メッセージ(日本)

共生の教え 

東からも西からも世界中の人が共に神の国で
食卓につき、共に生きる時代が来る


イエス・キリストのまわりには取税人や罪人たちが
大勢つき従い、共に食事をしていた


[聖書テキスト]

 「それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。
 『なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。
 イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。
 『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」(マルコの福音書二・一五〜一七)


[メッセージ]

 「共生(きょうせい)の教え」という題がついておりますが、「共生」とは、共に生きるということです。イエス様が私たちと共に生きて下さる。イエス様はあなたと共に生き、あなたはイエス様と共に生きる。そういうイエス様との共生が元になって、さらに私たちは他の人々との共生、つまり他者と共に生きるということを学ぶことができるのです。
 イエス様は、アルパヨの子レビの家で、一緒に食事をなさいました。このアルパヨの子レビとは、取税人マタイのことです。マタイの福音書の著者ですね。
 イエス様は、人々から「ラビ」(ユダヤ教教師)とも呼ばれた人です。当時、ラビが取税人と一緒に食事をするなどということは、考えられませんでした。取税人は、今日でいえば税務署員ですが、今日のような正しい税部署員ではなくて、当時の取税人はローマの手先となって人々から搾取(さくしゅ)を働く者たちであったのです。
 搾取者です。民衆を虫けらのように思い、私腹を肥やしていた人たちです。だから人々から嫌われていました。しかしイエス様は、取税人のマタイを弟子となし、その家で食事をなさった。共に食事をするとは、聖書ではいつも、共に生きて下さるという意味です。
 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(ヨハネの黙示録三・二〇)
 とイエス様は言われました。イエス様は、私たちとも共に食事をしてくださる。それは私たちと共に生きてくださるという意味です。イエス様が取税人マタイと共に食事をなさると、他の取税人や「罪人」(つみびと)たちもたくさん集まってきて、彼らとも一緒に食事をなさったと書かれています。この「罪人」とは、遊女とか、前科者のことと思われます。
 宗教指導者が、こういう人たちと一緒に食事をなさるというのは、当時では考えられないことだったのです。まったく革命的なことでした。
 「こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである」
 と書かれていますね。こういう光景をみて、パリサイ派の律法学者たちは、不思議に思って、
 「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか」
 と聞きました。イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われました。
 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」
 イエス様は、誰とも共に生きる、すべての人と「共生」することを願われたのです。

共に生きた人

 岩村 昇というかたがいます。彼は一九六二年に、日本キリスト教海外医療協力会から、ネパールに派遣されました。ネパールは結核患者が非常に多かった。それで彼は山を越え、谷を渡り、各地を巡って検診、予防、治療に努めていました。


ネパールの村。「生きるとは弱き者と分かち合うことだ」

 ある村で、一人の老女が倒れているのに出会いました。一刻も早く入院の必要のある容態でした。ちょうど若い男が通りかかったので、彼に運搬を頼むと、快く引き受けてくれました。
 彼は老女をかつぎ、三日間、三つの山を越えて、基地としていた病院に運んでくれました。岩村さんは大変感激して、労賃を倍にはずんでお金を差し出しました。ところが彼はどうしても受け取ってくれない。そしてこう言ったのです、。
 「おれは貧乏をしているが、この三日間、金もうけしようとしてこのお婆さんを運んだのではない。共に生きるためだ。生きるとは弱き者と分かち合うことだ。おれは若さと体力がある。それをなくしているお婆さんに、長い一生の旅路でほんの三日間、おすそ分けしただけだ」
 と。そう言って、お金を受け取らずに去っていくその若者の服はボロボロで、はだしの足の裏から血の跡が赤い点になって地面に残っていたそうです。岩村さんは、この無名の人の言葉を、胸に刻みました。また紙に筆で書いて、額にいれて壁にかけました。そして自分の働きのモットーとしたとのことです。
 この無名の若者は、お婆さんを運んだのは「共に生きるためだ」と言いました。そして「生きるのは弱き者と分かち合うことだ」と。また「ほんの三日間、おすそ分けしただけだ」と。
 イエス様は、様々な人を通して、ときには無名の人をも通して、人生の大切な真理を教えてくださいます。イエス様は、私たちと共に生きてくださったかたです。いや、今も共に生きてくださっています。そして、私たちも共に生きること、共生ということをモットーとするように望んでおられるのです。イエス様は、
 「あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ一三・三四〜三五)
 と言われました。互いに愛し合うとは、共に生きることです。それによって私たちは初めて、イエスの弟子と言われるに足る者となるのです。

共生の世界は来るのか

 この「共に生きる」、共生ということが今日ほど大切なときはありません。
 歴史をみますと、人間の世界は常に略奪を繰り返してきたことがわかります。人が人を虐げ、略奪してきました。それだけでなく、国が他の国を収奪し、略奪してきた歴史があります。しかし、そういう中で真の文明は、
 「略奪から共生へ
 進まなければならないというのが神様の教えなのです。
 今日に至るまで、人が人のものを奪うことによって成り立ってきた文明が、あまりに多くあります。しかし本当の文明は、略奪から共生の文明へと進まなければなりません。イエス様は、来たるべき世界について言われました。
 「人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます」(ルカ一三・二九)
 やがて、神の国が地上に来るとき、東洋からも西洋からも、また南の国からも北の国からもたくさんの人々がやって来て、同じ食卓につくのです。略奪のない世界、つまり皆が平和に一緒に食事ができる世界が来るという。本当の「共生」の時代がやって来るのです。神にあってすべての人が共に生きる、共に喜びあい、共に愛し、支えあって生きる時代です。
 今日の世界は、まだまだそれから程遠いものです。先日、アメリカのニューヨークで、「9・11同時多発テロ」から五周年の記念行事が持たれました。なぜあんなことが起きたのか。旅客機が超高層ビルに突っ込んで、ビルが崩れ去ってしまいました。
 そしてたくさんの罪のない人々が死にました。なぜ、あれほどの憎しみが存在するのか。なぜ共存できないのか。共生できないのか。今日の世界は、イエス様のいわれた「共に生きる」世界から、程遠いのです。
 しかし、イエス様はやがて必ず、共生の時代、共生の世界をもたらしてくださいます。
 二〇世紀までの歴史は、そして今世紀もそうかもしれませんが、侵略と略奪の歴史でした。
 たとえばスペインなどに行きますと、豪勢な宮殿や、きらびやかな教会堂があります。観光客はそれらをみて「すごいなあ」と思います。しかし、そうした豪華なものをつくったお金や財宝は、一体どこからやって来たのか。
 それらのほとんどは、植民地時代に、アジアや南米などの植民地から奪ってきたものです。略奪した富で建てられたものなのです。取税人のような国家がたくさんありました
 一方、日本にはそうしたものはありません。日本の建物は、ヨーロッパの建物に比べて貧弱かもしれませんが、日本には略奪した富で建てたものはありません。それを思うと、私は日本の伝統や文化に安らぐことができます。
 またイギリスも、かつてインドやマレー半島に植民地を持っていました。彼らも、現地の富を吸い上げては、自分の国を富んだものにしていました。大英帝国の繁栄はそうやって築かれたものです。


アヘン戦争。取税人のような国家がたくさんあった。

 彼らはインドでアヘンを作らせて、そのアヘンを中国へ輸出しました。密貿易で輸出したのです。ご存知のようにアヘンは麻薬です。吸っていれば、やがて人間は廃人になってしまいます。中国がアヘンの輸入を拒絶すると、イギリスは戦争を起こして力づくで中国にアヘンを売りつけました。
 いわゆるアヘン戦争です(一九世紀)。中国の人々がアヘンで体をこわして廃人になろうと何だろうと、かまったことではない。ともかく、儲けるためにはアヘンを売りつける。向こうが拒めば、戦争をしかけて力づくて売りつける。中国はこの戦争に無惨にも負けました。以後、中国は西欧諸国にどんどん侵略されていきました。そして中国の街々は、どこへ行ってもアヘン中毒の人々がいました。中国大陸は、西欧の略奪文化の餌食とされていたのです。
 ヤクザ、罪人のような国がたくさんあったのです。

アメリカの西方侵出

 アメリカは、どうでしょうか。アメリカはフロンティア・スピリットの国です。開拓者精神。言葉はいいですけれども、実際のところ何をしたかと言えば、アメリカの西部にいるインディアンたちを殺して、その土地を奪ったのです。その結果、はじめ二〇〇万〜五〇〇万人いたと言われるインディアンたちが、二〇万人くらいに減ってしまいました。
 そののち、アメリカはメキシコとも戦争をして、西部の土地をすべて自分のものにしました。彼らは「西へ、西へ!」を合い言葉にして、どんどん西へ侵出したのです。アメリカの独立宣言に、
 「社会が停滞したなら、さらに西へ行け」
 という言葉があります。それをモットーに、やがて広大な西部を全部自分のものにしました。彼らはそのときに、『マニフェスト・デスティニィ』(明白なる天意)という考えを持っていました。それは、
 「私たち白人が愚かな有色人種を支配することは、明白なる天の意思だ
 という考えです。それは共生ではなく侵略のイデオロギーでした。取税人のイデオロギーです。さて、彼らはインディアンたちを征服し、メキシコ人を追い出して西部を全部自分のものにすると、「西へ、西へ!」の思いは、ついに太平洋を越えました。
 彼らはやがて、平和な国だったハワイを、力づくで自分のものにしてしまいました。


ハワイ王国の王だったカメハメハの像。アメリカは
軍事的な脅しをもって、ハワイを併合した。

 またスペインにも戦争を仕掛けて、グアムやフィリピンを手に入れました。つねに戦争をして、領土を拡大してきたのです。当時のアメリカ大統領マッキンリーは、スペインと戦争をしたとき、
 「アメリカはフィリピンの強制的併合を行なおうとするものではない。私の道徳観念からすれば、そんなことは犯罪的な侵略行為だ
 と言いました。ところが、のちにはアメリカはその言葉を引っ込めて、フィリピンを強制的に自分のものにしてしまいました。当時アメリカは、フィリピン人の民族独立軍に、
 「我々に協力してくれ。我々がスペインに勝ったら、フィリピンを独立させてあげよう」
 と言って独立を約束していました。ところが、アメリカはスペインに勝つと、その約束を破り、フィリピンを無理矢理自分のものにしてしまったのです。しかも、協力してくれたフィリピン民族独立軍のアギナルド将軍を、処刑してしまいました。このような明らかな裏切り行為で、アメリカはフィリピンを手に入れたのです。アメリカの行動も、取税人と同じだった。
 アメリカは戦争をするとき、いつも「リメンバー!」と叫んできました。メキシコと戦争をしたときは「リメンバー・アラモ」(アラモ砦を思い出せ)、スペインと戦争をしたときは「リメンバー・メイン」(メイン号を思い出せ)。そしてのちに日本と戦争をしたときは、「リメンバー・パールハーバー」(真珠湾を思い出せ)と言いました。いつも、国民を戦争へと向かわせるための都合のいい口実が叫ばれたのです。
 日本はなぜアメリカと戦争をするはめになってしまったのか。それは中国大陸で互いの利害が対立したからです。アメリカはハワイを手に入れ、グアム、フィリピンを手に入れ、つぎには中国を欲しがっていました。欧米によるアジア支配は、もう少しのところで完成するはずでした。もうちょっとだった。
 しかし、そこに立ちはだかったのが、東洋の強国・日本だったのです。
 中国大陸では、西欧諸国による分捕り合戦が続いていました。そこにアメリカが加わろうとしていた。日本はそこに何とか歯止めをかけようとしました。日本は、中国の「保全」を掲げて、西欧諸国の餌食にならない安定した国を中国人自身が造るのを、手助けしようとしたのです。その日本の動きと、中国を手にいれたいアメリカの思惑が鋭く対立しました。
 アメリカは、中国人に反日感情を起こし、煽動し、日本の締め出しにかかりました。さらに中国の国民党軍と日本を戦わせて、日本を締め出そうとした。また、フライングタイガースと呼ばれるアメリカ空軍を中国に送って、日本との直接的な戦闘行為にも参加したのです。
 真珠湾攻撃以前の話ですよ。真珠湾以前から、アメリカは日本に戦争を仕掛けていたのです。さらにアメリカは、日本への石油や資源の輸出も、全面ストップしてきました。日本の息の根を止めようとした。それで日本はやむなく、自存自衛のためにアメリカとの全面戦争に踏み切って、真珠湾の軍事基地を叩いたのです。


真珠湾攻撃。それは「首をしめられた男が、
パンチでやり返した」ような出来事だった。


首をしめられ、パンチでやり返した出来事

 この前の戦争は、日本が一方的に引き起こしたもので、日本が悪かったと思っているかたも多いかもしれません。そういう宣伝がなされてきました。しかし、決してそうではありません。
 日本は、真珠湾以前から、悪意に満ちた様々な攻撃にさらされていました。そうした中でも、日本は耐えに耐えました。しかし、ついに限界に達して、勝てる見込みがたとえ薄くても、戦いに出ざるを得なかったのです。
 上智大学の渡部昇一教授は、かつてアメリカの大学で比較文明論を教えていたことがあります。そのとき、最後のほうで、日米戦争の話が出たそうです。それで渡部先生は、戦争に至った経緯をいろいろ説明しました。真珠湾以前に、日本は首を絞められたと同然の状況に置かれていたのだと。ですから真珠湾攻撃とは何かといえば、ちょうど首を締められた男が、窒息する前に、首を絞めている者の顔面にパンチをくらわせたようなものなのだ、と説明しました。その話を聞いていた生徒の中には、軍隊の士官候補生もいましたので、抗議の意を表して部屋を立ち去る生徒もいたそうです。でも大部分の生徒は、
 「おかげでよくわかりました」
 と言ってくれました。首を絞められた男がパンチでやり返すというのは、アメリカ映画に良く出てきますね。ですから、彼らにはとてもよくわかるたとえなのです。もし、パンチを食らわせるのが悪いというなら、首をしめるのも悪い。パンチをするほうも、首をしめるほうも、罪人・取税人なのです。私たちは神の前には、みな不完全な人間、あやまちを犯す罪人なのです。
 また、最近日本で出版された本で、『日米開戦の真実』(佐藤優 小学館)というのがあります。これは昔、日米戦争が始まった直後に大川周明という人がラジオで講演した内容に、解説を加えたものです。一九四一年一二月の真珠湾攻撃の直後、日本政府は、なぜ戦争に至ったかについて、その経緯を国民に説明することにしました。その役をになったのが、当時の第一級の学者であった大川周明による、NHKラジオの連続講演です。
 軍人の講演ではありません。民間人の学者です。彼の講演は、翌月に『米英東亜侵略史』という題で出版され、ベストセラーとなりました。日本政府は当時、きちんと説明責任を果たしていたのです。それを読むと、なぜ日本がアメリカやイギリスと戦争をしなければならなくなったのかが、非常によくわかります。そこには、「鬼畜米英」といった過激なプロパガンダは一切ありません。感情的な決めつけも一切ない。
 むしろ、非常に実証的な説明がなされています。すべて歴史的な客観的事実に基づいている。そして冷静に戦争の原因を明らかにしています。アメリカやイギリスが、いかに身勝手な行動で東アジアや日本を苦しめてきたかが、具体的に書かれています。そしてこの戦争が、不可避であったこと、自存自衛のためであること、また西欧諸国による東アジア侵略を阻止するためであること、またアジアを解放するための戦いであることが言われているのです。
 このように、かつての戦争の原因に、西欧諸国による略奪と搾取の文化があったのです。
 西欧諸国との戦いの中で、日本は「自存自衛」と「アジアの解放」を掲げて戦いました。日本は、自分が生き延びるだけでなく、アジア諸国がみな独立してくれることを願って、それを手助けしたのです。それは共存共栄を目指すものでした。その端的な例をお話ししましょう。

A級戦犯とは罪人の最たる者なのか

 池袋に、サンシャインシティという大きなビルが建っています。まわりよりも、ひときわ高いビルです。あの場所に、昔「巣鴨プリズン」と呼ばれる刑務所がありました。戦後しばらくそこにあったのです。それは、いわゆる「A級戦犯」が収容された場所でした。そして彼らの処刑場でもあります。この前、ある政治家が、
 「靖国神社にはA級戦犯が祀られているから、私は靖国参拝はしない」
 と公言しているのがテレビに映っていました。しかし、私はそういうのを見ますと、「この人は本当にA級戦犯の意味を知っているのか」と思ってしまいます。A級戦犯とは、「罪人」の最たる者なのか。多くの人は、A級が一番罪が重くて、B級戦犯や、C級戦犯は罪が軽いと思っています。しかし、そういう意味ではないのです。A、B、Cというのは、ランクづけではなくて、アメリカ人が便宜的な区分けを行なったものにすぎません。
 戦争を遂行した国家指導者などがA級と呼ばれ、戦場で命令する立場の指揮官などがB級、実行した兵隊などがC級と呼ばれました。そしてアメリカは、A級戦犯として七人、BC級戦犯として一〇六一人を死刑にしたのです。A級戦犯というのは、戦争の当時リーダーだったというだけのものです。そしてアメリカからA級戦犯と呼ばれた人々が、一体どのような人々だったか、それを今日の日本人はあまりに知らなさすぎるのです。
 いわゆるA級戦犯と呼ばれた人のひとり、東条英機(東條英機)・元首相のことを少しお話ししましょう。日米戦争が始まったときの首相です。
 東条英機は、戦争を起こすために首相になったのでしょうか。いいえ、そうではありません。彼は戦争を回避するために首相になったのです。彼は天皇陛下に対して非常に忠実な人でした。「何としても戦争を回避するように」と天皇が言われたので、全力を尽くして戦争回避の努力を続けました。天皇は、御前会議で、かつて明治天皇がうたわれた和歌を詠まれました。
 「四方(よも)の海みな同胞と思う世に など波風のたちさわぐらむ
 すばらしい歌です。四方の海の向こうに住む民族はみな同胞だと思っているのに、どうして波風をたててよかろうか。天皇は、平和共存を望まれました。「共に生きる」ことを望まれた。
 アメリカ人が、マニフェスト・デスティニィ、すなわち「白人が有色人種を支配すること」を目指したのとは全く異なり、日本人の心の底にすえられたのは、「四海同胞」の観念だったのです。東条英機は、天皇の意向を受けて、戦争回避に向け、アメリカに対し日本としては極限まで譲歩した案を提出しました。しかし、アメリカ側には妥協する意志が全くなかった。誠意がまったくなかったのです。やがてアメリカ側が日本に突きつけてきたのは、全面降伏を迫るに等しい、
 「ハルノート」
 という最後通告でした。それをみたとき、東条英機は、目もくらむばかりの失望におそわれたといいます。その内容を受け入れることは、亡国を意味したからです。これを受け入れて、戦わずして日本は滅びるのか。それとも戦って、結果を天命にゆだねるか。
 日本政府は、戦わずして滅びるより、戦争開始を決意します。その開戦前日の朝早く、首相官邸で、東条英機の妻・かつ子さんや、娘さんたちは、隣りの部屋から聞こえる泣き声に目をさましました。それは、東条がひとり泣いている声でした。彼は、和平を望む陛下の意思に応えられなかったことを悔い、またこれから起こるであろう惨劇を思って、皇居の方角に向かって号泣していたのです。
 それは到底、侵略者の姿ではなかった。東条英機の涙に表れたことは、現実となりました。初めの一年間くらいは日本は勝利をおさめましたけれども、やがて圧倒的な物量をほこるアメリカの軍事力の前に、日本はどんどん負けていったのです。

大東亜会議という家族パーティ

 しかし東条は、そういう中でも、昭和一八年にアジア各国の代表を集めて「大東亜会議」というものを開催しています。


大東亜会議に参加した各国代表。
それは「ひとつの家族パーティのようだった」

 東条英機を議長に、中華民国からは汪兆銘院長、満州国からは張景恵総理、ビルマからはバー・モウ首相、タイからはワイワイタヤコーン殿下、フィリピンからはラウレル大統領、インドからはチャンドラ・ボース首班(自由インド仮政府)が代表として出席しました。
 会議は終始なごやかに進められました。
 「ひとつの家族パーティのようだった
 と、インドから出席したチャンドラ・ボースが述べています。みな家族のように一緒に食事をし、一緒にお茶を飲みながら、語り合ったのです。そしてみな一列に並んで、対等の立場で記念写真におさまっています。ビルマのバー・モウ首相も、大東亜会議で催された茶会についてこう記しました。
 「茶会はきわめて感動的な空気をつくり出していた。広いアジアを一つのものとしてとらえる思いにみたされていたのだ。……我々は、隔てられた人間としてではなく、すべての国民を包含する単一の歴史的家族として寄り集まっていた。こんなことはかつてなかったことだ」
 まさしく、この「大東亜会議」は、アジアの歴史始まって以来の画期的なことでした。アジア各国が「共に生きる」ということを確認しあった、一大家族パーティだったのです。
 かつてイエス様は、取税人や罪人たちと一緒に食事をなさいました、わけ隔てなく。一方、このとき日本は、アジア各国の代表と一緒に食事をし、家族パーティをしました、わけ隔てなく。戦争の真っ最中のことですよ。そのようにアジア各国の代表が東京に集まって、自分たちは「共に生きる家族」だということを確認し、喜びあったのです。
 参加した代表の中には、現地の日本軍の行動に不満をもらす人もいました。しかしそれでも、自分の国を苦しめている最大の敵は西欧の白人による搾取であること、また人種差別であるという認識で一致したのです。各国は互いに協力して、アジアを西欧の支配から解放しなければならない、ということで心を合わせました。
 「大東亜を米英の桎梏(しっこく 手かせ足かせ)から解放し、自存自衛を全うし、さらに大東亜を建設して、それにより世界平和の確立に寄与する
 という大東亜宣言を採択したのです。それはまさしく、「略奪から共生へ」を目指した家族会議であったのです。このように東条英機は、アジアの共存共栄と、人種差別のない世界平和を願った人でした。彼に欠点がなかったというわけではありません。人間誰しも欠点はあります。しかし彼は、侵略欲に燃えた独裁者というイメージとは、およそかけ離れた人物でした。
 戦争中に、中国大陸で、日本の軍人の樋口季一郎(ひぐちきいちろう)などが、シベリヤから逃れてきたたくさんのユダヤ人を救い出して、保護したことがあります。そのとき東条英機は、ナチス・ドイツから抗議を受けました。しかし東条は、樋口季一郎の行動を認めて、ナチスに言ったのです。
 「日本はドイツと同盟を組んだが、人種差別の同盟まで組んだのではない。日本はドイツの属国ではない」
 そう言って、ユダヤ人救出に許可を与えたのです。このように、日本人によるユダヤ人救出劇も、東条英機の許可のもとに行なわれたことなのです。彼らユダヤ人からすれば、東条英機は「A級戦犯」どころか「A級偉人」でした。 彼は、人種の平等が実現されて「共に生きる」世界が来ることを、心底願った人だったのです。

堂々と散った「A級戦犯」たち

 戦後、東条英機はアメリカから「A級戦犯」とされて、処刑されました。しかし処刑される前、東京裁判で、堂々と日本の立場を弁明しました。
 「開戦の時のことを思い出すと、じつに断腸の思いがある。私の死刑は、個人的には慰められるところがあるけれども、国内における自分の責任は、死をもって償えるものではない。しかし国際的な犯罪としてはどこまでも無罪を主張する。力の前に屈服した。自分としては国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く」
 との言葉を残して、巣鴨プリズンで最後の息を引き取ったのです。
 彼は、国際的な犯罪ということでは日本の戦争は無罪だ、と主張しました。戦争の原因は西欧諸国のアジアに対する略奪行為、侵略行為にある。しかし国内的には私は戦争で多くの人を死なせてしまった。その責任者として、私は自分の死に慰めを覚えると言いました。
 アメリカからは、ヒトラーと同じような悪辣な独裁者とみられ、戦後、東京裁判というリンチにかけられた東条英機という人物。日本人からも、戦争に負けたがゆえに散々に批判された東条英機。彼の心情を、本当に理解できる人がはたしてこの世にいるのだろうか、と思います。
 東条以外のA級戦犯と呼ばれた人々も、その最期はいずれも立派なものでした。彼らはみな日本とアジアを深く愛し、責任感の強い人物でした。東京裁判でオランダ代表の判事として出席していたレーリングは、自著の中で、戦犯と呼ばれた日本人をみた印象について、
 「ほとんどの被告が超一級の人物だった
 と書きました。また、
 「日本人被告は、ひとりとして卑怯にふるまうことはなかった。みな威厳にあふれていた。私は……二年間真正面から見据えるところにすわっていたので、その発言を聞き、挙動を観察することができた。私には、彼らが日本の大義を守ろうとしていることがよくわかった。私たちは、彼らが見苦しくふるまうことを望んでいたが、誰一人そのような者はいなかった。私たちは圧倒された」


東京裁判の東条英機。「A級戦犯」とされたが、
救われたユダヤ人からすれば「A級偉人」だった。

 A級戦犯と呼ばれた人々は、最後の最後まで、この戦争は欧米諸国のアジア侵略がもとになって始まったものにほかならない。日本は自存自衛のために戦ったにすぎないと主張しました。堂々と、威厳にあふれて証言しました。しかし、裁判の結論は初めから決まっていました。彼らは戦犯と呼ばれて処刑されていきました。
 戦後まもない一九四八年に、アメリカの歴史学の権威チャールズ・ビアード博士は、『ルーズベルト大統領と日米戦争』という本を著しました。これは、日米戦争は日本が仕掛けたものではなく、アメリカのルーズベルト大統領の周到な計画によって引き起こされたものであることを、告発したものでした。
 日米戦争はアメリカが仕掛けたものであり、アメリカによる侵略戦争であったことを、公的資料を駆使して痛烈に批判したのです。この本をのちに大学の図書館で読んで仰天した人物に、アメリカ系ユダヤ人のコーエン氏という青年詩人がいます。
 彼は、アメリカが戦争を仕掛け、しかも無実の日本の指導者を処刑したことに、心から詫びたい気持ちでいっぱいになって、わざわざ来日しました。そして、あの巣鴨プリズンの処刑跡の記念碑の前で、次の詩を書き残したのです。
 「ああ、アメリカよ。あなたは法を曲げ、正義を踏みにじった。ジョージ・ワシントン、アブラハム・リンカーンは、いまあなたの非道に涙することだろう」

彼らの心情を本当に理解できるのはイエス様

 私は、東条英機をはじめ、A級戦犯と呼ばれて死んでいった日本の指導者たちの無念な心情を、本当に理解できるかたはイエス様だけだと思います。
 イエス様も、かつて不法な裁判にかけられてA級戦犯の汚名を着せられ、十字架で処刑されたのです。そして人々から、さんざんに悪口雑言を言われながら、死んでいかれた。A級戦犯とされた人たちの気持ちを本当に理解できるのは、イエス様しかいません。彼らの魂を救うことができるのは、イエス様しかいない。イエス様はA級戦犯と呼ばれた人たちと、喜んで一緒に食事をしてくださるでしょう。
 日本人の心を本当に理解し、日本を救うことができるのは、イエス様のほかにいません。
 私たちの先祖は、侵略者ではなかった。かつてアメリカ人が言ったような「悪魔」でもなかった。日本は、このような不条理な弱肉強食の世界をかろうじて生き抜いてきたのです。
 私は、イエス様をみあげると、本当に慰められます。この世界が矛盾に満ちていること、不条理の世界であることを、よくご存知であられる。そのうえで、私たちに救いの道を用意してくださっているのです。イエス様は、あの大東亜会議以上のすばらしい家族パーティが、やがて神の国で開催される、と言って下さっています。 
 「人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます」(ルカ一三・二九)
 これはマタイ八・一一では、
 「たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます
 とも言われています。全世界からたくさんの人が、大家族パーティを催す日がやって来ると、イエス様は約束してくださっているのです。そのときには、もはや東洋も西洋もなくなります。世界は一つとなるのです。略奪の時代は過ぎ去り、侵略や、搾取の世界ではなくなります。すべての人は神にあって共に生きる、共生の時代、共生の世界となるのです。
 聖書で、一緒に食事をするというのは、共に生きることを表している表現です。私たちは、共に生きる気持ちのない人とは、決して食事を一緒にしないでしょう。共に食べるとは、共に生きることです。旧約聖書をみると、エジプトでの奴隷状態から解放されて出エジプトをしたイスラエル民族が、シナイ山において神のすぐ間近で一緒に食事をした、ということが書かれています。とりわけモーセや、イスラエルの長老たち七〇人は、神を仰ぎ見ながら食事をしたという(出エ二四・一一)。
 それは彼らが神と共に生きる者たちである、ということを確認するときだったのです。日本の神道の風習にも、「神人共食」というのがあります。神様と人が共に食べる儀式をする。それは、神と人が共に生きるということを表しているのです。
 また新約聖書をみますと、初代教会の時代にクリスチャンたちは、
「毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにした」(使徒二・四六)
 と書かれています。

敵を味方に変える

 共に生きるとは、もはやお互いに敵ではなくなる、ということです。今まで敵として対立していた人とも、一緒に食事ができる仲になることです。
 私は小さい頃から、日本の将棋をよく楽しんだものです。日本の将棋は本当によくできている。一番弱い「歩」も敵の陣地に入ると、強い「金」になります。また、敵の駒を取ると、今度はそれを味方の駒として使えます。しかし、西洋のチェスとか、中国将棋ではそういうことはありません。敵の駒は敵の駒のままです。けれども日本の将棋では、敵の駒も味方の駒に変えてしまうことができる。これは、じつは日本の文化伝統から来ているのです。そして、これは聖書的にみて、非常に素晴らしい伝統だと思います。
 先の戦争のときにも、敵を味方に変えるということが行なわれました。大東亜戦争が始まると、日本はすぐにマレー半島にも進出しました。そこにいるイギリス軍を追い出すためです。日本軍は、破竹の勢いでイギリス軍をなぎ倒していきました。しばらくして、イギリス軍の一大隊が退路を断たれて孤立している、という情報が入ってきました。
 そのイギリス軍は、隊長だけがイギリス人で、あとはぜんぶインド人という部隊でした。イギリスはインドを支配していましたので、自分の軍隊にインド人をたくさん使っていたのです。それで、そのイギリス軍部隊に降伏を迫るために、藤原岩市(ふじわらいわいち)少佐と、通訳一人と、インド人のプリタム・シンという人が現地に向かいました。プリタム・シンは、インドの独立運動家です。


藤原岩市氏。彼は敵を味方に変えた。

 彼らはたった三人で現地に行って、イギリス軍の隊長に会いました。携帯した武器は軍刀だけです。ゴム園の休息所でイギリス軍の隊長に会うと、藤原さんは彼に椅子と温かいコーヒーを勧めました。そしてあちこちで日本軍がイギリス軍を圧倒している状況を語りました。そしてこれ以上、抵抗して部下を犠牲にすることがないよう強く勧めました。そして投降した兵士に対しては武士道精神をもって公正な扱いをすると約束しました。
 この光景をインド人兵士たちは驚きの目で見ていました。敵陣に銃も持たずにやって来た黄色い顔をした東洋人が、堂々とイギリス人の隊長と向き合い、誠意あふれる姿勢で説得を始めたからです。隊長は、しばらく沈黙し、考えていましたが、やがて藤原さんの勧めを受け入れました。こうしてイギリス軍の部隊は降伏しました。
 捕虜となったインド兵たちは、約二〇〇人でした。三日後、さらに彼らを驚かせたことがありました。藤原さんはインド兵たちと一緒に食事をしたのです。しかも、インド料理が作られ、かき集められた楽器でインド音楽が演奏されました。食事が始まると、インド人捕虜を代表して、モハン・シン大尉が立ち上がって感謝の言葉を述べました。
 「日本軍が、戦いに負けた私たちインド兵の捕虜、しかも下士官まで加えて、同じ食卓でインド料理を共に食べる時を持って下さるなどということは、イギリス軍内では何びとも想像だにできないことでした。イギリス軍の中では、同じ部隊の戦友でありながら、イギリス人将校がインド兵と食を共にしたことは一度もありません。
 またインド料理を時々でも用いて欲しいという我々の提案さえ、受け入れられませんでした。藤原少佐のこの敵味方、勝者敗者、民族の相違を越えた温かい催しこそは、一昨日以来、我々に示されつつある友愛の実践とともに、日本のインドに対する誠意の千万言にまさる実証です。インド兵一同の感激は表現の言葉もありません」
 この日本兵とインド兵捕虜が食を共にした経験は、両者の間に深い絆をつくりました。そして彼らインド兵捕虜たちは、そののちインドを独立に導くためのインド国民軍というものをつくっていきます。敵が味方となったのです。彼らは日本と協力して、インドを独立へ導く中心的な役割を果たしていきます。

時代にあって共に生きた人々

 さらに、その二ヶ月後、イギリスのアジア侵略の要塞であったシンガポールが、日本軍の攻撃によって攻め落とされました。そのとき一〇万を越えるイギリス軍が降伏しました。そのうち、約半分の五万人がインド兵でした。
 藤原さんは、彼らインド兵捕虜の前で、通訳付きで四〇分に及ぶ大演説を行ないました。彼は、日本の戦争目的の一つは、アジアの諸民族の解放にあること、日本はインドの独立を強く願っていると語りました。その独立を、誠意をもって援助する用意があると言いました。
 そしてシンガポールが陥落した今こそ、イギリスはじめ欧米列強の支配下にあるアジア諸民族が、その鉄の鎖を断ち切って解放を実現する絶好の機会なのだ、と訴えました。
 その火を吐くような熱弁に、インド兵の聴衆は深く感激し、次第に熱狂状態となりました。満場は拍手と歓声でどよめいたのです。インド兵はみな涙を流し、インド独立のため、アジア解放のために戦うことを誓いあいました。こうして藤原さんは、彼らを敵から味方に変えたのです。そして実際に彼らの手によって、のちにインドは独立を果たしていきました
 共に食事をし、共に生き、共に死ぬという世界がそこにありました。共に生きることが世界を変えるのです。敵味方を越え、勝者敗者を越え、民族の相違を越えて共に生きる。それを実践したのが、藤原岩市さんでした。
 私たちは誰でも、平和的な職業につきたいと思うでしょう。誰だって戦争なんてしたくありませんから。しかし、時代によってそれがかなわない場合があります。やむなく軍人になった人たちも、たくさんいます。けれども自分の置かれた状況のもとで、多くの人が自分の最善を尽くして生きたのです。私は、そういう人々に心からの敬意を捧げます。
 日本はかつて、アメリカやイギリスを敵として戦いました。しかし、今は同盟国、友好国となっています。かつて日本が戦争に負けて、アメリカの占領軍が日本に上陸したとき、アメリカ兵の多くは、日本人がほとんど敵意を持っていないことに驚きました。それは当然です。日本はもともとアメリカが憎くて戦争をしたわけではないからです。
 自存自衛のため、またアジア解放のために戦っただけなのです。日本がアメリカとの戦争を考え始めたのは、真珠湾攻撃のわずか半年くらい前からです。それまでは、アメリカを友好国と思っていたのですから。しかしアメリカは、その三〇年も前から、「オレンジプラン」と呼ばれる日本敵視政策を練って、着々と実行していました。彼らは三〇年も前から日本との戦争を考えて、準備していたのです。
 彼らは日本を敵視し、中国を手に入れるために日本を窮地に追いやって、戦争をしました。そして結局、日本に勝ったのはいいけれども、一番欲しかった中国を失いました。戦争をやって、アメリカは何の得もしていないのです。また、気づいてみたら、アジアで最も信頼できるのは誰かといったらやはり日本だった、ということになったのです。ああ、もっと早く気づいてくれればよかったのに、と思います。そうすれば、戦争なんてなかったのです。

神の国で共に食する日が来る

 共に生きる、ということが本当の意味で実現するのはいつなのでしょうか。
 この世界には、まだまだ問題がたくさんあります。そういう中で、最も大切なのは、本当の意味で「共に生きる」ということを教えて下さったおかたを、知ることです。
 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする
 とイエス様は言われました。イエス様は、取税人とも、遊女とも、その他あらゆる人と食を共にされたと、福音書は記しています。社会からはみ出したような人、まわりから嫌われているような人とも、一緒に食事をされた。共に生きてくださったのです。そしてどこへ行くにも弟子たちを引き連れ、寝起きを共にし、行動を共にして弟子たちを訓練されました。イエス様と共に生き、イエス様が共に生きて下さることが、弟子たちを大きく成長させたのです。
 イエス様こそ、共に生きる、「共生」ということの最高の模範であり、私たちの目標なのです。またこのおかたによってのみ、そのための本当の力が与えられます。
 イエス様は十字架の前夜、弟子たちと一緒に食事をされました。その最後の晩餐の席上で、ご自身でパンを裂き、弟子たちに分け与えて言われました。
 「取って食べなさい。これはわたしの体です
 また、ぶどう酒を分け与えて言われました。
 「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです」


イエスによる最後の晩餐。共に生き、生命的
に一つであることを示すものだった。

 十字架の直前のこの最後の晩餐は、イエス様と弟子たちが生命的に一つであることを、思い起こさせるものでした。イエス様は、そののち十字架にかかって、私たちを罪と滅びから救う贖いの道を開かれました。このイエス様と食を共にし、寝起きを共にし、行動を共にすることが、私たちを救うのです。私たちに「共に生きる」、共生ということを本当に教えてくれるのです。あなたの魂を救い、また世界を救う力がそこにあります。
 「四方の海みな同胞と思う世に……」
 日本人が心から夢見たこと、それは「共に生きる」ことでした。世界が略奪から共生へ向かうためには、全世界のすべての人が、このイエス様を知る必要があります。その変革は、あなたの魂から始まります。イエス様と共に生きてください。そして、他者と共に生きることを学んでください。神と共に生きてください。そしてこの世界にあって、略奪から共生への道を探っていきましょう。共に生きる世界が少しでも拡大していくようにしていきましょう。
 「人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます
 やがて、共に生きる世界が完全に実現するときがきます。それはキリスト再臨の時ですが、私たちは主をお迎えするそのときまで、主の教えにならって、共に生きることで成長していきたいと思います。ある人が、
 「自分の生まれたときより、少しでも世界を良くしてからこの世を去りたい
 と言いました。私たちも、その心がけを持っていこうではありませんか。それがイエス様のみこころに従う道です。 

久保有政

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