聖書一日一章

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1日 新約・使徒の働き四章
 
「彼らはペテロとヨハネの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスと共にいたのだ、ということがわかって来た」(一三)。
 ペテロもヨハネも、漁師であり、「無学な、普通の人」であった。しかし、神はそういう人をお用いになる。
 用いられる人とは、必ずしも学歴の高い人ではない。とびぬけて優秀な成績をおさめた人でもない。むしろ「普通の人」でよい。
 とかく私たちは何かの「肩書き」を求めやすい。「○○大学卒業」「○○博士」「○○会長」「○○長」「○○の資格」・・・・。
 しかし、神はそういうものを見られるのではない。用いられる人とは、「イエスと共にいた」人である。イエスと共に歩み、共に生きた人である。
 そういう人を、神はお用いになる。私たちはこの世的に評価されることより、神に評価されることを求めよう。
 神はあなたの心にご自身の愛を満たし、あなたの思いにご自身のご計画を、あなたの手と足にそれを遂行する力をお与えになるであろう。
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2日 旧約・エレミヤ書二九章
 
前五九七年のバビロン捕囚によって、すでに多くの民がバビロンに連れ去られていた。
 異国の軍隊に捕らえられ、鎖でつながれ、遠く見知らぬ国に連れ行かれる──このとき民は、あたかも自分たちが地獄へ落ちて行くかのような恐れと、おののきとを持ったであろう。
 もはや、通常の生活はあり得ない。彼らはバビロン帝国で、賤民、あるいは奴隷になるのである。
 しかし、神がおられるなら、そのような地でさえも平安の地となる。神は、バビロンに下った彼らに言われた。
 「家を建てて住み、畑を作って、その実を食べよ。妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を生ませ、そこで増えよ。減ってはならない。
 わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから」(五〜七)。
 神は彼らに対し「平安を与える計画」(一一)を立てておられたのである。神があなたをどこに行かせようと、その「平安を与える計画」に、信頼して歩もう。
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3日 旧約・エレミヤ書三〇章
 
神は、「敵を打つように」(一四)ユダヤ人を打ち、彼らに懲らしめをお与えになった。が、それは一定の期間のことであって、その後は彼らをもとの祝福に帰らせられる(三)。
 これは、神が彼らを「子」として扱われたからである。親は子に対し、しばしば懲らしめを与える。神はご自身の子である民に対し、しばしば懲らしめをお与えになった。
 しかし、それは一定の期間だけであって、それが終了すれば、もとの祝福に帰らせられるのである。
 神はあなたを今、そしてまた今後も、「子」として扱われるであろう。神の懲らしめの中にあろうと、祝福の中にあろうと、あなたは常に神の子だからである。
 かつてダビデは、神からの懲らしめを受けたとき、「非常につらい」と言ったが、
 「主の手に陥ることにしましょう。主のあわれみは深いからです。人の手には陥りたくありません」(Uサム二四・一四)
 と述べて、その懲らしめに身をまかせた。懲らしめの中にあろうと、祝福の中にあろうと、神の手のうちにあることが最善なのである。
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4日 新約・ヘブル六章
 「神は正しい方であって、あなたがたの行ないを忘れず・・・・あなたがたが・・・・示したあの愛をお忘れにならないのです」(一〇)。
 神はきわめて、誠実なかたである。私たちは神の誠実を、本当に知っているだろうか。
 この地上には、真に誠実な人はまれである。まったくウソがなく、偽りがなく、どこまでも真理に生き、人をだますことが皆無、という人はまれであろう。
 私たちはこの地上に生きている限り、必ず人に何度かだまされる経験を持つのではないか。人生経験の豊かな人ほど、それを知っているはずである。
 しかし、私たちの神は真に誠実なかたである。神はアブラハムに、
 「わたしは必ずあなたを祝福し、あなたを大いにふやす」(一四)
 といい、それを実際に果たされた。私たちも、アブラハムと同じような信仰を持ち、それを貫くなら、神は同じ祝福の約束をあなたに賜り、またそれを実際に果たして下さる。
 神は偽ることができない。偽りは神のご属性に反する。それは神にとって不可能事である。ここに私たちの信仰の土台がある。
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5日 旧約・エレミヤ書三一章
 
二〜二二節は、北王国イスラエル(エフライム)の回復について、また二三〜二六節は、南王国ユダの回復について述べたものである。
 この預言通り、たしかに南王国ユダは、バビロン帝国にしばらく捕囚となった後、その後祖国への帰還を許され、国を回復した。しかし、エレミヤ書の本章によれば、南王国ユダだけでなく北王国イスラエルも回復すると、明確に預言されている。
 北王国イスラエルの一〇部族の人々の中には、バビロン滅亡後、南王国ユダの人々と共に祖国に帰った人々も、わずかながらいた。また二〇世紀になってユダヤ人がパレスチナに帰還したときも、彼ら帰還民の一部は北王国イスラエル一〇部族の子孫であった可能性がある。
 しかし、北王国イスラエルの本格的回復は、なお未来に属していると一般的に考えられている。それはキリスト再臨の頃に、思わぬ形で成就するのかも知れない。
 全イスラエルの完全な回復と、全世界の救いは、同時に起こるであろう。そのとき「人々はもはや『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたし(神)を知るから」(三四)である。
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6日 旧約・エレミヤ書三二章
 これは前五八七年のことであり、エルサレムの滅亡が間近に迫っている時だった。
 エレミヤはこのとき、「ユダの王の家にある監視の庭に監禁されていた」(二)。というのは、エレミヤはユダの王がやがてバビロンに連れ去られると預言していたから、そのようなことを民の前で語られることは、王にとっては恥辱以外の何物でもなかったからである。
 しかし、それでもエレミヤは預言活動を続けた。彼は、来たらんとする裁きを語る。そして同時に、そののちに来る回復をも語る。
 ユダの王ゼデキヤについては、彼がバビロンに捕囚となるのは、神が「彼を顧みる時まで」(五)であると。また、連れ去られた民も、一定の期間を終えれば再び帰って来て、土地の売り買いなどもして通常の生活に戻れると(一五、三七)。
 「バビロン捕囚」は、民にとっては大変辛い経験であった。しかし、それによって彼らは、神の民として大きく成長する(三八〜四一)。
 私たちの人生にも、ときに、ひどく辛い時期がないか。しかし、いつまでも辛いのではない。神は、それから解放される時と、その向こうにある幸福とを用意しておられる。
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7日 新約・使徒の働き五章
 「ガマリエル」(三四)は、かつてパウロがパリサイ人だった時の先生である。ガマリエルは、穏健派パリサイ人ヒレルの弟子であり、当時信望の厚かったラビであった。
 彼は、キリストの証人たちを見て怒り狂っている人々を、制して言った。
 「あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます」(三八〜三九)。
 彼のこの言葉には、一定の真理があるように思える。
 私たちの仕事や人生においても、しばしば自分に邪魔な存在が現われて、当惑させられることがないか。しかしそのような時、その「邪魔な存在」をむやみに蹴落とそうとするのではなく、その前に落ち着いて考えてみなければならない。
 早まった手段でそれを排除しようとしなくても、もしそれが神に反するものなら、私たちの祈りを通して、神ご自身がそれを排除して下さるのである。神にゆだねよう。
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8日 旧約・エレミヤ書三三章
 
バビロン捕囚が終わり、民が再びパレスチナに帰るとき、その後の時代にメシヤが到来する、と神は予告される。
 「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を芽生えさせる」(一五)。
 「若枝」とは、来たるべきメシヤを示す象徴表現である(イザ一一・一、二、ゼカ三・八)。イエス・キリストは、バビロン捕囚の後の時代になって降誕された。
 神によるこの予告は、それを聞いた預言者エレミヤにとっても、まさに「大いなる事」であった。神が彼にこう語られた通りである。
 「わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう」(三)。
 神はあなたにも、「わたしを呼べ」と仰せられる。そうすれば、神はあなたの知らない、理解を越えた「大いなる事」を知らせて下さるであろう。
 これまであなたは、神に本当にすべての心を傾けて求めたことがあるだろうか。神に呼ばわったことがあるだろうか。
 神は答えを下さる。大いなる答えを。
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9日 旧約・エレミヤ書三四章
 エルサレムがバビロン軍によって包囲されているとき、南王国ユダの王ゼデキヤは民を説得して、すべてのヘブル人奴隷を解放した(八)。
 これは律法に基づくものであり、ゼデキヤ王の信仰に発したものであって、神の恵みを得ようとなされたものであろう。民は奴隷たちを解放し、自由の身にして去らせた。
 これは神の良しとされるところだった。ところが、民はあとになって心変わりして、去らせた奴隷たちを連れ戻した。そして彼らを再び奴隷として使役したのである。
 もし、民が心変わりすることなく、奴隷を解放したまま、それを後悔することがなかったなら、神は裁きを思い直し、中止させられたかも知れない。
 ところが、民は心変わりして再び悪を行なった。そのため、裁きは中止させられることなく、神がかつて語られた通りに民に対し実行されることになった。
 そうした中でも、ゼデキヤ王が見せた信仰自体は、神に是認されたようである。ゼデキヤは、やがてバビロンに連れて行かれたが、そこで「安らかに死んだ」。そして彼の死は、民に悼まれたのである(五)。
 神の慈愛は深い。
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10日 新約・ヘブル七章
 「メルキゼデク」(一)は、イスラエル人ではなかった。彼はイスラエル人から見れば異邦人である。
 しかし、メルキゼデクは「いと高き神の祭司」となっている人で、真の神ヤハウェを知っていた。
 このことから私たちは、当時でさえ、イスラエル人以外にも、真の神ヤハウェを知って仕えている人々がいたことを知る。つまり、かつての大洪水を経てノアが後世に伝えた信仰を守っている人が、イスラエル人以外にもいたのである。
 実際、世界各地に、キリスト教やユダヤ教にふれる機会がなかったにもかかわらず、大昔から聖書の神と同じ神に信仰を抱き続けてきた人々がいる。
 たとえば、ミャンマー(旧ビルマ)のカレン族などはその代表的な例である。彼らは大昔から、宇宙と人間は「ヤァ」という神によって創造された、と言い伝えてきた。「ヤァ」は、ヤハウェの短縮形ヤァと同じである。イスラエル人も、神をヤハウェ、またはヤァと呼んだ。
 しかも、彼らの言い伝えは人類の起源や、堕落、ノアの大洪水等にも及び、その内容は聖書のものに酷似している。ニュージーランドのマオリ族にも、同様の言い伝えがある。
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11日 旧約・エレミヤ三五章
 これは前五九八年頃である。
 「レカブ人」(二)は、ヤコブの子孫ではなく、血統的に異邦人であったが、昔からユダの人々と共にパレスチナに住んでいた。
 というのは、モーセの妻でミデアン人(ケニ人)であったチッポラに、ホバブという兄弟がいたのだが(モーセの義兄弟にあたる)、ホバブはモーセと共に出エジプトをして、ついて来ていたからである。
 このホバブの子孫が、ユダの地に共に住んでいたレカブ人である(民数一〇・二九〜三二、士師一・一六、T歴代二・五五)。
 レカブ人は何世紀にもわたり、禁欲的生活を送り、ユダの地に住みながらも堕落することがなかった。彼らは先祖の教えの「ぶどう酒を飲んではならない」や、その他の教えを忠実に守っていた。
 忠実さという点で、彼らはまさにユダ族の人々と対照的だったのである。同じ地に住みながら、ユダの人々の堕落はひどかった。「レカブの子ヨナダブの子たちは、先祖が命じた命令を守ってきたのに、この民はわたしに聞かなかった」(一六)。
 だからこそ、神の怒りはユダの人々に対して燃え上がるのである。
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12日 旧約・エレミヤ三六章
 
これは前六〇六年頃のことで、バビロンでネブカデネザル(ネブカデレザル)が王に即位した年のことである。
 このとき、すでにエレミヤは約二三年にわたって預言活動をしていた。いまや、彼はこれらの預言を民に朗読できるように、一書にまとめるよう神に命じられた。
 というのは、エレミヤはこのとき、民に自由に語ることができなかったからである(五)。
 書物を書くのに一年ほどかかった(一、九)。その書は、やがて断食の日に朗読された。
 それが朗読されると、首長たちのある者は恐れを覚え、王の前でもこの書が朗読されるべきであると感じた。こうして預言の書は王の前でも朗読された。
 しかし、王は鉄面皮にもその預言の言葉に反抗し、預言の書を焼き捨てたのである。王はなぜそのようなことをしたのだろうか。
 人間は、地位の高いところに行くほど、高慢になりやすい。そして一度得た地位を、何が何でも守ろうと執着する。保身にまわる者が多いのである。当時のユダの王もそうであった。しかし、この保身が彼を滅ぼすことになる。
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13日 新約・使徒の働き六章
 ステパノは、「人々の間で素晴らしい不思議なわざと、しるしを行なっていた」(八)。
 彼は奇跡の伝道、力の伝道を行なっていた。では彼の伝道は、それだけだったか。いや、ステパノは、「議論」も伝道に盛んに活用したのである。
 「(彼らは)ステパノと議論した。しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった」(九〜一〇)。
 奇跡は伝道に役立つものだが、それは決して伝道における最も大切なものではない。最も大切なのは、人々を真理に向かい合わせること――言葉による宣教である。
 ステパノは、言葉による宣教に最も力を注いだ。たとえ議論になろうと、彼は大胆に、まっすぐ真理を語った。
 そのために彼は殉教した。しかし、大胆に真理を語ったのは他の弟子たちも同様であった。初代教会の弟子たちはみな、大胆に真理の福音を語ったのである。それがたとえ死を意味しようと。
 私たちはどうだろうか。目に見えるしるしを求めすぎていないか。議論を恐れていないか。最も大切なのは、言葉――福音の言葉の力である。
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14日 旧約・エレミヤ三七章
 バビロン軍は、エルサレムを包囲したが、エジプト軍の接近を知って一時退却した(一一)。このときエレミヤは、エルサレムを離れ、ベニヤミンの地に行こうとした。
 それは、故郷アナトテの畑をおじから買い戻した(三二・七、八)ことに関係ある事柄で、「割り当ての地を決める」(一二)ためであった。
 しかし、この彼の行為は誤解を招いてしまった。エレミヤはこれまでバビロン軍に降伏するよう忠告し続けてきたから、彼の敵たちには、彼がバビロン軍に投降するものであるかのように見えたのである。
 エレミヤは、バビロンのために働く裏切り者であるとの嫌疑をかけられ、首長たちによって投獄された。この「首長たち」は、ゼデキヤ王の側近だったようである(一八)。
 彼らはエレミヤに対し、強い反感を抱いていた。ゼデキヤ王自身は、エレミヤに対し好意も抱いていたのだが、ゼデキヤは弱い性格で、側近たちの操り人形的な人物だったのである。
 ゼデキヤは、やがてエレミヤを、牢獄よりは若干自由のある「監視の庭」に移し、パンの乏しい中でもパンを与え続けてくれた。しかし、釈放にまでは至らなかった。
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15日 旧約・エレミヤ三八章
 
エレミヤを嫌う首長たちは、エレミヤを捕らえようとした。このときゼデキヤ王は、それを止めさせるのではなく、かえって、
 「今彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない」(五)
 などと言って、エレミヤ逮捕に許可を与えてしまった。ゼデキヤは、王でありながら、もはや王の権威を持たなかった。彼の権威は地に落ちていたのである。
 しかし、ゼデキヤの心には迷いがあった。ゼデキヤはその後、エレミヤを穴の泥の中から救い出し、監視の庭に移した。それは首長たちの手にエレミヤを渡さないためだった。
 ゼデキヤはエレミヤから、主の御言葉を聞いた。それは、バビロンへの降伏を勧めるものであった。しかしゼデキヤにとって、それはたやすく決断できる事ではなかった。
 もし降伏するなら、ゼデキヤは、すでにバビロンに投降したユダヤ人になぶり者にされるのではないか、と恐れたのである。
 ゼデキヤは優柔不断な王であった。彼の人間的な判断が、主の御言葉に従うのをためらわせていた。しかし、主の御言葉に従うことこそ、最善をもたらすのである。
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16日 新約・ヘブル八章
 
八〜一二節に引用されている句は、旧約のエレミヤ書三一章三一〜三四節の預言の言葉である。
 ヘブル人への手紙の著者は、かつてエレミヤによって預言された「新しい契約」(八)が、キリストにおいて成就すると述べている。
 私たちはキリスト初来以降の今の時代を「新約時代」――新しい契約の時代と呼ぶが、それはこの理由から来ている。
 新約時代の終極は、すべての者が神を知るようになることである。
 「彼らは、おのおのその町の者に、また、おのおのその兄弟に教えて、『主を知れ』と言うことは決してない。小さい者から大きい者に至るまで、彼らはみな、わたし(神)を知るようになるからである」(一一)。
 神の国が来ると、主を知る知識が海の水のように地をおおうであろう。宗教はただ一つ、キリスト教だけになる。いや、その日には「宗教」という言葉も、「キリスト教」という言葉もなくなるであろう。
 なぜなら、すべての人が神とキリストを知るようになるからである。これは来たるべき千年王国、また新天新地において実現・成就する。
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17日 旧約・エレミヤ三九章
 
エルサレムは、バビロン軍によって二年半のあいだ包囲されたすえ、前五八六年に陥落した。
 ゼデキヤの子らは虐殺され、ゼデキヤの両眼はえぐられ、彼は青銅の足かせにつながれた。
 王宮も、民の家も焼かれ、エルサレム城壁は取り壊された。エルサレムの住民はバビロンに捕らえ移され、捕囚となった。
 しかし、バビロンの王は、エレミヤに対しては寛大であった。これは、エレミヤの行動に関する情報が、すでに投降していた人々からもたらされていたからであろう。
 エレミヤは監視の庭から出され、自由になって、南王国ユダに残されていた「民の間に住んだ」(一四)。
 かつてエレミヤを助けてくれたエベデ・メレクも、助け出された(一五〜一八、三八・八)。
 エレミヤや、エベデ・メレクは、自分の目の前でエルサレムが滅亡するという壮絶な悲劇を目撃しなければならなかった。しかし、彼ら自身は、その災いのただ中で助け出されたのである。
 患難時代のクリスチャンも、そのようであろう。彼らは災いのただ中で、主への従順のゆえに、すべての災いから救い出される。
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18日 旧約・エレミヤ四〇章
 バビロン軍は、エルサレムの住民をバビロンに捕らえ移したが、その他の人々は南王国ユダの地に残されていた。
 彼らの多くは貧民であった。バビロンの王ネブカデネザルは、ユダの地にいる彼らを統治するため、総督としてゲダルヤを立てた(七)。
 ゲダルヤはアヒカムの子である。アヒカムは、かつてエレミヤをかばって救ってくれた人で(二六・二四)、その子ゲダルヤも、エレミヤの理解者であった。
 エレミヤは、釈放されるとゲダルヤのところに行って、彼と共に民の中に住んだ。ゲダルヤは総督としてユダの国を代表し、バビロンから来るカルデヤ人の役人と交渉するなどの業務にあたっていた。
 しかし、ゲダルヤの親バビロン政策に反感を持つ人々もいた。アモン人の王バアリスである(一四)。バアリスは王族の一人イシュマエルを送って、クーデターを起こそうとしていた。
 ゲダルヤはこれを信じなかった。が、クーデター計画は実際に水面下で進んでいた。国の激動の時期には、醜い争いが起きる。しかし、そのようなときにこそ、信仰を堅く持たなければならない。
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19日 新約・使徒の働き七章
 ステパノは、先祖たちの歴史を語る。
 かつて信仰の父祖アブラハムは、もともと「足の踏み場となるだけのものさえも」相続財産として持っていなかった(五)。しかし彼は真実に信仰に歩んだので、神に祝福され、多くのものを得た。
 私たちも、父母から受ける相続財産の多い少ないを気にしてはならない。たとえ人生を無一文から始めても、あなたは信仰さえ持っているなら、その終わりは大いなるものとなる。
 イサク、ヤコブ、ヨセフの生涯も、波乱に富んでいた。彼らは、人生の辛酸をなめ尽くした。しかしそれでも、彼らの生涯は全体として見れば幸福なものであった。神が共にいて、彼らを幸福に導かれたからである。
モーセの生涯も興味深い。八〇歳以前の彼を見れば、彼はまさしく失敗者であり、落ちぶれた者であった。しかし以後の四〇年間は、成功者の生涯であった。
 信仰者の生涯は、なんと思いがけない驚きに満ちているものだろうか。神は、私たちの想像もできないような仕方で、あなたの人生を豊かにして下さるのである。
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20日 旧約・エレミヤ四一章
 
イシュマエルはクーデターを起こし、南王国ユダの総督ゲダルヤと、その部下たちを虐殺した(二)。
 考古学者たちは、パレスチナの都市ラキシュでの発掘作業の際、バビロン王ネブカデネザルによって破壊された遺物の中から、
 「家を治める者ゲダルヤに属す」
 という銘のある印章を発見している。これは当時ゲダルヤがユダの総督であったという、エレミヤ書の真実性を証明するものである。
 しかし、そのゲダルヤも殺されてしまった。パレスチナの地は、さらなる混乱に陥り、泥沼化していった。
 さて、ゲダルヤを殺したイシュマエルたちは、アモン人のところへ逃げた。
 また、ゲダルヤの部下の生き残りであったヨハナンたちも、エジプトに行こうとした。彼らはクーデターには参加しなかったが、こののちバビロン軍が直接支配に乗り出してくるだろうから、敗残兵である彼らも安泰ではなかったからである。
 しかし、エジプトに入る一歩手前で、彼らは踏みとどまった。彼らは自分たちがエジプトに下るべきか、それともユダにとどまるべきかに関して、エレミヤに神託を求めることにしたのである。
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21日 旧約・エレミヤ四二章
 
エジプトはまだバビロン帝国に征服されていなかったから、そこへ逃れれば、もはや剣が追いつくことなく、ききんもない、と思われた。
 しかし、ヨハナンたちは一歩踏みとどまって、エレミヤを通して神の御言葉を聞こうとした。
 「私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います」(六)
 と彼らは言った。しかし神の御言葉が与えられたのは、ようやくその「一〇日後」であった(七)。これは彼らが真剣に神の意志を求め続けるか、それとも早まって行動するかを、試すためである。
 一〇日後に与えられた神の御言葉は、ユダの国にとどまりなさい、というものであった。国にとどまるなら、神は彼らを救って下さる。しかし、エジプトに下るなら、彼らはそこで災いにあって死ぬであろうと。
 ユダの国は、今まさに危急の時であった。このような時にこそ、良い人材が国にとどまらなければならない。
 つらい困難な場を捨てて、他へ逃れるのはたやすい。しかし、神が求めておられるのは、そうしたところにこそ入っていって、神の御旨を行なおうとする人なのである。
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22日 新約・ヘブル九章
 
「遺言は、人が死んだとき初めて有効になる」(一七)。
 この「遺言」の原語は、「契約」とも訳せる言葉である(一五)。キリストによる新しい契約は、キリストの死によって初めて有効になった。また、
 「血を注ぎ出すことがなければ罪の赦しはない」(二二)
 と言われている。キリストの流された血潮は、本来私たちが流すべき血であったことを覚えよう。
 キリストの血潮は、どんな罪をも赦す。どんな大きな罪も。
 ある女性が、「自分の罪はたとえイエス様の十字架によってでも赦されない」と悩んでいた。彼女は、やさしい姉を裏切る行為をしてしまったのだという。
 牧師は彼女に、目を閉じて想いの中で湖のほとりに行くように言った。そしてそのほとりで、小石を湖に投げ込む。小石はポチャッと音を立てて湖に沈む。つぎに、大きな石を取って、湖に投げ込む。
 「どんな音がしましたか」。
 「ドボーンと音をたてて沈みました」
 彼女はそう答えた。罪は大きかろうが小さかろうが、キリストの恵みの海にみな沈んでしまうのである。
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23日 旧約・エレミヤ四三章
 
ヨハナンたちは、神の御言葉を待ち望み、それを聞きながら、結局それに従わなかった(七)。彼らは、ユダの国にとどまれという神の御言葉に聞き従わず、エジプトに逃げていった。
 しかし、もともとエジプトに逃げていくつもりなら、なぜ彼らは神の御言葉を聞いたのか。せっかく御言葉が与えられたというのに、それに従わなかったことで、彼らの罪はことさらに重くなった。
 彼らは一〇日前には、
 「良くても悪くても・・・・神、主の御声に聞き従います」(四二・六〜七)。
 と言ったのである。ところが、一〇日間待たされるうちに、その素直さは失せ、エジプトへの逃亡の気持ちに、はやってしまった。
 この「一〇日間」は、彼らのためのテスト期間であった。神は私たちの信仰を、ときに試される。このテストに合格してこそ、神は祝福に導いてくださる。
 私たちが神の御言葉を待ち望んでも、それが与えられるまでの間しばらく待たされることがある。しかし、それはテストの時である。神は、あなたが変わらずご自身に聞き従う者であるか否かを、見ておられる。
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24日 旧約・エレミヤ四四章
 
一部のユダヤ人たちは、祖国ユダがバビロンに征服されたために、エジプトに逃れていた。エレミヤは彼らにも、主の御言葉を語った。
 それは彼らに、偶像崇拝を捨てよ、と訴えるものであった。しかし彼らユダヤ人は、エジプトでも偶像を捨てようとはしなかった。
 彼らの言うには、かつて「天の女王」(アシュタロテ)にいけにえを捧げたときは自分たちは幸せだった。しかし、いけにえをやめた時から災いにあった、とのことだった(一七〜一八)。だから「天の女王」にいけにえを捧げたいのだと。
 かつて偶像神「天の女王」崇拝が最も盛んだったのは、マナセ王の時代だった。これはのちにヨシヤ王の宗教改革の時に禁じられた。それ以降、ユダに起こった悲劇――ヨシヤ王の戦死やバビロン軍の侵略などは、「天の女王」崇拝をやめたからだと、彼らは考えたのである。
 神の御言葉に従わない者には、同じ事実も別のものに見えてくる。彼らは事実を正しく理解することができない、盲目の者になっていた。
 しかし、彼らも主の御言葉が正しいことを知るであろう。それはエレミヤの預言の通り、エジプトはバビロンに征服されるからである。
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25日 新約・使徒の働き八章
 
ピリポの宣教により、サマリヤの人々も主イエスを信じた(五)。
サマリヤとは、かつて北王国イスラエルの一〇部族の住んでいた地である。一〇部族の主だった人々はアッシリヤに捕囚になり、そこには下層階級の人々だけが残されていた。ピリポが宣教したのは、その下層階級の人々の子孫である。
 またピリポは、「エチオピア」の女王に仕える高官にも個人伝道をした(二七)。
 この「エチオピア」、すなわち古代エチオピアは、今日のエジプト南部地方である。当時は、イスラエルの周辺諸国にも真の神ヤハウェを拝する多くの人々がいて、毎年エルサレムに巡礼の旅をしていた。
 エチオピアの高官は、その旅の帰りの途中、イザヤ書五三章を読んでいたのである。しかし、彼にはその預言が誰のことを言っているのかわからなかった。
 ピリポは、その預言はイエス・キリストに関するものであると説明した。高官はそれを聞いて信じ、バプテスマを受けた。
 今日も、イザヤ書五三章の預言は、個人伝道において大変有効な箇所である。ピリポの伝道に学び、私たちも個人伝道を大切にしよう。
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26日 旧約・エレミヤ四五章
 「バルク」(一)は、エレミヤに仕え、エレミヤの預言を書物に書き記した人である。「エレミヤ書」は、彼バルクの手によって記された。
 神はバルクに、自分のためには大きなことを求めるな、と言われた(五)。それは、この時代は南王国が滅亡しようとしている災いの多き時だったからである。
 もし、良い時代なら、バルクの働きによって民は悔い改め、国は復興し、バルクも宮廷預言者としての地位を獲得できたかも知れない。しかし、今はそのような時代ではなく、彼は出世も、安泰な生活も望めないのである。
 神はバルクに、ただご自身が彼と共におられること、そしてどんな所においても彼の命を助け出す、と約束された(五)。
 私たちは、神の下さるものが多いか少ないかを気にするようであってはならない。この地上で受けるもののたとえ少ない場合でも、その分、天では多いのである。
 私たちは地上において、神が共におられること、それ以上を望まない。そのことさえあれば充分すぎる。
 それこそ、インマヌエル(神われらと共にいます)の主の降誕されたクリスマスの意味ではないか。
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27日 旧約・エレミヤ四六章
 エレミヤの預言通り(四四・三〇)、エジプト軍はバビロン軍に破られ、エジプトは征服された。前六〇五年のことである。
 かつてエジプトは大帝国だったが、そののち弱体化してアッシリヤ帝国に征服され、今やバビロン帝国によって征服されたのである。
 一四節に出てくる「ミグドル」はエジプト最北の町、「ノフ」は古代エジプトの首都メンピスのこと(現在のカイロの北)、また「タフパヌヘス」はエジプトのデルタ地帯東にあった要害都市である。
 これらの町々には、祖国を捨ててエジプトに逃れていた多数のユダヤ人たちもいた(四四・一)。彼らも、神に聞き従わなかった罰を受けて、バビロン軍の剣に倒れた。
 こうした記事を読むとき、私たちは、信仰とは生死を決する重大事であることを知る。
 信仰は、なにかのアクセサリーではない。それは余暇に楽しみとしてするものでもない。それは私たちの生死を決する。
 信仰は命と永遠の命に至り、信仰なきは死と滅びに至る。私たちの人生が、信仰によって貫かれるよう祈ろう。そのとき神があなたと共におられる。
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28日 新約・ヘブル一〇章
 
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」(二五)。
 クリスチャンの集会は、神の御言葉に基づいて互いに「励まし合い」、互いに力づけ合い、「互いに勧め合って、愛と善行をうながす」(二四)ためのものである。そこには喜びと愛が生まれる。
 もし集会に人が集まらないとか、教会が成長しないなどの現象が見られるときは、集会にこうしたことがあるかどうかを吟味してみるべきであろう。
 教会の集会は、神の愛と、兄弟愛、そして喜びに満ちたものであってほしい。いや、教会が神の御言葉に立ち、キリストをあがめ、聖霊の御働きを歓迎し、信者同士でさばき合うことなく互いに愛し合うなら、当然そのようなものになるのである。
 今日、世の未信者の多くは、日本の教会をまだ「暗い、堅い、つまらない」ものと思ってはいないだろうか。
 しかし、教会にこそ、本当の安らぎと楽しさ、愛と力があることを知ってもらえるよう、集会をますます充実させたいものである。
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29日 旧約・エレミヤ四七章
 エレミヤは、ペリシテ人についても預言する。
 「見よ。北から水が上ってきて、あふれる流れとなり・・・・」(二)
 とは、北方からバビロン軍がペリシテ人の地に攻め寄せてくることを言ったものである。
 バビロン軍によるペリシテ人征服は、前六〇四年頃のことであろう。それまでペリシテ人たちは、バビロン軍の脅威からは遠く離れていた。が、彼らの都市は次々にバビロン軍に征服されていった。
 「ツロ」「シドン」「ガザ」「アシュケロン」は、みな地中海沿岸地域にあったペリシテ人の都市である。
 バビロン軍はこのときに地中海を初めて見た。バビロン帝国はついに、地中海に至るすべての地域を征服したのである。
 バビロンはこのように、西は地中海、東はペルシャ湾、南はエジプトのナイル川、北は黒海に至るまでのすべての地域を征服した。神はこの地域への審判として、バビロン帝国を御手の内にある道具として用いられた。
 しかし、それは七〇年間だけであった。その後、神は審判のみわざの最後として、バビロン帝国自体を裁かれる。
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30日 旧約・エレミヤ四八章
 
エレミヤはさらに、モアブに関する裁きについて語る。
 モアブは、死海東岸の平野に住んでいたモアブ人の国であり、南王国ユダにとっては隣国である。彼らは、ユダに敵対してバビロン帝国に協力したが、のちにバビロン帝国のネブカデネザル王の軍隊によって滅ぼされた(前五八二年)。
 彼らも他の民族と同様、バビロン帝国に征服されたのである。
 こうして見てみると、エレミヤの預言活動がいかに広範囲に及んだかがわかる。
 エレミヤは、南王国ユダに関してだけでなく、北王国イスラエル、エジプト、バビロン、ペリシテ、モアブ、また次章に見るようにアモン、エドム、ダマスコ、ケダル、ハツォル、エラムなど、周辺諸国すべてに関して預言している。
 暗黒と激動の時代にこそ、神の偉大な預言者が現われた。
 エレミヤは、次々に神の裁きを語っている。しかしそれらの厳しい言葉は、決して非情な心で言われたものではない。それらはいずれも、「涙の預言者」であったエレミヤの深い悲しみに裏付けられて言われた言葉なのである。
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31日 新約・使徒の働き九章
 
サウロ――のちのパウロは、主イエスにあったとき、目が見えなくなった(八)。しかし、のちにクリスチャンのアナニヤという弟子に祈ってもらうと、見えるようになった。
 これは、イエスに出会ったサウロが今までの自分の盲目を知ったこと、および、彼がイエスに出会ったことで彼の目が新しく開かれたことを、象徴する。
 私たちの人生にも、ときおり目の前が真っ暗になるようなことがないか。しかし、私たちの信仰の祈りを通し、主イエスはあなたの目を新しく開いて、新しい世界を見せて下さる。
 私たちは本当の光を見るために、しばしば暗黒を通らなければならない。
 中風のために「八年間も床に着いているアイネヤ」(三三)という人は、病という暗黒を通った。「タビタ」(三六)という女性も、病気と臨死体験という暗黒を通った。
 しかし、彼らはそののち新しく目が開かれ、さらに大いなる世界を見たのである。
 あなたがもし今暗黒の中にあるとすれば、あなたはやがて大いなる光を見ることを期待しよう。適切な時に、神はあなたを導いて下さる。
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