聖書一日一章

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1日 旧約・エレミヤ四九章
 
エレミヤは、アモン、エドム、ダマスコ、ケダル、ハツォル、エラムなど、周辺諸国への審判について預言する。
 これらの国々がバビロン帝国によって征服されたとき、これらの預言がことごとく成就した。バビロン帝国は、中東世界全域を総なめにしたのである。
 平和な時代に生まれ育った世代には、こうした当時の様子というのは想像しにくいかも知れない。しかし、たとえば第二次世界大戦を経験した人などは、当時の激動の時代に関して、幾分なりとも想像がつくであろう。
 死体があちこちに散らばり、鮮血がほとばしるのを見、恐怖と不安に人々はおののく。自分の親族や、親しい友人も次々に死んでいく。
 次は自分の番かも知れない。そうした中で、落ち着きや人間としての尊厳を保つことは、なかなか難しいであろう。
 人間が人間らしく生きることの難しい時代――それが、エレミヤの生きた時代であった。
 しかし、エレミヤはそのような時代にあっても、人間としての尊厳と、神のしもべとしての信仰を、兼ね備えて生きたのである。
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2日 旧約・エレミヤ五〇章
 この預言が語られたのは、紀元前五九三年であった(五一・五九)。
 当時は、まだ南王国ユダにゼデキヤ王がいて、生き延びていた。バビロン帝国は、周辺諸国に次々と勢力を拡大していた。そうしたときに、すなわちバビロンが実際に滅亡する六〇年近く前に、エレミヤはバビロン帝国滅亡の日を語ったのである。
 神はいま、バビロンを用いて、堕落した南王国ユダに対して裁きを下されているが、それは決してバビロン帝国が正しいからではない。神はユダを懲らしめるために、単に一定期間、バビロンの横暴を許容しておられるだけである。
 実際、そのバビロンにも、滅亡の日が来る。
 バビロンの栄華は当時の世界において最大のものだったが、バビロンは自分たちの繁栄を「ベル」、別名「メロダク」の偶像神に帰していた(二)。彼らの国は、偶像崇拝と、残虐と、横暴と、高ぶりを特徴としていた。
 神はその彼らを裁かれるであろう。やがて「北の国」であるペルシャ帝国が、突如彼らに攻め寄せて来て、バビロンの地を荒廃させてしまう。時が来れば、神はすみやかに裁かれる。
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3日 新約・ヘブル一一章
 「信仰は望んでいる事柄を保証し・・・・」(一)と訳された聖句の原語を直訳すると、
 「信仰は望んでいる事柄の実体(ヒュポスタシス)であり・・・・」
 である。「ヒュポスタシス」の「ヒュポ」は「の下にある」の意味、「スタシス」は「事物」である。つまりヒュポスタシスは、事物の根底にあって事物を支え、事物を事物たらしめる実体、または本質である。
 聖書は、信仰は望んでいる事柄の実体、または本質となるものであるという。
 これは「本質は事物に先立つ」ということを理解すると、よくわかる。職人はたとえば机をつくるとき、机の大きさや、形状、色、材質、用途など、「本質的な事柄」をまず頭の中で考える。そののち製作にかかり、やがて実物が出来上がる。このとき、本質は事物に先立っている。信仰も同様なのである。
 私たちは、たとえば病がいやされたいと思うなら、まず病がいやされたという信仰を持つ必要がある。それが本質となり、実体となる。するとそのあとに、病のいやしという事実が、現実世界に現われるのである。
 信仰は事物に先立つ。それは事物を現実化するための力なのである。
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4日 旧約・エレミヤ五一章
 エレミヤは、バビロン滅亡の日について、さらに詳しいことを預言する。
 考古学者によれば、当時バビロンの都は、非常に整備された巨大都市であり、縦横に水路が走り、道路も整備され、神殿や、王宮、また数多くの民の住居が整然と建ち並んでいた。
 人口も多く、文明は比類ないものであり、当時の世界の人々の羨望の的であった。とくに巨大な王宮は、高くそびえ立ち、その上にまで水路が引かれ、多くの植物が生い茂っていたので、遠くから見るとそれは「空中庭園」のように見えたという。
 しかし、このバビロンの巨大な都は、ペルシャ帝国に滅ぼされたあと、どうなるのであろうか。滅ぼされたあとも、まだ人々が住み続けるのであろうか。
 いや、エレミヤは、そこは誰ひとり住む者がないまでに荒れ果てる、と預言する(六二)。そこはただの「石くれの山になる」(三七)。そして「永遠に荒れ果てる」(二六)のである。
 もしあなたがイラクに行き、そこにあるバビロンの都の廃墟に行くなら、その「石くれの山」を実際に見ることができる。
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5日 旧約・エレミヤ五二章
 
エレミヤが繰り返し預言してきたことが、本章において、すべて成就している。
 南王国ユダの捕囚は、四回にわたって行なわれた。第一回目は前六〇六年。エホヤキム王の時代に、バビロンの王ネブカデネザル(ネブカデレザル)が来て、ダニエルを含む王族たちを捕らえ、バビロンに移した。
 第二回目は前五九七年。ネブカデネザルは神殿の宝物を奪い、王エホヤキン、王子、役人、主要人物などを捕らえ移した。
 第三回目は前五八六年。ネブカデネザルは来てエルサレムを焼き、その城壁を崩し、ゼデキヤ王の目をえぐり、鎖をつけて、他の捕囚民と共にバビロンへ連れ去った。ユダの地に残ったのは、貧困な庶民階級だけであった。
 このように、ネブカデネザルはエルサレムを滅ぼすのに、二〇年かかっている。彼は、欲すればもっと早くそれを成し遂げることができたのかも知れないが、貢ぎ物が欲しかったのだろう。また、すでにバビロンにいたダニエルの存在も大きかったのかも知れない。
 第四回目は前五八一年。バビロン軍は再び来て、さらに捕囚民を連れ去った。
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6日 新約・使徒一〇章
 ペテロが福音の言葉を話していると、異邦人にも「聖霊の賜物が注がれた」(四五)。彼らは聖霊を受けると「異言を話し、神を讃美」した。
 このときの「異言」が、ペンテコステの時のように外国語で、その外国語を母国語とする人には理解できる言葉だったのか、それとも、いかなる外国語とも異なる特殊な言葉であったのかは、不明である。
 しかし、ペンテコステを経験したユダヤ人クリスチャンたちが、それを聖霊による異言と認めたことからすると、それはペンテコステの時と同じような「預言的異言」だったのだろう(二・一一、一七)。
 異邦人たちが聖霊を受けたのを見て、ペテロたちは彼らに洗礼(バプテスマ)を授けた。こうして異邦人たちにも、福音と神の賜物は広まっていった。
 キリストによる救いには、ユダヤ人と異邦人の区別はない。老若男女、貴賤の別もない。それはすべての人のためのものである。
 あなたのまわりには、「この人だけはたとえ伝道してもクリスチャンにならないだろう」と、あなたが勝手に思っている人がいないか。しかし、キリストの福音はその人のためでもある。
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7日 旧約・哀歌一章
 
本書「哀歌」の著者が誰であるかについての言及は、本書中にはない。が、「七〇人訳」には、エレミヤが書いたとの序文がついている。
 本書は、バビロン帝国によってエルサレムが破壊されたことを嘆き悲しむ歌である。今日でもユダヤ人は、毎年ユダヤ暦第五月の九日に、神殿の滅亡を悲しみ、断食をして本書を朗読する。
 かつてエルサレムは、神に愛された聖なる都であった。それは神の都、神が造られた都であった。しかし、今やそれは荒廃し、城壁も神殿も家々もみな破壊されてしまった。
 人はしばしば、不幸が起きると、神を非難する。「神がおられるのなら、なぜこんな不幸が起きるのか」と。
 しかし本書の詩人は、エルサレムの不幸を見て、決して神を非難しない。それはエルサレム滅亡の悲劇は、すべてイスラエル民族自身の罪のゆえであることを、知っているからである。
 彼は神を非難するのではなく、むしろ神の御前にひれ伏して、心のすべてを注ぎだして嘆き悲しむ。私たちも、悲しいときは、神の御前に心のすべてを注ぎだすことである。神はそれを受けとめて下さる。
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8日 旧約・哀歌二章
 
神は、ご自身の敵に対するかのように、怒りをもってエルサレムに対し次々に災いを下された。
 かつてモーセは、シナイ山から下ってきたとき、偶像崇拝にふける民を見て怒り、十戒の二枚の石の板を投げ捨ててしまったことがある。
 それと同じく、神はエルサレムの住民が偶像崇拝にふけるのを見て、激しく怒られた。そしてエルサレムに裁きを下されたのである。
 エルサレムに下った神の裁きは、容赦ないものだった。それは見るに耐えない光景であった。
 詩人は、この嘆きの中にも、その不幸がなぜ起こったかについて分析している。この不幸が起こった原因の一つは、宮廷に仕える偽預言者たちが、「ごまかし」ばかりを預言して、イスラエル民族の「罪をあばこうとせず」、「人を惑わす言葉」ばかりを言ったからである(一四)。
 人を惑わす言葉は、神の峻厳な裁きを招く。自分だけでなく、他人をも不義に招く罪は二重に大きい。
 もしあの時代のエルサレムでも、宮廷預言者たちが神の真理をまっすぐ語ったならば、民は悔い改め、エルサレムは滅亡を免れたかも知れない。神の御言葉をとりつぐ者の責任は重い。
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9日 新約・ヘブル一二章
 
アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、その他多くの信仰の先輩たちは、いまや「雲のように私たちを取り巻いている」(一)。
 彼らは、ちょうど競技場の観客席からフィールドの選手たちを見ている観客たちのように、地上にいる私たちを上から見ていてくれる。だから、
 「私たちも、一切の重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか」。
 その競争が終わると、私たちは彼らのところに行って、彼らの歓迎と、もてなしを受けるであろう。
 「あなたがたはシオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝会に近づいているのです。また、天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者である神、全うされた義人たちの霊・・・・に近づいています」(二二〜二四)。
 人生という競争、信仰による人生という歩みが終わるとき、そこに待っているのは、信仰の諸先輩方や天使たち、また神と主イエスが私たちの勝利を祝って下さる「大祝会」なのである。
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10日 旧約・哀歌三章
 この詩人が生きた時代は、決して幸福な時代ではなかった。
 神の峻厳な裁きが祖国に下される光景を、彼は自分の目で見なければならなかった。彼の周囲にあったのは、ただ暗黒と荒廃であった。
 しかし、彼の魂は、悲しみに沈んではいたが、荒廃してはいなかった。彼の魂は澄みわたり、暗黒の中にも輝いていた。彼は言った。
 「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ」(二二)。
 彼は主の恵みを知っていた。
 「わざわいも幸いも、いと高き方の御口から出るのではないか。生きている人間は、なぜつぶやくのか。自分自身の罪のためにか」(三八〜三九)。
 さらに、人々に呼びかける。「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう」(四〇)と。
 私たちにとって幸福とは、必ずしも幸福な時代に生きることではない。また幸福な環境、幸福な境遇に生きることが私たちの幸福なのではない。
 むしろ、いかなる時代、いかなる環境、いかなる境遇にあろうと、神にあって自分の魂の内に幸福を持つことこそ、私たちの幸福なのである。
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11日 旧約・哀歌四章
 国に破滅が来るとき、人々の人間性は地に落ちる。
 エルサレムが滅亡したとき、人々は無慈悲になり、もはや幼子が飢えていても、顧みる者もいなかった(四)。飢えが人々を襲い、すべての者が生き地獄を体験する。女たちでさえ、自分の子を煮て食べたという(一〇)。
 健康的で美しい肌だった者も、すすのように黒くなり、ひからびて骨につき、枯れ木のような体になる。それはまさに、仏教でいう「餓鬼」や「修羅」を目の当たり見るような光景である。
 そのような悲惨な状態でじわじわと死んでいくよりは、もうすでに死んでしまった者のほうが幸せだとさえ思えた。
 「剣で殺される者は、飢え死にする者よりも、しあわせであった」(九)
 と言われている。
 もはや誰ひとり、まともな心ではいられない。それはまさに地獄絵である。地獄はこの世にも存在する。
 地獄は決して、はるか遠い先のことではない。人間の罪と地獄とは、セットである。人が罪を犯すとき、地獄はその人の中に、すでに始まっている。
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12日 新約・使徒一一章
 当時のユダヤ人は決して、割礼のない異邦人と食事を共にしなかったから、ある人々は、ペテロが異邦人と食事を共にしたということを聞いて、
 「あなたは割礼のない人々のところに行って、彼らと一緒に食事をした」(三)
 と言って非難した。しかし、ペテロはあわてることもなく、また憤慨することもなく、落ち着いて事の次第を説明した。
 すると人々は、
 「それでは、神は命に至る悔改めを異邦人にもお与えになったのだ」
 と言って「神をほめたたえた」(一八)。
 私たちは、信仰から来る正しい行動なら、臆することなくそれを行なうべきである。しかし、あとで説明を求められたとき、落ち着いて事の次第を説明できるようにしておくことも、同様に大切であろう。
 コミュニケーションが充分でないと、とかく誤解や間違いが生じやすい。言葉が足りないばかりに、失敗する人は多いのではないか。
 教会でも、家庭でも、会社でも、どこでもそれは同じである。説明すべきこと、伝えるべきことは、きちんと伝えよう。
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13日 旧約・哀歌五章
 
詩人は、自分たちの罪を認めたうえで、また現在の悲惨が当然の報いであることを認めたうえで、神に赦しを乞う。
 彼は、自分たちの辛く悲惨な状況を神に訴え、これは、
 「私たちが罪を犯したからです」(一六)
 と懺悔している。その上で主を讃美し(一九)、
 「主よ。あなたのみもとに帰らせて下さい。私たちは帰りたいのです」(二一)
 と神への愛を告白する。このような真実な悔い改めと愛を告白されて、どうして神の御心が動かないわけがあろうか。
 真実な悔い改めと愛に対しては、神は必ずや何かをして下さる。
 南王国ユダのユダヤ人は、七〇年間バビロン帝国の支配下に置かれ、捕囚されたが、そののち再び祖国に帰ってきて、祖国を再建する。これは、本書『哀歌』の著者(エレミヤ?)をはじめとする多くのユダヤ人の、真実な祈りが神に聞き届けられたからに違いない。
 私たちは、辛いときは辛いと祈り、嬉しいときは嬉しいと祈ればよい。そしてどちらの場合も、神への讃美と愛を忘れないことである。
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14日 旧約・エゼキエル一章
 本書は預言者エゼキエルに啓示された神の託宣を記した書物である。
 前五九七年の第二回バビロン捕囚のときに、当時まだ二〇代の若者で祭司の家系でもあったエゼキエルは、他の者たちと共に捕囚の身となり、バビロンに連れ去られた。
 エゼキエルはそれから五年後、神の預言者となるべく、バビロンの地で召命を受ける。
 エゼキエルが見ていると、四つの「生き物のようなもの」が現われた。「生き物のようなもの」とは、神の御座の近くにはべる御使いの一種ケルビムである。
 エゼキエルの前には天界が開け、彼はそのとき「神々しい幻」を見た(一)。この「幻」(ビジョン)とは「幻覚」ではない。それは神の真理を示すために視覚的に見せられる、神の啓示なのである。
 生き物たちのはるか上のほうには、「王座に似たもの」が見えた。また、「人間の姿に似た者」すなわち神が見えた。
 エゼキエルはこのとき神の「御顔」までは見ていない。しかし、神の御姿の一部、栄光は見たのである。
 エゼキエルはこれを、バビロンで見た。神の啓示は、しばしば人生のどん底のような場所で与えられる。
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15日 新約・ヘブル一三章
 
私たちは、未信者に対して愛を示すことはもちろんだが、クリスチャンたちに対する「兄弟愛」も忘れてはならない(一)。
 教会の兄弟姉妹たち、また指導者への愛を忘れてはいけない。必要に応じ、霊的に、また精神的、物質的に支え合うようにしよう。
 私たちは「善を行なうこと」を怠ってはいけない(一六)。これは道徳倫理の問題ではなく、愛の問題なのである。
 伸びている教会においては、そこに集う人たちは必ずと言っていいほど、
 「教会にいるのが一番楽しい」
 と言うものである。もしそう言う人が少ないなら、その教会はもっと兄弟愛にあふれるよう祈り求める必要がある。
 教会は、楽しくなければいけない。楽しく、喜びと、主にある平安、また愛に満ちているのが教会のはずである。「暗い、堅い、つまらない」では、その教会はまだ本当の教会になっていない、と言ったほうがよいだろう。
 御言葉にしっかり立ち、兄弟愛を心がけるなら、教会は必ず、暖かい愛に満ちた楽しい場となる。教会のために祈ろう。
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16日 旧約・エゼキエル二章
 
神は、エゼキエルに言葉をかけられた。これが第一のことである。第二に来たのは、
 「(神の)霊が私のうちに入り、私を立ち上がらせた」(二)
 という聖霊経験であった。第三に、神はこのエゼキエルを、民の間に遣わされた。
 同じような経験は、私たちにも起こる。
 私たちは聖書を読んでいるとき、しばしば「この言葉はまさに私に語られている」と感じることがある。あたかも、御言葉がうち開かれて、そこから天の光が放たれ、まばゆいばかりに自分の心を照らす。
 この「御言葉の照明経験」が第一である。第二に、それによって聖霊に満たされ、聖霊がその人を立ち上がらせる。第三に来るのは、特定の使命に遣わされることである。
 そのとき神はあなたに語られる。
 「人の子よ。彼らや、彼らの言葉を恐れるな・・・・彼らの顔にひるむな」(六)
 と。私たちが神の使命を全うするには、しばしば勇気が必要である。実行力が必要である。しかし、そうした勇気や実行力は、神が共におられると知ることによって、あなたに与えられる。
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17日 旧約・エゼキエル三章
 
エゼキエルは、神の預言の言葉が記された「巻き物」を食べよ、と命じられた(一)。
 のちに黙示録を書いたヨハネも、同じ経験をしている(黙示一〇・九)。預言の巻き物を「食べる」とは、それが自分の内に展開していくことを意味する。
 「食べる」とき、それが預言者の内に展開し、その口から預言の言葉が次々に、ほとばしり出てくるのである。神はエゼキエルを遣わすにあたり、彼に言われた。
 「もしあなたが・・・・悪者に警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。
 もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかし、あなたは自分の命を救うことになる」(一八〜一九)。
 これは、私たちにも語られている言葉である。もし、あなたが隣り人に福音を語ることができるのに、語ろうとしないなら、神はあなたにその血の責任を問われる。
 しかし、隣り人に福音を語ったのに、その人が信じなかったのなら、あなたは血の責任を問われない。
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18日 新約・使徒の働き一二章
 使徒ヤコブは殉教して死んだが(二)、使徒ペテロは助かった。
 同じ使徒でも、それぞれであった。人にはそれぞれ神のご計画がある。
 使徒ヤコブの殉教は、主イエスによって予告されていた(マコ一〇・三九)。使徒ペテロが老年まで生き延びることも、主イエスによって予告されていた(ヨハ二一・一八)。
 同じクリスチャンでも、試練の多い人もいれば、試練の少ない人もいる。若くして死ぬ人もいれば、老年まで生き延びる人もいる。
 なぜこの差が出てくるのか。良いクリスチャンは試練が少なく、あまり良くないクリスチャンは試練が多いのか。良いクリスチャンは長生きし、あまり良くないクリスチャンは早く死ぬのか。
 そうではない。これらはすべて神の御旨による。不公平でも何でもない。神の御旨は最善なのである。
 人生で大切なのは、神があなたにお与えになった歳月を全うすることである。それが短くても、長くても、一時一時を真実に神に従って生きることである。
 そうするなら、神はその後、永遠にわたってあなたを祝福し、至福の中にあなたを包んで下さる。
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19日 旧約・エゼキエル四章
 
預言者エゼキエルは、神の命令により、「三九〇日」のあいだ左わきを下にして横たわり、つぎに「四〇日」のあいだ右わきを下にして横たわった(四〜六)。
 この一日は一年を表す。「三九〇日」は北王国イスラエルの咎の年数、「四〇日」は南王国ユダの咎の年数を表していた。そのあいだ預言者が横たわったのは、言葉だけでない行為による預言活動だったのである。
 北王国イスラエルは、前七二一年にアッシリヤ帝国の捕囚となった。そのほぼ「三九〇年後」の前三三〇年になると、もとアッシリヤの地は、アレキサンダー大王のギリシャ帝国の支配下に入った。
 アレキサンダー大王は、すべてのイスラエル人に対し非常に寛大だった。こうして北王国イスラエルの人々は圧政から解放された。
 一方、南王国ユダについては、ユダのバビロン捕囚は、前五八一年の第四次バビロン捕囚(最終の捕囚)から、前五三六年の第一次帰還までの年数が、約「四〇年」であった。
 このように苦難の期間は、神によって一定のものに定められていた。三九〇年と四〇年は、計四三〇年である。これはかつてイスラエル民族がエジプトにいた年数でもある。
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20日 旧約・エゼキエル五章
 この啓示がエゼキエルに与えられたのは、前五九二年であった(一・一)。そのときは、エルサレムの神殿も城壁もまだ破壊されていなかった。
 エルサレムが廃墟となったのは、前五八六年のことであった。その年、バビロン軍はエルサレムの街を焼き、神殿も王宮も城壁も崩して破壊し尽くしたのである。
 つまり、このエルサレム滅亡の六年前に、エルサレム滅亡の預言がエゼキエルに与えられた。
 エルサレムは、万国の中心に位置する都である(五)。そこはヨーロッパ、アジア、アフリカの三大陸の接点に位置し、また白色人種、黄色人種、黒色人種のそれぞれが住む地域の交点にあたる。
 その麗しい都が、自らの罪のために神の裁きにあい、廃墟と化した。エゼキエルは、この啓示を受けたとき、心はふるえ、魂の底から震撼したであろう。
 当時、人々はエルサレムは「永遠の都」と思っていた。ローマ時代のローマ人も、ローマを「永遠の都」と思っていた。しかしどちらも、神の裁きにあったとき、廃墟と化したのである。
 高慢は滅亡を呼び寄せる。
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21日 新約・ヤコブ一章
 
「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」(五)
 私たちは信仰に入ると、愛の大切さを学ぶ。また愛を実現するために、実行力の必要を学ぶ。
 では、信仰に基づく愛や実行力があればそれでよいかというと、もう一つ必要なものがある。それは「知恵」である。知恵がないと、愛や実行力は空回りしてしまう。私たちには特別な奇跡を行なう力はなくてもよいが、知恵は必要なのである。
 ビジネスに大切なのはアイデアであると言われるが、人生においても、愛を具体化する知恵が必要である。
 愛は創作的であり、知恵を必要とする。人を愛する者は、どうしたらその愛を具体的に示せるだろうか、と頭をひねって考える。
 知恵がなければ、人生は豊かな実を結べない。たとえ頭の回転が天才的に早くなくても、時宜にかなった知恵は人生に必要である。
 かつてソロモンは知恵の必要を感じ、神に願い求めて、それを与えられた。あなたも求めるなら、神は与えて下さる。
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22日 旧約・エゼキエル六章
 
神は、さらにエゼキエルに啓示をお与えになる。
 それによると、イスラエル民族の住むカナンの地は、南端から北端までその全土が荒れ果てる、という。
 「荒野からリブラまで、その地を荒れ果てさせて荒廃した地とする」(一四)。
 「荒野」は、ユダの南方にあってエジプトまで続く地域、一方「リブラ」は、ガリラヤ湖よりも北にあった町である。その間の地域はすべて荒廃した。
 バビロン軍による容赦ない侵略によって、その地域に住む多くの人々も死に、また、至るところにあった「高き所」と呼ばれる偶像の礼拝所も、破壊し尽くされた。
 しかしそのとき、その地の住民のすべてが死んだわけではない。ある人たちは生き残った。
 彼らはやがて、自分たちのした罪を悔い、いとうようになる。そして、神の裁きの正当性を認めるようになるであろう。
 「彼らは、わたしが主であること、またわたしが、ゆえもなくこの災いを彼らに下すと言ったのではないことを知ろう」(一〇)。
 神はイスラエル民族にも、異邦人にも、正当な裁きを下された。
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23日 旧約・エゼキエル七章
 
「終わりが来る」(六)
 との啓示を、神はエゼキエルに語られた。エルサレムが破滅し、カナンの全土が恐慌におそわれ、荒廃してしまう時が、今やすぐそこに迫っていた。それはその地にとって、一種の「終末」の時である。
 神は、その終末が来るとき、
 「(人々は)わたしが主であることを知ろう」(四)
 と語られた。「主」とはヤハウェである。ヤハウェという神の御名には、「彼はある」という意味があると言われる。
 人々はそれまで、神ヤハウェがまるで存在しないかのように、カナンの地で偶像礼拝を行なっていた。しかし、カナンに終末が来るとき、人々はヤハウェこそ神であることを知るであろう。
 今日の世界も、多くの人はまるで神ヤハウェが存在しないかのように、神を忘れて生きている。しかし、この世界にも、やがて終末が来る。
 世界に、容赦ない裁きと破滅が下る時が来る。そのとき人々は、ヤハウェこそ神であることを知るであろう。
 そのとき生き残るのは、ヤハウェを神とし、その御子イエス・キリストを信じる者たちだけである。
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24日 新約・使徒一三章
 真理が大胆に説かれるところ、真理を聞いて喜ぶ者と、真理を拒絶して反対する者とが必ずいる。
 パウロが大胆に福音を語ったときも、そうであった。ある人たちは喜んで聞いたが、ある人たちは反対して、口ぎたなくののしった(四四〜四五)。
 私たちは神の真理を人々に宣べ伝えるとき、すべての人がそれを喜んで聞いてくれると、思うことはできない。
 ある人々は喜んで聞くが、ある人たちは反対するであろう。そのとき誰が喜び、誰が反対するかは、それを語るまでわからない。
 しかし私たちは、それを語ることが神のご命令だから語るのである。
 「この人はきっと反対するだろうから、語るのはやめておこう」
 と勝手に思うのではなく、すべての人に語るのが神のご命令なのだから、語らなければならない。
 聞く耳のある者は聞いてくれるであろう。そして、神の予知と予定により「永遠のいのちに定められている人たちは、みな信仰に入る」であろう(四八)。
 私たちは人間的な思惑に従うのでなく、神のご命令に従うのである。
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25日 旧約・エゼキエル八章
 
前五九一年、エゼキエルは再びバビロンの地で、神からの視覚的な啓示を受けた。
 エゼキエルは、肉体のままであったか、肉体を離れてであったかはわからないが、神の霊によって「地と天との間に持ち上げ」られた(三)。そして彼は、霊的に南王国ユダのエルサレムに連れられていき、今そこで起こっている事柄を、目撃させられた。
 エゼキエルは、バビロンの地に捕囚されて以来ずっと、「もう一度エルサレムの地を一目見たい」「主の神殿の様子を見たい」と思っていたであろう。
 実際、神は彼に視覚的啓示を通して、今のエルサレムと神殿の様子を見せて下さった。しかし、そこに彼が見たものは、エルサレムの住民が主の神殿において忌むべき異教崇拝を行なっている光景であった。
 「ねたみの偶像」(三)とは、アシェラ像のようなものであろう。また「タンムズ」(一四)は、バビロンの偶像神である。
 なんと悲しむべき光景であろうか。こうしてエゼキエルは、神の悲しみを、自分の悲しみとするようになった。私たちも神と、悲しみも喜びも共にする者でありたい。
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26日 旧約・エゼキエル九章
 
エルサレムにおける忌むべきことを思って嘆き悲しんでいる人々には、その額に、書記役の天使による「しるし」がつけられた(四)。
 神の裁きは、この「しるし」のない者にだけ下った。「しるし」のつけられた者には下らなかった。
 この「しるし」は、霊的なしるしであり、肉眼には見えないが、天から見ればはっきり「しるし」として見えるものであった。
 来たるべき患難時代においても、神に従う人々の額には「しるし」がつけられ、それをつけられた人は誰も裁きにあわない、と黙示録は記している(黙示七・三)。
 私たちは信仰に入ったとき、「聖霊の証印」を押されている(エペ一・一三)。それは肉眼では見えないが、天から見れば、はっきりとわかる「しるし」なのである。
 かつてエジプトで、過越の小羊の血を鴨居と柱に塗りつけた家は、裁きの天使が過ぎ越していった。それと全く同様に、御子の十字架の血潮により「聖霊の証印」を押された私たちの上を、神の裁きは過ぎ越していく。
 この世の悪と自分の罪を、深く嘆き悲しんで、神に立ち返る者には、「聖霊の証印」がとどまる。
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27日 新約・ヤコブ二章
 人は、貧すればへつらい多く、富めば驕る、というのが世の常である。
 しかしキリスト者は、貧してもへつらうことなく、富んでも驕らない、見識の者でありたい。
 「貧に処する道を知り、富におる道も知っている」(ピリ四・一二)者でありたい。貧にあっては貧に処し、富にあっては神と人のために富を活用できる愛の人でありたい。
 貧にあっても、富にあっても、人間として、また信仰者として、なすべきことをなそうするのが、キリスト者の生き方であろう。
 「人をえこひいきしてはいけません」(一)。
 私たちは、相手の貧富を見て態度をがらりと変えるようではいけない。たとえ自分を利する相手であっても、自分を利さない相手であっても、人に接する際には、常に変わらない真実な態度を示そう。
 相手が金持ちでも、貧乏でも、地位の高い人でも、低い人でも、誠実な態度で接するのは同じでなければならない。
 私たちは、きのう、あるいは今日、そのような誠実な態度をすべての人に対して示しただろうか。しばらく自己吟味の時を持とう。
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28日 旧約エゼキエル一〇章
 
エゼキエルは、神からの視覚的な啓示を受ける。それは天界の光景であった。
 地上界から天界は見えないが、天界から地上界はよく見える。天界から見ると、天界のあらゆるものも地上のエルサレム神殿も、一つのように見えた(三)。
 たとえば、マジックミラーがつけられた部屋の中の人は、マジックミラーの向こう側が見えない。しかし、マジックミラーの向こう側の人は、自分の部屋の中も隣の部屋もよく見える。それと同じである。
 天界には、神の御座の近くに御使いの一種「ケルビム」が仕えていた。「ケルビム」は複数形で、「ケルブ」はその単数形である。
 地上のエルサレム神殿には、そのケルビムが行き来していた。地上界の人の肉眼にはそれは見えないが、天界から見ると、明らかに見えるのである。
 かつてイエス・キリストの使徒パウロは、自分が「第三の天」に上げられたことがあると言っている(Uコリ一二・二)。パウロはその神秘的な体験を、あまり語ろうとしなかったが、彼の見た光景は、エゼキエルが見たものと同じようなものだったかも知れない。
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29日 旧約エゼキエル一一章
 
神は視覚的な啓示のうちに、エゼキエルに、ご自身の御旨をお教えになる。
 神は、南王国ユダの民の罪のゆえに、彼らをバビロンの捕囚とされた。しかし、捕囚となった民は、バビロンにおいて真の神を「彼らの聖所」とし(一六)、隠れ家となして真実に歩む。
 それゆえ神は、やがて時が満ちれば、彼らを再び祖国に連れ戻すと約束される(一七)。
 そのとき神は彼らに「一つの心」「新しい霊」を与えて下さる。それは彼らが神のおきてに従って歩み、神の定めを守り行なうためである。
 「こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる」(一八)。
 実際、バビロンから帰還したあとのユダヤ人は、二度と偶像崇拝に陥ることがなかった。バビロン捕囚という「懲らしめ」は、彼らを決定的に変えたのである。
 神のなさることに無駄はない。
 バビロン捕囚が起きたとき、多くの人は「これでユダヤもおしまいだ」と思ったに違いない。エゼキエルもそうだったであろう。しかしそれは、新しいユダヤの始まりにほかならなかった。
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30日 新約・使徒一四章
 パウロは主にある兄弟姉妹達に、
 「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」
 と語った(二二)。この「苦しみ」とは、私たちが神の国を宣べ伝える際に起こる様々な困難や試練、また神の御旨を行なう際にふりかかってくる反対や苦難のことである。
 パウロとバルナバが伝道すると、「町の人々は二派に分かれ」(四)、反対派の人々は使徒たちを「はずかしめて、石打ちにしようと」した(五)。
 使徒たちが神の御旨を行なおうとすると、様々な困難や苦難がふりかかった。彼らはしばしば、眠られぬ夜を過ごし、苦痛をおぼえることもしばしばであった。
 しかし、苦痛だけでなく、彼らは大きな喜びをも体験したのである。彼らの宣教には常に困難も伴ったが、その宣教を通して多くの人が永遠の命に入った。そして神から与えられる幸福に入ったのである。
 神は、ご自身の計画を推進するために、困難や苦難をも耐え忍ぶ人材を求めておられる。私たちが神の国に入るためには、多くの苦しみを経なければならない。
 しかし、苦しみだけでなく、私たちには多くの喜びがあるのである。
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