出さなければならない。
 ある人は、快適な住まいの条件として、美しい景色と庭、清潔で落ち着きのある建物等をあげる。心地よい光と風、気候、豊かなスペースと、便利さをあげる人もいる。しかし、何よりそこに住む家族間の豊かな愛情だ、という人もいる。
 私たちは神の家族として、やがて天の住まいに住むことを約束されている。それは地上のすべての豪邸にまさる良き住まいである。
 「彼らは、あなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます」(八)。
 私たちはいずれ、天の快適な住まいに住む。それまで、この地上では私たちは旅人であって、仮の住まいにいるにすぎない。しかしこの旅を、有益な、思い出深いものとしたいものである。
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10日 旧約・詩篇三七篇
 「主をおのれの喜びとせよ。主はあなたの願いをかなえてくださる」(四)。
 この文章の順番に気をつけてほしい。私たちは願いをかなえられたとき喜ぶが、ここでは、かなえられるために、その前にまず喜びなさいと言われている。
 「主をおのれの喜びとせよ」。そうすれば、主はあなたの願いをかなえてくださる。
 父のことを本当に好きで、喜んでいる子どもがいたとしたら、その子どもが何かを願った場合、父はそれをぜひかなえてあげたいと思うに違いない。神様もそうである。私たちが神様を好きで、心から喜びとしているなら、神様も私たちを好きになって下さる。
 私たちは、神様に何でも望むものを願ってよい。しかし、単に願うのではなく、その前に神様ご自身を心から愛し、喜ぶことである。
 願いがかなえられたら喜ぶというのではない。私たちを造り、私たちを愛していて下さる神様ご自身を、常に喜んでいるのである。そうすれば、願いの言葉がたとえ少なくても、たとえば、ただ一度願っただけでも、神様はすみやかにそれをかなえてくださるであろう。
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11日 新約・第一コリ一二章
 「イエスは主です」(三)の「主」は、ギリシャ語でキュリオスである。これはヘブル語のアドーナーイと同じく、「主人」「主権者」を意味する普通名詞である。
 ある人々は、「イエスは主」という言葉を、イエスはヤハウェご自身という意味にとるが、これはそういう意味ではない(詩篇一一〇・一)。
 この意味するところは、旧約時代には父なる神ヤハウェが「主」――主権者と呼ばれたが、新約時代においては、父なる神は御子イエスに主権を渡されたゆえに、御子が「主」と呼ばれる、ということである(ヨハ三・三五)。
 御子イエスと御父ヤハウェは、一体だが、区別はある。区別までなくしてしまうと、それはもはや正しい三位一体論ではないから、注意しなければならない。
 現在、私たちは御子を「主」と呼ぶが、新天新地では再び御父が「主」と呼ばれる(黙示二一・二二)。それは神がすべてとなられるためである(一コリ一五・二四〜二八)。
 神は御子について言われた。「これはわたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」(マコ九・七)。イエスに従うことは、父なる神に従うことである。
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12日 旧約・詩篇三八篇
 ダビデのこの詩篇を読むと、おそらく聖書を知らない人々は、なんと軟弱な人間だろう、と思うに違いない。ここには、弱く、うちしおれた人間の姿だけがあるように見える。
 しかし、実際のダビデはどうだったか。彼はじつに強い人だった。もとは一介の羊飼いでありながら、実力を認められて一国の王にまでのぼりつめた人なのである。
 彼は、敵に勝つことにおいて、また悪に勝つことにおいて、じつに強かった。彼はまた、人々への豊かな温情と、知恵に満ち、魅力的な人格を備えていた。
 ダビデのその強さと魅力の秘訣は、一体どこにあったのか。
 彼は常に、自分の弱さを神の前にさらけ出した。人の前にではなく、神の前にさらけ出した。自分の弱さを神にゆだねた彼は、人の間では常に強くあり続けることができた。それこそ、彼の秘訣であった。
 私たちは誰でも、本質的に弱い人間である。強いと思うのは傲慢にすぎない。しかし、私たちは自分の弱さを神の前にさらけ出し、それを神にゆだねるとき、真に力強くされて、人生を大きく切り開いていくことができるのである。
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13日 旧約・詩篇三九篇
 「主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢がどれだけなのか。私がどんなに、はかないかを知ることができるように。・・・・
 私の一生は、あなたの前では、ないのも同然です。まことに人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです」(四〜五)。
 人は、人生の半ばを過ぎる頃、この気持ちがわかるようになる。たとえ過去に、ある程度の社会的成功をおさめたとしても、また今までに、ある程度の幸福な時を経験したとしても、今後、老いと死に向かっていく自分の姿を思うとき、
 「私の人生は何だったのか」
 と思う。若い頃は人生七〇〜八〇年と言えば長く思えたのに、しだいに、「過ぎてみれば短かった」のではないかと思うようになる。
 もし、人生が単に肉体の死をもって終わるものなら、人生はむなしい。しかし、神を信じる者には、短い、つかの間のこの人生にも、大きな意味と価値が与えられる。
 私たちは神に愛されており、私たちの人生は、神の記憶の中に永遠に刻み込まれているからである。そして私たちの人生は、この世から来たるべき世にかけて、神にあって永遠に続くのである(七)。
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14日 新約・マルコ一章
 「イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出ていき、そこで祈っておられた」(三五)。
 イエスは、祈りによって父なる神と交わることを通し、活動の原動力を得られた。イエスは「朝早く、まだ暗いうちに」祈りに行かれることが多かった。
 それは、そうした時間は周囲が静かであり、人々に邪魔されることが少なかったからである。
 イエスはまた、「寂しい所に出て」行って祈られた。森や、林、山など、大自然の中が多かった。
 たとえば夜明け頃の森は、風もほとんどなく、静まりかえっていることが多い。またときに、もやの中に太陽の光が周囲を明るくし始める頃、植物たちの生命活動が耳に聞こえるようにさえ思える。
 あたかも、植物や小鳥たちが、みなで祈る者を力づけ、見守ってくれており、共に祈ってくれているようにさえ感じられる。
 私たちにとっても、朝、寂しい所で、ただ一人になって神と交わることは、生きる原動力である。
 それが、大自然の中であれ、家の個室であれ、それは神に近い場所となる。そして、祈る者に神は近づかれる。
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15日 旧約・詩篇四〇篇
 私たち人間は、様々なことで楽しみを味わう。冬は雪山へスキーに行き、夏は海へ泳ぎに、また車でドライブに行ったり、映画に行ったり、観劇したり、ピクニックやハイキングで楽しんだりする。
 スポーツが好きな人もいるし、家でこつこつ何かを作るのを趣味としている人もいる。私たちは、自分のしたいことをしている時、楽しいと感じる。
 しかし、こうした趣味や娯楽は、私たち人間が経験し得る最高の楽しみなのだろうか。本詩篇の詩人は言っている。
 「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたの教えは私の心にあります」(八)。
 詩人は、神のみこころを行なうことが自分の最高の楽しみであり、喜びなのだという。私たちはこの楽しみを知っているだろうか。
 ある人々は、神に従うことは苦痛だと思っている。しかし、神に従い、みこころを行なうことは、じつは人間の最高の楽しみであり喜びなのである。それは私たちに真の自由を与え、真の幸福を与える。
 神の「真理は、あなたがたを自由にする」(ヨハ八・三二)。そしてあなたがたを幸福にする。
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16日 旧約・詩篇四一篇
 ダビデは、この詩篇のはじめの三分の一で、あわれみを持つ人の幸いを語り、次の三分の一で、あわれみを持たない人の悪について語り、最後の三分の一では、神のあわれみについて語っている。
 ダビデは、あわれみのない悪人に対して「仕返し」をしたい、と言っている――「そうすれば私は彼らに仕返しができます」(一〇)。
 旧約の詩篇には、ときおりこうした類の言葉が出てくる。これはもちろん、新約的観点からは人の最良の動機とは言いがたい。
 しかし、ダビデはこれを「悪人を打ち負かす」の意味で言っているのであって、単なる怒りにまかせた復讐心を言っているのではない。義の実現を願う彼の心情としては理解できる。
 九節の「私が信頼し、私のパンを食べた友までが、私にそむいて、かかとを上げた」は、新約聖書に引用されており、イエスを裏切ったユダにおいて成就した、と言われている句である(ヨハ一三・一八)。
 この言葉は、予言ではないが、アブシャロムやアヒトフェルに裏切られたダビデの経験が予型的性格を持っていたために、それがユダにおいて成就したと言われたのである。
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17日 新約・第一コリ一三章
 最近日本で行なわれたある意識調査によると、「人生でいちばん大切にしていることは何ですか」という問いに、「愛」と答える人が一番多かったという。
 そして多くの日本人は今日、親子や男女間の愛情だけでなく、人への思いやりといった意味でも「愛」を理解している。じつはこれはキリスト教の影響である。
 昔、日本では「愛」という言葉は、仏教的な愛概念に従い、「執着心」という意味しかなかった。だから仏教では、執着心すなわち「愛」を離れよ、と説いている。
 しかし明治以降、キリスト者が「愛」を、もっと積極的な意味――たとえば人への思いやりや、人に善を行なうことといった意味で用いるようになった。それで日本語の「愛」の意味そのものに、変化が起こった。
 「愛は寛容であり、愛は親切です・・・・」(四)と聖書は言う。本当の愛の意味を知ることは、人生の意味を知ることでもある。
 日本人の「愛」概念は変化したが、本当の「愛」に生きている人は少ない。キリスト者は率先して、真の愛に生きる者でありたい。また、それができるのは、キリスト者をおいて他に誰がいるだろうか。
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18日 旧約・詩篇四二篇
 
昨日は、日本語の「愛」の意味が時代を経て変わったと述べたが、それに関連して今日は、「神」という言葉について述べよう。
 日本語の「神」という訳語は変えるべきだ、という意見が教会の一部にある。
 「神」は昔、神道の「神々」を意味していた言葉で、キリスト教が入ってきたときに他に良い訳語がなかったために聖書の訳者が「神」という言葉を用いたが、この言葉にはもともと、創造主とか全知全能のお方という意味がない。だからこの訳語は変えるべきだ、という議論である。
 しかし、変えるといっても、他に良い言葉があるわけではない。変えるより、むしろ「神」という言葉にキリスト教的意味を与えて、日本人の「神」概念そのものを聖書にそって変えていくほうが望ましい。
 イスラエルの人々は「神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます」(一)とうたった。彼らにとって、神は単に天上の超人間的な存在ではなく、私たちの幸福に深い関与をしてくださるかただった。
 本当の「神」はそういう方である。神は単に創造者、また全知全能であるだけでなく、私たちを幸福で満たすことのできるかたである。
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19日 旧約・詩篇四三篇
 詩人は、苦悩の中にある。しかし彼は、
 「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか。なぜ、御前で思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を」(五)
 と言って、自分の魂を励ました。
 かつてヨブも、ダビデも、パウロも、またアブラハム、イサク、ヤコブ、そのほか旧約・新約のすべての聖徒たちは、苦悩の中にあったとき、こう魂に言い聞かせて、それを乗り越えてきた。
 私たちは苦悩の中にあるとき、苦悩ばかりを見つめやすい。しかし、彼ら聖徒たちの違いは、苦悩を見たのち、いつまでもうなだれているのではなく、目を上げて神に視線を向けたことである。
 そのとき、苦悩の向こうに光が見えてくる。十字架の向こうに、復活の栄光が見えてくる。死の向こうに、永遠の命が見えてくる。
 苦悩を伴わずに成し遂げられた偉大な事業はない。どんな状況、どんな境遇も、神にあっては最終的に「益」と変えられる(ロマ八・二八)。苦悩さえも、あとで喜びとなる。
 それを体験することは、人生で最も大きな恵みの一つである。
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20日 新約・マルコ二章
 イエスのもとには、「取税人や罪人たち」が大勢つき従っていた(一五)。
 「取税人」は、税金取り立ての際に一部を着服するなどして私腹を肥やしていた者たち、また「罪人」と呼ばれているのは、売春婦や、街の不良、ごろつきなどであろう。いずれも、社会の最下層に属すると思われていた者たちである。
 ではイエスの弟子たちはそのような者たちだけだったのかというと、そうではなく、学者パウロのような人や、医者ルカのような人、またキプロスの地方総督セルギオ・パウロのように地位の高い人物(使徒一三・一二)も弟子になった。
 真の教えの現われるところ、その信仰は貴賎と老若男女の別を越える。真の宗教は、偉大な抱擁力を持っている。
 教会で、真実が語られているなら、大勢の人が、あらゆる階層、あらゆる分野から集まってくる。教会のリーダーの学歴が高いからとか、教会堂がりっぱだからというので集まってくるのではない。
 教会で聖書の真理が豊かに語られ、また信者間に愛が豊かにあるなら、人は必ず集まってくる。真理と愛が人をひきつける。
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21日 旧約・詩篇四四篇
 
私たちは自分の犯した罪のゆえに、苦境に陥ることがある。この詩篇の作者も、苦境の中にあって祈っている。
 イスラエルはかつて神に愛された。しかしその後、罪を犯して、今は苦境に陥っている。それで詩人は、それを嘆き、神の前に赦しを乞うている。
 自分の犯した罪のゆえに苦境に陥ったとき、もしそこから抜け出すために必要なものが自分の義であるなら、そこから抜け出るのは当分出来ない。なぜなら、そこに陥った原因が、もともと自分の罪だからである。
 だから詩人は、神に祈るにあたって、自分の義を持ち出さず、
 「あなたの恵みのために、私たちを贖い出してください」(二六)
 と祈っている。たとえ、私たちがいかに忠実に神に仕えたとしても、その功績を持ち出して神の助けを求め得るものではない。私たちが助けを受けるのは、ただ神の慈愛によるのである。
 神は、ご自身の恵みにかけて助けを求めてくる者を、見捨てることがお出来にならない。恵み深さと慈愛の深さは、神の永遠のご性質であり、変更できないからである。
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22日 旧約・詩篇四五篇
 
本詩篇は、メシヤ詩篇の一つである。「私の王」(一)、「あなた」(二)とあるのは、究極的にメシヤなる王イエスをさす。とくに六〜七節に、
 「神よ。あなたの神は・・・・」
 とある。最初の「神」は子なる神イエスであり、あとの神は父なる神ヤハウェである。
 「神よ。あなたの王座は限りなく・・・・。神よ。あなたの神は喜びの油を・・・・あなたに注がれた」――これは新約聖書ヘブル一・八にも引用され、イエスに関する預言として扱われている。
 本詩篇は、天には神によって油注がれて王座に着いたメシヤがおられるという、旧約時代の信仰を表している。
 すなわち、至高の神は単独で天におられるのではなく、そのかたわらに、われらの王となりメシヤとなられた(別の)お方が座しておられる、という信仰が旧約時代にすでに啓示されていたのである。
 神の御子、私たちの主イエスは、旧約聖書のあちこちに登場される。彼は、旧約時代に預言され、また暗示され、新約時代になって私たちの目の前に現われなさった偉大なメシヤなのである。
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23日 新約・第一コリ一四章
 「すべてのことを、徳を高めるためにしなさい」(二六)。
 教会の集会では、様々のことが行なわれる。しかし私たちは、そのすべてを徳を高めるために行なう。
 未信者が信仰に入り、また信者が信仰・希望・愛において成長するために、すべてのことを行なうのである。
 ある教会で、信者同士がひそかに、別のある人の陰口を言っていた。すると、それをたまたま本人が聞いてしまった。聞いた本人がどれほど傷つけられたかは、言うまでもない。
 私たちが最も注意しなければならないのは、何かを批判するときである。批判は必ずしも悪いものではないが、もし批判するなら、つねに人の徳をたてるために、建設的な意見として言わなければならない。
 それを単なる陰口や、悪口としてはならない。つねに愛と誠意をもって建設的に述べることである。そして、それに深い祈りを付加しなければならない。
 そうすれば、互いに徳が高められていくであろう。悪い所は放置せず、改善しなければならないが、いかに改善するかで人の徳が高められていくのである。
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24日 旧約・詩篇四六篇
 ある人が、家の中でくつろいでいた時、突然、そこを大震災がおそった。大地は揺らぎ、家は崩壊し、彼は命からがら外にとび出た。
 見ると、平らだった地面が大きく割れ、波打っていた。今まで、大地ぐらい信頼できるものはないと思っていたのに、その大地が今や恐怖と化したのである。
 顔をあげると、町々が黒煙をあげて燃えていた。その時彼は、小さい頃教会の日曜学校で習った「ソドム・ゴモラ」の話を思いだした。あの町々も、煙が、かまどの煙のようにたち昇ったのだ。
 大震災後、彼は再び教会の門をたたいた。そして信仰に入り、今では揺るぎない平安を得ている。
 私たちが信頼できるのは何か。大地か。この宇宙か。そうではない。信頼できるのは、神のみである。
 「神はわれらの避け所。また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい地は変わり、山々が海のまなかに移ろうとも」(一〜二)。
 本当の平安は、神のもとにしかない。神を信じ、神の永遠の守りを得ることが、真の安心立命である。
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25日 旧約・詩篇四七篇
 
こうした詩篇は、単に個人が一人静かに部屋で読むためのものではなく、何万人もの人々が集まる国民的大集会において常に高らかにうたわれたものであることを、忘れてはならない。
 「すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ」(一)
 で始まるこの詩篇が、何万人、また何十万人の大集会で高らかに叫ばれ、みなが手をたたき、「巧みな歌でほめ歌を」(七)歌う姿を想像してほしい。それは壮大な光景である。
 その光景は、未信者には、おごそかというよりは騒々しく感じられたことであろう。イスラエルでは、こうした喜びと讃美に満ちた大集会が、歌って踊って食べてという祭りと共に、毎年毎年持たれた。
 今日、日本のキリスト教界にはそうした大集会があるだろうか。大伝道集会と銘打ったものはあるが、喜びと讃美と踊りのある祭的な集会は、意外と少ないのではないか。
 イスラエルの人々は、毎年楽しい祭を行なった。祭の中で神をあがめたのである。キリスト教会も、神をあがめつつ、豊かな楽しい場であってほしい。
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26日 新約・マルコ三章
 ここに、イエスの「母と兄弟たち」が出てくるが(三一)、父ヨセフは出てこない。
 じつは、イエス誕生の時と、イエス一二歳の時(ルカ二・四八)を除いて、父ヨセフはもう登場しない。これは、イエスの若い時にヨセフがすでに世を去ったからではないか、と言われている。
 イエスの母マリヤと兄弟たちが来たとき、イエスは周囲の者に、
 「神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(三五)
 と言われた。これは神への信仰に入った者は、地上の血縁関係を越えてメシヤ・イエスに強く結びつけられ、「神の家族」という深い生命関係に入る、ということである。
 私たちは神を天父とし、イエスを長男とする神の家族なのである。
 神の家族の関係は、地上の血縁関係に優先する。また、それは地上のあらゆる国家、民族、国境の壁を越える。
 アメリカのクリスチャンも、ヨーロッパのクリスチャンも、アジア、アフリカ、オセアニア、南米のクリスチャンも、みな同じ神の家族であり、一つなのである。
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27日 旧約・詩篇四八篇
 私たちの人生は、「主は大いなる方」(一)であることを体験するためにある。
 この世の中には、様々の出来事が起きる。人生にも様々の出来事が起きる。良いことばかりではない。悪いことも起こる。
 幸福なことばかりではない。辛い不幸なことも起きる。それらもみな、人生で「主は大いなる方」であることを体験するためである。
 私たちは信仰によって、それを体験できる。信仰によって逆転勝利、起死回生を体験できる。
 星野富弘さんは、体育の教師だったとき、跳び箱の宙返りに失敗して首から下が不随になり、手足の自由を完全に失った。ふつうなら、これで人生は終わりではないだろうか。
 しかし、彼の人生はむしろそれからだった。「すべての事を、つぶやかず、疑わずに行ないなさい」(ピリ二・一四)という聖書の言葉に励まされながら、彼はその後の毎日の生活を生きた。
 やがて、彼が車椅子に乗りながら、口にくわえた絵筆で描いたあの美しい花たちと詩が有名になり、多くの人に慰めと感動を与えるようになった。まことに信仰を通して御力を現わされる主は、大いなる方である。
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28日 旧約・詩篇四九篇
 「人はその栄華の中にあっても、悟りがなければ、滅びうせる獣に等しい」(二〇)。
 世の中には、悟りがないために、栄華の中にあっても滅びうせていく人々が多い。たとえ、この世で成功をおさめ、金持ちになり、人のうらやむ生活をしても、神の真理を知らなければ、その人は滅びる。
 人は、罪の赦しを得なければ、決して天国に入ることができない。誰でも死ねば天国に入ることができるのではない。罪のあるままで、そこに入ることはできない。
 しかし、罪の赦しを得るために、「自分の身代金を神に払うことはできない」(七)。「魂の贖いしろは高価」(八)だからである。
 「贖いしろ」は、神が宣告された死罪に対する赦免金のことである。それは非常に高額だから、人間が自分で払うことはできない。
 しかし、イエス・キリストは十字架上で私たちの身代わりに死んで、その高価な身代金を払ってくださった。だから、キリストを主と認めて彼に従っていくなら、
 「神は私のたましいを、よみの手から買い戻される。神が私を受け入れて下さるからだ」(一五)。
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29日 新約・第一コリ一五章
 
復活の体は、どのような体か。それは、現在私たちが持っている肉体と関連はあるものの、一方では異なる体である。
 「関連はある」というのは、もし関連がなければ「復活」とは言わないからである。関連がなければ、誰が復活したのかわからない。
 また「異なる体である」というのは、現在の肉体が朽ちるものであり、死や病や老化のある体であるのに対し、復活の体は朽ちない体であり、永遠の命の躍動と幸福を体現したものだからである。
 植物のタネは、地中に埋もれると、タネの殻が破れ、そこから芽や根が出てくる。それが大きくなってくると、やがてタネの跡形もなくなり、タネは死んで、植物が生きている。
 それと同じように、私たちの肉体が死ぬと、私たちは天国に隠されているが、やがてキリスト再臨の時に、キリストと同じ新しい栄光の体を着せられて復活する。
 私たちは、墓の中で分解して土になってしまった自分の肉体がもう一度より集まって体になる、と思う必要はない(五〇)。私たちは血肉の体を着て復活するのではなく、新しい秩序の身体を与えられるからである。
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30日 旧約・詩篇五〇篇
 
「感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ」(一四)。
 「感謝のいけにえ」とは、感謝のこもった言葉と行為という、いけにえである。それが神への最上の捧げ物である。
 また「あなたの誓いをいと高き方に果たせ」とあるように、私たちは神に約束した事柄を、感謝しつつ果たす必要がある。
 私たちは悔い改めたとき、「主よ、もう罪は犯しません」また「主よ、あなたにお従いしていきます」と言わなかっただろうか。私たちは、神になしたその約束を、一生涯かけて果たさなければならない。そうすれば、
 「わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう」(一五)
 と主は言われる。
 主が私たちに対し常に誠実であられるように、私たちも主に対して誠実に生きよう。
 もし罪を犯してしまったら、再び堅く信仰に立つのである。それが主に対する誠実である。
 たとえ幾度も罪を犯したとしても、本当に心砕かれて主に立ち返るなら、主は私たちを救ってくださる。
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