聖書一日一章

4年目 10月
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1日 新約ヨハネの手紙第二
 「その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています」(九)。
 キリストの教えのうちにとどまり、その教えに従って歩む者は「御父をも御子をも持っている」。
 私たちは、キリストの隣りの十字架上で悔い改めたあの盗賊のように、何の良い行ないもなく、ただキリストを救い主と信じて見上げる信仰によって救われた。
 そうやって私たちは、その信仰を通して神の子とされ、神の家族の中に赤ん坊として生まれたのである。
 しかし、神の家族の赤ん坊として生まれたならば、キリストの教えを受けて、大人のキリスト者になれるよう成長しなければならない。
 大人のキリスト者は、キリストの教えにとどまり、その教えに従って歩む。そのときにこそ、「自分は神の内にあり、また自分のうちに神がおられる」という確信と、実感を持つことができる。
 キリスト者の成長した姿とは、「私はキリストのうちにおり、またキリストが私の内で生きておられる」という自覚のもとに生きることである。
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2日 旧約・ホセア書一四章
 
ホセア書の最終メッセージは、
 「イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ」(一)
 である。立ち返るなら救われる、という約束がいま一度与えられる。「わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する」(四)。
 神の忍耐は、まことに絶大である。イスラエルの度重なる背信に接しても、神は彼らを見捨てない。立ち返るなら、「喜んでこれを愛する」と言って下さる。
 私たちの忍耐は、どうだろうか。私たちは自分の子どもたちや、兄弟、また親、夫、妻、また友人に対し、忍耐を持っているだろうか。愛を失っていないだろうか。
 人間関係の中で、非常に大切なのは忍耐である。生まれも育ちも違い、性格や価値観も違う者たちがつき合うのである。忍耐がなければ、人間関係はもろくなってしまう。
 愛があれば、忍耐も持てる。愛は、多くのものを生み出してくれる。
 愛は、人の過ちや罪を覆う。それをぬぐい、きれいにし、忘れ去る。さらに、補い、埋め合わせ、良きものに変える。
 私たちは自分に厳しく、人にはやさしくあろう。それこそ、キリストがお教えになった道である。
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3日 旧約・ヨエル書一章
 
本書は、預言者ヨエルに啓示された預言を記したものである。
 ヨエルは、紀元前九世紀、南王国ユダのヨアシュ王の治世下において活躍した預言者といわれる。
 この時代の南王国ユダ、また北王国イスラエルは、ひどく堕落し始めていた。そこでヨエルは、神の裁きが近づいていることを、民に預言して言った。
 「断食の布告をし、きよめの集会のふれを出せ。長老たちとこの国に住むすべての者を、あなたがたの神、主の宮に集め、主に向かって叫べ」(一四)。
 ヨエルは、人々の悔改めのために集会を催すよう民に勧める。それは「きよめの集会」である。真実な心になって、神に向かって叫ぶための集会である。
 集会というものは、本来、たいへん強い力を持っている。それは持ち方しだいで、そこに集う人々の心を大きく変え、また引っ張る力がある。
 日本の教会で毎週開かれている集会が、真に神をたずね求め、また神を慕い求める集会となるよう、祈ろう。集会に集う会衆が、心を一つにして神を慕い求めるなら、神のご臨在は濃厚に現わされる。
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4日 新約ヨハネの手紙第三
 「愛する者よ。あなたが、旅をしているあの兄弟たちのために行なっていることは、真実な行ないです」(五)。
 「旅をしているあの兄弟たち」とは、おそらく巡回伝道者や巡回教師をさすと思われる。ガイオは、彼らの世話をしたり、祈ったりして、霊的、物質的、また経済的に援助していた。
 巡回伝道者は表に出る人であり、世話をする人は裏で支える人である。しかし、両方が必要であって、神からの同じ祝福の報いを受ける。
 表に出る人と、裏で支える人がいてこそ、主の「御名のため」(七)の大きな働きができる。彼らはみな、真理のための「同労者」(八)である。
 D・L・ムーディの巡回伝道でも、ビリー・グラハムの巡回伝道でも、その陰には、真理のための同労者による数多くの尊い働きがあった。
 彼らの名前は表にはあまり出ないが、神には永遠に覚えられている。神は彼らに、豊かな祝福を惜しまれない。
 私たちは、自分の置かれた場所で、自分に出来ることをしよう。ただ主の栄光の現わされることを求めて。
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5日 旧約・ヨエル書二章
 
「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る」(二八)。
 この言葉は、ペンテコステの日に使徒ペテロによって引用され(使徒二・一七〜二一)、聖霊降臨において成就したとされた。
 旧約時代には、聖霊すなわち神の霊は、特殊な任務を帯びた神の人にのみ注がれた。しかしペンテコステ以来、聖霊はすべての神の民に注がれるようになった。
 神は、ご自身の民である「すべての人に」――各自に聖霊を注いで下さるのである。
 「あなたがたの息子や娘は預言し」――ペンテコステの日、クリスチャンたちは様々な国の言葉で「神の大きなみわざを語った」(使徒二・一一)。これが聖霊による「預言」だったのである。
 つまり、単に預言者となることだけが「預言」ではない。
 私たちが神のみわざを大胆に語り、主イエスの福音を宣べ伝える時、それは広い意味で一種の預言活動と言えるであろう。いまや、それは神の民の誰もができる活動となった。聖霊が各自の内にあって、神のみこころを示して下さるからである。
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6日 旧約・ヨエル書三章
 
「見よ。わたしがユダとエルサレムの捕らわれ人を返す、その日、その時・・・・」(一)。
 これは、バビロン捕囚後にユダヤ人がエルサレムに帰ってくるときのことを述べているとも思えるが、そのあとの文章を読むと、単にそれだけでなく、神の民が終末の祝福にあずかる時のことを言っているように思える。
 「わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで、彼らをさばく」(二)。
 「ヨシャパテの谷」とは、エルサレムとオリーブ山の間にあるキデロンの谷であろう。キリストは再臨されると、すべての民をさばくための「さばきの座」を、そこに置かれる(一二)。
 これに限らず、旧約の預言書では、しばしばバビロン捕囚前後の出来事と、終末のキリスト再臨時の出来事とが二重写しに語られる。
 それはバビロン捕囚前後の出来事は、終末のキリスト再臨時の出来事の予型的性格をも兼ね備えているからである。
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7日 新約・ユダの手紙
 「愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい」(二〇〜二一)。
 私たちは、信仰的に、また賜物の上で非常にすばらしいクリスチャンを見ると、「ああ、私は到底あの人には及ばない」「私はあの人のようにはなれない」と思わないだろうか。
 しかし、他人のようになる必要はないのである。自分は自分であればよい。私たちのすべきことは、「自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げる」ことである。
 神はあなたに、あなただけの賜物をお与えになっている。あなたのすべきことは、その賜物を育て、その賜物を生かし、神があなたに許された精一杯の背丈にまで、あなた自身を大きく成長させることである。
 他人のようになるのではなく、あなたにしかなれない「あなた」になることである。
 別の言葉で言えば、「おのが天分を全うする」ことである。私たちの人生とは、つまるところ、この一事ではないだろうか。
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8日 旧約・アモス書一章
 
本書は、紀元前八世紀に預言者アモスに啓示された預言を、記したものである。
 アモスは、羊を飼育する牧者であり、また、いちじく桑の木を栽培する農夫でもあった(七・一四)。その彼が、預言者として神に召し出されたのである。
 アモスは、イスラエルの周辺諸国への神の審判を預言する。「ダマスコ」「ガザ」「ツロ」は、いずれもイスラエルの取り囲むようにしてあった都市国家である。
 「エドム」はイスラエルの南のエドム人の国、「アモン人」はアブラハムの甥のロトの子孫で、ヨルダン川の東に住んでいた。彼らにも、神の審判が下る。
 これらすべては、アッシリヤ帝国がこの地域全体を侵略したときに、成就した。神はアッシリヤ帝国を用いて、この地域全体に裁きを下されたのである。
 「三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために・・・・」という言葉が繰り返されているが、これは彼らが罪に罪を重ねている姿を言い表した表現法である。
 罪は、積み重ねられると、ますます神の裁きを引き寄せる。
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9日 旧約・アモス書二章
 アモスはさらに、「モアブ」にも裁きが下ると語る。モアブは、アモンとエドムにはさまれた国であり、アモン人と同様、アブラハムの甥ロトの子孫であった。
 こうしてアモスは、周辺諸国について語った後、最後に、南王国「ユダ」、および北王国「イスラエル」に対する神の裁きを語る。彼らも、罪のゆえに刑罰を受けて、屈辱を味わなければならない。
 かつて、イスラエル民族をエジプトから脱出させ、カナンの地に導き、その地のエモリ人を滅ぼし、その地を所有させたのは、神である(九〜一〇)。その神が、いまやイスラエル民族を、彼らの罪のゆえに罰する。
 神は、イエス・キリストを来たらせる民族とするために、イスラエル民族を特別に選ばれたが、だからといって彼らの罪を大目に見ることをなさらない。罪は罪として、他の民族と同様、断固として処罰なさる。
 私たちクリスチャンも、神の選民として選ばれた者たちである。私たちはなおのこと、罪を避け、聖く歩みたい。
 きよめのある所に、祝福がある。また力がある。聖なる神は、聖い者と共に歩まれる。
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10日 新約・ヨハネ黙示録一章
 
「時が近づいている」(三)。
 キリストが再臨し、神のご計画をこの地上に成就して下さるその「時が、近づいている」。
 歴史のすべては、その時に向かって動いている。私たちの人生も、その時に向かって引き寄せられている。それは世界のすべてが集約する時である。
 もし現在の世界を、トンネルの中を走っている列車にたとえるなら、キリスト再臨の時――神の国の到来の時は、その列車がトンネルを出るときに似ている。一瞬にして、まばゆいばかりの光のうちに新しい世界が広がる。
 私たちはその時を待ち望んでいる。この世界という列車は、狭苦しく、もはや快適ではない。しかし、来たるべき神の国は、雄大で、快適で、すがすがしい。
 その神の国をもたらして下さるのが、私たちの主イエス・キリストである。
 彼は一度「死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている」(一八)。
 生死の権を握っておられる主イエス・キリストが、やがて来られる。その時は近い。
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11日 旧約・アモス書三章
 「まことに神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示されないでは、何事もなさらない」(七)。
 神はかつて、ソドムとゴモラの町々を滅ぼそうとしておられたとき、それをアブラハムに告げられた。そして今も、イスラエル民族に裁きを下そうとしておられる神は、そのことを預言者アモスに告げられる。
 アモスは言う。
 「神である主が語られる。だれが預言しないでいられよう」(八)
 と。神の預言の御言葉は彼の心のうちで燃えさかる炎となり、そのために彼は預言せずにはいられなかった。
 神は私たちにも、ご自身のご計画をすでに告げておられる。私たちは、神が終末の時代にこの世界になそうとしておられることを、すでに知っているではないか――聖書を通して。
 神の御言葉は、私たちのうちで燃えさかる炎となっている。私たちも神の御言葉を、人々に語らないではいられない。
 私たちクリスチャンは誰もが、神から遣わされた、神のしもべである。神の御言葉を、あなたの心の中だけに押しとどめておいてはいけない。
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12日 旧約・アモス書四章
 
「見よ。山々を造り、風を造りだし、人にその思いが何であるかを告げ、暁と暗闇を造り、地の高い所を歩まれる方、その名は万軍の神、主」(一三)。
 神は自然界を造りだし、それを支配し、その上に君臨しておられる方である。
 「万軍の神、主」とは、神が、地にあるもの、また天にあるもののすべてをご自身の持つ軍勢のようにして、背後に率いておられることを言った言葉である。
 天の万象も、地のもろもろの事象も、すべてが永遠の神の存在を指し示している。
 私たちはいまだ、神の偉大さを、あますところなく知っているわけではない。神は、私たちの知性や理解力をはるかに超えておられる。
 しかし、私たちはたとえ知性で知ることにおいては神をきわめることが出来ないとしても、信仰の上で一歩一歩、神を知る知識を深めることができる。
 人生とは、神を知ることである。一歩一歩、自分の人生の様々な出来事を通して、神に近づくのである。
 人生とは、神に近づくために設けられた階段である。私たちは、それを日々のぼっていく。
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13日 新約・ヨハネ黙示録二章
 
「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう」(二六)。
 私たちの人生は、これまでどれほど多くの挫折を経験したかが問題なのではない。最終的に人生に勝利するか否かが問題なのである。
 また、これまでどれほど多くの良きわざを行なったかが問題なのでもない。むしろ、これからどれほどのことをキリストにあって行なうか、が問われる。また「最後まで」キリストのわざを行なうか、が問われる。
 最後までキリストのみわざを守り、キリストに従う者は、来たるべき神の御国で高くあげられる。
 人生には、「ああ、もうダメだ」「これで終わりだ」と思えるような時が、しばしば来る。しかし、私たちは最後の最後まで、あきらめてはいけない。神は、思わぬ方法で私たちに解決を与えて下さる。
 かつてアブラハムが、イサクを連れてモリヤの山に着いたとき、彼は「もう終わりだ」「もうダメだ」と思ったに違いない。しかし、神は彼に解決の道を備えて下さった。
 私たちは、最後の最後まで、キリストの御教えと御わざに立ち続けよう。その祝福は大きい。神はあなたに「勝利」を与えて下さるであろう。
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14日 旧約・アモス書五章
 「わたしを求めて生きよ」(四)
 と神は言われる。人生を本当の意味で生かす道は、神を求め、神と共に歩むことである。
 人間は、そのように造られている。神なしには、人は生きられないように造られているのである。
 人の心のうちには、欲望がある。多くの人は、自分の金銭欲、所有欲、快楽欲、名誉欲などの実現のために生きようとする。
 人の心はそれらを求めて歩んでいる。しかし、それらを求める人生は、決して真の幸福には至らない。
 私たちを真に幸福にするものは何か。それは神を求めて生きることではないか。
 神を求めて生きるなら、神は私たちのすべてとなって下さる。私たちの心の渇きをいやし、心の空洞を埋め、悲しみを喜びに、悩みを平安に変えて下さる。
 私たちが今朝、求めるものは何か。今日、求めるものは何か。それは神ご自身ではないか。
 単に神が下さる恵みや、祝福、神のお与えになる「何かの良い物」を求めるのではない。私たちの求めるのは、神ご自身である。
 私たちは神から出て、神によって成り、神に至る。神がすべてである。
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15日 旧約・アモス書六章
 
「まことに、イスラエルの家よ。今、わたしは一つの民を起こして、あなたがたを攻める」(一四)
 と神は語られる。「一つの民」とは、アッシリヤ帝国である。預言者アモスは、数十年後に迫った北王国イスラエルのアッシリヤ捕囚(前七二一年)を預言しているのである。
 その預言の内容は、破滅、崩壊、捕囚、追放が、「ヨセフ」の家――北王国イスラエルに起こる、というものであった。アモスは、罪の裁きとして来ようとしている悲惨と不幸とを、人々に告げなければならなかった。
 しかし、新約の時代である現代において、人々に語り継げるべきとして私たちにゆだねられている神の御言葉は、裁きではなく、「福音」である。イエスは、
 「全世界に出ていき、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(一五)
 と言われた。私たちは、アモス以上の熱意をもって、福音宣教に取り組みたいものである。
 キリストが私たちのために死に、復活し、今も生きておられ、また再臨するというメッセージを、すべての造られた者たちに語ろう。
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16日 新約・黙示録三章
 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから熱心になって、悔い改めなさい。見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をする」(一九〜二〇)。
 キリストは、あなたを愛するがゆえに、あなたをしかったり、懲らしめたりすることがある。それはあなたが、真に悔改めに至り、真の神の聖徒となるためである。
 キリストはそのとき、あなたの心の戸の外に立って、その戸をたたいておられる。あなたが、彼の声を聞いて戸を開けるなら、彼はあなたの心の中に入って共に食事をして下さる。共に生活し、生きて下さるのである。
 あなたには、キリストが心の戸をたたくその音、また彼の御声が聞こえるか。
 キリストは、私たちにたいへん身近な方である。彼は私たちの日常を共にし、食事を共にして下さる。
 師弟が共に食事をするように、キリストは私たちと食事をしながら、やさしく御教えを語って下さる。
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17日 旧約・アモス書七章
 
アモスは、神の命令により、北王国イスラエルの「ベテル」という町で預言していた。
 ベテルは、北王国イスラエルの宗教的中心地である。金の子牛をかたどった偶像の祭壇も、王宮もそこにあった。アモスは、こうした罪の世の真っ直中に行って預言したのである。
 そのベテルに、「祭司アマツヤ」がいた。彼は、もとは真の神ヤハウェに仕える祭司であったのに、今や偶像と、当時の背信の王「ヤロブアム」に仕えていた。
 当時のこの北王国イスラエルの王「ヤロブアム」は、北王国の初代の王であったヤロブアムではない。一般に「ヤロブアム二世」とも呼ばれる、ヨアシュの子のヤロブアムのことである。その治世は、前七九〇〜七四九年であった。
 祭司アマツヤは、ヤロブアム二世に対し、預言者アモスは王に謀反を企てていると告げ、アモスを悪く言った。またアマツヤは、アモスをベテルから追い出そうとした。
 しかし、アモスはそれにひるまず、神の御言葉を大胆に語って退かなかった。それは、命がけの行為であった。
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18日 旧約・アモス書八章
 「見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。じつに、主のことばを聞くことのききんである」(一一)。
 人々を悔い改めさせるために、神はご自身の言葉を数多く送られる。しかし、いったん神の裁きが始まると、もはや神の言葉を聞くことはできない。
 かつてノアが箱舟をつくっていたとき、大洪水の前に、ノアは人々に神の言葉を語ったであろう。しかし、いったん大洪水が始まってしまうと、もはや人々は神の言葉を聞くことはできなかった。
 「主のみことばのききん」――これほど恐ろしいことはないのではないか。それはパンのききんよりも、水に渇くことよりも、はるかに悲惨である。
 主のみことばを今聞こうとしないと、やがて聞きたくても聞けない時が来る。
 私たちは、主のみことばを慕い、それに聞き入ろうとしているか。
 「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタ四・四)。
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19日 新約・黙示録四章
 ヨハネは、
 「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう」(一)。
 と言われた。ヨハネが「上れ」と言われたこの言葉について、患難前携挙論者は、これはキリスト者の携挙の「型」であると言う。
 患難前携挙論者の中にはまた、黙示録三章と四章の間にはじつはキリスト者の携挙があるのだが、それが省略されており、それが象徴的にヨハネに対するこの「上れ」という言葉に言い表されているのだ、という。
 しかし、こうした意見には、相当な無理があると言わなければならない。
 ヨハネに対する「上れ」という言葉は、黙示録をよく読むなら、携挙とは何の関係もないことがわかる。ヨハネは単に、天の預言的な幻を見せられるために、霊的な形で上げられたに過ぎない。
 実際、ヨハネはこの後、再び地上に立っている(黙示一〇・八、一一・一、一七・三、一八・一)。ヨハネは啓示的な幻を見るために、霊的なかたちで天に行ったり、地に降りたり、海に行ったり、エルサレムに行ったりしているのである。
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20日 旧約・アモス書九章
 
ここまで、アモスは神の裁きを語ってきた。
 北王国イスラエルは、罪のゆえに罰せられ、アッシリヤ帝国に滅ぼされ、民は捕囚となる、との預言である。また、南王国ユダにも裁きが下るとの預言である。
 しかしアモス書は、神の裁きを語るだけで終わるわけではない。それは最後に、回復の預言をもって閉じられる。
 「その日、わたしはダビデの倒れている仮庵を起こし、その破れを繕い、その廃墟を復興し、昔の日のようにこれを建て直す」(一一)。
 「わたしは、わたしの民イスラエルの捕らわれ人を帰らせる」(一四)。
 神の預言はこのように、裁きと回復がつねにセットになっている。
 こわすのが神であれば、建て直して下さるのもまた神である。イスラエルの歴史は、神に発し、神に帰る。
 私たちの人生も、神に発し、神に帰る。人生はつねに神とかかわっている。
 親が子に、つねに関わりを持ち、子に対していつも深い関心を持っているのと同じである。私たちの人生は、親なる神とのかかわりを、いかに生きるかということである。
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21日 旧約・オバデヤ書
 本書は、預言者オバデヤに啓示された預言を記したものである。オバデヤもまた、イスラエルの南北分裂時代の預言者である。
 彼は、当時の人々の罪と、それに対する神の裁き、またそののちに回復の時代が来ると語った。また、そのときには、
 「王権は主のものとなる」(二一)
 と述べた。これは主が、そのとき全地の王となられる、との意味である。
 神はもともと全地の王であられるが、現在の世界では、必ずしも全地の王としてあがめられていない。
 多くの人は偶像を拝み、異教を拝み、邪教邪説を信じ、真の神をあがめていない。サタンは「空中の君」となって、人心を掌握している。
 このような世界では、神は全地の王となっておられないのである。だが、文字通り神が全地の王となって君臨される日が、やがて来る。それが実現されるのが、イエス・キリストの再臨の日である。神は、再臨のキリストにおいて地上に来られ、君臨される。
 その日、神の支配が全地に及ぶ。神の支配は、悪の終結、義の支配、また愛と喜びと幸福に満ちあふれる世界の到来を意味する。
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22日 新約・黙示録五章
 
「私たちの神のために、この人々を王国とし・・・・」(一〇)。
 神の王国、神の国とは何か。それはクリスチャンたち自身である。神は「この人々を王国とされた」のである(黙示一・六も参照)。
 神の王国は、土地ではない。その主体は、キリストを中心とするクリスチャンたち自身である。
 彼らは、小羊キリストの「血により、あらゆる民族、国語、民族、国民の中から贖われた」(九)。彼らは、御使いや、あらゆる生き物と共に、神と小羊キリストとを讃美して「新しい歌」(九)を歌う。
 私たちが贖い出されたのは、いやいや神に仕えるためではない。喜びをもって、「新しい歌」を歌いながら、熱烈に神を愛して神に仕えるためである。
 私たちにとっては、神ご自身が喜びであり、愛であり、義であり、力であり、生命である。それこそ、人間の本来の姿でもある。
 神を喜び、神に喜ばれる人生を歩むことこそ、神があなたを造られた創造目的である。私たちは天に帰ったときだけでなく、この地上にあるときから、神を讃美するこの大会衆に加わろう。
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23日 旧約・ヨナ書一章
 
本書は、預言者ヨナの身に起こった出来事を、伝記風に記したものである。ヨナは、ヤロブアム二世の治世下において、北王国イスラエルで活動していた預言者である(U列王一四・二五)。
 ところがその彼が、突然神から、アッシリヤの首都ニネベでの宣教を命じられた。しかしヨナはそれをいやがり、その命令に服さなかった。
 これはヨナが臆病であったからではなく、また外国宣教への理解がなかったからでもない。
 アッシリヤは、イスラエルを滅ぼそうとしていた敵国であった。ヨナはアッシリヤの滅亡を望んでいた。だから神がアッシリヤについて、
 「彼らの悪がわたしの前に上って来た」(二)
 と言われたとき、ヨナは小躍りして喜んだに違いない。アッシリヤの悪が積もり積もれば、神はアッシリヤを滅ぼされる。そうすればイスラエルは彼らに侵略されずにすむ。
 だから、後にアッシリヤの住民が悔い改めて赦されたとき、ヨナは不機嫌になった(四・一)。
 ヨナは、自国を滅ぼそうとしていた敵国の命脈を延ばすために、遣わされようとしていた。だから彼は、それから逃れようとしたのである。
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24日 旧約・ヨナ書二章
 
ヨナを飲み込んだ「大きな魚」が何であったかは不明だが、クジラのように大きなものだったのだろう。
 彼はその魚の腹の中に、「三日三晩」いた。これは必ずしも、文字通り二四時間の三倍の七二時間という意味ではない。足かけ三日の場合でも、このように表現される(エス四・一六と五・一)。
 イエス・キリストも、金曜日に十字架上で死なれてから、足かけ三日目の日曜日に、復活された。ヨナが三日間大魚の腹の中にいたことは、キリストによる三日間のよみ下りの予型でもある。
 ヨナは魚の腹の中で、
 「私が苦しみの中から主にお願いすると、主は答えて下さいました。・・・・あなたは私のいのちを穴から引き上げて下さいました」(二、六)
 と祈った。これは、ヨナが魚の腹から出された後に言った言葉ではない。彼はこの感謝の言葉を、魚の腹の中にまだいるときに、言ったのである。
 ヨナは魚の腹の中で、嘆願の祈りをしたのではなかった。むしろ感謝と讃美の祈りをした。それは先取りの信仰であった。すると、
 「主は魚に命じ、ヨナを陸地に吐き出させた」(一〇)。
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25日 新約・黙示録六章
 
第一の封印の「勝利」は、福音宣教のことではないかと思われる。キリストは、終末の時代には全世界に福音が宣べ伝えられる、と言われた(マタ二四・一四)。
 第二の封印の「殺し合い」は、戦争の増加をさすのであろう。戦争の増加は、終末の前兆期の出来事の一つである(マタ二四・六)。
 第三の封印の「小麦一枡は一デナリ・・・・」は、ききんである。これも終末の前兆期の出来事である(マタ二四・七)。
 第四の封印の「死」は、患難時代の多くの人々の死をさしている。
 第五の封印の「殉教者」は、患難時代におけるクリスチャンたちへの迫害と、彼らの殉教である。ここまではすべて、終末の前兆期、および患難時代の事柄である。
 しかし、つぎの第六の封印の幻は違う。第六は、万物更新の時の幻である。すなわち古い天地が過ぎ去り、「天は巻き物が巻かれるように消えてなくなり、すべての山や島がその場所から移される」(一四)という時に関する幻である。
 このように封印の幻は、ちょうど映画の予告編のように、本編に入る前に本編の内容をかいま見させるものとなっている。
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26日 旧約・ヨナ書三章
 ヨナは魚の腹から出されると、今度は神の命令に従い、アッシリヤの首都ニネベに行った。そして、
 「もう四〇日すると、ニネベは滅ぼされる」
 と叫んでまわった。
 当時、ヨナの出身地であるイスラエルでは、すでにエリヤやエリシャ、またヨエル、アモスなどの預言者が現われ、盛んに民に悔い改めを呼びかけていた。だが、彼らは悔い改めようとはしなかった。
 ところが、イスラエルの敵国であるアッシリヤの人々は、預言者の言葉を聞いて恐れ、悔い改めた。神は、彼らに下そうとしておられたわざわいを思い直して、そうされなかった。
 アッシリヤの人々にとっては、預言者ヨナの語る「神」は敵国イスラエルの神である。しかし、イスラエルの神の偉大さは、イスラエルの周辺諸国にもとどろいていた。
 イスラエルの神は、イスラエル人をエジプトから連れ出し、ソロモン時代のあの繁栄をもたらしたお方であることは、アッシリヤにも聞こえていた。アッシリヤ人は、この神から遣わされた預言者ヨナの言葉を聞いて、本気で恐れ、悔い改めたのである。
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27日 旧約・ヨナ書四章
 
ヨナが不機嫌になった理由は、幾つかあるだろう。
 アッシリヤは敵国だというのに、神が彼らを赦し、恵みを施されたこと。また、「四〇日したら滅ぼされる」と説いたのに、その預言がはずれてしまい、彼の面子がつぶれたことなど。
 ヨナは、アッシリヤへの憐れみから預言活動をしたわけではなく、神の命令だから仕方なく預言活動をしたにすぎなかった。アッシリヤの人々がまさか悔い改めるとは、思ってもみなかったのだろう。
 ところが、アッシリヤの人々は悔い改めた。これはヨナを不機嫌にさせた。しかし神は、とうごまの件を通して、ヨナにご自身の真情をお教えになった。
 「まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない一二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか」(一一)。
 神は、異邦人にも深い愛を注いでおられる。神は全世界の神である。
 今日ニネベには、「ヨナの丘」(ユナス)と呼ばれる丘があり、さらにそこには「ヨナの墓」と言われているものがある。ヨナは、アッシリヤで死んだのかも知れない。
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28日 新約・黙示録七章
 
「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから」贖い出された「だれにも数え切れぬほどの大勢の群衆」(九)とは、クリスチャンたちである。
 彼らは「大きな患難から抜け出てきた者たち」(一四)であって、患難時代を通過した者たちである。
 「彼らはもはや飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません」(一六)との句は、彼らの多くが、患難時代を地上で通過したことを示している(一六・八を参照)。
 Tテサロニケ四・一六〜一七には、キリスト再臨の際に、キリストにある死者がよみがえり、地上にいるキリスト者たちと共に携挙される、ということが述べられている。
 また黙示録一九章には、「開かれた天」からキリストが再臨され、「天にある軍勢が・・・・つき従った」、と述べられている。
 天のこの軍勢は、きよい麻布の「白い衣」を着ており、この衣は「聖徒たちの正しい行ない」のことだと説明されている(一九・八)。つまり「白い衣」を着た「大勢の群衆」は、復活・携挙を経て永遠の命の体を着せられ、正しい行ないの体になったクリスチャンたちなのである。
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29日 旧約・ミカ書一章
 本書は、前八世紀に活躍した預言者ミカが、自分に啓示された預言を記したものである。彼は北王国イスラエルで、および後半生は南王国ユダで活動した。
 ミカは、ペリシテ国境近くにあるユダの田舎町モレシェテ・ガテの出身であった(一)。彼は、「サマリヤ」すなわち北王国エルサレムと、「エルサレム」すなわち南王国ユダに関して預言した。
 同じ時代には、預言者イザヤも活動していた。ミカ四・一〜三はイザヤ二・二〜四と類似しており、ミカとイザヤは、相互に何らかの関係を持っていたであろう。
 イザヤは当時の支配者階級、とくに政治的指導者に対して預言し、一方ミカは、おもに民衆に語りかけた。
 当時は、北王国イスラエルの罪はすでに積もり積もって、アッシリヤ捕囚の時が迫っていた。ミカは、彼らに裁きの時が近づいていると預言した。
 サマリヤは「野原の廃墟」となり、そこにある偶像は「打ち砕かれ」、「火で焼かれる」。そして「その打ち傷はいやしがたく、それはユダにまで及び・・・・エルサレムにまで達する」(九)と。
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30日 旧約・ミカ書二章
 
神が民に裁きを下そうとしておられた理由は、単に民が偶像崇拝にふけっているからではなかった。
 富裕な支配者階級は、悪巧みをして、人々から畑や家々を取り上げ、かすめ奪い、ゆすり取っていた(二)。それはますます彼らが富むためであった。
 その時代にも、豊かな者が貧しい者から搾取するという構図が、広く見られたのである。
 宗教的な堕落と、道徳的な堕落とは同時進行する。彼らは、自分は安楽な生活をしながら、部下たちに命じて悪を行なっていた。
 「ああ、悪巧みを計り、寝床の上で悪を行なう者。朝の光とともに、彼らはこれを実行する。自分たちの手に力があるからだ」(一)。
 いまの時代にも、こうした者が数多くいる。彼らは有力者であり、悪巧みを通して金を儲け、ベッドの上で金を数えている。
 現代の世界も、神の裁きから遠くはない。いや、神はすでに、裁きの日を定めておられる。
 私たちは腐敗したこの世にあって、いかに生きるべきだろうか。
 地の塩、世の光として生きることではないか。私たちは主イエス・キリストの弟子なのである。
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31日 新約・黙示録八章
 
第七の封印が解かれると、預言の「巻き物」(五・一)を封じていた封印が、全部解かれたことになる。
 そのため預言の巻き物がついに開かれ、その巻き物の「内側」に記された本編預言が始まる。
 これまでの六つの封印の幻は、預言の巻き物の「外側」に記された文字によるもので、いわば映画の予告編のようなものだった。本で言えば「まえがき」のようなものである。
 だがここからは、巻き物の「内側」に記された文字による預言になる。映画でいえば本編が始まったのであり、本でいえば、ここから本論が始まる。
 それは、七つのラッパの幻である。七つのラッパは、第七の封印の幻の「後」ではなく、第七の封印の幻の「内容」である。
 もし終末の一連の時代を、前兆期、第一期、第二期、第三期と、四つの時期に分けるとすれば、本章に記された出来事――第一〜第四のラッパは、前兆期に属する。
 また、次章以降の第五のラッパ(第一のわざわい 黙示九・一二)は第一期、第六のラッパ(第二のわざわい 黙示一一・一四)は第二期、第七のラッパ(第三のわざわい 同)は第三期である。
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