聖書

聖書は矛盾していない

「聖書は矛盾している」という主張に反論する。

主張1 カインの妻
 「創世記には、『カインは妻を知った』(四・一七)と書かれているが、当時人間はアダムとエバ、そしてカインの三人しかいなかった。アベルは死んで、すでにいなかった。だからカインが妻を得たというのは、聖書の矛盾ではないか」。


アベルを殺してしまったカイン。彼はいかにして妻を得たか。

回答
 アダムとエバは、はじめにカインとアベルを生みましたが、アベルの死後、セツを生みました。そしてセツの後も、多くの息子、娘たちを生みました。
 「アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ」(創世五・四)
 と記されています。アダムとエバは、神の「生めよ。ふえよ。地を満たせ」(創世一・二八)のご命令に従い、この「八〇〇年間」に多くの息子、「娘たち」を生んだのです。彼らは地の表に増え広がっていきました。
当時は聖書によれば、人々は長寿であり、多くの人々はしばしば一〇〇歳前後、または数百歳でも結婚し、子どもを生むことができました(創世記五章)。
 したがってカインは、自分の妹たちの中から、彼女たちが成人したのちに妻を得ることが可能でした(あるいは姪)。この点で、聖書は全く矛盾していません。
 また、カインの妻が彼の妹だとすると、「それでは近親結婚ではないか」と非難する人もいるでしょう。しかし、人類の創始期においては、近親結婚は何ら問題がありませんでした。
 なぜなら、今日、近親結婚が禁止されているのは、遺伝子エラーの問題があるからです。子どもは両親から遺伝子を一つずつもらいますが、そのとき遺伝子の片一方にエラーがあっても、もう一つが正常なら、そのエラーを補って正常な子どもが生まれます。
 けれども、両親が近親の場合、遺伝子の同じ箇所にエラー(欠陥)がある確率が高くなります。そうなると障害者が生まれるので、近親結婚は好ましくないとされているのです。
 しかし、人類の創始期においては、アダムとエバの遺伝子は完全でした。またその後もしばらくはそうであったので、遺伝子エラーの問題は全くありませんでした。
 したがって当時は、近親結婚は何ら支障がなかったのです。また、カインがなしたのが「近親相姦」というような姦淫的行為ではなく、恋愛をもとに愛し合ってなした「近親結婚」であったならば、なおのこと道徳的にも全く問題はありませんでした。
 しかし、人間に罪が入って以来、世代を重ねてしばらくたつと、遺伝子エラーの問題は次第に大きくなってきました。そのため、近親結婚はモーセの律法の中で禁止され(レビ一八・六〜一八)、また今日の多くの国々の法律でも禁止されているのです。


主張2 二つの天地創造伝承
 「創世記には、天地創造に関する話が二つ記されている。一つは創世記一章のものであり、もう一つは二章のものである。この二つの天地創造の話には矛盾がある。
 たとえば、一章では人は第六日に造られているが、二章では第七日のあとに造られている。また、一章では動物のあとに人が造られているが、二章では人のあとに動物が造られている」。


回答
 創世記一章と二章の内容は、矛盾していません。
 二章は、一〜三節までと、四節以降の二つの部分に分けられます。
 一〜三節は、天地創造の第七日について記していますが、これは内容的には、一章における天地創造六日間の記録に続くものです。一章と二章三節までは一つのものなのです。
 一方、二章四節以降は、神の天地創造を述べながら、とくに創造第六日の人の創造に関して詳しく記した記事となっています。
 「これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。・・・・その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。・・・・
 神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げられた」(二・四〜二二)。
 これは、一章では述べきれなかった創造第六日の人の男女の創造を、詳しく記したものです。
 同様に、二章では人の創造のあとに動物が造られているという主張も、読み違いです。
 「神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた」(二・一九)。
 この記述は、人の創造後に動物が造られたと述べているのではなく、すでに造られていた動物たちが、人の創造後になって「人のところに連れて来られた」と述べているに過ぎません。
 植物の創造にしても、二章では、
 「神である主が地と天を造られたとき、地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった」(五)
 とありますが、これは創造第三日の植物の創造以前の時のことを振り返って記述しているのです。そして、
 「その後」(七)
 と言って、人間の創造について語られます。これは創造第六日のことになります。
 また、二章七〜八節の人間創造の記述後、九節で、植物を生えさせたと言っています。これは一章で述べられている創造の順序と逆ではないか、という人もいますが、これも問題ではありません。八節と九節の間には、「その後」という接続詞はありません。つまり、これは時間的に後のことを述べているのではなく、「いのちの木」や「善悪の知識の木」について言及するために、創造第三日の植物の創造にまでさかのぼって記述しているにすぎないのです。
 私たちが何かを述べようとするときにも、別の事柄の記述に入る際に、少し時間をさかのぼった所から記述を始めることはよくあることです。それと全く同じで、これは聖書の矛盾でも何でもありません。
 一章では、天地創造のことが順序を踏まえて語られました。それに対し二章では、このように、人の創造を中心に他の事柄も語られるという記述形式になっています。そのために、記述の前後はありますが、食い違いや矛盾と考える必要はありません。二章は、一章の一部分を、人の誕生時の観点から見て詳しく記し直したものです。


主張3 イエスの系図
 「マタイの福音書一章とルカの福音書三章には、イエス・キリストの系図が記されているが、その内容が互いに異なっている。これは聖書の矛盾ではないか」。


キリストの系図に関してマタイの記述とルカの記述の違いは?

回答
 マタイの系図とルカの系図とでは、確かにダビデからヨセフに至る部分の系図が異なっています。マタイの系図では、
 ダビデ──ソロモン・・・・・・・・ヤコブ──ヨセフ──イエス
 であり、ルカの系図では、
 ダビデ──ナタン・・・・・・・・ヘリ──ヨセフ──イエス
 です。この「ナタン」は、ソロモンの兄弟です(IIサム五・一四)。つまり、ダビデ以降、別の系統を記しています。しかし、これを「矛盾」と考える必要はありません。
 これに関して、二つの場合が考えられます。一つは、マタイの系図はヨセフの家系を記したものであり、ルカの系図は、マリヤの家系を記したものだ、ということです。
 ルカ三・二三には、
 「イエスは・・・・人々からヨセフの子と思われていた」
 とありますが、イエスは人々からはヨセフの子と思われていたが、ルカはイエスの系図を記す際には、実際にはヨセフの系統ではなく、マリヤの系統を記したのではないか、ということです。
 もう一つの場合は、ヘリはヤコブの親戚であり、ヤコブが子のないうちに死んだため、その家系をたやさないためにヤコブの妻をめとり、その間にヨセフが生まれた、という場合です(または、ヤコブとヘリの立場が逆)。
 このように、誰かが子のないうちに死んだ場合、その死んだ者の妻を親戚がめとるというのは、旧約聖書の律法で命じられていたことでした(申命二五・五)。それはイスラエルでは、ごく普通に行なわれていたのです。
 このような場合、ヨセフと血のつながりのある父はヘリですが、律法上の父は死んだヤコブでもあったのです。とすると、マタイの系図もルカの系図も、両方とも正しいわけです。
 このように、マタイの系図とルカの系図の違いの背景として、二つの場合が考えられますが、どちらの場合であっても、これを矛盾と考える必要は全くありません。


主張4 復活の記事の相違?
 「イエス・キリストの復活の記事が、福音書間で異なっている。たとえばマタイやマルコの福音書では、女たちはひとりの天使に会っているが、ルカの福音書では女たちはふたりの天使に会っている。これは矛盾ではないか」。


回答
 これは矛盾ではありません。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書にあるイエス・キリストの復活の記事を総合すると、出来事は大体次のように起こったと考えられます。
 週の初めの日の朝早く、二組の敬虔な女たちが、イエスに最後の葬りの油を塗ろうとして、墓に行きました。
 第一組はマグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、サロメです。また第二組は、ヨハンナと他の女たちであったと思われます(マコ一六・一、ルカ二四・一〇)。
 第一組の女たちは、墓石がのけてあるのを見ました。マグダラのマリヤは体が盗まれたのだと重い、ペテロやヨハネにそれを知らせに戻りました(ヨハ二〇・一〜二)。
 残りの女たちは墓の中に入り、ひとりの天使から復活の事実を知らされ、また弟子たちへのメッセージを託されました(マタ二八・一〜七、マコ一六・一〜七)。
 急いで帰る途中、彼女たちは第二組の女たちに会いました。そこで皆は、もう一度墓に帰りました。そして、ふたりの天使から、再びより強い復活の保証と指図を受けたのです(ルカ二四・一〜八)。
 女たちは今度は、すぐに町へ急ぎましたが、その途上でイエスが現われました(マタ二八・九、一〇)。それから彼女たちは、使徒たちのところに帰り、自分の見聞きしたことを伝えました。
 その間に、マグダラのマリヤはいち早くペテロとヨハネのもとに行っていましたが、彼女の知らせを受けたペテロとヨハネは、墓に走って行き、その事実を確かめました(ヨハ二〇・三〜一〇)。
 マリヤは墓に遅れて着き、ペテロとヨハネが園を出てからも、そこに残りました。その時、イエスは彼女にも現われたのです(ヨハ二〇・一一〜一八)。
 イエスはその後、ペテロ(ルカ二四・三四、コリ一五・五)、またエマオ途上の二弟子に現われました。その夕には、トTマスを除いたほかの弟子達にも現われたのです(ルカ二四・三六〜四三、ヨハ二〇・一九〜二三)。
 このように、四福音書を総合してみると、主イエスの復活の記事に矛盾はないことがわかります。


イエスの復活後、天使からそれを告げられる女たち。

主張5 訳本間の意味の違い
 「聖書には間違いがないというが、訳によって、意味が多少違うことがある。たとえば口語訳と、新改訳、また新共同訳等の間で、意味が違う場合がある。これは矛盾ではないのか」。


回答
 キリスト教においては、聖書は「原本において」誤りがない、と信じられています。
 誤りがないと信じられているのは、神の霊感を受けて書かれた聖書の「原本」だけです。写本や訳本には、誤りがあり得ます。
 写本の場合は、人間的な写し間違いであったり、訳本の場合は、意味の取り違い、あるいは翻訳上のミスなどです。
 したがって、訳本間の意味の食い違い等を指摘して「聖書にも誤りや矛盾があるじゃないか」と主張する議論は、的外れなものです。
 聖書の原本は大昔に書かれ、写本を通して伝えられてきました。これは原本はパピルスや羊皮紙に記されたので、時間がたつと、もろくなり、どうしても写本をつくる必要があったからです。
 写本には誤りがあり得ますが、それでもユダヤ人は非常な厳密さをもって写本をつくってきました。そのため、その正確さは比類ないものです。
 またこの写本をもとに、様々な国の言葉への訳本が造られました。この際も、聖書学者は細心の注意をもって、翻訳作業をしています。
 訳本の間で、しばしば意味が若干違う場合があるのは、原語の意味をより正確に言い表そうとする努力のあらわれと見るべきでしょう。私たちは幾つかの訳本の訳を参考にしながら、原語の意味を探る必要があるのです。
 聖書の原本は今日はすでに存在せず、最も古い写本も存在しませんが、私たちが今読んでいる聖書は、ほぼ原本の内容そのままでしょう。そこには神の守りがあったのです。


主張6 太陽の創造
 「創世記一章で、光は創造第一日に造られ、太陽は創造第四日に造られている。つまり、第一日には太陽という光源がまだなかったのに、光が輝いたことになる。これは矛盾ではないか」。

回答
 これは矛盾ではありません。
 たとえば今日の科学者は、太陽の起源を語る際に、まず最初に熱せられたガス体として光を放つ原始太陽ができ、それがのちに収縮して、核融合によって光を放つ現在のような太陽が形成された、と考えています。
 つまり、太陽の起源を二段階で語っているのです。はじめに原始太陽は、熱っせられたガス体として光を放ち、次に核融合が始まって、安定した光を放つ太陽になりました。
 したがって創世記一章で、創造第一日に光が発せられるようになり、第四日に太陽が形成されたというのも、このような状況であったとも考えられます。第一日のは原始太陽のものであり、第四日のは核融合による太陽の形成でしょう。
 実際、創世記一・一六の太陽を「造られた」という言葉は、原語では「すでにある材料を用いて何かを作る」というような場合によく使われる言葉です。
 それは無からの創造というよりは、すでに存在していた原始太陽を、現在のような核融合によって光を放つ太陽に形成された、という意味にとれるのです(レムナント出版発行『科学の説明が聖書に近づいた』パート1に、さらに詳しい解説があります)。


主張7 マルコ一六章
 「マルコ福音書の最終章である一六章は、本来八節で終わっていた。九節以降はあとでつけ加えられたものである。だから、キリストの復活の記事は信用できない」。


回答
 たしかに、現存する最も権威ある写本によれば、マルコ福音書一六章は八節で終わっています。写本上の証拠から、九節以降は二世紀になってから追加された文章であることが明らかです。
 しかし、一〜八節も、キリストの復活を語っている文章です。ですから、九節以降が追加文であるからといって、キリスト復活の記事の信用性を否定する理由にはなりません。
 一〜八節をよく読んでみると、どうみても八節で終わるのは不自然です。天使が墓に現われて、イエスは復活されたと女たちに告げているというのに、イエスがご自身を人々に現わされた記事にまでは及んでいません。
 この不自然な終わり方から見て、マルコの福音書の原本には、本来は九節以降もあったと見るのが自然でしょう。しかしそれが何らかの理由で失われたので(たとえば原本は巻き物なので端は破損しやすい)、のちに新たに九節以降が補われたと考えることができます。
 しかし、あとで補われたその九節以降も、イエスの復活の事実を実際に見聞きして知っていた人たち、または、イエスの復活の事実を確かに把握していた人たちによって追加されたことでしょう。
 実際、マルコ一六章九節以降の復活の記事は、マタイ、ルカ、ヨハネ福音書の記事と何ら矛盾するところはなく、私たちはその内容に信頼を置いてよいのです。
 あるいはまた、原本で失われていた九節以降がのちになって発見されたため、以後の写本には九節以降が追加されたのだ、という場合も考えられるでしょう。
 いずれにしても、マルコ一六章九節以降がのちの追加文ではあっても、キリストの復活の記事の信用性に疑義をさしはさむ理由はありません。


 ほかにも、聖書に反対する人々が「これは聖書の矛盾だ」と主張しているものはあります。しかし、いずれのものも、理にかなった説明をすることが可能です。
 一見、表面的には矛盾のように見えても、その前後関係や、背景等をよく調べてみると、じつは矛盾ではないことがわかってきます。
 人間的な考えで聖書を読んで、矛盾があるように誤解して聖書を間違った書物のように考えることは、つまらない過ちです。私たちは、「聖書には矛盾はない」と信じてよいのです。

久保有政 著

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