聖書一日一章

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1日 新約・Uペテロ三章
 
「神の国の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません」(一二)。
 「神の国」とは、土地のことではない。それは神の支配である。「神の国が来る」とは、神が王として全地の隅々まで支配する時が来る、ということである。
 神による完全な支配は、完全な正義と、繁栄、幸福を意味する。神を愛するすべての者たちは、それを享受する。それは神を愛する者にとっては、恐るべきものではなく、安息と至福の中に入ることなのである。
 神の支配が地上に臨むとき、神に属さない者は滅びるが、神に属する者はみな、その神の国の至福の中に入る。それが「神の国が来る」ということである。
 現在の社会は、多くの矛盾に満ちている。この世では善人が必ずしも報われず、悪人が必ずしも罰せられていない。しかし、神の国が来るとき、この世から一切の矛盾は消え失せる。
 あなたは、そのような世界を想像できるだろうか。それは現在の世界よりも、はるかに優れた世界なのである。キリスト者の前に置かれた大いなる恵みのゆえに、神をあがめよう。
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2日 旧約・ダニエル書六章
 
「ダリヨス」(一)は、バビロン帝国を滅ぼしたペルシャ帝国の王クロスによって、バビロン州を統治するよう任命された人物と思われる。
 ペルシャ帝国は、実際はペルシャと、その兄弟民族メディヤとの連合国家であったので、しばしばメディヤ・ペルシャ帝国、またはメド・ペルシャ帝国とも呼ばれる。
 ダニエルは、バビロン帝国の時代に続いて、このペルシャ帝国の時代にも生きたのである。
 ダニエルをねたむ者たちは、ダニエルをおとしいれるために、策略をめぐらした。それはペルシャ王が一度出した命令は、決して取り消されないことを利用したものであった。
 その策略は、王の自尊心をくすぐって、ダニエルに不利な命令を出させることであった。王はまんまと、この策略に乗ってしまった。
 王の出した命令に背いたとして、ダニエルは獅子の穴の中に投げ込まれた。だが、神の御使いが彼を守って、彼は何の傷も受けなかった。
 ダニエルに対する迫害はかえって、神がダニエルと共におられることを、人々の前に明らかにした。
 ダニエルは、異教徒たちの間で、堂々と生きた。クリスチャンもそうでありたい。
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3日 旧約・ダニエル書七章
 
ダニエルの見た預言的幻の中で、「第一の獣」はバビロン帝国、「第二の獣」はメディヤ・ペルシャ帝国、第三の獣はギリシャ帝国、「第四の獣」はローマ帝国をさす。
 この預言的幻はまた、ローマ帝国の時代に、「永遠の国」(二七)、すなわち神の国が現われ始めることを述べている。すなわちローマ帝国の時代に、キリストが降誕されるのである。
 「年を経た方」(九)とは父なる神、「人の子のような方」(一三)とは御子キリストである。
 さらにこの預言的幻によれば、ローマ帝国は、終末の時代に非常に特別な役割を果たす。それは患難時代に、復興ローマ帝国として、あるいは一〇カ国の同盟国として復活するであろう(二四)。
 ローマ帝国は、単なる過去の帝国ではなく、終末の時代に新たな装いで復活するに違いない。その中から、傲慢なことを語る一人の独裁者が現われる。彼は、キリスト者たちを迫害する(二四〜二五)。
 これは黙示録でいう「獣」のことである(黙示一三・一)。ダニエル書と黙示録とは、深く関連しているのである。
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4日 新約・使徒二五章
 
パウロは、論争の的になり、さらには、裁判の被告となった。
 しかし、これは福音の真理がますます多くの人々に証しされ、注目の的となるための、神の摂理であった。真理が大胆に言い広められるとき、それは論争の的になる。
 レムナント誌が、死後の世界について聖書から、よみ(ハデス、シェオル)と地獄(ゲヘナ、火の池)は違う場所だと説いたとき、それは人々の論争の的となった。
 レムナント誌が、「福音を聞かずに死んだ人々の救い」について聖書から説いたとき、それは論争の的となった。
 レムナント誌が、再臨二段階説と患難前携挙説を否定し、患難末期再臨説、患難末期携挙説を説いたとき、それは論争の的となった。
 しかし、健全なものが明らかにされるためには、しばしば論争も必要なのである。
 たしかに、対立は決して好ましいものではない。けれども、注意深く吟味したうえで、本当にそれが神の教えで聖書の教えだと心から信じられるなら、私たちは大胆に、しかも謙虚に、福音の真理を言い広める勇気を、持たなければならない。
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5日 旧約・ダニエル書八章
 ダニエルはまた、預言的幻を見た。第一の獣は、今度は雄羊の形をしていたが、それはメディア・ペルシャ帝国をさしていた(二〇)。一方、雄やぎの姿で現われた第二の獣は、ギリシャ帝国をさす(二一)。
 その後の「四本の角」(二二)は、アレクサンドロス大王の死後、ギリシャ帝国が分裂して出来た四つの国──マケドニヤ、トラキヤと小アジア、シリヤ、エジプトをさす。
 その後に「横柄で狡猾なひとりの王」(二三)が現われる。これは、シリヤの王アンティオコス四世・エピファネスのことである。彼はたいへんな暴君で、イスラエルにも攻め入り、神聖な主の神殿を荒らした人物として、歴史家に知られている。
 エピファネスは、前一六七年秋から一六四年一二月までエルサレム神殿を荒らして偶像を持ち込んだ。すなわち「二千三百の夕と朝」(一四)、あるいは一一五〇日である。そののち彼は一六三年春に死んだ。
 しかし、ダニエル書によれば、これは単に過去のことにとどまらない。それはなお、終末にも関係している(一九)。黙示録の述べているように、終末の時代にもエルサレム神殿が、再び三年半の間荒らされるのである(黙示一三・五、一五)。
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6日 旧約・ダニエル書九章
 ペルシャ帝国の治世が始まったその年に(一)、ダニエルに「七〇週」の預言が示された(二四)。
 「七〇週」は、七週と六二週、計六九週と、最後の一週とに分かれている。最後の一週はさらに、半週と半週に分かれている。「週」とは七日ではなく、七年のことである。新改訳で二五節は、「油注がれた者、君主の来るまでが七週。また六二週の間・・・・」と訳されているが、これは口語訳のように、
 「メシヤなるひとりの君が来るまで、七週と六二週ある」
 と訳すのがよい。エルサレム再建命令から計「六九週」後に、メシヤ、すなわち主イエスが来られる、との預言である。
 エルサレム再建命令は、紀元前四五七年に出された。その六九週後、すなわち六九×七=四八三年後は、紀元後二六年である。これはまさに、キリストが公生涯を開始された年である。
 キリストはその後三年半、すなわち「半週」の間、地上で公生涯を歩み、三〇年春に昇天された。
 では、「七〇週」の残りの半週は、どうなるのであろうか。それは、じつは終末の患難時代に属しているのである。
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7日 新約・Tヨハネ一章
 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(七)。
 御子イエスの十字架の宝血に、きよめられない罪はない。彼の御血潮は、いかなる罪をもきよめるのである。
 死刑囚の中には、獄中でクリスチャンになったような人も少なくない。彼ら死刑囚のように極悪犯罪を犯した人々であっても、彼らが持った信仰を通し、御子イエスの血潮は彼らのすべての罪をきよめた。
 たとえ、地上において死刑の執行という刑罰を受けるとしても、神の御前ではすでにその罪は赦され、イエスの血潮により全くきよめられている。
 ましてや、あなたの罪のすべては、あなたの信仰を通し、御子イエスの血潮によって、全くきよめられている。神がきよいと言われたのだから、それらはすでにきよいのである。
 あなたという生命は、すでにイエスの血潮という代価を通して、神のもとに買い戻された。だから、あなたは、もはやあなた自身のものではない。神のものである。
 私たちは代価を払って神に買い戻されたのだから、自分の身命を賭して、神の栄光を現わす人生を送りたい。
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8日 旧約・ダニエル書一〇章
 
ダニエルの前に現われた神々しい「ひとりの人」(五〜六)は、天使とも思われるが、その姿は黙示録一・一三〜一五に記されたキリストの御姿によく似ており、受肉前のキリストとも思われる。
 ダニエルは彼から、預言的な幻を見せられる。それは「大きないくさ」に関することであり(一)、「終わりの日にイスラエルの民に起こること」に関するものであった(一四)。
 預言的幻の内容は、続く一一章、一二章に示される。それはペルシャ帝国や、ギリシャ帝国の時代のことに始まり、終末の患難時代の出来事に至る。すなわち「大いなるいくさ」──ハルマゲドンの戦いに至るのである。
 あの「神々しい人」は、天使長「ミカエル」は共にイスラエルを守るために戦ってくれている、とダニエルに告げる。
 ミカエルは、「第一の君のひとり」と呼ばれている(一三)。これはミカエルが、天使長のひとりという意味である。
 ミカエルは戦いの御使いであり、イスラエルの守護天使である(一二・一)。彼は終末の患難時代にも、重要な役割を果たす(黙示一二・七)。
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9日 旧約・ダニエル一一章
 
本章に記された預言はすべて、細かい所に至るまで歴史上に成就した。
 ペルシャ帝国は、「第四の」王クセルクセスの時に最も強くなるが(二)、ギリシャに「ひとりの勇敢な王」アレクサンドロス大王が起こり、ペルシャを倒す(三)。
 しかしアレクサンドロスの死後、ギリシャ帝国は四つの国に分割される(四)。その四つの国のうち、「南の王」──エジプトが強くなる(五)。それに立ち向かう「北の王」とは、シリヤである(九)。
 エジプトとシリヤの間には、イスラエルがある。「麗しい国」「輝かしい国」とも呼ばれているこの国は(一六、二〇)、エジプトとシリヤの間にはさまれて、両者の間の戦争の犠牲となる。
 やがてシリヤに「ひとりの卑劣な者が起こる」(二一)。これはアンティオコス・エピファネスである。
 エピファネスは、エジプトに攻めていくが、うまくいかないので、イスラエルを荒らし回る(三〇)。彼はユダヤ人を迫害し、エルサレム神殿を踏みにじる(三一)。
 これらはすべて紀元前の時代に成就した。しかし三六節以降は、なお終末の時代にかかわっている。
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10日 新約・使徒二六章
 「アグリッパ王」は、ヘロデ・アグリッパ二世のことで、ヘロデ大王の曾孫にあたる。彼はヘロデ・アグリッパ一世(一二・一)の子である。アグリッパ王は、パレスチナ地方の支配者であった。
 パウロは彼に、「アグリッパ王、あなたは預言者を信じておられますか」(二七)と言った。アグリッパ王はこの質問に当惑したに違いない。信じないと言えば、ユダヤ人が騒ぐし、信じると言えば、パウロが伝えているイエスを信じざるを得ないからである。
 パウロはまた言った。
 「私が神に願うことは、あなたばかりでなく、きょう私の話を聞いている人がみな、この鎖は別として、私のようになって下さることです」(二九)。
 キリストを信じ、キリストのためにすべてを投げ打って生きている私と同じようになって欲しい、私と同じく信仰者になってほしい、とパウロは訴えた。
 あなたもそう言えるだろうか。
 友人あるいは人々に、「私が神に願うことは、あなたが私と同じように信仰者になることです」と大胆に語るのである。証し人として、大胆であろう。
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11日 旧約・ダニエル一二章
 
「国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る」(一)
 とは、終末の患難時代のことである。患難時代は、この世の悪が最高潮に達するときである。しかしその最後に、神の大いなる裁きがあり、神は地上の悪に終止符を打たれる。
 患難時代は、聖徒たちにとっても試練の時となる。「しかし、その時、あなたの民で、あの書(いのちの書)に記されている者はすべて救われる」(一)。また、
 「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から、一二九〇日がある」(一一)
 とは、患難時代の独裁者「獣」がエルサレム神殿に偶像を置いてから(Uテサ二・四、黙示一三・一四)、一二九〇日──約三年半後に、ハルマゲドンの戦い、ないしはキリストの再臨があることを示しているのであろうか。
 ダニエルは、
 「あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ」(一三)
 と告げられた。これは聖徒たちが、世の終わりに永遠の命の体に復活して、神の国において「割り当ての地」を与えられることを指している。
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12日 旧約・ホセア書一章
 
本書は、預言者ホセアに啓示された預言の収録である。預言者ホセアは、紀元前八世紀の北王国イスラエルで活動した。
 彼は、神の命令により「姦淫の女」と結婚し、子どもをもうけた(二)。
 「姦淫の女」とは、おそらく売春婦のような女性か、不倫好きの女性であろう。ホセアは、なぜそのような女性と結婚したのであろうか。しかも神の命令によって。
 それは、神とイスラエルの関係を象徴的に、預言者の家庭に表すためであった。
 聖書では、神は夫に、イスラエルは妻にたとえられている。このイスラエルという妻は、夫である真の神以外の神々を慕い求めて、不貞な、浮気性の女となっていた。
 そのため神はホセアに、姦淫の女をめとるよう命じて、神とイスラエルの関係の実物教育をなそうとされたのである。
 神は、姦淫の女であるイスラエルに対し、最終的に何をなそうとされるのか。
 それは、姦淫の女を真実な貞淑な女に回復させ、彼女と、真の愛の関係に入ることである。イスラエルはいったん捨てられるが、回復させられるのである(一〇〜一一)。
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13日 新約・Tヨハネ二章
 「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もし誰かが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護して下さる方があります。それは義なるイエス・キリストです」(一)。
 使徒ヨハネがこの手紙を書いたのは、私たちが「罪を犯さないようになるため」であった。私たちが罪深い生活から離れ、神の御教えに生きるために、彼はこれを書いた。
 しかし、私たちはすぐさま完全になれるわけではない。誘惑のない状態では罪を犯さないかも知れないが、激しい誘惑が襲えば、罪を犯してしまうかも知れない。
 では、クリスチャンになって罪を犯したら、私たちは神に捨てられてしまうのであろうか。
 そうではない。私たちには、偉大な弁護士が共についていて下さるのである。「私たちには、御父の御前で弁護して下さる方があります。それは義なるイエス・キリストです」。
 彼は御父の御前で、「この人は今回は罪を犯してしまいましたが、自分の弱さを嘆き、悔い改めています。今後は御教えを熱心に信仰し、守るよう努めるでしょう」と弁護して下さるのである。
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14日 旧約・ホセア書二章
 
本章の語り手は神、「母」とは北王国イスラエル、母の「子ら」は個々のイスラエル人である。
 イスラエルは、自分の夫が神ヤハウェであるのに、偶像神バアルを慕って姦淫をなした。そのため神は、イスラエルを嫌い、イスラエルにさばきを下された(一〇)。
 しかし、そのさばきの後、神は再びイスラエルを愛される。
 「それゆえ、見よ。わたしは彼女をくどいて、荒野に連れていき、優しく彼女に語ろう」(一四)
 と神は言われる。そしてその荒野を、彼女のために「ぶどう畑」にすると。
 神はまた、彼女と「永遠の契り」を結ばれる(一九)。いわば再婚である。同じ相手との再婚である。そして彼女を幸せにする。
 神の愛は根強い。ここまで相手を思い続ける夫婦が、この世の中にいるだろうか。
 神は、「愛されない者」を「愛し」、「わたしの民でない者」を「わたしの民」と言って下さる(二三)。もはや愛される価値のない者をさえ愛し、もはやご自身の民に値しない者たちを再びご自身の民として回復して下さる。
 あなたもその民の一員である。
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15日 旧約・ホセア書三章
 ホセアの妻は、夫ホセアに愛されていながら、他の男のところへいって姦通していた。
 この妻を再び自分のところへ戻すため、ホセアは神に命じられて、その妻のところへ行き、その相手に贖い金を払った。そして彼女を買い戻し、やさしくして、彼女を再び愛した。
 それは、夫である神に愛されていながら他の神々と姦通しているイスラエルを、神が回復させ、再び妻として愛されることを示す、預言的行為だったのである。
 北王国イスラエルの民は、前七二一年にアッシリヤに捕囚となって以来、その大半がいまだにパレスチナに帰還していない。彼らは世界のどこかで、
 「長い間、王もなく、首長もなく、いけにえも、石の柱も、エポデも、テラフィムもなく」(四)
 過ごしている。
 しかし、「その後、イスラエル人は帰ってくる」(五)。そして、象徴的に「ダビデ」とも呼ばれている再臨のキリストのもとに、「おののきながら、主とその恵みに来る」のである。
 これは、旧約聖書が預言する最も大いなる出来事の一つである。
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16日 新約・使徒の働き二七章
 
地中海では、海が荒れるため、一一月一一日〜三月五日までは航海は完全に休止されていた。さらに九月一四日からと、五月一五日までは航海は危険とされていた。
 パウロ一行が旅だったときは、すでに一〇月を過ぎていたから、航海は危険だった(九節、新改訳注)。にもかかわらず、ローマの百人隊長は出帆したので、この暴風雨にあってしまったのである。
 しかし、パウロはこの暴風雨の中でも、決して自分が死なないことを知っていた。彼は御使いから、
 「あなたは必ずカイザル(ローマ皇帝)の前に立ちます」(二四)
 という言葉を受けていたからである。しかも、同船の人たちもみな助かると、示されていた。
 パウロはこれを人々に語り、すべてはパウロの語った通りになった。パウロは、
 「あなたがたの頭から髪の毛一筋も失われることはありません」(三四)
 と語った。これは、キリストが、患難時代のキリスト者たちに関して言われた言葉と同じである(ルカ二一・一八)。
 患難時代のクリスチャンたちも、神の大いなる守りを受ける。
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17日 旧約・ホセア書四章
 
「イスラエル人よ。主のことばを聞け。主はこの地に住む者と言い争われる」(一)。
 神は、全宇宙を法廷とし、その法廷に、イスラエルの罪状を告発される。神は、イスラエル人と共に、そこで弁論を戦わせられる。
 神の弁論はつねに、公明正大である。隠れてなされるのではなく、全宇宙、全被造物を証人としてなされる。その弁論はまた、すべての人に言い聞かせられる。
 神はやがて、世の終わりの「最後の審判」の法廷においても、そのような公明正大な弁論とさばきをなされるであろう。
 「地も天も御前から逃げ去って、あとかたもなくなった」(黙示二〇・一一)という万物更新の状況の中で、生きている人も、死んでいた人も、すべての人が神の御前に現われて、そこに立たされる。
 神は義なる御言葉をもって弁論をなし、彼らに対して正しいさばき──裁判をなされる。それは大岡越前の裁きよりも、ソロモンの裁きよりも、はるかに優れ、はるかに義なる、また公平な、正しいさばきである。
 すべての人はその前にひれ伏し、各自が、自分にふさわしい報いを受けるであろう。
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18日 旧約・ホセア書五章
 「祭司たちよ。これを聞け。イスラエルの家よ。心せよ。王の家よ。耳を傾けよ。あなたがたにさばきが下る」(一)。
 この「イスラエルの家」とは、北王国イスラエルのことである。それはまた「エフライム」とも呼ばれているが、エフライムは北王国イスラエルの十部族の代表部族だったからである。
 彼らには、今や神の裁きが下ろうとしていた。彼らの国はアッシリヤ帝国によって滅ぼされ、アッシリヤに連れ去られるのである。
 預言者ホセアは、彼らにさばきのメッセージを具体的に語る。そのメッセージの大半は断罪の言葉であるが、最初から最後まで憐れみがないわけではない。本章の最後には、
 「彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう」
 と言われている。さばきは、決して永遠のものではない。それは「彼らが自分の罪を認め、神の御顔を慕い求めるまで」である。
 彼らが悔い改め、神を熱心に慕い求めるとき、さばきは終わる。さばきの中にも、つねに神の憐れみがある。
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19日 新約・Tヨハネ三章
 
「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(一六)。
 「いのちを捨てる」とは、文字通り、愛のために命を捨てて死ぬこともあるであろうが、広くは、人生を愛のために捧げることである。
 神への愛と人への愛のために自分の人生を捧げるならば、その人はすでにこの御言葉の述べていることを実践しているのである。
 愛のために生きるというと、ある人たちからは偽善者と言われはしないだろうか、と心配するかも知れない。しかし、人々が何と思うかではなく、神の御言葉を実践することの方が何よりも大切である。
 また、はじめは自分自身の内にも葛藤が起きるかも知れない。「今まで罪深い生活をしてきた私が、愛のために生きるといっても、それは表面的なものではないだろうか」といった思いである。しかし、二〇節には、
 「たとい自分の心が責めてもです」
 とある。はじめは葛藤があっても、行動をしていると、やがて自分の心も純粋になってくるのである。
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20日 旧約・ホセア書六章
 「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また包んで下さるからだ。主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは御前に生きるのだ」(一〜二)。
 預言者ホセアは、民に対し、神のさばきを語るだけではない。彼は「主に立ち返ろう」と呼びかける。
 神のさばきのメッセージには、常に悔改めと回復への期待が込められている。神のさばきは、いやすためである。神の懲らしめは、回復のためである。
 私たちが主に立ち返るなら、私たちは以前にもまして祝福の民となる。あなたが心を一新して主にますます深くつながるなら、あなたは以前にもまして祝福を受ける者となる。
 「主は二日の後、私たちを生き返らせ、三日目に私たちを立ち上がらせる。私たちは御前に生きるのだ」。
 神は、人を「二日」の間懲らしめに渡すことがあっても、「三日目」には復活させて下さる。イエス・キリストが三日目によみがえられたのも、このことのゆえなのかも知れない。あの出来事によって、私たちは御前に生きる者となったのである。
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21日 旧約・ホセア書七章
 
「エフライムは、国々の民の中に入り混じり、エフライムは生焼けのパン菓子となる」(八)。
 「生焼けのパン菓子」は、原語の直訳では「裏返さないパン菓子」であり、裏を返さず、表側しか焼けていないパン菓子のことである。
 エフライム、すなわち北王国イスラエルは当時、一方では神に仕えながら、他方では外国に頼るという中途半端な状態を続けていた。そうした状態をさして、片面しか焼けていない「生焼けのパン菓子」のようだ、と呼ばれたのである。
 私たちの心は、両側がちゃんと焼けているだろうか。一方では神に仕え、一方では罪に仕えていないか。
 もし一方が罪に仕えているなら、それは神の火によって焼かれなければならない。それは焼かれるときは、痛みを伴うであろうが、焼かれると香ばしいかおりを放つものとなる。
 私たちの敵は、自分の外にあるのではなく、むしろ内にある。私たちの内なる罪、不信仰、邪欲、無関心、利己心、愛のない冷たい心こそ私たちの本当の敵であり、焼かれなければならない。
 私たちは心を一つの思いに満たすことができれば、多くのことを成し遂げられるのである。
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22日 新約・使徒二八章
 
パウロは、ローマに入ってから、番兵つきで自分だけの家に住むことを許され、自費で借りた家に二年間住んだ(一六、三〇)。
 彼はこの二年間に、エペソ人への手紙、ピリピ人への手紙、コロサイ人への手紙、およびピレモンへの手紙を書いた。
 パウロは結局、有罪とされるような罪を見いだされず、またユダヤ人もそれ以上彼を訴えようとしなかったので、釈放されたのであろう。
 自由の身になったパウロは、牧会書簡に見られるような活動をしたと思われる。しかし数年後に再び逮捕され、ついに、あの悪名高いローマ皇帝ネロの迫害によって、殉教の死を遂げる。
 パウロは、多くの異邦人を主に導いた。彼はユダヤ人にも熱心に伝道したが、ユダヤ人の多くは、彼の伝道によってもなかなか信じようとはしなかった(二四)。
パウロのような大伝道者でも、苦手な相手はいたのである。しかし、彼は常に、主の忠実なしもべであり続けた。自分にゆだねられた務めに忠実で、熱心にそれを成し遂げた。
 私たちも、成否にかかわらず、ゆだねられた務めを忠実に行なうことが求められている。
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23日 旧約・ホセア書八章
 
神は、イスラエルの人々が偶像を作ったこと、そしてご自身以外の虚しい神々を拝んだことを、責めておられる。
 旧約聖書を見ると、このように偶像礼拝への嘆きが随所に見られる。しかし、こうしたことは旧約時代だけのことであろうか。
 今日は、旧約時代のようなバアル神崇拝も、アシェラ神崇拝も、モロク神崇拝も見られないと思うかも知れない。しかし、今日においては、偶像礼拝は新たな姿をもって人々を毒しているのである。
 利己主義、拝金主義、科学万能主義、そのほか自分さえ良ければよいというような考えや、目的のためには他人を徹底的に利用すればよいといった考え、これらはみな、新たな装いをもって現代人に巣くっている偶像礼拝ではないだろうか。
 偶像とは、単に目に見えるものだけではない。人生の王座に神以外のものを据えるなら、それは何であれ偶像なのである。
 私たちはこの現代において、目に見えない偶像に気をつけなければならない。私たちは神以外のものを拝んではならない。神以外のものを第一にしてはならない。
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24日 旧約・ホセア書九章
 「神は彼らを退ける。それは彼らが神に聞き従わなかったからだ。彼らは諸国の民のうちに、さすらい人となる」(一七)。
 もしイスラエルの民が神に聞き従わないならば、諸国の民の中に散らされ、さすらい人となる。これは、かつてモーセによっても預言されていた(申命二八・五八、六四)。
 それがホセアの時代に成就した。そして北王国イスラエルの一〇部族は、紀元前八世紀に祖国を追放されて以来、その大半が世界に離散したままである。
 南王国ユダのユダヤ人も、現在は祖国への帰還を果たしたとはいえ、紀元七〇年に祖国を追放されて以来、約一九〇〇年ものあいだ世界に離散していた。
 神の預言のスケールは、まことに大きい。その成就の範囲は、狭い時や場所に限られていない。何千年もの大きなスケールにさえ及ぶのである。
 私たちはここに、神に聞き従うことの大切さを学ぶ。神に聞き従うことこそ、信仰の本質である。
 信仰の中心は、服従にある。たとえ神への信頼があっても、服従がなければ、その信仰はむなしい。
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25日 新約・Tヨハネ四章
 
「愛のない者に神はわかりません。なぜなら神は愛だからです」(八)。
 「神は愛である」というこの言葉は、今では未信者の間でも広く知られるものとなった。ましてや、クリスチャンなら、知らない人はいないであろう。
 しかし、神が愛であると本当に知るのは、私たちの単なる知識上のことではない。私たちは、自分の人生をかけて──全人生をかけて、神が愛であると知るのである。
 単に、神が私たちを常に愛して下さっているということを、人生で感じとるというだけではない。私たちは神の愛の御教えに生き、神と人を愛して生きるとき、その愛の中に神を「見る」のである。
 私たちは愛に生きるとき、本当に神を知ることができる。神は肉眼には見えない方であるが、愛の中には見えるお方なのである。
 だから、私たちが愛を持たない限り、本当の意味では神を知ることができない。愛を持たなければ、神が御子を十字架におかけになったときの御心の痛みを知ることもできない。
 愛を持たなければ、神がこの世の罪人をどんな思いで見ておられるかも、知ることはできない。
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26日 旧約・ホセア書一〇章
 神は、イスラエルの民について、「彼らの心は二心だ」(二)と言っておられる。
 イスラエルの民の心は、一方では真の神に向かい、一方では偶像に向かっていた。偶像とは、人間の欲望を象徴化したものである。
 一方で彼らの心は真理に向かい、一方では欲望に向かっていた。これは、私たちの人生でも注意しなければならない。
 私たちは、一方では神を愛し人を愛し福音を愛すると言いながら、一方では自分の名誉に執着したり、金持ちの豪勢な生活をすることを夢見たり、欲望を満たす生活にあこがれたりしないように注意したい。
 もし私たちがそのような二心の者であるならば、神は決してご自身の仕事を私たちに託しては下さらないであろう。
 私たちが「古き人」に死に、キリストによる「新しき人」にどれだけ生きられるかによって、神のあなたを見る目が違ってくるのである。
 神は、あまねく世界を見渡し、ご自身と心を一つにする者を捜し求めておられる。私たちは自分の心を吟味しよう。そして、神の心を自分の心とすることのできるように祈ろう。
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27日 旧約・ホセア書一一章
 
「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしは憐れみで胸が熱くなっている」(八)。
 神は、罪人を罰せざるを得ないが、罰する場合でも、神の心は決して冷酷になっているのではない。神の御心は「沸き返り」、「憐れみで胸が熱くなっている」。
 これは神の痛みである。罪人を罰しなければならない時、神は心に激しい痛みを覚えられる。それは、はらわた痛む思い、断腸の思いである。
 私たちがホセア書を通して読むのは、神の嘆きと痛みである。イスラエルの罪を見て、神は嘆き、それを多くの言葉をもって言い表しておられる。
 神は、そのときのご自身の心の痛み、断腸の思いを言い表し、真情を吐露しておられる。
 多くの人は、さばきの神を冷酷なおかたと誤解している。しかしそうではない。さばきにおける神の痛みの中にこそ、神の深い愛があらわされている。
 ある人は、神のさばきと神の愛がどうして、おひとりの神において存在し得るのか、と思うかも知れない。しかし、私たちは神のさばきにおいてさえ、神の深い愛を見いだすことができるのである。
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28日 新約・Tヨハネ五章
 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いて下さるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」(一四)。
 私たちは神に願いの祈りをするとき、その祈りをする前に、または、した後でも、その願いが神のみこころにかなう願いであったか否かを、吟味する必要がある。
 神のみこころを私たちに教えてくれるものは、三つある。聖書と摂理と聖霊である。
 私たちは聖書の御言葉に照らし合わせて、あるいは神のみこころを示す摂理があったか否かを思いめぐらし、あるいは聖霊の導きや平安、確信が心に与えられているか否かを吟味するのである。
 それらをよく考えて、それが神のみこころだと確信できるなら、あなたは大胆に求めてよい。神はあなたの願いを待っておられる。
 しかし、それらを調べても、もし神のみこころか否か定かにはわからないような場合も、あるかも知れない。そのような場合は、「主よ、もしあなたのみこころならば」と、つけ加えて祈るのである。
 私たちはどんな願いをする場合であっても、神のみこころが成ることを第一に願うからである。
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29日 旧約・ホセア書一二章
 
「あなたはあなたの神に立ち返り、誠実と公義とを守り、絶えずあなたの神を待ち望め」(六)。
 これは、ホセア書のメッセージの中心聖句の一つである。
 結局、神に立ち返り、御教えにある誠実と公義を守り、絶えず神を待ち望むことこそが、祝福と恵みの道なのである。
 しかしさらに、「あなたの神に立ち返り」「あなたの神を待ち望め」と言われていることに注意しよう。
 神は「あなたの神」である。これを認識することこそ、あなたが本当に神につながることではないだろうか。
 あなたは、神を「あなたの神」と認識しているか。
 神は万民の神であり、全世界の神であり、クリスチャンの神でもあられるが、「あなたの神」でもあられる。
 アブラハム、イサク、ヤコブと共におられた神は、あなたとも共におられる。モーセと共におり、ヨシュアと共におり、パウロやペテロと共におられた神は、あなたとも共におられる。
 神はあなたの父であり、あなたの主であり、あなたの神であられる。
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30日 旧約・ホセア一三章
 
「彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」(六)。
 人間にとって、最も恐ろしいのは、物質的に満たされた何不自由ない生活に入ったときである。欲しいものが何でも手に入るという生活になったとき、人の心はとかく高ぶり、神を忘れる。
 物質的、経済的に豊かな生活は、人をダメにすることが多い。とりわけ、若い頃にそれを経験してしまうと、誘惑に打ち勝つのはきわめて困難であろう。
 「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Tヨハ二・一六)などが人の心を占めるとき、もはやそこには神の居場所がない。
 私たちの心は、神に明け渡されているだろうか。私たちは神を忘れてはいないか。つねに神を第一にしているか。
 物質的、経済的に満たされること自体が悪いというのではない。
 物質的、経済的に豊かになればなるほど、主の御教えに従い、私たちはぜいたくを避け、自分の持っているものの中から、援助を必要としているところに惜しみなく与えることをしよう。
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