死後の世界

聖書的セカンドチャンス論

第五章 セカンドチャンス否定論への反論



 つぎに、死後のセカンドチャンスに関する他の否定論をとりあげ、それらに対する反論をしておきたいと思います。


福音を聞かなかった人々は死後、良心によってさばかれる?

 死後のセカンドチャンス(回心の機会)を否定する人々の中には、ローマ2章14〜16節を引用し、これはセカンドチャンスを否定する聖句である、と主張する方々がいます。この聖句には、
 「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行なわれるのです」。
 と書かれています。そしてセカンドチャンス否定論者は、つぎのように主張します。
 「モーセの律法を持たない異邦人、また聖書を持たない人々も、魂のうちには『神のかたち』を残存しており、その『神のかたち』により道徳心や良心というものを持っている。だから神は、この地上で福音を聞く機会を持たずに死んだ者に対しては、彼らがそうした道徳心や良心に従って行動したかどうかで判断されるのである。死後に福音を聞く機会や回心の機会があるわけではなく、世の終わりの最後の審判では、神は彼らを道徳心や良心に従って生きたか否かで裁かれる」。
 しかし、このローマ書の聖句は死後のセカンドチャンスを否定するものではないのです。
 詳しくみてみましょう。ローマ書のこの聖句に述べられているように、モーセの律法を持たない異邦人、聖書を持たない人々も、道徳心や良心というものを持っています。それによって神が一種の「死後のさばき」をなさるのは事実です。
 実際この「さばき」により、旧約時代に良心的で善良な行動をした人々は、律法を持つイスラエル人も、また律法を持たず神を知らない異邦人も、みな死後は、「陰府」(=黄泉、よみとも書く)の「慰めの場所」に行きました。一方、良心的でなかった人々や不道徳な人々などは、死後、陰府の「苦しみの場所』等へ行きました。
 新約時代の今日も、福音を聞くことなく死んだ人々のうち、良心的で善良な行動をした人々は陰府の慰めの場所に行き、一方、非良心的な人々は陰府の苦しみの場所等へ行っています。陰府は幾つかの場所に分かれており、地上で生きていたときの行為や生き方により、死後の行き場所が決定されるからです。
 その意味で、このさばきにより人々は陰府のそれぞれの場所に振り分けられています。さらに世の終わりにおいても、神は最後の審判の座で、人々が自分のうちに残存する「神のかたち」による道徳心や良心に従って生きたか否かなどについても、さばきをなさいます。
 ローマ書が述べているのは、そういうことです。けれども、人がこうした道徳心や良心にしたがって生きたかどうかだけでは、人が天国へ行くことは決してないのです。なぜなら、キリストの福音ぬきに人が天国へ入ることは決してないからです。
 「この方以外には、だれによっても救いはありません」(使徒4:12)
 と聖書は明言しています。天国は神の王国ですから、父なる神さまを信じ、御子キリストに従う者でなければ、いかに道徳的な人でも入れてもらえません。
 またイエス様が私たちに、
 「すべての造られた者に福音を宣べ伝えよ」(マコ16:15)
 と命じられたのは、救いのためにはキリストの福音が絶対不可欠だからです。したがって、もし、
 「キリストの福音なしでも良心的で善良な行動をしているならば天国へ入れる」
 と教えるのだとすれば、それはもはや聖書の教えではなくなってしまいます。キリスト教ではなくなってしまうのです。一方、そのように「天国に入れる」とは言わないとしても、
 「神は、福音を聞かなかった人々に対しては、内なる道徳心や良心にしたがって生きたか否かでさばきをなさる。けれども死後に福音を聞く機会はないのであり、福音なしには天国に入れないのだから、そうした人々は世の終わりの最後の審判ののち、全員地獄へ行く」
 と教えるのだとすれば、では一体何のためのさばきか、という陳腐な教えになってしまいます。すなわち結局は全員地獄行きが決まっているなら、そのさばきは全く無意味なものになってしまうのです。
 このように、死後のセカンドチャンスを否定してしまうと、どちらのことを言っても聖書解釈は非常に陳腐で、また不合理なものになってしまいます。


律法なしの異邦人は律法なしに滅びる?

 また、セカンドチャンス否定論者は、先のローマ書の句の少し前の2章12節に、
 「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した者はすべて、律法によってさばかれます」
 とあることから、セカンドチャンス否定論を語ることがあります。律法なしに罪を犯した者、また福音を聞くことなく罪を犯した者は、律法も福音もなくみな滅ぶのだと。
 しかしこの聖句が言っていることは、そういうことではありません。この聖句の意味は、もし神の救いがなければ、律法なしの異邦人は律法なしに滅びます、また律法を持つイスラエル人も、律法によって裁かれて滅ぶということなのです。もし神の救いがなければ、イスラエル人も異邦人も同じですよ、ということを言っています。決してセカンドチャンス否定論ではないのです。
 私たち異邦人はみな、モーセの律法なしに罪を犯し、滅びに向かっていました。しかし神の救いを聞き、それを信じて救いを受けたのです。イスラエル人も、律法があっても、それによってさばかれることはあっても、キリストの福音なしには救われません。
 ですからイエス様は「すべての造られた者に福音を宣べ伝えよ」と命じられました。福音は、この地上に生きたことのあるすべての人の救いのために、宣べ伝えられなければなりません。また聖書は、キリストの福音は陰府(地の下)の人々のためでもある、とも述べています。
 「それ(福音)は、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下(陰府)にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」(ピリ2:10−11)。
 したがって、「すべての人に福音を伝えよ」と言われた主が、福音を聞く機会を持たなかった人々に対し、陰府において福音を聞くチャンス(=回心のチャンス)をお与えになることは、何の不思議でもありません。むしろ、これこそが愛と義の神に、ふさわしいことです。


「ラザロと金持ち」は永遠の刑罰を語った話ではない

 また、あるセカンドチャンス否定論者は、こう述べました。
 「金持ちとラザロのたとえ(ルカ一六・二〇〜三一)において、主は、パラダイスと陰府との間には越えることのできない深い淵がある、あきらめよと言われ、実質的に『死後の救いの可能性』を否定している。……救いの鍵は聖書のメッセージにあり、救いのチャンスは生存中だけである、ということを、この譬話は暗示しているのである」
 しかしこれは、よく見られる曲解的解釈です。
 なぜなら、第一に、この「金持ちとラザロ」の話に出てくるのは「パラダイスと陰府」ではありません。本書第一章でみたように、すべては陰府(=黄泉とも書く)の中の話なのです。
 金持ちは、陰府の中の「苦しみの場所」(ルカ一六・二八)にいました。一方、アブラハムとラザロがいたのは、陰府の中の"慰めの場所"とも呼ばれる場所でした。旧約時代は、悪人も、神を信じる信者も、すべて死後、陰府に行ったのです(第一章参照。創世三七・三五、詩篇八八・三、伝道九・一〇、第一サム二八・一三)。
 陰府は幾つかの場所に分かれていて、それらの場所は互いに行き来ができないようになっていました。この陰府の中の慰めの場所を、「パラダイス」と呼ぶ人もいますが、これは誤りです。
 聖書でいう「パラダイス」は、いのちの木のある場所(黙示二・七。すなわち天国)、または、キリストと共にいること(コロ二・一七)を意味します。使徒パウロはまた、自分が「パラダイスに引き上げられた」(Uコリ一二・四)と述べていますが、これは第三の天のことでした。
 しかし、陰府の慰めの場所は、天国でも、いのちの木のある場所でもありません。陰府は「下」にある世界であり、その中のいずれの場所も「パラダイス」ではありません。
 カリバリーの丘でキリストが盗賊に対して言われた言葉は、これから陰府に下ってもご自身と共に行くのでそこはパラダイスにも等しい、という意味にほかなりませんでした。陰府の場所自体がパラダイスという意味ではないのです。
 また、「ラザロと金持ち」の話は、「あきらめよ」「救いのチャンスは生存中だけにある」ということを教えるためのものしょうか。
 そうではありません。私はこの話を読むとき、金持ちが陰府で示した温情と愛に、深い感動を覚えます。彼は、自分でなくてよい、ラザロでいいから地上の兄弟達のもとへ送って、彼らに警告を与えてくれと願いました。
 その願いは結局かないませんでしたが、大切なのは、その金持ちの心情です。たとえその願いがかなえられたとしても、彼は何の得もしません。しかし純粋に、自分の人生を後悔し、今も地上で利己的な生活を続ける兄弟たちを心配して、そう言っているのです。
 これは無私の心であり、純粋な思いやり、愛です。それは神殿で、天を見上げずに自分の胸を叩き、嘆きながら祈ったあの取税人(ルカ一八・一三〜一四)の心にも等しいといってよいでしょう。
 キリストは、あの取税人は「義とされて帰った」、と言われました。同様に、キリストは旧約時代に天上から陰府の様子をご覧になり、金持ちの心を目撃して、深い感動を覚えられたのです。そのために、それを私たちに語ってくださったのです。
 同様のことは、かつてキリストが神殿におられたときにもありました。主は、賽銭箱にレプタ銅貨を二枚投げ入れた女を見て、その感動を弟子たちに語られました。
 「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです」(ルカ二一・一〜四)。
 と。じつは、これはキリストが、十字架にかかってご自身のすべてを人々のために捧げる数日前のことでした。ですから、生活費のすべてを神に捧げたこの女の姿は、キリストに深い感動を与えたのです。
 神のために捧げる者や、人のために温情を示そうとする姿は、キリストの御心を動かしてやみません。陰府で無私な愛の心を示す金持ちの心を、キリストは天上から目撃し、深く感動されたのです。この金持ちが最終的に神の御国に迎えられるとしても、何の不思議があるでしょうか。


金持ちの愛にキリストは心を動かされた

 多くの人は、「ラザロと金持ち」の話を「たとえ話」と呼んでいます。しかし、これは譬話ではなく、実話です。なぜなら、主イエスは「アブラハム」「ラザロ」という実名をあげておられます。
 イエスが実名をあげて「たとえ話」を語られたことは、一度もありません。たとえ話のときは、つねに「ある人が」「ある農夫が」等と語られたのです。イエスがたとえば、ご自身を迫害するパリサイ派や律法学者らに、
 「あなたがたは……わたしを殺そうとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです」(ヨハ八・四〇)
 と言われたとき、それは実話でした。実名をあげられたときは、つねに実話なのです。「ラザロと金持ち」の話も実話です。それは旧約時代の実話でした。
 「兄弟たちを救うために、ラザロを地上に送ってください」
 と金持ちは言いました。これはじつは、かつて父なる神が、人々を救うためにキリストを地上に送られたときの心にも近いものです。あるいは、キリストが天上から人々の惨状をご覧になり、何とか彼らを救いたい、と願われたお気持ちにも近い。
 だから金持ちの純粋な心は、キリストの御心を動かしたのです。この金持ちの出来事は、旧約時代の出来事でしたが、それをキリストは忘れることができず、弟子たちに語り、また聖書の中に残して下さったのです。
 もし私たちが、このキリストの感動を自分の感動とできないのだとすれば、そして、「あきらめよ」といった無情な解釈しかできないのだとすれば、私たちの聖書解釈はどこかが間違っていたのです。
 「神へのいけにえは、砕かれた魂。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたは、それをさげすまれません」(詩篇五一・一七)
 神が、金持ちの砕かれた悔いた心をさげすまれることは、あり得ません。それを軽んじることはあり得ないのです。金持ちの砕かれた愛の心は、あの取税人の砕かれた魂と同様、神の前に「義」とされてしかるべきものです。
 この話はまた、陰府においては地獄とは違い、神の恵みがあることを示しています。金持ちがこのような砕かれた愛の心を持てたのは、神の恵みあってのことです。
 「たとい私(ダビデ)がよみに床を設けても、そこにあなた(神)はおられます」(詩篇一三九・八)
 地獄に神はいませんが、陰府にはおられるのです。この地上において神は、悪い者にも良い者にも太陽を上らせ、雨を降らせてくださっています(マタ五・四五)。陰府においても、神の恵みはすべての魂の上にあるのです。
 つまり、陰府の「苦しみの場所」の苦しみは、人を永遠に苦しめるための苦しみではありません。それは人を本心に立ち返らせようとする、懲らしめ的苦しみなのです。
 神は、愛する者を懲らしめます。またこの金持ちのいるのは、地獄ではなく、陰府です。それは最終的な永遠の刑罰の場所ではなく、世の終わりまで留め置かれるための一時的場所なのです(黙示二〇・一四)。
 そこは絶望の場所ではなく、セカンドチャンスを与えられるための場所なのです。


ユダにもまだ救われる可能性はある

 つぎに、あるセカンドチャンス反対論者は、イスカリオテのユダに関し、こう述べています。
 「ユダの犯した罪は『主を裏切る』という極めて重い罪であり、彼はあわれみを受けることなく滅びるのが当然である。……このような傲慢な魂が救われる可能性は全くない。……彼は『滅びの子』であり、『滅んだ』とハッキリと記されている。……また、ユダはのろわれたとも言われ、『生まれなかったほうがよかった』とも言われている」
 しかし、聖書をもっとよく読んでほしいものです。「滅んだ」のギリシャ原語はもう滅亡してしまって回復不能≠フ意味ではないのです。たとえばイエスは弟子たちに、
 「イスラエルの家の滅びた羊のところに行きなさい」(マタ一〇・六)
 と言われました。「滅びた」人に伝道し、彼らを回復させなさい、というご命令です。このギリシャ原語は、別の場所では「失われた」とも訳されています。イエスはザアカイの家で、
 「人の子(キリスト)は、失われた人を捜して救うために来たのです」(ルカ一九・一〇)
 と言われましたが、「失われた」は原語では「滅びた」と同じ言葉なのです。このように、「滅びた」「失われた」は回復不能の意味ではなく、単に、あるべき状態から別の所へ行ってしまっているという意味に過ぎません。回復の可能性をも含んだ言葉なのです。
 さらに、次のこともきわめて重要です。聖書によれば、神は、さばきについては「思い直す」ことのあるかたです。たとえば、かつて神がイスラエルの罪を見て、彼ら全員を滅ぼそうとされたことがありました。神は、
 モーセよ、わたしを止めるな。わたしは彼らを滅ぼす
 と言われました。先のセカンドチャンス反対論者の言葉を借りれば、彼らは「滅びるのが当然」だったのです。しかし、そのときモーセは神の前に、熱烈なとりなしの祈りを捧げたのです。すると、
 「主は、その民に下すと仰せられた災いを思い直された」(出エ三二・一四)
 と記されています。神は、一度お語りになったことでも、さばきについては思い直すことのあるかたです。旧約聖書の中には、神がさばきを明言したにもかかわらず「思い直された」、という例が数多くあります。
 裏切った時点でのユダは、罪深く、「のろわれた」者であり、「生まれないほうがよかった」とさえ言えるほどでした。彼は自殺して、陰府に下りました。しかし、それで彼の死後の状態が永遠に決定されたわけではありません。いかなる罪人の上にも神の憐れみは尽きません。
 「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」(ロマ五・二〇)。
 人々のとりなしによっては、神が彼の行く末を思い直されることも、全くあり得ないことではないのです。なぜなら、彼はまだ死後の最終状態にはないからです。
 彼が行った陰府は、死後の中間状態です(黙示二〇・一四)。彼の最終的行き先が決定されるのは、世の終わりの「最後の審判」と呼ばれる裁判の法廷においてです。
 ユダは「滅びて当然」か、それとも「救われることもある」かという問題は、イエスの語られた「放蕩息子のたとえ話」を思い起こすとよいでしょう。
 その話に、二人の息子が出てきます。弟は放蕩に走りました。しかし悔い改めて帰って来ました。父は大喜びで彼を迎えました。ところが、そのとき善良な兄は不満を言いました。弟は大きな罪を犯した人間だから「滅びるのが当然」と、兄は思っていたのです。
 つまり、もし私たちが、「ユダのような罪深い人間は滅びるのが当然」と思っているなら、私たちの心はこの兄息子の心に等しいのです。それは父なる神のみこころではありません。父なる神は、そうした兄の心をいさめ、
 「おまえの弟は、死んでいたのが生き返ってきたのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」(ルカ一五・三二)
 と喜ぶかたなのです。私はこの地上においても、また天国に行ってからも、神がユダに憐れみを施してくださるよう、とりなしたいと思っています。彼もまた、私たちクリスチャンの仲間なのです。そして神は思い直して下さるかたなのです。
 ユダは道を踏み外しましたが、道を踏み外したことのあるクリスチャンは、彼だけではないでしょう。ユダと私たちに、それほどの違いがあるとは、私には思えません。もし私たちが不遜にも、
 「ユダのような罪人は滅びて当然です。私がユダのような裏切り者ではないことを感謝します」
 といった心を持つなら、それは神殿で「取税人のような罪人ではないことを感謝します」と祈ったあのパリサイ人の傲慢さにも等しいでしょう(ルカ一八・一三〜一四)。
 ユダは、いま陰府において悔い改めているかもしれません。もし彼が、自分の罪深さを嘆き、胸を打ちたたいて祈ったあの取税人の心を持つなら、彼は神の憐れみを受けるでしょう。
 「わたし(神)がわざわいを予告した民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す」(エレ一八・八)
 「あなたがたの着物ではなく、あなたがたの心を引き裂け。あなたがたの神、主に立ち帰れ。主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださるからだ」(ヨエ二・一三)
 こうして、ユダがあの取税人と同様に「義と認められた」としても、決して不思議ではないのです。


「罪人は滅びて当然」ではない

 一方、あるセカンドチャンス反対論者は、次のようにも述べます。
 「聖書は、『罪を犯した人間は、あわれみをかけられることなく、また、救いのチャンスを与えられることもなく滅びるのが当然。救いは神の純粋な恵みである』という基準から出発している。……聖書は、罪を犯した人間は、福音も何もないままに裁きの座に直行し、そこにおいて永遠の刑罰を受けるのが当然と述べているのである(ヘブル一〇・二八)」
 この反対論者は、ここでヘブル一〇・二八を聖書的根拠としてあげました。しかし、これは引用を誤っています。ヘブル一〇・二八は、生きている人間が罪を犯したときの死刑について、述べた箇所です。
 それは、未信者の死後の裁きとは全く関係がありません。ましてや、福音を一度も聞くことなく死んで陰府に下った未信者に関して述べたものではありません。
 この反対論者は、「罪人は滅びて当然」また「福音のないまま永遠の刑罰に直行するのが当然」といいます。しかし、そのような冷酷な神が、聖書のいう神でしょうか。聖書は述べています。
 「主は……かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第二ペテ三・九)
 つまり、「罪人は滅びて当然」という考えは、神のお心にはありません。むしろ神は、「すべての人が悔改めに進むことを望んでおられる」のです。神は断腸の思いを持って、罪人の回心を願っておられます。
 「わたしのはらわたは彼のためにわななき、わたしは彼をあわれまずにはいられない」(エレ三一・二〇)
 罪人を思って、はらわた痛む神の愛です。北森嘉蔵先生のいう「神の痛みの神学」です。滅んでほしくない、悔い改めてほしい、というこの激しい神のお心の痛みをわからずして、神の愛はわかりません。
 痛みの神が、聖書の教える神です。悔改めてほしいと望むなら、何をするでしょうか。救いのチャンスを、回心のチャンスを、すべての人に与えるはずです。事実、主は私たちに、
 「すべての造られた者に」
 福音を伝えよと命じられたではありませんか(マコ一六・一五)。救いのチャンスは、地上に生きたことのある「すべての人」に与えなければなりません!
 そう言われた主が、福音を一度も聞く機会のないまま陰府にいる魂に対し、まったく無関心でいることはあり得ないのです。事実、ピリピ人への手紙二章一〇〜一一節は、
 「イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエスキリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるため」
 に福音は存在すると述べています。「地の下にあるもの」=陰府の人々のためにも、神はキリストの福音をお与えになったのです。また黙示録五章一三節に、
 「私は……地の下……のあらゆる造られたもの……がこう言うのを聞いた。『御座にすわるかたと小羊とに、讃美と誉れと栄光と力が永遠にあるように』」
 とあります。終末の時代には、陰府の中からも、多くの人が神への礼拝の声をあげるのです。


伝道意欲をそぐものでない

 つぎに、セカンドチャンス反対論者は、伝道に関し次のように述べます。
 「もし死後にセカンドチャンスがあるならば、なぜ宣教師がジャングルの奥地にまで足を運んで、生命をかけて伝道しなければならないのか。そんな危険を犯さなくてもよいではないか」
 しかし、セカンドチャンスがあってもなくても、宣教師が危険をも犯して地の果てにまで伝道する価値は、全く変わりません。
 私たちがキリストを信じるのは、単に死後の地獄の裁きを免れたいからではありません。この地上で生きている間に、神の祝福を受けて豊かな人生を歩みたいからでしょう。
 地上における回心は、死後の回心にはるかにまさっているのです。地上において回心しなかった人は、霊的に豊かな人生を歩めません。そして死後は、陰府という暗い死者の世界に下らなければなりません。
 彼らは、神から生かされている意味も悟らず、自分の創造された目的も地上で果たさずに、死者の世界へ赴かなければなりません。彼らは、かつて自分が地上に蒔いたものを、そこで刈り取る苦しい生活をながく送ることになります。
 また陰府における回心の機会は、死の直後にはありません。そうした哀れな状況を思うなら、彼らの生存中に伝道して回心に導かなければならない、という伝道への情熱は少しも減るものではありません。
 また、これに対してはキリストの大宣教命令があります。
 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マコ一六・一五)
 キリストがこう言われたのですから、私たちはすべての造られた者に福音を宣べ伝えます。それがアフリカの奥地であろうと、危険の伴うところであろうと同じことです。
 また、「ラザロと金持ち」の話において、金持ちはかつて地上にいたときの自分の生活を思い起こしています。地上にいたときの記憶は、陰府にいった魂の中に存続するのです。
 ですから、私たちが人々に宣べ伝えた福音は、たとえその人が生きている間に信じなかったとしても、陰府にまで伴っていきます。彼らは、かつて地上にいたときに聞かされたキリストの福音を、陰府において思い起こすでしょう。人々の生存中にこそ、
 「すべての造られた者に福音を宣べ伝え」
 ておくことが必要な理由が、まさにここにあります。救いのチャンスは、まずクリスチャンたちの宣教によって、「すべての造られた者」に与えなければなりません。それが主のご命令です。つまり、このご命令に立つなら、
 「死後の神様による直接宣教にまかせよう」
 といった浅はかな考えは生まれてこないのです。私たちはできる限り、人々の生存中に福音を宣べ伝え、神に立ち帰らせ、彼らの創造目的を回復しなければなりません。
 彼らが生存中に回心すれなら、一番よいのです。しかしたとえ生存中に信じなかったとしても、福音は彼らの記憶に残り、陰府にまで伴っていきます。
 陰府の人々がその福音を思い起こすとき、福音は、陰府のすべての人々への深い神の憐れみの証しとなって臨むことでしょう。神の福音は、地上の人々だけでなく、
 「地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が『イエスキリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるため」(ピリ二・一〇〜一一)
 にも存在しているのです。


「わかりません」では済まない

 一方、あるセカンドチャンス反対論者は、こう述べています。
 「もし信徒や未信者が、『福音を聞かずに亡くなった自分の親族は地獄に行き、救いのチャンスはもうないのか』と質問してきたならば、『残念ながら、それは聖書にはっきり書いていないので確かなことは言えません』としか答えることはできないように思われる」
 しかし、本当にわからないことなのでしょうか。いいえ、聖書ははっきりセカンドチャンスを語っているのです。「わからない」というのは、私たちがこれまで受けた教育により、セカンドチャンスは言ってはならないという一種の強迫観念があるからです。
 死後のセカンドチャンスの問題は、もはや「わからない」ことではありません。私がこれまで繰り返し述べてきたように、陰府と地獄は全く別の場所なのだということを、まずはっきり理解する必要があります。
 未信者はいま陰府にいるのであって、地獄にいるのではありません。地獄にはまだ誰も入っていません。「ラザロと金持ち」の話は、天国と地獄の話ではなく、すべて陰府における話です。
 またピリピ二・一〇〜一一、黙示録五・一三、ヨハネ福音書五・二五〜二八、第一ペテロ三・一八〜四・六、黙示録二〇・一一〜一五などの御言葉を、謙虚に学ぶことです。
 そこには、キリストの福音が陰府の人々のためにも存在していること、やがて陰府の中からも神への礼拝の声があがること、キリストはかつて十字架の死後に陰府に下って福音宣教をされたこと、また世の終わりに未信者のための裁判の法廷に「いのちの書」(回心者名簿)が提出されること、などが記されています。
 セカンドチャンスを認めることは、決して伝道の障害とはなりません。かえって、公平な愛の神を宣べ伝えるものとなり、多くの人を神のもとに立ち帰らせるでしょう。
 聖書を謙虚に学ぶならば、セカンドチャンスがあるかないかは、もはや「わからない」問題ではないのです。聖書はきわめて明確に、セカンドチャンス肯定論を語っています。これがわからなかったのは、単に私たちがあまりにもながく陰府と地獄を混同し、
 「死んだ未信者(あなたの先祖や親)はいま永遠の地獄にいて、救われる望みは全くない」
 という非聖書的な教えの中に、ドップリとつかっていたからです。中世の堕落時代以来の誤謬の中にいたのです。
 その考えが染みつき、私たちを盲目にしていたのです。しかしこの非聖書的な教えはきわめて有害であり、それがある限り、日本のリバイバルの火を消し続けることでしょう。
 これまで多くの教会で、セカンドチャンスについて未信者には「わかりません」と言って逃げ、一方でクリスチャン達には、「それはない」と言って否定する二重の説教がなされてきました。しかし、そんな説教はもうやめましょう。人をつまずかせるだけです。
 マインドコントロールを解かれるべきは、私たちクリスチャンなのです。あなたも、神と人を愛するなら、聖書の本当の教えに立ち帰りましょう。


地上での回心の意義

 最後に、何度も述べますが、私たちが地上で回心することには、深い意義があります。
 なぜ、あなたがこの地上で神を愛し、キリストを信じるべきなのか。それは、単にあなた自身のためだけでなく、あなたの家族、親族、先祖、子孫のためでもあるからです。聖書は、
 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒一六・三一)
 と言っています。神の救いは必ずしも一〇〇%個人的なものではありません。それは多分に共同体的です。
 西洋のキリスト教においては、個人主義が強かったために、あまり家族や親族の救いということが言われませんでした。しかしヘブル人、ユダヤ人の考え方は違います。旧約から新約に至るまで、聖書中のあらゆるところで、救いの恵みは多くの場合、信者の家系全体に及ぶことが示されています。聖書には、
 「主は、ただあなたの先祖たちを恋い慕って、彼らを愛された。そのため彼らの後の子孫、あなたがたを、すべての国々の民のうちから選ばれた」(申命一〇・一五)
 と記されてます。イスラエルの人々が全世界から選ばれたことは、その先祖が神によって愛されたことを示していました。同様に私たちクリスチャンも、神によって選ばれた者たちです。
 「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています」(第一テサ一・四)
 つまり、私たちが神によって選ばれた者であるなら、また私たちがクリスチャンであるなら、私たちの先祖も神の愛の中にあるのです。
 聖書はさらに、
 「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エ二〇・六)
 と述べています。神を信じて生きる信者への神の恵みは、その信仰者だけにはとどまりません。その人に連なる家族、親族、子孫、先祖の一千世代にまで及ぶのです。
 聖書の教えはつねに、先祖→自分→子孫という一連の家系全体を念頭におき、それを非常に大切に扱っています。先祖・自分・子孫は個別のものではなく、神の御思いの中では、一つのセットなのです。
 ですから自分がキリスト者として選ばれ、クリスチャンとなったことは、先祖も子孫も家族もみな、神の愛と祝福の中にあることを意味します。あなたに与えられる神の恵みは、あなたにとどまらず、さらに彼ら全体にまで浸透していくのです。
 あなたが神の教えに歩むなら、あなたは来たるべ神の国において、自分の親族、子孫、先祖の多くと会うことができるでしょう。なぜこの地上に生きているうちに、キリストを信じるべきなのかという理由が、ここにもあります。
 仏教では、
 「一人出家すれば、九族天に生ず」
 と言われています。一人の入信は、たくさんの親族や関係者の幸福の機縁になるとの意味です。ましてや聖書の教えはそうではありませんか。
 一人の入信は、「千代」に至る親族や関係者の幸福の機縁となり、多くの者を天に生じさせるのです。私たちは、親族や先祖、子孫のためにも、地上に生きているときに神と共に歩むべきなのです。私はこれを、
 「家系的祝福の福音」
 と呼んでいます。それは聖書に明確に語られたことです。私たちはもっとこの福音を語るべきではないでしょうか。それは多くの日本人を、主のみもとに立ち帰らせることになるでしょう。人々の中には、
 「先祖や親を抜きにして、自分だけが天国に行くことはできない」
 という人が少なくありません。しかし心配はいらないのです。あなたが神を愛し、キリストを信じて歩むなら、神は豊かにあなたの先祖、子孫、親族に恵みを施してくださいます。
 あなたがキリストにあって生きれば生きるほど、彼らに対する神の祝福は強くなります。あなたはキリストの福音によって、自分の魂の救いだけでなく、多くの親族の魂をも勝ち得るのです。

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