堀内氏善の墓
堀内氏善は、戦国時代末期、新宮を根拠に古座付近から紀伊長島付近まで 3万石、実高 6万石とも言われる、を支配した戦国大名です。
堀内の出自には諸説がありますが、氏善の父 (注1) 氏虎の代に、七上綱と言われて熊野三山を支配した土豪を抑えて新宮を支配、氏善の代には、今の熊野市有馬町を根拠に勢力を張っていた有馬氏を併呑、北方に勢力を伸ばしました。
関が原の戦いでは西軍に属し、九鬼と共に関が原に向かう途中で敗戦、領地を没収されて九州熊本の加藤清正に預けられ、宇土城城代となり、慶長20年 (1615) 宇土で没しました。墓は宇土市三宝院にあります (注2)。
氏善は、幼い頃、有馬氏に養子に入って有馬家を継ぎ、その後、新宮の堀内家をも継いだので結局両家を継いだ事になったと言います (注3)。その為でしょうか、江戸時代初めに氏善の家来が、有馬家の菩提寺であった有馬の安楽寺に氏善の墓を建てました。
「新くまの風土記」には、正徳 5年 (1715) の書上げとして次のように引用されています。
乍恐口上
一、私先祖之儀 五代以前大久保三之丞と申候此者代迄有馬殿代々堀内安房守殿迄少知被下奉公相勤申候よし 三之丞世倅若輩之節は市太郎と申候其時分安房守殿御墓所有馬村安楽寺へ相建候刻 右市太郎別而肝煎申候に付堀内若狭守殿より御状被下爾今所持仕罷在候(下略)
正徳五年未七月 有馬組下市木大久保善兵ヱ
久保善右ヱ門殿
今、安楽寺に在る墓は右図の宝篋印塔です。小型です。関西形式と言う形です。
実測図はここ
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- 台座
側面無地。上面は一面に 4弁、全部で 16弁の複弁反花座になっています。蓮弁はちゃんと彫ってあり、江戸時代のペッタリしたものではないですから、室町時代のものだろうと考えます。台座上面に薄い造りだしがありその上に基礎が乗ります。
- 基礎
輪郭を巻くが中は無地。上は 2段です。
- 塔身
石質が白っぽく見えて、違うように見えますが寸法はきっちり合っています。円相の中に金剛界四仏の種子が彫ってあります。種子は薬研彫でやや浅いがこの大きさの宝篋印塔ならこんなものでしょう。
- 笠
今乗っている笠は後補と思います。本来の笠は、右側に五輪塔の風空輪を乗せてあるものでしょう。寸法もあいます。残念ながら笠の後部が大きく欠けていて乗せることが出来ません。笠下 2段、笠上 5段。隅飾は 2弧、輪郭を巻きます。隅飾の形は、室町時代と言って差し支えないと思います。ついでながら、その笠の上に乗せてある五輪塔の風空輪は大きいし形もよいです。
- 相輪と宝珠
後補と思います。形はかなり新しいものと思いますが如何でしょう。
以上をもとに勝手に想像すると、江戸時代初期に、氏善の有馬家中の家来が安楽寺に在った有馬家関係の宝篋印塔を利用して氏善を供養した。その後、笠が壊れ、相輪も失われたので、後補した。というところかなと思います。ただ、小型の宝篋印塔は後々まで古い形が残っているようにも思いますので、やっぱり想像に過ぎません。
(注1) 氏虎は氏善の祖父という説もあり。
(注2) 没年には異説もあり。
(注3) 有馬家に養子に入ったのが氏善であるかどうかについては異説もあり。