アダムの皮衣
キリストによる「義の衣」の予型としての皮衣
私たちは今まで、アブラハム、イサク、ヨナ、エノク、エリヤ、モーセ、ヨシュア、ダビデなどの人々、また過越の小羊や、出エジプトという出来事を通して与えられた予型について見てきました。
つぎに、人類の最初の父祖(ふそ)であるアダムとその妻エバを通して与えられた予型について、見てみましょう。
「罪の体」になったアダムとエバ
聖書では、「体」という考え方が、非常に重要なものとなっています。
私たちはとかく「体」というと、「人間は魂と体から成っている」という感覚があって、体を人間の"一部分"と考えてしまうことがあります。
しかし、聖書においては「体」(ギリシャ語ソーマ、ヘブル語バサール)は決して人間の一部分とは考えられず、つねに人間の全体を表すものとして考えられています。ある神学者は、聖書の「体」の考え方について、
「人間が体を持っているのではない。人間が体なのである」
と言いました。また別の神学者は、
「聖書の『体』概念をあえて言い表せば、
『私は体である』
もしくは、
『私は体の内にある』
となるだろう」
と述べています。つまり人間は確かに「魂と体」だが、それは魂という"部分"と体という"部分"を合わせたものなのではなく、むしろ体は人間の全体で、魂がその体の内に融合しているということなのです。
ですから、聖書の原語を調べてみると、「体」はしばしば人間そのものを表すものとして言われています(ピリ一・二〇、ロマ一二・一、ルカ三・六等)。
また「罪の体」という表現が、聖書にあります(ロマ六・六)。これも、人間全体を「体」という言葉で言い表したものです。決して、肉体という部分あるいは物質が悪であるとか、罪である、という意味ではありません。人間存在全体が罪の支配下に入ってしまっている、という意味なのです。
さて、これを踏まえたうえで、アダムとエバのことを見てみましょう。
彼らは堕落以前、すなわち「罪の体」になる以前は、"無垢の体"でした。まだ人間存在が、罪や悪に汚れていなかったのです。
しかし、堕落して彼らの人間存在に罪が入ると、彼らは「罪の体」になりました。すると、彼らは自分たちが「裸である」ことに気づいた、と聖書に記されています。
「(堕落後)ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った」(創世三・七)。
これは不思議な表現です。というのは、その当時は衣服というものも、衣服を着る習慣も、まだ存在していなかったからです。
「裸」は、"衣服を着ていない"ということですから、衣服の存在を前提にした表現です。ところがアダムとエバは、衣服も、衣服の習慣もまだこの世に全く存在しないときに、自分たちが「裸である」という認識を持った、というのです。
これはじつは、神が将来お与えになる「救い」を準備するために、神が人間にお与えになった特別な意識です。
聖書は、私たちが罪赦されて義と認められることを、「救いの衣」を着、「義の上衣」を着ることと表現しています(イザ六一・一〇)。「裸である」という意識がアダムとエバに与えられたこと、および人間が衣服をつける習慣を持ったことは、この「救いの衣」というものを理解させるための準備意識なのです。
堕落以前のアダムとエバは、"無垢の体"だったので、裸を恥じる必要はありませんでした。アダムがエバに、またエバがアダムに、そして神の御前に恥じる必要はなかったのです。
しかし堕落によって「罪の体」になってしまってからは、裸であることに「目が開け」、裸であることを恥じました。というより、全能者の近くにいた彼らは、裸であることを「恐れた」のです。アダムは神にこう申し上げました。
「私は裸だったので、恐れて身を隠したのです」(創世三・一〇)。
つまり裸であることを知ったとき、彼らは"互いに"それを恥じたというより、むしろ神の御前に裸でいることを「恐れた」のです。彼らは聖なるかたの前に何も身にまとわない「罪の体」のままでいることに、恐怖を感じとりました。
皮衣
神は、罪の体となった彼らを、もはやエデンの園においておくことはできませんでした。それで彼らをエデンから追放し、ご自分の住む世界を、人間の住む物質世界から分離されました。
しかし神は、将来人間のためにお与えになる「救いの衣」の予型として、アダムとエバに「皮の衣」をお着せになった、と聖書は記しています。
「神である主は、アダムとその妻のために皮の衣をつくり、彼らに着せてくださった」(創世三・二一)。
神がお与えになったこの衣服は、特別な衣服でした。それは「皮の衣」であり、動物の皮でできた衣でした。つまりそれが彼らに与えられるために、血が流されたのです。
それはこの世が始まって以来の、最初の血でした。この血は、そののちキリストによって私たちのために流された犠牲の血潮の予型です。またこの衣は、キリストによって信仰者に着せられる「救いの衣」の予型なのです。
皮衣は、神ご自身が用意されたものです。衣の作り方を教えられたのでも、ただ作れと命令されたのでもなく、神ご自身が用意してくださいました。それと同じように、「救いの衣」「義の上衣」は、神ご自身がキリストによって、人々にお与えになるものなのです。
私たちは死後、やがて「最後の審判」のとき、神の御前に立ちます。そのとき、キリストへの信仰によって「救いの衣」「義の上衣」を着せられている人は、神の前に義と認められます。神はその衣のゆえに、私たちの罪をご覧にならず、その衣にあらわされたキリストの義をご覧になるからです。
皮衣は、このことの予型です。つまり神は、アダムの堕落後、人々の救いのための準備にすぐに着手されたのです。
アダムとエバに着せられた皮衣は、
キリストの犠牲によって私たちに着せられる
「義の衣」の予型である。
アダム自身も"型"となった
これに関連して、もう一つのことを述べましょう。じつはアダム自身も、一つの"型"となったのです。聖書は、
「アダムは、来たるべきかた(イエス)のひな型です」(ロマ五・一四)
と言っています。これはどういうことでしょうか。
これは端的に言えば、アダムという「ひとりの人」によって世に罪が入ったように、キリストという「ひとりの人」によって世に義がもたらされる、ということです。
罪と死は「ひとりの人」アダムによって入りましたから、神はそれを型として、義と命を、同様に「ひとりの人」キリストによって世にもたらそうと計画されたのです。
前章で述べたように、私たちは血のつながりにより、あのアダムの堕落のとき、ひとりの人アダムの内に見られました。そのため、アダムの体に罪と死が入ったとき、全人類が罪と死の支配下に置かれました。
同様に、私たちは信仰によってキリストにつながるなら、ひとりの人キリストの内にあると認められ、キリストの義により、義と命の支配下に置かれるのです。聖書は言っています。
「ちょうど、ひとりの人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとり(キリスト)の従順によって多くの人が義人とされるのです」(ロマ五・一九)。
「アダムにあって、すべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあって、すべての人が生かされるのである」(一コリ一五・二二)。
このように、アダムを型として、キリストは世に来られました。アダムが罪と死をもたらしたように、キリストは義と命をもたらすために、世に来られたのです。
それはいわば"裏返しの型"です。キリストは世に来られて、"第二のアダム"また"新しいアダム"となられたのです。そのためにキリストは、アダムと同じように特別な誕生の仕方をされました。
というのは、アダムは聖書によると、まず肉体が「土」から造られました。肉体を構成する物質は、元素的に見ると、すべて地球の地殻中の土に含まれていますから、これは決して不合理なことではありません。
たとえばタンパク質は、炭素、水素、窒素、酸素、および硫黄が有機的に結合したものですが、これらは地球の地殻中に含まれるごくありふれた元素です。
神は、土の中にあるこれらの元素を有機的に結合して、タンパク質をつくり、またその他のことを加えて、最初の人アダムの肉体をお造りになりました。そして、その肉体に霊を吹き込んで、生きる者とされたのです。
一方、イエスも、特別な誕生の仕方をされました。イエスは、母マリヤの胎(たい)が聖霊(神の霊)によってみごもることによって、誕生されたのです。これをある聖書学者は、次のように記しました。
アダム―― 土 +霊
イエス―― マリヤの胎+聖霊
この+は、もちろん単に足し算の意味ではなく、有機的な結合をさしています。
人類の歴史の中で、男女の結合によらずに生まれた人物は、アダムとイエスのみです。イエス・キリストは、"第二のアダム""新しいアダム"となるために、アダムと同じように特別な誕生の仕方をされたのです。
久保有政著
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