聖書一日一章

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1日 旧約・イザヤ書三五章
 
本章は、終末の時代に至福の時代が来る、との預言である。
 終末の時代は、広い意味では主イエスの初来以降の時代、また狭い意味では主イエスの再来以降の時をさす。
 主イエスが初来されて、「盲人の目が開かれ、耳しいた者の耳があけられ」(五)さらに「足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌が喜び歌」(六)ったとき、それは終末の至福の時代の先駆けであった。
 その後、キリストの福音は全世界に宣べ伝えられ、クリスチャンが増えていく。やがてその数が満ちると、キリストが再臨して、地上に目に見える至福の王国――千年王国を樹立される。
 「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる」(一)。
 そのときには、自然界も大きく変わり、豊かなものとなるのである。神の民は、そこで幸福に住むであろう。
 「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみは逃げ去る」(一〇)
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2日 旧約・イザヤ書三六章
 南王国ユダの王ヒゼキヤの治世第一四年(紀元前七〇一年)に、アッシリヤ帝国の大軍が、エルサレムに攻めてきた。
 アッシリヤの将軍ラブ・シャケは、ヘブル語も話したらしく、ユダヤ人の言葉であるヘブル語でユダヤ人をあざけったうえ、降伏を呼びかけた。
 エルサレムの役人たちは、その言葉を民衆に聞かせたくなかったから、「どうかアラム語で話して下さい。我々はアラム語がわかりますから」(一一)と言った。
 アラム語は、もともとアラム人の言葉であったが、当時は国際語のようになっていた。ユダヤの一般民衆はヘブル語を話したが、知識階級はアラム語も理解したのである。
 人々は、あざけりの言葉を受けて黙っていた。これは黙っていることが王の命令だったからでもあるが、彼らは実際、口答えできるほどのものを持っていなかったのである。
 彼らは、蛇ににらまれたカエルであった。絶体絶命。人間的に見たら降参するほかない。
 しかし、こうした時に、神の前に心を注ぎだし、真実な祈りを捧げる者は幸いである。神は必ずや道を開いて下さる。
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3日 新約・Tテモテ五章
 私たちは「怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話す」(一三)ようなことをしないように注意しなければならない。
 「うわさ話」をするとしても、私たちは良いうわさ話に限ったほうがよい。悪いうわさ話――人を悪く言いふらすような話は、話すのも聞くのも好んではならない。
 世の中では、
 「あの人って、○○みたいよ」
 といったうわさ話をあっちに行っては話し、こっちに来ても話して問題を起こしている人が少なくない。
 うわさ話を好むのは危険である。とりわけ、ゴシップやスキャンダルを好み、そうした話で退屈をまぎらわすようになってしまうと、人間はおしまいである。
 悪いうわさ話は、誤解や間違った印象を他の人に与えてしまうことが多い。そして、うわさの当事者を傷つける。うわさ話をあちこちで話すのを好む人は、必ずあとでしっぺ返しを受けると覚悟すべきである。
 うわさ話を好む人は、決して良好な人間関係を築くことはできない。よくしゃべる人ほど、しゃべる内容に気をつける必要がある。
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4日 旧約・イザヤ書三七章
 アッシリヤがエルサレムを包囲したとき、それは南王国ユダの人々にとっても、ヒゼキヤ王にとっても、大きな試練であった。
 しかし、ヒゼキヤが真摯な祈りを捧げたので、神はそれを聞かれた。試練の時こそ、神に近づき、また神に近づいていただく良いチャンスである。
 やがて、神は不思議な方法でアッシリヤの軍隊を撃退された。天使が出ていって、「アッシリヤの陣営で、一八万五千人を打ち殺した」(三六)のである。
 これは、たとえば天使が彼らを毒性の強い水飲み場に導いたということかも知れないし、彼らを猛烈な疫病源に導いたのかも知れない。
 いずれにしても、アッシリヤの軍隊にとってこれは壊滅的な打撃であった。そのためにアッシリヤの王セナケリブは立ち去って、アッシリヤの首都ニネベに逃げ帰った。
 しばらくして、彼は自分の子どもたちの謀反によって殺された。イザヤが預言した通りである(七)。
 私たちも、大きな敵や困難に囲まれたとき、うろたえてはならない。ヒゼキヤの祈りを思い起こそう。神が共におられるなら、私たちに敵はいない。
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5日 旧約・イザヤ書三八章
 「主はこう仰せられます。『あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。なおらない』」(一)。
 ヒゼキヤにとって、イザヤのこの言葉はいかに手厳しかったことか。
 イザヤの語った言葉は、これまでにすべて成就してきたのである。ヒゼキヤもそれを見てきた。預言者が語ればすべて成就する。はずれることも変更されることも、あり得ない。
 ところが、ヒゼキヤが泣いて祈ったとき、神はイザヤの言葉を変更された。神はヒゼキヤに、あと一五年の寿命を加えられたのである。
 この記事は、神は私たちの祈りによっては、ご自身の計画を一部調整されることもあり得る、ということを教えている。
 神のご計画が不完全だというのではない。神のご計画は完全である。しかし神は私たちの祈りによっては、それをさらに良いものに変えられる。私達の祈りを通してこそ、神のご計画は進められるからである。
 私たちは軽々しい宿命論や、がんじがらめの予定説にしばられてはいけない。神は機械ではなく、生きておられる「おかた」なのである。神の思いは、私たちの思いをはるかに越えている。真摯な祈りは神を動かす。
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6日 新約・ヨハネ一一章
 主イエスは、ラザロを復活させる前にマルタに言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(二五〜二六)。
 これは、私たち一人一人にも語りかけられていることである。私たちには将来、死の中から復活させられて目に見える現実の新しい世界に入れられる、という約束が与えられている。その出来事が起きる前に、イエスは私たち一人一人に、
 「あなたはこのことを信じますか」
 と問うておられる。イエスを信じる者は、死んでも生きる。また、生きていて彼を信じる者は、決して死なない。あなたはこれを信じるか。
 信じる者は、イエスのお語りになる永遠の命と復活の恵みにあずかるのである。ラザロの復活は、その絵であり、予型にほかならない。
 仏教の開祖シャカは、死の現実をあきらめることを人々に教えた。しかしキリストは、死の現実を乗り越える道をお教えになる。
 キリストは、永遠の命と復活の恵みを体現したおかたである。このかたを通して以外に真の救いはない。
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7日 新約・イザヤ書三九章
 
当時アッシリヤ帝国は、北王国イスラエルをはじめ中東の大部分を征服していた。
 しかし南王国ユダは、まだ何とか征服されずに持ちこたえていた。ユダには今まで善王が何人か現われたし、ダビデの王系であったことで、神の憐れみがあったからである。
 アッシリヤの南には、当時まだ小国であったバビロン帝国があった。これもまだアッシリヤに征服されずに持ちこたえていた。しかし、バビロンも野望に満ちた国で、やがては中東の覇者となろうと、虎視眈々と時をうかがっていた。
 バビロンの王メロダク・バルアダンは、南王国ユダの王ヒゼキヤのもとに使者を遣わして、親しげな手紙や贈り物を届けてくれた。ヒゼキヤはそれを喜び、使者たちに、自慢げに彼の宝物倉のすべての物を見せた。しかしこのことは、バビロンの王にとっては、やがては中東の覇者となってエルサレムの財宝のすべてを奪うという、良い目標となったに過ぎなかったであろう。
 約一一五年後、実際にエルサレムのすべての財宝は、バビロンに持ち去られることになる。ヒゼキヤは、自分の行動の前に、もっと普段からイザヤの助言に聞くべきであった。
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8日 旧約・イザヤ書四〇章
 
この四〇章以下は、聖書を文字通りには信じない「近代批評学」の学者たちによって、「第二イザヤ」の作と主張されてきた。これはイザヤとは別の、名前の知れない人物による記述という説である。
 さらに、もっと後ろの章は「第三イザヤ」の作、と主張する者もいる。しかし、これは近代批評学者たちの空虚な憶測にすぎない。私たちはこのような説をとらない。
 というのは、イザヤ書自体にも、聖書のどこにも、またユダヤ人やキリスト者の伝承にも、本書の著者が二人あるいはそれ以上という言及、証拠、あるいは暗示は全くないからである。
 さて、八節に、
 「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」。
 とある。信仰とは、一時的なものと永遠的なものとをはっきり見極める眼である。
 草は枯れ、花はしぼみ、肉体は老化し、人間社会は過ぎ去り、移り変わっていく。しかし、信仰者は、永遠的なものをしっかりと見据えて生きていく。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続く。
 あなたは、永遠的な理念に基づいて今日を生きているか。
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9日 新約・Tテモテ六章
 
「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません」(七)
 私たちは裸でこの世に生まれてきたし、裸でこの世から去っていく。死の向こう側にはどんな財産も、衣服も、宝石も持っていくことはできない。
 とすれば、この世とは一体何なのか。この世の生の意味は何か。
 地上世界で人が物質的に何を得たか、またどれほど裕福になったかなどは、結局人生の価値を増やしも減らしもしない。人生の価値は、どれだけ神に喜ばれる歩みをしたか、どれだけ天に宝を積んだかにある。
 私たちはこの地上を去るとき、何も持っていくことはできないが、普段から天に宝を積んでおけば、地上を去ったあと、その宝を目にすることができる。また神は、あなたを喜んで天国に迎え入れ、大いなる幸福の中に入れて下さる。
 地上生活は、やがては天国の生活に続く。今の地上生活は天国のためであり、天国は地上生活のためである。
 「生きるとは、自分にふさわしい死後の世界を創造することである」(サンダーシング)。
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10日 旧約・イザヤ書四一章
 「『あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった』。恐れるな。わたしはあなたと共にいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(九〜一〇)。
 神は、ご自身を信じるあなたに対しても、これを言われる。
 神は、常にご自身のしもべと共におられる。信仰の力は、まさにこの臨在信仰にある。
 臨在信仰によって、モーセは、女子供を含めれば二〇〇万人以上と言われるイスラエル民族を出エジプトさせた。臨在信仰によって、使徒パウロは、地中海沿岸地域を数万キロにわたって伝道してまわった。
 そして臨在信仰によって、現代においても数多くの聖徒たちが、偉大な事業を成し遂げている。
 いつも祈っている人、いつも神の御教えを愛し守っている人は、この臨在信仰の何たるかを知っている。
 臨在信仰は、気分の問題ではない。今日は気分がいいから神が私と共におられる、というようなものではない。
 臨在信仰は、霊のもっと深い所における確信である。それは今感じることもあるが、人生をあとで振り返ったとき、「ああ、神が共におられたのだ」とわかることもある。
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11日 旧約・イザヤ書四二章
 
イザヤ書を貫く重要な思想に、「わたしのしもべ」(一)がある。
 「わたしのしもべ」とは、イスラエルである。しかし、「イスラエル」は、イザヤ書では三つのものが重なり合って見られている。第一は肉によるイスラエル――ヤコブの子孫、第二は真のイスラエル――イエス・キリスト、第三は霊によるイスラエル――教会である。
 本章一〜三節の「私は彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。・・・・彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯心を消すこともなく・・・・」はキリストをさす。
 一方、一九節の「わたしのしもべほどの盲目の者が誰かほかにいようか」は、肉によるイスラエルである。
 じつはイザヤが、三つのイスラエル――肉によるイスラエル、真のイスラエル(イエス)、霊によるイスラエル(教会)を三重に見て、「わたしのしもべ」と言い表していることには深い意義がある。
 肉によるイスラエルの中に、真のイスラエルであるイエスが降誕され、そのイエスから、霊によるイスラエルである教会が生まれた。真のイスラエルにあって、肉によるイスラエルと霊によるイスラエルは連続し、一体となっている。
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12日 新約・ヨハネ一二章
 「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至るのです」(二五)
 「自分の命を愛する」(フィレオー)は、自分の命(肉体的生命)に執着することである。反対に自分の「命を憎む」は、自分の命に執着しないことである。命に執着しない者は、かえって命を保ち、永遠の命に至る。
 私たちはとかく、あれこれと執着する。財産に執着し、名誉に執着し、容貌に執着する。しかし最も執着するのは、やはり自分の命であろう。
 けれども、自分の命さえも神にささげて惜しまない者に対し、神はその命をさらに豊かにして返して下さる。栄光の永遠の命となして、あなたに返して下さるであろう。
 主イエスは、私たちのためにご自身の命を神に捧げて、その命を三日後に神から返還された。使徒たちも、自分の命を賭けて伝道した。
 もちろん、単に殉教することだけが、自分の命をかけることではない。自分の全人生をかけて神のためになす何らかの仕事を持つとき、その人は自分の命をすでに神に捧げている。神はそれを幾倍にもなして、あなたに返して下さるであろう。
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13日 旧約・イザヤ書四三章
 
あなたは本章を、まさに自分のために語られていると思って読んでよい。
 「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」(一)。
 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(四)。
 「わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った」(七)。
 「あなたがたはわたしの証人――ヤハウェの御告げ――わたしが選んだわたしのしもべである」(一〇)。
 ここに出てくる「わたしのしもべ」は、肉によるイスラエルであり、また霊によるイスラエル――クリスチャン一人一人である。
 神はいかに私たちを愛し、大切にしておられることであろうか。これらの神の御言葉を心底信じる者は、幸いである。
 あなたは、神の栄光のために造られた神のしもべである。神の目には、あなたは高価で尊い。
 神のしもべとして、また主イエスの弟子として、今日何をなすべきか祈り、黙想しよう。
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14日 旧約・イザヤ書四四章
 あなたは旅をしたことがあるだろうか。日本の各地に行くと、それぞれの地域でそれぞれの人が暮らしている。
 世界の各地に行くと、それぞれの地域でそれぞれの人が暮らしている。あなたは、それら世界の五〇億人以上の人々の一人に過ぎない。
 また、現在生きている人々だけでなく、過去を考えれば、大勢の人間が生まれては死んでいった。この世界は、無数の人間のしかばねの上に立っている。
 あなたも、そうした過去に生まれては死んでいった数百億の人間の一人に過ぎない。あなたも、やがては過ぎ去っていく者の一人である。
 私たちの人生は、全くのつかの間ではないか。そんな私たちの人生に、一体どんな価値と意味があるのか。
 七節に、神は「永遠の民を起こした」とある。あなたは「永遠の民」の一員である。
 あなたは永遠の民の一員として、この時代、またこの地における神のみわざを担当しているのである。あなたは今日、それを意識しているだろうか。
 この地上にあるのは、つかの間でも、そこでなすべき事柄の意義は大きい。その事をしっかり理解しよう。
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15日 新約・Uテモテ一章
 
「私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせて下さい」(六)。
 「按手」というのは、信者の頭に手を置いて祈ることであるが、主イエスは人々に手を置いて病をいやされたし、使徒たちも信者に手を置いて祈った。
 按手は、祈られる者に対し、単なる形式以上の大きな恵みをもたらすものである。今日も、牧師や教会のリーダーはこの按手による祈りを活用すべきと思う。
 また祈りを受ける者も、敬虔な思いをもって按手を受けるのがよい。信仰深い人に按手して祈ってもらうことは、本当に大きな力になる。
 できることなら、毎週按手して祈ってもらえるようならいいのだが。
 韓国のある教会では、非常な速度で教会が成長しているが、礼拝以外に按手祈祷会があり、多くの人が出席する。そこでは祈りの霊に満ちた女性牧師が、按手しながら一人一人の必要に応じた祈りを捧げる。
 一人一人にふさわしい御言葉も説いてくれる。彼女はじつによく聖書を知っているし、その祈りの熱烈さや、内容の具体的なことは驚くほどである。その場で病をいやされた者も多い。
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16日 旧約・イザヤ書四五章
 
一節の「クロス」は、ペルシャの王クロスである。彼は、紀元前五三六年にバビロン帝国を倒し、中東の新たな覇者となる人物である。
 読者はここで、とまどいを覚えるかも知れない。私たちはイザヤ書を読んで、そこにアッシリヤ帝国のことが記されているのを見た。バビロン帝国についても書かれているのを見た。さらに、ここではその次のペルシャ帝国についても書かれているというのか。
 そうである。中東世界はアッシリヤのあとにバビロン、その次にペルシャ帝国が支配する。イザヤはそのすべてを預言する。
 イザヤが預言したとき、クロスは生まれてもいなかった。しかしイザヤは彼の登場を名指しで預言する。
 これは聖書では珍しいことではない。実際、紀元前六世紀のダニエルも紀元前四世紀のギリシャについて名指しで預言しているし、また使徒ヨハネも、終末の「獣」の名が六六六に関係していると預言している。
 ペルシャ王クロスは、バビロンを倒すと、被征服国に対して寛大な政策をとる。彼はユダヤ人をバビロン捕囚から解放し、故国に帰還させる。これは神の導きと御計画によるものであった。
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17日 旧約・イザヤ書四六章
 「遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。わたしは終わりのことを初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる』と言う」(九〜一〇)。
 聖書に記された予言や予型を学んで感じることは、神が大昔から、ご自身の救いの御計画に基づいて、歴史上にご自身の足跡をしるして来られた、ということである。
 聖書の予言や予型はすべて成就してきたし、また、これから成就するはずのものも、みな成就するであろう。まさにそこには、
 「わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる」
 という神の強いご意志が感じられる。聖書を学べば学ぶほど、神の実在と、今も進行する神の偉大なご計画と摂理に、ただただ感嘆するばかりである。
 聖書には過去のことも多く記されているが、それが単に過去の事柄にとどまらず、私たちの時代や未来にも深く関係していることを知るとき、聖書の深さに驚嘆せざるを得ない。聖書はまさに神の書物である。
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18日 新約・ヨハネ一三章
 イスカリオテのユダは、主イエスを売り渡すために、その場を出ていった。ある人々は言う。
 「もし、ユダの裏切りがなければイエスの十字架がなかったのなら、ユダは、イエスを裏切って滅びるために生まれてきたことになる。それではユダがかわいそうだ」。
 しかし、ユダの裏切りはイエスの十字架のために「必要」なものではなかった。たとえユダの裏切りがなくても、イエスは十字架にかかったのである。
 なぜなら、パリサイ人や律法学者たちは、すでにイエスを捕らえて殺そうと謀っていたし(ヨハ一一・五三)、イエスはエルサレムに来ても逃げ隠れなさらなかった。
 ユダの裏切りは、ユダ自身の自由意志によるものである。もちろん、神はそれを予知しておられた――深い悲しみをもって。
 神は予知して予定される。神はユダの裏切りを予知し、それを許容された(消極的予定)。なぜ許容されたのか。それはたとえユダがイエスを裏切っても、ユダにはなお救われる機会があったからである。
 ユダは裏切った後、イエスの十字架のもとに来て悔い改めれば、彼であっても救われたのである。
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19日 旧約・イザヤ書四七章
 本章は、バビロン帝国の破滅に関する預言である。
 バビロン帝国は、カルデヤ人の国である。バビロンは紀元前六〇七年にアッシリヤ帝国を倒したのち、約七〇年間、中東の覇者となる。南王国ユダも、この期間、バビロンに捕囚される。
 バビロン捕囚は、神が南王国ユダの罪を裁くために許されたことであった。しかしそのバビロン帝国自身、高ぶりの罪のために、やがて神からの裁きを受ける(六〜七)。
 「破滅は、あなたの知らないうちに突然あなたにやって来る」(一一)
 とあるが、事実、栄華を誇ったバビロンは紀元前五三六年、ペルシャのクロス王の軍隊の前に、突如として滅びる。わずか一日のうちの出来事であり、これは歴史家によく知られた有名なことである。
 そのとき、「天を観測する者」「星を見る者」「新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者」すなわち占い師たちも、ことごとく無力であり、バビロンを破滅から救うことはできない(一三)。
 バビロンの偶像、魔法使い、魔術者の群も、バビロンと共に滅びるのである。
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20日 旧約・イザヤ書四八章
 
「わたしは、あなたの神、主である。わたしはあなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。あなたがわたしの命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のように、あなたの正義は海の波のようになるであろうに」(一七〜一八)。
 私たちが罪と滅びから救われるのは、律法を守ることによるのではなく、主イエス・キリストを信じる信仰による。しかし、私たちがしあわせになるためには、神とキリストのの御教えを守る必要がある。
 たとえば、ある孤児が大富豪の主人に目を留められて、養子になったとしよう。その子は、主人の愛を受けて、やがてはその家の相続人の一人になる。
 しかし、もしその子が自分勝手なことばかりしていたら、どうなるであろうか。主人は心を痛め、その子も幸福にはなれないであろう。その子は、主人の教えや助言をよく聞き、立派な大人に成長しなければならない。
 私たちも同様である。私たちは信仰によって神の子とされ、すでに天国の富の相続人である。しかし、神の御教えを守らなければ、真に幸福になることはできない。
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21日 新約・Uテモテ二章
 
「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる」(一一)。
 好地由太郎という人は、一八歳のとき婦女暴行の罪を犯し、その末に発作的に勤め先の女主人を殺害してしまった。彼は犯行を隠すためその家に放火。しかし捕らえられ、未成年であったため終身刑を科せられた。
 獄中でのある日、彼のもとに義母が聖書を差し入れてくれた。それを読んでいるうちに、好地は御言葉にとらえられ、ただひとり回心した。
 彼は、そのときの経験についてこう語っている。
 「そこで二五歳、すなわち明治二三年一月二日限り、大改革をして、今度は良き事、正しき事のために早く殺していただくことを定めました。神のみ旨とあらば、いつでも、否、今すぐにでも死んであげますと、決心して祈ると同時に、心の煩悩は全く取り去られ、真の平和が心に宿ったのです」。
 彼は模範囚となり、二三年の獄中生活ののち、出所して、牧師になった。そして多くの人を主に導いた。
 彼はあの日、古い自分に死んだのである。以後の彼は、過去の彼ではなかった。キリストによる新しい自分となっていたのである。
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22日 旧約・イザヤ書四九章
 
一〜六節の「私」は、真のイスラエルとしてのイエス・キリストをさしているように思える。神は彼に言われている。
 「あなたはわたしのしもべ、イスラエル。わたしはあなたのうちに、わたしの栄光を現わす」(三)。
 「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」(六)。
 イザヤの預言の中には、「わたしのしもべ」――真のイスラエル=キリストに関する預言が、しばしば登場するのである。
 神は、ご自身の救いのご計画の究極的成就のために、ご自身の御子を世に遣わされる。それは、神の尽きない愛のゆえである。
 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。見よ。わたしは手のひらに、あなたを刻んだ」(一五〜一六)。
 神の愛は、母親の愛にたとえられ、また母親の愛にもまさるものであると述べられている。神は、父性的でもあられるが、愛の面では永遠に母性的である。
 神はこの愛をもって、あなたを愛しておられる。
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23日 旧約・イザヤ書五〇章
 聖書において、神とイスラエル民族、また神とエルサレムの関係は、結婚にたとえられている。
 しかし神は、南王国ユダの人々を、バビロン捕囚へと追いやられた。彼らはこのとき、神とはいわば別居状態になった。
 とはいえ、神は彼らと「離婚」されたわけではない(一)。彼らの罪のゆえに別居状態はしばらく続くが、両者はやがて復縁するのである。
 「わたしの手が短くて贖うことができないのか。わたしには救い出す力がないというのか」(二)。
 彼らが一定期間バビロン捕囚の憂き目にあうのは、神に救う力がないからではない。彼ら自身のそむきの罪のゆえなのである。しかし、神はその期間が満ちれば、すぐさまそこから助け出して下さる。
 私たちも、とかく苦しいことにあうと、神には私を救い出す力がないのか、と思ってしまうことがないか。しかし、神に救い出す力がないのではない。神の手が短くて贖えないのではない。
 もしそれが、あなたを懲らしめるための苦難であるなら、期間が満ちれば、神は必ずあなたを助け出し、高く上げて下さるであろう。
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24日 新約・ヨハネ一四章
 「わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです」(一二)。
 ペンテコステ以後の弟子達の働きは、地上での主イエスの働きよりも、質においてではなく、その影響の及ぶ範囲において大きかった。彼らの福音宣教は、地中海沿岸地域の全域に及んだからである。
 またその後、福音宣教は全世界に達した。私たちも、そのみわざの一端をになっているのである。
 福音宣教とは、「道であり、真理であり、いのち」(六)である方を宣べ伝えることにある。
 地上に現われたいかなる聖人、偉人であれ、これほどに言い得たおかたが、一体ほかにいたであろうか。これほどのことが言えるのは、事実その通りのおかたか、大ボラ吹きか、どちらかである。
 聖書の真実性を学んでいる私たちにとって、彼が後者であると考えるのは不可能である。それに私たちは、主イエスが事実「道であり、真理であり、いのち」であられることを、人生の中で体験しているのである。
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25日 旧約・イザヤ書五一章
 
「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。・・・・
 目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ」(六)。
 終末が近づいた現代において、この御言葉はますます現実味を帯びている。
 それは、神がやがてご自身の義を示されるからである。神は地上の悪と罪を一掃し、ご自身の義なる王国を樹立されるであろう。
 悪人は一掃され、神を愛する人々は地を受け継ぐ。古い天地は過ぎ去り、来たるべき新天新地において神の義と恵みは永遠に続くであろう。
 私たちの今生きているこの日、この時は、その究極の時に至る一つのプロセスにほかならない。すべてはそこへ向かっている。
 たとえば地引き網の中で、魚は自分勝手な動きをしているようでも、じつはみな次第に岸辺へと引き寄せられている。それと同じである。神は人類の歴史を、地引き網のように、ご自身の王国の岸辺へと引き寄せておられるのである。
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26日 旧約・イザヤ書五二章
 
これは、バビロン捕囚からの回復、および、その後の時代になってメシヤが降誕されるとの預言である。
 神はイスラエルを見捨ててはおられない。神は彼らを、捕囚先のバビロンから帰還させて下さるであろう。それだけではない。そののち神は、彼らのうちにメシヤを送られるのである。
 「見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる・・・・」(一三)。
 この「わたしのしもべ」の預言は、次の五三章の終わりまで続く。
 以前にも述べたように、「わたしのしもべ」はイスラエルのことであるが、肉によるイスラエル、真のイスラエル(イエス)、霊によるイスラエル(教会)が三重に見られている。「わたしのしもべ」は、ここでは真のイスラエル――主イエスのことである。
 「その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた」(一四)。
 イエスの苦難はあまりにも大きかったので、その顔立ちや姿は通常の人間とはかけ離れたものに見えたということであろう。主イエスの御顔は、苦難を知り、かつ、この上ない憐れみに満ちたものであったろう。
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27日 新約・Uテモテ三章
 私たちは、「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たち」(七)にならないよう気をつけたいものである。
 長年教会の集会に出席し、聖書の学習会で聖書を学び、またいろいろな信仰書を読んでいるというのに、もし私たちが未信者時代と比べてあまり変わらない生活をしているとすれば、それは何かが欠けているから、と思わなければならない。
 いったいそのような人は、何が欠けているのであろうか。それは、真理への愛、もしくは神への愛ではないだろうか。
 もし、教会へ行くことが単に友人との交わりを得るためであるなら、また聖書を学ぶことが単に知識をつけるためであるなら、私たちは信仰における最も大切なものをまだ学んでいないのである。
 信仰において最も大切なものは、神への愛であり、真理への愛である。もしそれがなければ、いかなる聖書知識も、教会生活のどんな時間も生きてこない。
 しかしそれがあれば、それはあなたの人生を、輝く、豊かな、充実したものに変えるのである。
 あなたは神を愛しているか。真理をこよなく愛しているか。
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28日 旧約・イザヤ書五三章
 本章は、メシヤ=イエスに関する預言である。
 この預言は非常にリアルで、あたかも十字架のもとでイザヤが実際にイエスを見ていたかのような具体性と、迫力を持っている。
 イザヤの預言するメシヤは、人々の思いとは違って、苦難を受けて死に、復活し、その上で神の義をなし遂げるメシヤである。
 「主(ヤハウェ)は、私たちすべての咎を彼に負わせた」(六)
 は、イエスの十字架死が私たちの罪を負っての犠牲の死であったことを、明確に教えている。
 七節の「彼は口を開かない」は、イエスが裁判のとき不思議なほどに口を開かなかったことにおいて成就した(マタ二七・一四)。
 一方、一二節の「そむいた人たちと共に数えられた」は、イエスが盗賊たちと共に十字架にかけられたことで成就している。
 さらに、一〇節に「もし彼が自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く子孫を見ることができ・・・・」とある。これは、イエスの死が犠牲の死であるなら彼は復活する、との預言である(「末長く」の原語は、「永遠に」とも訳されている言葉である)。
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