聖書一日一章

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1日 新約・ガラテヤ二章
 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
 いま私がこの世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(二〇)。
 使徒パウロは、自分の古い自我に死んだ。自分に死に、キリストに生きたのである。
 キリストが、パウロのうちで生きておられた。しかし、パウロの個性が失われたわけではない。
 キリストが彼のうちで生きることにより、むしろパウロの生命と個性は躍動し、充実し、輝きを放ったのである。
 人間パウロにおいて、主体となっていたのは彼の自我ではなく、キリストご自身であった。キリストが彼の人生と行動を導かれたのである。
 本当の幸福は、自分の欲望を実現することにあるのではない。神のみこころを実現することにある。
 主イエスは、私たちに神のみこころを教え、それを実現する力を与えてくださる。私たちがキリストに似た者に変えられること――救いの完成がそこにある。
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2日 旧約・詩篇一一四篇
 
「海は見て逃げ去り・・・・」(三)とは、かつてモーセに率いられたイスラエル民族が出エジプトをして紅海に来たとき、海の水が両側にせきとなってそそり立ち、その水の間を民が歩いて行った時のことを言っている。
 また、「ヨルダン川はさかさに流れた」(同)は、ヨシュアに率いられたイスラエル民族がカナンの地に入ろうとするとき、ヨルダン川の水が神によって上流でせきとめられ、逆流した出来事である。
 イスラエルの民は、こうして常に神のみわざを思い起こし、讃美と感謝を捧げて、神を喜んだ。
 私たちはときに、
 「今はちっともいい事がない」
 などと、ぼやくことがある。しかし、クリスチャンの先輩たちや、友人、また自分の過去に神がなして下さった多くの恵みを思い起こそう。
 神は、なんと多くの恵みをクリスチャンたちに注いで下さっていることか。聖歌の「数えてみよ主の恵み」にあるように、私たちは神のみわざを思い起こすだけでも、心に深い喜び楽しみを得る。
 神はこれからあなたの人生に何をなして下さるであろうか。神のみわざを受けとめられる者になろう。
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3日 旧約・詩篇一一五篇
 「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰して下さい」(一)。
 私たちは、この御言葉を暗記して、つねに心に唱える者でありたい。
 繁栄、成功を求めること自体は、決して悪いことではない。神はあなたを祝福し、あなたを繁栄させ、成功を与えたいと願っておられる。
 しかし、私たちは繁栄や成功を得たとき、その栄光は神に帰するのである。なぜなら、繁栄と成功はすべて神の恵みによるからである。
 私たちは、自分の栄光ではなく、神の栄光の現わされることを求める。使徒パウロが言ったように、私たちは、
 「生きるにしても、死ぬにしても、私の身によってキリストの素晴らしさが現わされることを求める」(ピリ一・二〇)
 者たちである。真の謙遜は、自分が何もしないことにあるのではない。主のために自分にできる限りのことをして、その働きが実りを得たとき、すべての栄光を主にお返しすることである。
 そのとき主は、その栄光をただではお受けにならない。主はあなたを高く上げ、豊かに祝して下さる。
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4日 新約・ルカ四章
 主イエスは公生涯を始められたとき、ナザレの会堂で、イザヤ書六一・一の預言の御言葉を朗読し、それが「今日実現した」と言われた。
 「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれた」(一八)。
 この「主」は、イザヤ六一・一のヘブル原語では神聖四字の使われている箇所であり、ヤハウェ神(父なる神)である。すなわちこの句は、
 「ヤハウェが・・・・福音を伝えるようにと、わたし(キリスト)に油を注がれた」
 という意味である。イエスは、この御言葉を会堂で朗読することによって、ご自身がヤハウェ神から油を注がれたメシヤであることを、高らかに宣言された。
 また、この時からメシヤとしての活動を始めることを、イエスは明らかにされたわけである。
 イエスはまた、ご自身の出現によって「主の恵みの年」(一九)が始まったことを、宣言された。イエスの出現以来、新約時代である今は、「恵みのとき」なのである。
 このときに、信仰をもって主の御名を呼ぶ者は、誰でも救われる。私たちの使命は、人々が主の御名を呼び求めるよう伝道することにある。
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5日 旧約・詩篇一一六篇
 「主の聖徒たちの死は、主の目に尊い」(一五)。
 クリスチャンの死は、主の目に尊い。
 死は、ある人には悲しみとしか感じられない。ある人にとっては暗黒であり、ある人にとっては恐怖である。ある人は努めて死を考えず、一方、ある人は努めて明るいものに捉えようとする。
 しかし、人の思惑に関係なく、人生の終点には死の現実が厳然と存在している。自分の親しい者の死を看取った経験のある人なら、それを一層感じるのではないだろうか。
 誰でも、いずれ死ぬ。これは厳粛な事実である。人がどう考えようと、死の厳粛さは変わらない。
 しかし、クリスチャンが死ぬとき、その死は神の目には尊い。なぜなら、クリスチャンが死ぬとき、その人は「よみ」ではなく「天国」に迎えられるからである。
 クリスチャンの死は、よみへの降下ではなく、天国への凱旋である。神はその人を、慈愛と恵みに包んでご自身のもとへ引き上げて下さる。 「彼らはその労苦から解き放されて休むことができる。彼らの行ないは彼らについて行くからである」(黙示一四・一三)。
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6日 旧約・詩篇一一七篇
 本篇は、詩篇中最も短い。しかし、初代教会においてもよく知られた詩篇で、次のようにローマ一五・一一に引用されている。
 「また異邦人も、あわれみのゆえに神をあがめるようになるためです。こう書かれているとおりです。・・・・『すべての異邦人よ。主をほめよ。もろもろの国民よ。主をたたえよ』(詩篇一一七・一のギリシャ語訳からの日本語訳)」。
 一節の「すべての国々よ。主をほめたたえよ」と言われた詩篇の言葉は、ペンテコステ以後、異邦人伝道がスタートしたことによって、さらなる現実性を帯びることになった。
 まことに主の恵みは、イスラエルだけでなく、異邦人、そして全世界にまで及ぶこととなった。
 「その恵みは私たちに大きく、主のまことはとこしえに至る」(二)。
 聖書の詩篇は、単に昔の詩人が神をほめたたえた言葉ではない。それは今も生き、働き、私たちの人生に実現する言葉なのである。
 それは、私たちの人生に強い影響力を持っている。詩篇の言葉を実践する者には、詩篇で言われている主の祝福が、豊かにもたらされるのである。
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7日 新約・ガラテヤ三章
 当時、ガラテヤ教会には、ユダヤ主義者たちが入り込んで、律法の行ないによって救いが完成するかのように教えていた(三)。
 しかし使徒パウロはここで、私たちは律法の行ないによってではなく、信仰によって救いの中を歩むのだと教えているのである。
 実際、律法が与えられたのはモーセの時であり、それ以前の律法のない時代、たとえばアブラハムの時代などは、人々は信仰のみによって義と認められていた(六)。
 神はまたアブラハムに、
 「あなたによってすべての国民が祝福される」(八、創世一二・三)
 と言われた。だから、アブラハムにならって信仰に生きる者は、すべて信仰による義と、祝福の中を歩むのである。
 律法が無価値だというのではない。律法は良き神の御教えであり、守るべきものではあるが、救いの「手段」ではない。「それを守れば救われる」というものではない。そうではなく、私たちは、神とキリストへの信仰――すなわち信頼・従順・愛によって救われる。私たちはみな、「キリスト・イエスに対する信仰によって神の子ども」(二六)である。
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8日 旧約・詩篇一一八篇
 
「私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである」(二一〜二二)。
 詩篇の言葉は、じつに不思議である。それは単に詩人が語った過去の言葉ではなく、預言的意味を持ち、その後の時代に成就する。
 後の時代に、主イエスはこの御言葉をご自身の死に当てはめられた(マタ二一・四二)。使徒ペテロも、群衆を前に、
 「『家を建てる者たちに捨てられた石が礎の石になった』というのは、この方(イエス)のことです」(使徒四・一一)
 と言っている。イエスは、神の家を建てる者たちであった祭司長や律法学者たちに捨てられ、十字架にかけられた。しかし、その捨てられたお方が、神の家を建てる礎の石――土台になったのである。
 まことに、神のなさることは不思議ではないか。ペテロは、礎の石なるイエスについて叫んだ。
 「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒四・一二)。
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9日 旧約・詩篇一一九篇
 この長大な詩は、「アレフベート歌」である。
 「アレフベート」とは、へブル語アルファベットである。へブル語アルファベットは二二文字ある。
 本篇は八節ごとに区切られていて、その八節単位が二二ある。だから八×二二で、合計一七六節である。
 最初の八節単位(一〜八)の各節は、すべてへブル語アルファベットの最初の文字アレフで始まる。英語で言えばAである。
 次の八節単位(九〜一六)は、各節がすべてへブル語アルファベットの二番目の文字ベートで始まる。英語で言えばBである。こうして、人々が覚えやすいようになっていた。
 御言葉を覚え、心に蓄えることは力である。
 「どのようにして若い人は、自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです」(九)。
 また、群馬県には、車椅子のクリスチャン詩人また画家である星野富弘さんの美術館があるが、その入り口には、詩篇一一九・七一の次の御言葉が刻まれている。
 「苦しみにあったことは、私にとってしあわせでした。私はそれで、あなたのおきてを学びました」。
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10日 新約・ルカ五章
 主イエスのご生活には、人々の前に現われた公の生活と、ただひとりになる隠れた生活とがあった。
 公の生活とは、人々に教え、福音を宣べ伝え、病人をいやす生活である。それは、ある意味では華やかな生活である。
 一方、隠れた生活とは、荒野における祈りの生活であった。
 「イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた」(一六)。
 イエスは、公生涯に入る前に四〇日の荒野の断食の時を持たれたが、荒野に行かれたのはその時だけではなかった。主は公生涯全般にわたって、「よく荒野に退いて祈っておられた」。
 私たちも、どんなに忙しくても、ただひとりになって神と交わる時を忘れてはならない。どんなに華やかに用いられる器になったとしても、それ以上に、ひとりになる時を大切にしなければならない。
 人の隠れた生活は、公の生活を支配する。勝利ある人生の秘訣は、隠れた生活において獲得される。公の生活は、隠れた生活で獲得されたものの反映である。
 一日を始める前に、主の御前に静まろう。
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11日 旧約・詩篇一二〇篇
 一二〇〜一三四篇は、エルサレムに巡礼する人々によって歌われた「都上りの歌」である。
 ユダヤの歴史を見ると、ユダヤ人の中には、何らかの事情から外国に住むことを余儀なくされていた者も多かった。
 本篇の作者は、「メシェクに寄留し、ケダルの天幕で暮ら」していた(五)。メシェクは黒海近隣の地域、ケダルは、アラビア人に属する人々である。
 人が外国に住むとき、そこが居心地のよい所ならまだしも、周囲の人々が「偽りのくちびる」「欺きの舌」の人々だったり、平和を語っても「戦いを望む」ような人々であれば、そこに住むのは苦痛以外の何物でもない。
 私たちの幸福は、環境によってかなり左右されるのが現実である。しかし、そうした中でも、私たちは幸福の根源である方を知っている。
 「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた」(一)。
 私たちと環境との関係は、横の関係である。一方、私たちと神との関係は、縦の関係である。この縦の関係がしっかりしていれば、いかなる環境の中にあっても、幸福を失うことはない。
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12日 旧約・詩篇一二一篇
 「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(一〜二)。
 この詩篇は、日本人の心情にもよくわかる。というのは、日本では昔から、山が神聖視されてきたからである。
 日本では、どこでも高い山の上には神社がある。山は、昔から神の降臨する聖なる場所とされてきた。
 仏教には、こうした考えはない。しかし、イスラエルでも日本でも共通して、山は神の場所として神聖視されてきた。
 かつてモーセは、シナイ山で律法を授けられた。またエルサレムは、山の上に建てられた町である。イエスは、しばしば山に登って祈られた。イエスが弟子たちの前で変貌されたのも、山の上であった(マコ九・二)。
 「主はあなたを、行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる」(八)
 と言われている。私たちは人生において、ときに山をのぼり、谷を下る。ただ独りで道を進まなければならないこともある。
 しかし、神はあなたと共におられて、行くにも帰るにも、すべての道であなたを守られる。
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13日 新約・ガラテヤ四章
 子は親の財産を相続する。しかし、親が生きていて、子がまだ小さいときは、まだ財産を相続しない。
 子は、たとえすでに相続人と決まっていても、後見人や管理者のもとにあって、まだ財産を実際に自分のものとするわけではない。しかし、父の定められた日が来ると、財産を相続する(二)。
 私たちもそうである。私たちはすでに神の子であり、神の富を相続するよう定められた者たちである。しかし、すでに神の富のすべてを私たちが相続したわけではない。
 相続の日は、キリスト再臨の日である。それまでは、神の子として相続人にふさわしい者となるため、訓練を受けている。
 その訓練は、ときに厳しいものもある。つらいこともあろう。しかし、私たちの前に置かれた神の無限の富の相続を思えば、そんなつらさなど取るに足りない。
 私たちは世の中を見るとき、生まれながら親の富を相続して裕福な生活をしている人々がいるのを見て、「世のなか不公平だ」と思うことがないか。
 しかし、私たちは神の富の相続人である。本当の幸福を与えるのは、神の富である。
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14日 旧約・詩篇一二二篇
 「エルサレムの平和のために祈れ」(六)。
 一九四八年のイスラエル独立以来、四度の中東戦争が繰り広げられてきた。「エルサレムの平和」は、夢のまた夢のように思われた。
 しかし、ようやく一九九五年になって、イスラエルと周辺アラブ諸国との間に平和の機運が高まってきた。平和条約が結ばれ、PLOのアラファト議長とイスラエルのラビン首相との間に、握手が交わされた。
 この平和の高まりは、エゼキエル三八・八の次の預言の成就である。
 「その国は剣の災害から立ち直り、その民は多くの国々の民の中から集められ、久しく廃墟であったイスラエルの山々に住んでいる。その民は国々の民の中から連れ出され、彼らはみな安心して住んでいる」。
 エゼキエル書の預言によると、こうしてイスラエルの民はパレスチナでしばらくの間「安心して住んでいる」。しかし、やがて北方の国の軍隊の侵略を受ける(三八・一五)。
 その後、キリストの再臨があって、エルサレムは恒久的な真の平和を確立するであろう。そして、その後「新しいエルサレム」(黙示二一・二)として生まれ変わり、そこには私たちもみな住むのである。
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15日 旧約・詩篇一二三篇
 私たちは、神のしもべであり、また神の子であり、またイエスの弟子である。
 私たちは、神の驚くべき恵みにより「神の子ども」として受け入れられた者たちであるが、だからといって「神のしもべ」であることをやめたわけではない。常に、自分は神のしもべであることも自覚しなければならない。
 「あなたに向かって私は目を上げます。・・・・奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています」(一〜二)。
 奴隷にとっては、主人の目を直接見ることは恐れ多い。それで「奴隷の目は主人の手に向けられ・・・・」と言われている。それは、自分よりはるかに優れた者に対する畏敬の目である。
 モーセは「神のしもべ」と呼ばれた(出エ一四・三一)。使徒パウロも、自分を「主の囚人」と呼んでいる(エペ三・一)。私たちは神に対しては奴隷のように、しもべのように服従しなければならない。
 わがままであってはならない。神は、従順なしもべたちに豊かに報いて下さる。
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16日 新約・ルカ六章
 「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい」(二七)。
 この二つの文は、同じ内容のことを、違う言葉で併記したものである。「あなたの敵を愛しなさい」の意味の解説が、次の「あなたを憎む者に善を行ないなさい」なのである。
 第一に、「あなたの敵」という言葉の意味は、「あなたを憎む者」である。決して「あなたが憎む者」ではない。
 私たちキリスト者は、誰をも憎まないことを命じられている。マハトマ・ガンジーが言ったように、自分からは「誰をも敵とみなさない」のである。
 しかし、もし誰かがあなたを憎み、あなたの敵として立ちはだかるなら、あなたはその人を愛さなければならない。
 第二に、その愛とは、「善を行なう」という愛である。
 「愛」のギリシャ原語は、アガペーという言葉で、善を行なう愛を意味する。これは、「好き」という感情が全くなくても相手に良いことを行なう愛である。
 主イエスが教えて下さったこの愛を実践するとき、私たちは本当に主の弟子なのである。
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17日 旧約・詩篇一二四篇
 
「私たちの助けは、天地を造られたヤハウェの御名にある」(八)。
 天地を造られた創造主なる神があなたの味方であるなら、あなたが恐れるべきものは何もない。あなたは力強く、堂々と人生を歩んでいくことができる。
 神があなたの主となり、あなたの親となられたときから、神はあなたの味方である。あなたはただ、神の御教えに聞き従い、忠実に歩んでいきさえすれば、決して道を踏みはずすことはない。
 自然界を見れば、このことがよくわかる。
 「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか」(マタ六・二六)。
 私たち人間は、人生においていろいろなことを悩むが、幸福な力強い人生を歩むための秘訣は単純である。それは天地を造られた神に自分の身をゆだね、その御教えに歩むことである。
 そうすれば、神はあなたの人生に必要なものはすべて備えて下さる。
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18日 旧約・詩篇一二五篇
 「主に信頼する人々はシオンの山のようだ。ゆるぐことなく、とこしえにながらえる」(一)。
 「シオン」とは、エルサレムの別名であり、愛称である。またシオンの「山」と呼ばれているわけは、エルサレムは標高七九〇メートルの台地上にあって、小高い山の上の町だからである。
 それは、東京のような低地の都ではない。東京よりもニューヨークよりも、高い所にある。
 しかも、エルサレムは四〇〇〇年の歴史を持つ都である。アブラハムの時代に、そこはサレム(エルサレムの旧名)と呼ばれ、王メルキゼデクが統治していた。
 四〇〇〇年の間、幾たびもの動乱はあったものの、エルサレムは常に聖都としての不動の地位を保ってきた。それは「ゆるぐことなく、とこしえにながらえる」。
 そして、やがては新天新地において、新エルサレムとしてさらに栄光ある都となる。
 エルサレムは、主イエスを信じる聖徒たちの模型でもある。クリスチャンは、神の力強い守りの中にある。
 また、神はクリスチャンを、やがて新天新地において光と恵みの中に導かれる。
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19日 新約・ガラテヤ五章
 「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです」(六)。
 キリストにあっては、割礼を受ける受けないが大事なのではない。また、どの教派、どの教団に属しているかが大事なのではない。
 さらに言えば、牧師か信徒か、また教会でどんな地位にあるか、役員か否か、などが大切なのではない。キリスト者にとって大切なのは、「愛によって働く信仰」だけである。
 単なる「信仰」ではない。「愛によって働く信仰」である。本当の信仰は、愛から生まれる。
 単に、うわべだけの祈りの生活や、教会生活をしているだけでは、本当の信仰にはならない。愛を生きていなければ、真実な信仰生活は送れない。
 私たちは愛されることを求めるが、とかく愛することを忘れやすい。しかし愛することがなければ、私たちは神の子とは言えず、またイエスの弟子でもない。
 神は、あなたのうちに愛があるか否かを見られる。神は愛であるから、あなたのうちに愛があれば、それは御前では宝石のように輝いて見えるのである。
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20日 旧約・詩篇一二六篇
 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(五)。
 悲しみ、苦しみ、試練は、それを乗り越えると力になる。今の苦労は、やがて大きな喜びに変わる。
 私たちは人生において様々の「種」を蒔く。善行であれ悪行であれ、私たちのとる行動はすべて「種」となって蒔かれ、やがて人間社会において発芽し、成長して実を結ぶのである。
 静岡で大きな教会をつくった伝道者は、その開拓伝道をトラクト配りからスタートした。
 教会ははじめ、一人の信徒もいなかった。伝道者の生活は非常に貧しかった。しかし彼は、友人の伝道者からもらった無料のトラクトを、毎日毎日、近所に配った。
 配りながら、出会った人に伝道した。しだいにクリスチャンになる者が起こされた。彼は、熱誠をもって主イエス・キリストの福音を説いた。
 涙とともに蒔いた種が、実を結びはじめた。それを刈り取る喜びは、どんなに大きかったことであろう。その教会は、またたく間にその地方で有数の教会に成長した。
 苦労してこそ成功がある。主にある苦労は、決して無駄にはならない。
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21日 旧約・詩篇一二七篇
 「見よ。子どもたちは主の賜物。胎の実は報酬である」(三)。
 子どもは主からの賜物、また授かりものである。息子、娘たちは神から与えられた宝である。
 仏教にはこうした考え方はない。仏教の「仏」は、創造者ではないからである。仏教ではまた、独身を奨励する面が強い。聖書だけが、家庭生活、結婚生活、また子どもの与えられる価値を本当に教えてくれる。
 子どもたちは、主から与えられた宝である。だから、私たちは主にあって彼らを大切に育成しなければならない。
 「子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。・・・・父たちよ。あなたがたも子どもたちをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい」(エペ六・一〜四)。
 世の中には、単に子どもを名門の学校に行かせ、良い会社に就職させることを目的に育てる親もいる。しかし一番大切なのは、その子が神の御前にどう生きていくかである。
 親は、子が主の御前に正しく生きていくために、あるときは家庭教師となり、またあるときは友となるために、主から選ばれたのである。
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22日 新約・ルカ七章
 バプテスマのヨハネは、まことに聖人・偉人と言える人物であった。
 ヨハネの人生を見るとき、私たち凡人はとてもあのようにはなれない、と思うのではないか。主イエスも、彼をお褒めになって、
 「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも優れた人はひとりもいません」(二八)
 と言われた。ところが主は続けて、
 「しかし、神の国で一番小さい者でも、彼より優れています」(同)
 と言われる。これは、神の国に入れられる者の救いが、いかに大きいかを示したものである。
 私たちは現世においては、罪深さと弱さに悩み、自分がちっぽけな人間に過ぎないことを感じている。しかし、天国に入った者たち、またキリスト再臨後に栄光の体を与えられて栄化された者たちは、皆、かつてのヨハネよりも偉大な聖人と変えられるであろう。
 私たちは、内なる罪の存在とその悩みから解放され、その自由意志も、神のみこころにそった聖なる愛に満ちたものになる。
 私たちの救いは完成し、みながキリストに似た者に変えられる。今は、それに至る途上なのである。
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23日 旧約・詩篇一二八篇
 
主にあって歩む人々は、「自分の手の勤労の実を食べるとき、幸福で、しあわせであろう」(二)。その仕事は繁栄し、家庭生活も幸福で、豊かに実を結ぶぶどうの木のように麗しいものとなる。
 聖書には、信仰の父アブラハムについて、
 「アブラハムは平安な老年を迎え、長寿を全うして息絶えて死に、自分の民に加えられた」(創世二五・八)
 と記されている。義人ヨブについても、
 「主はヨブの前の半生よりも、あとの半生をもっと祝福された」(ヨブ四二・一二)
 と記している。主にあって歩む者は、必ずや幸福な人生を歩むことができる。
 もちろん、クリスチャンの中にも迫害を受けた者や、殉教した者、後半生や晩年において苦労した者もいる。しかし、それでも彼らは幸福なのである。
 なぜなら、後半生や晩年において苦労したクリスチャンのために、神は測り知れない富をもって、あとで償って下さるからである。いかなる道を歩もうとも、主にあって歩む人生は楽しく、豊かである。
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24日 旧約・詩篇一二九篇
神に背を向けて歩む人々は、「伸びないうちに枯れる屋根の草」(六)のようである。
 日本でも、古い農家などに見られるような茅ぶきの屋根では、しばしば草が生える。しかし、少し伸びても、やがて枯れてしまう。神に結びついていない人々の運命も、ちょうどそのようである。
 しかし私たちクリスチャンは、成長するために神からの十分な栄養と、空気と、光と、水を与えられている。私たちは幾らでも成長してよいのである。
 植物は、自分の置かれた場所から他の場所へ移動することはできない。しかし、上に伸びるのは自由である。もっともっと背を高くすることはできる。
 私たちも、自分の置かれた境遇、環境をかえて別の所に行くことはなかなか出来ないであろう。生まれる国や時代や家庭を選んで、私たちは生まれてきたわけではない。
 そうしたことをかえることは、できない。しかし、上に伸びるのは自由である。
 私たちはもっともっと、神に向かって、天に向かって伸びることができる。魂を飛翔させ、天高く飛び回ることはできる。
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25日 新約・ガラテヤ六章
 「人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷がある」(五)。
 私たちすべての人は、自分が生きることによって神のためになすべき、何らかの役割と義務がある。
 聖書は、教会は「キリストの体」であって、私たち一人一人はその「肢体」であると言っている。「肢体」とは手や足など、体の各部分である。
 手にはそれなりの役割があり、足にはそれなりの役割がある。口には口の役割、鼻には鼻の役割、親指には親指の、小指には小指の役割がある。役割のない肢体はない。
 私たちも、すべての者に、それぞれ負うべき役割と重荷がある。私たちはキリストの体にあって、それぞれ自分の役割を果たさなければならない。
 人は「何でもできる」必要はないし、何もかもする必要もない。ただ、自分の役割を果たすことである。
 得意なこと、自分の長所は、ただ一つでも十分である。それを活用し、自分にできることをすることが、主に仕えることである。
 私たちは主のために、愛の実現のために、また伝道のために何かをなしているだろうか。人生は長くはない。今日すべきことは、今日しよう。
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26日 旧約・詩篇一三〇篇
 
「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あなたが赦して下さるからこそ、あなたは人に恐れられます」(三〜四)。
 もし、神が単に裁きの神であるなら、もはや救われる望みは誰にもない。私たちは、「どうせ滅ぼされるのだから、好きなことをしよう」と言うだけであろう。
 死後の最後の審判の法廷で、助かる望みがもし全くないなら、もはや誰も神を信仰して歩む者はいないであろう。
 しかし、神は赦しの神であられる。私たちが悔い改め、回心して立ち返るなら、赦し、豊かな恵みをもって私たちを受け入れて下さるかたである。
 だからこそ、私たちは神をおそれ、神を愛する。神が偉大な方だからである。
 神の聖・義・愛は、私たちの魂に畏敬と愛を引き起こす。真実の神はそのような方である。
 つねに、敬虔さを忘れないようにしよう。敬虔とは、神への畏れと愛である。神を知れば知るほど、私たちは峻厳な真理の前にあることの、身震いするほどの感動を覚えるのである。
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27日 旧約・詩篇一三一篇
 「主よ。私の心は誇らず、私の目は高ぶりません。及びもつかない大きなことや、奇しいことに、私は深入りしません」(一)。
 真の神を知っている人は、謙虚である。その人は、自分のわからないことは「わかりません」と言えるし、また自分をさぞ偉い者と思ったりはしない。
 最近、新興宗教やカルト(邪教)が多く現われるようになったが、そうしたものの多くは、
 「あなたも神になれる」
 というのを歌い文句にしている。教祖自身も自分を神と主張したり、信者から神と思われたりしている。
 その信者は、自分も神になろうと努力する。まさしく、これはかつてエデンの園でサタンがアダムとエバに、「あなたは神になれる」と言った誘惑と同じである。
 サタンの誘惑は、人類創世以来、何も変わっていない。それは人々をみな、小さな神々にすることである。しかし、私たちはこうした世相にあって、唯一まことの神を伝えていかなければならない。
 悪い時代だなどと嘆いていてはいけない。いつの時代も悪かったのである。至高の神の御前にへり下る幸いを、人々に伝えなければならない。
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28日 新約・ルカ八章
 一二年間も長血をわずらった女は、信仰をもって手を伸ばし、イエスにふれた。すると、たちどころに出血が止まった(四四)。
 しかし、実際にはイエスにふれた者は数多くいたのである。このとき、大勢の人がひしめき合っていた。だから、イエスが「わたしにさわったのは、だれですか」と言われたとき、弟子たちが不思議に思ったのも無理はない。
 けれども、長血の女の手は特別なものであった。その手には信仰がこもっていた。彼女が伸ばしたのは、単なる肉体の手ではない。信仰の手も伸ばしたのである。
 私たちには、三つの手がある。右手と左手、そしてもう一つ、信仰の手である。私たちが神の恵みを受けるためには、祈りの中で、この第三の手――信仰の手を伸ばさなければならない。
 ミケランジェロの「天地創造」という絵の中に、アダム創造を描いた部分がある。絵の中で、神の御手とアダムの手の指が今にも触れそうに、近接している。
 私たちの祈りとは、信仰の手を伸ばして、主イエスに触れる経験である。また父なる神に触れる経験である。
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29日 旧約・詩篇一三二篇
 この詩篇は、ダビデの子孫としてお生まれになるキリストを、明確にではないが、暗示的なかたちで預言している。一七節に、
 「わたし(神)は、ダビデのために、一つの角を生えさせよう。わたしは、わたしに油注がれた者のために、一つのともしびを備えている」
 と言われている。「角」は、旧約・新約双方の預言書にしばしば出てくる言葉で、王をさす。これは究極的に、キリストによって成就する。
 「わたしは彼の敵に恥を着せる。しかし、彼の上には、彼の冠が光り輝くであろう」(一八)。
 「彼」は、究極的にキリストをさしている。キリストは全世界の王となられるのである。
 最近、英国の王室はスキャンダル続きで、国民はあきれ果ててしまっている。日本でも、皇室を多額の税金で支えている価値があるか、といった議論がないわけではない。
 この地上における王政には、ぬぐいがたい矛盾が常につきまとっている。しかし、キリストを王とし、父なる神を大王とする神の王国においては、矛盾は一切ない。
 むしろ、その王政は繁栄と、正義と、平和と、幸福の源泉となっているのである。
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30日 旧約・詩篇一三三篇
 一九一四年に第一次世界大戦が始まって約五ヶ月後、残酷な猛攻撃の応酬のために、双方にはすでに三五〇万人もの死傷者が出ていた。
 一二月二四日のクリスマス・イブに、ベルギーの戦線で、イギリスの小隊は、ドイツ側の塹壕から四〇メートルほどの所に杭を立て、鉄条網を張った。ところがイギリス兵たちの驚いたことに、ドイツ側からは一発の銃声もあがらなかった。
 翌日、さらに珍しいことが起こった。双方の側から幾百人もの兵士が、塹壕から這い出して来て、あいさつや記念品を交わし、中間地帯で兄弟のように交わったのである。いったい何が起きたのか。クリスマスが訪れたとき、戦争に疲れた彼らの心は、平和と友好関係を心の奥底から願い求めていたのである。
 しかし、その友好関係はその日だけで終わった。その後、第一次大戦は、さらに幾百万もの生命を死に追いやったのである。
 人間の世界には、真の兄弟関係を妨げているものが多い。けれども、私たちは主にあっては一つに結ばれた兄弟姉妹たちである。
 「兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう」(一)。
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31日 新約・エペソ一章
 
愛知県のある教会では、年に一回、聖句暗唱集会を開く。といっても、子どもの日曜学校の聖句暗唱ではない。大人の聖句暗唱の集会である。二〜三時間の集会が持たれる。
 その教会では、その年の聖句暗唱の箇所として「エペソ人への手紙」が選ばれた。牧師は、
 「この手紙には、私たちの信仰生活の最も重要な事柄が要約されている。この手紙の全部を暗唱する方の出場も期待したい」
 と言った。信徒の中には、「中学生の暗記力の優れた時期ならともかく、大人になった私たちには全部暗唱など無理だよ」と言う者が多かった。
 しかしそうした中で、ある老婦人が、「牧師がそうおっしゃるのだから、きっとできる」と言った。
 聖句暗唱集会の日がやってきた。一章だけ暗唱した者、二章だけ暗唱した者もいた。
 そして、「きっとできる」と言ったあの老婦人も皆の前に出て、聖句を唱え始めた。なんと彼女は、エペソ人への手紙の一章から最後までを、ときどきつっかえはしたものの、全部暗唱して見せたのである。
 それを聞きながら、多くの人が聖句の恵みにふれて帰って行った。
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