その他 

長野政雄
乗客を救うために自らの命を犠牲にした鉄道員


 明治四二年二月二八日、北海道の塩狩峠において、坂を上りつつあった列車に事故が起きた。最後尾(さいこうび)の客車の連結器がはずれ、分離したその客車は、単独で長い坂を下り始めたのである。
 客車のハンドブレーキは、完全にはきかず、それだけでは客車は止まらなかった。しかし、大事故は未然に防がれた。その客車に乗り合わせていた鉄道職員・長野政雄(ながのまさお)が、自らの体を線路に投げ出し、それをブレーキにして客車の暴走を止めたからである。
 彼のことを知る旭川六条教会の小川牧師は、昭和一四年にこう書いている。
 「今を去ること満三〇年前、明治四二年二月二八日は、私どもの忘れることのできぬ日であります。すなわちキリストの忠僕(ちゅうぼく)・長野政雄兄(けい)が、鉄道職員として、信仰を職務実行の上に現わし、人命救助のため殉職の死を遂げられた日であります」。


鉄道職員・長野政雄

 長野政雄という人は、どういう人だったのであろう。
 彼は、鉄道の庶務(しょむ)主任をしていた。収入は比較的多いほうであったが、きわめて質素な生活であったと、同じ下宿だったある信者が述懐している。洋服なども、ほとんど新調しなかったらしい。
 食事も粗食で、弁当のおかずなども、大豆の煮たものを壷の中に入れておき、一週間でも一〇日でもその大豆ばかり食べていたことがあるという。そうして浮いたお金で、彼は国元の母に生活費を送り、また教会に多額の献金をしていたのである。
 その献金額は、裕福な実業家信者よりも多かったと聞く。彼はまた、日露戦争の功により金六〇円を下賜されたが、これをそっくり旭川キリスト教青年会の基本金として献金した。六〇円といえば、今のどれほどにあたるか。かなりの大金のはずである。
 彼は、教会のすべての集会に出席する熱心な信者であった。集会の往復には、計画的にその道を考え、よく人々を教会にさそった。しばしば自費で各地に伝道し、鉄道キリスト教青年会を組織した。講壇での彼の話は、火のように激しく、熱誠をおびていたという。
 職場でも、彼は部下に、また上司に信頼されていた。
 彼が札幌に勤務中のこと、職場にAという酒乱の同僚がいた。Aは、同僚や上司からはもちろん、親兄弟からさえも、はなはだしく嫌われていた。
 Aは酒におぼれ、ついには発狂するに至った。当然職を退かざるを得ない。Aの親兄弟は、病気の彼を見捨てた。ところがひとり長野政雄は、親兄弟も顧みない狂人のAを、勤務のかたわら真心こめて看護し、彼に尽くした。
 Aは、飲めばからみ、乱暴を働いたが、長野は決して彼を見捨てなかった。しかも全治するまで、Aを看護し続けたのである。
 全治するやいなや、長野は上司に対してAの復職を懇願した。全治したとはいえ、ふつうなら復職はかなり困難である。しかし長野の人格と熱意に打たれた上司は、ついにこれを聞き入れた。
 長野はただちに、苗穂村に一軒の家を借り受け、Aと共に自炊生活を営み、その指導援助を続けた。そしてついに、Aを完全に立ち直らせたのである。このようなことは、一時の親切心だけでは、到底できないことであろう。
 こうした長野の徹底した愛の姿は、同僚や上司の間でよく知られるところとなった。長野の在職中、運輸事務所長は幾度か変わったが、いずれの所長も、彼を得難(えがた)い人物として深く信頼していた。ある所長は転勤の際、後任の所長に、
 「旭川には、長野というクリスチャンの庶務主任がいる。彼に一任すれば、あとの心配はいらない」
 とまで言って信頼を示した。
 どこの職場にも、手に負えない怠惰な者や粗暴な者がいるものだが、長野の所には、よくそうした問題のある者がまわされてきた。長野の所に送ればすべて解決できる、との定評があったからである。
 また日露戦争直後のこと、北海道の伝道に尽くした宣教師ピアソンが、スパイの嫌疑をかけられたことがあった。当時は外国人と見れば、スパイ扱いするのが常だったのである。ピアソンはたちまち人々の反感と憎悪を買い、小学生までがピアソンの家に投石する、という事態におちいった。
 長野はこれを深く憂い、ただちに新聞に投書して、ピアソンの人格と使命を訴えた。また警察に出向いて、誤解を解くように努めた。こうした行為は、下手をすればスパイの仲間と誤解されるかも知れなかった。しかし長野は、勇気を出してピアソンのために奔走したのである。


徹底した愛の人

 このような徹底した思いやりと愛を、彼は生まれつき持っていたのか。そうではないであろう。彼は、主イエスの愛を思うにつけ、自らの身を打ちたたき、実行的信仰の階段を一歩一歩上りつめていったに違いない。
 残念ながら、長野政雄の日記や手紙等は、彼の遺言(ゆいごん)により、彼の死後一切が焼却された。そのため今日、彼自身の心の内面を詳しく知ることはできない。
 もしそうした手記等が残っていれば、心の内面をもっと知ることができたのに、と惜しまれる。彼はどのように回心に至ったのか。彼にも心の葛藤や、悩み、信仰の成長の段階等があったはずだが、それらはどうだったか。それらは今日知るよしもない。
 しかし、彼の心の内面をよく象徴していると思われる、ある事実がある。それは彼が、日頃から遺書を、自分の内ポケットに秘めていたことである。
 彼は、神と隣人のためには、いつでも命をささげると心に決意していた。それは自分の人生を忌み嫌っての遺書ではない。自分の命を愛のために捧げる、との決意をあらわす遺書だったのである。
 彼は遺書を、いつも自分の身につけることにより、愛のためにはいつでも死ねる覚悟をしていた。彼は、いつ死んでも自分の人生の清算はできている、と言えるような生き方を欲したのである。
 人生の終わりを見つめて生きている人と、人生の終わりを考えないで生きる人とは、たしかにその生き方に大きな差がある。死は、それまでの人生の集約である。いかに死ぬかは、いかに生きるか、ということである。
 彼の心には、いつもあのキリスト・イエスの十字架の姿が映じていた。主イエスは、私たちのために命を捨ててくださった。私たちを、罪と滅びの人生からあがない出すために、身代わりに命を投げ出してくださったのである。
 主イエスの愛により、私たちは「愛」ということを知った。いまや長野の心には、主イエスが生きておられたのである。
 長野の人柄をよく知っていた杉浦仁氏は、こう書いている。
 「長野政雄先生は、父杉浦義一の最も信頼していた愛弟子であり、片腕でもあった関係で、ひとしお感銘深いものがあります。一個の人間像において、長野氏のようにあらゆる美徳を兼ね備えた人物は、絶無といっても過言ではありません。・・・・
 上司、同僚、下僚、友人・・・・彼を知る限りの人から敬われ、愛され、親しまれた事実は、そのことを雄弁に物語っています。自己に関しては非常に厳格でしたが、他に対しては寛大でした。長野氏がかつて人を非難し、批評したことを私は知りません」。
 また当時の彼の友人だった旭川六条教会員の山内氏は、
 「君は愛の権化(ごんげ)と言ひて可なり」
 と書き記している。


塩狩峠

 ついに、明治四二年二月二八日、長野の隣人への愛が最終的に試される時がやってきた。その日の夜、彼は汽車に乗り、いつものように教会の祈祷会に向かっていた。
 汽車が、塩狩峠(しおかりとうげ)の上り急勾配(きゅうこうばい)にさしかかったときのことだった。最後尾の客車の連結器が突然はずれ、客車は前の車両から分離して、逆方向に急速度で走り始めたのである。もはや脱線転覆(てんぷく)はまぬがれまいと、乗客は総立ちとなり、救いを求め叫ぶ有り様に車内は騒然たる大混乱となった。
 外は夜のとばりの中、小雪が舞っている。そのようなとき、神を信じる者とそうでない者との相違があらわれる。その客車に乗り合わせていた長野は、すでに覚悟が決まっていたと見え、いささかも動揺することなく、思いはただ乗客を救助することに馳(は)せていた。
 神が示されたのか、その客車のデッキにハンドブレーキの装備があるのが、目に入った。長野はただちにデッキ上に出て、ブレーキを力一杯締め付けた。客車の速度は弱まり、徐行程度にまでなった。
 しかし、完全には止まらない。もしこのまま走り続ければ、この先の急勾配でまた客車は暴走を始めるかもしれない・・・・。
 「どうしたらいいのか」――これ以上ブレーキはきかない。彼の心には、幾つもの思いが通り過ぎたであろう。
 当時のことをよく知る藤原栄吉氏の証言によれば、そのとき長野がデッキ上から後ろを振り向き、一瞬うなずいて乗客らに別れの合図をした姿を、目撃した者があったという。
 次の瞬間、客車は「ゴトン」という衝撃とともに完全に停止した。乗客は外に出て、自分たちが助かったことを知った。しかしその客車の下に見えたのは、自らの身を線路に投げ出し、血まみれになって客車を止めた長野の無惨な遺体であった。
 彼の犠牲の死を見て、感泣(かんきゅう)しない者はなかったという。
 客車内に残されていた彼の遺品は、その後関係者に届けられたが、遺品の中には聖書と、妹への土産(みやげ)の饅頭(まんじゅう)などがあった。
 彼の死が伝えられたとき、鉄道、教会等の関係者はもちろん、一般町民も深く心を打たれた。氏の殉職直後、旭川、札幌に信仰の一大のろしが上がり、何十人もの人々が洗礼を受けた。藤原栄吉氏なども、感激のあまり、七〇円あった自分の貯金を全部日曜学校のために捧げたという。


その夜の不思議な出来事

 長野政雄のこの生涯をもとに、作家の三浦綾子氏は、小説『塩狩峠』を著した。この小説は、長野政雄の生涯そのものではないが、それをもとにして描かれたものであり、読んだ人々に深い感動を与えている。この作品はまた、映画化された。
 じつは塩狩峠の事故があった夜、長野の通っていた旭川六条教会で、ある不思議な出来事があった。
 当時のその教会の牧師・杉浦義一氏の三男・杉浦仁氏は、こう述べている。
 「ちょうどその日二月二八日、集会の終わりに近い午後九時前後かと思いますが、駅からの使いで急変が知らされました。しかし最初、一同はいっこうに驚きませんでした。
 なぜなら、少し前に長野氏が遅れて教会にやって来て、前方のいつもの席でお祈りしていたからです。ところが、あらためてその席を見ると彼の影も形もなく、初めてびっくりしたという事件がありました」。
 この出来事は、一体何だったのか。皆の勘違いだったのか。しかし、長野の亡くなった夜、多くの教会員が彼の祈る姿をそこで目撃したというのである。
 余談だが、このようなことは、長野政雄以外にも起こっている。本書で先に取り上げた「ある死刑囚」の手記にも、同様な体験が載せられている。
 この死刑囚は、獄中で回心し、キリスト者となって残された短い日々を過ごした人であるが、その回心の背景に、当時の偉大なキリスト者・永井隆博士(長崎で原爆症の研究をした人)との、手紙を通じての心温まる交流があった。
 その死刑囚は、回心以来、尽きぬ平安に満たされて、眠れない夜というものがなかった。ところがある夜、彼は何か心にざわめきを感じて、どうしても寝つけなかったという。
 体に何の異状もなく、何の思い煩いもないというのに、寝つけなかったのである。彼はとうとう起きて、一睡もせず、朝まで聖書を読み明かした。
 翌朝のこと、彼は永井博士の召天の報を、耳にしたのである。そのときのことを、彼は手記に次のように記している。
 「私は、博士の短冊(彼が博士からもらった聖句入りの短冊)の下で机の前に座し、頭を深く垂れて、
 『ああ、そうであったか! 昨夜私があのように一夜眠れなかったのも、博士との友情を、主がよみされたからに違いない。不自由な身体を離れた博士の霊が、第一番にこの獄舎に来て、「覚めて祈れ」との主の御言葉を教え、励ましてくださったのだ』
 と思い、感謝の涙を抑えることができずに祈りました」。
 彼は、前の晩不思議にも眠れなかったことを、博士の霊が獄舎に来てくださったから、と解釈したのである。同様に、長野の死後、長野の祈る姿が教会で見られたという先の出来事も、はたして肉体を離れた彼の霊であったのか。
 臨死体験者(ニアデス体験者)は、肉体の死後も霊はしばらくこの世にいることがある、という証言をしばしば行なっている。こうした出来事は、そうした証言をも思い起こさずにはいられない。
 長野が教会で祈っていたというあの出来事は、彼の人生全体を象徴するものである。彼の人生は、愛と祈りの生涯だった。
 列車の事故は突然のことであり、長野は自分の人生の最期を前にしたあのとき、充分な祈りの時間を与えられなかった。それで死の直後、天国に召される前、彼の霊は神のご配慮によって、しばらくの間教会で祈る時が与えられたのかもしれない。
 長野政雄の霊は、今は主の御(み)もとで深い安息を得ているであろう。私たちも死後天国へ行けば、彼に会えるのである。
 長野政雄の生き方は、今日も私たちの心に生き続けている。主イエスが言われたように、
 「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていない」(ヨハネ一五・一三)
 彼の生き方に、私たちは少しでも学びたいものである。


   ――参考文献――
『塩狩峠』(三浦綾子著)新潮社

                                                                                               久保有政著  

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