聖書一日一章

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1日 旧約・詩篇五一篇
 
「神へのいけにえは、砕かれた魂。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません」(一七)。
 この詩篇は、ダビデがバテ・シェバのことで罪を犯し、預言者ナタンに罪を指摘されて悔い改めたのちに作られた。この詩篇には、彼の真実な悔改めが見られる。
 ダビデは、自分の罪を明確に認識し(三)、神の赦しときよめに期待した。彼は自分の罪深い心が「雪よりも白くなる」ことを望み(七)、
 「私にきよい心を造り、ゆるぎない霊を私のうちに新しくしてください」(一〇)
 と、心の底から自分が生まれ変わることを熱望している。もはや罪を犯すことのできない自分になりたい、と願っている。
 中途半端な悔改めの人には、これがない。「すみませんでした」とは言っても、もはや同じ罪を犯すことのない自分になりたい、とは言わない。なお、罪を慕っている。
 しかし、罪を捨てて生まれ変わる気持ちがなければ、真実な悔改めではない。
 またダビデは、「私の救いの神よ」(一四)と、神の救いを信頼しきっている。真実な悔改めは、人を生まれ変わらせる。
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2日 新約・マルコ四章
 主は、「聞く耳のある者は聞きなさい」(九)と言われた。
 これは、人々が注意深く聞き、真理を悟るのを期待して言われた言葉である。しかし一方では、主は、聞こうとしない者たちには語らず、聞く気のある者たちだけに語りかけられた、ということでもある。
 ある人の心は、道ばたの固い土のようだったり、また土の薄い岩地のようだったり、いばらの生えた地のようだったりする。そうした人々は、聞く耳を持っていない。
 しかし、聞く耳のある者たちは、やわらかい良い地のようで、御言葉を聞くとそれを喜んで受け入れ、三〇倍、六〇倍、一〇〇倍の実を結ぶ(二〇)。
 誰でも、耳は持っているが、すべての人が「聞く耳」を持っているわけではない。
 私たちは聖書を読むとき、またメッセージを聞くとき、「聞く耳」を持つようにしよう。私たちに耳が二つ、口が一つ与えられているのは、おしゃべりの二倍は聞くべきだからである。
 真理を聞いたとき、それをはっきり認識し、自分のものとして吸収する鋭敏な耳を養いたいものである。
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3日 旧約・詩篇五二篇
 かつてダビデは、サウル王からのがれたとき、祭司アヒメレクに助けられ、彼からパンと剣を与えられた(一サム二一・一〜二二・二三)。
 ところがその場に、サウルのしもべのひとりドエグがいた。ドエグは、あとでこれをサウルに密告した。本詩篇は、そのときに作られたものである。
 祭司アヒメレクがダビデを助けたことがサウルに知れると、サウルは近衛兵たちに、アヒメレクを打ち殺すよう命じた。しかし近衛兵たちは、主の祭司を殺すことを恐れて、手をかけようとはしなかった。
 そこでサウルは、ドエグに命じた。ドエグは躊躇することなく、祭司アヒメレクを殺した。そればかりか八五人の祭司と、町の住人を虐殺してしまったのである。
 一節の「おまえ」は、密告者および虐殺者となったドエグを指している。しかし、一般的に悪人を指している、ととることもできるであろう。
ダビデは、「神は・・・・生ける者の地から、おまえを根こぎにされる」(五)と言った。最終的に地から消され、根こぎにされるのは、悪人たちである。
 しかし、正しい者たちは、主の庭のオリーブの木のように栄える。
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4日 旧約・詩篇五三篇
 私たちが今住むこの世界には、すでに五〇億人を突破した人々が住んでいる。なんと多くの人が住んでいることであろうか。
 しかしその中で、本当に純粋な信仰心を持っている人は、一体どれほどいるであろうか。また熱心に善を行なう者が、どれほどいるであろうか。
 「神は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行なう者はいない」(二〜三)。
 ダビデは、高慢な思いからこれを言っているのではない。自分は立派で他はみなダメだ、と言っているのではない。ダビデは自分への反省も含めてこれを言っているのである。
 これほどに多くの人がいながら、「神を尋ね求める、悟りのある者」がまことに少ないという事実は、嘆き以外のなにものでもない。
 しかし、たとえ少なくても、またたとえただ一人でも、真に神に仕える信仰者が地上にいるなら、神はその人を通してご自身の偉大な御力を現わされる。大切なのは「今、この自分が神に仕えているか」を心に問うことである。
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5日 新約・第一コリ一六章
 一週間は、日曜日に始まり、土曜日に終わる。
 旧約時代、週の終わりである土曜日は安息日とされ、人々はその日に礼拝の集会を持っていた。
 しかし新約時代に、キリストの使徒たちは、クリスチャンの礼拝の日を日曜日に変更した。
 キリストの復活は日曜日であった。また聖霊降臨、および教会の誕生日となったペンテコステも、日曜日であった(ペンテコステは安息日の翌日である レビ二三・一六)。
 そうしたこともあって使徒たちは、キリストから受けた権威により、礼拝の日を、週の初めである日曜日に変更したのである。
 二節に「いつも週の初めの日に・・・・」とある。これは初代教会において、すでに日曜日に礼拝のための最も重要な集会が持たれていたことを示す。使徒二〇・七によれば、日曜日は聖餐の日でもあった。
 セブンスデー・アドベンティストの人たちは、日曜日の礼拝の集会は中世に始まったものであるとして、土曜日に礼拝の集会を持つ。しかし、日曜日に礼拝の集会を持つことは、初代教会以来のものであって、キリストの使徒たちの権威のもとに始められたものなのである。
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6日 旧約・詩篇五四篇
 
ダビデは、しばらく逃亡者としての生活を送った。悪いことをしたからではない。ダビデを邪魔者と考えて殺そうと謀るサウルの手から、のがれるためであった。
 以前、「逃亡者」というアメリカの人気連続テレビ・ドラマがあった。これは当時、驚異的な視聴率を獲得したもので、その後、リメイクされて劇場映画にもなった。
 妻殺しという無実の罪を着せられた医師リチャード・キンブルが、真犯人を探しながらも逃亡先で心温まる人間ドラマを生んでいく、という物語であるが、逃亡者としてのせつなさが人々に同情を呼んでいた。
 逃亡者は、もはや何の社会的地位も、保障もない。富もなく、友人も、家族もない。落ち着いてくつろぐ場所もない。どこへ行っても独りである。つねに恐怖と戦いながら生きなければならない。
 ダビデは、そのような経験をした。しかし、彼は自分が独りではないことを知っていた。
 「神は私を助ける方、主は私のいのちを支える方です」(四)。
 自分がたった独りになったとき、じつは自分は独りではない、と知ることは、人生において最も貴重な経験である。
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7日 旧約・詩篇五五篇
 
ダビデの敵は多かった。国王というものは敵が多い。
 単に悪人たちが彼の敵となっただけでなく、子や、親友さえ裏切って敵となったのである(一三)。ダビデは悲しんで言った。
 「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら、飛び去って休むものを」(六)。
 「翼があったなら」とは、私たちも、しばしば思うことではないか。ときに現実から逃避したいと思う気持ちは、ダビデも同じであった。
 しかし、ダビデは決して現実から逃避しなかった。それは主なる神が、彼を支えてくださったからである。
 「私が神に呼ばわると、主は私を救ってくださる」(一六)。
 「私はあなたに拠り頼みます」(二三)。
 私たちは、しっかり地面に足をつけて歩んでいかなければならない。現実を踏まえて、それを乗り越えて行くのである。
 鳥のように一足飛びに乗り越えることはできない。一歩一歩踏みしめながら乗り越えていく。
 そうした私たちのすぐ横には、主イエスがおられる。主は、私たちが倒れないように、ささえて下さるのである。
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8日 新約・マルコ五章
 
レギオンにとりついていた汚れた霊たちは、主イエスを見て、「いと高き神の子イエスさま、・・・・どうか私を苦しめないでください」(七)と言った。悪霊たちは、イエスが「神の子」であると認めたのである。
 「回心」とは何であろうか。イエスが神のひとり子、また救い主と認めることだろうか。
 いや、それだけではまだ回心とは言えない。なぜなら悪霊たちでさえ、そのことなら認めて、おののいているからである。
 回心とは、神の存在や、イエスが救い主であると信じること以上のものである。神とイエスの御言葉に従い、実践し、その救いに信頼すること、また神とイエスをあがめ、全身全霊をもって愛すること――それが回心である。
 私たちは、回心した者として歩んでいるであろうか。単にイエスを神の御子、救い主と告白することなら、悪霊たちでさえしていることなのである。
 しかし、悪霊たちはイエスに従っていない。私たちは、一二弟子達がイエスに従ったように、イエスに従う。それによって人々は、私たちを見てイエスの弟子と呼ぶであろう。
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9日 旧約・詩篇五六篇
 「私は神に信頼し、何も恐れません。肉なる者が、私に何をなしえましょう」(四)。
 神に信頼する者は、人を恐れない。人の悪や暴力に対しても、ひるむことはない。たとえ一時的に危害を加えられることがあっても、神に信頼する者の魂は決して征服されない。
信仰は、魂の中に働く偉大な力である。この力は、いかなる肉体的力、物質的力よりも強い。
 かつて豊臣秀吉は、長崎で二六人のキリシタンを、見せしめに処刑した(二六聖人の殉教)。しかし、彼はキリシタンたちを征服することができたか。
 いや、二六人のキリシタンたちは皆、天国の喜びと殉教者になり得た光栄に、喜々として死に就いた。さらに、処刑を柵の外で見ていた村人たちは、その光景に天国の実在を感じとり、その後彼らのほとんどがキリシタンになったという。
 信仰を持つ者を征服することは、誰にもできない。今日、共産圏の中国においても、殉教を恐れないクリスチャンたちの働きにより、水面下で福音が爆発的に広まりつつある。
 信仰を持つことは、宇宙で最も強い力を持つことである。
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10日 旧約・詩篇五七篇
 「滅びが過ぎ去るまで、私は御翼の陰に身を避けます」(一)。
 かつてイスラエルの民は、エジプトで過越の小羊をほふり、それを家の柱と鴨居に塗った。するとその夜、災いがエジプトをおおったとき、災いはイスラエル人の家を過ぎ越していった。
 同様に私たちも、過越の小羊キリストの御血をいただいて、心の罪を清め、心の入り口にそれを塗っている。やがて世の終末が近づいたとき、世は真夜中となり、災いが全地をおおうであろう。しかし災いは、キリストの血をいただいている私たちの上を過ぎ越すのである。
 その時まで、私たちは神の御翼の陰に身を避ける。神は力強い保護をもって、私たちを守られる。
 神は偉大な味方であられる。神が味方であるなら、誰が敵対することができよう。
 どうしたら、神が味方になってくださるのか。私たちが神を信仰し、神の味方になればよい。そうするだけで、神は味方になってくださる。
 宇宙を創造し、全世界をみそなわす神は、あなたを愛しておられる。あなたは神を愛しているか――この世の何よりも。
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11日 新約・第二コリント一章
 「私は、あなたがたが十分に理解してくれることを望みます」(一三)
 とパウロは書いた。彼は「知ること」「理解すること」を非常に重んじた。健全な信仰は、単なる感情の高揚や直観だけでは生まれない。「知ること」「理解すること」がなければ、健全な信仰は育っていかない。
 今日、日本の教会にはこれが欠けている。多くの教会では、信者の成長のために、集会のメッセージだけに頼り過ぎている。
 集会のメッセージは、どうしても霊的な学びに偏りやすい。だから、それと並行して聖書の基本的知識や、体系的理解を促進させるための聖書学習(聖学)の時も必要である。
 たとえば、神論、キリスト論、人間論、救済論、終末論・・・・等と、体系的に学ぶことも重要である。こうした学びには、必ずしも大きな感情の高揚はないかも知れない。しかし、真理を知ることが、確実に人の人生を変えていく。
 日本人は、学校教育で長く無神論の中につかってきた。だから、その知性が聖書の真理によって再構築されるために、十分な学びの時が必要である。聖書の真理が豊かに学ばれるところ、聖霊は豊かに働かれる。
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12日 旧約・詩篇五八篇
 ダビデは、人々の間に多くの悪を見てきた。彼は、神の裁きが悪人に下ることを望み、それを祈っている。
 個人的な恨みからそうしているのではない。むしろ、神の義が全く実現することを強く望んでいるのである。
 「まことに、さばく神が地におられる」(一一)。
 このことを思うとき、私たちはしばらくの患難迫害も堪え忍べる。
 ダビデは、さばく神が「天に」おられるとは言わない。「地におられる」と言っている。裁きは遠いことだと悪人たちは思っているが、裁きの神はじつはすぐ近くにおられる。そして、すみやかに裁きを下されるであろう。
 ダビデが願っているのは、自分で悪人に復讐することではない。神が彼らを罰せられることである。使徒パウロも言っている。
 「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それはこう書いているからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』(申命三二・三五)」(ロマ一二・一九)。
 私たちは神の怒りに任せなければならない。
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13日 旧約・詩篇五九篇
 
本篇は、ダビデがサウルの家来に殺されそうになったときに作ったものである。
 生命の危険にあったときの気持ちが、どんなものかは、その危険にあった者でなければわからない。たとえ普段からの熱心なクリスチャンであっても、そのときは強い恐怖を感じるに違いない。
 しかしダビデは、その恐怖の中で、祈り、また訴える相手を持っていた。彼は神を「私のとりで」「恵みの神」(一七)と呼んで祈り、それを詩篇として書き残した。
 普通、恐怖に震える者に、文章など書けるものではない。しかし、ダビデがこの詩篇を書き記すことができたのは、この祈りをすることによって恐怖を乗り越えたからである。
 生命の危険を感じたとき、恐怖を持つことは悪いことではない。それは自然な感情である。しかし、「私のとりで」なる神に祈ることによって、私たちはその恐怖を乗り越えることができる。
 神はあなたと共におられる。あなたは弱くとも、神は強い。その神があなたを愛しておられる。
 「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」(詩篇二三・四)
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14日 新約・マルコ六章
 無神論者は、「聖書は奇跡だらけだ」と言って、聖書を非難する。
 たしかに多くの奇跡が記されている。しかし、それは単にイエス・キリストはすごいおかただ、と読者に思わせるためではない。五節に、
 「それで(イエスは)、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった」
 と記されている。
 イエスは父なる神の全権を受けたかたであり、父なる神と同様、全能のおかたである。ところが、不信仰者の多いところでは「何一つ力あるわざを行なうことができなかった」。全能なのに、できなかったのである。
 全能でも、できないことがある。主イエスは、不信仰者の間ではひどく無力になられる。
 私たちが不信仰になるなら、神の力あるわざは行なわれない。イエスの郷里の人々は、「イエスにつまずいた」(三)。しかし、私たちはそうではない。
 私たちは、イエスのなさるわざに期待する。イエスがこれから人生に何をなして下さるのか、その力あるわざに期待し、信じるのである。その信仰を通して、主は働いてくださる。
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15日 旧約・詩篇六〇篇
 
本篇は、ダビデがアラム・ナハライムや、アラム・ツォバ、またエドム人に対して勝利を得る前に作られたものであろう。
 ダビデはこの詩篇において、先の戦闘における敗北が神のこらしめであることを認めて、へりくだっている(一)。そして民のために、再び勝利をたまわるように祈っている(一〇〜一二)。
 すると、神はダビデに大勝利を与えられた。ダビデはアラムに勝利し、ダビデの家来ヨアブも、エドムに大勝利をおさめて帰ってきた(二サム八・一三にはエドム人「一万八千人」とあるが、はじめに一万二千人を殺し、次に六千人を殺したものか)。
 私たちの人生にも、しばしば敗北がある。多くの場合は、勝利より敗北のほうが多い。しかし次の機会に勝利できるか否かは、敗北したとき、心が何に向かうかで決まる。
 もし、心が絶望に向かえば、敗北は確定し、もはや勝利はやって来ない。しかし絶望せず、神になお望みをいだいて、自分の身を打ちたたきつつ立ち上がるなら、神はその人を助けてくださる。
 「天は自ら助くる者を助く」。信仰とは、絶望しないことである。
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16日 旧約・詩篇六一篇
 
聖書にはしばしば、神の「御顔」「御手」「御足」「御口」「御目」といった表現が出てくる。
 これらの表現から、キリスト教の異端であるモルモン教では、神は人間と同じ様な体を持っておられると主張している。
 ある日、モルモン教徒がクリスチャンに対し、神は人間と同じ様な体を持っておられると、聖書のいろいろな箇所を開いて主張していた。それを聞いたクリスチャンは、詩篇六一篇四節を開いた。
 「私は・・・・御翼の陰に身を避けたいのです」。
 クリスチャンは言った。
 「では神には翼もあるというのですか?」
 すると、そのモルモン教徒は絶句してしまって、もはや主張を繰り返せなくなってしまったという。
 神の御顔、御手、御足、御翼といった表現は、神に体があるという意味ではない。「神は霊である」(ヨハ四・二四)。そして霊には「肉や骨はない」(ルカ二四・三九)。
 御翼や、御手といった表現が神に関して使われるのは、神のご属性やお働きが人間に身近に理解されるため、というのが主な理由である。
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17日 新約・第二コリ二章
 コリント第一の手紙と、コリント第二の手紙の間に、現存していないがパウロが「涙ながらに」書いたもう一通の手紙があった(四)。
 その手紙においてパウロは、相当厳しいことを書いて、コリントの人々を悲しませた。
 パウロはその手紙をテトスに託して届けさせたのだが、テトスは帰ってくると、コリントの大部分の人は悔い改めたという良い知らせをもたらしてくれた(七・六〜九)。
 しかし、依然として悔い改めない人がいたので、パウロがもう一度コリントを訪問するまでに悔い改めるよう、この「コリント人への第二の手紙」を書いているのである。
 したがってこの手紙の前半には、コリントの人々が悔い改めたことを喜ぶパウロの気持ちが表れている。しかし一〇章以下になると、依然として悔い改めない人々に語りかけているため、厳しい口調に変わる。
 パウロは、叱り方のうまい人であった。これは指導者にとって重要な資質である。叱ることを全くしない人や、反対に、し過ぎる人、また叱り方が下手な人は、指導者にはなり得ない。やさしいだけでは人は導けないのである。
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18日 旧約・詩篇六二篇
 ダビデは、
 「私の魂は黙って、ただ神を待ち望む」(一)
 と言った。彼は心を落ち着けて、神に信頼した。苦難の時にも、くよくよせず、平常心を心がけたのである。
 心を騒がせてあれこれと思い悩んでも、決して良いことはない。下手なことをして失敗するのが、オチである。落ち着いて神に信頼しなければならない。預言者イザヤもこう言っている。
 「神である主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。
 『立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて信頼すれば、あなたがたは力を得る』」(イザ三〇・一五)。
 神には、時がある。主イエスも、「時が来た」(マコ一四・四一)と言えるまで落ち着いて待たれた。
 救いの時があり、脱出の時があり、起死回生の時がある。その時に至るまで、私たちは腹を据え、心を落ち着けて神を待ち望む。
 真の達観は、禅の修行によって生まれるのではない。それは神への信仰によって生まれる。神に信頼する者は、人生の行く末をしっかり見据えることができる。
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19日 旧約・詩篇六三篇
 ダビデは、
 「神よ。あなたは私の神」(一)
 と祈った。
 私たちは集会で、「天におられる私たちの父よ」と祈る。しかし、自分の個室で独り祈るとき、あなたは「神よ。あなたは私の神」また「父よ。天におられる私の父よ」と祈ってよい。
 神は、私たちの神であるだけでなく「私の神」でもあられる。神はあなた個人の神であられる。神を「私の神」「私の父」と呼ぶところに、信仰が格段に深められるのである。
 「私の・・・・」と呼ぶことは、決して僭越なことではない。遠慮はいらない。神も、あなたとそのように密接な関係に入ることを、望んでおられる。
 旧約の聖徒たちも、新約の聖徒たちも、みな神を「私の神」と呼んだ。彼らは、それだけ神を自分との密接な関係の中に求めたのである。
 信仰は、第一には神と自分個人との関係である。私たちの心が神を仰ぎ見るとき、私たちの視界には神のほかには誰も入らない。
 そこにあるのは、神と自分との一対一の関係である。
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20日 新約・マルコ七章
 イエスは、フェニキヤの娘の病をいやす気がなかったのではなく、母親の信仰を試すために二七節の言葉を言われたのだが、それに対する彼女の答えは、
 「主よ、その通りです。でも、食卓の下の子犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」(二八)
 であった。彼女のこの言葉は、YES・BUT(イエス・バット)の形式に基づいている。
 はじめに、YES「その通りです」と認めておいて、つぎにBUT「しかし・・・・」と続けるのである。これは、人を説得するときに非常に有効な基本形式である。
 私たちは、神に祈るとき、どうしたら神に聞かれる祈りができるかを、真剣に考えながら祈っているであろうか。言葉を羅列するだけの祈りをしていないだろうか。
 私たちは、ちょっとした言葉の選び方で、自分の求めの切実さと誠実さを神に知っていただくことができる。祈りの秘訣は、言葉数を多くすることではない。言葉に、切実さと真摯な信仰を込めることである。
 神が「そうまで言うのですか」とおっしゃるような祈りをするとき、祈りはすみやかにかなえられる。
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21日 旧約・詩篇六四篇
 悪人は、悪事を楽しむ。彼らはひそかに策略を立て、「誰も見破れまい」といい、それが「うまくいった」と喜んでいる(五〜六)。
 しかし、これも一時的なことである。その最後には神の裁きがあり、滅びが待ち受けている。
 信仰者は、このことをどこまでも信じてよい。善は最終的に勝つ。
 もちろん、この世だけを見れば、しばしば悪人が栄え、善人が苦しんでいる。善は負けているようにも見える。
 しかし、人は生きている時から死後にかけて、いずれ神からの相応の報いを受けるのである。この世と来たるべき世とを合わせて考えれば、善は最終的に勝つ。
 悪人は滅び、一方、信仰によって義のうちを歩んだ者たちは救われ、高く上げられ、神からの豊かな褒賞にあずかる。
 ただし、生まれつきの悪人がいるわけでも、生まれつきの義人がいるわけでもない。最終的に悪人になるか義人になるかは、「直ぐな」心を持つか否かにかかっている(一〇)。
 直ぐな心とは、謙虚な心である。神の前にへり下る者は、神の義のうちを歩むことができる。
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22日 旧約・詩篇六五篇
 私たちの人生は、しばしば騒々しい雑音の内を行く。また、あるときは嵐に見まわれる。心は騒ぎ、悩み、苦悩する。
しかし、神の「御前には静けさがある」(一)。私たちが神の御前に出るとき、私たちの心にも静けさが宿る。
 この神の御前の「静けさ」とは、何もないことによる静けさではない。それはちょうど、大河の流れのような静けさである。
 小川は、常に音をたてる。しかし大河のように水を豊かにたたえる川は、音もなく静かに流れる。
 「神の川は水で満ちています」(九)
 神の御前にある静けさは、豊かさと、質の高さから来る静けさなのである。
 イスラエルでは、人々は朝でも昼でも夜でも、互いに「シャローム」(平安あれ)と言って挨拶する。
 シャロームは、ヘブル語の「平安」という意味だが、もう一つ「繁栄」という意味もある。「平安」も「繁栄」も、シャロームである。
 神の御前にはシャロームがある。それは、繁栄と豊かさから来る平安であり、静けさなのである。神を信じる者の人生もシャロームである。
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23日 新約・第二コリ三章
 私たちは、「新しい契約に仕える者」(六)たちである。
 古い契約は、石に刻まれた文字に基づいていた。しかし新しい契約は、聖霊によって「人の心の板に書かれた」ものに基づく(三)。
 神はこの新約時代に、聖霊を通して、クリスチャンたちを自由に導くようにされた。聖霊によって私たちの心に、より直接的で具体的な語りかけをなさってくださるのである。
 聖霊の語りかけを聞くには、私たちは心を研ぎ澄まさなければならない。そして自分の素直な顔を、主に向けなければならない。そうすれば、聖霊の声を妨げるおおいは取り除かれる。
 「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです」(一六)。
 聖霊は私たちの心に、しばしば「静かな細き御声」(一列王一九・一二)となって語りかけられる。その御声を、私たちは罪や不信仰の雑音でかき消さないようにしよう。
 聖霊の御声は、必ずしも大集会の中で聞こえるわけではない。それはむしろ、鍵をかけた個室でただ独りになって、真剣に祈るときに聞こえる。聖霊はあなたの心の板に、御声を彫り刻まれるであろう。
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24日 旧約・詩篇六六篇
 「私たちは火の中を通り、水の中を通りました」(一二)。
 詩人は、イスラエルの民が通った数々の苦難を語っている。しかし、愚痴として語っているのではない。むしろ感謝をもって思い起こし、その後「豊かな所へ」連れ出された神を、ほめたたえている。また詩人は、
 「私は全焼のいけにえを携えて、あなたの家に行き、私の誓いを果たします」(一三)
 とも語った。彼は祈りがかなえられたら、感謝の捧げ物をささげると神に約束していたのである。
 第二次大戦中に、潜水艦が打撃を受け、機械の機能が麻痺して、海底へ沈み始めた。八方手を尽くしたが、もはや上昇することができず、深海へと下降するばかりになった。
 耐圧限度に達した船体は、水圧で今にもつぶれそうな音をたて始めた。もはや、なすすべもない。若い時に教会に行ったことのあった艦長は、皆の真ん中に立って祈り始めた。「主よ。もし生きて国に帰れましたら、私は自分をあなたに捧げ、伝道者になります」。
 艦長がこう言い終わるか言い終わらないうちに、機械が突然回復し、船は上昇し始めたという。艦長は、その後伝道者になった。
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25日 旧約・詩篇六七篇
 
詩人は、
 「神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞって、あなたをほめたたえますように」(五)
 と祈っている。
 ある人々は、旧約聖書の神はイスラエル民族だけの神であるかのように、誤解している。しかし実際はそうではない。旧約聖書全体を通じて、神は全世界の神として信仰されている。
 神はかつてアブラハムに言われた。
 「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」(創世二二・一八)。
 神がアブラハムを祝福されたのは、彼の子孫を通して全世界に救いと、祝福をもたらすためであった。神がイスラエル民族を、メシヤを来たらせる民としてお選びになったのは、それによって全世界が救いと祝福を得るためである。
 創世記から黙示録まで、一貫して神は全世界の神であられる。
 イスラエル民族は、いわば神の家族の中で長子的存在である。ほかの民族も、神を信仰することによって、神の家族の中に取り入れられる。イスラエルから見て「地の果て」の民である日本民族が主に立ち返るよう祈ろう。
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26日 新約・マルコ八章
 主イエスは、
 「人はたとい全世界を得ても、いのちを損じたら何の得がありましょう」(三六)
 と言い、命の大切さを説いておられる。私たちにとって最も大切なのは命である。この「命」は、肉体的生命でもあり、また霊的な永遠の命でもある。しかし主は、
 「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者はそれを救う」(三五)
 とも言われる。福音を退け、殉教の危険を避けようとして自分の命に執着する者は、かえって自分の命を失う――すなわち永遠に滅びる。
 一方、殉教さえ恐れず命を賭けてキリストのために働く者は、自分の命を救う――永遠の命を得るというのである。
 これはキリストの弟子にとって、最も大切な真理である。私たちはこの真理の持つ重大な意味を、よく理解しなければならない。
 キリストの弟子となることは、自分の命を賭けた行為である。キリストから離れては、どんな人も永遠の滅びしかない。しかしキリストの弟子として、命を賭けて生きることによって、私たちは永遠の命に達するのである。
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27日 旧約・詩篇六八篇
 新改訳聖書で、ところどころ太文字で「主」と記されている箇所は、原文では神聖四字、すなわちヤハウェの御名が記されている所である。
ヤハウェの御名は、神の固有の御名――固有名詞である。「太郎」や「花子」が個人の名であるのと同じく、ヤハウェは神ご自身の固有の御名である。
 ヤハウェの御名には短縮形があって、ヤハである。本詩篇の四節、および一八節の「主」の原語は、ヤハである。
 私たちも使う「ハレルヤ」という言葉は、ハレル・ヤハで、「ヤハ(ヤハウェ)をほめよ」の意味である。そのほかヤハの御名は、イスラエル人の名の中にも多く使われている。
 たとえば「イザヤ」は、イザ・ヤハで「ヤハは救い」の意味、「アナニヤ」はアナニ・ヤハで「わが主はヤハ」の意味である。
 ヤハウェ(ヤハ)の御名は、みだりに唱えてはならない。しかし礼拝の心をもって発音することは良い。
 イスラエルの人々は、ヤハウェ(ヤハ)の御名を、信仰告白として発音した。この御名を、礼拝の心をもって呼び求める者は救われる。
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28日 旧約・詩篇六九篇
 神の家のことを熱心に思う思いは、この罪人の世界では、常に正当に報われるわけではない。むしろ、人を疲れさせ、身も心もボロボロにしてしまうことさえ少なくない。
 新約聖書によれば、主イエスがかつて宮きよめをなさったとき、弟子達は激怒するイエスの御姿を見て、
 「『あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い起こした』」(ヨハ二・一七)
 という。『 』内は、本詩篇九節前半からの引用である。
 主イエスは、神の家のことを熱心に思われた。それで、神殿を商売の巣窟にしていた商人たちを追い出されたのであるが、その時の激情は、主の心身を疲れ果てさせ、また「食い尽くす」ほどのものであった。
 ローマ一五・三にも、こう記されている。
 「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、『あなたをそしる人々のそしりが、わたしの上にふりかかった』と書いてある通りです」。
 『 』内は、本詩篇九節の後半部分の引用である。主は、神の家を思う熱心さのゆえに、人々からのいかなる迫害や嘲笑をも、甘受されたのである。
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29日 新約・第二コリ四章
 
「いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それはイエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」(一〇)。
 力強い生涯の秘訣は、
 「死んで生きる」
 ことにある。第一に、イエスの死をいつでもこの身に帯びて自分に死ぬこと、そして第二に、イエスの復活をいつでもこの身に帯びて、イエスにある「新しい人」に生きることである。これにより、
 「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私の内に生きておられるのです」(ガラ二・二〇)
 という境涯に至る。
 イエスの死と復活は、このためである。彼の死と復活は、私たちが古き人に死に、キリストによる新しき人に生きるためなのである。
 言い替えれば、私たちはイエスの死と復活を、自分の全生涯をかけて体験していく。それは私たちを真に生まれ変わらせる。
 何度も何度も輪廻転生することが、私たちの生涯を変えるのではない。私たちは、今生きているこの生涯において、生まれ変わるのである。
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30日 旧約・詩篇七〇篇
 
「神よ。私を救い出して下さい。主よ。急いで私を助けて下さい」
 「主よ。遅れないでください」(一、五)。
 神は、このように助けを求める声を、決して不快には思われない。神はこのような祈りをする者を、むしろ喜ばれる。
 これを祈ったダビデは、人々の間では、非常に強い人物と思われていた。彼は常に堂々としていたし、強者に対しては強く、弱者に対してはやさしく思いやる人だった。
 そのように強い人物だったダビデも、神の前では遠慮なく自分の弱さをさらけ出した。彼は「私は悩む者、貧しい者です」(五)と告白している。
 神の前で自分の弱さをさらけ出す人は、人々の間では強くされる。逆に、神の前で強がる人は、人々の間では弱く、もろいものである。
 真の強さは、神から来る。それは祈りの中で与えられる。あなたも、神の前で自分の弱さを隠さず、すべてさらけ出そう。
 神はあなたの手を取り、やさしくその涙をぬぐって下さる。そしてあなたと共に歩んで、あなたを強い者となして活躍させて下さるであろう。
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31日  旧約・詩篇七一篇
 
「私は、多くの人にとっては奇跡と思われました」(七)。
 この詩篇の作者が、誰であるかは不明である。が、年老いた信仰者の祈りではないかと言われている(一八)。彼の生涯は、多くの人にとっては「奇跡」と思われた。
 クリスチャンの生涯も、そうではないか。ルター、カルヴァン、ウェスレー、フィニーらの生涯を思うとき、彼らの生涯はまさに奇跡である。
 リンカーン、キング牧師、マザー・テレサ、内村鑑三、賀川豊彦・・・・彼らの生涯も奇跡ではないか。そのほか、有名無名のキリスト者が数多く私たちの身近にいる。彼ら一人一人の生涯がみな、奇跡である。
 あなたもキリスト者なら、自分のこれまでの生涯を振り返ってみたとき、ここまで支えられ、ここまで来れたのは「奇跡だ」と思えるに違いない。
 今までだけではない。神はこれからも、もっと大きな奇跡を見せて下さるであろう。それはあなたの人生が体験するものである。神はかつてこう約束された。
 「『わたし自身、わたしのあらゆる善を、あなたの前に通らせる』」(出エ三三・一九)。
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