好地由太郎
元終身刑の囚人。
23年の獄中生活の後に、伝道者となった人物
鉄窓23年
明治時代、発作(ほっさ)的に人を殺してしまい、二三年の獄中生活を送り、獄中でキリストによる大回心を経験、特赦(とくしゃ)となって出獄、そののち伝道者となって全国を巡回し、数多くの人をキリストに導いた人がいる。その名は好地由太郎(こうちよしたろう)。
好地(こうち)は一八歳の時、情欲の虜(とりこ)となり、その末に発作的に勤め先の女主人を殺害してしまった。彼は犯行を隠すために、その家に放火。しかし、捕らえられ、未成年であったため終身刑を科せられた。
獄中でのある日、義母が聖書を差し入れてくれた。それを読んでいるうちに、好地は御言葉に捕らえられ、ただひとり回心した。
彼は心底から生まれ変わり、模範囚となり、やがて特赦を受けて出獄を許される。それは、獄に下ってからじつに二三年目であった。
しかし、人を殺して獄にいた者を見る世の人の目は、当然ながら厳しかった。痛ましい殺人の記憶は、好地の心からも、関係者の心からも消え去るものではない。
けれども、獄を出た彼は、もはや以前の彼ではなかった。彼はキリストの愛と赦しを知って、真に生まれ変わっていたのである。彼の行動には、そのことが隅々にまであふれていた。
やがて彼の存在は、その周囲に大きな影響を与えていった。
ある時彼は、一家六人が心中しようとするところに駆けつけ、神の測り知れない知恵と力と愛によって彼らを救出した。また、その後彼らの親類までも導かれて、キリストを信じるようになった。
ある時は、娼婦のために楼主(ろうしゅ)(娼婦の館の主人)とかけあい、やくざに囲まれた中で、ついにその娼婦を無傷で救出した。また、彼が重病人のために祈ると、その人が奇跡的にいやされるということもあった。
またある時は、監獄に伝道に行くと、刑務所長が感激し、涙を流して紹介の言葉を述べてくれた。彼の話に聞き入った囚人の多くが悔い改め、中には当日脱走を企てていた者がいて、自首して出た。
好地は、キリストを信じることは「自分に死ぬこと」であること、そして「キリストの命に生きることである」ことを、よく知っていた。彼という一人の人間は、じつにあの獄中の大回心のときに、死んだのである。そしてキリストにあって、「新しい人」に生まれ変わったのだ。
彼は自分の生命を、すでにキリストに全く捧げていた。もはや彼の命は、彼のものではない。キリストの御手にある。
彼は獄を出て、多くのことを行なった。ここで一つの出来事をご紹介しよう。
それは彼が、日本全国の監獄をたずね、巡回伝道をしているとき、北海道・函館の監獄であったことである。以下は、好地由太郎本人の筆による。
[中之目丹治への伝道] 好地由太郎
「ぜひ語りたいことは、函館監獄において、中之目丹治(なかのめたんじ)という死刑囚の悔い改めたことであります。
私が帰途、函館にまいりました時、ちょうどクリスマスの前でした。いずれの教会もその準備に没頭して、臨時集会などを開くのは不可能だと言われて、私は失望しました。しかし中之目丹治の悔改めを見て、ただこの一事のご用のために、今回の北海道のご用の全部を犠牲にしても、決して悔いるところはないとまで感謝しました。
実は函館監獄を訪ねて、すでに数回の講話をした後のことでした。ある日典獄(てんごく)(刑務所長)が、
『独房に、一人の囚徒がすでに死刑の宣告を受け、その執行を待っています。それは樺太(からふと)の人間で、中之目丹治といい、相当の家に生まれ、教員をしたことのある青年です。ところが彼は自分の刑に服せず、裁決が不法だと言っては、誰にでも食ってかかり、悪口雑言(あっこうぞうごん)、乱暴極まりなく、始末に困っています。どうか会ってやってください』
という頼みです。
私は快諾(かいだく)して、面会しました。
彼は目をむき出して、大喝一声(たいかついっせい)、「貴様は何者だ!」と尋ねます。
『私は、昔は君と同じように死刑の宣告を受け、鉄窓(てっそう)二三年の憂(う)き年月を送った者だが、今はキリストを信じて、神の子とせられ、司法大臣の許可を受けて、真人間にしていただいたお礼に、日本全国の監獄をお訪ねしている好地由太郎という者です。ご不満のことは何事でも打ち明けてお話しください。ご相談のお相手になりましょう』。
彼はしばらく黙って、何か考えている様子でした。それから手を握り、口を開いて、
『ぼくは日本男児です。教育家です。善人です。慈善家です。それなのに、このぼくを捕らえて死刑に処するとは何事か。裁判官も弁護士も、典獄(刑務所長)も看守も、教誨師(きょうかいし)(受刑者を善導する人)も、ろくな奴は一人もいない。
ぼくが何と言っても取り上げず、取り調べもせず、自分勝手に罪に定めて、天下の良民を死刑にするとは何事か。ぼくは死刑にされるのが恐ろしくはない。ただ不法の宣告を受けたのが残念だ。
なるほど人を殺したから、道徳上は幾らかの罪はあるだろう。けれども正当防衛だ。死刑にされるはずはない。君も一度はそんな目にあったならば、ぼくに同情することができるだろう』
と、自分一人でしゃべり続けます。私は、このように自分を身勝手に義人呼ばわりする頑迷な心を、いかにして悔い改めに導けるかと、一時は当惑しました。それから神に祈って助けを求め、
『それ神のことばには、あたわぬことなし』(ルカ一・三七)
と信じました。
『君は罪を犯したが、死刑はひどすぎると言われる。元来罪というものは、商品と異なり、高い安いとこっちから値切れるはずのものではない。先方のくださるものを喜んで受けるべきはずのものです。また、何年でも憂(う)いて受けるなら死となり、喜んで受ければいのちとなります。
君も長く生きたいと思うなら、喜んで殺していただくことです。人に殺されますと死にますが、お願いして殺していただけば決して死にません。必ず永遠のいのちを見いだします。
死にたくなくて殺されるから、苦しくもあり、また肉も霊も共に死にます。ですから、死刑を安く値切らず、君の方から喜んで死刑にしてもらいなさい。そうすれば、君も私と同じように、老・病・死という、いやなものから救われて、不老不死に至ります。つまり無色の色を見、無声の声を聞くことができます。
君は今、人生問題を解決するに最も好適な交差点に立っております。地獄へ行くも天国へ行くもただ一息です。私も死刑の宣告を受けた時は、この交差点に立って苦しみました。
私は二五歳までは命がけで、悪しき事のために死にたいと思いましたが、外面からは勇ましく見え、また自分でもそうだと思っていました。それはただ死の力であって、全く悪魔に欺(あざむ)かれておったのです。
そこで二五歳、すなわち明治二三年一月二日限り、大改革をして、今度は良き事、正しき事のために早く殺していただくことを定めました。神のみ旨とあらば、いつでも、否、今すぐにでも死んであげますと、決心して祈ると同時に、心の煩悩(ぼんのう)は全く取り去られ、真の平和が心に宿ったのです。爾来(じらい)、今日に至るまで、その死の与えられる日を待ちながら、このようにご恩に報いるために働いております』
と自分の偽りのない体験を語って、同情の涙と共に、熱誠(ねっせい)を込めて説きました。すると、さしもの彼もその場にぺたんと座して、両手をつき、
『先生、恐れ入りました。神の声が聞こえました。神のみ顔が見えました』
と、涙にむせんで悔い改めました。げに奇(くす)しきは、神の愛であります。石のような心がたちまちに砕かれて、肉のように柔らかく温かくなり、私ども二人は手を取り合って、共に祈り、感謝の涙にむせんだのでした。
かの十字架上の盗人(ぬすびと)(ルカ二三・四一〜四三)と同じように、私ども二人は、この日、明治四三年一二月二五日、身は函館監獄の典獄(てんごく)室(刑務所長室)にありながらも、霊は主と共にパラダイスにあるを覚えました。また、罪なくして罪人(つみびと)とせられ、我らに代わって贖(あがな)いとなってくださったキリストの御名を、心の限り賛美したことであります。
その後における中之目丹治の変わりようは、きわめて著しいものがありました。典獄はじめ役人たちも非常に感心し、一般囚徒の模範となり、また監獄改良の好材料ともなるとして、語り伝え、聞き伝えして大評判となりました。
ついには典獄から司法大臣へ上申した結果、中之目丹治の刑の執行期限が、百日のところを満一か年猶予することになりました。それだけでなく、毎月数回の通信が特別に許され、自己の修養をすると共に、家族その他、多くの人々を救いに導き、監獄の内外にたいへん良き感化を残しました。
そして翌明治四四年一一月二九日、喜び勇んで刑の執行を受け、一足跳(いっそくと)びに天父のもとに帰りました。
回心した中之目丹治の手紙
中之目丹治が生前によこした書簡の二、三をお目にかけましょう。
『・・・・哀(あわ)れ肉は獄中にあるも、魂は常に楽しき牧場に逍遥(しょうよう)しつつあり、その幸福じつに大なり。朝夕感謝の涙払うに暇(いとま)ありません』。 明治四四年三月一〇日
『・・・・私こそ特殊の天恩(てんおん)により、じつに意想外(いそうがい)の余日(よじつ)が与えられ、いよいよ修養の時日(じじつ)を得、ますます信仰を堅うし、幽暗(ゆうあん)なる監獄にあって、塩たり光たらんことを祈り、緘黙(かんもく)と暗涙(あんるい)の中に信仰を実現し、他を導化したるも少なからず。今や監内に聖書を読むの声高く上がると聞くに至り、じつに欣喜(かんき)に堪(た)えざる次第に候(そうろう)』。 明治四四年九月一四日
『・・・・もはや臨終も今日明日と迫りあることなれば、逝(ゆ)きたる時は、御前(みまえ)において皆々様のために祈祷いたします』。 明治四四年一〇月一三日
『・・・・わが老母は、暗涙をもって書をわれに寄せたり。いわく、わが目今覚めたり。丹治よ、この母は今、汝と国を共にすと。彼女は今年五八歳。しかも頑固一点張りの仏教徒にてありしなり。しかるに今や悔い改めて、近く洗礼を受けんとするに至れり。じつに感謝に堪えざるなり』。 明治四四年一一月二九日
『粛啓(しょくけい)、今立ちて御父(みちち)に行く。時至らばまた来たらん。願わくは親愛なるわが師よ。ますます強健にして勇敢ならんことを。 明治四四年一一月二九日、於函館監獄
旅立つ朝。中之目丹治 享年二五歳。 好地由太郎様』」。
以上、好地由太郎の文章、およびその中に記された中之目丹治の手紙をご紹介したが、ここに彼らが、自分の生命を全く主キリストに捧げていたことが読み取れよう。聖書の中で、かつてヨブという人は、
「主は与え、主は取られる」(ヨブ一・二一)
と言ったが、彼らもまたヨブと同じように、
「わが生命は主のもの」
という認識を持っていた。自分の残された日々について、彼らは全く主におまかせしていたのである。彼らが、自分の心にわきあがる罪責感に押しつぶされなかったのは、そのためである。
彼らは、もはや自分のためでなく、主のために生き、主のために死ぬことを決心していた。自分の残された日々の長い短いによらず、ただ神の愛をあらわすために生きたのである。
これは、単に彼ら死刑囚だけに言えることではない。"自分に死に、キリストの内に生きる"ことにこそ、すべての人の最高の悟りがある。かつてキリストは言われた。
「自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失った者は、それを自分のものとします」(マタ一〇・三九)。
ここに見る二人は、同じ罪を犯しながら、一人は特赦を受けて釈放となり、もう一人は獄中生活一年と少しで実際に死刑台に向かった。どちらも獄中で回心したのだが、その後の余生として与えられた日数は、大きく違った。
これは一見、不公平に見えるかも知れない。しかし、これは一方には釈放された者でなければできない伝道が、そして一方には、監獄にとどまった者でなければできない伝道があったからである。
あるいは、釈放された者でなければ現わせない神の栄光、および刑にとどまった者でなければ現わせない神の栄光があったからだ、と言ってもよい。神は、前者を好地に、後者を中之目におまかせになった。
これは神のご主権による。しかしふたりとも、それをただ感謝して受けた。そして与えられた日々を、各々の使命に燃えて熱く生き、それをりっぱに果たしたのである。
久保有政著
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