死後のセカンド・チャンスは
伝道の妨げではない
それはまた聖書の教えである

久保有政(レムナント・ミニストリー代表、池袋キリスト教会牧師)


未信者の死後について関心高まる

 「未信者として死んだ者が、死後に救われるチャンス(セカンド・チャンス)はあるか」という問題は、その問題を扱うこと自体、長くタブー視されてきた。しかし、最近「チャンスあり」と発言する牧師・伝道者が増えたこと、また葬儀伝道の可能性を模索する動きが出てきた中で、この神学的問題に対し日本のクリスチャンたちの関心が非常に高まっている。
 私は一〇年ほど前から、聖書の死後観について著書を出版し、未信者の死後の救いについては「チャンスあり」の立場をとってきた。賛成・反対ともに大きな反響をいただいたが、最近はとくに励ましてくださる方々が非常に多い。
 そこで、私がなぜこのような主張をしてきたのか、論点をまず簡略に述べ、つぎに詳しくみていきたいと思う。第一に、これまでは一般に、
 「未信者は死後、地獄に行っていて、永遠に救われる望みはない」
 という説があった。だが聖書によれば、死んだ未信者はいま陰府(よみ、ハデス)にいるのであって、地獄(ゲヘナ)にいるのではない。陰府と地獄の混同は非聖書的であり、両者は全く別の場所である。
 第二に、福音は陰府にいる死者のためでもある、と明確に語る言葉が聖書中に存在する(ピリ二・一〇〜一一)。また聖書は、やがて陰府の中からも神への礼拝が捧げられる時が来る、と語っている(黙示五・一三)。
 第三に、多くの反対者はこれまで、
 「死後にも救いの機会があると説くことは、福音伝道にとって障害だ。人々は死後に回心すればいい、と考えてしまうに違いない」
 と述べてきたが、私はそうは思わない。全く逆であると考える。死後に関する正しい理解を説くとき、生きているうちに回心すべきことが、人々の前に、より鮮明になる。
 第四のことは、未信者の死後に関する明確な理解は、日本宣教に不可欠だということである。日本人の先祖の多くは、未信者のまま死んだ。そして日本人は、先祖を抜きにして自分だけが天国に行きたくはない、と考える国民である。だから、未信者の死後に対する正しい聖書的な理解は、日本宣教を大きく前進させる。
 以上の事柄について、詳しくみていこう。

ザビエルを悩ませた日本人たちの質問

 一六世紀に日本にやって来たカトリック宣教師フランシスコ・ザビエルは、教皇庁へ書き送った手紙の中で、日本人について次のように語っている。

 「日本人を悩ますことの一つは、地獄という獄舎は二度と開かれない場所で、そこを逃れる道はないと、私たちが教えていることです。彼らは、亡くなった子どもや、両親や、親類の悲しい運命を涙ながらに顧みて、永遠に不幸な死者たちを祈りによって救う道、あるいはその希望があるかどうかを問います。
 それに対して私は、その道も希望も全くないと、やむなく答えるのですが、これを聞いたときの彼らの悲しみは、信じられないほど大きいものです。そのために彼らはやつれ果ててしまいます。……
 神は祖先たちを地獄から救い出すことはできないのか、また、なぜ彼らの罰は決して終わることがないのかと、彼らはたびたび尋ねます。……彼らは親族の不運を嘆かずにはいられません。私も、いとしい人々がそのような嘆きを隠せないのを見て、涙を抑えられないことがあります」

 このようにザビエルは、カトリックの教義に従い、キリストを知ることなく死んだ未信者は今地獄にいると、やむなく彼らに教えた。そして彼らに救われる道はないと。それを聞いたときの日本人の嘆き悲しみは、欧米人とは比べものにならないほど激しかったのである。
 ザビエルは結局、日本人に対しては、地獄の恐怖を説くのではなく、十字架の福音の恵みを強調することによって、宣教を推し進めた。しかし、どこへ行っても、
 「キリストを信じないまま死んだ私の両親や、先祖たちは今どこにいるのですか」
 という日本人の質問に悩まされ続けた。この質問は、今日も日本人の間に深く存在している。そして今日の教会がこの疑問に対し、適切な答えを与えないために、日本人への伝道はなかなか進まないのである。
 ザビエルは、まことに偉大なキリスト者であり、日本宣教の大きな礎を築いた人であった。しかしその彼にも、福音理解に若干の不充分があった。それは死後の世界の理解に関する不充分さである。そのために彼は、日本人たちから洪水のように寄せられて来る疑問に対し、適切な答えができなかった。
 その不充分さは第一に、「地獄」と「陰府」の混同である。中世の教会の堕落時代以来、ながいあいだ「陰府」(よみ、黄泉。ギリシャ語ハデス、ヘブル語シェオル)は、「地獄」(火の池、ギリシャ語ゲヘナ)と同じものとされてきた。しかし、陰府は最終的に地獄に捨てられると、新約聖書は述べている。
 「それから死とハデス(陰府)とは、火の池(地獄)に投げ込まれた。これが第二の死である」(黙示二〇・一四)
 世の終わりに「最後の審判」とも呼ばれる、神の裁判の法廷が開かれる。それまでは、死んだ未信者はすべて陰府(ハデス)に留め置かれているが、そのときになってその裁判の法廷に出される。
 その神の法廷で、未信者の最終的な行き先が言い渡される。その後、空になった陰府は、地獄(火の池)に捨てられるのである。とすれば、どうして陰府と地獄が同じものであり得ようか。両者はまったく別の世界である。
 また今見た聖句によれば、未信者は今、地獄にいるのではなく、陰府にいるわけである。地獄はすでに用意はされているが(マタ二五・四一)、今そこにはまだ誰もいない。人々がそこに入れられることがあるのは、各人の死の直後ではなく、世の終わりにおいてである。

旧約時代すべての人は陰府へ行った

 また旧約時代には、陰府は、すべての人が死後に行った場所であった。神を信じる旧約の聖徒たちも、死後はそこへ行ったのである。ヤコブは、息子ヨセフが死んだとの報に接したとき、
 「私は泣き悲しみながら、よみにいるわが子のところに下って行きたい」(創世三七・三五)
 と言った。そのほかダビデも、ソロモンも、預言者サムエルも、みな死後は陰府に行った(詩篇八八・三、伝道九・一〇、・サム二八・一三)。
 旧約時代は、陰府はすべての死者の行く場所だったのである。この陰府は天国ではない。それはつねに「下」にあるものとされている。また陰府は地獄ではない。それは旧約時代に、神を信じる信者も行った場所だからである。
 しかし旧約の聖徒たちは、今は天国にいる。キリストが十字架の贖いをなし遂げ、天国に帰られるとき、陰府の聖徒たちを天国に引き連れて行かれたからである(エペ四・八、Tペテ三・一九)。
 以後、クリスチャンは死後、天国に行き(Uコリ五・六〜九、ヘブ一二・二二〜二四、黙示六・九、八・三)、一方、未信者は死後、陰府に行っている。
 聖書の死後観を理解する上で大切なのはまた、キリストの語られた「ラザロと金持ち」の話である(ルカ一六章)。
 多くの英語訳は、金持ちが行った場所は「地獄」(hell)と訳してしまった。この誤訳のために宣教師の多くは、金持ちが行った場所は地獄であり、今も未信者は死の直後に地獄に行くと思っている。
 しかし、日本語の新改訳や口語訳が正しく訳しているように、彼が行った場所は原語では「ハデス」(よみ)なのである(ルカ一六・二三)。彼は陰府の中の「苦しみの場所」(一六・二八)へ行った。
 また、アブラハムやラザロのいた所は、天国ではない。旧約時代、すべての人は陰府に行ったからである。彼らのいたのは、陰府における″慰めの場所〃であった(一六・二五)。つまり、この話の中には天国も地獄も出てこない。それはすべて陰府における話である。
 陰府と地獄の違いは、留置場と刑務所の違いに似ている。裁判の前に入れられるのが留置場、一方、裁判のあと刑が確定してから入れられるのが刑務所である。
 陰府は最後の審判の時まで、未信者が一時的に留め置かれる所であり、留置場に似ている。一方地獄は、最後の審判の後、刑が確定してから入れられる場所であり、刑務所のような所である。
 陰府の「苦しみの場所」の苦しみは、地獄の苦しみに比べれば、はるかに軽い。なぜならあの金持ちは、アブラハムと会話をしている。会話を持てる程度の苦しみなのである。また金持ちは、地上の兄弟たちに温情を示している。そこは、正常な心の営みを妨げない程度の苦しみなのである。
 また陰府の慰めの場所の慰めは、天国の躍動する至福に比べれば、はるかに静かなものである。それはちょうど、人が夜眠るために静かにベッドに横になるときに感じる慰めにも似ている。一方、天国は昼の世界であり、そこでは永遠の命が輝き、躍動している。

陰府の中からもやがて礼拝が捧げられるという聖書の言葉

 私たちがこの地上に生きている間に神を信じたことの意義は、すこぶる大きい。地上にいる間に信じたからこそ、神の子としての祝福された生き方を、この地上ですることができるからである。
 陰府に行ってからでは、そのような生活はない。だからこそ、地上に生きている間に神を信じ、キリストを信じ、神の栄光を現わす祝福された生き方をこの地上でしなければならない。
 地上に生きている間になす回心は、他の何にもまさって尊いのである。生きているときに信じるのが、一番良い。しかし一方では、地上に生きている間に福音を聞く機会が一度もなかった人々も大勢いる。
 彼らは、今は死んで、一般的死者の世界である「陰府」にいる。彼らは、単に福音を一度も聞く機会がなかったというだけで、救われないのだろうか。そうではない。聖書は、福音は陰府に行った人々のためにも存在している、と明確に語る。
 「それはイエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、また、あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するためである」(ピリ二・一〇〜一一)。
 ここで「地下のもの」と言われているのは、陰府にいる人々をさす。「地下」の世界は、聖書ではつねに陰府を意味する。福音は陰府にいる人々のためにも存在していると、聖書は述べているわけである。黙示録にも、こう書かれている。
 「わたしは、天と地、地の下と、海の中にあるすべての作られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた。『御座にいますかたと小羊とに、讃美と、誉れと、権力とが世々限りなくあるように』」(黙示五・一三)
 ここに「地の下」と述べられ、地下からの讃美礼拝が捧げられた、と述べられている。キリスト再臨が間近になった患難時代において、陰府の人々の口からも、神とキリストに対する礼拝と讃美の声があがるという。
 これは、必ずしも陰府に行ったすべての人が救われる、という意味ではない。最終的には滅びる人々も多い。キリストが言われたように「滅びに至る門は大きく……そこから入って行く者が多い」(マタ七・一三)。
 最終的には、地獄へ行ってしまう人々がかなりいる。が、陰府に行った人たちのすべてが地獄へ行くわけではなく、一方では神を信じ、救い主キリストを信じて礼拝を捧げ、救われる人々も決して少なくない――聖書はそう語っているわけである。
 先のピリピ人への手紙、黙示録の言葉は、これまで無視され続けてきた。そして聖書の御言葉を無視する人が、無視しない人々を「異端」呼ばわりするという、奇妙な現象が起きていた。しかし、御言葉を無視してはいけない。陰府に行った人々の中にも救われる人はいる――そう聖書は語っているのである。

なぜ未信者のための裁判の法廷に「いのちの書」が提出されるのか

 このことは、「最後の審判」に関する聖句からも明らかになる。キリスト再臨後、万物更新のときに、神の御前で「最後の審判」の大法廷が開かれる。これは死者のためのさばきだが、聖書でいう「さばく」は、必ずしも刑罰をくだすという意味ではない。裁判をする、の意味である。
 たとえば「モーセは民をさばいた」(出エ一八・一三)と記されている。これはモーセが民に刑罰を下した、の意味ではない。モーセが裁判を行ない、有罪か無罪かを決定した、の意味である。最後の審判は、とくに陰府に留め置かれている人々の最終的行き先を決定するための、裁判である。
 「死もハデス(陰府)も、その中にいる死者を出した」(黙示二〇・一三)
 とあるから、黙示録のこの箇所が記しているのは、陰府にいる未信者のためのものであることがわかる。その法廷に「いのちの書」が提出される。、
 「別の書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。……いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた」(二〇・一二〜一五)
 「いのちの書」に名がなければ地獄に投げ込まれる。名があれば新天新地(神の国)に迎え入れられる。つまり「いのちの書」は回心者名簿である。
 読者は、よくよく考えてほしい。なぜ未信者の最終的行き先を決定する最後の審判の法廷に、回心者名簿が提出されているのか。もし回心者が一人もいないなら、回心者名簿はその法廷には不要である。ところが提出されている。それは陰府の未信者の中に回心者がいるからだ、とみるのが最も自然である。
 陰府にいる死者は、最後の審判を経て一人残らず地獄に入れられる、とする説もある。だが、一人残らず地獄行きが決定済みなら、裁判は不要である。陰府も不要である。しかし、神は世の終わりに裁判をなされる。そしてそのときまで未信者を、陰府の中に一時的に留め置かれるのである。

キリストの陰府下りの意味

 私は先に、ピリピ二・一〇〜一一、黙示五・一三の聖句をあげ、やがて陰府の中からも神を礼拝する声があがるのだと述べた。なぜそのようなことが可能となるのか。それを理解する鍵は、あの「キリストの陰府下り」の出来事にある。
 「キリストも……死なれました。……その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを宣べられたのです。……死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのです」(Tペテロ三・一八〜四・六)
 この聖書個所は、じつは古来、神学者の間で最も議論の対象となってきたところである。そのために、この聖句を解説することはタブー視されてきたくらいである。しかし、先に私が述べたことなどを踏まえるならば、この聖句は日本人にとって大きな福音なのである。
 右の日本語訳は『新改訳』のもので、原語に忠実な訳をしている。そのほか原語に忠実な『口語訳』『新共同訳』なども、同じように訳している。これらの訳を読めば、きっと誰もが単純に、キリストは死後、陰府に下り、そこで福音宣教をなされたという意味に読むに違いない。
 これは、この部分のギリシャ語原文を読んでも同じことである。イギリスに、ウィリアム・バークレーという著名な聖書学者がいる。彼はギリシャ語に精通し、新約聖書を原語のギリシャ語でも読む人だが、彼もこの聖書個所は、明らかにキリストの陰府における福音宣教を言っていると書いている。
 ところが古来、多くの神学者たちが、これを全く違う意味に読んできた。たとえば、キリストが陰府で語られたのはじつは福音ではなく、断罪の言葉(有罪宣告)であったという説。
 一方、いや、じつはこれはキリストの陰府下りのときのことを言っているのではない、ノアの時代にノアが宣教したことを言っているのだというような説。他にも幾つかの説が出て、様々な解釈が飛び交ったのである。
 どうしてこんなことになってしまったかというと、先ほど述べた陰府と地獄の混同が根底にあったからである。つまり、キリストが陰府に下ったとは、キリストが地獄に下ったことだと理解してしまった。そして地獄でキリストが福音を語ったというのでは、おかしなことになると言って、何とか「キリストの陰府における福音宣教」という解釈を避けようとしたのである。
 しかしキリストは、地獄でなく陰府に行かれた。そこで「みことばを宣べられた」。「宣べられた」のギリシャ原語ケーリュソーは、新約聖書ではつねに「福音を宣教する」の意味で使われている。
 たとえば、「御国の福音を宣べ伝え」(マタ四・二三)、「神の国を宣べ伝え」(ルカ九・二)などである(使徒九・二、ロマ一〇・八、Tコリ一・二三、ガラ二・二、Uテモ四・二、他)。そのほかにも数多くある。
 ある人は、このギリシャ語は「断罪する」(有罪を宣告する)の意味だというが、そのような意味で使われている個所は、聖書中、一か所もない。つねに、神の温かい御教えを人々に宣べ伝えるという意味で使われている。また陰府で「みことばを宣べられた」の数節あとには、これを受けて、
 「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた」(四・六)
 とはっきり書かれているから、陰府における福音宣教ととるのは、最も自然な解釈といえる。

伝道上不都合と思うのは福音の曲解である

 一方、伝道上の不都合を思い、「キリストの陰府での福音宣教」という理解に反対する声もあった。つまり、
 「もしキリストが陰府で福音を語られたのだとすれば、死者にも回心の機会が与えられたことになる。そうなると人々はきっと、生きている間は好きに暮らして、死んでから回心すればいいじゃないか、と思ってしまうに違いない。これはキリスト教の宣教上、たいへん不都合だ」
 という懸念である。けれども、このような懸念を持つのは、信仰というものがわかっていない証拠である。
 この地上で回心することの意義は何か。この地上で回心するなら、神の子とされて祝福の中を歩み、神が自分の人生にお与え下さった使命を自覚し、この地上で神の御教えを実践に移せる。
 しかし、陰府に行ってからの回心では、そのような生活はない。地上での回心が、陰府での回心にはるかに勝っていることは、火を見るより明らかではないか。だからこれをよく説くなら、
 「死んでから回心すればいいじゃないか」
 という論理には決してならないのである。私たちは、人々がこの地上に生きている間に回心できるように、熱心に伝道すべきなのである。それが人間の創造目的を完成する道だからである。
 陰府は、暗い、生気のない場所にすぎない。陰府に行ってからでは、私たちが人間として生を与えられた使命を全うできない。だから聖書を通し、この地上にいる間に、人生の早い段階から神と共に生きることがいかに大切か、ということを説いていくべきである。「伝道上の不都合」を思うのは、福音の曲解にすぎない。
 あなたにも問いたい。あなたは地上で好き勝手な罪の生活をして、「死後に回心すればいい」などと思うか。福音のすばらしさを知ったとき、なお、そんなことを思うか。自分が地上で蒔いたものを、死後に陰府で刈り取る苦しい生活に入りたいと思うか。そこで回心の機会に巡りあえたとしても、世の終わりまで、その暗い世界に留め置かれるのである。
 私なら、そのような道より、生きている間に回心して、今から神の子として祝福の中を歩み、永遠の命をいただいて、死後は天国へ行きたい。死後に回心すればいい、などとは決して思わない。思ったこともない。生きているうちに福音を聞いたなら、生きているうちに回心すべき、とは太陽の光のごとく明白なことである。
 キリストの福音は、単に人間の死後の幸福のためだけにあるのではない。地上における幸福のためにもある。キリストの福音は、人生を力強く切り開く力である、地上の生命に絶対的幸福を宿らせる。だから、生きているときに福音を聞いたなら、生きているうちに回心するのは当然である。
 福音が、地上における幸福、および死後の幸福の双方をもたらすものであることを、きちんと説くとき、誰も「死後に回心すればいい」などとは決して考えない。 「死後のセカンドチャンスを説くと支障が出る」などと考えているのは、皮肉なことにクリスチャンだけである。残念なことに多くのクリスチャンが、福音というものをよく理解していない。
 求道者にとっては、むしろ逆なのである。死後のセカンドチャンスという聖書的真理は、先祖や親族を愛する人々に希望を与える。また人々を、「理不尽な神」という観念から、再び「愛と義の神」という聖書的真理に引き戻す。そして先祖や親族のためにも、自分は生きているうちに神と共に歩み始めなければならない、という考えに向かわせるのである。
 人々を本当に回心させるのは、聖書的真理だけである。これまでのような陰府と地獄を混同する観念は、日本人を神から遠ざけ続ける。また、「福音を一度も聞いたことがないというだけで未信者を永遠に滅ぼす理不尽な神」という観念は、日本のリバイバルの火を消し続けることだろう。本当に聖書的な真理だけが、多くの人々を神に向かわせる。
 「陰府と地獄は同じである」「未信者は死後、地獄に行っていて、もはや永遠に救われる望みはない」という非聖書的な教えは、中世の教会の堕落時代の遺物である。私たちはこの間違った遺物から、一刻も早く脱却しなければならない。

あなたが神の教えに歩むなら

 欧米ではしばしば、「信じないで死んだ者は皆、ただちに永遠の地獄に落ちている。だから信ぜよ」式の伝道が行なわれてきた。しかし、地獄の恐怖を強調するこの欧米式伝道が日本では決して成功しないことは、長年の宣教の歴史から明らかである。キリスト教にふれながら、クリスチャンにならなかったある日本人が、こう書いている。
 「私は宣教師に、『私の先祖は今どこにいますか』と尋ねた。彼は『地獄です』と答えた。私はさらに『先祖を救い出す道は何かありますか』と尋ねた。彼の答えは『ありません』であった。私はそれを聞いて、クリスチャンにならないことを決心した。
 欧米人は概して個人主義的で、自分の先祖が地獄へ行っていても自分は天国に行けるのかもしれないが、日本人はそうではない。自分だけが天国に行くなんてできない。またそのような理不尽な神を、私は信じたくない」
 日本人なら、誰でも彼の言葉を理解するはずである。そしてこのような日本人の拒否反応を作りだしてきたのは、ほかでもない、陰府と地獄を混同する非聖書的な教えだったのである。
 私はしばしば質問を受ける。
 「私はキリストを信じたいと思っています。でも私の愛する両親は、未信者のまま死にました。両親はどうなるのですか」
 「私はキリスト信者で、以前からある人に伝道していました。でも、その人は未信者のまま事故で突然死んでしまいました。その人は死後どうなるのですか」
 「自殺した人は地獄に行くのですか」
 あなたは、これらの質問にどう答えるか。私はこれらの質問に対し、聖書の御言葉を開き、一つ一つ明確に答えてきた。その答えを聞いて、多くの未信者が信仰に入ってくれた。クリスチャンも、信仰をさらに強められている。一方、陰府と地獄の違いをはっきり知って、
 「死んだ未信者のための葬儀が、何のためらいもなく行なえるようになりました」
 と言ってくれた牧師もいる。いずれの場合でも大切なことは、私たちの先祖や、自殺した人、また死んだ未信者は、いま地獄ではなく陰府にいる、ということである。それは最終状態ではなく、世の終わりまでの中間状態である。かつてダビデは、
 「たとい私がよみに床を設けても、そこにあなた(神)はおられます」(詩篇一三九・八)
 と言った。陰府には、地獄とは違ってまだ神の恵みがある。また神は、
 「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施す」(出エ二〇・六)
 と約束された。信者への神の恵みは、その信者だけにはとどまらないわけである。あなたが神の教えに歩むなら、あなたは神の国において、自分の親族、子孫、先祖の多くと会うことができるであろう。
さらに詳しいことを知りたいかたは、拙著『聖書的セカンドチャンス論』(レムナント出版発行)をお読みくだされば感謝である。

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