捨て石となった人々
大いなることを実現するため、自ら犠牲となり、
喜んで捨て石となっていった人々がいる
「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった」
[聖書テキスト]
「『もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。ると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。しかし、そのあと、その主人は、「私の息子なら、敬ってくれるだろう。」と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。「あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。」
そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。』彼らはイエスに言った。『その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。』
イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。」
だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与えられます。また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。』
祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。それでイエスを捕えようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者と認めていたからである」
(マタイの福音書二一章三三〜四六節)
[メッセージ]
今日は、この四二節の御言葉を中心にお話ししたいと思います。
「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」。
これは旧約聖書・詩篇一一八篇からの引用です。一一八篇のその前後を引用してみますと、
「私はあなたに感謝します。あなたが私に答えられ、私の救いとなられたからです。家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。これは、主が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう」(一一八・二一〜二四)
暗示的な形ですが、これはキリストの十字架の死を語っています。詩篇一一八篇はメシヤ詩篇の呼ばれるものの一つで、メシヤ=キリストの生涯に起こることにしばしば言及しているのです。「家を建てる者たち」とは、神の家を建てるべきユダヤ人指導者たちのことです。彼らが「捨てた石」とはイエス・キリストのことです。ユダヤ人指導者たちはイエス様を捨てて、十字架につけてしまった。
ところが、それが神の家の「礎の石」になった。礎石ですね。家の土台石。隅のかしら石となったのです。キリストは、教会という神の家の「礎の石」となられました。
ビルの入り口の「定礎」石。建物の基準となる石で、
英語のコーナーストーン(隅のかしら石)に相当する。
大きなビルディングなどにはよく、入り口付近などに「定礎」という文字を刻んだ板がはめ込まれていますね。定礎とは、建物の土台石をきちんと定めて、工事にとりかかることをいいます。その定礎の日、竣工日をそこに書き記しています。イエス様の十字架の日、つまり神の救いのみわざがなされた日こそ、この神の家の定礎の日となったのです。「これは、主が設けられた日である」。
不思議なことです。ユダヤ人指導者たちが捨てた石が、かえって本当の神の家の礎の石になった。土台石となった。私たちの目には不思議だけれども、そこに神のみわざが働いたのです。
家を建てる者たちの見捨てた石
イエス様はここで、たとえを語られています。ぶどう園の主人は、しもべたちをぶどう園に送ったけれども、農夫たちに次々に殺されてしまった。このぶどう園とは、イスラエルのことです。ぶどう園の主人とは神様、そして主人が送ったしもべたちとは、イスラエルに送られた預言者たちです。彼ら預言者たちは殺されてしまった。
そののち主人は、自分の息子をぶどう園に送ります。息子なら敬ってくれるだろうと思って。この息子とは神の御子イエス様です。しかし、ぶどう園の農夫たちは、この息子をも殺してしまう。イエス様は、ご自分の身に起こることを、このようなたとえをもって語られたのです。しかも当時のユダヤ人指導者たちを相手に。
彼らユダヤ人指導者たちは、あまりに図星なことを言われて心の中で腹を立てますが、そのときはまだイエス様を捕らえることができなかった。それにしても、イエス様は相手が誰であろうと、物事をはっきり言われますね。イエス様は、ご自分の身に起こることを、何もかもよく知っておられた。そして、それを語ることを躊躇されませんでした。
「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」
イエス様は、私たちを救うための捨て石となられました。しかし、その捨て石が、私たちの救いの土台石となった。世の中をみても、捨て石があって初めて成し遂げられた、というものがしばしばあるのです。イエス様の十字架の犠牲は、その最たるものでした。
私たちは、「捨て石」となる、ということがなかなかできません。捨てられて、ふみつけられて、泥まみれになるということが、なかなかできない。やはり自分がかわいい。自分が犠牲になるなんて、とてもできない。そう、無価値なもののためならば絶対にできません。その必要もないでしょう。
しかし、どうでしょうか。そのことにもし偉大な目的があり、偉大な価値が伴うならば?
偉大な、大いなることを実現するために、自ら犠牲となり、喜んで捨て石となっていった人々がしばしばいます。
必死の伝道
先日、小澤利夫兄(千葉・シロアムキリスト教会員)と電話で話すことができました。彼は、かつては創価学会の大幹部だった人です。公称一千万人という創価学会のピラミッドの一番上で働いていた。しかし、創価学会の金と名誉ばかりを求める体質に嫌気がさして、そこを抜け出ました。
小澤さんはその後、「幸福の科学」に迎えられました。やり手だったので、教祖の大川隆法氏に目をかけられて、幸福の科学のナンバー2として働いていました。しかし、そこでも「これはニセモノだ」とわかって、抜け出た。ナンバー2の座にいれば、地位もお金もありました。しかしそれらすべてを捨てて、そこを出たのです。小澤さんはそのあと、クリスチャンになりました。
「やっとホンモノの教えに出会えました」
と喜んで、今も伝道に励んでおられます。以前、彼の証しを『レムナント』誌にお載せしたことがあって、大きな反響をいただきました(一四九号)。すでに八〇歳。この前、彼はガンの摘出手術をしましたので、「経過はいかがですか」と聞くと、「以前より元気になりましたよ」と明るい声。「5月には高砂教会に話をしに行くんです」と。伝道を再開してくれたことに、私は大変うれしく思いました。
その小澤さんが、「久保先生、いま私の内には大きな悲しみがあります」と言う。「何ですか」。
「私がクリスチャンになって五年たち、日本のキリスト教会をいろいろ見てきましたけれども、クリスチャンは本当に伝道しないですね。私が創価学会にいたときは、不惜身命の心で必死に布教しました。幸福の科学でもそうでした。でもクリスチャンは、信徒も牧師も本当に伝道しません。自分だけが天国に行けばいいと思っているのか、とでも言いたくなります。一年に一人伝道すれば、一年間で教会は二倍になります。二人伝道すれば、教会は三倍になる。なのに、それさえもしないから、教会はいつまでたっても大きくならず、クリスチャンは増えません」
小澤さんは、そうしたことを切々と訴えました。高齢になってなお、体を打ち叩いて伝道しておられる小澤さんの目から見ると、今のクリスチャンの伝道が本当になまぬるく見えてしまうのです。小澤さんは特攻隊の生き残りです。あのとき、自分は第二の人生をもらったという気持ちが強いのですね。本当は自分は死んでいた。いや死んだのだ。小澤さんはそれで、第二の人生を神様のために捧げたのです。だから今も、不惜身命(ふしゃくしんみょう)の心で伝道しておられる。私は、
「小澤さんのスピリットを持った人が日本全国に一〇〇人生まれれば、日本の伝道に火がつきます」
と言いました。いや、一〇〇人でなく、一〇人でもいい。それは私の祈りでもあります。小澤さんのようなスピリットがもっと伝染してほしい。小澤さんは自分が捨て石になってでも、日本の伝道に火をつけたいと思って励んでおられるのです。
そんなに伝道したからといって、小澤さんが何かの得をするわけじゃないでしょう。しかし、滅び行く人を一人でも多く救いに導きたい。それは、やむにやまれぬ伝道心です。
利口になりすぎていないか
私たちは、どうでしょうか。今のクリスチャンは少し「利口」になり過ぎていないか。「そんなに伝道して一体何の得があるのか」とソロバンをはじいていないか。
新島 襄。
「諸君が本学で学んだ由縁は、馬鹿になるためだ」
かつて同志社大学をつくった新島
襄(にいじまじょう)先生は、大学の卒業式の訓示の中で、
「諸君が本学で学んだ由縁は、馬鹿になるためだ」
と語られたくだりがあります。世の中は、あまりに利口な人間が多すぎる。すぐソロバンをはじく。打算的です。彼らは自分の得にならないものは、しようとしない。しかし、本当に必要なのは、そういう人間ではありません。自分の得にならないことをする人は、世間からは馬鹿にみえるでしょう。しかし、神様が求めておられるのは、そういう馬鹿な人間です。
たとえ自分の得にならなくても、大いなることのためには自分の人生も命も財産も捧げてしまう。たとえ捨て石になってでも、神のため、人のため、福音のために働く。そういう馬鹿な人間を、神様は求めておられるのです。
イエス様をみたら、それがよくわかります。あんなにひどい十字架刑。それを避けようと思えば避けられるのに、イエス様はあえて、十字架への道を歩まれました。打算的な人間なら絶対できないことです。いや、どんな人間にもできない。
自分の得になるとか、ならないとかを、イエス様はもう超越してしまっているのです。ただ神のため、人のために、十字架への道を歩まれた。神様が求めておられるのは、すべての打算を乗り越えて、大いなる価値のために生きる人です。たとえ世間からは馬鹿と言われようと、ただ自分の信じることのゆえに歩む。小澤さんは「伝道馬鹿」といえるくらいに伝道します。私は神学校の卒業式のとき、先生から、
「三度のメシより伝道が好きな伝道者になれ」
と言われたことを覚えていますが、小澤さんはそういう人だと思います。
私の友人にも、そういう伝道馬鹿、三度のメシより伝道が好きな伝道者が幾人かいます。「ミッションともだち」の大塚満先生もそのひとりです。一人の迷える羊を立ち直らせるために、茨城であろうと群馬であろうと飛んでいく。
私がレムナント誌を始め、伝道を目指したのも、そうした「神様のための馬鹿」になりたいと思ったからです。この日本には、もっともっと神様のための馬鹿が欲しい。たとえ損であろうと、たとえ捨て石になるようなことがあろうと、神様のために働きます、人々の救いのために働きます、日本を救うために立ち上がります、という人が欲しい。
そういう捨て石を通してでなければ、築き上げられないものがあります。
インパール作戦は失敗だったか
先の戦争のときのことですが、その終わり頃、日本が行なった軍事作戦に「インパール作戦」というのがありました。インパール作戦は、日本がインドを独立させるためにとった軍事行動です。日本から一万キロも離れた遠いインドの地での戦いでした。
当時のインドは、イギリスの支配下に置かれて、それはそれはひどい搾取を受けていました。イギリス人は、現地のインド人に対しては一片の愛情も見せませんでした。インド人は家畜と同様の扱いを受けていた。
インドはますます貧しくなり、イギリスはますます富むようになっていました。インド人の多くも、白人の大帝国イギリスに対しては、どんなに刃向かっても勝てないと思っていた。彼らは、あたかも去勢された動物たちのように、生きざるを得なかったのです。
しかし、インドの独立を目指す「インド国民軍」というものが誕生しました。日本の軍隊は彼らと協力して、インドからイギリスを追い出すために、インパール作戦というものを実施した。それは純粋に、インドを白人の支配から解放し、独立させるための戦いでした。日本には何の野心もありませんでした。日本はインドの独立を手助けしたのです。
インド独立のため、日本はインパール作戦を実施した。
写真は日本軍と共に作戦に参加したインド兵ら。
しかし結局、インパール作戦は惨めな敗北を喫しました。惨憺たる結果だった。すでに大東亜戦争の終わり近くのことですから、日本の軍隊にはろくな装備がなかったのです。その一方、彼らを迎え撃つイギリス軍は、圧倒的な軍事力で待ちかまえていました。
日本の兵隊たちはそれでも、インド兵と一緒になって、インド北東部のインパールで勇敢に戦いました。けれども、彼らはイギリス軍にどんどんやられてしまいました。かろうじて戦闘を生き残った人々も、食糧がありません。補給路を断たれていました。彼らはマラリヤと、飢えと、栄養失調と、脚気と、その他の病気などにかかって、どんどん死に絶えていきました。そうやって三万人もの犠牲者が出た。
インパール作戦は完全な失敗だったと、よく言われたものです。遠い異国の地で死んだあの多くの日本兵たちと、インド兵たちは犬死にだったと。ああ、何と悲惨な戦いだろう。こんな無謀な戦いがあるだろうか。多くの人たちが、インパール作戦をよくとりあげては、日本の無謀な戦いを非難したものです。
しかし、この戦いは決して無駄ではなかった。なぜなら、このインパール作戦がもとになって、結局インドは独立を果たしたのです。あの作戦で死んだ彼らの屍は、インド独立のための捨て石となった。
インパール作戦のあと、イギリスは日本に勝ったことで、ますますインドに対する締め付けを強めようと計りました。日本軍に協力したインド国民軍の生き残り将校を、イギリスは軍事裁判にかけると発表した。つまり、イギリスにさからったインド人たちを、血祭りにあげようというわけです。彼らを厳しい刑に処すのだ。彼らを見せしめとして、インド人をますます隷属させよ、というわけです。ところがです。そのとき、それまではおとなしく隷属していたはずのインド人たちが、突如、立ち上がったのです。
「インド国民軍の人たちは、わがインドを愛した愛国者たちだ。彼らを救え!」
と。そしてインド全域で、民衆たちは反イギリスをかかげ、独立運動の炎を燃え上がらせたのです。人々は、議会での糾弾、新聞や集会を動員しての宣伝活動を行ない、激しい法廷闘争を始めました。また全国的規模で、デモ行進が繰り広げられ、人々はもはやイギリス政府の言いなりにはならなくなりました。
インドの独立運動に火がつく
その象徴的な出来事の一つが、インドの首都デリーでもたれたイギリスによる対日戦勝記念行事でした。日本軍に勝ったことを記念するこの行事を盛大に執り行おうとしたのですが、デリーの市民たちは、こぞってこれをボイコットしてしまったのです。
人々は、家ごとに弔旗をかかげ、店も学校も工場も映画館も一斉に閉ざしてしまいました。鎧戸をかたく降ろして、「戦勝記念日反対」のビラがあちこちで撒かれ、貼り付けられました。
イギリスは、インドの独立を目指して戦ってくれた人たちを殺した、そんなイギリスを祝福するなどできるものか、という抗議です。こうして、インド人たちの独立運動は、もはや誰も止めることのできない勢いとなったのです。
そういう中で、あのガンジーの非暴力運動も効果をあげました。しかし、ガンジーの運動は一部のものでした。それだけではインドは独立しなかったでしょう。インド全域の民衆の心に火をつけたのは、むしろインド国民軍の犠牲だったのです。
やがて、ついにイギリスはインドを手放しました。
「もはやこんなインドを統治することはできない」
と、手を引いたのです。これ以上インドを握っていたら火傷をすると言って、ついに手放した。そのとき、インド国民軍のために弁明をなしたパラバイ・デサイ博士は、こう述べました。
「インドはほどなく独立する。その独立の契機を与えたのは日本である。インドの独立は日本のおかげで三〇年早まった」。
このように日本軍と、インド国民軍が一緒になって戦ったことがもとになって、インドはそれまでの約三〇〇年間の奴隷状態から解放されました。あの三万人の日本人とインド人の犠牲者は、決して無駄ではなかったのです。ですから私は、犠牲者の霊たちに心からこう言いたいと思います。
「あなたがたのおかげで、インドはついに独立しました。また、ほかのアジア諸国も、独立を果たせました。あなたがたの心は今、アジアに生きています」
さて、日本人たちと一緒に戦ったインド国民軍というものがあったと言いましたが、インド国民軍を作ったのは、いったい誰だったでしょうか。
それは藤原岩市(ふじわらいわいち)という日本人でした。彼は、有名な陸軍中野学校の出身者です。これは知る人ぞ知る、秘密戦士を養成する学校です。軍服を着ないで、私服でいろいろな国に行って隠密活動をします。妻にも子供にも親族にも決して身分をあかしません。行動もすべて秘密。
藤原岩市氏。インドや東南アジア諸国独立
のため、目覚ましい働きをした。
007ジェームズ・ボンドのような存在ですけれども、藤原さんは映画の中の人物ではなくて、実在の人物。彼ら秘密戦士の目標は、日本を守り、アジア諸国を白人の支配から解放することでした。彼らは、ビルマやマレーシア、インド、インドネシアなどにおいて、現地の独立運動を鼓舞し、支援し、組織していったのです。
彼ら秘密戦士は、その任務につくにあたって、一切の名利も地位も求めず、人知れず働き、日本の「捨て石」として朽ち果てることを信条としていました。そうした秘密戦士の中でも、藤原さんは最も目覚ましい働きをした人です。彼はマレーシアを独立に導き、インドも独立に導きました。彼の言葉を聞いて、インドの多くの人々が独立運動のために立ち上がったのです。
彼の働きなしには、インドの独立は決してなかったでしょう。
インドを独立させた日本人
戦後、藤原さんは、イギリス軍の捕虜になりました。いろいろな裁判にかけられましたけれども、結局、容疑が晴れて釈放となった。しかし最後に、探偵局に連行されて、局長であるイギリスの大佐から質問を受けました。
最後の日、局長は、藤原さんにお茶を出してくれて、ていねいな言葉でこう言ったのです。
「あなたがなしてきた工作活動は、まことにグローリアス・サクセス(栄えある成功)であった。私は敬意を表する。しかし、なんとしても納得しかねる点があるのだ。それを説明してもらいたい。あなたは短期間、大本営の情報、宣伝、防諜業務にたずさわっただけだった。この種の秘密工作の特殊訓練も、実務経験もない素人だという。
しかも、語学にしても現地の言葉は話せないし、以前はマレー、インドの地を踏んだこともない。このたびの現地関係者とも、事前に何の縁もなかったという。さらにあなたの部下たちにしても、海外勤務の経験はない。この種の実務の経験もない若手ばかりだった。そんなメンバーから成る貧弱な組織で、このようなグローリアス・サクセスを収めたといっても、私には理解できない。納得できる説明をしてもらいたいのだ」
これに対し、藤原さんは当惑しつつ、
「それが事実ですから、説明のしようがありません」
と答えました。しかし局長は満足せず、
「そんな説明では満足できない。あなたはどんな特別なテクニックを用いて、この成功に導いたのか!」
藤原さんは、
「特別なテクニックなどありません。我々は素人です」
と答えましたが、局長はますます不機嫌になって、
「それではいよいよわからない。もう一度、君の成功の原因を考えてみてくれないか」
と言いました。それで藤原さんは、今一度よく考えたうえで、誠意をこめて次のように語ったのです。
「それは、民族の違いと敵味方の違いを越えた純粋な人間愛、そして誠意、またその実践ではなかったかと思います。私は開戦直前に、何の用意もなく、準備もなく、貧弱きわまる陣容でこの困難な任務に当面し、まったく途方に暮れる思いでした。そしてハタと気づいたことは、これでした。英国もオランダも、この植民地の産業の開発や、立派な道路や、病院や学校や住居の整備に、私たちが目を見張るような業績をあげている。しかし、それは単に自分たちのためのものであって、原住民の福祉を考えたものではない。……
そこには絶対の優越感と驕りがあるだけで、原住民に対する人間愛、思いやりがありません。原住民は、愛情と自由に飢えています。それで私は、私の部下と共に誓い合ったのです。敵味方、民族の違いを越えた愛情と誠意を、彼らに実践感得させる以外に道はないと。そして、至誠と愛情と情熱をモットーに実践してきました。すると人々は、あたかも慈母の愛の乳房を求めて飢え叫ぶ赤ん坊のように、われわれにしがみついてきたのです。私はそれだと思います。成功の原因は……」
そう語ると、イギリス人の局長は、大いにうなずいて言いました。
「わかった。あなたに敬意を表する。自分はマレー、インドなどに二〇数年勤務してきた。しかし現地人に対して、あなたのような愛情を持つことがついにできなかった」
と、しんみり語ったのです。インド独立運動の中心に、この藤原さんがいました。彼がいなかったら、インドは独立できなかった。彼の行動は、至誠と愛情と情熱に貫かれていました。それがインドの民衆の心を揺り動かしたのです。彼はアジア解放のために、捨て石となって自分の人生を捧げました。その捨て石は、インド独立の土台石となったのです。
大いなることのために捨て石となる
ここに、私たちは、さらに大きなことのために自らを捨て石としてくださったおかたを、知っています。イエス様です。
私たち人類は、これまでサタンに巧妙に支配されてきました。そして自分の罪の性質のとりことなり、滅びへの道を歩んでいた。私たちは去勢された者たちのように、神の御旨に従うことができなかった。
しかし私たちは、そういう中でも、本当の愛に飢えていたのです。そのとき、イエス様が本当の愛を教えてくださった。神の愛、永遠に変わることのない愛を。慈母のような愛です。それを、イエス様は身を賭して示して下さったのです。十字架への道は、イエス様にとって、壮絶なる戦いでした。イエス様は十字架の死の前夜、ゲッセマネの園で血の汗を流して祈られました。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ二二・四二)
「杯」とは、十字架の受難のことです。「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください」。イエス様も、できることならこの恐ろしい十字架の受難は避けたかった。しかし「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」。そう言って神様に従い、自らを打ちたたいては、十字架へ進んで行かれたのです。
そのとき、イエス様はご自分を捨て石となす最後の決断をなさいました。自分を犠牲として、命を捧げられました。それは人類の救いの土台石となった。
「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである」。
イエス様が、あの十字架上にご自分の屍をさらされたとき、私たちを罪と滅びから救う贖いのみわざが成就したのです。私たちに与えられる永遠の命も、神の子としての身分も、罪の赦しも、義認も、天国も、またこの地上で与えられる神の祝福も、すべてイエス様が十字架上でご自分を捨て石としてくださったという事実を基盤としているのです。
ですから私たちは、慈母の愛の乳房を求めて飢え叫ぶ赤ん坊のように、この神様の愛のもとに立ち帰ります。そのとき、私たちは本当の独立、本当の自由を得ることができる。
「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」(ヨハ八・三二)
私たちはイエス様によって、罪と死とサタンに対する隷属の道を断ちきることができるのです。神の子の栄光の自由の中に入れられる。それもこれもすべて、イエス様のおかげです。
そして私たちは、このイエス様を通して本当の生き方、死に方を学ぶことができます。
私たちも、自分の名利や地位を求めるのではない。大いなる価値のために捨て石となることをも、いとわない生き方を信条としたいものです。たとえ人が知らず、人にほめられなくても、神さまは知っていてくださいます。神のためにすべてを投げ出した者に、神は限りない報いを惜しまれません。
ああ、今の日本にはそこまで馬鹿になれる人間はいないのでしょうか。そういう捨て石となるような生き方なんて、馬鹿がやることだと世の人々はいうでしょう。でも、神様が求めておられるのは、そういう馬鹿な人間です。打算的な、お利口さんの人間は神様のお役にはたちません。私たちは少しでも、イエス様の御足あとにお従いしたいと思います。
台湾で捨て石となった六士先生
私は将棋が好きですが、将棋には「捨て石」というものがあります。結局相手に取られてしまう駒のことですが、それによって相手を追いつめることができる。捨て石をうまく使うと、将棋に強くなれます。捨て石があって初めて将棋は勝てる。囲碁にも捨て石というものがあります。
この世の中でも、大いなることを実現するために、ときに捨て石が必要になることがあります。無駄なことのために、捨て石となる必要はありません。しかし神のためならば、私は捨て石となってもいいと思っています。人に何と言われてもいい。私の願うことは、神様の福音と真理がこの日本に広まることです。
台湾に、「六士先生の墓」というのがあります。これは台湾人たちにあつく慕われた六人の日本人教師たちの墓です。彼らは、台湾を文明国家とするために、捨て石となった人々でした。
台湾にある六氏(六士)先生の墓。六人の日本人
教師は、台湾の学校教育のため捨て石となった。
ときは、台湾が日本の領土となったばかりの頃。当時の台湾では、ほとんどの民衆は学校に行ったことがありませんでした。人々は字も読めず、言語もばらまらで、教養もほとんどありませんでした。日本は、台湾を文明国家とするためには、まず教育を普及させなければいけないと考えて、優秀な先生たちを台湾に送り込みました。しかし、当時の台湾はまだ非常に危険な所でした。各地で暴動が起こっていた時期だったのです。
日本人の六人の先生たちは、教育を普及させるために、命をかけて台湾で働くことを誓い合った人々でした。彼ら六人は、今も台湾では「六士先生」と呼ばれて慕われています。
一八九六年の元旦に、事件は起きました。元旦の祝賀に参加しようと出かけた六人の教師たちを、突然、暴徒たちが取り囲んだのです。六人はひるむ様子を見せず、彼らに、台湾での教育の必要性を説きました。しかし、血気にはやる暴徒たちは日本人教師たちに襲いかかって、全員を惨殺してしまったのです。
そののち台湾の人々は、この六人の教育者精神に深く感謝して、事件があった芝山厳(台北市内)に神社を建てて、彼ら六士先生を祀りました。以後、この芝山厳の地は、台湾の教育のメッカと呼ばれるようになったのです。その後も、台湾にやって来た日本人教師たちは、六士先生たちの精神を汲み、台湾の人々に深い愛情を注いで、教育の向上に尽くしました。
台湾人の蔡焜燦さんは、その著『台湾人と日本精神』(小学館文庫)の中で、こんな話を書いています。蔡さんの後輩で、優秀だけれども家が貧しくて中等学校に入れない生徒がいたそうです。するとある日本人の先生は、その生徒の父親を訪ね、
「私が学校へ行かせるから」
と、五年間の学費を先生が肩代わりして卒業させたという。戦後、その生徒は、日本に暮らす恩師を訪ねて、涙の対面を果たしました。そのことは、当時の日本の新聞でも取り上げられました。けれども、このような美談は、当時どこにでもあったことだという。
このような日本人教師たちによる愛情を込めた教育は、台湾のあちこちで行なわれていたのです。ですから、日本人教師たちと台湾人生徒たちの間には、強い師弟関係が存在しました。
そして、戦後も、教え子たちが日本の恩師を訪ねたり、逆に日本から恩師がやってくれば教え子たちが台湾中から集まってくるというようなことが、方々にみられたのです。
偉大な教師キリスト
そののち、日本が戦争に負けると、日本人は台湾から引き上げなければならなくなりました。かわりに台湾に入ってきたのは、大陸からやって来た蒋介石率いる中国の人々でした。
すでに当時、台湾は、日本の開発によって電気も、水道も、下水道も普及しているような近代国家になっていました。ところが大陸からやってきた中国人は、電気も水道も見たことがないという人たちばかりでした。
たとえば、蛇口をひねれば水が出るというのを見て、彼らは驚いてしまった。そして彼らは店にいって蛇口を買いあさり、壁に蛇口を埋め込んだのです。しかし、それをひねったけれども水が出ないと言って、「どうして水が出ないんだ」と文句を言ったという。
そんな未開の人たちが、今度は日本人教師にかわって、台湾の学校の教師として講壇に立つことになりました。だから彼らの教育は、かつての日本人による教育とは、似ても似つかぬものでした。中国人教師が講壇で教えたことは、反日教育だけでした。
そして中国人教師たちの間に横行したのが、ピンハネでした。たとえば生徒用のノートを業者から大量購入します。そのときノートを安く仕入れて、生徒たちに高く売る。その差額は教師たちのふところに入る仕組みになっていました。
また教師たちの間には、賄賂も横行しました。彼らは少しでも、「よい学校」に転勤させてもらおうと、県の教育課長などに賄賂を渡したのです。彼らがいうその「よい学校」とは、学習レベルの高い学校ではなく、裕福な親が多い学校のことでした。
そうした学校に赴任できれば、いろいろ副収入が得られるからです。要するに、すべてが金、金、金でした。そんなですから、蔡さんによると、こうした中国人教師たちと台湾人生徒の間には、かつて日本人教師との間にあったような心温まる師弟関係は一切存在しないという。
また、これらのことを思うと、かつての日本の教育はいかに素晴らしかったかということを痛感する、とも言っています。しかし戦後のこうしたことはありましたが、台湾がなぜ戦後も発展していくことができたか、それはやはり、かつての日本統治時代のすぐれた教育が台湾に施されていたからだ、ということです。
その台湾発展の基礎となったのが、あの自分の命を投げ出してまでも台湾の教育に身を捧げた六士先生たちであり、またその後の日本人教師たちでした。六士先生たちは、捨て石となりました。けれども、台湾発展の礎の石となったのです。たとえ捨て石となっても、人間愛に満ちた捨て石は、必ず大きな影響を与えていきます。台湾の人々は今も、六士先生たちを慕い、深く感謝しているのです。
イエス様は、あの十字架上で、私たちのために命を投げ出されました。それは捨て石だった。しかし、それが神の国の礎の石となったのです。その恩恵は、神の国に連なるすべての人に及んでいます。私たちは、イエス様が流された尊い聖い血潮によって罪赦され、神の前に義と認められ、神の子とされて神の御国に入ることができたのです。
神の国の恵み、祝福、愛、義、またすべての幸福の根本が、イエス様のうちにあります。私たちが慕ってやまないのは、イエス様です。イエス様が、私たちの人生の礎の石なのです。
久保有政著
|