聖書一日一章

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1日 新約・ヨハネ二〇章
 ペテロと「もうひとりの弟子」(ヨハネ)は、イエスの墓に入った。が、そこにイエスの御体はなかった。
 ただ、イエスの体に巻かれていた亜麻布と、頭に巻かれた布切れが、死体が納められたままの位置で、ちょうど死体がすっぽり抜けたかのようなかたちで「巻かれたままになっていた」(七)。
 それは、イエスの御体が人の力によって移動させられたのではないことを物語っていた。イエスはまさに神の不思議な力によって復活したのであり、ヨハネはそれを「見て、信じた」(八)。
 復活の際、イエスは布を脱ぎ捨てられたから、裸であられた。しかし、その後弟子たちの前に顕現されたときは、服を着ておられた。ということはイエスは復活の際に、新しい服を超自然的方法によって手に入れられたのであろう。
 私たちも復活の時には、裸で復活するであろう。しかし、裸を見られることを心配する必要はない。超自然的方法によって、新しい衣が与えられるからである。
 「花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである」(黙示一九・八)
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2日 旧約・エレミヤ書九章
 「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら」(一)
 と言って、エレミヤは、民のために泣き続けることを望んだ。彼は、同胞の罪を自分のことのように嘆き悲しめる人であった。
 神が彼を預言者として立てたのは、ここに理由がある。神のしもべは、悲しみを知った人でなければならない。
エレミヤは神の託宣を受け、イスラエル民族にやがて来ようとしている裁きを語る。しかし、彼はそれを涙をもって語った。
 私たちも、裁きを語る際には、涙をもって語らなければならない。
 かつて、ジョン・ウェスレーが「来たらんとする御怒りからのがれよ」と語ったとき、またチャールズ・フィニーがソドム・ゴモラへの裁きを例にとって、信仰への決断を呼びかけたとき、彼らの目は涙にうるんでいた。
 その涙はまた、神ご自身のご感情をも表現する。神は、人を憎くて裁きをなさるのではない。人を愛しておられるにもかかわらず、裁かざるを得ないのである。
 その慟哭が涙となる。私たちは神の悲しみを知るとき、真に神のしもべとなる。
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3日 旧約・エレミヤ書一〇章
 
エレミヤは、深い苦難から悟り得た人生の最も大いなる真理を語る。
「主よ。私は知っています。人間の道は、その人によるのでなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないことを」(二三)。
 人間は、人間の力だけでは、真の幸福・繁栄・正義を実現することはできない。神が共におられなければ、人は決してその道を確かにすることができない。
 人にとって最も良いことは、両親から相続する財産の多いことではない。学歴の高いことや、収入の多いことでもない。順風満帆の人生を歩むことでもない。
 人生には、辛いことや、悲しいこと、逆風、逆境や、試練があってもよい。それらがあるのが人生である。しかし、すべてのことにおいて神があなたと共におられること、それが人生にとって最もよいことである。
 神が共におられるなら、たとい死の陰の谷を歩むことがあっても、私たちはこわくはない。どんな困難にぶつかっても、それらを乗り越えていける。
 神が共におられると知る――それが人にとって最も良いことである。
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4日 新約・ヘブル一章
 
本章が述べようとしていることの一つは、キリストが天使でも天使長でもなく、「子なる神」であられる、ということである。
 「御子についてはこう言われます。・・・・神よ。あなたの神は、あふれるばかりの喜びの油を、あなたと共に立つ者にまして、あなたに注ぎなさいました」(八〜九、詩篇四五・六〜七)。
 最初の「神」は子なる神キリスト、次の「神」は、父なる神ヤハウェである。
 キリストは、天使たちのような被造物ではなく、三位一体の神を形成する第二位格の神――子なる神であられる。
 「神の御使いはみな、彼を拝め」(六)。
 私たち人間も、またすべての天使たちも、彼を礼拝すべきである。彼は、ヤハウェの「右の座」に着いておられる至高の救い主であられる(一三)。
 かつてステパノは、殉教しようとするとき、
 「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」(五六)
 と言った。私たちも霊の目を開き、この方を常に見ていよう。
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5日 旧約・エレミヤ書一一章
 
エレミヤは、正しいことを人々に語り告げたのに、バアルの偶像を拝む人々は、エレミヤを殺そうとしていた(一九)。
 義人は迫害にあう。偉人は嵐の中に立つ。エレミヤも、容赦ない困難に直面しなければならなかった。
 エレミヤを殺そうとしていたのは、なんとエレミヤの出身地「アナトテ」(二一、一・一)の人々であった。エレミヤは故郷の人々から捨てられたのである。彼にはもはや「故郷」はなかった。
 神は、エレミヤを殺そうとしている人々に裁きを下された。しかし、故郷の人々が殺意を持っていることを知ったことは、エレミヤにとって大変なショックであったろう。
 かつて信仰深いヨセフは、兄弟たちから捨てられ、エジプトの奴隷商人に売られた。また主イエスは、故郷の人々の不信仰を見て、故郷では多くの奇跡をなさらなかったと聖書は記している。
 人が神に従うとき、地上の故郷を失わなければならないことがある。しかし、神に従う者には「天の故郷」がある。
 そこでは常に、多くの友があなたを歓迎してくれるのである。
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6日 旧約・エレミヤ書一二章
 エレミヤは、自分の目の前に悪が栄えるのを見て、神に問う。
 「主よ。私があなたと論じても、あなたのほうが正しいのです。それでもさばきについて、一つのことを私はあなたにお聞きしたいのです。なぜ、悪者の道は栄え、裏切りを働く者が、みな安らかなのですか」(一)。
 エレミヤのこの言葉は、預言者でさえもしばしば葛藤や疑問を持ちながら神に従ったことを意味する。
 「預言者」というと、私たちはとかく常に全き確信を持ち、迷うこともなく行動できる人、と思いがちではないだろうか。しかし彼らも、迷ったり、疑問や葛藤を持つことがあった。
 それでも、エレミヤをはじめすべての預言者たちは、自分の心の思いよりも神のご命令を優先し、それに従った。そこに彼らが「預言者」と呼ばれるゆえんがあった。
 私たちも、この世界を見るときに疑問や、信仰上の葛藤をおぼえることがあるであろう。しかし、今はわからなくても、やがて神は納得のいく答えを下さる。
 今私たちにわからないのは、私たちがすべてを知らないからに過ぎない。神はすべてを知っておられる。
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7日 新約・ヨハネ二一章
 ペテロたちは漁に行ったが、イエスが共におられない時は、一匹もとれなかった。
 しかし、イエスが共におられて、イエスの御言葉に従って網をおろしたときは、おびただしい魚がかかった。かつてイエスは、ペテロとその兄弟アンデレに、
 「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(マタ四・一九)。
 と言われたことがある。つまり主イエスはペテロたちに、ご自身の御言葉に従って行動するなら、これから大きな伝道の収穫を得ることができると、お教えになったのである。
 私たちも、イエスと共に歩み、イエスの御言葉に従って事をなすなら、大きな収穫を得ることができる。
 ペテロらの網にかかったのは、「一五三匹」であった(一一)。この数は、一〜一七までの数をみな足したものに等しい(一+二+・・・・+一七=一五三)。
 一七は、聖書的な完全数一〇と完全数七を合わせたものだから、魂をすなどる力の充満を表すのかも知れない。また、ヘブル語の「ケハル・ハアバー」(愛の教団の意)の数値がやはり一五三になる、ということも興味深い。
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8日 旧約・エレミヤ書一三章
 
「帯が人の腰に結びつくように」「イスラエルの全家とユダの全家」は、神に結びつけられていた(一一)。
 しかし、エレミヤの帯がユーフラテスのほとりで腐ったように、彼らイスラエル民族の誇りもやがて腐り落ちてしまうであろう。
 それは南王国ユダの指導者たちが酒と快楽にふけっている間に、バビロン帝国が攻め寄せてきて、そこを廃墟と化し、ユダの民をユーフラテスのほとりに連れ去ってしまうからである。それでエレミヤは民に語って言う。
 「あなたがたの神、主に栄光を帰せよ。まだ主がやみを送らないうちに。・・・・もし、あなたがたがこれに聞かなければ、私は隠れた所で、あなたがたの高ぶりのために泣き、涙にくれ、私の目は涙を流そう。主の群れが、とりこになるからだ」(一七)。
 エレミヤは民に悔い改めを迫る。悔い改めれば、バビロン捕囚はなくなるであろう。神は罰すべき者を罰するが、赦すべき者を赦されるからである。
しかし悔い改めがなければ、神は容赦なく罰を下される(一四)。それはエレミヤに、とめどない涙をもたらすであろう。
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9日 旧約・エレミヤ書一四章
 神はエレミヤに、
 「この民のために幸いを祈ってはならない」(一一)
 と言われた。神はすでに南王国ユダに対する罰を、決断しておられたからである。ではエレミヤは、そのみことば通り民のために祈らなかったか。
 いや、彼は涙をもって民のためにとりなして、神に祈った。
 「あなたはユダを全く退けたのですか。あなたはシオンを嫌われたのですか。なぜあなたは、私たちを打って、いやされないのですか。・・・・御名のために、私たちを退けないで下さい。あなたの栄光の御座をはずかしめないでください」(一九〜二二)。
 かつてモーセも、「(民を滅ぼそうとしている)わたしを止めるな」と神から言われながら、民のために救いをとりなしたことがある(出エ三二・一〇)。
エレミヤも、神にさからってまで、民の救いをとりなした。
 しかし、バビロン捕囚は起きた。エレミヤのとりなしは、むなしかったのであろうか。
 いや、バビロン捕囚がわずか七〇年間で終わったのは、エレミヤがとりなしたからに違いない。
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10日 新約・ヘブル二章
 
主イエスは、苦難を受けられたかただからこそ、苦難の中にある人々を助けることができる(一八)。
 「まことに彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。・・・・彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」
 とイザヤ書五三・四〜五にもある。主は、私たちの病や、痛み、苦難を「になって」下さるのである。
 主はまた言われた。
 「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば魂に安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタ一一・二九〜三〇)。
 「くびき」というのは、畑を耕す時など、二頭の牛の首にかけて固定する頑丈な横木である。その横木には下面に二つのくぼみがあって、一つのくぼみには一方の牛が、もう一つにはもう一方の牛が固定される。
 主イエスの「くびき」の一方を、あなたが負うなら、もう一方は主ご自身が負って下さる。だから、それは「負いやすく」「軽い」。
 主イエスと共に歩むことは、なんと幸いなことだろう。主はあなたの横を歩んでおられる。
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11日 旧約・エレミヤ一五章
 
「たといモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしはこの民を顧みない」(一)
 と神は言われた。たとい彼らのとりなしがあっても、南王国ユダに裁きを下そうとする神のご決意がひるがえることはない、と神は言われる。
 かつてエルサレムでマナセ王は、神殿にバアルの祭壇を立て、アシェラ像を造り、天の万象を拝み、占いやまじないなどの悪事を行なった。国民もそれに従った(四)。それに対する裁きが、今やこの国に臨むのである。
 裁きは近づいていた。しかし、王国の指導者たちも、国民も、「災いが来ることなどない」と言ってあざ笑い、悔い改めることなく、快楽にふけっていた。
 「赤信号、みんなで渡ればこわくない」という言葉があるが、日本人の心のどこかにも、「みんなやっているから大丈夫さ」という思いがありはしないか。
 しかし、そうした中でただ独りエレミヤは、神のみことばに堅く立って生きていた(一六)。私たちも、いつの時代にあろうと、時流に流されて生きてはならない。
 神の御言葉に立ち、第一にすべきことを第一にして生きるのである。
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12日 旧約・エレミヤ一六章
 民はエレミヤに、
 「私たちの咎とは何か。私たちの神、主に犯したという、私たちの罪とは何か」(一〇)
 と尋ねる。民は、罪の中にありながら、罪が何であるかわからないのである。
 エレミヤは、彼らの罪とは「悪事を働き、しかも、おのおの悪い、かたくなな心のままに歩み、神に聞き従わなかった」(一二)ことだと指摘する。民の最大の罪は、神に聞き従わなかったことであった。
 「聞き従うこと」、つまり聴従は、信仰の本質である。信仰とは聴従である。
 これは新約時代になっても変わらない真理である。私たちは神に対する聴従を忘れてはならない。
 かつてサウル王は、表面上は信仰的に見せたが、神のみことばに従わなかったために王位から退けられた。
 「信仰深い人」とは単に大胆なことを口にする人や、伝道をよくする人のことではない。それらも信仰には違いないだろうが、信仰深い人とは、なにより神に聞き従う人である。
 たとえ様々な困難があろうと、神の御言葉と御教えに、もれなく従いたいものである。
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13日 新約・使徒の働き一章
 「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そしてエルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(八)。
 「聖霊の力」とは、第一に伝道の力である。キリストの証人として行動し、いかなる所でも大胆に主を証しする力である。私達を「キリストの証人」にする力である。
 第二に、聖霊の力は罪に打ち勝つ力である。罪に打ち勝たなければ、キリストの良き証人となることはできない。聖霊は、私たちの心の奥底を洗い、清めて下さる。
 第三に、聖霊の力は愛を行なう力である。人を愛し、人に善を行なうには、しばしば勇気がいる。また犠牲を惜しまずに働く行動力がいる。聖霊はそれを与えて下さる。
 聖霊の力を受けるには、「聖霊があなたがたの上に臨まれる」ようにすることである。それには、聖霊に心を開き、心を聖霊に同調させなければならない。
 ラジオの電波は常に私たちの周りにあるが、それを受信できるのは電波の波長にラジオを同調させたときだけである。同様に心を聖霊に同調させるとき、聖霊はあなたに臨んで、あなたの内に力を解放して下さる。
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14日 旧約・エレミヤ一七章
 「わたし(神)から離れ去る者は、地にその名が記される。いのちの水の泉、主を捨てたからだ」(一三)。
 「地にその名が記される」とは、地面にその人の名が記されるということだが、「いのちの書」に名が記されるのとは違い、すぐ消されて忘れ去られてしまうことを意味している。
 この世で裕福になり、あるいは大きな事業を成功させれば、確かにその人の名はしばらく地上に残るであろう。しかし、やがて消され、忘れ去られてしまう。
 けれども、「いのちの書」にその名を記された者は、主なる神のご記憶から決して忘れ去られることなく、世々にわたって祝福され、繁栄する。
 私たちは地に名が記されることを求めているか、それとも天の「いのちの書」に名が記されることを求めているか。地か、天か、どちらに記されるかは、私たちの生き方が決めることである。
 私たちの生き方次第で、滅びか永生かが決まる。信仰はあなたの永遠を決める。
 神への愛と従順、また隣り人への愛によって、私たちの名の一文字一文字が「いのちの書」に記される。
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15日 旧約・エレミヤ一八章
 神は、やがて南王国ユダを打ち壊し、その後それを建て直そうとしておられた。
 それはちょうど、陶器師が「粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替え」るのと同じである(四)。
 神は、打ち壊す権威と、建て直す権威をお持ちである。これは単に南王国ユダに関してだけではない。神はやがてこの世界全体に対しても、その権威を行使されるであろう。
 この世界は、神の御手の中にある陶器である。神はやがてそれを打ち壊し、その後それを再建される。
 やがてこの世は終わりとなり、次の世――来たるべき新天新地が始まる。世の終末が来て万物は過ぎ去り、万物は更新されて、新しい世界に神の国が出現する。
 「世の終末」とは、すべてが滅亡する時ではない。世の終末とは建て直しである。神を王と仰ぐ人々は、世の終末を生き残り、新世界を継ぐ。
 世の終末が近づいた今、私たちはエレミヤの信仰に深く学ばなければならない。周囲はしだいに暗黒となっていくであろうが、周囲が暗いほど夜空の星がよく輝くように、私たちは世の光として輝いていこう。
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16日 新約・ヘブル三章
 「ですから、聖霊が言われるとおりです。『きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない』」(七〜八)。
 『 』の中は、詩篇九五・七〜一一の引用である。この引用の前に、「聖霊が言われるとおりです」と書かれている。
 「聖書に記されている」ではない。「聖霊が言われる」である。聖霊が、詩篇の作者に霊感を与え、この詩篇の言葉を語らせたのである。
 聖霊は今日も、私たちの心に霊感を与え、神のみこころを示して下さる。聖霊は今日もあなたの心に、「きょう、もし御声を聞くならば・・・・心をかたくなにしてはならない」と語りかけていないか。
 出エジプト後、荒野で心をかたくなにした民は、神の怒りを引き起こしてしまった。私たちも、新生という「出エジプト」を経験したのち、荒野のような試練にあったからといって、心をかたくなにするようなことのないようにしよう。
 「もし最初の確信を終わりまでしっかり保ちさえすれば、私達はキリストにあずかる者となる」(一四)。
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17日 旧約・エレミヤ一九章
 
「ベン・ヒノムの谷」は、エルサレムの南方と西方からエルサレムを囲む谷である。そこでは異教の祭儀や、偶像崇拝が行なわれていた。
 「トフェテ」は、このベン・ヒノムの谷の中の、どこか小高い場所をさすと思われる。
 エレミヤは、そこへ出向き、民の指導者たちに神の御言葉を告げた。やがてベン・ヒノムの谷とかトフェテとか呼ばれたこの場所は、「虐殺の谷」と呼ばれるようになるだろうと(六)。
 神は南王国ユダの住民に裁きを下し、その死体がこの谷に山と積まれるようになる。こうしてベン・ヒノムの谷の名は、神の刑罰の象徴として、人々の心に焼き付けられるようになるだろう。
 じつは、地獄を意味する「ゲヘナ」という言葉の由来は、この谷である。「ゲヘナ」は「ヒノムの谷」の意味なのである。虐殺の谷の出来事は、罪人の最終的な廃棄場である地獄の絵となった。
 地獄は、刑罰でもあるが、もともとは人が自分で選び受けるものである。神以外の偶像を選んだ者が刑罰を受けたように、神以外のものを選ぶ者は、それに伴う刑罰をも選び取っているのである。
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18日 旧約・エレミヤ二〇章
 
エレミヤは苦悩にあえぎ、
 「主よ、あなたが私を惑わしたので・・・・」(七)
 と祈る。大変に強い表現である。エレミヤは、召命の時の神の御約束「あなたを救い出す」(一・一九)を神は守っていないと感じて、その不満を神に表明したのであろう。
 実際エレミヤは、むちで打たれ、足かせにつながれるという、たいへん辛い経験をしなければならなかった。彼は嘆いて言った。
 「なぜ私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか」(一八)。
 しかし、それでも彼は主の御言葉を宣べ伝えた。それは彼の内で主の御言葉が火のように燃えさかり、それをしまっておくことができなかったからである。
 「私は『主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい』と思いましたが、主のみことばは私のうちで骨の中に閉じこめられて、燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません」(九)。
 主のみことばは、あなたの内でも火のように燃えさかっていないか。私たちはそれを、人々に宣べ伝えずにはいられないのである。
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19日 新約・使徒の働き二章
 
聖霊が降臨すると、人々は「聖霊に満たされ、御霊が話させて下さるとおりに、他国のことばで話し出した」(四)。
 彼らが話したこの「他国のことば」は、話す者にはわからなくても、聞く者には理解できる言葉であった。だから、聞いた人々は言った。
 「あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは」(一一)。
 聞く者たちには、内容が理解できたのである。つまりこのときの「異言」は、聞く者に理解できないような異言ではなく、むしろ「預言」と言ってもよいものであった。
 「神のみわざ」について「いろいろな国ことばで語る」「預言」だったのである。だから、使徒ペテロは立って、預言者ヨエルの次の言葉を引用して人々に説明した。
 「その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」(一八)。
 聖霊に満たされることによって、私たちがなすべき最も大きなことは、神のみわざを語り継げ、そのみこころと福音を人々に宣べ伝えることである。私たちの伝道は、一種の預言的働きなのである。
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20日 旧約・エレミヤ二一章
 「ゼデキヤ王」は、前五九七〜五八六年まで南王国ユダを統治した王で、ユダの最後の王――ラスト・エンペラーとなった人である。
 当時、すでにバビロン軍によるエルサレム包囲は始まっていた。恐れをなしたゼデキヤ王は、それまで偽預言者たちにしか耳を傾けていなかったのに、この時におよんでエレミヤに神へのとりなしを頼んできた。
 しかし、王は自らの罪を悔い改めるのではなく、単にその場の危機を救ってほしいと、エレミヤに助けを求めてきたのである。それに対するエレミヤの答えは、
 「主は・・・・あなたがたをバビロンの王ネブカデレザルの手、敵の手、いのちをねらう者たちの手に渡す」(七)
 であった。エレミヤはまた、民を死から救うために、バビロンに降伏するよう進言した(九)。
 こうして、悔い改めではなくその場しのぎの救いを求めた王は、裁きの言葉を聞くこととなった。
 エルサレムを本当に攻めていたのは、バビロン軍ではなく、主ご自身であった。主が、南王国ユダに裁きを下すために、バビロンを道具として用いておられたにすぎなかったのである。
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21日 旧約・エレミヤ二二章
 「ヨシヤの子、ユダの王シャルム」(一一)とは、南王国ユダの王エホアハズのことである。「シャルム」とも呼ばれたエホアハズ王は、前六〇八年、エジプトに捕囚となってそこで死んだ(U列王二三・三一〜三四)。
 彼に代わって、その後「エホヤキム」が、南王国ユダの王となった(統治は前六〇八〜五九七年)。エホヤキムは悲惨な死を遂げた(U歴代三六・六)。しかし、無情で残忍だった彼の死を聞いて悲しむ者は、誰もいなかった(一八)。
 その後、彼に代わって「エコヌヤ」が前五九七年に一時的に王座についたが、これはエホヤキン王のことである。エコヌヤとも呼ばれたエホヤキンは、バビロンに捕囚となり、そこで死んだ。
 彼には七人の息子がいた(T歴代三・一七、一八)。しかし、彼らはいずれも王位継承者となることができなかった。彼の子孫は誰もユダの王になれなかった(三〇)。
 こうして、ダビデの王家は途絶えたかに見えた。けれども、神の恵みはなおもユダの国にあった。なぜなら、エホヤキンの子孫として、キリストが降誕されたからである(マタ一・一二)。
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22日 新約・ヘブル四章
 
「一度信仰に入ったら、その後堕落して信仰を捨てたような人も、天国へ行けるのですか」という質問を聞くことがある。そのような人も、天国へ行けるのだろうか。
 天国へ行けるかどうかに関して、二つの時が重要である。一つは信仰に入った時、もう一つは死の時である。人の地上の信仰生涯は、はじめの時に始まり、死の時に終わる。二つの時に、はさまれている。
 ちょうど右手と左手の間に輪ゴムを伸ばした状態と同じく、二つの点で支えられ、緊張状態にある。
 右手を離しても、左手を離しても輪ゴムは垂れてしまう。同様に私たちの信仰生涯も、信仰に入った時の信仰と、死の時の信仰の両方が存在してこそ成り立つ。
 たとえその二つの時の間に、多くの罪を犯し堕落したとしても、最後の死の時に真実な信仰に立ち返るならば、救われる。しかし私たちは、自分の死の時がいつ来るかを知らない。だから日々、常に神を畏れて信仰に励むべきなのである。
 「私たちは、この安息に入るよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者がひとりもいないようにしようではありませんか」(一一)。
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23日 旧約・エレミヤ二三章
 「わたしの牧場の群れを滅ぼし尽くす牧者たち」(一)とは、南王国ユダにおける堕落した政治指導者たちである。彼らは神の峻厳な裁きによって、すみやかに罰せられることになるだろう。
 しかしエレミヤは、裁きを語るだけでなく、その後に来る輝かしい回復と救いについても語る。
 「見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えてこの国に公義と正義を行なう」(五)。
 「ダビデに一つの正しい若枝を起こす」とは、ダビデの子孫としてメシヤが降誕されるとの預言である。「若枝」は、旧新約聖書を通し、メシヤを示す象徴表現なのである(イザ四・二、一一・一〜五、五三・二、ゼカ三・八、六・一二〜一三)。
 黙示録五・五、二二・一六では、キリストは「ダビデの根」(新改訳)と呼ばれている。しかし、これは口語訳のように「ダビデの若枝」と訳すべきである。
 なぜなら、このギリシャ原語リザは、旧約聖書のギリシャ語訳「七〇人訳」において、イザヤ書一一・一その他の「若枝」を意味する言葉として使用されているからである。
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24日 旧約・エレミヤ二四章
 これは前五九七年のことである。この年、バビロン軍がエルサレムに攻め寄せ、南王国ユダの王であった「エコヌヤ」(エホヤキン)や、その他の主だった人々をバビロンに捕らえ移した。
 エルサレム神殿の財宝もすべて、バビロンに持ち去られた。しかし、神殿自体はまだ破壊されなかった。神殿が破壊されるのは、バビロンが再び攻め寄せてきた前五八六年のことである。
 前五九七年にエコヌヤ王がバビロンに捕らえ移されると、彼の叔父ゼデキヤが、前五八六年まで南王国ユダの王となった。
 しかし、ゼデキヤを王位に置いたのはバビロンの王であって(U列王二四・一七)、ゼデキヤはバビロンの支配下で属国政治をまかされたに過ぎない。
 本章に言われている「良いいちじく」とは、このときすでにバビロンに捕らえ移されていたユダヤ人たちをさす。彼らは試練を受けるが、心を尽くして神に立ち返るであろう(七)。
 一方「悪いいちじく」は、このとき南王国ユダに残っていたゼデキヤ王や、その他の人々である。彼らは偶像と共に滅びるであろう(一〇)。
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25日 新約・使徒の働き三章
 奇跡は、単に主イエスと使徒たちの時代にだけ起きたのではない。ほかの時代にも起きた。ただ、聖書中に記されなかったので有名でないだけのことである。
 四世紀の有名な教父アウグスチヌスは、その著『神の国』二二篇八節において、彼の牧会していた教会で起きた目覚ましい奇跡について記している。
 ある日、彼の教会に、常に手足がふるえるという病気を持つ二人の兄姉がやって来た。彼らの姿はあまりにも惨めであったので、どの町にもいることができず、ローマ帝国中をさまよったすえに、その教会にやって来たのである。
 彼らの病の重さは、多くの人に知られていて、アウグスチヌス自身、彼らがやって来る前から彼らのことはうわさに聞いていた。
 その教会の近くに、クリスチャン殉教者の廟があった。兄姉は毎日教会やその廟にやってきては神に祈っていたが、復活節の日に祈っているとき、兄が突然、床に倒れた。
 しかし、その時彼はもはや震えていなかった。彼はいやされ、健康になった体で立ち上がった。その後、妹のほうもいやされた。教会は、神を讃美する人々の声に満たされた。
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26日 旧約・エレミヤ二五章
 
エレミヤは、「エホヤキムの第四年」、すなわちバビロンでネブカデレザル王が即位したその年に(前六〇六年)、南王国ユダの民に神の預言を語った。
 エレミヤはその中で、バビロン帝国は「七〇年」勢力をふるい、その間ユダの民はバビロンに仕える、と預言した(一〇)。実際、バビロンは前六〇六年から七〇年間中東地域を支配したのち、前五三六年にペルシャ帝国に倒された。
 「ネブカデレザル」は、「ネブカデネザル」と記されることもあるが、同じ人物で、彼はバビロン帝国最大の王であった。
 彼の父ナボポラッサル(前六二五〜六〇四年)は、アッシリヤのくびきを切り捨て、バビロンを独立国とした人である。ネブカデレザルはこの父のもとで軍の総司令官をしていたが、前六〇六年に王となった。
 ネブカデレザルの治世期間は四五年間で、バビロン帝国はおもに彼の業績による。彼はバビロンの勢力を当時の世界の大部分に広げ、バビロン市を想像できないほど巨大で壮麗な都となした。
 しかしそのバビロンも、七〇年ののち、自らの罪咎のゆえに神に滅ぼされるのである(一二)。
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27日 旧約・エレミヤ二六章
 
当時、エレミヤの他にも、主の名によって真実な預言をしている人がいた。預言者「ウリヤ」である(二〇)。
 エレミヤも、ウリヤも、南王国ユダの宮廷にいる王エホヤキム、祭司、また偽預言者たちから迫害を受けた。王、祭司、偽預言者らは、彼らを殺そうとした。
 しかしエレミヤは、ユダの「首長たち」の間に友を持っていた。首長たちとは、エルサレムの宮廷にはいないが、それぞれの地域でリーダーとなっている長老たちである。
 首長たちはエレミヤを救おうとした。とくに「アヒカム」という人は、エレミヤをかばい、死から救ってくれた(二四)。
 しかし、預言者ウリヤの場合はそうはいかなかった。彼は、エホヤキム王の命令のもとで、剣で殺された(二三)。
 のちに、主イエスは「ぶどう園」のたとえ話の中で、
 「農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋叩きにし、もう一人は殺し、もうひとりは石で打った」(マタ二一・三五)
 と語られたが、それはこうした預言者たちへの迫害をさして言われたのである。
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28日 新約・ヘブル五章
 
「名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。同様に、キリストも大祭司となる栄誉を自分で得られたのではなく、(神が)お与えになったのです」(四〜五)。
 名誉、栄誉は、自分で得るものではなく、神がお与えになるものである。それは求めて得られるものではなく、真実な生き方をした結果として、上から与えられる。
 私たちは地上ではどんな恥を受けようと、真実な生き方を貫くなら、やがて神が栄誉を下さる、ということを信じよう。かつて預言者エレミヤは、多くの人々の拒絶と辱めにあったとき、
 「私の一生は恥のうちに終わるのか」(エレ二〇・一八)
 と嘆いた。しかし彼の名は、恥のうちに終わるどころか私達の心の中で、また神ご自身の御心の中で、偉大な預言者として光り輝いている。
 またキリストの使徒たちは、迫害されたとき、
 「御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜んだ」(使徒五・四一)
 と聖書は記している。神は、地上の恥を天国の栄誉に変えて下さる。真実に生きよう。
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29日 旧約・エレミヤ二七章
 「エホヤキムの治世の初めに」とあるが(一)、これは写本筆記上のミスであろう。正しくは「ゼデキヤの第四年」である。これは三節と、二八章一節からわかる。
 原本には誤りはなかったと思われるが、当時は筆記者が写本をつくって後世に伝えたので、写本にはこのような誤りが起きることもあった。
 さてエレミヤは、「エドムの王、モアブの王、アモン人の王、ツロの王、シドンの王」に対し、バビロン帝国についての預言の言葉を伝言の形で送った(三)。
 これらの国々はユダの周辺諸国である。みな小国に過ぎなかったが、ユダと同様、バビロン帝国の脅威にさらされていた。エレミヤは彼らに、バビロンへの降伏をすすめる。
 エレミヤは、南王国ユダの王に対しても、バビロン捕囚を預言する。しかし、それだけではない。彼はバビロンからの帰還の日についても預言している(二二)。
 かつて神は、アブラハムに、イスラエル民族のエジプトでの奴隷生活だけでなく、その後の出エジプトについても予告された(創世一五・一六)。裁きと回復は、神のご計画の中ではセットなのである。
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30日 旧約・エレミヤ二八章
 「ハナヌヤ」は、代表的な偽預言者であった。
 ハナヌヤは、始まったばかりのバビロン捕囚が「二年のうちに」終わる、と言った(三)。これはバビロン捕囚が「七〇年間」続くとするエレミヤの預言とは、全く異なる内容であった。
 バビロン捕囚がすぐ終わることは、エレミヤ自身、望むところである。「そのとおり主がして下さるように」(六)とは、彼の心からの願いであったろう。
 しかし、真の預言者は民の歓心を買うのではなく、主の御言葉をまっすぐに語らなければならない。ヤハウェの御名を使って偽りの預言をしてはならない。
 ハナヌヤは民の歓心を買い、王の耳に聞こえのよいことを言って、宮廷における地位の向上をねらったのかも知れない。しかし、偽りの預言をする者は神の厳しい裁きにあう。
 ハナヌヤは主の裁きにあい、この二ヶ月後に死んだ。
 今日、一部のある教団では、信者や牧師が突然、恍惚状態になって主の御名によって預言を始める、ということをするという。しかし、これには大きな危険が伴うことを覚えなければならない。
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