死後のセカンドチャンス否定論への反論

久保有政


肯定か否定か

 「死後に救いのチャンスはあるのか」(セカンドチャンス)ということに関し、クリスチャンジャーナル誌「ハーザー」において肯定・否定の両論が掲載され、誌上討論が展開された(2002年7月号〜)。7月号の肯定論は私が執筆した。一方、否定論の著者はその冒頭で、
 「私は、死後にセカンド・チャンスがあるということも、また、全くないということも、どちらも聖書ははっきりと語っていないと考える」
 とことわっているから、否定論というよりは不可知論と言ったほうがいいのかもしれない。
 しかしその論説の内容は、大部分、否定的見解を述べたものであり、多くの否定論者の見解を代表している。
 [これら肯定論、否定論のそれぞれの内容については、ハーザー七月号を読んでいただきたい。肯定論の内容は、レムナント四月号(一五三号)で述べたものである。]
 さて、以下、この否定論(不可知論)を「T論」と呼び、それを読んだ私の感想、および幾つかの反論を、ここで述べてみたい。
 まずT論は、セカンドチャンス肯定論者の聖書的根拠は第一ペテロ三・一八〜四・六だけ、というような書き方をしている。
 だが、肯定論者の根拠は単にそれだけではなく、ピリピ二・一〇〜一一、黙示録五・一三などが、それ以上に大きな聖書的根拠なのである。
 これらの聖句に関する詳しい解説は、後述する。正しい解釈と誤った解釈についても見てみよう。
 また、私に限らず聖書の死後観研究者の多くは、地獄(ゲヘナ、火の池)と、陰府(ハデス、シェオル)の明らかな違いについて述べてきた。死んだ未信者が今いる陰府という世界は、地獄とは別の場所なのだと。そして地獄にはまだ誰も入っていない。
 しかしT論は、それについてふれていない。またその結論部の言葉からみると、T論はまだ陰府を地獄と混同、あるいは同じようなものと考える誤りから脱却していない。
 死んだ未信者が今いるのは地獄ではなく、陰府である、という聖書の真理(黙示二〇・一四)は、非常に重要である。
 それをよく認識しなければ、聖書の本当の死後観はわからない。死んだ未信者は、すでに最終状態にあるのではなく、まだ中間状態にあるのである。

「ラザロと金持ち」は永遠の刑罰を語った話ではない

 第一にT論は、
 「金持ちとラザロのたとえ(ルカ一六・二〇〜三一)において、主は、パラダイスと黄泉との間には越えることのできない深い淵がある、諦めよと言われ、実質的に『死後の救いの可能性』を否定している。……
 救いの鍵は聖書のメッセージにあり、救いのチャンスは生存中だけである、ということを、この譬話は暗示しているのである」
 と述べる。しかしこれは、よく見られる曲解的解釈である。
 なぜなら、まず、この「金持ちとラザロ」の話に出てくるのは「パラダイスと黄泉」ではない。すべては陰府(=黄泉とも書く)の中の話である。
 金持ちは、陰府の中の「苦しみの場所」(ルカ一六・二八)にいた。一方、アブラハムとラザロがいたのは、陰府の中の″慰めの場所〃とも呼ばれる場所であった。旧約時代は、悪人も、神を信じる信者も、すべて死後、陰府に行ったのである(創世三七・三五、詩篇八八・三、伝道九・一〇、第一サム二八・一三)。
 陰府は幾つかの場所に分かれており、それらの場所は互いに行き来ができないようになっていた。
 この陰府の中の慰めの場所を、「パラダイス」と呼ぶ人もいるが、これは誤りである。
 聖書でいう「パラダイス」は、いのちの木のある場所(黙示二・七。すなわち天国)、または、キリストと共にいること(コロ二・一七)を意味する。
 使徒パウロはまた、自分が「パラダイスに引き上げられた」(第二コリ一二・四)と述べたが、これは第三の天のことであった。
 しかし、陰府の慰めの場所は、天国でも、いのちの木のある場所でもない。陰府は「下」にある世界であり、その中のいずれの場所も「パラダイス」ではない。
 カリバリーの丘でキリストが盗賊に対して言われた言葉は、これから陰府に下ってもご自身と共に行くのでそこはパラダイスにも等しい、という意味だったのである。陰府の場所自体がパラダイスという意味ではない。

金持ちの砕かれた心を神は義とされる

 また「ラザロと金持ち」の話は、「あきらめよ」「救いのチャンスは生存中だけにある」ということを教えるためのものだろうか。
 そうではない。私はこの話を読むとき、金持ちが陰府で示した温情と愛に、深い感動を覚える。彼は、自分でなくてよい、ラザロでいいから地上の兄弟達のもとへ送って、彼らに警告を与えてくれと願った。
 その願いは結局かなわなかったが、大切なのは、その金持ちの心情である。たとえその願いがかなえられても、彼は何の得もしない。
 しかし純粋に、自分の人生を後悔し、今も地上で利己的な生活を続ける兄弟たちを心配して、そう言っている。
 これは無私の心であり、純粋な思いやり、愛である。それは神殿で、天を見上げずに自分の胸を叩き、嘆きながら祈ったあの取税人(ルカ一八・一三〜一四)の心にも等しい。
 キリストは、あの取税人は「義とされて帰った」、と言われた。同様に、キリストは旧約時代に天上から陰府の様子をご覧になり、金持ちの心を目撃して、深い感動を覚えられた。だから、それを私たちに語ってくださったのである。
 同様のことは、かつてキリストが神殿におられたときにもあった。主は、賽銭箱にレプタ銅貨を二枚投げ入れた女を見て、その感動を弟子たちに語られた。
 「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです」(ルカ二一・一〜四)。
とイエスは言われた。じつは、これはキリストが、十字架にかかってご自身のすべてを人々のために捧げる数日前のことだった。
 だから、生活費のすべてを神に捧げたこの女の姿は、キリストに深い感動を与えたのである。神のために捧げる者や、人のために温情を示そうとする姿は、キリストの御心を動かしてやまない。
 陰府で無私な愛の心を示す金持ちの心を、キリストは天上から目撃して、深く感動された。
 T論は、「ラザロと金持ち」の話を「譬話」と呼ぶが、これは譬話ではなく、実話である。主イエスは、「アブラハム」「ラザロ」という実名をあげておられる。
 イエスが実名をあげて「譬話」を語られたことは、一度もない。譬話のときは、つねに「ある人が」「ある農夫が」等と語られた。
 イエスがたとえば、ご自身を迫害するパリサイ派や律法学者らに、
 「あなたがたは……わたしを殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです」(ヨハ八・四〇)
 と言われたとき、それは実話であった。実名をあげられたときは、つねに実話である。「ラザロと金持ち」の話も実話である。それは旧約時代の実話であった。
 「兄弟たちを救うために、ラザロを地上に送ってください」
 と金持ちは言った。これは、かつて父なる神が、人々を救うためにキリストを地上に送られたときの心にも近いものである。
 あるいは、キリストが天上から人々の惨状をご覧になり、何とか彼らを救いたい、と願われるお気持ちにも近い。
 だから金持ちの純粋な心は、キリストの御心を動かした。この金持ちの出来事は、旧約時代の出来事であったが、それをキリストは忘れることができず、弟子たちに語り、また聖書の中に残して下さったのである。
 もし私たちが、このキリストの感動を自分の感動とできないのだとすれば、そして、「あきらめよ」といった無情な解釈しかできないのだとすれば、私たちの聖書解釈はどこかが間違っていたのである。
 「神へのいけにえは、砕かれた魂。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまれません」(詩篇五一・一七)
 神が、金持ちの砕かれた悔いた心をさげすまれることは、あり得ない。それを軽んじられることはあり得ない。
 金持ちの砕かれた愛の心は、あの取税人の砕かれた魂と同様、神の前に「義」とされてしかるべきものである。
 この話はまた、陰府においては地獄とは違い、神の恵みがあることを示している。金持ちがこのような砕かれた愛の心を持てたのは、神の恵みあってのことである。
 「たとい私(ダビデ)がよみに床を設けても、そこにあなた(神)はおられます」(詩篇一三九・八)
 地獄に神はいないが、陰府にはおられる。この地上において神は、悪い者にも良い者にも太陽を上らせ、雨を降らせてくださっている(マタ五・四五)。陰府においても、神の恵みはすべての魂の上にある。
 つまり、陰府の「苦しみの場所」の苦しみは、人を永遠に苦しめるための苦しみではない。それは人を本心に立ち返らせようとする、懲らしめ的苦しみなのである。
 神は、愛する者を懲らしめる。またこの金持ちのいるのは、地獄ではなく、陰府である。それは最終的な永遠の刑罰の場所ではなく、世の終わりまで留め置かれるための一時的場所である(黙示二〇・一四)。
 すべては神のご計画のもとにある。神の恵みは無に帰することはない。それはご自身の救いの目的にそったものである。

ユダにもまだ救われる可能性はある

 第二にT論は、イスカリオテのユダに関し、
 「ユダの犯した罪は『主を裏切る』という極めて重い罪であり、彼はあわれみを受けることなく滅びるのが当然である。……このような傲慢な魂が救われる可能性は全くない。……
 彼は『滅びの子』であり、『滅んだ』とハッキリと記されている。……また、ユダはのろわれたとも言われ、『生まれなかったほうがよかった』とも言われている」
 と述べる。しかし聖書をもっとよく読んでほしい。「滅んだ」のギリシャ原語は、もう滅亡してしまって回復不能の意味ではない。たとえばイエスは弟子たちに、
 「イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい」(マタ一〇・六)
 と言われる。「滅びた」人に伝道し、彼らを回復させなさい、というご命令である。
 またこのギリシャ原語は、別の場所では「失われた」とも訳されている。イエスはザアカイの家で、
 「人の子(キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ一九・一〇)
 と言われたが、「失われた」は原語では「滅びた」と同じ言葉である。このように、「滅びた」「失われた」は回復不能の意味ではない。
 単に、あるべき状態から今は別の所へ行ってしまっている、という意味に過ぎない。回復の可能性をも含んだ言葉なのである。
 さらに、次のこともきわめて重要である。聖書によれば、神は、さばきについては「思い直す」ことのあるかたである。
 たとえば、かつて神がイスラエルの罪を見て、彼ら全員を滅ぼそうとされたことがあった。神は、
 ″モーセよ、わたしを止めるな。わたしは彼らを滅ぼす〃
 と言われた。T論の言葉を借りれば、彼らは「滅びるのが当然」だった。が、そのときモーセは神の前に、熱烈なとりなしの祈りを捧げた。すると、
 「主は、その民に下すと仰せられた災いを思い直された」(出エ三二・一四)
 と記されている。神は、一度お語りになったことでも、さばきについては思い直すことのあるかたなのである。旧約聖書の中には、神がさばきを明言したにもかかわらず「思い直された」、という例が数多くある。
 神の「思い直し」について記した箇所が聖書中にいったい何カ所あるか、読者はご存知だろうか。約二〇ヶ所以上もある。
 裏切った時点でのユダは、罪深く、「のろわれた」者であり、「生まれないほうがよかった」とさえ言えるほどだった。彼は自殺して、陰府に下った。が、それで彼の死後の状態が永遠に決定されたわけではない。
 いかなる罪人の上にも神の憐れみは尽きない。「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ロマ五・二〇)。
 人々のとりなしによっては、神が彼の行く末を思い直されることも、全くあり得ないことではない。なぜなら、彼はまだ死後の最終状態にはないからである。
 彼が行った陰府は、死後の中間状態である(黙示二〇・一四)。彼の最終的行き先が決定されるのは、世の終わりの「最後の審判」と呼ばれる裁判の法廷においてである。
 ユダは「滅びて当然」か、それとも「救われることもある」かという問題は、イエスの語られた「放蕩息子のたとえ話」を思い起こさせる。
 その話に、二人の息子が出てくる。弟は放蕩に走った。しかし悔い改めて帰って来た。父は大喜びで彼を迎えた。
 ところが、そのとき善良な兄は不満を言った。兄は、弟は大きな罪を犯した人間だから「滅びるのが当然」と思っていたのである。
 つまり、もし私たちが、「ユダのような罪深い人間は滅びるのが当然」と思っているなら、私たちの心はこの兄息子の心に等しい。それは父なる神のみこころではない。父なる神は、そうした兄の心をいさめて、
 「おまえの弟は、死んでいたのが生き返ってきたのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」(ルカ一五・三二)
 と喜ぶかたなのである。
 私はこの地上においても、また天国に行ってからも、神がユダに憐れみを施してくださるよう、とりなしたいと思っている。彼もまた、私たちクリスチャンの仲間なのである。
 彼は道を踏み外したが、道を踏み外したことのあるクリスチャンは、彼だけではない。ユダと私たちと、それほどの違いがあるとは思えない。もし私たちが不遜にも、
 「ユダのような罪人は滅びて当然です。神様、私がユダのような裏切り者ではないことを感謝します」
 といった心を持つなら、それは神殿で「取税人のような罪人ではないことを感謝します」と祈ったあのパリサイ人の傲慢さにも等しい(ルカ一八・一三〜一四)。
 ユダは、いま陰府において悔い改めているかもしれない。もし彼が、自分の罪深さを嘆き胸を打ちたたいて祈ったあの取税人の心を持つならば、彼は神の憐れみを受けることだろう。
 「わたし(神)がわざわいを予告した民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す」(エレ一八・八)
 「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち帰れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ」(ヨエ二・一三)
 こうして、ユダがあの取税人と同様に「義と認められた」としても、決して不思議ではない。

ユダも金持ちもすでに天国に入っている可能性さえある

 じつは、ユダは、天国にすでに入っている可能性さえある。なぜなら、彼はキリストの十字架の死の前に自殺して、陰府に下った。そののちキリストは十字架の死後、陰府に下られた。
 もしそのとき、陰府で活動されたキリストの御言葉にふれて、ユダが回心したならば、彼は旧約のすべての聖徒たちと共に、キリストの昇天の際に天国に引き上げられたであろう(エペ四・八)。
 それは金持ちもそうである。
 「ラザロと金持ち」の話は、旧約時代の実話である。もし金持ちが、陰府に来られたキリストの御言葉にふれて回心したならば、彼もまた、アブラハムやラザロと共に、キリストの昇天の際に天国に引き上げられたであろう。
 私は、天国、あるいは来たるべき新天新地で、ユダや、あの金持ちと会いたいと思う。
 もし会うことができるとすれば、きっとそこでは、あの「放蕩息子」が帰ってきたときのような大宴会が、父なる神によって彼らのために催されることだろう。
 私は天使たちや、他のすべてのクリスチャンたちと共に、彼らの帰還を喜び、拍手を送りたい。あなたはどうだろうか。私は神の憐れみの中に、彼らの魂をゆだねる。

「罪人は滅びて当然」ではない

 第三のことは、T論の次の言葉についてである。
 「聖書は、『罪を犯した人間は、あわれみをかけられることなく、また、救いのチャンスを与えられることもなく滅びるのが当然。救いは神の純粋な恵みである』という基準から出発している。……
 聖書は、罪を犯した人間は、福音も何もないままに裁きの座に直行し、そこにおいて永遠の刑罰を受けるのが当然と述べているのである(ヘブル一〇・二八)」
 T論はここで、ヘブル一〇・二八を聖書的根拠としている。しかし、これは引用を誤っている。
 ヘブル一〇・二八は、生きている人間が罪を犯したときの死刑について、述べた箇所である。
 それは、未信者の死後の裁きとは全く関係がない。ましてや、福音を一度も聞くことなく死んで陰府に下った未信者について述べたものではない。
T論は″罪人は滅びて当然〃また″福音のないまま永遠の刑罰に直行するのが当然〃という。だが、そのような冷酷な神が、聖書のいう神であろうか。聖書は述べる。
 「主は……かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第二ペテ三・九)
 つまり、「罪人は滅びて当然」という考えは、神のお心にはない。むしろ神は、「すべての人が悔改めに進むことを望んでおられる」。
 神は断腸の思いを持って、罪人の回心を願っておられる。
 「わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」(エレ三一・二〇)
 罪人を思って、はらわた痛む神の愛である。北森嘉蔵先生のいう「神の痛みの神学」である。滅んでほしくない、悔い改めてほしい、というこの激しい神のお心の痛みをわからずして、神の愛はわからない。
 痛みの神が、聖書の教える神である。悔改めてほしいと望むなら、何をするだろうか。救いのチャンスを、回心のチャンスを、すべての人に与えるはずである。事実、主は私たちに、
 「すべての造られた者に
 福音を伝えよと命じられた(マコ一六・一五)。救いのチャンスは、地上に生きたことのある「すべての人」に与えなければならない。
 だから主が、福音を一度も聞く機会のないまま陰府にいる魂に対し全く無関心でいることは、あり得ない。実際、ピリピ人への手紙二章一〇〜一一節は、
 「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエスキリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためである」
 と述べる。「地の下にあるもの」とは陰府にいる人々をさす。陰府は「地下の国」と呼ばれている(エゼ三二・一八)。神は陰府の人々のためにも、キリストの福音をお与えになったのである。
 また黙示録五章一三節に、
 「私は……地の下……のあらゆる造られたもの……がこう言うのを聞いた。『御座にすわるかたと小羊とに、讃美と誉れと栄光と力が永遠にあるように』」
 とある。ここで「あらゆる」と訳された言葉は″一人残らず〃の意味ではなく、数が多いことの強調であって、「非常に多くの」の意味である(ロマ一一・二六、マタ一〇・二二、ヨハ一三・三五などを参照)。
 陰府の中からも、多くの人が神への礼拝の声をあげるのである。

陰府からの讃美は救われた者たち

 第四に、この解釈に対する反対意見を検討してみよう。たとえば、
 「これらピリピ、黙示録の聖句の主題は、全被造物が主イエスの偉大さを讃えることにある。詩篇一四八篇でも、全被造物が神への讃美のために呼び出されている。
 主を讃美するからといって、救われているとは限らない。終末のときには、救われた者たちだけでなく、滅びに定められた者も、また悪霊たちも主を讃美する」
 と述べる人もいる(ハーザー八月号八ページ)。しかしこれは健全な解釈だろうか。
 聖書中にはたしかに、物質界や生物界の様々なものが、神への讃美のために呼び出されている例がある。しかし、悪霊や、地獄行きの者が神への讃美のために呼び出された例は一つもない
 ピリピ二・一〇〜一一は、主の福音があるのは陰府の人々のためでもあって、彼らが「イエスは主」と告白し、主をあがめるようになるため、と明言する。
 また黙示録五・一三は、陰府の中からも、神とキリストをあがめる声があがるという。その告白と讃美は、救われる信仰そのものである。そして、
 「聖霊によるのでなければ誰も『イエスは主である』と言うことはできない」(第一コリ一二・三)。
 聖霊は救いの霊であり、「神は……聖霊による新生と更新との洗いをもって私たちを救って」(テト三・五)下さった。「イエスは主」と告白させるのは聖霊のほかになく、聖霊は私たちを救う。
 だから、「イエスは主」と告白して心から神をあがめ讃美する者が、地獄行きに定められることはあり得ない。終末でも現代でも、それは同じである。
 T論はまた、先のピリピ二・一〇〜一一、黙示録五・一三を、
 「悪人たちは、よみにおいて主が自分の悪行を正しくさばかれたことを証しし、神の義を示す」
 という意味に解釈する。しかしそうだろうか。
 T論は、陰府にいるのはみな「悪人」だという。だが、旧約時代において陰府は、神を信じる聖徒たちも行った場所だった(創世三七・三五他)。陰府は必ずしも「悪人」だけの場所ではない。
 そして聖書によれば、聖霊が「イエスは主である」と告白させるとき、それは救い主イエスにあって人を救うためである。悪人が神の義を証ししながら地獄へ行くためではない。
 また、黙示録五・一三の「地下からの讃美礼拝」の聖句は、最後の審判直前のものではない、ということにも注意が必要である。最後の審判は千年王国後であり、一方、黙示録五・一三は千年王国前である。
 つまり陰府の人々は、主が「最後の審判」で「自分の悪行を正しくさばかれたことを証しし」て、神の義を讃美しているわけではない。これは審判以前のことなのである。
 さらに、黙示録で神を讃美するために召し出されているのは、悪人たちではなく、「神のしもべたち」である。黙示録一九・五に、
 「御座から声が出て言った。『すべての神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を讃美せよ』」
 と記されている。つまり黙示録五・一三が述べている、
 ″神を讃美する者たち〃
 は、彼らなのである。彼らは救われた者たちであって、地獄行きに定められた者たちではない。
 次のことも重要である。
 聖書中に、滅びゆく者たちが神をほめたたえるために召し出されている例はない。もっとも、第二歴代誌一二・六に、次のような例がある。
 イスラエル人たちが罪を犯し、神の裁きが下った。そのとき、彼らはへりくだって「主は正しい」と言った。
 彼らは、「主が自分の悪行を正しくさばかれたことを証しし、神の義を示」したわけであるが、そのとき彼らは、そのまま滅んでいったか。そうではなかった。その次の節を見ると、
 「彼らがへり下ったので、わたしは彼らを滅ぼさない。間もなく彼らに救いを与えよう」(一二・七)
 と神が言われている。滅ぶべき者も、へり下って神の義を証しするなら、神は救いをお与えになるのである。滅びはお与えにならない。
 すなわち″陰府の中から神をほめたたえる者たち〃もまた、救われた者たちなのである。
 「主よ、……あなたの聖徒はあなたをほめたたえます」(詩篇一四五・一〇)
 また、モーセとイスラエル人も、
 「主は私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる」(出エ一五・二)
 と言って讃美した。讃美するのは、救われた者たちのほかにない。
 ピリピ、黙示録、第一ペテロなどの聖句は、陰府においても信仰を持つ者がおり、救われる者たちがいることを、明らかに語っている。さらにヨハネ福音書五章に、
 「死人が神の子の声を聞く時がきます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。……墓の中にいる者が、子の声を聞いて出てくる時がきます」(二五、二八)
 とある。多くの注解書は、「死人」を″霊的に死んだ人〃の意味に解釈する。たしかに、その意味もある。
 しかし単にそれだけでなく、「墓の中にいる者が子の声を聞いて……」と述べられているから、肉体的に死んだ人々をも意味していることがわかる。
 彼らは御子キリストの「声を聞いて」、その声に従うなら「生きる」のである。このことは第一ペテロ四・六の、
 「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした」
 との御言葉とも一致している。

伝道意欲をそぐものでない

 第五のことは、伝道のことである。T論は、
 「もし死後にセカンドチャンスがあるならば、なぜ宣教師がジャングルの奥地にまで足を運んで、生命をかけて伝道しなければならないのか。そんな危険を犯さなくてもよいではないか」
 と述べる。しかしセカンドチャンスがあってもなくても、宣教師が危険をも犯して地の果てにまで伝道する価値は、全く変わらない。
 私たちがキリストを信じるのは、単に死後の地獄の裁きを免れたいからではない。この地上で生きている間に、神の祝福を受けて、豊かな人生を歩みたいからである。
 地上における回心は、死後の回心にはるかにまさっている。地上において回心しなかった人は、霊的に豊かな人生を歩めない。そして死後は、陰府という暗い死者の世界に下らなければならない。
 彼らは、神から生かされている意味も悟らず、自分の創造された目的も地上で果たさずに、死者の世界へ赴かなければならない。
 彼らは、かつて自分が地上に蒔いたものを、そこで刈り取る苦しい生活をながく送ることになる。また陰府における回心の機会は、死の直後にはない。
 そうした哀れな状況を思うなら、彼らの生存中に伝道して回心に導かなければならない、という伝道への情熱は少しも減るものではない。また、これに対してはキリストの大宣教命令がある。
 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マコ一六・一五)
 キリストがこう言われたのだから、私たちはすべての造られた者に福音を宣べ伝える。それがアフリカの奥地であろうと、危険の伴うところであろうと同じである。
 また、「ラザロと金持ち」の話において、金持ちはかつて地上にいたときの自分の生活を思い起こしている。地上にいたときの記憶は、陰府にいった魂の中に存続するのである。
 だから、私たちが人々に宣べ伝えた福音は、たとえその人が生きている間に信じなかったとしても、陰府にまで伴っていく。彼らは、かつて地上にいたときに聞かされたキリストの福音を、陰府において思い起こすのである。
 人々の生存中にこそ「すべての造られた者に福音を宣べ伝え」ておくことが必要な理由が、まさにここにある。
 救いのチャンスは、まずクリスチャンたちの宣教によって、「すべての造られた者」に与えなければならない。それが主のご命令である。つまり、このご命令に立つなら、
 「死後の神様による直接宣教にまかせよう」
 というような浅はかな考えは生まれ出ない。私たちはできる限り、人々の生存中に福音を宣べ伝え、神に立ち帰らせ、彼らの創造目的を回復しなければならない。
 彼らが生存中に回心すれば、一番よい。しかしたとえ生存中に信じなかったとしても、福音は彼らの記憶に残り、陰府にまで伴っていく。
 陰府の人々がその福音を思い起こすとき、福音は、陰府のすべての人々への深い神の憐れみの証しとなって臨むことだろう。神の福音は、地上の人々だけでなく、
 「地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエスキリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるため」(ピリ二・一〇〜一一)
 にも存在しているのである。

「わかりません」では済まない

 第六のことは、未信者の死後のセカンドチャンスの問題について「確かなことはわかりません」では、日本の伝道は進まないということである。
 T論は、
 「もし信徒や未信者が『福音を聞かずに亡くなった自分の親族は地獄に行き、救いのチャンスはもうないのか』と質問してきたならば、
 『残念ながら、それは聖書にはっきり書いていないので確かなことは言えません』
 としか答えることはできないように思われる」
 と述べている。では、ある求道者がそのような質問をしてきたとしよう。そして、
 「確かなことは言えません」
 と答えたとしよう。そしてのち、その求道者がT論を読んだとしたら、どうだろう。
 そこには、セカンドチャンスはないと、否定的なことが繰り返し書いてある。未信者には「わかりません」と言って逃げ、一方でクリスチャンに対しては「セカンドチャンスはあり得ない」と言う。
 以前にも、このことに疑問を抱いた求道者がいた。彼は、この二重スタンダードに怒り、二度と教会には来なかった。
 しかし死後のセカンドチャンスの問題は、もはや「わからない」ことではない。
 私が述べてきたように、陰府と地獄は全く別の場所なのだということを、まずはっきり理解する必要がある。未信者はいま陰府にいるのであって、地獄にいるのではない。
 地獄にはまだ誰もいない。「ラザロと金持ち」の話は、天国と地獄の話ではなく、すべて陰府における話である。
 またピリピ二・一〇〜一一、黙示五・一三、第一ペテロ三・一八〜四・六、黙示二〇・一一〜一五などの御言葉を、謙虚に学ぶことである。
 そこには、キリストの福音が陰府の人々のためにも存在していること、やがて陰府の中からも神への礼拝の声があがること、キリストはかつて十字架の死後に陰府に下って福音宣教をされたこと、世の終わりに未信者のための裁判の法廷に「いのちの書」(回心者名簿)が提出されること、などが記されている。
 これらの聖句を謙虚に学ぶならば、この問題はもはや「わからない」問題ではない。聖書はきわめて明確に、セカンドチャンス肯定論を語っているのである。
 これがわからなかったのは、単に私たちがあまりにもながく陰府と地獄を混同し、
 「死んだ未信者(あなたの先祖や親)はいま永遠の地獄にいて、救われる望みは全くない」
 という非聖書的な教えの中に、ドップリとつかっていたからである。中世の堕落時代以来の誤謬の中にいた。
 その考えが染みつき、私たちを盲目にしてしまっていた。しかしこの非聖書的な教えはきわめて有害であり、それがある限り、日本のリバイバルの火を消し続けることだろう。
 セカンドチャンスについて、未信者には「わかりません」と言って逃げ、一方でクリスチャン達には「それはない」と言う二重の説教も、もうやめよう。
 マインドコントロールを解かれるべきは、私たちクリスチャンである。あなたも、神と人を愛するなら、聖書の本当の教えに立ち帰ろう。

地上での回心の意義

 第七のことは、地上で私たちが回心することの意義についてである。
 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒一六・三一)
 神の救いは、必ずしも一〇〇%個人的なものではない。それは多分に共同体的である。
 西洋のキリスト教においては、個人主義が強かったために、あまり家族や親族の救いということが言われなかった。
 しかしヘブル人、ユダヤ人の考え方は違う。旧約から新約に至るまで、聖書中のあらゆるところで、救いの恵みは多くの場合、信者の家系全体に及ぶことが示されている。聖書にはまた、こう記されている。
 「主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた」(申命一〇・一五)
 すなわち、イスラエルの人々が全世界から選ばれたことは、その先祖が神によって愛されたことを示していた。私たちクリスチャンも、神によって選ばれた者たちである。
 「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています」(第一テサ一・四)
 つまり、私たちが神によって選ばれた者であるなら、私たちの先祖も神の愛の中にある。また聖書は、
 「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エ二〇・六)
 と述べる。神を信じて生きる信者への神の恵みは、その信仰者だけにはとどまらない。その人に連なる家族、親族、子孫、先祖の一千世代にまで及ぶ。
 聖書の教えはつねに、先祖→自分→子孫という一連の家系全体を念頭におき、それを非常に大切に扱っている。先祖・自分・子孫は個別のものではなく、神の御思いの中では、一つのセットなのである。
 だから自分がキリスト者として選ばれたことは、先祖も子孫も家族もみな、神の愛と祝福の中にあることを意味する。あなたに与えられる神の恵みは、あなたに対してだけでなく、さらに彼ら全体にまで浸透していく。
 これは必ずしも、あなたの先祖や子孫の全員が救われるということではない。しかし、あなたが神の教えに歩むなら、あなたは来たるべ神の国において、自分の親族、子孫、先祖の多くと会うことができるであろう。
 私たちは、彼らのためにも、この地上に生きているときに神と共に歩むべきである。この″家系的祝福の福音〃は、多くの日本人を主のみもとに立ち帰らせることになるだろう。
 人々の中には、
 「先祖や親を抜きにして、自分だけが天国に行くことはできない」
 という人も少なくない。しかし心配はいらない。あなたが神を愛し、キリストを信じて歩むなら、神は豊かにあなたの先祖、子孫、親族に恵みを施してくださる。
 そしてあなたがキリストにあって生きれば生きるほど、彼らに対する神の祝福は強くなる。あなたはキリストの福音によって、自分の魂の救いだけでなく、多くの親族の魂をも勝ち得るであろう。

 死後のセカンドチャンスについて詳しいことを知りたいかたは、『聖書的セカンドチャンス論』(レムナント出版発行)をお読みくだされば感謝です。

レムナント出版HPに戻る