キリスト教入門講座

人間の幸福と不幸

人間の本当の幸福、本当の不幸とは何か

人生の目的と幸福

 人間の本当の幸福について、考えてみましょう。人間にとって最深最高最大の幸福はどこにあるのでしょうか。一方、それを妨げている不幸の原因についてもみてみましょう。
 人生の目的は、幸福にあります。ところが、多くの人々はその幸福を体験していません。それは本当の幸福は、あなたを造り、あなたを生かし、あなたを愛しておられる神と共に生きることにあるにもかかわらず、多くの人々が神と共に生きていないからです。
 神は、あなたの人生が祝福され、幸福に満ちたものとなり、輝かしい生涯となることを願っておられます。私たちの幸福の源泉は神にあります。神と共に生きることなしに、人間が本当の幸福を享受することはありません。
 人生の目的は、神が人間を創造されたときの目的――人間の創造目的と同一です。神が人間を創造した目的は、ご自身が人間によって喜びを受け、人間もまた神によって喜びを受けることでした。
 生命は、決して偶然の積み重ねによっては生じません。私たち人間は偶然の産物ではなく、創造者なる神様によって造られ、また生かされている者なのです。
 もし、人間が偶然の産物ならば、人生に目的はないでしょう。しかし私たちには、造られた目的と、生かされている意味とがあります。
 人生の目的、人間の創造目的は、神様と、人間自身が共に幸福になることにあります。次のたとえは、そのことをわかりやすく示してくれるでしょう。
 ある家庭に子どもたちが生まれ、その子たちは健やかに成長していきました。そして、彼らが愛と勇気において優れた人物となり、充実した人生をおくるさまを見て、両親は心から、その子たちを生んだことを誇りに思いました。その子たちの成長や行ないは、両親の楽しみとなったのです。
 一方、子どもたちは、深い愛と知恵をもって育ててくれた自分たちの親を、誇りに思うようになりました。それは、自分たちの体に流れているものは親から受け継いだものだ、という自覚を彼らが持つようになったからです。
 このように"親が子を喜び、子が親を喜ぶ"という関係は、家庭に最も幸福な状況をつくり出します。
 神が人間を創造されたときの目的も、まさにこれに似ていました。すなわち、神は人間を創造して、人間によってご自身が喜びを受けることを、望まれました。そしてさらに、人間が神によって喜びを受けることを望まれたのです。
 神にとって人間は「子」のようであり、人間にとって神は「親」のようなかたなのです。
 この"神が人によって喜びを受け、人が神によって喜びを受ける"という相互の喜び、相互の幸福こそ、神が人間を創造された目的でした。人間の創造目的は、神ご自身の幸福と、人間自身の幸福の双方をめざしていたのです。


神を知ることと人間の幸福

 ですから、天地の造り主である神様が私たちの本当の「お父様」であり、私たちはその「子たち」であるという関係に目覚めることこそ、人間の幸福の第一歩であると言えます。
 幸福には幾つかの種類があります。たとえば誰でも味わえる幸福、人によってもともと備わっている幸福、努力すれば味わえる幸福……など。
 「誰でも味わえる幸福」とは、たとえば美しい自然を見て感激したり、誕生日にプレゼントをもらって喜んだり、おいしい食事を食べたり、といったことです。それらは、それほど努力しなくても大体誰でも味わえる幸福でしょう。
 また、「もともと備わっている幸福」とは、健康な人は健康であることでしょうし、両親が健在な人はそのことでしょう。良い環境に育った人はそのことでしょうし、優れた才能に恵まれた人はそのことでしょう。
 一方「努力すれば味わえる幸福」というものもあります。たとえば、すばらしい芸術作品や製品、著作等を完成させたときの喜びや、発明の喜び、進学、昇給、昇進、そのほか、自分の尽力してきたことが実現したときの喜び等がそれでしょう。
 これらの幸福はみな、私たちが日常生活の中で経験しているものであり、それぞれに良さを持っています。しかし人間の経験し得る幸福は、それで全部なのでしょうか。
 聖書は、人間が経験し得る、さらに優れた幸福について教えています。それは、「神の子であることによる幸福」、すなわち「神の子の幸福」です。
 これは、天地の創造主である神との深い親子関係に目覚めたことに伴う幸福です。聖書は、神に背を向けて歩んでいた人々が神とキリストを信じ、神と共に生きることを始めるとき、その人には、
 「神の子とされる特権」(ヨハ一・一二)
 が与えられる、と述べています。神を愛し、神とともに生きる人々は、「神の子」と呼ばれるのです。
 「神の子の幸福」は、どのような幸福でしょうか。それは、努力によって得られる幸福とは違います。またそれは、神の子になった者たちだけが知ることのできる幸福であり、神との交わりを回復していない者は知り得ない幸福なのです。
 神の子の得る幸福は、次のような特長を持っています。


欲望を充たすことによる幸福と神の子の幸福

 多くの人々は、自分の幸福を、欲望を充たすことの中に求めています。しかし、財産の獲得や快楽の追求など、欲望を充たすことによる幸福は一般的に相対的かつ一時的であり、一方、神の子の幸福は、絶対かつ永遠です。
 例えば、年収一千万円の人が、自分の収入が多いということで幸福と感じる場合、それは年収一億円の人の幸福に比べれば、むしろ小さなものになってしまうでしょう。こうした幸福は相対的なのです。
 また、ある人が市長に選ばれ、そのことを名誉と感じ幸福だと思ったとしても、総理大臣の座の幸福に比べれば、むしろ小さなものになってしまうでしょう。これも相対的な幸福です。
 しかも欲望を充たすことによる幸福は、このように相対的であるだけでなく、一時的でもあります。
 例えば、人は欲望を充たしたとき、満足感をおぼえ幸福と感じますが、それは決して長続きするものではありません。快楽が悦びを与えても、それは一時的です。
 この一時性の故に、欲望の充足、あるいは快楽の追求による幸福は、はかなさを伴うことが少なくありません。
 実際、「ソロモンの栄華」で知られるソロモン王は、一日当たりの収入が、今日で言えば約一億円あったと言われ、豪勢な生活をしていました。彼はあらゆる快楽に通じ、美酒、美食、美女に囲まれ、いわゆる"酒池肉林"といった中に生活していました。
 彼は才能に富み、知恵者と呼ばれ、諸国の王の称賛を受けました。しかし、彼が味わったそれらのどんな快楽も、彼に空しさや、はかなさを感じさせずにはいませんでした。彼は、言っています。
 「私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。――(しかし)なんと、すべてがむなしいことよ」(伝道二・一〇〜一一)。
 欲望の充足、あるいは快楽の追求は、ソロモンに一時的な幸福感は与えても、空しさ、はかなさ、苦さなどを伴ったのです。同様なことは、アメリカ・テキサス州のある百万長者の次の言葉にも表れています。
 「私は金で幸福を買えると思いましたが、幻滅を味わうだけでした」。
 このように、欲望を充たすことによる幸福は、相対的かつ一時的です。


絶対かつ永遠の幸福 

 しかし、"神の子の幸福"はそうではありません。神の子の幸福は、絶対かつ永遠なのです。
 神の子の幸福は、生命の躍動、および神の祝福によって生命に輝きが与えられることによる幸福です。イエス・キリストは、
 「わたしが来たのは、羊(人々の意)がいのちを得、またそれを豊かに持つためです」(ヨハ一〇・一〇)
 と言われました。


キリストが来たのは羊(私たち)が命を豊かに持つため

 キリストが世に来られ、神の福音を宣べ伝え、十字架によって「罪のあがない」を全うしてくださったのは、私たちが聖書でいう「永遠のいのち」を得、それを豊かに持って、私たちが「神の子の幸福」を持つためなのです。
 神の子の幸福とは、自分の生命が、愛、喜び、平安で満たされ、共におられるキリストにより、力強く人生を切り開いていくことによる幸福なのです。
 これは、欲望を充たすことによる幸福に比べ、次のような相違点を持っています。
 欲望を充たすことによる幸福は、外部のものに依存しています。お金、財産、恋人、名誉などによる幸福は、すべて外部のものに依存した幸福であり、そのためにそれら外部のものが取り去られてしまえば、その幸福も同時に消え失せてしまいます。
 しかし、内側の生命それ自体の充実、躍動、輝きによっている幸福は、外部のものに依存していません。それゆえ神の子の幸福は、絶対的です。神の子の幸福は、外部の物質的な所有による幸福ではなく、内側の生命それ自体の中に基をおく幸福であるため、外界の環境に左右されず、取り去られることがないのです。
 キリストは、
 「人のいのちは、持ち物にはよらない」(ルカ一二・一五)
 と言われましたが、人の真の幸福もまた同様です。人の真の幸福は、持ち物をはじめ、外部のものによるのではありません。それは、生命それ自体の中に見い出されるものでなければなりません。
 クリスチャンは、神の聖霊が自分の内に宿り、キリストが内に住んでくださるということによって、自分の生命の内に、この幸福を体験している人々です。この幸福は、いかなる環境や試練のもとでも、それらに左右されず、取り去られることがありません。
 聖書は、キリストを信じ神と共に歩むすべての人々に、「永遠のいのち」が与えられると約束しています。つまり神の子の幸福は、永遠のいのちの躍動、および永遠のいのちの展開による幸福なのです。
 したがって神の子の幸福は、絶対であるとともに、永遠です。それは肉体の死の向こうにまで続く幸福なのです。


永遠のいのちとは

 永遠のいのちは、どこにあるのでしょうか。それは、永遠の神およびキリストとの"愛と生命の交わり"の中に存在します。イエス・キリストは言われました。
 「永遠のいのちとは、唯一の、まことの神でいますあなた(父なる神)と、またあなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」(ヨハ一七・三)。
 ここで「知る」は、"観念的に知る""頭の中で知る"ことではなく、自分の全存在をもって相手と関わることを意味します(創世四・一)。聖書の「知る」は、そうした深い意味で使われる言葉なのです。
 「永遠のいのち」とは神とキリストとを「知る」ことであるというこの聖句の意味は、永遠のいのちが、自分の全存在が神とキリストとに関わることの中にある、ということです。
 永遠のいのちは、永遠の神と救い主キリストとの「交わり」(Iヨハ一・三)の中にあります。それは神ご自身が永遠のいのちであるので、そのかたと交わることは、人間もその永遠のいのちにあずかることを、意味するからです。キリストはこの交わりの仲介をしてくださる方なのです。
 この「交わり」がいのちであるということは、例えば次のようなことです。私たちはバッテリーの電圧が下がったとき、それを電気につないで充電します。そのように、自分より大きな容量の電気との交わりがなされると、そのバッテリーは再び回復します。
 同様に、「永遠のいのち」そのものである無限の神との霊的な交わりの中にこそ、私たちの「永遠のいのち」があります。
 永遠のいのちとは、単に"いつまでも死なない"といういのちではありません。永遠のいのちは、比類ない質を備えた生命なのです。
 永遠のいのちによる幸福は、空しさ、はかなさ、苦さなどを伴うことがありません。永遠のいのちは、充実・躍動する生命であり、それ自体の内に幸福の源泉をもっているのです。
 この永遠のいのちによる幸福が、神の子の幸福です。それは、生命それ自体の内に幸福の源泉をもつゆえに、絶対かつ永遠です。
 またこの幸福は、神との愛の交わりに基礎を置いているために、真の安息と満足をもたらします。人は、"愛される"ことによって安息し、"愛する"ことによって満足するように造られているのです。
 神の愛を受け、また自らも神を愛するという愛の交わりは、真の安息と満足を与え、永続的な幸福をもたらします。人を永続的に幸福にするのは、欲望の充足ではなく、愛の充足なのです。
 多くの人々は、欲望の充足による幸福を求め、利己的で自己中心的な生きかたをしています。そのためにかえって、この生の真の目的を見失っているのです。
 しかし私たちは、キリストによって偉大な神様の子どもたちとして、この愛の中に歩むとき、大きな喜びを得ることができます。
 あるクリスチャンが、小学生の子どもたちと船に乗って湾を遊覧していたときのことです。まわりには美しい島々と、澄んだ青い海が広がっていました。彼が子どもたちに、
 「ねえ、みんな。この海も島も、すべて僕のお父さんのものなんだよ」
 と言うと、みんな目を丸くして、「えっ、ホントー?」「ウッソー」と口々に言うのです。そこで、
 「いや、ほんとだよ。この素晴らしい大自然は、天におられる私たちの父なる神様のものなんだ。僕や君たちのお父様のものなんだよ」
 と言うと、みなとても感慨深そうに喜ぶのでした。


天地を造られたおかたが私たちのお父様

 私たちも、そのように単純に、神様をお父様として受け入れることが大切です。
 キリストはまた、
 「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタ五・一六)
 とお教えになりました。神に愛されることによって安息を得た私たちは、今度は神と人々を愛することによって神の栄光を現わし、神のさらなる祝福の中に入るのです。神はそのような私たちを見て、満足されるでしょう。
 聖書は、
 「主(神)をおのれの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる」(詩篇三七・四)
 とも教えています。神様は私たちの親ですから、私たちが何を必要としているか、また私たちにとって何が良いのかを、私たち以上によく知っておられます。そして、つねに私たちにとっての最善をなしてくださるのです。
 人生の目的は、あなたが神によって喜び、また神があなたによって喜ばれることです。人生の目的は幸福であり、その幸福は、神と共に生きることにあるのです。
                    

人間の不幸

 私たちは、人間の最大の幸福について見てきました。つぎに、人間の最大の不幸についてみてみましょう。
 仏教では一般的に、人間の不幸の最大の原因は「欲望」である、と説きます。人間の性欲、金銭欲、出世欲、名声欲などの欲望や、煩悩が不幸の最大の原因であるとし、「欲望を捨てよ」と説いてきました。
 実際仏教の開祖・釈迦は、輪廻転生の苦しみの世界に生まれさせる原因をつくっているのは人間の欲望や執着心であるとし、それを離れることを説き、弟子たちに「出家」を命じました。
 「出家」とは、すべての生産活動、経済活動、商売、家庭生活、性生活から離れることを意味します。夫婦関係、親子関係、社会的立場のすべてを離れることなのです。これは、一切の欲望を断ち切らせるためでした。
 釈迦はとくに、性の欲望を捨てることを、かなり口を酸っぱくして説きました。原始仏典を読むと、「決して性行をするな」という言葉が何度も出てきます。
 それもかなり露骨な表現で、性生活のもたらす害を説いています。釈迦にとって結婚生活や性生活は、修行の敵だったのです。
 こうして仏教の修行者は、自分の欲望を断ち、すべての執着心を捨てて「涅槃」――すなわち一切の欲望や煩悩、またすべての生命現象の消滅し去った状態に入ることを目指したのです。


キリスト教では必ずしも「欲望を捨てよ」とは言わない

 これに対し、キリスト教では、必ずしも「欲望を捨てよ」とは説きません。キリスト教では、人間の不幸の原因は「欲望」よりもむしろ「罪」にある、と見ているのです。
 たとえば、「性欲」を見てみましょう。
 キリスト教の開始期、すなわち初代教会において、新たに弟子に加わった人々に結婚を解消せよとか、出家せよとか、性生活を断てとか求められることはありませんでした。
 初代教会においては、独身の人も、結婚している人も、様々の人がいました。それは今日でもそうです。キリスト教では、結婚における男女の結合は神の合わせたもうもの、という認識がありますから、結婚生活の中での性は良いもの、と思われているのです。
 性に限らず、キリスト教では必ずしも「欲望を捨てよ」とは言いません。キリスト教ではむしろ、
 「欲望を昇華せよ」
 あるいは、欲望をもっと高い次元の欲求に変えよ、と教えます。
 たとえば、人が性の快楽にふけりたいと願う。しかし性の快楽にふければ、そこに永遠の満足が得られるでしょうか。尽きない生命の躍動があるでしょうか。
 いいえ、そうした快楽は一時的・刹那的なものに過ぎません。やがては空しさを伴うでしょう。私たちは、最終的には、もっと高い次元の幸福を追求していくべきです。
 性の快楽は、ある意味では、永遠の神の世界にある歓喜の"代替物"にすぎません。性の快楽よりもっと高い次元の"永遠の幸福"というものがあるのです。
 私たちは、この地上の喜びを通し、さらに優れた天上の歓喜・幸福を求めることを、学んでいるのです。
 キリスト教は、天地の創造者なる"神との愛と生命の交わり"にこそ、最高最大の歓喜と、永遠の生命の躍動があると教えます。私たちは恋愛等の心情を通して、じつは、永遠の神との愛と生命の交わりの"影"を、おぼろげに見ているのです。
 "金銭欲"の場合も同様です。金銭に富み、好きなものを好きなだけ手に入れたいという願望を満足させれば、人は尽きない幸福を味わうことができるでしょうか。
 いや、そうした幸福は、やはり一時的・刹那的なものにすぎません。私たちは、自分の快楽のためだけに富を得るのではなく、むしろもっと高い次元の目的のために富を用いていくべきです。
 自分のみならず社会全体が繁栄するために富を活用することは、きわめて価値あることです。キリスト教は、社会、ひいては世界のすべての人々の生活が向上するための富の創出と、その活用に関心があります。
 私たちは金銭欲をも、より高い次元の目的を実現しようとの欲求に転じていくべきなのです。金銭欲をも転じて善意となすなら、それは価値ある目的を実現できるに違いありません。
 ですからキリスト教は、必ずしも「金儲け」を悪とは見ません。悪いのは、金儲けを人生の目的とすることや、自分だけが富むことです。
 金儲けは手段であって、神と隣人のために活用すべきなのです。大切なのは、金銭に生きることではなく、金銭を生かすことです。金銭を愛するのではなく、愛のために金銭を用いることこそ、肝要なのです。
 人間の欲望も、それを昇華し、より高次の欲求となしてそのエネルギーを善用するなら、尊い目的を実現できるでしょう。キリスト教は生産活動、経済生活、商売、その他の社会活動を"悪"とは見ないのです。それを不幸の原因とは見ません。
 キリスト教は、"欲望を捨てる"ことではなく、"願いの質を変革すること"を説くのです。


欲望よりも罪が問題

 キリスト教においては、欲望は「罪」に陥らない限りは、必ずしも否定されません。問題なのは、欲望よりも「罪」と呼ばれるものです。「罪」が人間の不幸の最大の原因と考えられているのです。
 「罪」は新約聖書の原語であるギリシャ語ではハマルティアといい、これには"的はずれ"の意味があります。
 「罪」とは、的はずれの心、思い、行為、生活のことなのです。本来あるべき道からはずれた生き方をいいます。法律でいう「犯罪」よりも、もっと内面的・精神的・霊的なものです。
 英語では、犯罪は CRIME といい、宗教的な罪は SINといいます。罪を表す SIN は、真ん中にI(私)があって、その両側にSとN、つまり南北があります。世界の真ん中にI(私)がいるという、利己的、また自己中心な状況なのです。
 これは、神を忘れた人間の姿でもあります。神を中心にすえず、神を忘れ、利己的で、自分の欲望を充たすことしか頭にない生き方などは、的はずれな生き方であり、罪というのです。
 「罪」は、天地を造られた神の御前における離反でもあります。神のみこころに反するすべての行為、言葉、思いをさします。キリストは言われました。
 「人から出るもの、これが人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま(ねじけた考え)、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり(傲慢)、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです」(マコ七・二〇〜二三)。
 これらは、罪の代表的なものです。あなたは、これらの罪のうち、自分には全く関係がない、つまりそのかけらもない、と言えるものが、一つでもあるでしょうか。
 このリストの中に「殺人」がありますが、これはあなたは犯したことがないかもしれません。しかし聖書は、「兄弟(隣人)を憎む者は人殺しです」(・ヨハ三・一五)と言っています。行為の上でまだ殺人を犯していなくても、思いの中で憎むなら、それは人殺しと同じなのです。
 そのほか、他人のものを奪うことや、結婚生活以外での不健全な性的行為、隣人に対するねたみや憎しみ、傲慢な思い、ねじけた考え……。
 さらに、愛のないこと、神に聞き従わないこと、神を否定すること、利己的な生活なども神の御前における罪です。
 ある人は、「罪」ということが、なかなかわかりませんでした。自分は人様に迷惑をかけたことも、あまりないし、善良に生きてきた、と思っていたのです。しかし、
 「罪の中で最大のものは、神様を信じないことなのですよ」
 と聞かされたとき、初めて自分の「罪」ということがわかりました。そしてそのように神に対して犯してきた罪というものがわかると、今度は自分の周囲の人に対して犯してきた様々の罪が、わかってきたのです。神の光に照らされると、自分の罪深さというものが、よくわかってくるのです。
 罪とは、自分が自分をどう思うかではありません。たとえば、自分は他人に比べて善人であると思っていたとしても、それは何の価値もありません。
 問題なのは、天地の主であられる神があなたをどう見られるかです。というのは、私たちは死後、審判者なる神の御前で、やがて「最後の審判」と呼ばれるさばきの座に立つことになるからです。
 その時そこには、あなたは独りで立たなければなりません。その際、あなたが自分をどう思っているかは、問題ではないのです。
 あなたは、今までの自分の行為や言葉を、すべて覚えているでしょうか。たぶん覚えていないでしょう。
 しかしその座において、天のスクリーンに、あなたの人生が記録映画のようにすべて描き出されるのです。それは自分も思い出したくないような暗部や、汚点をも、余すところなく描き出すでしょう。
 私たちは聖なるかたの御前で、それに耐えられるでしょうか。
 その時あなたは、死後の"裸の魂の状態"で神の御前に立つので、峻厳なさばきに対してきわめて敏感になっているでしょう。
 あなたは聖なる神の光に照らされて、自分の人生がいかに罪深いものだったかを、見るでしょう。
 それを見て、神の御前であなたは、
 「とても耐えられない!」
 と思うでしょう。「罪」とは、そのようなものなのです。
 人間は、とかく自分の行為を正当化したがるものです。また、他人が自分に行なった悪いことはよく覚えているのに、自分が他人になした悪いことは、とかく忘れてしまいがちです。
 しかし私たちはいずれ、死後に、すべてを知っておられる裁き主である神の御前に立たなければなりません。
 罪こそ、人間の不幸の最大の原因なのです。
                    

永遠のいのちを得た人々

 あなたは、今までの自分の人生を振り返ってみたとき、
 「自分の人生には何か足りない」
 あるいは、
 「自分の過去には汚点や醜いものがあった」
 「自分の生き方には的はずれな部分があったのではないか」
 と感じたことはありませんか。
 また、私は最初にあなたに質問をしました。今晩、寝ている間にあなたが突然死んでしまったとしたら、あなたはどこへ行くかと。
 あなたは自分が死んだとき、天国で目覚める、と言える確信を心に与えられていますか? 死後、神の御前に立ったとき、
 「あなたは天国へ行きなさい」
 と神に言っていただける確信を、与えられていますか? それとも、
 「とても天国へは、行かせてもらえないだろう。むしろ地獄への宣告を受けてしまうのではないか?」
 と思いますか。もし、「天国へ行けるだろう」と思うなら、それはなぜですか。「人様に迷惑をかけて生きていないし、それほど悪いことはしていない」からですか。しかし聖書は、
 「義人はいない。ひとりもいない」(ロマ三・一二)
 と言っています。すべての人は、罪人なのです。私ははじめて先ほどの質問を受けたとき、
 「私はおそらく地獄への宣告を受けるだろう」
 と思いました。ところが、聖書には次のように記されています。
 「私(キリストの使徒ヨハネ)が、御子(キリスト)の御名を信じているあなたがたにこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです」(Iヨハネ五・一三)。
 キリストの使徒ヨハネは、自分が教会に書き送った手紙について、「これらのことを書いたのは、(キリストを信じている)あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるため」である、と述べているのです。
 自分が「永遠のいのち」を与えられていることを自覚している、一群の人々がいるのです。彼らは、たとえ今晩自分が死んだとしても、天国で愛の神のみそばに生きることができる、と知っているのです。
 クリスチャンとは、このような人々です。彼らは、なぜそのように思えるのでしょうか。それをお話ししましょう。


新生の経験

 聖書に、次のような記事が載っています。
 イエス・キリストが宣教活動をしておられる頃、ある晩、「ニコデモ」という名の人が訪ねてきました(ヨハネによる福音書三章)。
 彼は「ユダヤ人の指導者」の一人で、「パリサイ人」と呼ばれる一派に属する人でした。「パリサイ人」とは、本当は「パリサイ派の人々」と訳したほうが良いのですが、ユダヤの律法を厳格に遵守しようとした一派のことです。
 この人が「ある夜」(ヨハ三・二)、キリストのもとに一人で訪ねてきました。
 当時、パリサイ人の多くは偽善的で、しばしばキリストによって批判されていたため、キリストとパリサイ人との間は一般的には相いれないものがありました。
 しかし、そのなかでニコデモは、キリストの教えとそのなさるわざに、素直な興味を抱き始めていたのでしょう。彼は、他の仲間の目をさけるように、一人で、しかも「夜」、キリストのもとにやって来ました。


ニコデモは夜、イエスのもとへやって来た

 昼間だと、人目につくからでしょうか。ニコデモが人目をさけて「夜」やって来たのは、きっと彼の内面に一種の"心の夜"があったからに違いありません。
 彼は「ユダヤ人の指導者」でしたから、知的にもすぐれ、深い学識と教養をもっていました。また道徳家だった彼は、何かの犯罪を犯したわけでもなかったでしょう。おそらく彼は肉体的にも健康で、どこと言って悪いところはなかったに違いありません。
 しかし彼は、魂に不満足を感じていました。自分が嫌いになることや、人生に空しさを感じることも、あったかも知れません。
 このような"心の夜"は、ニコデモに限らず、今日の多くの人にもあるのではないでしょうか。仕事に追われているときや、レジャーをして楽しんでいるときは感じないが、ふと一人になって物思いに耽ると、心の内に、何かポッカリと空いた空洞を感じる。満たされない、暗い空洞を感じる。
 人には、ときおり、夜眠れないような"心の夜"があるものです。自分が生きるのはなぜか。人生の意味は何か。学識によっても、富によっても満たされることのないこの思いを、どこに行ったら解決できるのか。
 ニコデモは、イエス・キリストのもとに行ったら、何か光が与えられるかも知れない、そう思って訪ねて来たのでしょう。
 彼はキリストに会うと、
 「先生、私たちはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません」
 と挨拶しました。ところがキリストは、ニコデモを見つめて、唐突にも次のように言われたのです。
 「まことに、まことにあなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国(天国)を見ることはできません」。
 このように言われて、ニコデモは戸惑い、
 「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか」。
 と質問しました。彼はキリストの言われた「新しく生まれる」とは、もう一度母の胎内に入って生まれることだと思ってしまったのです。しかし、キリストの言われたのは、魂の新生のことでした。
 キリストがニコデモに対して、だしぬけにこのように言われたのは、キリストがニコデモの内なる心の夜を、すぐさま見抜かれたからです。キリストは、ニコデモの必要をご存知でした。
 ニコデモはユダヤ人でしたから、神の存在は疑うことはありませんでした。天国や地獄のことも、子どもの時から信じていることでした。しかし、彼には一つの問題がありました。
 「はたして自分は、天国に入れるだろうか」
 という問題です。天国があるのは知っている。そしてそこでは、神による尽きない至福の生命である「永遠のいのち」に生きることができるということも、知っている。
 しかし彼は、はたして自分が、この自分が天国に入れるかどうか、それがわからなかったのです。ニコデモは本当は、
 「私が神の国に入るためには、いったい何をしたら良いのでしょう」
 と聞きたかったのに違いありません。キリストはそれを見抜いて、単刀直入に、
 「まことに、まことにあなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」
 と言われたのです。これはまさしく、今の私たちにも語られている言葉なのです。

新生とは永遠の命に生まれること

 私たちは一度、母の胎内から生まれ、肉体のいのちに生まれました。これは生物学的な生命です。しかし、人はもう一度、神のお与えになる霊的生命――永遠の生命に生まれなければなりません。
 誰でも二度生まれなければなりません。二度目の誕生日が必要なのです。
 にわとりは、まず卵として生まれます。たしかにその卵は、この世界の中に生まれ出ました。そしてその卵の中で次第に成長し、ひなとなって、やがて卵の殻を破るまでになります。
 しかし、その卵の殻を破るまでは、本当の世界をまだ見ていません。その卵の殻を割って外に出るとき、そのにわとりは、第二の誕生を迎えるのです。
 人間も、一度生まれただけでは、まだ本当の世界を知りません。あなたは、自分の殻を破らなければなりません。外の本当の世界に出てこなければなりません。
 人は、新しく生まれ変わらなければ、神の国を見ることはできません。生まれながらの人――第一の誕生しかしていない人は、肉体的な生命は持っていますが、まことの命、天国の命を持っていないのです。むしろ、罪という魂の病気を持っていて、滅びゆく者です。
 「新しく生まれる」とは、単に外面的な生活態度が変わるとか、気分が変わるとかいうものとは違います。新生の際の外面的な変化は、内面的また本質的な変化から生じるものです。
 こういう話があります。ある男が、豚をペットにしようとしました。もの好きと言えばそうでしょうが、ともかく豚をペットにしようとしました。
 彼は豚を家の中で飼い、お風呂に入れ、香水をふりかけました。首にはリボンをつけて可愛がりました。彼の努力で、その豚はなんとも、良いペットになりました。
 彼はとても喜んでいました。ところが、彼が戸を開けたときでした。豚の目に、外の泥水の池が見えたのです。豚は一目散に、その泥んこの中へ戻っていってしまいました。
 豚の習性がそうさせたのです。その豚が豚である限り、豚は泥んこの中へ戻っていくのです。
 私たちもそうです。私たちも人間の罪人としての性質を持って生まれました。私たちは、一人一人が罪深い人間です。新しく生まれ変わらない限り、どんなに外面をつくろっても、再び罪と滅びの泥沼にはまっていくのです。あなたは新しく生まれなければなりません。そしてそれをして下さるのは、イエス・キリストです。
 神は、
 「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける」(エゼ三六・二六)
 と言って下さっています。また、
 「キリストによってすべての人が生かされる」(Iコリ一五・二二)
 とも約束されています。つまりイエス様の与える生まれ変わりの経験は、外面的なものではなく、内面的・生命的なものです。聖書はさらにこう言っています。
 「誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなりました」(Iコリ五・一七)。
 ここで「新しくなりました」と、完了形が使われていることに、注意してください。またイエス様は、こう宣言されました。
 「私の言葉を聞いて、私を遣わしたかた(神)を信じる者は……死から命に移っているのである」(ヨハ五・二四)。
 すなわち創造者なる神を信じ、キリストを救い主として心に受け入れる者は、滅びから永遠の命に移されるのです。正確に言えば、キリストを信じる者は、すでに永遠の命に移されています。
 「信じる者は……死から命(すなわち永遠の命)に移っている」
 とキリストは言われました。すでに移っているのです。
 この御言葉によりクリスチャンは、自分がすでに永遠の命を持っていると、認識しています。キリストはそのような確信を、私たちに与えて下さるかたなのです。

久保有政

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