聖書一日一章

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1日 旧約・ミカ書三章
 この南北王国分裂時代におけるイスラエルには、宮廷などに仕える多くの「預言者たち」(五)がいたが、彼らは偽りの言葉をいう偽預言者たちに過ぎなかった。
 偽預言者たちは富裕階級や、支配者階級の人々と結託して民を惑わし、また民から搾取していた。
 つまり当時、彼らのような偽預言者グループがいる一方で、ミカやイザヤをはじめとする真の預言者グループも存在していた。
 預言者ミカが戦わなければならなかったのは、単に道徳的宗教的に堕落した一般庶民だけではなかった。ミカは、国の支配階級の座にすわる偽預言者たちとも戦わなければならなかった。
 それは霊的な戦いであった。国中をおおう罪に対する戦いであった。
 堕落した時代にこそ、真の預言者、真の神の人が必要である。
 私たちが今置かれている時代はどうか。私たちの時代もまた、真の神の人の現われを待ち望んでいるのではないか。
 そして、今日私たちが直面しなければならないのも、また霊的な戦いである。私たちは神の霊に満たされていなければ、真に勝利を得ることはできない。
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2日 旧約・ミカ書四章
 預言書ではしばしば見られることだが、いま現在の世界の堕落と裁きを語っていたかと思うと、急に終末の出来事が挿入されたりする。
 あたかも、暗黒の雲の間から、まぶしい太陽の光がときおり射し込んで大地を照らすかのようである。今の世界は暗黒でも、やがてその暗黒のすべてが取り去られて、光り輝く世界が来る。
 預言者は、今の世への裁きを語りながらも、その向こうにある希望を語ることを忘れない。
 「終わりの日に」(一)、「シオンから御教えが出、エルサレムから主のことばが出る」(二)。これは私たちに、エルサレムで十字架と復活のみわざをなされた主イエスを思い起こさせる。
 主イエスはまた、終末に再臨してエルサレムに来られ、至福の千年王国を樹立される。その日に人々は、
 「剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」(三)。
 すべての戦争はやみ、暗黒は去り、真の平和と繁栄と義が世界をおおうであろう。
 現在の世は暗黒の雲におおわれているが、その向こうには光り輝く世界がある。
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3日 新約・黙示録九章
 第五のラッパは「第一のわざわい」(一二)と呼ばれ、第六のラッパは「第二のわざわい」(一一・一四)と呼ばれている。第五のラッパは患難時代の第一期、第六のラッパは第二期にあたる。
 第五のラッパの預言的幻に見られる「五ヶ月間の苦痛」は、ある種の疫病が人間界に五ヶ月間流行することによる苦痛、とも思われる。
 それは「地の草や、すべての青草や、すべての木には」及ばず、ただ人間にだけ及ぶ。そして人間はあまりの苦しさに、死を願うほどになる。
 しかしこのわざわいは、「神の印」すなわち「聖霊の証印」(エペ一・一三)を押されたクリスチャンたちには及ばない(四)。
 また、第六のラッパの預言的幻に見られる「火と煙と硫黄のために人類の三分の一が殺される」ことは、核戦争のことかも知れない。
 核爆弾が爆発すれば、そこには火と煙が空高く立ち上り、あとには熱のために形成された硫黄が残る。
 しかし、このような巨大な神罰が起きるにもかかわらず、多くの人は、偶像崇拝や、殺人や、不品行や、盗みを悔い改めようとしない(二〇〜二一)。この悪こそ、人類自身に発する最大の災いである。
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4日 旧約・ミカ書五章
 イスラエル民族は、罪を積み重ねたがゆえに神からの懲らしめを受ける。しかし、そのような動乱の時代を経て、やがてイスラエル民族は自分のうちにメシヤ降誕という光栄を見る。
 メシヤは、ユダ族の領地の一つ「ベツレヘム・エフラテ」に降誕される(二)。「エフラテ」とはベツレヘムの古名である。
 彼は「イスラエルの支配者になる」(二)。しかし、単なるイスラエルの王なのではない。「彼の威力は地の果てにまで及ぶ」(四)。全地の王となられるのである。
 これはイエス・キリストの初臨と再臨によって成就する。私たちは彼のもとに「安らかに住まう」であろう。
 預言書は、裁きという厳しいことを語る中にも、このようにしばしばメシヤによる祝福と恵みを預言する。それはあたかも暗黒の雲の切れ目からサッと射し込む太陽の光のようである。
 私たちの人生においても、ときに暗雲がただよい、希望を見失いそうになることがあるかも知れない。しかし信仰の目をよく見開くならば、そこにはメシヤによる恵みと祝福の到来が見えてくる。
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5日 旧約・ミカ書六章
 
「主は・・・・イスラエルと討論される」(二)。
 神は、罪の中にあるイスラエル民族と討論される。イスラエル民族が罪の中にあるのは、いったい神の責任だろうか。
 神はこれまでにイスラエル民族に対して何をなして来られたか。エジプトから彼らを救い、カナンの地に彼らを導かれた。バラクがイスラエル民族をのろおうとしたときも、預言者バラムを送ってイスラエル民族を祝福させた。
 カナン入国前の最後の宿営地シティムから、カナンの最初の宿営地ギルガルの間では、ヨルダン川をせきとめて主のみわざを彼らに知らせた(五)。
 このような神に対して、人々ができる最善のことは何か。動物のいけにえ、あるいは人身御供であろうか(六〜七)。そうではない。
 「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことではないか」(八)。
 神があなたに求めておられることもまた、このことである。
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6日 新約・黙示録一〇章
 
第七のラッパは特別なラッパであり、これによって患難時代の第三期、すなわち最終段階に突入する。この時期に、
 「神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する」(七)。
 次の章である一一章から一九章に至るまでのすべての記述は、この第七のラッパによって始まる患難時代第三期の出来事なのである。それは最も大きな出来事が起きる時期であるので、詳しく記されている。
 神のしもべである預言者たちが預言してきたこと、とは何であろうか。それはキリストの再臨、キリスト者たちの復活・携挙、地上の悪の一掃、御国の確立である。
 それらすべてが患難時代の第三期に成就する。この時期には、世の悪も最高潮に達するが、その最後にキリストが再臨して、地上の悪を一掃し、世の悪に終止符を打たれるのである。
 世の悪が最高潮に達するとき――それはキリストの再臨の時であり、悪の終わりでもある。キリスト者の復活・携挙も、御国の確立もそのときに起こる。神の奥義のすべてが、その時に成就する。
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7日 旧約・ミカ書七章
 
「もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ入れて下さい」(一九)。
 今日、ユダヤ人はタシュリックという慣わしを行なっている。
 人々は小石を手に握りしめ、自分の体温と小石の温度が同じになるまで、しばらくそれを握っている。
 自分と小石が一つになった感じを持つと、海か湖に行く。そこで自分のもろもろの罪を思い起こす。そしてミカ七・一九の御言葉を読み、自分の罪を託したその小石を力いっぱい遠くの水に投げ込むのである。
 じつは不思議なことに、同じ様な風習が日本でも行なわれている。神社で毎年行なわれる「大祓い」では、人の形に切った紙に人の罪汚れを託して、川に流して捨てるということが行なわれる。
 また雛人形に罪汚れを託して川に流す「流しびな」などもそうである。日本人は昔から、そうしたものに自分の罪汚れを託して流して捨てる、という風習を行なってきた。
 しかしこれらすべては、イエス・キリストの十字架の贖いの予型なのである。キリストは私たちの罪汚れを背負って、よみにまで流されて行って下さった。
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8日 旧約・ナホム書一章
 本書は、前七世紀の預言者ナホムに与えられた啓示を記したものである。前六一二年に起こったアッシリヤの首都ニネベの滅亡を主題としている。
 ニネベは、前八世紀に預言者ヨナの宣教により、一時的に悔い改め、そのときの差し迫った危機からはのがれることができた。しかし、やがてヨナの宣教を忘れた民は、高慢になって神に挑戦するようになる。
 そのため、ヨナの宣教により撤回されていたニネベへの神の審判は、本書において再び決定的な形で宣告されることになる。
 ナホムは「エルコシュ人」と呼ばれているが(一)、これはエルコシュ町出身の人という意味で、おそらくユダの南西の町ではないか、と言われている。
 ナホムは「主はねたみ、復讐する神」(一)と述べて、ニネベに対する裁きの宣告を語り始める。
 神の「ねたみ」は、真の神以外の偶像を慕い求める人間の気持ちに対する神の御心情を、擬人的に表現したものである。
 それは人間の「ねたみ」のように罪に根ざしたものではなく、唯一の絶対神としての当然の権威に基づいた正当なものなのである。
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9日 新約・黙示録一一章
 患難時代には、神の二人の預言者がエルサレムで活動する。
 エルサレムは異邦人によって「四二ヶ月」すなわち三年半踏みにじられるが(二)、そのときその二人の預言者が活動する。彼らの活動期間は「一二六〇日」、すなわち、やはり三年半である。
 この二人の預言者はエリヤとモーセだろうという人もいるが、むしろエリヤとエノクではないか、と思える。
 聖書によれば、死を見ずに天に移された人物が二人だけいる。それがエリヤとエノクである。
 彼らはまだ死を経験していないわけだが、聖書によれば「人間には一度死ぬこと・・・・が定まっている」(ヘブ九・二七)。それならば、彼らもいずれ死を経験するに違いない。つまり、彼らは患難時代に再び現われて、死と復活と昇天を経験する。
 彼ら二人の預言者は、クリスチャンである。それは「彼らの主もその都(エルサレム)で十字架につけられたのである」(八)という記述からもわかる。
 二人の預言者の活動ののち、患難時代は第三期――すなわち最終段階に入る。
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10日 旧約・ナホム書二章
 預言者ナホムは、アッシリヤの首都ニネベに迫る破滅の時を預言する。
 神がニネベに「立ち向かって」おられるからである(一三)。ニネベは高慢のゆえに、その残虐の罪のゆえに滅ぼされる。
 神は、来たるべき終末の患難時代における「獣」の王国に対しても、そのようにされる。神は彼らに「立ち向かい」、そのすべてを滅ぼし尽くされる。
 だから、本章に記されたすべての言葉は、来たるべき患難時代においても、全く同様に起こると思ってよい。
 ニネベの滅亡も、バビロンの滅亡も、すべては終末のこの滅亡の予型なのである。しかし、そのとき神の民は生き残る。
 「主は、ヤコブの栄えを、イスラエルの栄えのように回復される」(二)。
 終末とは、全人類絶滅の時ではない。そのとき滅びるのは、滅びに値する人々だけである。罪の中にとどまった者は滅びる。
 しかし神を愛し、神と共に歩む人々は、終末において生き残る。彼らは、新しい世で、来たるべき神の王国を継ぐのである。
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11日 旧約・ナホム書三章
 
「大ニネベ」と呼ばれるニネベの地域は、長さ約四八キロ、幅約一六キロあった。それは幾千人とも知れない異国の捕囚たちの強制労働によって造られた五つの城壁と、三つの塀で防備されていた。
 その中心に、長さ五キロ、幅二・五キロのニネベ市があった。それは高さ三〇メートルもある城壁で囲まれ、その城壁の上は四台の戦車を並べて通ることができるほど広かった。このニネベの壊滅は、次のようにして起こった。
 ナホムの預言から約二〇年しないうちに、バビロンとメディヤの大軍がニネベに迫った。二年の包囲の後、ティグリス川、コセル川の氾濫が、城壁の一部を流し去った。
 ナホム二・六は、新改訳では「町々の門は開かれ、宮殿は消え去る」と訳されているが、これは口語訳では「川々の門は開け・・・・」である。原語も「川々の」である(新改訳欄外注参照)。
 川の氾濫で作られた城壁の裂け目から、バビロンとメディヤの攻撃軍は進入し、破壊を進めた。跳躍する馬、高鳴る鞭の響き、狂い踊る戦車、剣のきらめき、死骸の山、まさにナホムが描いた通り、そのすべてが正確に実現し、ニネベは壊滅した。
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12日 新約・黙示録一二章
 
「天」では戦いが起き、「竜」すなわちサタンは地上に投げ落とされる(九)。
 「第三の天」と言えば天国だが、サタンはその下の「第二の天」にいて、「空中の君」(エペ二・二)として君臨し、様々な霊的影響を与えている。一方、「第一の天」は宇宙空間であろう。
 患難時代に、第二の天からサタンは投げ落とされ、地上に現われる。だからこう言われている。
 「天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒ってそこに下ってきたからである」(一二)。
 サタンが地上に投げ落とされるとともに、「獣」と象徴的に呼ばれる、悪の化身とも言える極悪非道の人物が地上に出現する(一三・一)。
 彼はサタンが乗り移った人物である。彼によって地上には「わざわいが来る」。
 しかし、そののちサタンと獣は、再臨のキリストによって捕らえられ、滅ぼされる。彼らは「火と硫黄の池」すなわち地獄に投げ込まれる。
 患難時代のわざわいは、サタンの最終的な「あがき」でなる。
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13日 旧約・ハバクク書一章
 本書を記した預言者ハバククは、ニネベが滅亡した前六一二年頃から、バビロン捕囚の前五八六年頃に預言活動を行なった人物である。
 ふつう預言者は、神に代わって民に対して語りかける。しかし本書は、ハバククが民に代わって神に問いかけるところに特徴がある。
 ハバククが、罪と暴虐におおわれた国の惨状を神に訴えると、神は「カルデヤ人」すなわちバビロン帝国を起こして(六)、イスラエルを罰すると言われる。
 しかし、これはハバククにとっては、理解できないことだった。神は聖なるお方である。そのお方が、どうしてイスラエル民族よりもひどい罪の中にある異教徒たちを用いて、イスラエルをさばかれるというのか(一二〜一三)。これは神の聖に矛盾しないか。
 これに対する神のお答えは、あまり直接的なものではないが、ハバククは神の顕現に接して満足する。
 また、カルデヤ人も、自らの故に神の裁きを受ける。神はカルデヤ人を、決して彼らが正しいがゆえに用いられるのではない。神の時が来れば、神はカルデヤ人に対しても、正当な裁きを下されるのである。
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14日 旧約・ハバクク書二章
 
ハバククの時代に、南王国ユダはバビロン帝国の侵略を受けようとしていた。ハバククは、こうした祖国存亡の危機という、激動の時代を生き抜いた人である。
 彼がその時代を立派に生き抜くことができたのは、なぜか。彼はどのような信念を持って生きたのか。それは、次の短い彼の言葉の中に完璧に言い表されている。
 「見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる」(四)。
 この後半部の言葉は、のちに使徒パウロによってローマ一・一七に引用され、信仰義認の教えの土台となった。
 ハバククをしてあの激動の時代を生き抜かせたものは、「心高ぶらず、信仰によって生きる」ということであった。
 信仰は、生の力である。人生を力強く切り開いていく原動力である。
 私たちが持ってはいけないものは高ぶりであり、一方、持つべきものは、神の前にへり下り、神に信頼し、従う信仰である。
 私たちが信仰を持って生きるなら、どんな時代、どんな境遇をも力強く生き抜いていける。
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15日 新約・黙示録一三章
 患難時代に世界を踏みにじるこの「獣」は、Tテサロニケ二・三〜一二に預言されている「不法の人」と同じである。
 「不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。彼は、すべて神と呼ばれるもの、また礼拝されるものに反抗し、その上に自分を高く上げ、神の宮の中に座を設け、自分こそ神であると宣言します」。
 「獣」とも「不法の人」とも呼ばれるこの人物の特徴は、高慢であり、彼は自分を神と呼ばれることを欲する。これは、まさにサタン的特徴である。サタンはかつて、高慢になって自分が神となろうとしたことによって、天使の座から堕落したからである(イザ一四・一二〜一四)。
 しかし「獣」は、キリストによって滅ぼされる。「その時になると、不法の人が現われますが、主は御口の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます」。
 「不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです」。
 
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16日 旧約・ハバクク書三章
 「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」(一八)。
 ハバククはこの言葉を、決して楽しい日々に言ったのではない。彼の周囲は暗黒に満ちていた。
 祖国は罪と暴虐に満ち、祖国滅亡の日は近づいていた。それを思ってハバククは、
 「私のはらわたはわななき、私のくちびるはその音のために震える。腐れは私の骨のうちに入り、私の足もとはぐらつく」(一六)
 と言ったほどである。彼は同胞のことを思い、苦悩の極致にあった。彼の魂は震えおののいた。
 しかし、それでも彼は神に信頼した。そして「栄光に満ちた未来」を信じた。神がそれを用意して下さっている。
 それははるか未来のことであっても、絶対に確実なものである。信仰は、神の善なる御計画を確信することである。ハバククはこの信仰に生きた。そして「私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と言ったのである。
 ハバククは、暗黒と絶望のさなかにあってさえ、最大の楽観主義者であり得た。それは信仰の力であった。
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17日 旧約・ゼパニヤ書一章
 本書を記した預言者ゼパニヤは、前七世紀のヨシヤ王の治世に預言活動をした人物である。イザヤやミカより少し後、ナホムとほぼ同時代である。
 ゼパニヤの時代の宗教的・道徳的状況は、ヨシヤ以前の二人の王、マナセとアモンの悪政によって、非常に暗いものであった。
 ヨシヤ王は、このような状況から真の神礼拝を確立しようと立ち上がったのであるが、ゼパニヤの預言活動が、このヨシヤの改革運動の端緒となったとも考えられる。
 預言者ゼパニヤは、ヒゼキヤ王の曾々孫にあたる王族の出だから(一)、ヨシヤ王と血続きであった。
 ヨシヤ王は宗教改革を行なったが、あまりに根深い民の堕落のゆえに、その改革も表面をなでた程度で終わってしまった。その宗教改革は、来たるべき神の審判をとどめるほどのものとはならなかった。
 そのため預言者ゼパニヤは、南王国ユダに迫り来る神の審判を預言しなければならなかった。やがて凶暴なバビロン帝国がユダに攻め寄せてきて、この地を席巻するであろう。
 改革は中途半端では、改革とはならない。私たちは、ここぞという時に徹底した態度をとる必要がある。
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18日 新約・黙示録一四章
 第七のラッパの内容を示す一連の預言的幻の一つとして、「地上から贖われた一四万四千人」の幻が、ヨハネに見せられる(三)。
 「一四万四千人」の携挙である。しかし、彼らの携挙はこの時点で起きるというよりは、第七のラッパ――患難時代の第三期のどこかの時点で起きることとして考えたほうがよいであろう。
 なぜなら、患難時代第三期には獣も地上で力を持つが、「一四万四千人」の携挙もいずれあるということを、ヨハネはここで一連の幻の一つとして見せられているのである。
 「一四万四千人」は、じつはあらゆる国民のクリスチャンからなる「誰にも数え切れぬほど大勢の群衆」の象徴的姿と思われる(七・九)。
 「一四万四千」という数字も、「一万二千人」ずつの「イスラエルの一二部族」という姿も、全世界のクリスチャンたちをさす象徴だからである(二一・一二、一六)。
 「獣」が独裁者の象徴的姿、「小羊」がキリストの象徴的姿であるように、「一四万四千人」はキリスト者たちの象徴的姿である。キリスト者たちは、神の怒りの時を前にして、携挙される。
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19日 旧約・ゼパニヤ書二章
 
ガザ、アシュケロン、アシュドデ、エクロン(四)はペリシテの町々、「ケレテ人」(五)はペリシテ人の別名である。
 「クシュ」(一二)は南エジプトで、その支配者は当時全エジプトを治めていた。
 「アッシリヤ」(一三)は、その傲慢な首都ニネベと共に、当時世界の恐怖であった。しかし、二〇年を経ないうちに、これらの諸国はすべてバビロンに制圧される。ゼパニヤの預言通りになる。
 しかし、ゼパニヤはその前に人々に呼びかける。
 「主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに・・・・主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の怒りの日にかくまわれるかも知れない」(二〜三)。
 ゼパニヤは人々に悔い改めを呼びかけた。かつてヨナの時代に、「もう四〇日すると、ニネベは滅びる」との預言を聞いたニネベの人々は悔い改めたので、彼らは滅びをまぬがれたではないか。
 たとえ、ユダやその周辺諸国が「滅びる」との預言があっても、彼らが悔い改めるなら、神は心を変えて裁きをやめて下さることもあるのである。
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20日 旧約・ゼパニヤ書三章
 「その時、わたしはあなたがたを連れ帰り」(二〇)
 との回復の約束をもって、ゼパニヤ書は終わる。この約束は、一九四八年にパレスチナにイスラエル共和国がつくられたときに、成就した。
 「捕われ人を帰す時、地のすべての民の間で、あなたがたに名誉と栄誉を与えよう、と主は仰せられる」。
 たしかに、今日イスラエル共和国は世界の注視の的であり、「名誉と栄誉」を勝ち得つつある。それは今後は一層そうであろう。
 「わたしは彼らの恥を栄誉に変え、全地でその名をあげさせよう」(一九)。
 神は、神の民が受けた「恥を栄誉に変え」て下さる。
 ある婦人の夫は、難病にかかり、多くの合併症に苦しんでいた。仕事もできず、家でこもりきりの生活は、妻である彼女にとって耐え難く、また世間的に恥ずかしく感じられた。
 しかしその夫が、ある日、教会で力強い神からの癒しを受けた。彼は生まれ変わり、献身して、韓国有数の教会を牧会する牧師になった。あの七年間の病の生活は、かえって主のみわざを証しするものとなった。こうして「恥」と思えた生活は、「栄誉」に変えられたのである。
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21日 新約・黙示録一五章
 「獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が・・・・ガラスの海のほとりに立っていた」(二)
 とは、一四章で天に携挙された「一四万四千人」すなわちキリスト者たちである。彼らは「モーセの歌と小羊の歌を歌って」、神を讃美する。
 「あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。・・・・」(三)
 私たちはこの歌を、やがて天で歌う。いや、この歌を、私たちは地上にいる時から歌おう。心から、神を見上げて。
 まだあまり神を知らないうちは、人は祈りの大半を、自分の願いを並べることに費やすことが多い。しかし、神ご自身をよく知るようになると、むしろ神への讃美を多く歌わないではいられなくなる。
 神を知れば知るほど、神を讃美したくなる。それほど神は大いなる方、素晴らしい方である。
 私たちは恐怖心から神に仕えるのではなく、神を愛するがゆえに、神にお仕えするのである。
 神は、私たちの讃美の中にご臨在して下さる。
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22日 旧約・ハガイ書一章
 
本書を記した預言者ハガイは、前六世紀にバビロン捕囚から帰ってきたユダヤ人たちを叱咤激励し、神殿再建工事を指導した人物の一人である。
 バビロン捕囚が終わり、エルサレムへ帰還した民は、廃墟となっている神殿には目を注がず、自分の家を再建することに忙しかった。しかし神を第一にしない生活は、彼らの祝福とはならなかった。
 多くの種を蒔いても少しの刈り入れしかできず、多くの収入を期待したが、収入はわずかであった。なぜ実りある生活ができないのか。神は答えられる。
 「それは廃墟となったわたしの宮のためだ。あなたがたがみな、自分の家のために走り回っていたからだ。それゆえ、天はあなたがたのために露を降らすことをやめ、地は産物を差し止めた」(九〜一〇)。
 民はそれを聞いて悔い改め、神殿再建工事に取りかかった。
 私たちはどうだろうか。私たちは、神を第一にした生活、教会と福音を第一にする生活をしているだろうか。神を礼拝する生活を第一にしているだろうか。
 神が私たちをどう思っておられるかを考えよう。
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23日 旧約・ハガイ書二章
 
ハガイは、他の老人たちと同様、おそらく六六年前に第一神殿(ソロモン建造の神殿)を見たことのある人であったろう。第一神殿を見たことのある人たちにとっては、建造中の第二神殿は、みずぼらしく見えた(三)。
 しかし、神は「わたしはこの宮を栄光で満たす」と言われる。
 「この宮のこれから後の栄光は、先のものよりまさろう」(九)。
 実際、ゼルバベル指導のもとに造られたこの第二神殿は、のちにローマ帝国の時代に、さらに壮麗な神殿へと改築・増築される。そして非常に壮麗な宮となるのである。
 しかも、その時代にキリストが降誕され、キリストはご自身の「教会」という、目に見えない壮麗な「神の宮」を建てられる。その栄光は、かつての神殿にはるかにまさっている。
 神は神殿再建に際して、
 「銀はわたしのもの。金もわたしのもの」(八)
 と言われた。私たちは、神のためには大きなことを企てるべきである。そのために必要な経済的資金は、神ご自身が御用立てして下さる。
 なぜなら、銀も金も神のものだからである。
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24日 新約・黙示録一六章
 「神の激しい怒り」「裁き」は、ヨハネに与えられた預言的幻の中では、「鉢」として示されている。
 御使いが「鉢」を地上にぶちまけるとき、地上には神の怒りの災害が下されるのである。
 かつて主イエスは、ゲッセマネの園で、
 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、わたしの願いではなく、みこころの通りにしてください」(ルカ二二・四二)
 と祈られた。イエスが言われた「杯」とは十字架の苦難、すなわち、人々の罪に対する神の怒りを一身にひき受けるという出来事をさしていた。「鉢」も「杯」も、神の怒りの象徴なのである。
 そして主イエスが、十字架上であの「杯」を受けて下さったから、私たちは来たるべき神の激しい怒りの「鉢」から救われる。
 主イエスの十字架なしには、私たちは過去に関しても、現在に関しても、未来に関しても救われない。しかし主イエスの十字架により、私たちは未来永劫にわたって救われるのである。
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25日 旧約・ゼカリヤ書一章
 本書は、前六世紀の預言者ゼカリヤによって記された。ゼカリヤはハガイと同時代の人であった。
 ハガイは老人であったが、ゼカリヤは非常に若かったと思われる。それは、彼が一六年前にエルサレムに帰ったイドの孫だからである(ネヘ一二・四、一六)。
 ゼカリヤが宣教を始めたとき、神殿の再建工事はすでに始まっていた。神は言われた。
 「わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。そこにわたしの宮が建て直される」(一六)。
 「わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。主は再びシオンを慰め、エルサレムを再び選ぶ」(一七)。
 母親は、子に懲らしめを与えたあとは、以前よりもましてその子を愛さないだろうか。
 神もそうである。神はイスラエルの民に懲らしめをお与えになったが、その後は、以前にもまして大きな愛を彼らに注がれる。
 あなたが神に立ち返るとき、神はあなたに帰って下さり、あなたのただ中に住んで下さる。神は「母のその子を慰めるように・・・・あなたを慰め」(イザ六五・一三)、あなたを再び選ばれる。
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26日 旧約・ゼカリヤ書二章
 ゼカリヤに次に示された幻の啓示は、回復したエルサレムに関するものだった。
 バビロン捕囚が終わって、エルサレムに帰って来た人々により、エルサレムは「多くの人と家畜」に満ちるようになる(四)。
 人々は神殿を再建する。当然、エルサレム城壁の再建も考えたに違いない。しかしエルサレム城壁は、以後七五年間も再建されなかった。
 その間エルサレムは「城壁のない町」(四)であった。しかし神ご自身が、エルサレムの「城壁」となって下さったのである(五)。
 また幻の啓示は、今なおバビロンの地にいる捕囚の民に、帰国を求める呼びかけに発展する(七)。
 しかしエルサレムに集まってくるのは、ユダヤ人だけではない。「多くの国々が主につく」日が、やがてやって来る(一一)であろう。これは、終末の全世界的回復の日を予見して言われている。
 壮大な啓示である。その啓示はまたこう示した。
 「すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ」(一三)。
 神は活動される方なのである。
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27日 新約・黙示録一七章
 
黙示録では、多くの象徴が用いられている。神からの預言的な啓示が、ヨハネに対し視覚的な幻という形で見せられているからである。
 キリストは「小羊」、サタンは「竜」という象徴的姿で示される。患難時代に力を持つ独裁者は「獣」、患難時代に地上にいるクリスチャンたちは「一四万四千人」という象徴的姿で現われる。
 「獣」に同盟する一〇カ国は、獣の「一〇本の角」と表現される。
 また患難時代に悪の都と化してしまうエルサレムは、「大バビロン」「淫婦」という象徴名で呼ばれているようである(五)。
 「獣」は、エルサレム神殿に自分の座を置き、自分を神とするために、エルサレムを自分の国の中心にすえる。悲しいかな、聖都エルサレムは悪の都、淫婦・大バビロンとなってしまうのである。
 多くの国々は、この淫婦と「不品行」を行なう。「不品行」はやはり象徴的表現であって、文字通りの性的行為ではなく、罪に満ちた人間のあらゆる行為をさす。
 しかし、かつてマカベアのユダが前二世紀にエルサレム神殿を清めたように、再臨のキリストはエルサレムを清めて、千年王国を樹立される。
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28日 旧約・ゼカリヤ書三章
 
ゼカリヤに次に与えられた幻の啓示は、キリストの贖いの予見であった。
 「大祭司ヨシュア」は、前六世紀、ゼカリヤの時代の大祭司である(ハガ一・一)。彼は、民の罪を象徴する汚れた服を着ていた。
 ヘブル語の「ヨシュア」は、ギリシャ語でいえばイエスであって、主イエスと同じ名前であることにも注意する必要がある。
 ヨシュアは、民の罪を「汚れた服」という形で象徴的に担っていた。しかし、彼の着ていた服は脱がされ、彼には礼服が着せられた。
 これは象徴的行為であって、預言の言葉が語られるために行なわれたものなのである。
 すなわち、その意味するところは、神はやがてご自身のしもべ――「若枝」と象徴的に呼ばれるメシヤ・イエスを来させる(八)。彼を通して世の「不義を一日のうちに取り除く」(九)、ということである。
 これがキリストの十字架の日に成就した。
 「若枝」は、イザヤ書でもエレミヤ書でも、メシヤの象徴名である(イザ一一・一、五三・二、エレ二三・五、三三・一五)。
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29日 旧約・ゼカリヤ書四章
 
ゼカリヤに次に与えられた幻の啓示は、捕囚から帰還し神殿を再建しようとしている指導者ゼルバベルへの、力強い励ましであった。「大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ」(七)
 ゼルバベルの前には、神殿再建、エルサレム再建、国家再建という巨大な「山」があった。しかし、信仰によって山は動くであろう。それは平地となる。
 ゼルバベルへの主のことばは、
 「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(六)
 であった。私たちは、自分の権力や能力に頼って事をなすのではない。神の霊によって、聖霊の力によってなすとき、事業は大成する。
 ゼカリヤは啓示的幻の中に、金の燭台と、その左右にある二本のオリーブの木を見た。燭台は神の家の象徴であり(黙示一・二〇)、燭台に灯される火は聖霊を、二本のオリーブは大祭司ヨシュアと指導者ゼルバベルをさすと思われる。
 バビロン捕囚後に再建される神殿は、こうしてゼルバベルとヨシュアの指導のもと、神の霊によって完成する。
 この啓示的幻は、さらに新約時代の教会をも予見している。
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30日 新約・黙示録一八章
 「淫婦」また「大バビロン」とも呼ばれる大いなる都は、わずか一日のうちに滅ぼされる。
 「なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです」(五)。
 神は、世の罪をみのがされる方ではない。仏教でも因果応報と言うが、聖書はこう述べている。
 「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」(ガラ六・七〜八)。
 善因善果、悪因悪果、罪から来る報酬は死であり、一方、神の義に生きるなら永遠の命を得る。人は自分の蒔いたものを刈り取る。
 私たちはこれを、宇宙的法則として信じてよい。たとえば、誰かがあなたに対して、あらぬ誹謗中傷を加えたようなときも、あなたは怒って早まった行為をしないようにしよう。
 悪人は必ず、自分の蒔いたものを刈り取る。だから、神の裁きにお任せすればよい。神は正しいものは正しいとし、悪いものを悪いとして下さる。私たちは神に信頼し、成り行きを神にお任せしよう。
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