秋山二十六夜山‐高畑山


秋山二十六夜山からサンショ平、雛鶴峠まで行けるというのは知っていました。そして一度行きたいと思っていました。なぜ、行けると知っていたのかが分からなかったのですが、今度行ってみて分かりました。前に、赤鞍が岳から無生野に下ったときにサンショ平を通りました。そのときサンショ平の道標に雛鶴峠方面があったのですね。また、二十六夜山に登っときにも、途中の道標に、赤鞍が岳方面があって、行けると言う事を覚えていたのですね。このコースで自信が無かったのは雛鶴峠から高畑山の部分でした。とにかく、長らく行きたいと思っていた所にやっと行きました。
日時 2000年2月5日
晋 万
何処に行こうかと迷っていたが、以前から行きたかった雛鶴峠を経て、高畑山に行く事にする。時間があるので、以前行った秋山二十六夜山も Set にして行く事にする。万は二十六夜山の二十六夜塔の写真が無いので欲しいと言っている。

バスの時間の関係で、若葉台 7:11 発に乗る。今日はゆっくりだ。上野原から、バスに乗る。バスに時間は 8:28 発の無生野行き。結構バスを待っている高老年者が多いが、無生野行きと、飯尾行きが同じ時間なのだ。飯尾行きの方が乗る人が多い。我々のバスは山支度の人は 10人。

下尾崎には 9:10 着。支度をして 9:15 出発する。少しで左右に分かれた道を右ヘ。まっすぐ進む。そこから少しで小さい橋を渡る。左に古峰神社の参道入り口の石柱。我々は沢沿いの右の道を行く。道は、きれいにジグザグに切ってある。9:40 尾根に出る。山頂近くの尾根を歩いていると前から犬が来る。日本犬だ。僕を見て戻っていった。でもそれから先、人にも会わないので狐かな?。たいていの犬は人を見ると寄って来るものね。でも昼に狐は不可解。犬としても不可解。

再会した二十六夜塔
10:10 二十六夜塔。前に写真を撮れなかったので今日はしっかり写真を撮る。晴れて暖かい。風が無く、汗が出る。写真によくある陽だまりハイクだ。10:15 山頂着。我々が一番みたい。気持ちの良い。まだ歩き出したばかりのような気持ちであり、休むにも早いので直ぐ出発する。秋山二十六夜山は山梨百名山。山頂からは、三つ峠の左に白根三山が良く見える。

10:20 山頂出発する。山頂から出たところで一人出会う。10:30 三日月峠。浜沢分岐。そこからすぐに、以前来たときに登ってきた道と出会う。ここにも道標がある。しばらく行くと、(何とか) 沢の頭につく。黄色のテープの山名があるが読めない。887m。道は少々藪がかぶるがしっかりしている。棚ノ入山への道標がある。我々が目指す方向だ。棚ノ入山への登りは雪が出て滑って登りにくい。

棚ノ入山には 11:20 着。1117m。今日の最高点だ。赤鞍ヶ岳が間近に見える。棚ノ入山はだらだらした山頂で山名板もないし何処が山頂か良くわからない。11:25 サンショ平。立派な道標がある。この道標に棚ノ入山と書いてある。四差路になっている。前は赤鞍から下ってきて無生野に下った。今日はそれに直交して行く。

始めは笹が結構ある。道が見えにくいが、笹がないと藪だが、道形はしっかりしている。11:50 二重山稜風の所に出た。約 1000m。扇山方面が良く見えるし、近くの山の植林地や雑木林のコントラストが良く見える。都留市側(曽雌)にリニアモーターからの線路が良く見える。12:00 に 952m。12:20 927m ピーク。立派な道標を過ぎて少し上がる。

晋が会いたかった雛鶴峠
12:40 雛鶴峠。日当たりの良い明るい峠。ここが今日の目的の一つ。晋は来てみたかった所。少し上がって鉄塔の所で昼食にする。昼食の所から見て、万が低い所の双児峰といったのは猿焼山だった。13:15 出発する。食事中一人後ろを通っていった。ひと登りで高岩約 900m 13:25 着。Golf 場が前方に見えてきた。少し登ると 901m のピークは大ダビ山 13:35。左側はずっと Golf 場。このへんの山名板は新ハイが建てている。ほとんど直登で、高畑山の少し倉岳山寄りの所に出る。全然しるしが無いので、高畑山から下山するときは注意がいる。

高畑山には 14:05 着。山頂には、3人休んでいた。人が少なくて気持ちが良い。ジョウビタキのメスが、直ぐ側の木にいていつまでも逃げない。木の実を食べたりしている。3人は、14:20 頃出ていった。あとは我々二人だけ。富士山がうっすら見える。我々は、14:30 出発する。風も無く暖かい山頂。下りは、快調に歩き、15分くらいで 3人組を追い抜いた。途中 Sun Set を撮りに登る人に会う。今日は山では 6人にあった。鳥沢駅では、15:54 発の電車に大走りに走って乗り込んだ。駅員さんが、車掌に連絡してくれて少し待ってくれた。ラッキー。自宅には、17:30 頃帰った。

翌週、神保町の古本屋で、「護良親王の伝説」という本を見つけて立ち読みしたら、雛鶴峠の伝説の事を書いた本だった。雛鶴姫は、護良親王の妻で太平記では南の方と言われている人と言う。親王が鎌倉で殺されたときに妊娠していた。親王の首を持って逃げる途中で雛鶴峠で出産して死ぬ。子供は、男で、無生野の人に預けられ 10歳くらいで死んだとされる。無生野の地名伝説もあって、このとき無生野の人々は雛鶴姫を助けなかったので無情野となったそうである。護良親王は、熊野市にも関係あり、当ホームページでも、歴史の所で扱っているから、こんな所にも伝説があるのかとやや驚いた。また、先日、杓子岳から下山したときにも、親王を助けたと言う藤原何某の墓を見た。