キリスト教入門講座

信仰の道

神とキリストを信じるとは、どういうことか

悔改めと信仰の意味

 つぎに、私たちを真の幸福に導く「悔改め」と「信仰」についてお話ししましょう。
 「悔改め」とは、自分の生き方を変えることを意味します。それは、単なる"後悔"や"反省"ではありません。後悔や反省は、しばしば"後ろを振り向く"だけで終わってしまいます。
 しかし悔改めは、一八〇度生き方を変えることなのです。今まで神に背を向けて歩んでいた生き方から、神と同じ向きになって、神と共に歩んで行くことなのです。それが悔改めです。
 「ああ、私は今までなぜ神様を知らなかったのか。何と自分勝手で、利己的な、身勝手な生き方をしてきたことだろう。神様、すみません。私の生き方を変えて下さい」
 そのような気持ちを持つことです。愛の神を知らずに生きてきたことを、深く悔やむのです。そして今までの自分の罪の人生を深く悲しむことです。
 あなたは自分が今、滅びの崖っぷちに立っていると思わなければなりません。今はまだ憐れみによってこの世に生かされているとはいえ、死後、世の終わりの「最後の審判」の法廷に出れば、間違いなく滅びを宣告される者であると思うことです。
 自分の積もり積もった罪のゆえに、あなたは永遠の苦悩の池を今や沈みゆく者であると思わなければなりません。あなたは自分の罪の人生を、深く嘆くのです。
 しかし、そこで終わってはいけません。今度はあなたの涙にぬれた顔を、天に向けることです。そして今までの自分の罪をすべて神に告白し、それを御前に悲しみ、赦しを求め、それらの罪を離れることを決意しなければなりません。
 さらに神の前にへりくだり、自分の救いのために神を信じることを決意するのです。神は、へり下る者を高く上げ、高慢な者を低くされます。救いを求めてくる者を、神は拒むことがありません。
 神の愛のもとに飛び込むことです。そして神への「信仰」に立つのです。信仰は、真の幸福への唯一の道です。
 信仰とは何でしょう。信仰は、三つのことから成っています。それらは、認めること、信頼すること、そして従うことです。


認めること

 信仰は第一に、認めることです。すなわち、神の存在を認め、神を天地の創造主と認め、聖書を神からの啓示の書物と認め、キリストを神からの救い主と認めることです。
 これが、信仰の第一歩です。もし子どもが、親を親と認めなかったら、親はどんなに悲しいでしょう。同様に神は、人がご自身を真の神と認めることを、欲しておられるのです。
 あなたは、親を親と思うのと同じく、神を神と認めることです。また、親の手紙を親の手紙と認めるのと同じく、聖書を、神からの啓示の書物と認めることです。
 さらに、兄を兄と認めるのと同様に、イエス・キリストを、神の家族の長子、また救い主として認めなければなりません。


信頼すること

 信仰は第二に、信頼することです。キリストをあなたの救い主として心に受け入れ、罪と滅びからの救いに関して、全面的にキリストに信頼することです。
 罪の悲惨と、地獄の滅びから救ってくれるかたは、キリスト以外にはいません。いかなる宗教も、哲学も、思想も、善行も、努力も、あなたを救うことはできません。あなたは、自分の永遠にわたる救いについて、キリストに信頼しなければならないのです。
 信頼するとは、たとえば次のようなことです。ある人が、駅のプラットホームに立っています。スピーカーから、
 「東京行きがまいります」
 と放送があって、電車が入ってきます。しかし、その人は初めてその鉄道を利用するので、その電車が本当に東京へ行く電車なのか、自分の目で確かめたわけではありません。また本当に東京へ行ったのかどうか、まだ見たわけではありません。
 その人にとっては、「東京行きです」という放送を信じるしかないわけです。その人は、耳で聞いてそれを信じ、足を踏み出して電車に乗り、自分の体を電車の中にゆだねれば、やがて電車がその人を東京に運んでくれます。
 しかし、もし信じないで、自分の体をその電車にゆだねず、プラットホームに立っているだけならば、いつまでたっても目的地に着けません。
 この「電車に乗る」ということが、信頼するということです。その人は、自分の聞いたことを信じ、自分の体を電車にゆだねたのです。
 同様にキリストに信頼するとは、キリストに関する聖書の言葉を聞いて、それを信じ、罪と滅びからの救いのために、自分の全存在をキリストの御手の中にゆだねることです。
 信頼すること自体は、私たちの日常生活の中で、つねに行なわれていることです。電車の場合もそうですし、ほかにも、たとえば椅子に腰掛けること一つを取ってみても、私たちは椅子に信頼するから、それに腰掛けるのです。
 「すわったら壊れるかな」と疑っていたりしたら、腰掛けたりしないでしょう。このように信頼することは、だれにでも出来る日常的なことです。
 赤ちゃんも、母親を信頼して、その腕の中に抱かれているではありませんか。私たちは、幼な子のような心になって、キリストの御手の中に抱かれることが大切なのです。
 そこには、努力は必要ありません。善行も必要ありません。あなたの、ありのままの姿で良いのです。背伸びする必要はありません。罪人のままの姿で良いのです。気取る必要もありません。
 必要なのは、素直さです。赤ちゃんが母親を信頼するような素直さです。それだけが、救われるために唯一、必要なものです。
 神は正しいかたです。「正しい」とは、「罰すべき者を罰し、赦すべき者を赦す」ということです。神は聖書を通して、キリストを救い主と信じる者の罪を赦し、義と認める、と言われました。これは神の約束です。神は正しいかたですから、この約束を完全に果たされます。
 「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しいかたですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(Iヨハ一・九)
 と聖書に記されています。あなたはもう神の御前に、自分の今までの罪を言い表しましたか? その告白に対する神の答えは、これです。神はそれらの「罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださる」のです。
 神の約束を、幼な子のように素直に、心に受け取ってください。そうすれば、あなたはすでに、救い主イエス・キリストの御腕の中にあるのです。
 あなたはその御腕の中で、信頼して歩んでいってください。あなたはそうすることにより、現世においては神にあって力強く人生を切り開いていくことができ、来世においては天国の至福と安息の中に入ることができるのです。


従うこと

 信仰は第三に、従うことです。すなわち、神の御教えを愛し、それに従うことです。
 あなたが神を信じ、神を愛するなら、あなたは神の御教えをも愛するはずです。神の御教え、すなわち聖書に記された様々の教えは、神が私たちを愛するがゆえに、私たちに与えられたものなのです。親は幼な子に、
 「ストーブにさわったら火傷するから、さわったらダメよ」
 「扇風機にさわったらあぶないわよ」
 などと言って聞かせるものです。これらの注意は、子どもに危険を教えるためであり、親が子を愛しているがゆえに与えられるものです。
 また親は、子が大きくなるにしたがって、様々のしつけや、励まし、助言等を行なうでしょう。神も同様に、私たちがこの世の中で悪い道に進んでしまわないよう、また神の子として歩めるよう、様々の注意や、励まし、助言、命令等を与えておられるのです。
 あなたは、これらに従わなければなりません。御教えに対する従順は、信仰にとって本質的なことなのです。
 あなたはまず、聖書をよく学んでください。そして神の御教えを知り、その教えの精神を理解し、自分の生活に反映させるよう努力してください。あなたがそれを日々繰り返していれば、あなたは確実に変化していきます。


信仰の祈り

 このように信仰は、認めること、信頼すること、従うことの三つです。これらのうち、どれが欠けても、それは本当の信仰ではありません。
 あなたは、この信仰に立つことを決意しますか? 主イエスは、あなたと共に生きたい、と願っておられるのです。
 「見よ。わたしは戸の外に立ってたたく。誰でもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは彼のところに入って、彼と共に食事をし、彼もわたしと共に食事をする」(黙示三・二〇)
 と主イエスは言われています。主イエスがあなたの心の戸をたたいている音が、あなたには聞こえていると思います。あなたは、その心の戸を開きますか?
 あなたが「どうぞお入りください」と言って主を心に迎え入れるなら、主はあなたの心に入ってあなたと共に生きてくださるのです。これが信仰です。あなたが信仰に立つなら、次の祈りをしてください。
 誰もいない部屋でひとりになって、ひざまずき、手を組んで心を神に向けて、次の祈りをしてください。

 「天のお父様。私は、罪人です。今まであなたに背を向けて、けがれた歩みをなしてきました。それをあなたの御前に悔い改めます。
 私は、イエス・キリスト様があの十字架上で私のために聖い血潮を流し、死んでくださったことを信じます。また、私と共に生きるために、三日後によみがえってくださったことを信じます。
 イエス様。私の心にお入りくださり、私を救い、私の人生を導いてください。私はあなたにお従いしていきます」。

 このような祈りをなすならば、あなたは、信仰の第一歩を踏みだしたのです。さらにこの祈りに加えて、自分の犯してきた罪を一つ一つ具体的に、思い出せる限り神の御前に告白することをおすすめします。そしてのち、新約聖書の「ヨハネの第一の手紙」一章九節を読んでください。
 この信仰は、どんな祝福をもたらすのでしょうか。


信仰による三つ撚りの祝福

 信仰は、「魂と体と生活」の三つに対する祝福をもたらします。
 「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります」(IIIヨハ二)
 この言葉は、単なる祈りではなく、そこに父なる神様のみこころが現われています。神はあなたの魂だけでなく、肉体の健康も、また現世の生活にも深い関心を持ち、あなたの信仰に応えてそれらを祝福してくださるのです。
 聖書の中に、「三つ撚りの糸は簡単には切れない」(伝道四・一二)という言葉があります。同様に、あなたの「魂・体・生活」に対する神の「三つ撚りの祝福」は、どんな試練や苦難をも乗り越えていきます。
 信仰は神からの「三つ撚りの祝福」「三つ撚りの幸福」を、あなたに与えるものです。
 私たちは信仰を通し、現世において生命の躍動、充実、喜び、平安、安息、また力強く人生を切り開いていく力が与えられます。
 昔、アメリカにヒルトンという人がいました。彼は元々新劇の俳優でした。彼らの劇団はテキサスで公演していましたが、芝居を見に来る人が一人もいませんでした。
 寒い冬の日、空腹をかかえて精一杯努力しましたが、すべては徒労に終わり、借金ばかりが増えてしまいました。人生のどん底をさまよい、生きる道を失った彼は、教会に行って、父なる神様に切に祈りました。
 「天のお父様、私が生きていく道は何でしょうか」
 その祈りをすると、ホテル業を始めなさいというアイデアが、父なる神様から彼に与えられました。といっても、ホテル業のホの字も知らない彼でした。しかし、さらに祈り、また一生懸命学んでいくと、様々なノウハウが彼の頭脳に与えられてきました。「これだ!」と思った彼は、勇敢にホテルを始めました。
 こうして、彼独特のノウハウを通し、ホテル史上最大のチェーン店を有する、有名なヒルトンホテルを立て上げるようになったのです。
 信仰は、私たちの地上における人生、また生活全般への祝福となります。それは人生を力強く切り開く力です。信仰を通し、私たちの人生を潤す活力が湧き出てくるのです。
 それは、あなたが信仰に立ったその日から体験できるものです。もはや、あなたは独りではありません。父なる神、および救い主イエス・キリストが、あなたと共におられるのです。
 「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタ二八・二〇)
 と主イエスは言われました。あなたは、今まで羊のようにさまよっていましたが、魂の牧者のもとに立ち返ったのです。かつてキリストの使徒パウロは、
 「私は、私を強くしてくださるかた(キリスト)によって、どんなことでもできるのです」(ピリ四・一三)
 と言いました。あなたを強くしてくださるかたが、あなたと共におられるのです。あなたは、キリストと一体化させられているのです。
 夫婦は「一心同体」と言われるように、キリスト者とキリストとは一心同体です。あなたはキリストの内におり、キリストはあなたの内におられます。あなたはこのキリストにより、人生を力強く切り開いていくのです。
 また、キリストを信じる者は「神の子」とされている、と聖書は述べています。
 「(神は)、このかた(キリスト)を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった」(ヨハ一・一二)。
 あなたは、御子キリストを救い主また人生の主として心に受け入れたその日から、「神の子ども」です。もっとも、信仰に入って間もないときは、子どもと言ってもまだ赤ん坊に過ぎず、何もわからないでしょうが。
 しかしそれでも、あなたはすでに神の子なのです。神の家族の一員なのです。そして赤ん坊が、成長するに従って世界を理解するように、あなたも成長するに従って、神の世界とその素晴らしさを理解するようになるでしょう。
 あなたは神の子であり、クリスチャンの仲間は、あなたの「兄弟姉妹」です。キリストはこの神の家族の長子であり、神が父、また天国が母です(ガラ四・二六)。
 あなたは、信仰に立ったその日から「新しい人」なのです。聖書は言っています。
 「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました」(IIコリ五・一七)。
 あなたは、新しい生命に生きる者となったのです。


信仰による来世の祝福

 つぎに、信仰は来世においても、永遠に続く祝福をもたらします。
 聖書は、あなたにはキリストによって「永遠のいのち」が与えられている、と述べています。
 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ロマ六・二三)。
 また、キリストは言われました。
 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの言葉を聞いて、わたしを遣わしたかた(神)を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです」(ヨハ五・二四)。
 あなたは「永遠のいのち」を、いつ持つのでしょうか。未来においてでしょうか。そうではありません。キリストは、あなたは今すでに永遠のいのちを持っている、と言われるのです。それは信じるあなたの内に、キリストが宿っておられるからです。
 あなたは、信仰に入ったその日から、永遠のいのちに生きる者とされました。あなたはもはや、滅びへの途上にはありません。永遠のいのちの道を歩んでいるのです。
 あなたは「永遠のいのちを持ち、(もはや)さばきに会うことがなく、(すでに)死(滅び)から、いのち(永遠の命)に移っているのです」。あなたは、永遠のいのちに生まれ変わりました。あなたがキリストを信じた日、それがあなたの第二の誕生日です。
 あなたは、やがて自分の肉体に死が訪れるとき、どこで目覚めるのでしょうか。
 神のみもと、天国で目覚めるのです。それはキリストの義のおかげで、あなたが神の御前に義と認められたからです。
 天国は、生まれながらの罪人のままでは入ることができません。この世の中でも、ある国ではマラリヤの予防接種をしていない人は、入国を許可してもらえません。神の国――天国は清い国ですから、罪に汚れた者は入ることができないのです。
 しかし、キリストを救い主と仰ぐ人々は、キリストの義により、神の前に義――すなわち正しいと認められ、天国に入ることができます。
 私たちは、自分自身の義によって、神の前に義と認められるのではありません。キリストの義によるのです。私たちの内には、義と呼べるような義はないからです。
 天国は、至福と安息の国です。苦労の多いこの世を旅した神の子どもたちのために、神はそうした場所を、死後に用意しておられるのです。
 死は決して、無の世界ではありません。それはキリスト者にとっては、神のみもと天国へ行くことなのです。永遠の生命の大海に入ることなのです。
 永遠の生命は、この世にあっては、信者の魂の中を川のように流れています。しかし、川はやがて海に至ります。キリスト者は肉体の束縛から解放されると、永遠の生命の大海に入るのです。永遠の命はまた、この世では、種のように信者の中に宿っています。それは来世において、やがて豊かな花実をつけるのです。
 このように信仰は、この世において、また来たるべき世において、永遠に続く祝福をもたらすのです。


信仰と善行との関係

 つぎに、信仰と善行との関係をお話ししましょう。
 あなたは、善行によって救われるのでしょうか。それとも、信仰によって救われるのでしょうか。
 あなたが救われるのは、善行によるのではありません。善行は良いことですが、そのこと自体に、私たちを救う力はないのです。
 たとえば、ここに大富豪がいて、その莫大な富を愛する子どもたちに相続させようとしているとしましょう。一方、彼の近所に、その大富豪の知らない一人の善良な人がいて、人様に迷惑をかけずに生き、しばしば善行も行なっているとしましょう。
 このようなとき、大富豪は自分の財産を、その善良な人に相続させるでしょうか。いや、単に善良な人であるというだけでは、富の相続がなされることはありません。その善良な人と、大富豪とは、何の関係もないからです。
 大富豪は、愛する子どもたちに富を相続させるでしょう。神も同様です。神は、その計り知れない富を、愛する子どもたちに相続させることを定められました。
 "人様に迷惑をかけず善良に生きている"というだけで、神を忘れて生きているならば、すなわち信仰がなければ、その人は神との関係を持てません。信仰なしでは、神もその人に対して何の関係も持ち得ません。
 大富豪なる神は、永遠のいのちと、天国のすべての富を、ご自分の家族に相続させることとされました。聖書は言っています。
 「もし子どもであるなら、相続人でもあります。……私たちは神の相続人であり、キリストとの共同の相続人であります」(ロマ八・一七)。
 私たちは、救いと神の幸福を相続するために、信仰を通して神の子どもとなっていなければならないのです。善行は、救われるための条件ではありません。神との関係の回復が、救いの条件です。すなわち信仰なのです。
 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです」(エペ二・八〜九)。
 ――ここで聖書は、救いが「恵みのゆえに、信仰によって」なされたと言っています。「恵み」が救いの元であり、人はそれを「信仰」というパイプを通して受け取るのです。善行は救いの条件ではない、と聖書は言っています。
 善行は、救われるための条件ではなく、むしろ救われたことの結果です。
 神との関係が回復されて、キリストに生きるようになると、人はしだいに善を行なうこともできるようになります。聖書は次のように言っています。
 「私たちは神の作品であって、良い行ないをするために、キリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをも、あらかじめ備えてくださったのです」(エペ二・一〇)。
 つまり、救われたのは、善行をもできる人になるためです。善行は、救われた結果としてあらわれてくるものなのです。
 そして善行をなすのは、自分を誇るためではなく、それを通して神があがめられるためです。主イエスは、こうお教えになりました。
 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタ五・一六)。
 キリストの使徒パウロもこう述べました。
 「(私の切なる願いは)、生きるにも死ぬにも、私の身によってキリストがあがめられることである」(ピリ一・二〇)。
 救われた私たちは神にあって良い行ないをなし、それにより、ますます神とキリストがあがめられるようにしようではありませんか。
 神は「私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをも、あらかじめ備えて」下さっています。私たちの人生が良いもので満ちるよう、神は備えてくださっているのです。


神の子であることをどうして知るか

 あなたは、自分の救われたことを、どのようにして確信することができるのでしょうか。
 あなたは、信仰に立つと、すぐに"救われた感じ"を持つことができるでしょうか。しかし、そうした"感じ""フィーリング"は、おそらくすぐには持てないでしょう。
 もし、キリストの贖いという事実を機関車にたとえれば、信仰はその後ろにつながった客車です。また"感じ"は、さらにその後ろにつながったもう一つの客車です。事実という機関車が、信仰という客車をひっぱって、そのあとに"感じ"や"気分"という客車がついていくのです。
 "感じ"や"気分"があなたを引っ張るのではありません。つまり、"感じ"があなたを救うのではありません。事実と、それに対する信仰があなたを救うのです。
 船に乗っているとき、あなたを目的地へ運ぶのは、"乗っているという感じ"でしょうか。そうではありません。乗っているという事実、すなわちその船に身をゆだねていることによって、目的地へ行けるのです。
 同様に、イエスキリストという"救いの船"に身をゆだねること、すなわち信仰を持っている事実、またキリストがあなたを抱いておられるという事実によって、私たちは神の国という目的地へ達することができます。このことを、よく心に留めておいてください。
 あなたは、神様を「天のお父様」と呼んだでしょうか。もしあなたの心の中から、その言葉が自然に、素直に出たならば、あなたはすでに神の子どもです。なぜなら、聖書に次のように記されています。
 「あなたがたは子であるゆえに、神は『アバ、父』と呼ぶ、御子の御霊を私たちの心に遣わしてくださいました」(ガラ四・六)。
 この「アバ」とは、家庭内で子が父を呼ぶときに使われた日常的な言葉(アラム語)で、「お父さん」という意味です。それは、非常に親しみをこめた呼び方なのです。
 神様を「天のお父様」と素直に呼べるとき、あなたの魂には、「アバ、父」と呼ぶ御子キリストの御霊が宿っています。それは、あなたが神の御前に、すでに神の子とされている証拠なのです。
 天地万物の創造者であり、所有者であるかたが、あなたのお父様です。
 その意味でも信仰に立つことは、何か未知の世界、または全く別の世界に行くことではありません。あなたは信仰によって、あなたの本来の家庭――神の家族に戻るのです。
 イエス様はあるとき、「放蕩息子の話」をなさいました(ルカ一五・一一〜三二)。その息子はある日、
 「お父さんが私にくれるはずの相続財産を今ください」
 と言って、それをもらい、幾日もたたないうちに家を出ていって、遠い所に行き、そこで放蕩に身を持ちくずしてやがて財産を使い果たしてしまいました。そして何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったのです。
 彼は食べることにも窮し始めました。そこでその地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせたのです。彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどでしたが、何もくれる人はいませんでした。そこで彼は本心に立ち返ってこう決意したのです。
 「立って、父のところへ帰って、こう言おう。父よ、私は天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇い人の一人同様にしてください」。
 そうして父のもとへ帰ったのです。父は彼の姿を認めると、まだ遠く離れていたのに哀れに思って走り寄り、その首を抱いて接吻しました。

 レンブラント画

 息子は、「父よ、私は天に対しても、あなたに向かっても……」と言い出しました。しかし父は、僕たちに言いつけたのです。
 「さあ、早く、最上の着物を出してきて、この子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。この息子が死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから」。
 そう言って祝宴が始まりました。この話の中の「息子」は、まさにあなたの姿ではないでしょうか。あなたは父なる神様から遠い所に行って、やがて惨めな自分を発見しました。
 しかし神は、そんなあなたをも温かく迎え入れ、再び「子」として扱われるのです。この話の「父」と同じように、神はご自身の前に死んだも同然だったあなたを、強く抱きしめ、躍り上がって喜ばれるのです。

久保有政

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