アルバート・シュヴァイツァー
アフリカでの人類愛
アルバート・シュヴァイツァーが、まだフランス・ストラスブルグ大学の学生だった時のこと、彼は初夏に、郷里のギュンスバッハに帰っていた。久しぶりのわが家は、ゆったりしたくつろぎを与えていた。
聖霊降臨節 (ペンテコステ)
の朝、いつものようにシュヴイツァーは、ベッドに起き直り、庭に目をやった。
日差しが温かく草木を包み、小鳥が朝の調べを歌っていた。彼は思った。
「僕は幸せだ。優しい両親、恵まれた環境、好きな学問、何一つ不自由するものはない。だが、これで良いのだろうか。当然のこととして受け取っていて良いのだろうか」。
彼は考え込んだ。これからの自分の人生をいかに生きるべきか、について悩んだのである。そのとき心にひらめくように浮かんできた言葉は、主イエス・キリストの御言葉であった。
「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのため、また福音のために、自分の命を失う(ささげる)者はそれを救うであろう」
(マコ八・三五)。
この言葉は、彼の心に強く迫った。二一歳の時のことである。以来、神と人々のために生きるべきだとの彼の決心は固まった。彼は祈って言った。
「神様、私は三〇歳になるまでは、学問と芸術に身をささげます。しかし三〇歳になったら、その後の生涯を人々と社会のためにお捧げします」。
シュヴァイツァーは、この祈りの通り30歳までは、学問と芸術に打ち込んだ。
彼は大学を卒業後、母校の神学部の教授になった。また聖ニコライ教会の牧師としても働いた。多くの神学・哲学論文を著し、その分野での地位は世界的なものになった。
彼はバッハの研究家としても知られるようになり、パイプ・オルガンの名演奏家としても有名であった。
しかし、いよいよ三〇歳が間近になった時のこと――彼が二九歳の時、一冊の小さな雑誌が、彼のその後の生涯を大きく変えることになった。
それは、パリ宣教師協会から送られてきた会報であった。彼はなにげなく読み始めた。それには「アフリカ伝道に必要なもの」という記事が載っていた。
「文明に遠ざけられた暗黒大陸アフリカは、数多くの協力者を求める。主イエス・キリストに従い、熱帯の地――北コンゴに、われらの兄弟を救いに出かける者はいないか。
精神の無知と、肉体の病気から彼らを救い出す者はいないか。われわれはアフリカにおける伝道者を、教会に求めてやまない」。
この記事は、ひどく彼の心を打った。心は固まった。彼は、アフリカに行く決心をしたのである。
しかし、アフリカに行くには単なる宣教師としてではなく、医療活動もできる者として行きたい、と彼は思った。そこで三〇歳になった彼は、再び学生になり、医学を勉強し始めたのである。
けれども音楽家としての名声と、幾多の名誉ある地位を捨ててまでアフリカに行きたい、という彼の決心は、人々の強い反対にあった。彼のもとに学んでいたある学生は言った。
「先生、アフリカに行くより、今ここで先生のしておられる仕事をお続けになった方が、どんなにいいかわかりません。それに先生が呼びかければ、みなアフリカへ渡る決心をするでしょう」。
シュヴァイツァーは答えた。
「いや、私は自分で行くことにしたんだよ。他人に頼る前に、私自身が立ち上がるんだ。とりあえず一切の役職から離れて、熱帯医学の勉強をしようと思っている」。
また、シュヴァイツァーがパイプ・オルガンを習った恩師・名演奏家シャルル・ビードル師も、アフリカ行きに反対してこう言った。
「シュヴァイツァー君、君はすぐれた音楽家だ。私は、恵まれた天分とまじめな性格を持つ君に、全精力を傾けてきた。持っているすべてのものを注いで、教えてきたつもりだ。
それなのに君は、音楽の才能と名誉を捨てて、これから医学を学ぶという。――しかも野蛮人のために。
私は反対だよ。君はこのヨーロッパで、音楽に、哲学に、神学に励むべきだ。それは君自身にとっても、社会の人々にとっても良いことだと思う」
ビードル師の反対は、つらかった。しかし彼は言った。
「先生、私の決心は固いのです。私はまだ学生だった頃、一生の前半を芸術と学問に、後半は不幸な人々のために捧げます、と神様に誓いました。先生のお言葉はありがたいのですが、コンゴの人々は、私を待っているのです」。
シュヴァイツァーの決心の固いのを見て、ビードル師は、目に涙をうかべた。
シュヴァイツァーにとって、一医学生としての再出発は、決して容易ではなかった。 しかし、やがてアフリカで役に立つ奉仕ができるようにと、彼は準備に没頭した。
オルガン演奏会や寄付によって、必要な資金も得ることができた。
九年にわたる準備の後、一九一三年に、彼はついにアフリカに渡った。パリ福音伝道会の宣教師としてである。
結婚したばかりの愛妻ヘレーネも一緒であった。彼が行った地は、フランス領コンゴ地方(現ガボン共和国)の町ランバレネであった。
赤道直下の地である。夫妻を待っていたのは、猛暑と、猛威をふるう伝染病であった。夫妻はそれらと戦いながら、黒人のために奉仕した。
土人たちは、シュヴァイツァーを「オガンガ」(神の人)と呼んだ。
ある日、シュヴァイツァーの病院に向かって、一隻(いっせき)の大型カヌーが川をさかのぼってきた。そのカヌーには、大きな箱がつまれていた。
「オガンガ、荷物が着きました」。
と土人が言った。その荷物は、ピアノであった。あの恩師ビードル先生から届けられたものである。
シュヴァイツァーは、顔をパリに向け、感謝の言葉を叫んだ。
「先生、ありがとうございました。私は先生のご厚意に対しても、必ずアフリカの地に、理想郷"エデンの園"を築きます」。
彼は多くの汗と涙のすえ、病院を中心とした一大理想郷「エデンの園」を建設した。シュヴイツァーの演奏する荘重なバッハの曲は、毎日、園に響いた。
彼は黒人を友とし、医療や伝道に従事した。彼はまことに「思索人らしく行動し、行動人らしく思索した人」であった。
一九五二年のノーベル平和賞は、彼に与えられた。
〔聖書の言葉〕
「わたし(キリスト)の兄弟であるこれらの最も小さい者(不幸な人々をさす)のひとりに(親切を)したのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ二五・三一〜四〇参照)。
久保有政著
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