聖書一日一章

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1日 旧約・イザヤ書五四章
 「夫に捨てられた女」(一)は、神に捨てられバビロン捕囚に渡されたイスラエル、一方「夫のある女」は、バビロン捕囚以前のイスラエルをさす。
 「夫に捨てられた女の子どもは、夫のある女の子どもよりも多い」。
 すなわち、バビロン捕囚後のイスラエルは、それ以前のイスラエルよりも、大きく増え広がるであろう。神の憐れみは続く。
 バビロン捕囚の出来事は、神にとっては「ノアの日のよう」であった。ノアの大洪水後、神は大洪水によってはもはや全地を滅ぼすことをしない、と誓われた。そのように神は、バビロン捕囚以後はもはやイスラエルを激しく怒ることはしない、と誓われる(九)。
 神は、たとえ怒るようなときも、つねに心の底に愛による痛みを感じておられる。
 私たちが神による叱責を受けるときも、そうである。神は私たちを憎くて叱責されるのではない。愛しておられるがゆえに、叱責せざるを得ないのである。
 神の叱責を受ける者はさいわいである。そこで学ぶべき教訓を学べば、その人のその後は、それ以前よりも祝福されたものになるであろう。
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2日 新約・ヨハネ一五章
 
ある伝道者は、伝道を始めたが、なかなか実を刈り取ることができなかった。彼は挫折し、自分がいかに小さく、いかに力のない者であるかを思い、うちひしがれた。
 しかし、彼が祈っていると、その心に次の言葉が響いてきた。
「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」(一六)。
彼は目を輝かせ、思った。「そうだ。私はこの聖句を与えられて献身したのだった。なのに、今までの自分は、あたかも自分でキリストを選んだかのような自分主体の行動だった。しかし、キリスト様のほうで私を選び、任命して下さったのだ」。
 彼はその日から、自分のすべてのことをキリストにおゆだねするようになった。自分にできる最善を尽くして、あとの結果はキリストにおゆだねした。
 彼はもはや、結果のことであれこれと悩まなくなった。彼は、自分が働いているのではなく、キリストに働いていただくのであって、自分はただキリストにお従いすればよいのだ、とわかったのである。
 その日から、彼の伝道は実を結ぶようになった。
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3日 旧約・イザヤ書五五章
 
神はかつて、イスラエル民族を全世界より集め、パレスチナに帰還させると言われた。
 事実、イスラエル民族は一九世紀頃よりパレスチナに帰り始め、ついに一九四八年、イスラエル共和国建国を宣言した。
 神の口から出る御言葉は、むなしく終わることがない。「必ず、わたしの望むことを成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる」と神が語られた通りである(一一)。
 イスラエル民族の帰還と国家再建により、パレスチナの各地にあった荒野の多くが、今や優れた灌漑技術により、農地や、緑麗しい肥沃な地に変えられた。
 パレスチナでは、数千年ものあいだ荒野であった地が緑豊かな地に変わった、という例が方々に見られるのである。そこでは、イザヤが預言した通り、
 「いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生え」(一三)
 ている。これはイスラエル民族にとって、
 「主の記念となり、絶えることのない永遠のしるし」(一三)
 となっている。この同じ祝福が、神に従うあなたにもあるであろう。
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4日 旧約・イザヤ書五六章
 「主に連なる外国人」という言葉が、三節と六節にある。これはヤハウェなる神を信じる異邦人信者たちである。
 旧約聖書は決して、イスラエル民族だけのための書物ではない。それは異邦人のためのものでもある。
 「わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」(七)
 と神は異邦人信者に約束された。
 一方「宦官」(三)は、後宮に仕えるために去勢された官吏である。去勢された者は、主の集会に加わってはならないと律法で命じられていた(申命二三・一)。しかしここでは、神の教えを行なうなら神は彼らに、
 「息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える」(四)
 と約束されている。
 「外国人」とはアウトサイダー、または、はみ出し者の代表、「宦官」は抑圧された者の象徴、と見ることもできる。
 あなたは、「主はきっと私をその民から切り離される」と言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と言ってもいけない(三)。あなたが、神の喜ぶ事を行なうなら、あなたも永遠に神の民である。
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5日 新約・Uテモテ四章
 
「生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエス」という言葉が、一節にある。
 この「さばく」は、単に罰を与えることではない。善悪を判定し、その人にふさわしい報いを与えるの意味である。
 やがて世の終わりに、キリストは「最後の審判」の法廷に立ち、人々にさばきを下される。しかし、それは単に罰を与えることではない。罰を与えることもあるが、赦しを与えることも、褒賞を与えることも、「義の栄冠」を与えることもある。
 「かの日には、正しい審判者である主が、義の栄冠を私に授けて下さる」(八)。
 かの日――すなわち最後の審判の法廷が開かれるとき、キリストは「生きている人と死んだ人とをさばかれる」のである。
 生きている人は、そのまま最後の審判の法廷に立ち、そのとき死んでいる人は、復活して最後の審判の法廷に立つ。
 死んでいる未信者の最終的な行き先――神の国(天国)か地獄(火の池)かは、そのときになって決まる。それまでは、未信者はハデス(よみ)のそれぞれの場所に行っており、神の取り扱いを受けている。
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6日 新約・イザヤ書五七章
 
「『わたしは・・・・心砕かれて、へりくだった人と共に住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである』」(一五)。
 「心砕かれて、へり下った人」――すなわち謙虚で謙遜な人とは、どういう人であろうか。
 私たちは、「卑下」と「謙遜」とを区別しなければならない。「卑下」「自己卑下」とは、自分をダメな人間と思いこみ、もはや何もやる気がなく、ダメさ加減を単に皮肉めいて「自分はつまらない人間です」と言っているにすぎない。
 そこには神への信仰も、神へのへり下りもない。単に自分を自分で卑しみ、さげすんでいるに過ぎない。
 これに対して、真の謙遜、へり下りは、どんなに成功をおさめ、どんなに優れたことを成し遂げても、高ぶらず、慢心せず、神の前にひざまずいて感謝し、神に栄光を帰す態度である。その人は、
 「ここまで出来たのは、すべて神の恵みです」
 と言うのである。
 また真に謙遜で、へり下った人は、自分の間違いや罪を指摘されたとき、かたくなにならず、すぐにへり下って改めることができる。本当に謙遜な人は、向上心を失わない。
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7日 旧約・イザヤ書五八章
 
旧約聖書では、つねに善を行なうことが言われている。それが本当の祈りであり、断食なのだと。
 この「善を行なう」ということが、新約時代になって不必要になったと思ってはいけない。私たちは善行ではなく信仰によって救われるのだが、善行は信仰から当然生まれるものなのである。
 善を行なうことなくしては、私たちは神からの祝福をいただくことができない。どんなに祈りを積んでも、どんなに集会通いを重ねても、神の御教えを実行することなくしては、人生に祝福はない。
 「あなたの中から、くびきを除き、うしろ指をさすことや、つまらないおしゃべりを除き、飢えた者に心を配り、悩む者の願いを満足させるなら、あなたの光は、やみの中に輝き上り、あなたの暗闇は、真昼のようになる」。
 「そのとき、あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと、『わたしはここにいる』と仰せられる」(九〜一〇)。
 私たちは善を愛そう。それは「キリストの香り」であり、神の愛の実現なのである。善を愛することは神を愛することである。神はそういう私たちを愛される。
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8日 新約・ヨハネ一六章
 
「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。・・・・それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです」(二七)。
 ここで主イエスの言われていることは、私たちは直接父なる神に願ってよい。そうすれば御父は、イエスの御名によってそれをかなえて下さる、ということである。
 なぜなら、私たちがイエスを神から来られた御子と信じたので、御父ご自身が私たちを愛しておられるからである。すなわち、私たちのイエスへの信仰と愛のゆえに、父なる神は、私たちの願いと祈りを聞き届けて下さる。
 主イエスを愛し、その御教えに従う者ほど、祈り求めるとき、それがたとえどんな願いであっても、父なる神はそれをかなえて下さるであろう。
 神に願いをかなえていただく体験は、キリスト者の人生において大きな醍醐味である。キリスト者の人生は、何と楽しく、愉快で、思いがけない喜びに満ちていることであろうか。
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9日 旧約・イザヤ書五九章
 
預言者イザヤの活動した時代は、イスラエルにおいて罪が蔓延しているときだった。
 それゆえに北王国イスラエルはアッシリヤ帝国によって征服・捕囚され、また南王国ユダは、バビロン帝国によって征服・捕囚されるのである。
 神はこうした裁きを、ただ冷淡に、また機械的になされたのであろうか。そうではない。神は激しく心に痛みを覚えながら、すべてのことをなされたのである。
 「主はこれを見て、広義のないのに心を痛められた」(一五)。
 神は、痛みの神である。これまで西洋において発展した神学には、この観点が欠けていた。西洋神学の神は冷たいのである。しかし実在の神は、罪を見て心を痛め、また裁きをしては心を痛められるかたである。
 エレミヤ書には、
 「わたしのはらわたは彼のためにわななき」(三一・二〇)
 という言葉も出てくる。断腸の思いである。
 信仰が深まると、神の痛みがわかってくる。神の痛みを、わが痛みと感じるようになるからである。
 神の痛みがわからないと、神の御心もわからない。
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10日 旧約・イザヤ書六〇章
 
本章は、終末におけるシオン、すなわちエルサレムの回復と繁栄の預言である。これは究極的には、千年王国におけるエルサレム、また新天新地の「新しいエルサレム」(黙示二一・二)において成就する。
 神は裁きを語るが、その向こうに必ず回復と繁栄を見せて下さる。
 本章以降、イザヤ書の最後まで、終末の時代に関する預言が多くなる。終末の救い主と、審判、また「新しい天と新しい地」(六五・一七)に関する預言的幻が語られる。
 昔、ゾロアスター(ツァラスストラ)という人物が現われて、世界の終末と、救い主の到来、審判、またその後の理想世界を説き、「ゾロアスター教」を起こした。この宗教は現在はほとんど廃れたが、紀元頃の時代には、ペルシャを中心に一大勢力となっていた。
 ある不信者の宗教学者たちは、このゾロアスター教の終末論が、のちにユダヤ教やキリスト教、またイスラム教の終末論になったのだ、というようなことを言う。しかし、これは思い違いである。
 なぜなら、ゾロアスターの生まれたのは前六三〇年。そのずっと前の前七〇〇年代に、イザヤはすでに終末論を説いていたのである。
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11日 新約・テトス一章
 
「永遠の命」が神を愛する人々に与えられることは、「神が永遠の昔から約束して下さった」ことだ、と記されている(二)。
 かつて旧約の聖徒たちは、死後「よみ」に下った(創世三七・三五、詩篇八八・三、伝道九・一〇)。旧約時代、すべての人は「よみ」(ヘブル語シェオル、ギリシャ語ハデス)に下ったのである。
 旧約の聖徒たちですら、キリスト到来以前は、永遠の命を持っておらず、すぐには天国には行けなかった。
 しかし、キリスト昇天の時になって、旧約の聖徒たちはキリストに連れられて天国に入った(エペ四・八)。彼らはそのときになって、永遠の命に入ったのである。
 一方、その後キリスト信者は、信仰に入ると共に永遠の命を与えられ、死後は直後に天国に行っている。このように永遠の命は、キリストと共に世に現わされた。これは永遠の昔、神が立てられた御計画による。
 だから、キリスト初来以後に生まれた私たちは、何という幸せであろうか。私たちは福音を聞き、それを信じて永遠の命に入り、死後は「よみ」ではなくすぐさま天国に入れるという恵みの中にあるのである。
 この福音を伝えよう。
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12日 旧約・イザヤ書六一章
 
「神である主の霊が、わたし(キリスト)の上にある。ヤハウェはわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」(一)
 はキリスト預言である。主イエスは公生涯に入られたとき、この御言葉がご自身の上に成就したと、宣言された(ルカ四・一七〜二一)。
 主イエスは、父なる神ヤハウェから油注がれて遣わされた救い主=メシヤ(油注がれた者の意)であられる。
 主イエスは、「貧しい者」に福音を伝え、「心の傷ついた者」をいやすために来られた。「貧しい者」とは、経済的に貧しい者だけでなく、心の貧しい者たちである。
 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタ五・三)
 とイエスは言われた。心砕かれ、へり下って、自分を無にする者は、神の祝福にあずかる。彼らは主イエスの福音を聞いて、天の御国に入るであろう。
 「心の傷ついた者」もいやされる。私たちは人生において、様々な傷を負うが、イエスはそれをいやして下さるのである。
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13日 旧約・イザヤ書六二章
 
神は、シオン(エルサレム)のために救いの御計画を推し進めると、約束される。
 「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない。その義が朝日のように光を放ち、その救いが、たいまつのように燃えるまでは」(一)。
 エルサレムは、神のご計画の中心である。かつてこの地で、アブラハムのイサク奉献の出来事があり、またソロモン神殿建設の出来事があり、また主イエスの十字架死と復活の出来事があった。
 エルサレムは、神の摂理の中心であったし、これからもそうであろう。やがて主イエスは、エルサレムに再臨される(ゼカ一四・四)。
 そののち、神の救いは千年王国のエルサレム、またその後の新天新地のエルサレムを中心に、全世界にまでその翼を広げるであろう。
 「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザ五六・七)。
 エルサレムは、来たるべき理想世界の首都となる。それは大王なる神と、王なるキリストの住まわれる都である。主に贖われた者たちは、その都に出入りし、地の果てにまで主の恵みを及ぼすであろう。
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14日 新約・ヨハネ一七章
 イエスは父なる神に、
 「わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです」(一〇)
 と言われた。これは主イエスだけでなく、主イエスを通して神の子となっている私達も、同様に父なる神に向かって言ってよい言葉である。
 なぜなら、あの「放蕩息子」のたとえ話において、父は息子(兄)に言った。
 「おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ」(ルカ一五・三一)。
 使徒パウロもこう言っている。
 「私たちは・・・・何も持たないようでも、すべてのものを持っています」(Uコリ六・一〇)。
 「私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たして下さいます」(ピリ四・一九)。
 神の愛、喜び、永遠の命、義、聖潔、また祝福は、あなたのものである。あなたのものはみな神のもの、神のものはあなたのものである。
 あなたは神の無限の富の中にあり、神の無限の富はあなたの内にある。あなたが「神の子」であるとは、そういうことである。神の恵みを生かそう。
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15日 旧約・イザヤ書六三章
 
「私たちの敵はあなたの聖所を踏みつけました」(一八)。
 これは、前五八六年、バビロン帝国がエルサレムに攻め寄せてきて、神殿を破壊したときに成就した。神殿の壊滅は、イスラエル民族にとって、たいへんな屈辱であった。
 彼らの未来は真っ暗となり、それは世界の破滅にも等しく思えたであろう。
 私たちの人生にも、しばしば屈辱的なことがないか。自分の最も大切にしているものを踏みにじられたような経験がないか。
 それは確かに辛い事だが、それを契機に人間が成長することもある。イスラエル民族の場合、神殿を破壊され、バビロン捕囚の屈辱に会ったが、その後はもう二度と偶像崇拝の罪に陥らなかった。
 明治・大正期の代表的キリスト者として有名な内村鑑三には、教会から破門されたという経験がある。しかしその後彼は、自分で伝道を始めた。その経験は、彼の伝道をさらに大きくした。
 たとえあなたが、人生で屈辱的な経験をすることがあっても、それを人生の終わりと思ってはいけない。それは新たな段階へのステップなのである。
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16日 旧約・イザヤ書六四章
 前章に続き、イザヤは預言者として民を代表した祈りを捧げる。彼は、
 「主よ。今、あなたは私たちの父です」(八)
 と告白する。神が父なら、たとえ子を懲らしめることがあっても子を見捨てることはない、というイザヤの信仰がここにあらわれている。
 また、イザヤ自身はたいへん清い生活を送っていたのに、
 「私たちはみな汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです」(六)
 と祈っている。これはイザヤが、民を代表して祈っているからである。彼は「わたし以外の者はみな汚れています」とは言わない。「私たちはみな汚れた者のようになり・・・・」と祈っている。
 イザヤは、民の罪を自分のことのように思い、心に痛みを覚えていた。私たちは同胞である日本人のことを、これほどまでに思っているだろうか。
 私たちは、一度でも彼のような祈りを捧げたことがあっただろうか。
 イザヤの時代、神に従う信者は少なかったのである。この日本でも、キリスト者は少ないではないか。この日本に必要なのは、イザヤの心を持った人々である。
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17日 新約・テトス二章
 「健全な言葉を用いなさい」(八)
 とあるが、言葉というものは、たいへん難しいものである。
 たった一言、不適切な言葉を言ったために相手を傷つけてしまうことがある。一方では、わずか一言の良い言葉が、相手を大いに励まし、闇から立ち直らせることもある。
 大人になるとは、健全な言葉が使えるようになることである。また、時・場所・状況に応じて適切な言葉を言えるようになることが、人格の成長を示すバロメーターなのだ、とも言える。
 これは単に何万語の言葉を知っているか、という問題ではない。語彙の豊富さを言っているのではない。
 語彙は少なくてよい。大切なのは、話す内容である。その言葉の背後にある感情、思想、信仰である。
 人と話しているとき、本当に相手に必要な言葉をかけてあげられるかどうか、また、自分が辛いことにあったようなとき、どんな言葉を言えるか、などである。
 伝道者にとっては、相手に応じていかに神の真理をわかりやすく語れるか、ということでもある。
 聖書を学び、信仰偉人伝を読み、優れた説教を聞くとき、私達は健全な言葉の力を学んでいるのである。
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18日 旧約・イザヤ書六五章
 
本章の前半は、終末の審判、およびそのときに神に属する者と属さない者とが分けられる、との神ご自身の言葉である。
 また後半は、終末の審判の後に「新しい天と新しい地」が創造される、との予告である(一七)。神に属する者たちは、この新天新地を受け継ぐ。終末の審判の後に、理想世界が出現する。
 多くの人は、「終末」「世の終わり」と聞いて、全人類が死に絶えて滅亡してしまう時と誤解している。しかし、聖書の言う「世の終わり」は、全人類滅亡の時ではない。
 神に属さない者たちは滅びるが、神に属する者たちは生き残るのである。彼らは新天新地に入る。
 また、「世の終わり」はすべてが破滅して無に帰してしまう時、とも誤解されている。しかし、聖書のいう「世の終わり」は、この世と来たるべき世との「境界」「さかい目」にほかならない。
 この世は、やがて終了して過ぎ去るが、それと共に新しい世界が現われるのである。神の民は、その新しい理想世界を継ぐ。
 したがって「終末」は、神の民にとっては恐れるべきものではなく、むしろ待ち望むべきものである。
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19日 旧約・イザヤ書六六章
 
本章は、終末の審判と、新天新地におけるエルサレム(新エルサレム)の繁栄を記したものである。
 「わたしは川のように繁栄を彼女(エルサレム)に与え、あふれる流れのように国々の富を与える。あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれ、ひざの上でかわいがられる。母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる」(一二〜一三)。
 新天新地におけるエルサレム(新エルサレム)で、キリスト者は至福に入れられるのである。
 じつはこの新天新地のエルサレムは、現在の天国(天のエルサレム)が、新しい地に下って来て、新しい地と一体化したものである(黙示二一・二、ガラ四・二六)。
 一方、神に反抗した者たちは、そのとき最終的な刑罰に入るであろう。
 「彼らは出て行って、わたしにそむいた者たちのしかばねを見る。そのうじは死なず、その火も消えず、それはすべての人に忌み嫌われる」(二四)。
 これは地獄(火の池)を描写したものである。神に反抗した者たちは、来たるべき地獄で、魂も体も廃棄され、焼却処分される。
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20日 新約・ヨハネ一八章
 ペテロは勇敢にも、大祭司の庭に入っていった。しかし、つねにイエスの身近にいて目立った彼は、多くの人に顔を知られていた。イエスの弟子かと疑われて、ペテロはそれを否定した。すると鶏が鳴いた。ルカ二三・六一によると、
 「(このとき)主が振り向いてペテロを見つめられた」。
 ペテロは外に出て、激しく泣いた。しかしその後彼が立ち直ることができたのは、彼を見つめられたこの時の主イエスの目が、ペテロを卑しみ、さげすむ目ではなく、むしろ悲しみと思いやりの目だったからである。
 一九世紀の大伝道者チャールズ・フィニーがある日、町を歩いていた時のことだった。一人の若く美しい女性が彼に近づいてきた。彼女は売春婦で、客を探していたのである。彼女は誘惑の言葉をかけてきた。周囲には誰もいなかった。すると、フィニーは顔を曇らせ、ひどく悲哀のこもった目で彼女を見つめた。
 しかしその目は、彼女を卑しみ、さげすむ目というより、深い悲しみと思いやりの目だった。その目に深く心を刺された彼女は、その後売春の道から足を洗い、キリスト信仰に入り、フィニーの集会で良い奉仕をする女性となった。
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21日 旧約・エレミヤ書一章
 
エレミヤは、前六〇〇年前後に活動した預言者であり、本書は彼にあらわされた神の啓示を書き記したものである。
 当時は、南王国ユダが崩壊し、バビロン捕囚が始まるという、最も暗い時代であった。エレミヤは、その最も悲痛な時代にあって、神のしもべとして働いたのである。
 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた」(五)。
 神はご自身の予知に基づき、エレミヤを誕生以前から預言者に予定していたと言われる。エレミヤは、
 「私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません」(六)
 と言った。まだ二〇歳くらいの青年だったのだろう。しかし神は、
 「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたと共にいて、あなたを救い出すからだ」(八)
 と言って、エレミヤを預言者として立てられた。私たちも、神の言葉があれば、いつでもそれに従わなければならない。
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22日 旧約・エレミヤ書二章
 
エレミヤは、神の言葉を託され、エルサレムに出ていって、それを人々に語る。
 その内容は、当時のエルサレム、また南王国ユダの人々の罪に対する神の深い悲しみ、また嘆きであった。
 当時、ユダの人々の間には、「バアル」崇拝が根強くはびこっていた。バアルは、もともとはカナン人の信じていた豊饒神である。その祭儀は、偶像崇拝と、乱行騒ぎを特徴としていた。
 人々は、ヤハウェ神の律法のもとで生きるよりは、バアル神のもとで欲望を満足させ解放させるほうを望んだのである。
 「神の教えか、それとも欲望の満足か」は、今日も一人一人の心の中の戦いではないだろうか。
 欲望を満足させれば、一時的・刹那的な幸福は得られるであろう。しかしそうした幸福は、あとで空しさや罪責感を伴うことが多い。
 けれども、神の教えに生きることは、永続的な「祝福」をもたらす。私たちに本当に必要なのは、感覚的な幸福よりも、「祝福」である。
 真の幸福は、神の祝福からやって来る。私たちは幸福を求める前に、祝福を求めるべきである。祝福こそ、本当の幸福の源泉だから。
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23日 新約・テトス三章
 「それは私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠の命の望みによって、相続人となるためです」(七)。
 私たちは、キリストを通して神の子とされ、神の富の「相続人」となった。神の永遠の命、天国、天国の至福、そのほかすべての神の富を、信者は相続するであろう。
 その証書は聖書であり、証印は聖霊であり、その証印を保持するのはキリストへの信仰である。
 復活の日、私たちはみな永遠の命の体に復活する。老人の時に死んだ者も若い体で復活し、赤ん坊の時に死んだ者も、「時が経過したならば有するに至ったであろうような大人の体で」(アウグスチヌス)復活するであろう。
 彼らはみな、主イエスが復活したときと同じ位の大人の体に復活するであろう。この世では身体障害者だった者も、復活の日には健常者の体を得る。
 私たちが相続しようとしているものは、大きい。
 神は私たちの肉体を造られた。そうであれば、その神には永遠の命の新しい体を創造することもできる、と考えることは理にかなっている。
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24日 旧約・エレミヤ書三章
 「石や木と姦通した」(九)
 とは、人々が石や木でできた偶像を崇拝した行為である。それを「姦通」と呼んで非難しているのである。
 神は、イスラエル民族の背信を非難し、裁きを語られる。しかし、そこで終わってはいない。イスラエル民族の回復についても、語られる。
 「その日、ユダの家はイスラエルの家と一緒になり、彼らはともどもに、北の国から、わたしが彼らの先祖に継がせた国に帰って来る」(一八)。
 この預言は、二〇世紀になって成就した。
 一九四八年に建国されたイスラエルは、スファラディ・ユダヤ人とアシュケナジ・ユダヤ人とから成っている。スファラディは「ユダの家」――南王国ユダの子孫である。
 一方「アシュケナジ」は、カザール系の人々であって、その中には北王国イスラエルの子孫も多くいたことが、中世の文書から知れる。
 こうして、「ユダの家はイスラエルの家と一緒になり」「ともどもに」パレスチナに帰ってきた。ただし、イスラエルの一〇部族のすべてがこのとき回復したのではない。イスラエル一〇部族の完全な回復は、なお未来に属しているように思える。
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25日 旧約・エレミヤ書四章
 
「イスラエルよ。もし帰るのなら、――主の御告げ。――わたしのところに帰って来い。もし、あなたが忌むべき物をわたしの前から除くなら、あなたは迷うことはない」(一)。
 神は、イスラエル民族がご自身に立ち返るために、具体的行動をお求めになった。単に口先で神を敬うのではなく、実際に忌むべきものを取り除くよう言われた。
 神のこの求めの背景には、かつて南王国ユダのヨシヤ王が行なった宗教改革が皮相的なもので終わってしまった、ということがある。それで今や神は、真の心からの悔い改めを人々にお求めになっている。しかしその悔い改めが見られないので、神はユダに裁きを下されるであろう。
 「包囲する者たちが遠くの地から来て、ユダの町々に叫び声をあげる」(一六)。
 これは、バビロン軍がやがてユダに攻め寄せてきて征服する、との預言である。神は言われる。
 「心の包皮を取り除け」(四)。
 私たちは、形式的・表面的な悔い改めではなく、心からの悔い改めをしなければならない。ひと皮むけるような新たな心の決意とともに、神の教えに生きる者となりたい。
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26日 新約・ヨハネ一九章
 
イエスの死後、夕方になって、ローマ兵がイエスのわき腹を槍で突くと、「ただちに血と水とが出てきた」という(三四)。
 血液は、肉体の死後三〇分以上たつと、赤い血球部分と、透明な血清部分とに分離し始める。
 イエスは午後三時頃に息をひき取られ、ローマ兵が槍で彼を突いたのは午後五時前後のことだったと考えられるから、死後数時間が経過していた。だからイエスの遺体の中で、血球と血清はすでに分離していたはずである。
 しかし、死体を槍で突いても、血液はそれほど多くは流れ出ないのが普通である。ローマ兵はイエスの心臓をめがけて槍で突いたのであろうが、たとえ心臓を突いても、死体から血液はそれほどは出ない。
 それが多量に流れ出たとするなら、最も考えられるのは、イエスの御体の中で多量の体内出血があった場合である。たとえば、心臓破裂で死んだような場合である。
主イエスはあの十字架死の瞬間、父なる神からの無限の隔たりに追いやられた。その無限の悲哀と痛みは、彼の心臓を破るほどのものであった。彼はそれを耐えて下さったのである――私たちのために。
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27日 旧約・エレミヤ書五章
 
「イスラエルの家よ。見よ。わたしはあなたがたを攻めに、遠くの地から一つの国民を連れてくる」(一五)
 と言われている「一つの国民」とは、バビロン帝国である。バビロンは、メソポタミヤ地方にある国で、その首都バビロン(バベル)は、イスラエルから東へ八〇〇キロ行った所にあった。
 バビロン帝国は古くからある国だったが、前六〇七年、当時の覇者だったアッシリヤ帝国を倒してからは、中東世界の覇者にのし上がる。前六〇六年には南王国ユダも征服、さらに前六〇五年にはエジプトも粉砕してしまう。
バビロンは強大な軍事力と文明を誇り、首都バビロンの栄華は、古代史の上で有名である。そこではいわゆる「空中庭園」と呼ばれた巨大な宮殿も造られた。
 ユダの人々は、このバビロンに連れ去られ、そこで奴隷同様の身となって働かされたのである。これは、
 「あなたがたが、わたしを捨て、あなたがたの国内で外国の神々に仕えたように、あなたがたの国ではない地で、他国人に仕えるようになる」(一九)
 との神の御言葉の成就であった。
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28日 旧約・エレミヤ書六章
 
「(バビロン軍は)弓と投げやりを堅く握り、残忍で、あわれみがない。その声は海のようにとどろく」(二三)
 とある通り、中東地域を席巻したバビロンの侵略軍は、強力で残忍であった。
 彼らによってエルサレムは滅亡し、民はバビロンに捕囚され、南王国ユダはバビロンの属国となって、その圧政下におかれる。これはエレミヤの存命中に全て現実となった。
 エレミヤは言葉を尽くして、ユダの人々に、悔い改めこそが滅亡を免れる最後の機会であると、執拗なまでに警告した。
 エレミヤのこの任務がいかに悲痛で過酷なものであったかを、想像してみるとよい。私たちの宣べ伝えるのは福音であるが、エレミヤの宣べ伝えたのは滅亡であった。
 エレミヤは、いかに悲痛な事柄であろうと、神が彼に語らせる言葉を語らなければならなかった。しかも、エレミヤの言葉を聞いて悔い改める者は、ほとんどいなかったのである。
 彼の宣教は、むなしく闇の中に消えていくかのようだった。しかし、じつはこのエレミヤ書が、のちにあのダニエルの信仰を、大きくするのである(ダニ九・二)。
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29日 新約・ピレモン
「彼(オネシモ)がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、すなわち愛する兄弟としてです」(一五〜一六)。
 奴隷であったオネシモは、ピレモンのもとで働いていたのだが、主人のものを盗んで逃亡していた。しかし、彼は今や主にある兄弟として、ピレモンのもとへ戻ってくる。
 私たちの人生にも、その時点では大きな損失と思われたものが、やがてもっと豊かなものとなって返ってくることがある。ローマ八・二八に、
 「神を愛する人々・・・・のためには、神がすべてのことを働かせて益として下さる」
 とある通りである。
 ある日、牧師が異端の「統一教会」から回心した人にこの御言葉を話していると、その人は大変驚いて、「こんなにすばらしい福音を私は今まで全く知らなかった」と言った。
 その人は、「自分の人生の辛い出来事はすべて自分の罪が原因」と考える思考形式を、統一教会で教え込まれていたのである。しかし神は、不思議な方法ですべてを益にして下さる。
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30日 旧約・エレミヤ書七章
 
かつて北王国イスラエルの「シロ」には、神の宮があった。しかし、その神の宮は、イスラエル一〇部族の悪のために、アッシリヤ帝国によって滅ぼされた(一二)。
 南王国ユダも同じである。エルサレムに神殿があるからといって、そこに神の守りがあると思ってはいけない。ユダの人々に悔い改めが起こらない限り、神はそのエルサレムの神殿さえも、破壊されるのであろう(四)。
 当時のユダの人々がいかに悪に染まっていたかは、たとえば三一節に、
 「(彼らは)自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いた」
 とあることからもわかる。彼らは、自分の幼児を火で焼いて犠牲とし、異教の神モレクに捧げるという忌むべき行為を行なっていたのである。
 一八節には、「天の女王」という言葉が見える。これはカナンの偶像教の女神アシュタロテである。
 アシュタロテは、バビロンではイシュタルとなり、ギリシャではアフロディテ、ローマではビーナスとして知られる女神として崇拝された。日本の女神アマテラスオオミカミも、もとはこれから来たのではないか、という学者もいる。
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31日 旧約・エレミヤ書八章
 
預言者エレミヤは、何を語っても無益であると感じながら、ユダの人々の罪を執拗に指摘し、彼らに悔い改めを迫る。しかし、彼らは一向に悔い改めようとはしない。
 「『私は何ということをしたのか』と言って、自分の悪行を悔いる者は、ひとりもいない」(六)。
 この背景には、どうも偽りの預言者や、悪徳祭司たちの強い影響があったようである。
 「預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行なっているからだ。彼らは・・・・平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている」(一〇〜一一)。
 偽預言者や悪徳祭司たちは、
 「南王国ユダにはまだ主の神殿があるし、律法の書もある。だから大丈夫だ」
 というようなことを言っていたのであろう。彼らの存在は、エレミヤの宣教に対し、巨大な障害となっていた。
 しかし、エレミヤは、祖国に来ようとしている破滅についてよく知っていた。
 もし、日本が破滅すると聞いたら、あなたはどう感じるか。それと同じ感情を、エレミヤは自分の祖国に対して抱いて活動したのである。
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