創造論(科学的創造論) 創造科学

宇宙の創造

宇宙は偶然に生まれたものか。それとも創造されたものか。

宇宙を創造されたかた

 万有引力の法則の発見で有名な、イギリスの大科学者アイザック・ニュートンの逸話に、次のようなものがあります。
 ある時ニュートンは、腕ききの機械工に、太陽系の模型を作らせました。その模型は、歯車とベルトの働きで、各惑星が動く仕掛けになっている精巧なもので、ニュートンの部屋の大テーブルの上に置かれました。
 ある日、ニュートンがその部屋で読書をしていた時、ひとりの友人がやって来ました。彼は無神論者でしたが、科学者だったので、テーブルの上のものを見て、すぐそれが太陽系の模型であることを見てとりました。


太陽系の模型

 彼は模型に近づくと、模型についているクランク(手動用金具)を、ゆっくり回しました。すると、模型の各惑星が、様々な速度で太陽のまわりを回転するのでした。それを見た彼は、いかにも驚いた様子で、
 「うーむ。実に見事だ。誰が作ったんだい」
 と尋ねました。ニュートンは本から目を離さずに、
 「誰でもないさ」
 と答えました。
 「おいおい、君はぼくの質問がわからなかったしいな。ぼくは、誰がこれを作ったのかと聞いたんだよ」。
 するとニュートンは、本から顔を上げて、まじめくさった調子で、これは誰が作ったのでもない、いろいろな物が集まって、たまたまこんな形になったのだ、と言いました。しかし驚いた無神論者は、やや興奮した口調で、言い返しました。
 「ニュートン君、人をばかにしないでくれ。誰かが作ったのに決まってるじゃないか。これを作ったのは、なかなかの天才だよ。それは誰かと聞いているんだ」。
 ニュートンは本をかたわらに置き、椅子から立ち、友人の肩に手を置いて、言いました。
 「これは、壮大な太陽系を模して作った粗末な模型でしかない。太陽系を支配する驚くべき法則は、君も知っているはずだ。
 それを模して作ったこの単なるおもちゃが、設計者も製作者もなく、ひとりでに出来たと言っても、君は信じない。ところが君は、この元になった偉大な本物の太陽系が、設計者も製作者もなく出現したと言う。いったい何故、そんな不統一な結論になるのか説明してくれたまえ」。
 こうしてニュートンは、宇宙の背後に、知性を有する偉大な創造者がおられることを、友人に得心させたということです(『ミネソタ工芸より)。
 ニュートンは、その著書『プリンキピア』の中で、次のように書きました。
 「太陽、惑星、彗星から成る極めて美しい天体系は、知性を有する強力な実在者の意図と統御があって、初めて存在するようになったとしか言いようがない。・・・・至上の神は、永遠、無窮、全く完全なかたであられる」。
 彼は、宇宙は目に見えない偉大な神によって創造されたのであり、その統御によって存在しているのだと信じていました。彼は自分の科学研究について、
 「自分は、真理の大海の浜辺で戯れているのだ」
 と語りましたが、彼にとって科学研究とは、"神の真理"を追究することだったのです。
 また、相対性理論を生み出し、二〇世紀最大の科学者と言われたアルバート・アインシュタイン博士も、
 「私は、神の天地創造の"足跡"を探していく人間である」
 と語ったと伝えられます。彼にとっても、宇宙について、また自然界について研究することは、「神」をより深く知ろうとする心の現われでした。
 その他、偉大な科学者のなかには、創造者なる神を信じていた人々がたくさんいます。ケプラー、コペルニクス、ガリレイ、ファラデー、ケルビン、マクスウェル、パスツール、リンネ、ファーブル、パスカル、ボイル、フレミング、ドーソン、ウイルヒョウ、コンプトン、ミリカン、プランクなどをはじめ、科学史上に名だたる人々の多くが、創造者なる神を信じる科学者でした。
 彼らはみな、熱心な創造論者であり、創造者なる神の存在を信じていたのです。科学史上に残された彼らの偉大な業績は、「神が創造された世界について、もっとよく知りたい」という探究心から生まれ出たものだと、科学史家は述べています。


マイケル・ファラデー 彼は神の創造についての知識は万人が享受すべきものだとの信念に基づいて、実験の一般公開を行なった。

宇宙には創造者の永遠の力と神性とが現れている

 野の風に揺れる花々や、高原に流れる小川を見て美しいと思い、夜空に輝く星を見上げたり、山頂から壮大な雲海のながめを見て、大自然の崇高さ、荘厳さに胸を打たれたことのある人は、おそらく少なくないでしょう。
 大自然は、「偉大」あるいは「崇高」または「荘厳」と感じさせる何かを、その奥にもっています。このことについて聖書は、次のように述べています。
 「神の目に見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物(造られたもの)において知られていて、明らかに認められる」(ロマ一・二〇)。
 大自然の持つ美しさ、偉大さ、崇高さは、その奥におられる創造者の美しさ、偉大さ、崇高さの現われである、というのです。自然界(被造物)には、神の永遠の力と神性が現われています。
 ですから、宇宙について深く研究しようとする科学者が、その研究を通して、神の存在についての確信を一層深めたとしても、不思議ではありません。
 宇宙は、きわめて美しく整った物理法則・化学法則のもとに、秩序正しく運行しています。宇宙の理を究めようとする者は、誰でもその美しさと荘厳さに、魅了されることでしょう。アインシュタイン博士は、
 「宇宙の法則は、数学的美しさをもっている」
 と語りました。また、イギリスの数学者で偉大な理論物理学者であるディラックは、『サイエンティフィック・アメリカン』誌の中に、
 「神は、非常に優れた数学者であられ、宇宙を造る際に、極めて高度な数学を用いた」
 と書いています。宇宙を秩序正しく支配している諸法則は、まことに荘厳なまでの美しさを持っています。宇宙の諸法則、またその素晴らしい秩序をお与えになったのは、実に宇宙の創造者なる神です。一九二七年にノーベル賞を受けたアメリカの科学者アーサー・ホリー・コンプトンの言っているように、
 「秩序正しく広がっている宇宙は、『はじめに神が天と地とを創造した』(創世記一・一)という、最も荘厳な言葉の真実さを証明するもの」


大自然には神の永遠の力と神性とが現われている

 なのです。神の存在とそのご性質は、被造物である自然を通して、明らかに認められます。神が存在することは、宇宙が存在しているのと同じくらい、いや、それ以上に明らかなことです。宇宙の背後には、宇宙の設計者であり、創造者であり、維持者であるかたがおられるのです。
 電気素量や宇宙線の研究に貢献して、ノーベル賞を受けた物理学者ロバート・A・ミリカンは、一九四八年のアメリカ物理学協会の集会で、確信をもって、宇宙の背後に存在する超越者を「偉大な建築者」と呼びました。そして、
 「純粋な唯物論は、私にとっては最も考えにくいものだ」
 と語りました。また、ドイツの偉大な科学者マックス・プランクは、こう述べています。
 「理知ある至高の創造者の存在を仮定せずに、宇宙の成り立ちを説明することは、不可能である」。
 このように、一流の科学者の中には、神を信じる人々が、少なくありません。しかも今日、科学者のなかで神を信じる人々の割合は、決して減少傾向にはなく、むしろ増加傾向にあるようです。
 アメリカでなされたあるアンケート結果によると、第二次大戦以前、創造者としての神の存在を信じる科学者の割合は、三五%だったのに対し、最近では六〇%に達しているとのことです。こうしたことを考えてみると、
 「科学的知識の豊かな者は、聖書を信じたり、クリスチャンになったりすることはあり得ない」
 という考えは、少なくともばかげています。むしろ、科学的知識が豊富になることがかえって、宇宙の創造者を信じることを助けた、という場合の方が多いのです。
 「神などいない」
 という人の場合、それは深い知識によるのではないことが、しばしばです。聖書は言っています。
 「愚か者は心の中で『神はいない』と言っている」(詩篇一四・一)。
 創造者なる神を信じることは、非科学的なことでも非常識なことでもなく、むしろ、きわめて理にかなったことであり、また人間として非常に自然なことなのです。じつに宇宙は、「無」から「有」を生じさせる力を持つ全能の神により、その遠大なご計画のもとに創造されたと信じられます。


宇宙は"無"から誕生した

 しかし宇宙の起源について、
 「最近の科学では、宇宙は『ビッグ・バン』と呼ばれる大爆発によって始まった、と言われているではないか」
 と問う人もいるでしょう。
 私たちは、この「ビッグ・バン」説について、どのように考えるべきでしょうか。それははたして、"神による宇宙の創造"という考えを否定するものでしょうか。
 この説は、宇宙は最初「ビッグ・バン」と呼ばれる大爆発とともに始まり、現在も宇宙は膨張しつつあるという説です。この「ビッグ・バン」説には、いくつかの興味深い点があります。
 かつては、宇宙は膨張も収縮もなく、始まりも終わりもないとする「定常宇宙説」が支配的でした。仏教思想なども、宇宙は「無始無終」であるとしています。
 しかし「ビッグ・バン説」は、その考えを否定し、宇宙には明らかに「始まり」があったことを証拠づけました。原因はわからないが、宇宙は突如として、爆発的に始まったとしているのです。そういう意味では「ビッグ・バン説」は、宇宙の「創造」という考えに近いものを持っています。


 ビッグバン説には興味深い点がある。宇宙には始まりがあったとしていること、また宇宙は「(量子論的)無から誕生した」としている点だ

 しかも、初期の「ビッグ・バン」説においては、最初に大爆発のもととなった"非常に密につまった物質"が存在した、と考えられていましたが、最近では、宇宙の初めはそのような密な物質のかたまりではなく、むしろ"無"から宇宙が誕生したという考えに、取って替わられるようになっています。
 この"無"とは、量子論(物理学の一分野)でいう"無"で、米国マサチューセッツ州タフツ大学のアレキサンダー・ビレンキン博士は、このことについて、
 「宇宙は、量子論的自由をもつ"無"から誕生した」(『ニュートン』一九八六年四月号四二頁)
 という内容のことを述べています。また『サイエンティフィック・アメリカン』誌の一九八四年五月号には、
 「この考えによれば、宇宙は、量子力学的真空中のゆらぎによって、存在するようになったのである」(『サイエンティフィック・アメリカン』一九八四年五月号一二八頁)
 と述べられています。この「量子論的自由をもつ"無"」とか、「量子力学的真空中のゆらぎ」とかいう言葉は、量子論の知識がないと理解が困難ですが、いずれにしても開闢時の宇宙は、物質の状態ではなかったと考えられているわけです。
 このように宇宙が、"無"あるいは "真空"から誕生したと考えられるようになってきていることは、じつに興味深いことです。聖書によれば宇宙は、神が「無から有を呼び出され」(ロマ四・一七)たことによって、存在するようになったものです。聖書は言っています。
 「目を高く上げて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。主は、数をしらべて万軍(天体、星のこと)をひきいだし、おのおのをその名で呼ばれる。その勢いの大いなるにより、またその力の強きがゆえに、一つも欠けることはない」(イザ四〇・二六)。
 ここに、地球を含めて宇宙にあるすべての天体は、神が無からひき出されてお造りになったものであることが、述べられています。これは、無から有への創造です。
 この句の中に、「その勢いの大いなるにより」とありますが、ある聖書訳は「勢い」という言葉を、「エネルギー」と訳しています。これは面白い訳です。
 実際、現代の科学者は、アインシュタインの関係式(E=mc2)に従い、物質をエネルギーに変えることができるのと同様に、エネルギーを物質に変えることもできると、考えています。
 したがって、もし神が「エネルギー」に富むかたであるならば、宇宙にあるすべての物質が神によって造り出された、と考えることは理にかなったことだと言えるでしょう。宇宙を存在に呼び出されたのは、神なのです。
 このようにビッグ・バン説は、宇宙が"無"から爆発的に始まったとしている点で、聖書の記述に近いものです。したがって、"神による宇宙の創造"という考えを否定するものではありません。
 ある人は、
 「けれども、聖書は宇宙は"爆発"によって始まったとは言っていない。爆発は破壊をもたらすもので、創造はしない」
 と言うかもしれません。しかし、ビッグ・バン説でいう"爆発"とはそのようなものではないのです。
 私たちは「爆発」というと、とかくダイナマイトなどの爆発を思い起こしてしまいます。これは"空間の中での爆発"です。これに対し宇宙の爆発的誕生とは、空間・時間・物質の連続体である宇宙全体の急激な誕生、ということなのです。
 何かの"中での"爆発ではなく、空間自体が急激に膨張し、物質界が爆発的に現われたのです。それはダイナマイトなどの爆発とは、根本的に異なっています。頭の中で想像しようと思っても、ちょっと苦労してしまうような"爆発"なのです。
 ダイナマイト等の爆発は、単に破壊をもたらすもので、無秩序をもたらし、創造することはありません。しかし、"宇宙の爆発的誕生"というのは、そうした爆発とは関係がありません。
 宇宙は"爆発によって誕生"したのではなく、"爆発的な勢いで誕生した"というのがビッグバン宇宙論の考え方です。空間・時間・物質が、無から急激に現われ、膨張し、展開して形を整えたのです。聖書にも、
 「天を造り出し、これを引き延べられた神なる主」(イザ四二・五)
 と記されています。宇宙は「引き延べられた」――宇宙は爆発的に膨張するかたちで、大きな広がりを持つように至ったと、聖書も述べていると見受けられるのです。
 誤解しないで欲しいのですが、私は現在のビッグ・バン説が完全に正しいとか、聖書と全く同じだとか述べているのではありません。私が述べているのは、ビッグ・バン説は決して聖書の記述を否定するようなものではない、ということです。
 さらに、もう一つ興味深いことに、"無からの創造"ということを真に述べている宗教書は、じつは『聖書』だけです。
 世界には多くの天地創造神話がありますが、それらの神話においてはみな、"天地創造" 以前に、すでに"それに先立つ物質"が存在しました。
 たとえば、吉田敦彦著『天地創造の神話の謎』(大和書房)によれば、世界には、宇宙卵型神話(巨大な卵が割れて、そこから宇宙が生まれ出た)、潜水型神話(原初の海から、水鳥が神に命じられて海底の土をとってきて、それが陸地になった)、島海型神話(日本神話が一例)、世界巨人型神話(殺された巨人の身体の各部から世界が造られた)などの天地創造神話があります。
 ここですぐ気がつくことは、これらの神話はみな、"天地創造"に先立つ物質存在を認めていることです。意地悪く言及すれば、
 「では、その先立つ物質は、どのようにして存在するようになったのか」
 と問うところですが、古代の人間はおおらかだったのか、そこまでは問い詰めなかったようです。しかし聖書は、
 「はじめに神は天と地とを創造された」(創世一・一)
 と述べ、天地創造が最初であることを示し、それに先立つ物質存在を語りません。聖書のみが、世界は「無から有を呼び出される神」(ロマ四・一七)によって存在に呼び出された、と語っているのです。


物質界が活性化された

 さて、神が無から有を生じさせ、宇宙の創造を開始されたとき、神はどのようにして物質界や、そこに働く諸力を整えていかれたのでしょう。
 聖書の創世記一・二には、宇宙および地球が造られていく過程において、「神の霊」がその上を「動いていた」、と記されています。これは、当初混沌としていた宇宙および地球が活性化され、高度な秩序形態をもっていくために、目に見えない実体が関与していたことを示す聖書的表現です。
 聖書において、「神の霊」という言葉が持っている一つの意味は、"力の源泉"です。神の霊は力の源泉であり、すべての種類のエネルギーは、ここから発せられます。そして「神の霊」は、宇宙および地球において、その上を「動いて」いました。
 「動く」と訳されたこの言葉は、原語では、めんどりなどがその羽を「舞いかける」、というような時に使う言葉です(新改訳欄外注参照)。ちょうど、めんどりが卵の上で羽を舞いかけ、自らの体温による熱を与えて、孵化を待つように、「神の霊」は物質界を活性化し、整えていったのでしょう。
 アメリカのICR(創造調査研究所)理事長へンリー・M・モリス博士は、こう述べています。
 「『動く』(舞いかける)という言葉は、宇宙に働くエネルギー伝達は、波の形(光波、熱波、音波等)でなされることと関係があります。事実、(核力は別として)物質に働く基本的力の型は二つだけで、重力と電磁力です。これらはすべて『場』と関係し、波動で伝達するのです」(『マハナイム』一一号二頁)。
 神は、エネルギーを「舞いかけ」、言わば波立たせることによって、物質界に働く様々な力を、整えていかれたのでしょう。こうして存在に呼び出され、さらに活性化された世界は、創造「第七日」に、ついに完成しました。
 「神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた」。
 さらに、
 「第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた」(創世二・二)
 と記されています。万物の完成後、神はそれまでなさっていた創造のわざから手を引かれ、物理的・化学的法則を固定し、宇宙の運行をそれらの法則におまかせになりました。
 ですから、それまでは宇宙にエネルギーを供給しつつ、創造のわざを展開してこられたわけですが、わざの「完成を告げられ」て以後は、もはや新しくエネルギーを宇宙に供給することはなさっていない、と考えられます。
 したがって、物理学で宇宙を支配する最も基本的な法則として知られている「エネルギー保存の法則」は、当然、ここから期待される法則です。
 この法則によれば、エネルギー(質量も含めて)は形態を変えるだけで、新しく造り出すことや、滅ぼすことはできません。何かの物理的・化学的変化が起こっても、そこにあるエネルギーの総和は、常に一定です。
 したがって「エネルギー保存の法則」によれば、宇宙のもつ全エネルギーは一定で、ある特定の値をもっているはずです。「エネルギー保存の法則」は、神が創造のわざの「完成を告げられ」、すべてのわざを「休まれた」という記述から、当然期待される法則と言ってよいでしょう。


太陽より先に光が出来た!?

 生命が営まれる環境において、「光」がもっている役割がいかに重要であるかは、よく知られています。「光」なくしては、植物も動物も人間も、生息することはできません。地球に生命が生まれることができたのは、太陽が豊かに光を注いでいてくれたからです。
 聖書の創世記一章に記されている宇宙創造の記述の中で、一見奇妙に思えるものとして、"太陽より先に光が造られた"ということがあります。
 創世記の記述によると、創造第一日に光が創造され、すでに地球には「昼」と「夜」がありました。しかし太陽自体は、第四日に造られているのです。これを「矛盾だ」と考える人は、次のように言います。
 「太陽という"光源"がまだなかったのに、どうして光が輝くことができるだろうか」。
 しかし、光が先に創造され、後に太陽が形成されたという記述は、次のようなことを考えれば、とりたてて奇妙なことではありません。まず現代の科学者は、太陽の起源についてどう考えているか、調べてみましょう。
 現在、科学的な研究によって、宇宙にある物質のうち最も多い元素は、水素であると言われています。水素原子は、一つの陽子と、一つの電子からなるもので、元素の中で最も簡単な構造をもっています。
 次に多いのが、ヘリウム(水素の次に単純な構造をもつ)で、水素とへリウムをあわせると、宇宙の全物質の九八%にもなります。他の元素は、全部あわせても二%程度にすぎません。宇宙にある物質の大半は、水素とへリウムだと考えられているわけです。
 これは、星からの光の「スペクトル」を調べることなどによって、わかったものです。元素は、それぞれ固有の「スペクトル」をもっているので、星からの光のスペクトルを調べることによって、その星がどのような元素からなっているかが、わかるわけです。


星からのスペクトルを調べることによってその星の構成物質がわかる。

 一般に太陽の起源は、水素や、またいくらかの他の元素が、自分の重力で互いを引き寄せて「ガス雲」を形成したことに始まった、と考えられています。物質の原子や分子が互いに寄り集まって、ぼんやりと集合体を形成し、「ガス雲」となっていったのです。
 東大の小尾信弥博士によれば、このガス雲は自分の重力のために、さらにある程度収縮したとき、爆発的に明るく輝きだしたとしています。博士は述べています。
 「密度も温度も低い(ガス雲の)外層部は、超音速度で中心に向かって落ちこんできて、すでに収縮が止まっている密度の大きな中心部分とはげしく衝突し、そのため生じたショックの波が、一気にガス雲の表面まで伝わることになる。
 ショック波の通過によって、ガス雲の物質は熱せられ、表面さえ四千度近くまで熱くなり、このためガス雲は急に明るく輝き出す。そのときのガス雲の大きさは、現在の水星の軌道よりも大きく……」(『太陽系の科学』二三頁)
 こうして、充分に高い温度になると、ガス雲は「急に明るく輝き出」しました。その明るさは、非常に明るいものでした。しかしその時のガス雲の大きさは、現在の太陽と比べて、はるかに大きくあり、またこの段階では、まだ水素の「核融合反応」は、行なわれていませんでした。


現在の太陽ができるより先に、光が創造された

 現在の太陽は、核融合によってエネルギーを得ているわけですから、そのような意味では、光り輝くこのガス雲は、現在の太陽とは異なったものだったと言えます。それは言わば、現在の太陽の"前段階のもの"だったのです。
 そしてこのガス雲は、太陽の歴史の長さに比べると非常に短い期間のうちにさらに収縮して、現在の太陽のような大きさにまでなった、とされています。そうなると、中心部は核融合反応がおこるのに充分な温度にまで、高められることになります。小尾博士は述べています。
 「この収縮により、中心部はさらに熱くなり、ついに一千万度を越えるようになると、いわゆる水素の熱(核)融合反応が始まる・・・・太陽が誕生したのである」(同二三頁)。
 以後、太陽は核融合のエネルギーによって、輝き続けるようになります。そしてその安定した光は、今に至るまで、私たちを照らし続けてくれているのです。このように、核融合によって絶えず輝き続けるエネルギーが与えられた時、太陽が真に誕生したと言ってよいでしょう。
 神が光を創造し、後に太陽が形成されたときのことが、実際にこのようなものであったかどうかは、確証できませんが、このことは一つの有益な示唆となるでしょう。
 聖書によれば、天地創造の第一日目に、地球は「形なく、むなしい」状態であったとされているので、太陽もまだそのときは「形なく、むなしい」物質の集合体にすぎなかった、と思われます。
 それは現在の太陽のような形態になる前の段階のもので、水素などの原子からなるガス雲だったと考えられます。そしてもし神が、そのガス雲を充分な温度にまで高めたとすれば、ガス雲は明るく輝き出し、地上に光を供給し、すでに自転を始めていた地球に、「夕」と「朝」をつくったでしょう。これが「創造第一日」のことと思われます。
 そして「第四日」に、ガス雲は現在の太陽の大きさにまで収縮し、核融合により、長い時代にわたって輝き続けることのできる天体となった、と考えることは、一つの可能な理解です。
 (創造第一日目の「光」を、ビッグ・バン理論における"ビッグ・バン直後に宇宙全体を満たした光"と考える解釈もありますが、それは無理でしょう。なぜなら、聖書によれば創造第一日の「光」は、そのときすでに自転している地球に「夕」と「朝」をつくりました。したがってこの「光」は、太陽系の中心から来た光であって、宇宙全体を満たした光ではありません。)
 実際、「神が天と地を創造した」(創世一・一)の「創造した」と、「神は二つの大きな光る物(太陽と月)を造られた」(創世一・一六)の「造られた」は、原語では別の言葉です。
 「創造した」(創世一・一)は、ヘブル原語ではバーラーで、この言葉は決して人のわざには用いられません。神のみわざにのみ用いられています。"無から有をつくり出す"というような、神による無からの創造の意味です。
 一方、「(太陽や月を)造られた」(創世一・一六)の原語はアーサーで、聖書中、神のみわざと人のわざのどちらにも用いられています。この言葉は、無から有への創造を意味することもありますが、おもには"有から有を造る"という意味で使われます。
 たとえば、麦粉をこねてパンを「つくる」(創世一八・六)というようなときに、この言葉が使われています。何かの材料を用いて物を造る、というような場合に使われるのが、この言葉の一般的な用法なのです。
 したがって、創造第四日に太陽が「造られた」という言葉は、"無から有を創造された"というよりも、むしろ"有から有を造られた"の意味と思われます。すでに存在していた材料を用いて、太陽が造られたのです。
 太陽は、決して「第四日」に"無"の中から突然現われたのではなく、太陽のもととなった物質、あるいは原型は、すでに宇宙空間に存在していました。そして「第一日」の「光あれ」(創世一・三)の言葉とともに、それは光り出すようになり、「第四日」になって、神はそれを現在の形態の太陽に形成されたのでしょう。
 こうして、地球が生命の営まれる環境になるために最も重要な役割をはたす太陽が、誕生しました。以来、地球は太陽系の一員として、太陽から豊かな恵みを受けて、今日に至っているのです。


地球磁場は有害な太陽風から私たちを守っている

 太陽は、私たちの地球にサンサンと光を注ぎ、地球を明るく照らしてくれています。地球上の生命にとって、太陽の光は欠かせません。しかし太陽からやって来るのは、そうした有益な光線だけではありません。有害なものも、やって来ます。
 その一つに「太陽風」と呼ばれるものがあります。これは「風」と言っても、空気の風ではなく、放射能をもった危険な微粒子の高速の風です。
 ですから、例えばアメリカのアポロ宇宙船の飛行士たちが月で活動していた時、太陽風が強くなることがないか心配して、その最中ずっと、太陽の観測が注意深くなされていました。太陽表面で「フレア」と呼ばれる爆発が起きたりすると、太陽風は異常に強く吹き出し、強い放射線のために、宇宙服を着ていても生命の危険があるからです。
 このように恐ろしい太陽風が、もろに地球表面に吹きつけてくるとすれば、地球上では、とても生命は住めません。
 ところが幸いなことに、地球の磁場や大気が、それを防いでいます。誰でも知っているように、地球は一つの巨大な磁石になっています。現在の最も有力な説によれば、地球が磁場をもっているのは、地球の内部に一種の巨大な電磁石ができているからだと、考えられています。
 地球の内部の「核」では、高温のために鉄が溶けています。鉄は電気を通しやすいので、地球の自転に伴ってグルグル回ることによって、一種の"発電機"のようになっているのです。
 電気が流れれば、そこに磁場ができます。つまり地球内部で電流が発生しているので、地球は磁石となり、地球のまわりに磁場ができているのです。
 この磁場が、太陽から飛んでくる危険な放射線粒子をつかまえ、閉じ込めてくれています。実際、地球のまわりには磁場によって捕えられた放射線粒子が、ドーナツ状になってウヨウヨしている所があります。そこは「バンアレン帯」と呼ばれていますが、危険なので宇宙船もそこを通るのを避けます。


地球磁場は、有害な太陽風の影響から地球を守っている

 このように地球磁場は、危険な放射線粒子から、地上の生命を保護する働きをしています。同様に大気も、粒子をつかまえて、地上に届かないようにしています。
 聖書によると、創造第一日にすでに地球上では、「タとなり、また朝となった」と記されていることからもわかるように、地球はすでにその頃から、自転していました。そしてその自転に伴って、地球内部には電流が発生し、地球磁場が造られたのです。
 このように、地球が生命の住める適切な場になるために、さまざまな配慮がなされていることがわかります。


地動説を確立したのはクリスチャンたちだった

 地球は、太陽系の一員として誕生しました。
 地球は、太陽から一・五億キロほど離れたところを回る一惑星であり、体積にすれば太陽の一三〇万分の一の大きさしかない、小さな星です。
 中世において、この太陽と地球の関係について、「天動説」と「地動説」という二つの説の対立があったことは、よく知られています。「天動説」とは、地球のまわりを太陽が回っているとする説であり、「地動説」は、太陽のまわりを地球が回っているとする説です。
 このことについて、聖書が天動説を唱えていると、誤って理解している人は少なくないようです。しかし聖書は実際のところ、天動説を唱えてはいません。キリスト教に反対する人々は、
 「聖書は天動説を唱えている。だから一七世紀の大科学者ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたとき、教会は彼に反対した。しかし、のちに地動説が正しいことが明らかになった。これは宗教に対する科学の勝利であった」
 といいます。しかし実際は、天動説と地動説の対立は、決して"宗教 対 科学"というような構図ではありませんでした。
 なぜなら天動説は、中世においては正統的と見られていた、立派な"科学"だったからです。天動説は、二世紀のエジプトの大天文学者プトレマイオス(英語ではトレミー)が唱えて以来、約一四〇〇年にわたって、人々の"科学的常識"となっていたのです。
 プトレマイオスは、「二均差」(月の運動の不規則性)や「大気差」(大気による光の屈折作用)を発見した大科学者です。彼は、宇宙は地球を中心に回っているという考えに立って、夜空に見える星の動き方を詳細に説明しました。
 彼の天動説は、非常に高度な数学と、「偏心円」や「周天円」といった科学的概念を用いて星の動きを細かく説明した、非常に精巧な科学理論であったのです。
 この科学理論は、非常に長いあいだ人々の間に権威を持ちました。中世のカトリック教会も、この説を鵜呑みにしていたのです。
 しかし、やがてこの科学上の学説に異議を唱える人々が現われました。一六世紀になって、コペルニクスが天動説に反対し、地動説を唱えました。
 では、コペルニクスは無神論者だったでしょうか。いいえ、彼はクリスチャンでした。コペルニクスは、教会の司教だったのです。プロテスタントで言えば、牧師のような人です。
 彼は牧会のかたわら、天文学の研究をなし、地球が太陽のまわりをまわっているという考えに立って、惑星の運行を説明しました。
 コペルニクスは、プトレマイオスの天動説が非常に込み入った複雑な理論であり、それでも天体の動きを完全に説明できるものではないことに着目しました。コペルニクスにとっては、
 「すべてを完全になしうる神が、そんな不細工な宇宙をつくるなどとは考えられなかった」(バターフィールド、ブラッグ他著『近代科学の歩み』二九頁)
 のです。
 つぎに、一七世紀になって、ガリレオ・ガリレイが、コペルニクスの地動説を引き継いで唱えました。
 では、ガリレイは無神論者だったでしょうか。いいえ、彼はクリスチャンでした。彼は、
 「私に顕微鏡を与えよ。そうすれば無神論を破ってみせよう
 と言ったほどの有神論者でした。ガリレイはさらに、自分の地動説が聖書に矛盾しないことを説明する二通の手紙を、大公妃クリスティナと友人力ステリに宛てて、書き送っています。


ガリレイ(1564-1642)――自分の地動説が聖書に矛盾しないことを説明する手紙を、大公妃クリスティナと友人力ステリに宛てて書き送った

 コペルニクスやガリレイにとって、地動説は、宇宙を創造された神に対する信仰と、熱心な科学的研究から来る当然の帰結だったのです。
 確かに創世記一章の記事を読むと、おもに地球について記されているので、宇宙は地球中心であるように記されているという印象を、得ないこともありません。けれども、これは地球に立った見地から物事を観て、記述がなされているからです。私たちも日常生活の中で、
 「太陽が東から昇り、西に沈んだ」
 というような表現をします。これは、ある意味では地球中心の表現です。では私たちは、地球のまわりを太陽が回っていると本当に考えているかというと、そんなことはありません。やはり、地球が太陽のまわりを回っているのです。
 しかしそれでも、このような表現を私たちが使うのは、私たちの眼が地球に置かれ、その見地から物事が表現されるからです。ですから、厳密な科学的・客観的表現を使うべき場合は別として、私たちの生活の中では「太陽が東から昇り、西に沈んだ」というような、地球に眼を置いた表現で良いわけです。聖書にも、
 「日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように」(詩篇一一三・三)
 というような表現がありますが、こうした表現や、創世記一章の叙述の仕方も、同じように私たちの見地や生活の座が、地球にあるからにほかなりません。聖書の中には、"地球が止まっていて、そのまわりを太陽がまわっている"と主張する天動説的な言葉は、どこにもないのです。
 ガリレイもコペルニクスも、地球は太陽系の中心ではなく、その一員に過ぎないと考えることに抵抗は覚えませんでした。彼らは聖書にしたがって、宇宙は人間中心には造られておらず、神中心であるという思想をもっていました。
 そのため彼らは、地球が宇宙あるいは太陽系の中心でなければならないとする考えは、持っていなかったのです。地球が太陽のまわりを回る一惑星であるという考えは、彼らにとって受け入れやすい自然な考えでした。
 ドイツの大天文学者ケプラーは、あの有名な惑星公転の法則を発見した時、創造者の偉大さに触れた思いがして、感きわまり、ひざまずいて神を讃えたと伝えられます。地動説は、コペルニクスや、ガリレイ、ケプラーといった、クリスチャンたちの手によって確立されたのです。
 このように天動説対地動説の対立は、決して、宗教対科学の対立ではありませんでした。天動説が「宗教」で地動説が「科学」、といった構図ではなかったのです。
 天動説は宗教ではなく、当時「正統的」とみられていた"科学"でした。一方、地動説をつくったのは、クリスチャンの科学者たちでした。
 つまり、天動説対地動説の対立は、基本的に"古い科学 対 新しい科学"の戦いでした。そして"新しい科学"をつくったのは、聖書を信じるクリスチャンたちだったのです。


地球は宇宙の中で特別な星

 地球は、全宇宙の中で、どのような星なのでしょうか。
 それを考えるために、地球が属する太陽系の中心である太陽が、どんな星かということを、まず考えてみましょう。
 太陽は、体積で言えば地球の一三〇万倍もある巨大な星です。しかしその太陽も、この広大な宇宙に散在する多くの星と比べると、いったいどうなのでしょうか。
 太陽は、現在科学的な研究により、宇宙の中では大体「中くらい」の大きさと明るさを持つ星であると言われています。
 太陽は、太陽系外の星と比べると地球に近い所にあるので、地球から見ると大きく見えますが、実際は、宇宙において大体"中程度"の星の一つなのです。太陽は、夜空に輝く星(恒星)と同等の星です。
 ですから逆に言えば、私たちが夜空に見ることのできる星のほとんどは、言わば太陽のような星なのです。天体物理学者・畑中武夫博士は、こう述べています。
 「夜空に輝く星は、ごく少数の惑星を除けば、すべて太陽と同等な巨大なガスの塊である」(『宇宙と星』四五頁)。
 太陽は、そのほとんどが水素とへリウムからなるガスの塊ですが、夜空に見える星も、(ごく少数の太陽系惑星を除けば)すべてガスの塊であり、やはり太陽と同じく、水素やへリウムなどの軽い元素で出来ています。
 つまり、私たちの太陽系の中心にある太陽も、太陽系外の星も、基本的には全く同じものなのです。
 そう考えると、"太陽と星々が同じ日に造られた"という聖書・創世記一章の記述は、きわめて納得のいくものであることがわかります。創世記によれば太陽も星々も、同じく、創造「第四日」に造られているのです(創世一・一六)。
 多くの古代文明では、太陽は星とは違うものとみなされ、特別視されてきました。「太陽信仰」なども、そうしたところから生まれたものです。
 しかし聖書は、太陽を決して特別視せず、ましてや太陽信仰もしませんでした。むしろ、太陽と星々を同等のものとみなし、両者は同じ日に造られたとしているのです。
 太陽も星々も、同じく巨大なガスの塊に過ぎません。
 一方、地球には多くの、重く複雑な元素が存在し、多様な分子化合物が存在します。このような星は、じつは宇宙でも稀少なものなのです。英国ケンブリッジ大学のフレッド・ホイル教授は、こう述べています。
 「水素とへリウム(最も軽い元素)は別として、他のあらゆる元素は、宇宙ではきわめてまれなものである。太陽の場合、重い元素は、全質量の約一%にしかならない。
 星間ガスや、たいていの星は、太陽と同じような物質からなるもので、地球とは似ていない。宇宙論的に言えば、あなたが今いる部屋の材料は、非常に特別であることを理解しなくてはならない。あなた自身、まれな存在なのである」("Harpers Magazine" 一九五一年四月号六四頁)。
 地球はまた、美しさという点でも、格別です。宇宙飛行士に言わせると、宇宙から見た地球は、写真では到底わからないような美しさをもっているとのことです。月に二度行ったことのあるアメリカの宇宙飛行士ジーン・サーナンは、次のように語りました。
 「宇宙から地球を見る時、そのあまりの美しさに心をうたれる。こんな美しいものが、偶然の産物として生まれるはずがない。ある日ある時、偶然ぶつかった素粒子と素粒子が結合して、偶然こういうものができたなどということは、絶対に信じられない。
 地球はそれほど美しい。何らの目的なしに、何らの意志なしに、偶然のみによってこれほど美しいものが形成される、ということはありえない。そんなことは論理的にありえないということが、宇宙から地球を見たときに確信となる。
 この美しさを他の人に見せてやれず、自分だけが見ているということが、ひどく利己的行為のように思えたくらいだ」(立花隆著『宇宙からの帰還』二六五頁)。
 地球の美しさは、宇宙から地球をながめた人にとっては、非常に印象的なようです。地球がこれほど美しいのは、地球が生命の営まれる場所として、特別にデザインされたものだからでしょう。生物物理学者フランク・アレンは、次のように述べました。
 「生命維持に適した地球の状態を数えあげれば、その数はあまりにも多く、これを偶然の所産とすることはできない」。
 地球には、生命維持に適した状態が数多く備わっており、地球は生命、特に人間が生活する場所として、特別に設計されたものであると感じさせるに充分なものを、持っています。地球はまさに、宇宙飛行士たちが言ったように「宇宙のオアシス」なのです。


「銀河系の知的生命は地球人類だけだ」

 しかし、夜空に見える星がみな太陽と同じような灼熱のガス体で、生命の住めない星であるとはいえ、
 「この広い宇宙のどこかには、太陽系と同じような惑星系があって、地球と同じような星もあり、きっと生命が住んでいるに違いない」
 とは、よくなされる議論です。けれども最近では、
 「我々の銀河系には、地球上を除いて文明は存在しないのではないか」
 とする天文学者グループも現われ、話題になっています。たとえば、米国トリニティ大学のマイケル・ハート教授は、電波による地球外文明との交信を試みる科学者たちの活動が活発だった一九七五年に、「銀河系には人類以外に知的生命はいない」という主旨の論文を発表し、「ファクトA論争」と呼ばれる国際的論争をまき起こしました。
 その後も、メリーランド大学で開かれた「地球外知性体――彼らはどこにいるのか」と題するシンポジウムで議長を務めるなど、幅広く活躍しています。教授は、こう述べています。
 「私の主張は・・・・もし地球外文明がたくさん存在するならば、われわれがいずれ条件が整えばやりとげると思われることを、彼らがすでにやっているはずだ、というものです。つまり、外宇宙に向けて探査体を送り出し、恒星間旅行を行ない、宇宙植民を実現してしまっているだろう、ということです。
 とすれば、われわれはすでに彼らにお目にかかっているばかりか、わが地球と太陽系は、とうの昔に彼らによって植民化されているはずです。・・・・もし銀河系の中に多くの生命があったとすれば、それらが・・・・技術文明を発展させ、探査活動や、植民化を行うために充分な時間があったはずです(進化論で言えば何十億年もの時間)。ところが、われわれは彼らに出会っていない。彼らは地球にやって来ていないのです。
 もちろん、ほかにも説明のしかたはありますが、私にとってもっとも簡単な説明は、われわれが銀河系の中にいる唯一の知的生物だということです」(学研ムー・サイエンス・シリーズ『最新宇宙論』第二巻四四頁)。
 教授はまた、一つの簡単な細胞が発生するだけでも、想像を絶する幸運が重なりあった結果であり、一つの銀河で一回起こるか起こらないかの希有な出来事である、と言い切っています。それは、
 「十億の十億倍の数の惑星上で、十億の十億倍の年数をかけ、十億の十億倍の化学反応を試みて、やっと一回だけ発生するかしないかといった、きわめてまれな出来事なのです」(同四六頁)。
 一個の小さな細胞に関してでさえそうであれば、ましてや高度な知的生物が誕生することは、あまりにも希有なことであると言わなければなりません。
 つまり、地球上に人類という高度な知的生命が存在するということは、"ほとんど不可能なことが起こった"ということにほかなりません。
 ですから私たちは、少なくとも、「宇宙はこのように広大なのだから、どこかに知的生命がいるに違いない」という単純な希望的観測には大きな欠陥があることを、知るべきでしょう。
 ここで大切なのは、地球に生命が存在し、人類が存在することは、この広大な宇宙の中でもきわめて特殊な事実に違いない、ということです。それについて聖書は、こう言っています。
 「天は、主の天である。しかし、地は、人の子らに与えられた」(詩篇一一五・一六)
 「天」および宇宙は、それを創造されたかたの偉大さをあらわすために、広大無辺に創造され、存在しています。しかし地球は、小さいながらも生命の地として造られました。ちょうど、神が広大な宇宙をひとつの"家"としているように、地球は「人のすみかに造られた」(イザ四五・一八)のです。
 地球は、物理的には、太陽系の中心ではないし、銀河系の中心でもないし、またあるいは宇宙の中心でもないかもしれません。しかし地球は、特別な愛顧を受けて創造されました。
 地球は、生命のための好条件がそろっているという点で、また生命を育んできたという点で、全宇宙に異彩を放っています。地球は宇宙の中で、ちょうど広大な砂浜に輝く一粒の宝石のように、小さくても高い価値をもつ星です。
 神はこの星を、「人の子らに与えられ」ました。ですから地球は、たとえ物理的には小さく、また太陽系や宇宙の中心ではなくとも、神の関心の中では中心に位置しているのです。


地球および宇宙は特別な計画をもって創造された

 さて、聖書が創造の記述を通して私たちに語りかけている、最も重要な事柄は、地球および宇宙が、特別な計画のうちに創造されたということです。
 聖書によれば、宇宙および地球の創造過程は、次のようなものでした。
 時間・空間・物質の連続体として始まった宇宙は、神のエネルギーが付与されるとともに、混沌とした全体が分化・発展して、次第に高度な秩序形態へと造り上げられていきました。
 「最初のちり」(箴言八・二六)に始まった物質も、単純なものだけでなく、複雑なものも生成されていき、天体を形成する主な物質が整えられました。
 さらに、生命にとって最も基本的なものである水の分子が形成されるようになり、その水は地球においては、海洋を形成するまでになったのです。
 すなわち、創造「第一日」の前半において、すでに時間・空間、および水を含む諸種の物質の創造がありました。
 さらに、光が造られ、また現在の太陽系の中心となるべき位置に太陽の原型、あるいは前段階のものが造られました。それによって光と闇、昼と夜とが「分けられ」(創世一・四)ました。

 それ以後、「第二日」「第三日」「第四日」「第五日」「第六日」における出来事は、上図の通りです。
 ここで分かってくることは、第一日〜第三日と、第四日〜第六日とが互いに対応関係にあるということです。明らかに、第一日と第四日、第二日と第五日、第三日と第六日とは、対応関係にあります。
 まず、第一日に光と闇(昼と夜)が分離したのに対応し、第四日に、昼をつかさどる太陽と、夜をつかさどる月星がつくられています。
 また、第二日に「おおぞら」がつくられて水圏(海洋)と気圏(大気)が分離したのに対応して、第五日に、魚をはじめとする水生生物と、鳥をはじめとする空中動物とがつくられています。
 そして、第三日に陸地が形成されたのに対応して、第六日に、爬虫類、哺乳類をはじめとする陸生動物がつくられ、また第三日の植物(生命)の創造に対応して、第六日には人間が創造されています。
 ここから私たちは、何を知るでしょうか。
 まず、地球および宇宙は、特別な計画のうちに創造されたということです。万物が存在するようになったのは、じつに、知性を有する偉大な創造者のご計画と、設計によったのです。
 次に、世界は光と闇の分離、陸・海・空の分離、そして様々な生物の創造というように、"分化・発展"という過程を通して創造されていった、ということです。
 神は、たとえば人間の母親の胎内で胎児を成長させる際には、最初は一個の単純な受精卵に過ぎない生命を、「細胞分裂」を通して分化・発展させ、ついには高度な機能をもつ生命体に成長させていかれます。それと全く同じように、神は地球および宇宙を、"分化・発展"というかたちを通して造り上げていかれたのです。
 また万物の中で、人間は最後に創造されました。ちょうど、赤ん坊の誕生を待つ親が、赤ん坊の生まれる前から、おしめや、ベッド、ベビー服、おもちゃなど、必要なものを皆そろえてから赤ん坊の誕生を迎えるように、神は人間が生活できる環境を完全に整えた後、最後に人間を地上に置かれたのです。


宇宙は絶妙な知恵によって創造された

 「宇宙」という言葉が初めて出てくるのは、中国・漢の時代に書かれた『淮南子』という書物ですが、そこには「宇」とは空間であり、「宙」は時間であると説明されています。「宇宙」とは時間と空間のすべてである、というわけです。
 今日物理学では、アインシュタイン博士以来、時間と空間を一つのものとして扱うようになりました。いわゆる「時空」ですが、まさに宇宙は、時間と空間が一つになった連続体であるわけです。
 さて、私たちはふつう「宇宙」(universe)というとき、時空、およびその中にある銀河、星、太陽や地球など、すべてのものをさして言っています。「宇宙」とは、存在するもののすべてです。
 ですから「宇宙」は、一つしかありません。しかし最近の科学者は、宇宙はじつは一つではなく、いくつもあるのではないか、という議論をしています。
 私たちの宇宙のほかに、「他の宇宙」があるのではないか、というわけです。もちろん仮に「他の宇宙」があったとしても、私たちの宇宙から「他の宇宙」に行くことが簡単にできるわけではないし、「他の宇宙」の様子を知ることができるわけでもありません。
 また「他の宇宙」というものが本当に存在する、と言っているわけでもありません。しかしここで、私たちが住む宇宙は一体どんな宇宙なのか、を知るために、ちょっとここで次のような思考実験をしてみましょう。
 二つの宇宙がある、と頭の中で想像してみてください。一方の宇宙は、銀河も太陽も惑星もみなありますが、人間がどこにもいません。生命もいません。物質だけの世界です。
 もう一方の宇宙は、私たちが今住んでいる宇宙です。そこには人間という、知的生命が存在しています。
 さて、これら二つの宇宙は、どちらも「宇宙」には違いありません。しかしその存在意義は、全く違っています。
 私たちの住んでいる宇宙において、人間は様々な知的探究により、宇宙の存在や様子を認識しています。天文学者は星を探究し、理論物理学者は宇宙の起源を考え、工学者は星に探査ロケットを送っています。
 人間は宇宙と、様々なかかわり合いを持っているのです。
 ところが知的生命の全くいない宇宙では、その宇宙は誰によっても認識されません。認識されない、ということは、その宇宙は"無きに等しい"ということです。
 いかに広大で美しい宇宙であろうと、誰によってもその存在や様子が認識されなければ、そのような宇宙は"存在しないに等しい"のです。"あってもない"のです。
 「認識」ということを基準にすると、知的生命のいない宇宙は、たとえ存在しても"存在しない宇宙"です。一方、知的生命のいる私たちの宇宙は、"存在する宇宙"ということになります。
 じつはこうしたことが、今、科学者の間で盛んに論議されるようになっているのです。
 こうしたことを、みなさんも考えてみたことがあるでしょうか。私たちの住む宇宙は、なぜ知的生命のいる宇宙であって、なぜ物質だけの宇宙にならなかったのか。
 これについて多くの科学者は最近、宇宙は知的生命の生まれる宇宙となるように、あらかじめ誕生の際に"プログラム"されていた、と考えるようになってきています。
 どういうことかというと、これは京都大学の松田卓也・助教授が『これからの宇宙論』(講談社ブルーバックス)の中に書いていることですが、たとえば「自然定数」というものに着目するとよくわかります。
 私たちの宇宙には、たとえば光速、電子の質量、重力定数、プランク定数といった、ある"決まった値"があります。これがなぜ"その値"なのかを考えると、それはあたかも"知的生命を誕生させるべくその値をとった"としか考えられないほど、絶妙にコントロールされているというのです。
 たとえば私たちは、光速が秒速三〇万キロメートルであることを知っています。しかし現在の宇宙で、その速さがほんのちょっとだけ違ったとしましょう。
そうすると、それだけでもう人間はできないのです。
 光速と知的生命とは、一見何の関係もないようですが、大いに関係しているのです。
 人間の肉体は大部分がたんぱく質であり、たんぱく質の大部分は、炭素でできています。そして炭素原子がたんぱく質のような高分子化合物をうまくつくれるのは、炭素の「エネルギー準位」というものが、ちょうどよい値をとっているからです。
そのエネルギー準位を規定しているものの一つが、光速です。あるいは重力定数や、プランク定数です。
つまり現在の宇宙の秩序体系では、光速が秒速三〇万キロでなければ、炭素原子はちょっどよいエネルギー準位を持てず、そのためたんぱく質のような有機化合物はできず、生命は発生できません。そして知性も誕生できなかった、ということになります。
 たとえ、光速が秒速三万キロだとか三千キロの宇宙が他にあったとしても、そうした宇宙は「知的生命のいる宇宙」とはならなかっただろう、というのです。
 ところが私たちの宇宙では、光速はちょうどよい値を持っています。それで私たちの宇宙は「知的生命のいる宇宙」となり、私たちは今「宇宙はなぜあるのか」を考えているわけです。
また、京都大学の佐藤文隆・教授によると、たとえば電子の質量が一%違っただけでも、人間はできないとのことです。重さが一%くらい違ったっていいじゃないか、と思いたくなりますが、たった一%でもダメなのです。

 それほどこの宇宙は、絶妙にコントロールされて、「知的生命のいる宇宙」となっているのです。
 アメリカのカーター博士はまた、生命だけでなく、星や銀河ができたのも、自然定数がちょうどよい値をとっていたからだ、と言っています。"車椅子の天才科学者"ホーキング博士も、私たちの宇宙が現在のような形態の宇宙であるのも、自然定数がちょうどよい値だからだ、と言っています。
 もし自然定数が違えば、宇宙は誕生してまもなくグチャグチャにつぶれてしまったかも知れませんし、逆にものすごい速さで膨張する宇宙だったかもしれません。
 自然定数の違う宇宙があってもよいのです。しかしそのような宇宙は、「知的生命のいる宇宙」とはならなかったでしょう。
 ところが現実の私たちの宇宙は、「知的生命のいる宇宙」となっている――つまり「知的生命のいる宇宙」となるよう、あらかじめ内部にプログラムされていた、と言って過言ではありません。
 たとえば、ある技術者が、テレビをつくるとしましょう。
 彼はブラウン管の電圧を何ボルトにするか、値を決めます。また、テレビの各部品にかかるいろいろな電圧や電流、抵抗の数値を定めて、テレビをつくりあげるのです。
 それらの数値をもし一つでも間違えてつくったりすると、テレビは用をたしません。画面が映らなかったり、ギーギー、ガーガーいうだけでしょう。あるいは、ただの粗大ゴミになるだけでしょう。
 私などは、このことがよくわかります。私は小学生のころ、よくラジオのキットを買ってきて、ハンダごてを片手に組み立てました。
 ところが部品を組み立てるとき、たとえば一〇キロオームの抵抗をつけるべきところに、間違えて一〇〇オームの抵抗をつけたりしたので、なかなか聞こえるようにならなかったのです。一つでも数値を間違えると、粗大ゴミになるだけです。
 同様に、この宇宙が見事なかたちで「知的生命のいる宇宙」となっているのは、神が物質界の様々な数値を最も適切な値に定められたからです。様々な自然定数を、最も都合のよいように定められたのです。
 一台のテレビやラジオをつくるときでさえ、多くの優れた人々の知性と、長年の研究、また努力が必要でした。そうであれば人間という最も複雑で高度な生命体、またこの偉大な宇宙をお造りになったかたは、一体どんなに優れた知性を持つかたでしょうか。
 かつてイスラエルの王ダビデは、こううたいました。
 「主(神)よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたはそれらをみな、知恵をもって造っておられます。地は、あなたの造られたもので満ちています」(詩篇一〇四・二四)。
 また、こうもうたいました。
 「英知をもって天を造られたかたに感謝せよ。そのいつくしみは、とこしえに絶えることがない」(詩篇一三六・五)。
宇宙が絶妙なバランスのもとに造られていることを考えると、私たちもダビデと共に、創造者なる神の英知をほめたたえずにはいられません。
神は、人知をこえる偉大な知性をもって、「知的生命のいる宇宙」を創造されたのです。


熱力学第一、第二法則は宇宙の創造を示す

 物理学に、「熱力学第一法則」および「第二法則」と呼ばれるものがあります。これら二つの法則を合わせて考えると、宇宙は創造されたものであることが、明確にわかります。
 熱力学第一法則は「エネルギー保存の法則」、第二法則は「エントロピー増大の法則」と呼ばれるものです。東大の竹内均・名誉教授は、これら二つの基本法則からなる熱力学の法則は、じつは現代物理学が唯一の「絶対的な科学的真理」と認めるものである、と述べています。
 それ以外の法則は、ニュートンの「運動の法則」にしても、アインシュタインの「相対性理論」にしても、また二〇世紀になって発達した「量子力学」にしても、すべて"暫定真理"つまり"仮説"にすぎません。
 しかし、エネルギー保存の法則と、エントロピー増大の法則は、繰り返し実験的に何度も確証された、疑い得ない科学的真理と考えられているのです。これらの法則は科学の根本であって、また、全宇宙を支配する絶対的な科学的真理と考えられているわけです。
 これら二つの法則を合わせて考えると、宇宙が超自然的な偉大な力によって創造されたことを、示せます。まずエネルギー保存の法則から見てみましょう。

@ エネルギー保存の法則は、物理的化学的反応の前と後で、エネルギーの総量が変化しないことを述べたものです。エネルギー自体は、滅ぼすことも、新たにつくり出すこともできません。
 エネルギーは形態が変わるだけで、量は変化しないのです。ですからエネルギーは、決して自然発生的には生まれません。
 この際、そのエネルギーには、質量も含まれています。これは「質量とエネルギーの等価性」と言われるもので、質量もエネルギーの一形態とみなされているのです。
 さて、宇宙は、あるエネルギー(質量を含む)を持っています。ですから、エネルギーは自然発生的には生まれないという「エネルギー保存の法則」により、宇宙は決して自然発生的には発生し得ない、と結論づけることができます。
 つまり、宇宙は自然に誕生したのではありません。

A つぎに、エントロピー増大の法則の意味することを、見てみましょう。
 エントロピーとは、使用できないエネルギーの量をいいます。これが、時間と共に必ず増大の方向に向かう、というのが、エントロピー増大の法則です。
 この法則は、一言でいえば、「覆水盆に返らず」という諺と一緒です。つまり、「エネルギーを使用すればするほど、そのエネルギーはより質の低いエネルギーへと変換されていき、ついには使用不可能なものになってしまう」ということです。
 すべての物理的化学的反応は、時間がたつと、しだいに秩序から無秩序へ、また使用できるエネルギーの豊富な状態から、使用できないエネルギーの多い状態へと移行していきます。物理的化学的反応の起きやすい状態から、起きにくい状態へと移行していくのです。
 つまり、全宇宙のエントロピー――使用できないエネルギーの量は、時間と共に増大しています。今後も、エントロピーは増大し続け、かなりの時間がたつと(数百億年以上)、宇宙はついに、そのどこにおいても物理的化学的反応の起きない「熱死」状態(ヒート・デス)に到達することが、科学的に知られています。
 「熱死」とは、熱さで死ぬことではなく、熱力学的な死の状態のことです。使用できないエネルギーばかりになってしまって、宇宙が何の事象も起きない状態に達し、宇宙は実質上"死ぬ"のです。
 しかし現在の宇宙は、この「熱死」状態にまだ達していません。これは、宇宙が無限の年齢を持っていないことを、意味します。したがって、宇宙には"始まり"があったわけです。
 宇宙は決して、永遠の昔から存在しているのではありません。今から有限の時間をさかのぼった時点で、宇宙は始まりを得ました。
 この宇宙誕生のとき、エントロピーは最小でした。しかし、時間と共にエントロピーは増大しており、現在の宇宙はその途上にあります。

 さて、@とAを合わせて考えると、どんな結論が出るでしょうか。
 私たちはAにより、宇宙には始まりがあったことを知りました。しかし@により、宇宙の始まりは自然発生的ではなかった、とも知りました。
 とすれば宇宙は、超自然的な偉大な力によって特別に創造され、始まりを得たのです。
 この偉大な宇宙の創造者が、聖書のいう「神」です。
 「はじめに神が天と地を創造した」(創世一・一)。
 エネルギー保存の法則とエントロピー増大の法則は、まさに、この聖書の言葉の真実性を明らかにしているのです。

久保有政

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