戸田六左衛門の墓


熊野市付近では大きな一揆が二回おきています。一つは天正の一揆、もう一つは慶長の一揆です。

天正の一揆は豊臣秀長による検地に抗して起きた一揆で、藤堂高虎、吉川平助、堀内氏善などにより鎮圧されました。

慶長の一揆は大阪夏の陣に呼応して起こったもので北山一揆とか熊野一揆とか言われます。一揆の顛末を物語風に描いた「北山一揆物語」は有名です。一揆は大阪夏の陣のために当時の若山藩主浅野長晟 (後の広島藩主) が大阪に出陣、家老であった新宮城主の浅野忠吉 (後の三原城主) も出陣した留守をついて北山地方 (今の奈良県と和歌山県) から西山地方 (今の熊野市北部と紀和町) にかけての土豪が起こしたものです (注)。

この時、新宮城の留守を預かっていたのが戸田六左衛門です。戸田は冷静沈着に事態を収拾し一揆勢は潰走しました。その後の一揆追討は北山は和州 (大和国) でしたので比較的緩かったのですが、紀州領であった西山では大量の処刑者を出し大打撃を受けました。

浅野の広島転封に伴い、新宮城主であった忠吉は若山における残務整理を引き受けた後三原に移りました。戸田も家老として三原に移り三原で没しました。

戸田家の菩提寺は正法寺ですが、戸田家の墓地は寺からやや離れています。墓地には大型の五輪塔が3基ありますが、六左衛門の五輪塔は上のほうにあるもので、典型的な江戸初期の五輪塔です。地輪の銘文がはっきりと読めます。


(注)西山・北山という表現は時代により違いがありますがここでは便宜的に使っています。