【いじめをなくすには】
【報道において人権をどう守るか】
【阪神大震災と日本の行政】
【戦争を知らない世代の若者として、「戦争責任」についてどう考えるか】
【高度情報化社会の明と暗】
【異文化理解の可能性】
【「死」と「豊かな生」の関係を考える】
【「脳死」をどうとらえるか】
【ボランティア精神とは】
【インターネットを支える技術】
このページでは、現在問題になっている様々な出来事を取り上げ、それを小論文の答 案程度の字数で論じていきます。最終的には「小論文テーマ集」「小論文解答集」が出 来上がるわけです。最初のテーマは「いじめ」。いじめをなくすにはどうしたらよいのか、この文章を叩 き台に、あなたも考えてみて下さい。
【いじめをなくすには】
私は教師の立場から、いじめをなくすにはどうしたらよいかを論じたい。現代のいじ めの特徴は、いじめる側もいじめられる側も子供たち一人一人が孤立している点にある。 その意味で、この事態の本質は「社会への拒否」であると言えよう。報道などで日常目 にする登校拒否の増加と生徒間暴力の増加は、どちらも「社会への拒否」から生じた現 象であると思われる。伝統的に密度の高い人間関係を重視してきた日本の社会が、なぜ 子供たちを「拒否」に向かわせるのだろうか。
教育は本来、人間が自分の置かれた環境の制約から自分の意志で自由になるためのも のであった。例えば、自然や旧社会の拘束は、それらを詳しく知り、同時に自分を知る ことで初めて人間の立ち向かえる対象になったのである。ところが、現代日本の教育は これまでの見解を繰り返し、覚え込ませるだけで、自分で判断し行動する自由を軽視し ている。また、厳しい校則・体罰などの管理が新たなる制約となっている。子供たちが 学校という社会を拒否するのは当然だ。
さらに、学校が子供たちの拒否の対象となる背景には、現代社会の効率主義があるの ではないだろうか。日本人が豊かになったのは、短時間に一定の質でより多くの物を生 産する技術が向上したためである。しかし、それが、教育の場に持ち込まれると個性は 忘れられ、「量」で計ることのできる点数、偏差値などが重視されるようになる。組織 的に利益を追求する効率主義は、個人が自主的判断によって集団の制約から離れること を嫌う。これが現代的管理社会の本質なのである。
従って、この管理から自由になることが「いじめ」をなくす道である。まず教師が、 つまり大人が管理教育をやめることで、子供一人一人の意志と協力に基づいた生き方の 追求が可能になるであろう。そうして初めて、子供は社会に戻ってくるのだと私は考え る。◎いじめに関連して、加害者側の少年の氏名や顔写真を公表して「社会的制裁」を加え ようという意見があります。「神戸小学生殺害事件」でも、ホームページや写真週刊誌 が、まだ「容疑者」であるにもかかわらず、少年の顔写真や実名を載せて問題になりま した。少年法は犯罪を犯した少年の人権(もちろん、容疑者の人権も)を守るため、マ スメディアによる報道を規制しています。「社会的制裁」は一見説得力のある意見のよ うに見えますが、「松本サリン事件」でKさんが警察発表を鵜呑みにしたマスメディア によって犯人扱いされた事実や、「坂本弁護士事件」でマスメディア自身が犯罪と関わ りをもった事実を考えると、マスメディアにそのような「正義」や「倫理」を代弁する 資格があるのかどうか疑問に感じられます。そこで、少年犯罪の報道について考えなが ら、マスメディアと人権の関係について論じてみましょう。
【報道において人権をどう守るか】
私は「少年犯罪でも詳しく報道すべきだ」という意見には反対である。
「少年犯罪も大人の場合と同様に報道すべし」という主張の主な論点は三つに要約で きる。それらは「重大な犯罪であり、社会的関心も高い場合は、加害者が少年でも氏名 を公表し、社会的責任を問うべきだ」「少年法には罰則がなく、報道規制の法的拘束力 はない」「被害者は既に回復不可能なまでに人権を侵害されているのであり、加害者の 人権に配慮することは法の下での平等に反する行為だ」という三点である。
第一の点については、社会的責任を判定するのは裁判所かメディアかという問題があ る。 仮にメディアにそうした社会的役割があるとしても、法的には有罪判決が確定するまで 被疑者は無罪である。また、実際に無罪判決が出た場合、判決以前に報道機関が有罪扱 いをしていれば、明らかに被疑者の人権は侵害され、しかもその不利益の回復は難しい。 メディアの側が依拠する「表現の自由」や国民の「知る権利」が被疑者の「人格権」に 優先するという根拠はない。
第二の問題は、単なる法律問題ではなく、「罰されなければ何を報道するのも表現の 自由か」というジャーナリズムの倫理問題につながっている。報道と人権の関係につい ては、「書かれる側の不利益」につながるような報道を禁じる規定がある。これは掲載 するに値する公共の利益がない場合には伝えてはならないという原則であり、少年犯罪 報道の規制もその延長である。ただし、この場合「公共の利益」の定義が曖昧であり、 それゆえにマスメディアの側が自粛基準を作っているのである。罰則がなければ規制が できないのであれば、マスメディアは自主性を失い、自ら表現の自由を放棄することに なるであろう。
第三の主張は「被害者側の報道も人権の侵害になる」という側面を意図的に無視した 議論である。マスメディアの側は「被害者の代弁者」として事件を報道するかのような 傾向があるが、最近では、報道に対してすべての「書かれる側」が権利を主張できる「 アクセス権」も人権の一部であると考えられている。その点で、加害者だけでなく被害 者のプライバシーも守られるべきであり、そのような姿勢が報道にとっての「人権尊重」 の基礎であると私は考える。◎病原性大腸菌O157が日本中を席捲しています。抵抗力の弱い幼児や高齢者から死 者も出ました。この菌が出すベロ毒素による障害の治療法は確立しておらず、それが 一般の人の危機感を増幅しているのです。
しかし、この菌が強力な毒素をもっていることと、この菌に感染した人、死亡した 人が多いこととは別の問題です。今度の被害者大量発生に関しては「情報不足」「役 所の縄張り主義」「専門家の不足」「対応の遅さ」が被害を拡大したと言われていま す。よく考えれば、これは「阪神淡路大震災」で問題になったことと全く同じです。 あれだけの大災害の教訓は、またも生かされませんでした。
そこで、日本の行政システムをどう変えるべきかという問題について、大震災をテ ーマに考えてみました。【阪神大震災と日本の行政】
阪神大震災では「あらゆる行政機構の対応の遅さ」「情報不足による物資の無駄、支 援体制の硬直化」「指揮をとれる災害対策責任者の不在」「法の不備による救助・復旧 活動の制約」などが行政の問題点として浮かび上がってきた。
これらを総括すれば、「効率主義的な中央集権システム」の欠陥が明らかになったと いうことである。かつて明治以後の近代化の過程で「近代化加速」のために構築された 中央集権的制度は、戦後日本の社会では別の意味を担わされた。つまり、経済成長を第 一に追求する効率主義社会では、労働力としての人間の価値を最大にすることが重視さ れ、行政機構もまた、労働力を大規模に吸収し、消費し尽くして廃棄する「一極集中型」 を要求されてきたのである。その過程で政治家・官僚・財界が一体となって企業の利益 追求・消費の促進を個人の生活に優先させ、災害時でなくとも「大国」という名前から はかけ離れた貧弱な社会資本と不充分な社会福祉制度に国民は苦しんでいるのである。 被災地での「暮らしの基盤の軽視」や「私権の制限」は、こうした問題点が災害時に端 的に現われたものである。
こうした問題を解決するために、私は「効率主義の見直し」と「分散と集中を兼ね備 えた有機的な行政システム」の構築が必要であると考える。「有機的」とは、部分が独 立しながら全体は統一されているような組織のあり方である。例えば、「地域や個人へ の分権」は、上意下達の官僚主義と大企業優先の行政を改善するために有効である。そ の一方、医療などのネットワークは全国規模で作らなければ意味がない。前者が分散、 後者が集中を必要とする問題であるが、これらを共存させるために有機的なシステムが 必要なのである。
そのようなシステムを構築するための要素は、個人に対する「知識(情報)支援」「 意志決定支援」「行動支援」にまとめられるであろう。具体化すれば、行政機関を、専 門知識を持ち、訓練されたグループに分割し、それぞれ「必要な情報をいつでも収集し 住民に提供する」「情報に基づく状況判断と課題の優先順位を生活者中心に決定する」 「現場の活動者を様々な面でバックアップする」という機能を分担させるのである。そ れによって市民ひとりひとりと行政のネットワークが生まれ、これが危機管理はもちろ ん、議会の活性化や制度の更新・充実などにも結びつくと私は考える。◎毎年、8月になると原爆忌、終戦記念日に向けて「戦争の記憶」が様々なメディアで 扱われます。それらは日本人が「被害者」になった側面です。しかし、従軍慰安婦問題 をはじめとして、日本人が「加害者」になった側面を忘れるわけにはいきません。スミ ソニアン博物館での原爆投下機「エノラ・ゲイ」の展示、改築された長崎原爆資料館で の「戦争加害展示」など、戦争の相手国から見る「加害者」としての日本人像と、自分 たちの視点から見る「被害者」としての日本人像のギャップは、戦後半世紀を経ても埋 まりません。私たちは、この問題といかに取り組むべきでしょうか。そのヒントは、か つての同盟国ドイツにあります。
【戦争を知らない世代の若者として、「戦争責任」についてどう考えるか】
1995年は第二次大戦終結の記念式典が多く、戦争を知らない私も「戦後50年」をいや でも意識させられた。同時に、私はヨーロッパでは敗戦国も過去の歴史を記念している ことを思い出す。例えば10年前、ドイツのヴァイツゼッカー大統領が敗戦記念日に行 なった演説『荒れ野の40年』は有名であり、本にもなった。大統領はドイツ人が敗戦 の日を記念するのは、そこに民族としての意義を見出すからだと述べている。それは、 ユダヤ人虐殺を「故意に無視した罪」を各人が反省し、若い世代が前世代と助け合って 過去の責任を負い、過去を直視することで二度と罪を犯さないよう現状認識を鋭くする ためであるという。
ヴァイツゼッカー大統領の演説は「戦争を知らない私たち若い世代も戦争責任の問題 を受け継いでいかなければならない」という考え方を示している。これに対して、「過 去の世代には確かに戦争責任があるが、私たちの世代は別である」とか「戦争はいつの 時代も歴史の必然であるから、個人には責任はない」という考え方もある。私は、日本 では後者の意見が多いと感じる。正確に言うと、民衆は戦争の犠牲者・被害者であり、 戦争責任は当時の指導者にあるという「被害者意識」である。
そうであるからこそ、私は「個人としての自覚に基づく責任」を負う側に立ちたい。 なぜなら、戦前も含めて、現代の世界は空間的・時間的に連続性をもつ「ボーダーレス」 なあり方をしているからだ。例えば、日常のあらゆる経済活動が、途上国の貧困や世界 的な環境問題と関わっていることを私たちは知っている。軍事的な問題に限らず、私た ちが他の国の人々や次の世代に対して影響を及ぼすことを「知っている」以上、そこに はナチズム下の市民と同じ責任が生じるのである。戦争責任の自覚は、こうして「一人 一人の現在」に対する自覚につながると私は考える。◎国内・国外のさまざまなホームページを見ていると、その多くがこの1〜2年の間に 開設されたことに気づきます。(私のページも今年の3月に作りました。)そこからも、 インターネットの膨張は大変な勢いであることが感じられます。しかし、その一方で「 わいせつ画像取り締まり問題」など、「ネットワーク民主主義」を確立するために解決 しなければならない問題も次々に生じてきます。そこで、情報社会の明暗について、よ く考えてみましょう。
【高度情報化社会の明と暗】
私は「高度情報化社会」から、明暗両面の世界を想像する。
まず「明」の側面では、コンピュータを使いこなすことで単純な作業から解放され、 機械では代替できない、真に創造的な仕事に人々が従事する世界を思い浮かべる。そこ では個人のニーズに合った情報がいつでもどこでも利用でき、日常生活の場を超えた新 しい人間関係の形成も容易である。さらに、バーチャル・リアリティ(仮想現実感)を 生み出す技術を通じて、人間は現実とは異なる次元に知覚と経験を広げて、新しい角度 から自らを反省することもできるだろう。
しかし反面、「暗」の側面では個人のプライバシーが侵害され、管理・統制が強まる 社会像も浮かんでくる。そこでは情報が経済効率に支配され、情報格差が意図的に作り 出される一方で、メディアを通じて流れる一般向け情報の規格化・画一化が進むだろう。 多くの人々は圧倒的な量の情報をどう利用したらよいかわからない。さらに、コンピュ ータ中心のシステムに適合しない経験的な分野の重要性は無視され、そのようなシステ ムが故障した場合には、柔軟性のなくなった社会に混乱も起きよう。
このような社会で私が選びたいのは、一言で表現すれば「自分の位置を確認しながら 生きる」生き方である。第一に、流通する情報を選択するための基準となる知識・経験 を身につけることが必要であろう。具体的に考えれば、学問的訓練によって異文化や過 去の歴史的資料と接し、それによって自己の置かれた立場を知ることがその第一歩であ る。第二に、環境との関わりから自身の姿を知ることが考えられる。自分の体について 知り、自律的に心身一体の健康を求めることから始まり、他者の自立を援助することに よる社会関係の広がりを感じること、さらに自然と交感する感覚の回復まで、知性に局 限された人間観を環境とつながる総合的な人間観に変えてゆく努力を私は続けたいと考 える。◎異文化理解の問題は出題し尽くされた感があります。しかし、最近の出題はただ単に 「理解が必要だ」というのではなく、「そもそも異文化理解は可能なのかどうか」を問 うものが多いのです。こうした視点から異文化理解の問題を考えてみましょう。
【異文化理解の可能性】
異文化理解に関しては、楽観的な見方と悲観的な見方が対立している。
まず悲観的な見方としては、現代の戦争・紛争・摩擦の解決が困難なのは、その根源 に民族・言語・宗教などの文化的要因が存在するからだという考え方がある。ある民族 に特有の言語・宗教などの文化項目は、民族のアイデンティティを支える要素になって おり、実際、「国際化」が叫ばれる一方で、小さな民族集団が文化的アイデンティティ を強く持ち、自文化を他に対して主張する傾向が顕著になっている。これに対して、異 文化理解は「生活レベル」で進むという楽観的な見方もある。具体的に言えば、家庭生 活が営まれるようなレベルで文化の重なりあいが起こり、そこで体験する生き方の違い に人々が耐えることができた時に異文化の理解は進むという考え方である。
そもそも文化は自然環境・社会・経済などに根を張っており、それらの一部分が変化 すれば全体としての文化に必ず影響を与えるものである。そして有機的な全体としての 文化は一度変化を始めると元には戻らない。つまり、異文化との接触は文化的な環境問 題なのである。
その点からすると、文化に対する否定的な見方は「文化の有機的性格」を軽視すると ころから生じると思われる。なぜなら紛争は単に民族に特有の宗教や言語の差異から起 こるのではなく、そこに経済的社会関係や「効率」「平等」などの観念が持ち込まれる ことによって起こるからである。これら本来はその民族にとって異質の価値観が主に大 国の強大な経済力の影響で入ってくると、新しい価値観から生み出される社会的な変化 が無意識の内に伝統的な社会システムを変え、結局明らかな対外的摩擦・紛争として現 われることになる。民族紛争が必ず政治的・経済的独立の要求を伴うのはそのためであ ると言えよう。
ゆえに、異文化理解は「一元的な視点の押しつけ」を拒否することでもある。その点 では楽観主義にも浸ってはいられない。例えば平等や民主主義などの概念が、異なった 価値体系の中では負の評価を受けることもあるからである。生活レベルで異質の価値体 系を受け入れようとすれば、そうした問題にも直面することになる。多元的な視点によ る自文化の相対化は、時には西洋的近代化の生み出した成果を否定する危機をも生み出 すが、それを新たな文化的環境として捉え、共存への努力をするところに相互理解の可 能性があると私は考える。◎高齢社会化が進む今日、「いかに死ぬか」ということが「いかに生きるか」という問 題との関連で論じられることが多くなっています。「リビング・ウィル」や「尊厳死」 「安楽死」などの言葉をマスメディアで見かけることも増えてきました。「自宅で最 期を迎えたい」「最後の日々をホスピスで心穏やかに過ごしたい」などの希望は、こ れまでの「病院での死」に「豊かな生」や「個性尊重」の視点が欠けていたことを示 しています。今、老齢の人だけではなく、すべての世代の人が「人間的な死」と「豊 かな生」の関係を考えることが必要なのです。
【「死」と「豊かな生」の関係を考える】
近代以降の社会では、死は生産的でないが故に否定的に捉えられてきた。特に西洋で は近代合理主義の思想として「精神と身体の二元論」が登場し、物質としての身体は自 然科学の研究対象となった。一方、東洋では本来、生と死は輪廻の中で連続するもので あった。しかし、近代国家としての発展を目指して西洋の科学が導入されたために、死 は物質的な側面からしか捉えられなくなった。こうして、現代人全てが死と疎遠になり、 それと共に死と一対になっている生の豊かな意味を深く考えることが少なくなった。
それでは生の豊かさとは何か。「病」を否定し「死」を遠ざける社会の中で、我々は 誰でも一生健康で生きられると思っている。しかし、人間は生と死の対立を同時に持っ て生きている存在である。死がなければ生の大切さもわからない。即ち、豊かな生とは、 自分自身の別の側面、あるいは「他者」を生き方の中に取り込んでゆくことだと言え る。
言い換えれば、我々は自分の悲しみを通して他者の悲しみを知り、他者の側に立つこ とができる。同時に他者の立場から自分を見ることで、自分を自ら区別している「枠」 に気づく。例えば、自分を勤勉で「労働能力」の優秀な人間に分類している人が客観的 に自分を見ると、余暇もなく、家族を犠牲にして働いている不本意な姿を見出すかもし れないのだ。こうした人は病と共に生きている人々、あるいは老いを迎えた人々の生の 在り方に気付かない。つまり、彼は自分の生の可能性にも気付いていないのである。
「健康と病」「生と死」は人間存在の同じように重要な二つの側面であり、それらを 統一して受け入れる「全体」としての在り方が、人間本来の豊かな生き方である。そし て、共感に基づいて他者の立場に立てる社会、同時に他者と自己との多様なあり方を認 め、個性を尊重できる社会を求めることが、そうした生き方を支えるのだと私は考える。◎国会で「脳死」を人の死とする法案が可決されました。「脳死」は医学の進歩によっ て生まれた「新しい死の定義」です。人工呼吸器を外せば確実に心臓が止まってしま う状態の患者さんは、そのままにしておけばいずれ亡くなります。その意味では、脳 死は「無意味な延命治療」に関わるものの、新たに法律で定めて死の定義を変更する 必要のない問題だとも言えます。しかし、「臓器移植」が関わると問題が変わってき ます。臓器移植をする場合は臓器が「新鮮」なほど移植成績がよいため、「脳の機能 が失われ、二度と元に戻らない」状態(脳の機能の不可逆的喪失)と医師が判定すれ ば「死」と公式に認定し、その時点で臓器を摘出しようという問題が生じてくるので す。もちろん、「今のところ臓器移植以外に治療法がない」病気の人が、合法的に移 植を受けられることも必要です。しかし、文化と深い結びつきをもつ「人の死」が、 「移植」を目的に便宜的に定義されるものであってはなりません。これが脳死の問題 のむずかしさなのです。
【「脳死」をどうとらえるか】
現代の科学技術の最大の問題点は、科学技術そのものの内に自己批判の原理がないこ とであると私は考える。具体例として、医学において現実に起こっている問題を考えて」 みよう。
現代では医療技術が進歩し、遺伝子レベルでの治療や臓器移植による延命までが可能 になってきた。これらは確かに科学技術の成果であり、「明」の側面であるといえる。 しかしそれと同時に、これまでの人間観を根底的に変えるような問題も出て来た。例え ば、人間の遺伝子に書き込まれた全ての情報が読めるようになると、ある人がかかるで あろう病気やその人の寿命なども予測可能だと考えられている。こうした場合、それら の「本人が自覚できない遺伝情報」をわざわざ「治療」の対象とすべきかどうかという 問題が生じる。また、臓器移植では、臓器提供者の心臓が動いていても、脳死と判定さ れればその時点で提供者はもはや生きた人間ではない「死体=物体」になったと考えら れるので、合法的に臓器を取り出せる、と移植医は主張する。この新しい死の定義は、 移植医療では便利かもしれないが、文化的に普遍性を持つとは言えない。これらは科学 技術の「暗」の側面である。
これらの問題に共通するのは、物質としての身体を研究対象とする科学者が、研究や 治療の効率を上げるために倫理観を変更しようとする姿である。そこでは科学者にとっ て価値のある行為のみが真理と考えられている。
しかし、科学者の行為の根拠も一般の人々と同様に、自分の利害関係、自分の研究に 対する欲望や信条である。つまり、科学は科学的根拠のみによって動かされているので はなく、科学者と彼らを取り巻く特殊な社会の倫理観によっても動かされているのであ る。ゆえに、この倫理観を批判し得るのは科学的基準ではなく、むしろ普通の人間の感 情に根ざす倫理観であろう。今、科学・科学者に必要なのは、科学的思考も人間性の一 面に過ぎず、感情や宗教の世界をも含めた全体として人間は生きているという自覚であ ると私は考える。◎ダイアナ元妃とマザーテレサが相次いで亡くなり、二人の生涯に関連して、「ボラン ティア」への関心が高まっています。日本でも、阪神大震災や重油流出事故の際には、 従来考えられなかったほど多くの人々がボランティア活動に参加しました。しかし、そ の一方で、「ボランティア活動」が推薦入試の評価項目に組み入れられ、「受験のため のボランティア」などのような本末転倒も見られます。マザーテレサの奉仕活動の根源 には信仰がありましたが、信仰がなければボランティア活動ができないわけではありま せん。では、ボランティア精神とはどこから生まれるのでしょう。(この解答例は【 「死」と「豊かな生」の関係を考える】の応用です。どう変えればいろいろな解答例に 応用できるのか、その参考にもして下さい。)
【ボランティア精神とは】
人はなぜボランティア活動をするのだろうか。それは他人の問題が自分の問題でもあ るという自覚に動かされるからだろう。言い換えれば、それは「自己と他者のつながり」 であるが、今日この「つながり」は広がりにおいても複雑さにおいてもますます規模が 大きくなっている。その原因の一つは、現代の経済やメディアが国境を越えた力をもつ ことであろう。単にモノが取り引きされる国際貿易に留まらず、金融、サービス、情報、 そして人間までが、国境を越えて大量に移動するようになっている。
これら国境を越えた世界の拡大は、外的には自然環境の破壊と異文化間の摩擦を引き 起こす。その一方、内的には、世界の拡大が自己と他者の関係を見直すように働きかける。 近代以降、人間は、他人から切り離され、独立した個人が社会の基礎だと考えてきた。 そこでは、自然も他者も「自分ではない遠い存在」として捉えられてきたのである。し かし、今、環境破壊や異文化との摩擦に直面して、我々は、自分だけがこれらの問題か ら無縁でいることは不可能であることに気づかされている。
ここで得られる自覚は、「大きな問題に対して、我々の力があまりに小さいこと」で ある。この問題とは、具体的には自分や他人の「痛み」「苦しみ」「病」「死」などで ある。「病」を否定し「死」を遠ざける現代社会の中で、我々は他者の不幸をメディア によって浄化されたかたちで受け取り、日常、自分だけは一生健康で生きられると思っ ている。しかし、災害や貧困などを目にして、我々は他者の不幸に対する自分の無力を 感じる。さらに、これをきっかけにして、逆に、我々は人間が生と死の対立を同時に持 って生きている存在であり、死がなければ生の輝きや尊さもわからないことを確認する のだ。言い換えれば、我々はこの「無力感」を通して他者の苦しみ、悲しみを知り、他 者の側に立つことができるのであり、自らを縛っている消費文明の枠組みにも気づくの である。
このように、ボランティアを始める精神と、ボランティアから得られる精神は同じも のである。つまり、ボランティアとは、現代社会に欠けている「豊かな生のあり方」を 行動によって回復しようとすることであり、「他者の生き方」すなわち「自分自身の別 の生き方」を今までの自分の中に取り込んでゆくことだと言える。日本ではボランティ アが「自己犠牲」や「大胆な行動」と結びついて考えられがちだが、まず「自分と他者 が、これまでとは違った関わり方ができることを知る」ことの驚きと喜びが正当に評価 されるべきだと私は考える。◎理系学部の小論文問題では、インターネットについて多少詳しい説明を求められるこ とがあります。推薦入学で情報関係の学部を志望したときも、そうした知識が要求され るでしょう。このページを読んでいる方の大部分は、インターネットについて基本的な 知識をもっておられると思いますが、もし「まとめかたがよくわからない」のでしたら、 次の解説を参考にして下さい。「インターネットを支える技術・インターネットの応用 例・インターネットの問題点」が簡潔にまとめてあります。
【解答例】
まず、双方向大容量の情報伝達を可能にしている技術について述べると、第一に「デ ジタル化」、第二に「データ圧縮」、第三に「光通信技術」を挙げることができる。「 デジタル化」はアナログ情報をデジタル情報に変換する技術で、ノイズの影響を減らし、 多チャンネルで低電力の情報伝達を可能にする。これに加えて暗号化などの「データ圧 縮」の技術によってファイルが圧縮され、動画・静止画・音声・テキストが混在した情 報を高速に送受信することができる。これらを支えるのが光ファイバーなどの「光通信 技術」であり、これまでの無線・有線の通信に比べ、単位時間にはるかに大量の情報を 扱える。
このような技術の基盤の上に、個人がインターネットを気軽に利用できる環境が構築 されるが、その例を一つ挙げると、「ホームページによる情報発信・情報交換」がある。 これは個人が趣味・仕事に関する情報を公開し、同様の関心をもつ人々との交流を意図 して作られるものである。その利点、効果としては、国境を超えて広がるインターネッ トの広域性、印刷メディアに比べて低コストで速報性があること、電子メールを利用す ることによる双方向性が挙げられる。
このように個人がインターネットを利用する場合、「ネチケット」(ネットワーク上 のエチケット)と呼ばれるような倫理的規範が必要である。ネット上では、不特定多数 の、顔が見えない相手とのやりとりが普通なので、他者の名誉を傷つけたり根拠のない うわさを流したりしない、自分の個人情報の管理は自分で責任をもつ、また他人の著作 物を勝手に使用しないことも重要である。ネットワーク社会はまだ発展途上であるが、 個人責任の自覚に基づき、「自分の身を守ると同時に他者の権利を侵害しない」という ルールを守ることが利用者に求められていると私は考える。
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