虚構の進化論
その偽装と"でっちあげ"の歴史
ピルトダウン人はのちに"偽作"であることが判明した
進化論を広めるためになされた"でっちあげ"
進化論をひろめるために、悲しいことに多くの"誇張"や、"でっちあげ"がなされてきたことは、確かに事実です。
先に述べたように、進化論者は長いこと、単に大きさの順に並べたに過ぎないあの馬の化石を、進化の証拠として用いてきました。この「馬の進化図」については、著名な生物学者エルドリッジ博士(進化論者)も「ひどい資料」と呼び、
「それを教え、それを事実として掲示しているのは、実に嘆かわしいことである」(一)
と述べています。
また、進化論の進展の途上においてなされた"でっちあげ"の例として、「ピルトダウン人」や「ネブラスカ人」の化石は、同様にひどいものです。
「ピルトダウン人」(ダウソンの原人)と呼ばれたものは、かつて最も重要な化石の一つとされ、人の古い先祖として、本の中で取り扱われました。
それはほんの一握りの骨にすぎませんでしたが、進化論を信じる画家たちは、それを基にして、人の祖先とされる、あの毛むくじゃらの原人の姿を描きました。そして教科書にのせ、博物館にかざりました。
しかしずっと後になって、ピルトダウン人は"偽作"であることが判明したのです。"発見"と騒がれてから四一年後の一九五三年のことでした。
解剖学的、化学的検査の結果、あごは猿のもので、頭骨は現代人のものと判明しました。そしてそれらは、古くみえるように加工が施されていたのです。(二)
また「ネブラスカ人」も、かつて人類の先祖としてもてはやされましたが、その化石とは、要するに歯一本だけでした。しかも、後にその歯は、(絶滅種に属する)豚の歯であることがわかったのです。
ネブラスカ人とは要するに「豚の歯」だった
そのほか「ラマ・ピテクス」はオランウータン、「オルス人」はロバの頭骸でした。「ハイデルバーク人」は現生人類のものでした。
このように後日になってその正体が明らかにされ、進化論の教科書から姿を消してくれた場合は良い方で、進化論者はいまだに、進化論の証拠として幾つかの資料に固執しています。
しかし今ではそれらのものも、その虚偽性が明らかにされています。実際、英国スワンシー大学の生物学者デレク・エイガー博士は、
「自分が学生時代に学んだ進化に関する物語のすべては、今では実際上、化けの皮がはがされてしまい、受け入れられないものである」(三)
と述べています。
また、英国博物館の古生物学者コーリン・パターソン博士は、一九八一年にニューヨークの博物館の公開集会で、五〇人を越える分類学の専門家や来賓に対して、次のように語りました。
「私も最近まで、ギレスピー(創造論に反対する進化論者の一人)
の見解をとってきました。しかしその時、『目が覚めた』のです。『私は長い間、進化論をなにか啓示された真理でもあるかのように思い込まされ、だまされてきたのだと気づいた』のです」。(四)
進化論者は、進化の証拠の貧弱さを認めるようになった
かつて「進化の証拠」と主張された多くの事柄も、今日では皆その価値を失うようになってきました。いまや進化の決定的な証拠は、何一つありません。そのため今日では、進化論者の中にも、進化の証拠がきわめて乏しいことを率直に認めるようになった人がいます。
たとえばイヤランゲン大学の進化論者アルバート・フライシュマン教授は、こう述べました。
「進化論には重大な欠陥がある。時がたつにつれて、これらの欠陥はいっそう明らかになってきた。もはや実際の科学的知識と一致しないし、事実を明確に把握するにも充分とはいえない」。(五)
進化論者G・A・カークト教授は、こう述べました。
「進化論を支持する証拠は、仮説以上のものとしてこの説を認めるほど、強力なものではない」。(六)
進化論者ダーキー・トンプソン博士は、
「二〇年にわたる私たちの『種の起源』研究は、予期しない失望的な結果となった・・・・」。(七)
また指導的な進化論者ローレン・エイスリー博士は、
「多くの努力が失敗するにつれて、科学は生命の起源について理論を立てなければならないが、それを立証できないという、困難な立場に立たされた」(八)
と述べました。このように多くの進化論者が、自分たちの理論の弱さと、証拠の無さを認めているのです。
今や多くの科学者が、下等動物から人間への進化を信じなくなっている
では、それなのになぜ、人々はいまだに進化論に固執するのでしょうか。
それはこうした人々には、率直に言って、創造論の知識が欠けているからなのです。多くの進化論者は、創造論による科学的な説明について、充分な知識を持っていません。
創造論とは、やみくもに信じることだ、と思っているのです。彼らは、創造論が持つおおくの科学的根拠に関して、充分知りません。むしろ創造論に対して、ある種の嫌悪感をともなった先入観を持っているようです。米国シンシナチ大学の進化論者ロイス・T・モーア教授は、こう述べました。
「進化の教義をわれわれが信じるのは、われわれが、相反する特別創造の教義(創造論)を受け入れたくないからである」。(九)
人々が、進化の証拠がきわめて弱いことを知りながらも、なお進化論に固執するのは、その根底に、創造論に対する偏見があるからなのです。彼らは、創造論を受け入れるには"とほうもない信仰が必要だ"と思い込んでいます。
しかし創造論者に言わせるなら、とほうもない信仰が必要なのは、むしろ進化論のほうなのです。なにしろ、進化論には証拠が全くないのですから。
反対に、創造の証拠は圧倒的です。創造論を受け入れるには、ほんの少しの素直さがあればよいのです。
もし偏見を捨てて、素直に創造論とその科学的根拠を研究し、充分な知識を 持つようになれば、そうした人々もやがて、創造論を受け入れるようになる、と私たちは信じます。
今や多くの知識人が進化論を捨て去るようになっている
ダーウィンの「種の起源」以来、進化論はまたたく間に、世界中に広がりました。
進化論は、世界と生命の起源を見事に説明する理論であるかのように、人々に教えられました。そのため多くの青年たちは、いまだに、進化は科学的に立証されたものだと思い込んでいます。
しかし現在では、世界中の知識人の中に、進化論を捨て去る人々が多くなってきています。たとえば、カナダの偉大な地質学者ウイリアム・ドーソンは進化論について、
「人間の不可思議な現象の一つだ。なにしろ、あれには証拠がまったくないのだから」(一〇)
と述べ、英国の科学振興協会会長アンブローズ・フレミングは、
「進化は、根拠のない信じ難いもの」(一一)
と述べています。またアメリカ原子力委員会のT・N・タシミアン博士は、
「進化を生命の事実としてふれまわる科学者は、はなはだしく人を欺くものであり、その語るところは、最大の人かつぎとなりかねない」
と述べ、進化論を、
「ごまかしと、あてずっぽうの、込み入った寄せ集め」
と呼びました。そのほか進化論を、
「大人向けのおとぎ話」 (ブーヌール)
「神話」(myth C・H・ピノック博士)
と呼ぶ人もいます。
さらに、進化論の間違いを認めるだけでなく、創造論の方が科学的事実をより良く説明できることを認める科学者も、現在では増えてきています。たとえば、スミソニアン協会の著名な生物学者オースチン・H・クラーク博士は、率直にこう述べました。
「人間が下等な生命形態から、段階的に発達してきたという証拠はない。いかなる形においても、人間をサルに関連づけるものは何もない。・・・・人間は突然に、今日と同じ形で出現した」。
また、
「主な動物群に関する限り、創造論者の方が、最も良い論拠をもっているようだ。主な動物群のどれかが、他の群から生じたという証拠は、少しもない。それぞれの種が特別な動物の集まりであって・・・・特別な、他と区別される創造物として出現したものだ」(一二)
と述べました。
現在アメリカでは、創造論を支持する科学者の団体が、いくつも出来ています。一九六三年に設立された創造研究協会は、一〇〇〇名近くの博士号または修士号をもつ科学者の会員から成り立っています。また、ヘンリー・M・モリス博士を理事長とする創造研究所(ICR)も、活発な働きをなし、進化論の迷信と戦っています。
日本でも、「聖書と科学の会」(現在:クリエーション・リサーチ・ジャパン)の宇佐神正海・医学博士、群馬大学の黒住一昌・名誉教授をはじめ、創造論をひろめるために活発に活動している科学者が増えています。
アメリカの創造研究所のスタッフのひとり、生物学者ゲーリー・E・パーカー博士は、かつて大学で生物学を教え始めた頃は、熱心な進化論者でした。
しかし博士は、やがて進化論は健全な科学の証拠に全然基づいていないことに、気づくようになりました。そして多くの科学的事実は、進化論よりも創造論によって、良く説明できることを知ったのです。
博士は、創造論者になりました。彼はこう述べています。
「進化に都合の良い証拠は非常に弱く、創造の証拠は、大変強いのです」。(一三)
また、進化論についてこうも述べました。
「進化論は、宗教なのです」。
まさに、進化論は科学ではありません。それはむしろ"宗教"に近いものです。科学なら、きちんとした証拠を提出しなければなりません。しかし進化論は、証拠とされたものがすべて崩れてしまったにもかかわらず、多くの人々が"ただ信じている"という点で、"宗教"なのです。
進化論という宗教は、無神論の宗教です。それは真実の宗教とは違い、人々に幸福をもたらすものではありません。
進化論者の前提・創造論者の前提
進化論者も、創造論者も、人類や生物の起源について考える際、それぞれの"先入観"をもって自然界の諸事実を解釈します。進化論者には、
「生物は進化によって今日のような様々の種類が生まれた」
という先入観があり、創造論者には、
「すべての生物は、おのおの種類にしたがって創造された」
という先入観があります。進化論者も創造論者も、これらの先入観にもとづいて、自然界の諸事実を解釈するわけです。たとえば自然界の一事実として、
「地層は一般的に、上の方ほど高等な生物の化石が発見される」
という事実があります。これを進化論者は、進化の先入観に立ってこう解釈しました。
「地層は、ゆっくり堆積したに違いない。そして、その時代その時代の生物の化石が、地層中に形成されたのだ」。
一方、創造論者は、創造の先入観に立ってこう解釈します。
「地層は、過去に起きた全世界的な大洪水によって、急激に堆積したのである。大洪水の際、海底生物は最も下の層に捕らえられ、魚類は、泳ぐことができたのでその上の層に捕らえられた。
また陸生動物は、魚より高い所に住んでいるし、洪水の水が増していく際、水から逃れるために高い所に移動できたので、さらにその上の層に捕らえられた。とくに人間は、水から逃れるための高度な移動性と知恵とを持ち合わせていたので、一般的に最も高い所で発見される」。
大洪水の際、移動性にすぐれた動物は高い所へ移動していった
このように、進化論者および創造論者は、一つの事実を、それぞれ別の先入観から解釈するわけです。けれども問題なのは、どちらが無理なく、また矛盾なく、諸事実を説明できるかです。たとえば、創造論者はこう主張します。
「進化論者は、地層はゆっくり堆積してきたと想定しているが、化石は、地層がゆっくり堆積した場合は決して形成されないのである。
ゆっくり堆積したとすると、動植物の遺骸は化石になる前に腐敗し、分解してしまい、形をとどめることができない。すなわち"風化"してしまう。
化石が形成されたという事実は、動植物が何らかの激変的過程によって葬られたことを、示している。ノアの大洪水は、それに関して最も適切な説明を与える」。
創造論者はこのほかにも、進化論者の主張の矛盾点を多く指摘しています。
進化論者の主張によると、地層の順序は、下から上にいくにしたがって、古い時代のものから新しい時代のものになるわけです。ですから下の地層から、より新しい時代の生物の化石が発見されることは、決してないはずです。
ところが実際には、下の地層からより高度で、複雑な生物の化石が発見されることが、しばしばあります。地層の順序が逆転しているのです。
しかもこれらの地層は、下から上まで連続的に堆積しています。下の地層が、後の時代の地勢変動によって、上の方に上げられたという形跡は全く見当たりません。
このことに限らず、進化論者の主張には、つねに解決し難い矛盾点がつきまとっています。しかし、より高度な生物の化石がしばしば下の地層から見出されるという事実も、創造論者の主張には矛盾していません。
なぜなら大洪水の時、荒れ狂う水に早くから飲まれてしまった高度な動物たちも、一部にはいたでしょう。それらの動物たちの遺骸が、下の方の地層に捕らえられたのです。
創造論は自然界の諸事実をよく説明する
このように進化論にしても、創造論にしても、ある前提、または先入観から、自然界の諸事実を解釈したものです。そしてそこで問われているのは、どちらの考え方が、より良く諸事実を説明するかです。
進化論は、自然界の諸事実を説明する上で、きわめて無理の多い理論です。反対に創造論は、自然界の諸事実をきわめてよく説明します。たとえば先に私たちは、
「生物の化石には中間型が発見されない」
という事実を見ました。中間型の化石は、単細胞生物と無脊椎動物の間、無脊椎動物と脊椎動物、魚類と両生類、両生類とハ虫類、ハ虫類と鳥類またはホ乳類、下等なホ乳類と霊長類、またサルなどの霊長類と人間の、いずれの間にも見出されません。
これは進化論には、きわめて不利な事実であり、創造論には、きわめて有利な事実です。
ではこうしたことによって、創造論の正しさは「証明された」、と私たちは言ってよいでしょうか。
少なくとも、進化論が間違いであることは証明された、と言って良いでしょう。進化論を否定する材料は、あまりにも多いからです。しかし創造論の正しさは、「証明された」でしょうか。
残念ながら、「証明」はされない、と言ったほうがよいでしょう。創造論と調和する事実がいくらたくさん見出されているとしても、生物の起源に関する理論の正しさを完全に「証明」することは、誰にもできないのです。
なぜなら、厳密な意味で私たちがそれを「証明」するためには、生物の歴史を再現しなければならないからです。
仮に、ここにタイムマシンがあったとしましょう。私たちがその機械を過去に送って、それが生物界のありのままの歴史を、私たちに再現して見せてくれたとしましょう。そうしたら私たちは、それを「証明」したことになるでしょう。
しかし私たちの手もとには、タイムマシンはありません。誰にも、生物界の歴史は再現できません。ですから誰にも、完全に「証明」することはできません。進化論にしても創造論にしても、生物界の歴史に関する"推測"に過ぎないのです。
けれどももしタイムマシンが存在するとしたら、それは進化論ではなく創造論の正しさを証明するであろう、というのが創造論者の確信であるわけです。
このように、創造論を受け入れるか否かは、最後は信仰の問題です。しかしその信仰を助ける要素は、数多くあります。多くの科学的事実は、創造論とよく調和しているからです。
ある意味では、創造論に対する信仰は、進化論に対する信仰よりも、ずっと理にかなっています。進化論には、それを支持する何らの証拠もありません。しかし創造論は、自然界の諸事実をきわめてよく説明するものなのです。
科学者が間違うことがあるか
しかし進化論のように、多くの人々に受け入れられ、常識化したものが、
「じつは誤りだった」
というようなことが、本当にあり得るのでしょうか。
私たちが歴史を振り返ってみるならば、このことについて、ひとつの有益な教訓を得ることができます。
かつて中世のヨーロッパでは、多くの人々は天動説を信じていたわけですが、この天動説は当時においては権威ある科学上な学説だった、という事実に私たちは注意を払うべきです。
プトレマイオスの天動説は、中世にお
いては権威ある科学上の学説だった。
現代の進化論もそうである。
天動説は、二世紀のエジプトの大天文学者プトレマイオス(英語ではトレミーという)の著した「惑星運行説明図」によって人々に受け入れられ、広まりました。それは何世紀もの間(じつに一四〇〇年もの間)、人々の間で権威を持ち続けました。
プトレマイオスは、地球は静止しているという考えに立って、惑星の運行を、「偏心円」とか「周天円」という考えを導入して説明したのです。それは非常に精巧な理論であり、正統的な科学として、ひろく人々に受け入れられました。
当時カトリック教会が天動説を受け入れていたのは、プトレマイオスの説を鵜呑みにしていたからです。しかし、天動説は聖書の説いていることではなく、それは当時正しいと信じられていた科学以外のものではなかったのです。
しかしそこに現れたのが、教会の司教であり天文学者であった、コペルニクス(一六世紀)
でした。
コペルニクスは、当時受け入れられていたプトレマイオスの体系が非常に複雑で、観測される運動を説明するために、八〇以上もの「周天円」を必要とし、それでも完全には説明できないことに着目しました。コペルニクスは、おおよそ二〇年の検討を経て、地動説の体系を完成し、「天球の回転について」という本にまとめました。
「太陽が動いているのではなく、地球の方が動いているのだ」
という発想は、まさに一八〇度の転換です。私たちは時おり、発想の大きな転換を意味して、「コペルニクス的転回」という言葉を使いますが、その言葉はここから来ているわけです。
そしてコペルニクスの地動説を引き継ぎ、さらに深い検討をなし、望遠鏡による観測を行って地動説を裏付けたのが、あのガリレオ・ガリレイでした。
このように天動説は、科学上の学説だったのです。それが当時持っていた権威は、現在進化論が、人々の間で持っている権威に比べられるものです。
私たちは、進化論がひろまっているこの世の中にあって、むしろ「コペルニクス的転回」が必要です。すなわち、「人は偶然の積み重ねによって、下等生物から進化してきて生まれた」のではなく、
「はじめから人として創造された」
という発想の転換です。この発想の転換、思想の転換なしに、私たちが真理に達することはありません。
残念なことですが、進化論を受け入れている人々は、キリスト教会の中にもいます。牧師や宣教師、神父の中にもいます。そうした人々は、神を信じ、かつ進化論も受け入れようとします。
彼らは、「有神論的進化論者」(有神進化論者)と呼ばれます。そうした人々は、進化論の虚偽性に関する知識が欠けており、また創造論の知識も欠けています。
しかし聖書を信じ、かつ進化論も信じるというのは不可能です。聖書は、生物が「種類にしたがって」創造されたこと、また世界の最近の創造を教えているからです。
今や健全な科学は、聖書の記述の正しさを裏付けています。ですから進化論を支持するクリスチャンは、天動説を信じてガリレイを迫害した中世のカトリック教会と、同じ過ちをおかすことになるでしょう。
進化論は、「創造論」という科学上の正説が広まる以前の、人間の試行錯誤の一つにすぎないのです。
創造論が広まることなしに、人々が正しい世界観をもつことはあり得ない
人が進化論を受け入れるか、創造論を受け入れるかは、単に科学的知識の問題にとどまらず、その人の世界観、人生観の上にも決定的な影響を及ぼします。
「偶然」を神とする進化論においては、つまるところ、人生に永遠的な目的や価値を見出すことはできません。したがって進化の教義を押し進めていったところに、欲望のおもむくままの利己的生活や、不道徳な生活が生まれてきても、それは当然の成り行きです。
歴史家H・G・ウェルズは、その著『世界史大系』の中で、こう述べました。
「進化論は、従来の道徳律に代わる建設的なものを・・・・備えていなかった。その結果は、道徳秩序の混乱である」。
しかし、私たちが創造論に立ち返り、天地万物を創造された偉大な神を知るようになるならば、自分の人生がいかなる目的と使命を持っているかも、おのずからわかってきます。私たちは、創造者なる唯一の神を知ることによって、真の世界観、正しい人生観を持つことが可能になるのです。
今の時代にあって、創造者なる神を認め、また信ずることは、ひじょうに大切なことです。聖書の『ヨハネの黙示録』には、「永遠の福音」をたずさえてきたひとりの御使いが、終末の世に生きる人々に、次のように叫ぶ光景が記されています。
「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時が来たからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」
(黙示一四・六)
「永遠の福音」にあずかるために、まず必要なことは、天地万物を造られた創造者なる神への理解と信仰なのです。
聖書の巻頭の言葉、
「はじめに神は、天と地とを創造された」(創世一・一)
は、私たちにとって最も大切で、基本的な真理を述べたものです。天地宇宙をお造りになり、またこの本を読んでいる方々一人一人に存在をお与えになったのは、聖書にご自分を啓示された創造者なる神なのです。
【註】
(一) 『マハナイム』(聖書と科学の会)五五号、三 ページ
(二) 英文『リーダーズ・ダイジェスト』一九五六 年一〇月号一七九〜一八五ページ
(三) 『インパクト』(聖書と科学の会)六九号、三 ページ
(四) 同五九号、二ページ
(五) ホーマー・ダンカン著『進化論その盲点をつく』(いのちのことば社 一九八一年)、二五ページ
(六) 同二五ページ
(七) 同二四ページ
(八) 同二七ページ
(九) バイロン・C・ネルソン著『種類にしたがって』(伝道出版社 一九八一年)、二〇四ページ
(一〇)ホーマー・ダンカン・・前掲書二六ページ
(一一)同二九ページ
(一二)同二四ページ
(一三)G・E・パーカー著『進化から創造へ』(聖書と科学の会 一九七九年)、三〇ページ
久保有政著
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