聖書一日一章

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1日 旧約・詩篇一三四篇
 「シオン」(三)というのは、エルサレム、とくにエルサレムの神殿の丘の愛称である。
 ヨハネ黙示録によると、じつは天国にも「シオン」がある。
 「見よ。小羊(キリスト)が、シオンの山の上に立っていた。また小羊とともに、(地上から贖われた)一四万四千人の人たちがいて・・・・」(一四・一、三)。
 この「シオンの山」は、天国のシオンの山である。天国は「天のエルサレム」(ヘブ一二・二二)の愛称でも呼ばれ、そこには「シオンの山」がある。それは神の御座でもある。
 「天地を造られた主が、シオンからあなたを祝福されるように」(三)。
 神は天国のシオンの山から、あなたを見守り、あなたを祝福して下さる。私たちの上には永遠の眼があり、私たちの下には永遠の腕がある。
 だから、この地上世界を、私たちは自由に生きることができる。地上世界のどこにいても、私たちは神と共にいる。
 住み慣れた日本だけが私たちの世界ではない。地上世界はすべて、私たちの神の家の大庭なのである。私たちの思いに国境はない。主にあって、世界にはばたこう。
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2日 旧約・詩篇一三五篇
 日本は第二次大戦中、米英を主軸とする連合軍を「鬼畜米英」と呼んでさげすみ、彼らと戦って負けた。
 イスラエルもかつて、多くの国々と戦った。出エジプト後はカナンの国々と。士師時代にはペリシテ人らを相手に、また列王記の時代にはアッシリヤ、バビロンを相手に。
 しかし聖書には、彼らを「鬼畜」と呼んでさげすむ表現は出てこない。「わが敵」という表現もない。「民族の敵」「裏切り者」といった強烈な表現もない。
 なぜなら、イスラエルにとって、すべての民族は神の御手にあるものにすぎなかった。
 エジプトが倒されたのも、カナンの国々が破れたのも、戦ったイスラエルが強かったからではない。イスラエルが正しかったからでもない。彼らが悪かったからである。それで神が彼らに裁きを下されたのである。
 「主は多くの国々を打ち・・・・」(一〇)。
 正しいイスラエルが、悪い彼らを倒したのではない。裁きを下したのは神ご自身である。だからイスラエル人は、敵への悪口を言うより、主を讃美する。
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3日 新約・ルカ九章
 
主イエスが山上で本来の栄光の御姿に変貌されたとき、「モーセとエリヤ」が現われた(三〇)。なぜ彼らだったのか。
 三人は、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期」について話していた(三一)。「ご最期」と訳されたギリシャ原語は、エクソダスで、「脱出」を意味し、「出エジプト」をさす。
 イエスの十字架は、彼を信じるすべての人々を罪と滅びから脱出させるための、神のみわざであった。イエスはご自身を犠牲に処して、人々を救いに導かれたのである。
 このみわざについて語るために、地上にはふさわしい者が誰もいなかった。一二弟子たちでさえ、このときはまだイエスの十字架死について全く理解していなかったのである。
 しかしモーセは、自分を犠牲にしてまで民を救いたいと願ったことのある人物であった(詩篇一〇六・二三、出エ三二・三二)。エリヤも、偶像礼拝の罪に汚れた民の中にあって、自分が殺される危険にありながらも雄々しく伝道した無私の人であった。
 十字架を前にしたイエスのご心情を察することのできた人物は、彼らをおいて他にいなかったのである。
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4日 旧約・詩篇一三六篇
 「神の神であられる方」(二)、「主の主であられる方(三)は、英訳では“God of gods”“Lord of lords”である。
 「神」「主」と呼ばれるものはこの世に多くあるように見えても、本当の神はおひとりである。真の神は、至高の方であられる。神を讃美し、神に感謝する者に対し、神は恵み深い。
 「その恵みはとこしえまで」。
 私たちはときに、つらいことや、にがい経験があると、「神は今日は恵み深くない」などと思いはしないか。
 しかし、神の「恵みはとこしえまで」である。ときにある辛いことや、苦いことは、一時的な事柄にすぎない。
 甘い事柄ばかりで人生は成り立たない。ときには香辛料や、にがみも加えなくては、よい味が出ないのである。
 神の恵みは、未来永劫まであなたと共にある。それは絶えることがないし、尽きることがない。
 私たちのすべきことは、神の恵みを無駄にしないことである。「今日、私は神のために何をなすべきだろうか」。
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5日 旧約・詩篇一三七篇
 
「バビロン川のほとり、そこで、私たちはすわり、シオンを思い出して泣いた」(一)
 という作者の心境は、充分に察することができる。
 母国は荒廃し、自分は今遠いバビロンの地に置かれ、鎖につながれている。前に流れるバビロン川がヨルダン川だったら、どんなにいいだろうと、彼は何度も思ったに違いない。
 イスラエル人を捕え移した者たちは、興を求めて「シオンの歌を歌え」と言う。しかし、異国の地にあってどうしてヤハウェの喜びの歌を歌うことができようか。それは屈辱以外の何物でもない(四)。
 彼の脳裏には、イスラエルの美しい光景と栄光のエルサレム神殿の姿が、幾たびも去来したことであろう。
 古代中国の詩人は「国破れて山河あり」と歌った。しかしイスラエル人の彼は、破れた祖国の山河の中にいることすらできないのである。
 七〇年に及ぶバビロン捕囚の期間においても、イスラエル人はこの屈辱と、祖国への愛を忘れなかった。彼らは決して負け犬にはならなかった。
 だからこそ、彼らは再びイスラエルの地に帰ることができたのである。
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6日 新約・エペソ二章
 
 「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです」(一〇)。
 私たちは、罪を犯さないことばかりを考えて、良い行ないをすることを忘れるようであってはならない。私たちは愛に生きるとき、本当に信仰に生きているのである。
 救われるために良い行ないをするのではなく、救われた感謝に、良い行ないに励む。それが神のみこころだから、良い行ないをなす。
 「あれは偽善だ」とか「表面だけだ」とか言われることを恐れてはいけない。人の言葉など気にしていては何もできない。
 良い行ないは、慣れないうちは不自然に見えても、続けていると、やがて本物になる。大切なのは、それが自分の生活そのものになるまで続けることである。
 なにも、新聞記事になるような大きな善行をすることが求められているのではない。これは日常生活のことである。身近にいる隣人に対するちょっとした親切、思いやりのことである。
 そのような場は、探して見れば幾らでもある。
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7日 旧約・詩篇一三八篇
 ダビデは、かつては一介の羊飼いに過ぎなかったが、後に王の地位にまで上りつめた。
 この点でダビデは、かつて丸太小屋の赤貧家庭の子から米国大統領の地位にまで上りつめたあのリンカーンにも似ている。両者とも、謙遜を知った人物であった。
 「まことに主は高くあられるが、低い者を顧みて下さいます。しかし、高ぶる者を遠くから見抜かれます」(六)
 は、じつにダビデの経験でもあった。
 人生の低きを知った人は、高きにも耐えうる人物である。どん底を見た人は、頂上をもきわめることができる。
 人生の経験で無駄なものは何もない。辛い経験ほど、あとで役に立つ。
 苦しみの世界を歩んで、初めて見えてくる世界というものがある。神の真理は、そうした中でこそ啓示される。
 いかなる境遇も、私たちの魂にとっては、すべてが神に至る道である。人生は修養である。神に近づくための信仰の修養である。
 信仰によって魂が清められていくとき、神が見えてくる。
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8日 旧約・詩篇一三九篇
 神学者は、難しい言葉を使って、神の全知全能や、無限性、偏在性、永遠性や不変性について語る。
 しかしダビデは、平易な、また感動的な言葉で、神のそうした奥深い属性を明らかにしている。
 全知――「ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれを知っておられます」(四)。
 偏在――「たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、私がよみに床を設けても、そこにあなたはおられます」(八)
 全能(創造)――「それはあなたが私の内蔵を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです」(一三)。
 このようにダビデは、神のご属性を記述する際に、「私」という言葉を用いている。彼はそれらを、自分自身の体験として捉えていたのである。
 神の全知全能、無限、偏在、永遠、不変等のご属性は、単なる観念的知識ではなく、ダビデ自身の体験であった。私たちも神のご属性を、単なる知識ではなく、自分自身の体験として知るとき、本当に神を知ったと言えるのである。
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9日 新約・ルカ一〇章
 主イエスは「この三人の中で誰が、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」(三六)と言われた。
 イエスによれば、隣人というのは、隣人に「なる」ものなのである。私たちは、隣人で「ある」ためには、隣人に「ならなければ」ならない。
 強盗に襲われて半殺しになった人の近くを通りがかった祭司、およびレビ人は、被害者の近くには来たのだが、隣人にはならなかった。しかしサマリヤ人は、隣人に「なった」。
 私たちは、隣人たちの中にあって、彼らの隣人に「なって」いるだろうか。
 これは、よくよく考えてみるべきことである。サマリヤ人は、自分に出来ることをした。一方で私たちは、自分に出来ることをしているだろうか。
 自分に出来ないことまでせよ、とは言わない。しかし、工夫して自分の出来ることを拡大していくことは、私たちに求められているのではないだろうか。
 祭司やレビ人は、社会的には地位も名誉もあったが、神には覚えられなかった。しかし、あのサマリヤ人は神に覚えられた。
 それは彼が、愛の隣人としての生き方を貫いたからである。
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10日 旧約・詩篇一四〇篇
 ダビデはこの詩篇においても、「私の神、主よ」(六)、「私の主、神、わが救いの力よ」(七)と、神を「私の・・・・」と呼んでいる。
 神に対して熱烈に求め、御前に迫る者は、神を「わが神、わが主よ」と呼ぶであろう。
 神は私たちの神でもあるが、「私の」神でもあられる。こうした呼びかけを、神は決して不快とは思われない。
 たとえば、ある父に子どもが何人かいた場合、子どもの一人が父に呼びかけて「私たちのお父さん」と言ってもよいだろうが、「私のお父さん」と言ってもよい。この呼びかけは、きわめて自然である。
 神と人の関係は、基本的には個人的なものである。あなたは、ひとり静まって個人的な祈りをする時は、「わが神、わが主よ」と呼んでよい。神はあなたの魂の叫びを聞かれるであろう。
 神は真実な方であるから、私たちの祈りが真実であればあるほど、よく聞き届けて下さる。信仰生活の深さは、祈りに最もあらわれる。
 あなたの顔を天に向け、魂の思いを御前に注ぎだそう。
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11日 旧約・詩篇一四一篇
 「主よ。私の口に見張りを置き、私のくちびるの戸を守ってください。私の心を悪いことに向けさせず、不法を行なう者どもと共に悪い行ないに携わらないようにして下さい」(三〜四)。
 ダビデの時代は、戦乱の世であり、その周囲には陰謀や悪行が常にうずまいていた。だから、ほんの少しでも間違えれば、彼はたちまち自分の手を悪に染める危険があったのである。
 周囲に悪人が多いとき、自分も悪に染まってしまうのは、たやすい。
 たとえば、今あなたがたとえ悪に染まっていない人物であるとしても、それはもしかすると、単に今まで良い友人に恵まれ、悪い友人や悪い上司のもとにいなかったというだけなのかも知れない。
 けれども、たとえ状況が変わっても、正しい生き方を貫けるとすれば、その正しさは本物である。
 もし私たちに、殺人や、強盗、窃盗、そのほか凶悪な罪の経歴がないとしても、それは私たちの誇れることではない。それは単に、私たちが今まで、幸いにもそのような状況に置かれなかったというだけなのかも知れない。
 すべては、神の恵みである。
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12日 新約・エペソ三章
 「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名のもとである父」
 という言葉が、一五節にある。神の家族は、天上と地上にある。
 私たちクリスチャンは、みな神の家族の一員であり、神を父とし、天国を母とし、主イエスを長子とする兄弟姉妹たちである。
 この兄弟姉妹たちは、地上にもいるが、天国にもいる。すでに世を去ったクリスチャンたちは、天国にいる。彼らも、神の大家族に属している。
 神の家族は、今は天上と地上の二カ所に分かれて住んでいるのである。しかし、やがて地上のクリスチャンの数が満ちると、キリスト再臨の時に、天上と地上の兄弟姉妹たちは一つに集められ、一つの群となるであろう。
 私たちには、壮大な未来が待っている。私たちには、帰るべき所、行き着くべきゴール、また栄光と至福に満ちた新しい世界が待っている。
 それは現在の生の次のステップである。次のステージである。
 単に輪廻転生して、もう一度この世界に生まれ変わるというのではない。それは全く別の新しい秩序に満ちた、幸福な世界なのである。
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13日 旧約・詩篇一四二篇
 ダビデは、王宮にいるべき者であるのに、今は薄暗い洞窟にひそかに隠れていなければならない。彼は何度も、
 「なぜ私はこんな所にいるのか」
 と自問したに違いない。あなたも、人生においてこの問いを抱いたことはないか。
 あのモーセも、エジプトから追放されてミデヤンの野で羊飼いをしていたとき、この問いを抱いたに違いない。
 「私はエジプトで王族として育った。なのに、なぜ私はこんな所で貧しい羊飼いとして暮らしているのか。また、私はイスラエル人を救い出そうとした。なのに、なぜ今それをあきらめて、こんな所で老年に達してしまったのか」
 人は、若い時に夢を持つ。その夢に向かってひた走る。しかし、やがて挫折を迎える。そしてしばらくすると、自分の望まなかった職業や状況にある自分を発見するのである。
 しかし、主にあって望みを失わない者は、決して失われない。時が来ると、その人は神によって高く引き上げられる。
 「私の魂を牢獄から連れ出し、私があなたの御名に感謝するようにしてください」(七)。
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14日 旧約・詩篇一四三篇
 
ダビデは、敵の中から助け出して下さいと祈る際に、
 「私はあなたのしもべですから」(一二)
 と言っている。自分は神のしもべとして生きているから、助け出して下さい、と祈った。私たちも神のしもべとして生きているなら、大胆に神に願ってよい。
 あなたは、神に祈る際に、その御前で「私はあなたのしもべですから」と言えるであろうか。それを神に認めていただくことが、できるであろうか。
 ダビデはまた、
 「あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから」(一〇)
 とも祈っている。
 このような真実な祈りを真剣にする人が、わずかでもいれば、その教会は大きく発展するに違いない。そしてひいては、日本をも変えることができるであろう。
 自分のことを願う人は多くても、神のみこころの実現を本当に心から願い、自分もそのために働こうという人は、意外に少ない。今日の世界に必要なのは、神のみこころを行なう「神のしもべ」の出現である。
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15日 新約・ルカ一一章
 
ある無神論者が来て、議論をふきかけて言った。
 「神がいるなら、いま奇跡を見せてみよ」。
しかしこうした人は、たとえ奇跡を見たとしても、本当に信仰に入るであろうか。
 たしかに、奇跡を見て信仰に入る人もいるであろう。しかし多くの人は、奇跡を見たからというよりは、真理を知ったから信仰に入ったのではないだろうか。
 私たちを信仰に入らせるのは、病気が治るとか、超能力とか、なにかの個々の「すごい」わざではない。真理を知ることが、私たちを信仰に入らせるのである。真理こそが神の「しるし」である。
 「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」(二九)
 とイエスは言われた。預言者ヨナは、ニネベに行って神の真理を宣べ伝えた。何かの奇跡を行なったわけではない。ヨナは単に、真理を人々の前に描き出した。人々はその真理を知ったとき、悔い改めて神に立ち返ったのである。
 私達はこの時代に、真理そのものであられるキリストを描き出す。
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16日 旧約・詩篇一四四篇
 人は、年とともに人生のはかなさ、せつなさ、悲哀を知るようになる。「人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです」(四)。
 人生とは、いったい何なのか。平均八〇年程度の私たちの人生は、永遠の尺度から見れば、ほんのわずかのことでしかない。
 人生で味わう様々な喜怒哀楽、幸福・不幸、努力や苦労、そして生老病死は、一体どんな意味を持つのか。すべてが移り変わる諸行無常のこの人生において、私たちの存在も、実体のない単なる「影」に過ぎないのか。
 この地上だけを見るなら、そのような思いにかられることもあろう。しかし、永遠に生きておられるかたを見上げるなら、もっと違った事柄が見えてくる。
 「幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は」(一五)。
 私たちは、自分の人生に関してでさえ、やがて多くの事柄を忘れてしまう。それは影のように、忘却のかなたに過ぎ去ってしまう。
しかし、永遠者のご記憶の中では、私たちの過ぎ去りし人生も、生き生きと生き続けている。この方につながるとき、私たちも永遠者と共に、とこしえに生きるであろう。
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17日 旧約・詩篇一四五篇
 「主を呼び求める者すべて、まことをもって主を呼び求める者すべてに、主は近くあられる」(一八)。
 私たちは祈る際に、神の御声をじかに聞くことはないであろう。それでも、神がその祈りに耳を傾けて下さっていることを、知ることはできる。
 第一に、神は聖書の御言葉を用いて、私たちの心に答えを与えて下さることがある。
 祈っているうちに、ふと聖書の御言葉が、まばゆい光を放って心に迫ってくることがある。これは神からのものと思ってよい。神はあなたの祈りに、解答を与えておられるのである。
 第二に、祈っているうちに、人知では計り知れないような確信や、平安、喜びが与えられることがある。これは聖霊によるものであり、神からの恵みなのである。
 第三に、祈りを終えた後、神が見えない御手をもってあなたの今後を導かれることがある。これを摂理という。
 自分の思っていた道が閉ざされ、かえって、思わなかった道が開かれることもある。神は見えない御手をもって、摂理的に、あなたのために道を開かれる。
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18日 新約・エペソ四章
 「怒っても、罪を犯してはなりません。日がくれるまで憤ったままでいてはいけません」(二六)。
 聖書は、怒ることを一律には禁じない。「義憤」と呼ばれる正しい怒りもある。不正に対する憤りもある。
 しかし、感情的な怒りを持ち続けることは良くない。それは悪魔につけいるすきを与えることである。
 たとえば、ある人が身近に不正や悪を目撃したとしよう。その人は怒る。しかし、もし感情的に怒り続けるなら、その人は暴力によって復讐することを考え始めるかも知れない。
 そうなればサタンの思うつぼで、その人は罪に陥るのである。しかし、感情的に怒り続けるのではなく、むしろ心を静めて理性的に振る舞うようにするなら、その人は非暴力的な手段によって不正や悪に対処しようと努力するであろう。
 私たちは義憤を感じた場合、たとえそれが最初は感情的なものであったとしても、すぐさま理性的なものに転換していかなければならないのである。
 そうでなければ、怒りは悪い結果をもたらす。しかし、理性によって制御された怒りは、私たちに正しい道を教えるであろう。
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19日 旧約・詩篇一四六篇
 私たちはとかく、この先いいことでもあれば、そのときは神をほめ讃えよう、と思うのではないか。しかし詩篇の作者は言う。
 「ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよ。私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう」(一〜二)。
 詩篇の作者は、「この先いいことでもあれば」といった条件はつけない。自分は、いのちのある限り神をほめ讃える、と言うのである。
 本当の神を知っている者は、自然にこうした心境に至るものである。本当の神を知っていること自体が、感謝と讃美の源だからである。
 「神を知る」ことは、人生を大きく変える。変えるだけではない。それは人生のすべてである。
 一度神を知った者は、神を知らない人生など考えることができない。神を知ることは人生の始めであり、人生のすべてである。人生とは神を知ることである。
 「神を知る」ことに、人生の宝と富のすべてが宿っている。私たちの幸福、喜び、平安、確信、愛、そのほかすべての良きものが、その中にある。
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20日 旧約・詩篇一四七篇
 神は、ご自身の名前を持っておられる。神のお名前はヤハウェ(ヤァウェ)という。
 神は「名」を非常に大切にされる。ご自分の名前だけではない。創造されたすべてのものを、神は名をもって呼ばれる。
 「主は星の数を数え、そのすべてに名をつける」(四)。
 私たち一人一人も、みな自分自身の名を持っている。神はそれらすべての名をご存じである。
 とくに、神を信じ神を愛してクリスチャンとなった人々の名前は、天にある「いのちの書」(黙示二〇・一二)に記されている。「いのちの書」に自分の名が記されていること――これこそ、キリスト者の平安の基礎である。
 以前、「シンドラーのリスト」という感動的な映画があった。ナチス・ドイツの迫害のもとからユダヤ人を救い出すために、ドイツ人実業家シンドラーが、自分の及ぶ限りユダヤ人のリストをつくって、彼らを救出したという実話である。
 世の終わりの最後の審判の法廷において、神の「いのちの書」のリストに名が記されている者は、滅びへの裁きを受けることなく、永遠の命を受けるのである。
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21日 新約・ルカ一二章
 「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい」(一五)と主イエスは言われた。
 また「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者」(二一)の愚かさについて主は語られた。「神の前に富まない者」とは、天国に宝を積んでいない者のことである。
 「朽ちることのない宝を天に積み上げなさい」(三三)。
 主イエスは「金銭に生きず、金銭を生かせ」とお教えになっているのである。
 隣人愛や福音宣教を考えず、ぜいたくと自分の欲に生き、「自分の宝を地上にたくわえる」(マタ六・一九)なら、それは金銭に生きているのである。
 一方、自分の生活のための金銭の使用は必要なものに限り、余剰のものを出来る限り隣人愛と福音宣教に用いる者は、金銭を生かしているのであり、それによって「天に宝をたくわえている」のである。
 私たちの求めるべきは、自分の欲の実現ではなく、神のみこころの実現である。神の国の出現である。
 「何はともあれ、あなたがたは神の国を求めなさい。そうすればこれらの物(生活に必要な物)は、それに加えて与えられます」(三一)。
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22日 旧約・詩篇一四八篇
 
私たちには夢がある。いつの日にか、この日本において、天皇から庶民に至るまで、ヤハウェを神とし、イエス・キリストを救い主と告白することを。彼らが、主の御名をほめたたえることを。
 政治家も教授も教師も実業家も、みな日曜日、また平日にも各地の教会に集い、主の御言葉を学ぶようになることを。
 かつて「エコノミック・アニマル」とか「セックス・アニマル」と呼ばれたこの国が、「敬虔なキリスト教国」「世界の平和と安全、繁栄を守る者」「文化・文明の担い手」等と呼ばれるようになることを。
 世界中に散らばったこの国の民が、たとえいかなる職業についていようと、主イエスの弟子として行動し、良き証し人となることを。
 この国で出版される書物や、言論、芸術、マスコミ活動等が、世界の霊的レベルを下げるのではなく、向上させることを。そしてひいては、世界を主にあって一つにすることを。私たちには夢がある。
 「地の王たちよ。すべての国民よ。君主たちよ。地のすべてのさばきづかさよ。若い男よ。若い女よ。年老いた者と幼い者よ。彼らに主の名をほめたたえさせよ」(一一〜一三)。
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23日 旧約・詩篇一四九篇
 「主に新しい歌を歌え。聖徒の集まりで主への讃美を」(一)。
 讃美歌や聖歌の中に収録された歌は、みな過去のリバイバルの中で作られた歌である。だから、今日も信仰の前進するところでは、つねに「新しい歌」が作られるのであり、新しい歌集が作られてよいのである。
 聖徒たちの集まりにおいても、歌われる讃美の種類や、伴奏、スタイル等が時代に合わせて変わっていってもよいし、変わるのが自然なことである。
 礼拝の本質は、形式にあるのではなく、聖徒たちの心からの御言葉への傾聴、主への感謝と讃美、また祈りにある。そのような霊的雰囲気を導き出すことが、最も重要である。
 讃美歌三一二番の有名な「いつくしみ深き友なるイエス」は、ジョセフ・スクライヴンが、自分の許嫁を事故で失ったとき、彼女の母を慰めるために作った。
 また二七一番の名曲「いさおなき我を」は、シャルロッテ・エリオットが、病に倒れたとき、ありのままの自分でイエスのもとに行く信仰に目覚めて、作ったものである。
 今日も、信仰の前進とともに、新しい歌が作られることを期待したい。
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24日 新約・エペソ五章
 私たちの目標は、「神にならう者」(一)となることであり、神の子として、また「光の子らしく歩む」(八)ことである。
 ある説教者は、メッセージの中で「きよい人は強い」と語っていた。本当の強さは、肉体的な強さにあるのではなく、ただの強がりにあるのでもなく、心の清さにある。
 心の清い人には神が見える。また心の清い人は、どんな危機的状況においても、動じない強さを見せることができる。
 二〇世紀における最も偉大な人物の一人とも言えるインドのマハトマ・ガンジーは、そのような人であった。
 彼は自叙伝によると、幼い頃はひどく臆病で、恥ずかしがり屋であった。あるときは、学校の授業中に発言のために立ったとき、足がふるえ、顔は真っ赤になって、一言もしゃべれずにすわってしまったという。
 しかしその後彼は、内的な、心の清さを追求していった。それとともに、彼は強い人物に変わっていった。
 彼は何千万もの人々を大胆に指導し、理想のためには死をも恐れない生き方――「非暴力」と「愛」を世界中に広めた。そして、そのために殉教したのである。
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25日 旧約・詩篇一五〇篇
 一五〇の歌から成る「詩篇」は、最後に、「神をほめたたえよ」という讃美をもって、ここに閉じられる。
 私たちの人生も、そのようでありたい。私たちの人生には、苦労あり、努力あり、挫折あり、悲しみあり、涙あり、多くの汗があり、喜怒哀楽があり、楽しい時も辛い時もある。
 しかし、最後には「神をほめたたえよ」「ハレルヤ」という讃美と感謝をもって、主のもとに召されていきたい。
 東京・吉祥寺の武蔵野福音自由教会で永年牧師をつとめた古山洋右師は、ガンのために世を去って主のみもとに行った。師は、病院で見舞いに来る人々に対し、にこやかに、
 「ここは天国への待合室なんですよ」
 と言っていた。病室からは笑いがこぼれ、見舞いに来た人は、自分が慰めるよりも逆に慰められたと語っていた。師は、感謝と讃美のうちに天国に凱旋していった。
 地上における人生の終わりを、自然な時の一部として受けとめられるのは、まことの神を知っているからである。そうした人からは、感謝と讃美が自然にわきあがる。
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26日 旧約・箴言一章
 
「箴言」は、知恵の書である。
 世の中には、頭のよい知恵のある者と、知恵のない者がいる。しかし、頭がよければ、その人は正しく生きることができるのか。
 ソロモンは言う。
 「主を恐れることは知識の初めである」(七)。
 たとえ頭の回転の速い人物であっても、もし「主を恐れること」がなければ、その人は決して正しく生きることができない。主の御前に恐れかしこんで、はじめて正しく生きることができる。
 主を恐れることは、知識の初めであり、知恵の源であり、正しい、また幸福な人生の開始点である。これこそ、最初で最高の箴言である。
 無神論では、正しい生き方をすることができない。また、たとえ神の存在を信じていても、神を恐れることがなければ、いずれ道を踏み外すであろう。
 「主を恐れる」とは、至高の全能者を敬い、その意志に服従することである。
 「神を愛する」ことの中には、神を恐れ、敬い、服従し、信じる等のすべての事柄が含まれているのである。
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27日 新約・ルカ一三章
 旧約時代には、すべての人は死後「よみ」に行った。旧約の聖徒たちも、死後は一旦「よみ」に下った。
 しかし、彼らはキリストの昇天の時になって、みな天国に入ったのである(エペ四・八)。それで、主イエスは終末の日のことについて語る際に、
 「神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちが入っているのに・・・・」(二八)
と言われている。旧約の聖徒たちと言われた人々は、一人残らず、今は天国にいる。
 アブラハム、イサク、そしてヤコブ。ヤコブは、欠点の多い人であったが、それでも天国に入った。
 また「すべての預言者たち」。彼らの中には優柔不断さを見せたことのある預言者ヨナや、悲しみの人エレミヤもいる。神の命令のもとに姦淫の女をめとって妻としたホセアもいる。
 彼らもみな天国に入った。そのほかモーセやダビデ、またきっとアダムも天国に行ったに違いない。
 彼らはみな、決して完璧な人物ではなく、必ずどこかに欠点を持っていた。失敗もしている。罪も犯した。しかし彼らは最後まで、信仰に生きたのである。
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28日 旧約・箴言二章
 
ソロモンは、神から豊かな知性と、知恵を与えられた人物であった。その彼が最も言おうとしていることは、最大の知恵は神を恐れることにある、ということである(五)。
 それさえ心得ていれば、人は最大の知恵を持っている。この知恵があれば、人生を誤ることはない。
 なぜソロモンは、このようなことを言うのか。それはソロモンは、このことで大きな失敗を犯したことがあったからである。
 ソロモンは当代随一の知恵者であったのに、やがて富におぼれ、側室の女性たちに心を奪われることによって、神を恐れることを忘れていってしまった。そのために、彼はイスラエル国家を危機にさらしてしまったのである。
 そのにがい経験から、ソロモンは、神を恐れることこそ最大の知恵である、と悟るようになった。その知恵がなければ、他の一切の知恵は無に等しい。
 私たちは、どんなに多くの知恵を得、どんなに多くの知識を得ても、また多くの経験を積み、年を重ねても、神を恐れることを忘れてはならない。あの聖なる至高の存在者を忘れてはならない。
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29日 旧約・箴言三章
 
「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(六)。
 A・B・シンプソン博士は、二種類の神経衰弱を持ち、心臓の健康状態も悪かった。彼が三八歳のとき、医師は、彼は四〇歳までは到底生きられないだろうと言った。
 彼は一時は自暴自棄となった。しかしやがて聖書を開いて、いやしは主の福音の一部であると確信した。
 ある金曜日の午後のこと、田舎道を散歩していたが、息切れがするので道ばたに腰を下ろした。彼は知らないうちに祈り出していた。
 彼は、神様がずっと彼の健康のために心をかけて下さっていたことを信じています、と祈った。また、キリストに自分の内に入っていただいた。そして、
 「ライフワークを成し遂げるまで、私の霊的生命となるだけでなく、肉体的生命ともなって下さい」
 と祈った。以後彼の心臓は文字通り新しくなった。二、三日後、彼は一千メートルの高さの山に登った。
 また、いやされてからの三年間だけでも一〇〇〇回以上の説教、時には、一週間に二〇回以上もの集会を持った。彼は七六歳まで生き、多くの人々を信仰に導いた。
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30日 新約・エペソ六章
 
「あなたの父と母を敬え」という教えは、単なる教えで終わっているのではない。それには神の祝福の約束がプラスされている。
 「『そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする』という約束」(三)
 である。じつを言えば、「あなたの父と母を敬え」に関してだけではない。神の御教えの多くには、祝福の約束が伴っている。
 神を体験する近道は、神の御教えを実行し、その祝福を経験することである。そうすれば、誰でも神がわかる。
 神の御教えを行なわない人は、いつまでたっても神がわからない。御教えを実行する者に、神はご自身を啓示して下さる。
 今日、神の御顔を実際に見ることは地上の誰にも許されていないが、神の御教えを行なう者は、誰でも神に見られている。神は、豊かな祝福をもってその人に報いて下さる。
 あなたは、たとえ周囲に誰もいないような時も、ひとりではない。あなたの父である神が、あなたと共におられる。また、あなたの主であるイエスが共におられる。
 「主にあって、その大能の力によって強められなさい」(一〇)
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