過去問・解答例
【93・文学】
慶應義塾大学
問一
寛容は自らを守るためであれ不寛容であってはならない。確かに人間の歴史は事実として不寛容に基づく対立を経験してきたが、これもよく見れば寛容への道である。すなわち、秩序維持のための掟や契約は、強者が弱者を一方的に抹殺するような事態を浄化する意志に基づいたものである。人間同士の関係は理性・知性・人間性に基づいたものであって、秩序をみだすものへの制裁にしても、人間の倫理から外れるものであってはならない。そもそも秩序への反逆には秩序を改善し進展させる意志があり、秩序の恩恵を受け、秩序を守ろうとする者はそれを自己批判の契機としなければならない。従って、不寛容の暴走を止めるのは、やはり寛容の力である。問二
私は筆者の主張を今日でも妥当なものと考える。例えば、国連が武力を用いて紛争を解決に導こうとする時、そこには西欧的な自由や民主主義が正義であり、独裁や侵略は正義に反するという基本的認識がある。しかし、現在の国際紛争はかつての西欧列強による植民地支配が原因となっているものが多い。すなわち、以前は植民地に対して不寛容だった大国が、今は寛容を守る必要があるという理由で武力を行使するのである。
こうした状況の中で平和を求めるためには、自己を相対化する視点が必要である。具体的には、自国の歴史に対する他の国からの批判を受け入れ、真摯な自己批判と補償がなされるべきである。さらに、国民すべてが事実を知り、自分自身で判断を下せる自由が必要だ。こうした寛容の立場からの試みにより、自己の立場を正義として絶対化し、過去の不寛容を忘れる危険を減らすことができると私は考えるのである。【94・文学】
問I
機械仕掛けのカブトムシに対するダークスンの態度は、心をもたない「機械」を「殺す」と言うことに対する抵抗感・違和感から、「機械」のはずのカブトムシに対する「同情」へと変化していると言える。それは、ダークスン自身は「機械は心を持たない」と考えているにもかかわらず、機械が「心を持つもの」とよく似た行動をしたために、「機械も心を持つように感じた」からである。心が主観的なものだとすると直接観察はできないが、心が「働き」として捉えられるものだとすれば、行動の観察によってある対象が心を持つかどうかを推論することができると言える。ダークスンの態度の変化から考えると、それは「錯覚」で片づけられるものではない。問II
著者は、「心」について考えるためには、「心の機能」に着目すべきだと主張している。さらに正確に言えば、著者のいう「機能」は観察可能な動きに結果として結びつく「機能」であると言える。そもそも「心とは何か」が難しい問題であるのは、だれも「自分の心以外の心を知ることはできない」からである。たとえ自分の心であっても、観察しようと注意を向ければ、すぐに変化して「ありのまま」を見ることができないのが「心」なのである。従って、心の働きを外側に現れた機能から探ってゆく著者の立場は、心を捉えやすい対象にするという点では有効である。しかし、観測できないような心の働き、例えば意識のない患者の脳の機能を知ろうとするような場合、この方法は困難に直面する。「意識のない人間は心を持つと言えないのか」「心を持たなければ人間とは言えないのか」という問題がそこに生じるからだ。著者の立場にはこうした限界もあると私は考える。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【93・環境情報】
「設計者が配慮すべきことがら」の中で最も重要なものは「支援システムの構築者としての設計者の自己認識」であると私は考える。この場合の「支援システム」とは、設計者と顧客とが相互に援助者となってこれを構成し、その中で生活する人々が自分らしく生きられるように支援を行なう社会システムである。
そもそも近代合理主義に基づいて発達した現代の技術分野では、人間主体が客体である対象世界を一方的に捉え、利用するという主観主義的な構図が当然のこととして受け入れられている。文章2と3にある「伝統的」な設計者と顧客の関係も、設計者が主体となって顧客に「与える」関係であると言えよう。その場合、設計者の行為の根拠も一般の人々と同様に自分の欲望や信条である。つまり、設計者は社会全体を視野に入れた動機によって動かされているのではなく、設計者と彼らを取り巻く特殊な社会の倫理観によって動かされているのである。そこから、大規模な開発計画による環境破壊やユーザー無視の設計が生まれてしまうのである。
こうした問題に直面して、現代の設計者は「自己と環境との多様な関係の可能性」に気付いて戸惑っていると言えるだろう。文章1にある「意地悪な問題」すなわち「設計に関する規範の相対化」「設計システムの不完全性の認識」「全体像構築−総合の困難」はこの戸惑いの現われである。
それゆえに、現代の設計者に必要となるのは、「全体性・総合性」により大きな価値を置く姿勢であると言えるだろう。文章2にある「技術の個人に対する適合性」、文章3の「相互にコントロールし合う専門家と顧客(社会)」の発想はこうした文脈で理解できる。こうした発想に基づく「支援システム」では「他者との共感と共生」「自分の生きる場所での実践」が重視される。従って、自然破壊よりも人間の生活をコントロールして自然との調和を保つことが選ばれ、「利益」よりも強い立場の人間が弱い立場の人間から学びながら共に生きることが選ばれ、「全体」としての人間を捉えるために物質的な側面と精神的な側面が共に尊重される。こうした側面に配慮することで、設計者もまた新たな自己と新たな職業的使命を発見できるのだと私は考える。【93・総合政策】
近代西欧の「科学の知」の問題点を一つにまとめれば、それは「全体論的な視点の喪失」と言える。原子論に基づく要素還元主義の限界がそこに現われているのである。
デカルト以来の要素還元主義・分析主義に依拠する科学は、実在の究極の単位を求めることで世界の諸現象を説明できると考えた。そこでは主体である人間が客体である自然から独立していると考えられ、人間は自然を対象として知り、その知識に従って自然を制御できると信じられたのである。これが科学理論では文章Cの「一意的法則による、時間・空間内での事象の記述」として現われ、社会関係では文章Bの「環境と人間」の断絶、文章Aの「自己と他者」の断絶として現われているのである。さらに人間性を「精神」に還元する立場から、文章Bの「身体に対する精神の優位」も導かれた。
確かに「科学の知」は技術と結びついて人間の活動を拡大した。しかし、現代ではその「有用性」を動揺させる事態が次々に起こっている。それは自然環境の破壊や巨大システム技術の不安定などマクロな側面から、臓器移植における免疫機構の抑制の困難などミクロな側面にまで及んでいる。これらは、認識する主体である人間によって自然界の秩序が一方的に与えられるとする考え方の限界でもある。それゆえ、ここに主体・客体の構図を超える「全体論」が必要になる。この場合の「全体」は「全体の統一と部分の独立を保つシステム」としての「有機体」と考えればよい。
かくして、「未来の知」は有機体論としての全体論に基づいたものとなるべきであることが明らかになる。それでは、文章Aの筆者が提案する「コスモロジー」「シンボリズム」「パフォーマンス」はいかにして実現されるのか。それは「形而上学の復権」によって可能である。「科学の知」以前には、道徳においても政治においても、宗教に由来する哲学的基礎づけが必ず必要とされた。この哲学的基礎づけは社会生活の中で人々が抱く様々な感情に意味を与えて、逆に人々が感情に流されないように知性と感情のバランスをとる働きをしていたと考えられる。「科学の知」は、論理偏重によってこのバランスをも崩したのである。従って、現代の学問的課題は、神秘主義なき新たな形而上学を、有機的な知の総合者として、また世界の豊かな意味づけの基盤として導入することだと私は考える。【94・環境情報】
(1)5
(2)
(3)
私は、1から6までの資料がそれぞれ「対立関係」を示していると考える。それぞれの対立項目とは、資料1「物質的・精神的」資料2「外面的・内面的」資料3「未来志向・過去志向」資料4「知識・経験」資料5「タテマエ・ホンネ」資料6「刺激追求型・のんびり型」である。
これらの共通点をさらにまとめると、大きく分けて「公的・私的」「物質的・精神的」というニ軸の関係から、それぞれを位置づけることができるだろう。図には、資料に示されている「生き方」の位置を記してある。「豊かさ」をこれらの関係から分類すると、「公的な豊かさ」と「私的な豊かさ」、「物質的な豊かさ」と「精神的な豊かさ」が対立する立場として考えられる。
私が望む「豊かな生き方」とは、公的な豊かさを多くの人が共有し、精神的な豊かさによって物質的な豊かさの「質」を変えていくような生き方である。それは、社会関係の側面から見れば「社会や他の人々のためにつくす」生き方と言い換えることができる。もっとも、私は、昭和一桁世代の「企業戦士としての滅私奉公」や、団塊の世代が中心となった六〇年代学生運動の「個人より組織」といった「つくし方」をしようとは思わない。私が求めるのは、ボランティア活動などを通じ、自分の生活する場を拡げて、社会とのつながりを強める生き方である。
現代社会に生きる多くの人間は、社会と希薄な関係しか持っていない。バブル経済時代の象徴とも言える「豊田商事事件」や「オタク族」は、どちらも私的な利益に閉じこもる点でその実例である。そもそも「社会的つながりの喪失」は、集団の中で、上から管理される生き方から起こってくる問題である。それゆえ、私はまず地域のコミュニティー活動に主体的に参加し、特に社会的に弱い立場の人々と共に生きる経験を積みたい。その面では、「豊かな生き方」とは、「他者」の生き方を自分の生き方の中に取り込んでゆくことだと言える。それは「自分が老人になったらこう生きたい」というように、生き方の新たな可能性に気づくことでもある。端的に言えば「他者のためにお金も出すが労力も出す」「自分の考え方を貫く」「人と人とのつながりの中で学ぶ」という生き方を私は望む。【94・総合政策】
資料には「貨幣と情報のグローバル化」「国家の理念の相対化」「インダストリアリズム・リベラリズムと国民国家形成の密接な関係」という三つの側面から見た国家像の変化が書かれている。
近代から現代にかけての「国家」という言葉の意味づけは、「統合」から「多様化」へと変化したと言える。「統合」の面では、民族運動から国民国家の形成へという動きの延長線上に、国際連合も位置づけることができる。しかし、「多様化」の側面では、ソ連が崩壊し、米国の世界政治への発言力が弱まる一方で、地域的な自治運動の高揚が世界を「分裂」に向かわせているのである。だが、新たに自治を目指す国や地域の多くが先進国に援助を要請しているように、自治と同時に世界的な協力が求められるパラドックスが、現代の国家像を複雑にしているのである。
このパラドックスは、経済に原因がある。資料1にあるように、今日では、単にモノが取り引きされる国際貿易に留まらず、金融、サービス、情報、そして労働力としての人間まで、国境を越えて大量に移動するようになっているのである。かつて国家権力の支配下にあった各国経済は世界経済の一部に組み込まれ、市場経済と同時にそれを支える民主主義のシステムが国境を越えて流れ込む。資料3が示すように、これが民主化と自治運動の高揚をもたらしたと言える。これら政治の局限化と経済のグローバル化は、国家の主権では制御できない、自然環境の国境を越えた破壊と異文化間の摩擦を引き起こす。例えば、熱帯雨林の減少もPKOなどの「武装した慈善行為」も、前者は先進国の、後者は途上国の主権の否定と考えられる。
そこで、私はこれからの国家像として「環境としての国家」を考えたい。「環境」が対象世界と人間との間に成立する交換過程を統合した「全体」であるように、国家も「有機的」な、すなわち「部分が独立しながら、同時に全体の統一を失わない」存在であるべきだ。その意味で、人間と「国家という環境」の交換過程を破壊する行為、例えば武力支配や環境破壊などの自己否定的行為をいかに中止し、「部分の独立」としての多様な生き方をいかに保障するかが新しい国家にとっての主要な問題であると私は考える。【95・環境情報】
問1 X1−吉 X2−国 X3−串 X4−事
問2
問3
(1)「人間と環境とのコミュニケーション」にもとづいた新しい学問のあり方。
(2)
私は二つの文章をもとに、「人間と環境とのコミュニケーション」の重要性を、三つの段階に分けて論じたい。
文章Aで述べられているのは、人間主体が客体的世界である環境と情報を媒介にして関わる「コミュニケーション」の基礎的な過程である。遠い昔から人間は周囲の環境を自分なりに理解し、利用してきた。その際、「理解」の基礎となるのは、環境から与えられる多様な情報の中に関係・構造・規則を見出し、複雑性を減少させる心の働きである。そして、私が人間と環境の間にコミュニケーションという双方向的な過程を考えるのは、第一の段階では、この心の働きが感覚知覚レベルの「受動的な働き」と、高次認知レベルの「能動的な働き」から成立しているからである。
そもそも、人間が対象を見、判断する時、そこには主観が働く。文章Aのメンタルモデルも主観の働きであるが、主観はただ偶然的に働くのではない。環境にうまく適応するために、主観はその場にふさわしいメンタルモデルを構築するのである。しかし、一度は安定したモデルも危機に直面することがある。例えば、未知の現象に出会った時や他者と出会った時、「環境からの働きかけ」によって主観は変更を余儀なくされる。どのように「ものの見方」を変更すれば環境に適応できるかと人間は考え、新しいモデルに従って環境に働きかける。そこに、第二の段階での環境とのコミュニケーションが生まれるのである。これが文章Bで言われている「理想化による問題の解消」に他ならない。
さらに、このコミュニケーション過程は「学問の基礎」でもある。学問の本来の目的は、人間が自然や他者も含めた「環境」に適応しながら自己の位置を確かめ、主体的に生きることにある。それゆえ、環境が変われば、いかなる理論もそれを生み出した人々の「考え方の枠組」自体がもつ歴史的・文化的限定によって否定的な「制約」となる可能性がある。大量の情報を受け取るだけでは学問にならず、創造的に生きることにもならないのはこのためである。従って、学問の基礎に、これまでの学問のもつ「知的枠組み」を相対化する原理が必要になる。それが、一つの分野に閉じこもらない学際的研究やデータベース構築など、第三の段階としての「開かれたコミュニケーション」なのだと私は考える。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【95・総合政策】
課題文ABに共通の論点は「理論の普遍性」批判であると考えられる。この場合の「普遍性」とは、理論的に見出された「法則」が観測者である人間から独立して、時代を超え、地域的な文化の差異を超えて妥当することだと言えるだろう。
デカルト以来の要素還元主義・分析主義に依拠する科学は、実在の究極の単位を求めることで世界の諸現象を説明できると考えた。そこでは主体である人間が客体である自然から独立していると考えられ、人間は自然を対象として知り、その知識に従って自然を制御できると信じられたのである。しかし、文章Aにあるように、自然の中には本質的に「不確定性」「無秩序」が組み込まれていることがわかるにつれ、絶対的で普遍的な理論を求めるという「知」のあり方は見直されるようになった。
一方、主体の側から同じ問題を見れば、文章Bにあるとおり、「意味づけの多様性」を認めることによって、コミュニケーションの普遍的な成立が疑われている状況が明らかになる。もし他者との合意が必要ならば、その基礎は自らのアイデンティティを失わずに「意味づけの共有」がなされることであるが、言語の「意味」自体が不確定性をはらんでいる以上、意味づけが相手と共通のものであるかどうかを検証することはできない。この点でも、「過去との対話」「他者との対話」が可能であるとする近代の理論は、普遍性の根拠を失っていると言える。
しかし、もちろん、理論の妥当性やコミュニケーションに基づく合意が不必要だというわけではない。むしろ、多様性が強調される現代だからこそ、これらは知的活動に不可欠な基盤であると言えよう。それゆえ、我々は自分の生きている「場」を大切にしながら、同時に他者との合意を可能とするものの見方や生き方を確立していかなければならない。それは、「理論の普遍性」を主体から切り離すこととは逆に、理論を我々の「実感」や環境世界との「調和」と結びつける知的努力によって可能になる。
ここに還元主義や主体・客体の構図を超える「全体論」「システム論」の発想が必要になるのである。この場合の「全体」は「全体の統一と部分の独立を保つシステム」としての「有機体」である。これら人間とその対象が互いに影響を与え合って行くような関係に立つ学問を目指す心構えが、近代以降の文明の質を変えていくと私は考える。【96・環境情報】
問1
問2
私は高度情報社会における日本の課題として「個の尊重と公共性の両立」「独創の支援」「情報の発信」の三点を重要と考える。これらは「会社中心社会」「猿真似が得意」「意見を明確に表現しない」という外国からの日本批判に対応した課題である。
第一に、資料1で述べられているように、伝統的に日本では役所や会社の力が強く、個人が尊重されない。そのために、個性的なアイデアに依拠する独創は生まれにくい。同時に「公共性とは上からの命令に従うことだ」という意識が強く、「公共のためにアイデアを生かす」という発想が乏しい。第二に、日本人は留学して技術を学ぶが留学生は受け入れず、しかも基礎研究への投資はわずかである。その結果、世界的に引用される論文の本数は少なく、工業先進国でありながらノーベル賞受賞者も少ない。そこから「他国のアイデアを盗用して特許権を侵害した」という告発を受けたり「日本ただ乗り論」が出てくるのである。そしてこの問題がコミュニケーションに反映すると、第三の「日本人は情報を受け取るばかりで発信しない」という問題になるのである。
これらの問題をまとめれば、図のように、日本では「私」に属する領域が軽視され、それらが「公」の領域に従属していると言えるだろう。しかし、本来「私」と「公」は、「多様性をもった自由な個」が連帯して「公共性」を支えるという連続性をもつものである。言い換えれば、個性をもつ私たちの間に差異があるからこそ、私たちは共通の利害を見出して個が共存する道を探らねばならないのだ。ゆえに、資料3にある「差異性」は、資本主義の原理であるだけでなく、現代社会の「私」と「公共性」を共に支える原理でもある。例えば、資料1、2の特許権・知的所有権が侵されれば、コピーが氾濫して情報商品が成立しなくなり、その結果情報が秘匿されて公共財としての知識が危うくなるだろう。
従って、これらの課題を解決するためには、第一に、伝統的「集中システム」から多様性をもつ個人が尊重される「分散と統合を協調させた社会システム」への変革、第二に新しい知識体系の基礎となる分野への支援、第三に誰もがアクセスできるコミュニケーション支援システムの構築がなされるべきである。これらの上に「公」と「私」の対立を中和する「贈与交換」の原理が働き、日本の世界に対する貢献も増大すると私は考える。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【96・総合政策】
問題1
四つのテキストに共通する視点は「消費社会における商品のシンボル化」および「環境の意味づけと生活様式の密接な関係」である。
Aでは、商品の日常生活における意味が、商品自体の象徴的価値を構成することが述べられている。その過程を担うのが広告である。Bでは、消費が広告などのマス・イメージを介して私たちの生活様式になっていること、特にアメリカでは、賃金労働者の生活を支配していることが指摘されている。Cでは、商品のもつ意味が社会全体の意味づけシステムの中に組み込まれ、私たちは個別のモノではなく「モノの体系=超モノ」と関わることが述べられている。そこでは、人間行動の原理である欲求は、「目標(END)を目指すこと」であると同時に「効用の終わり(END)=消費」であり、消費は社会の価値体系、つまり文化と結びつき、消費スタイルが生活のスタイルとなる。Dでは、製品の差異が価値を生み出す消費社会において、平準化した商品の差異を補うものが広告であることが述べられている。しかし、その広告も平準化と差異化の悪循環に陥っているのである。
これらから読み取れることは、消費社会に生きる人間がモノ=シンボルを中心とした生活をしていることであり、生きる目的がモノを媒介にしなければ見つからないということである。例えば、「幸福な家庭を築く」という目的を考えよう。物質的に満ち足りた社会では「幸福」は広告によって暗示される抽象的なものであり、それが具体的に何かということは自分でもわからない。それを実現する手段は「他人と差がつく、幸福を象徴するモノを手に入れること」である。しかし、絶えず供給される新製品のためにこの欲望は満たされることがなく、「幸福の追求」は欠乏感に悩まされながら新しいモノを追い続ける行動にすり代わってしまうであろう。これが消費社会の人間疎外であると私は考える。問題2
Eは、「日常性からの脱出」という抽象的な目的を、ウイスキーというモノを媒介にして表現している広告である。「ランボーの旅の世界」と「酔い」の境界が、イメージの羅列によって曖昧にされている。それゆえ、異世界に旅立つためになぜ特定の酒が必要なのか、人はそれを考えない。ホワイト、オールドからローヤル、山崎へ。皮肉な見方をすれば、コピーの「渇き」とは、終わりが次の始まりである消費を支える欠乏感である。【97・法】
課題文では特に電子メディアによって伝わる情報の間接性を「疑似現実」と呼んでいる。では、「現実」あるいは「現実感」とは何であろうか。私は「現実感」とは、人間と環境との関わり方から生まれる感覚であると考える。例えば、環境が我々にとって対立するものであり、その中で生き延びようとする時「抵抗感」があれば、それは「生きる実感」であり、「現実感」を生み出すものである。しかし、環境が我々の思い通りに変わり、何をするのも自由で抵抗感がない時、「生きる実感」つまり現実感は稀薄になる。
なぜ電子メディアが発達した高度情報化社会では、現実感が希薄になるのか。それはまず、現実認識が「視覚」に極小化されていることに原因がある。「フレームによる画面の切り取り」「鮮明な画像」「遠近感のなさ」などによって、本来、全体的な感覚である「生きる実感」が、視覚中心の感覚に変質しているのである。例えば、カメラによって切り取られた現実の中では「生」も「死」も単なる画像情報になる。すると、生と死のコントラストによって生まれる「生の充実」「死の厳粛さ」の感覚も失われる。
さらに、電子メディアでは、環境との多様な関係から生まれる、「多様な感覚が統一された全体としての現実性」が均質化されるという問題がある。テレビゲームやインターネットでは、自然と自分との関係も、他人と自分との関係も、すべてデジタル化され、ファイルされた情報のディスプレー出力としてしか経験され得ない。それが日常化した社会では、全てが「他人事」になると同時に、私事の中に「他人事」が侵入してくる。例えば、他人のゴシップに対する過剰な関心と、重大な政治問題に対する無関心とは、同じ問題の二つの現われなのである。
この状況の中で現実的な経験の「全体性」を回復するには、自らが「主体的発信者」になることが必要だ。そのためには情報を集め、選択し、理解するための読書など、「ストックされる知識」を増やすための努力が必要である。また、具体的な活動も重要だ。例えば、地域の市民運動・ボランティア活動への参加でも自分で計画した旅でもよい。自分自身の小さな体験から出発することが、情報の「疑似現実化」「均質化」に抵抗する第一歩であり、基礎であると私は考える。【97・環境情報】
私は、「技術による情報の伝達・記録」と「知識による問題解決」のバランスが21世紀の社会に必要だと考える。
まず、「技術による情報の伝達・記録」の側面で期待されるのがインターネットのようなネットワーク・システムを含めたマルチメディアである。まず、これによって視覚・聴覚・思考に同時に訴えるコミュニケーションが可能になる。さらに、双方向性、速報性、記録性をもった「多対多」のコミュニケーション・システムは、多くの人が求める情報と、多様な個人が求め、発信したい情報の共存、すなわち資料2の「通有」を可能にする。これらの点で、マルチメディアのネットワークは、今までのどのメディアよりも個人が自由に発信し、また自由にアクセスできる、有機的に人と人との結びつきを強めるメディアだと言ってもよいであろう。これが、資料1の「個を尊重した新しい社会」の根拠である。
しかし「知識による問題解決」がなければ、ネットワークで集めた情報も生かされない。この場合の「問題解決」とは、「ある問題を自分の問題として捉えること」と「解決のプロセスを構想し、その実践の結果を検証すること」である。前者が欠ければ、ネットワーク利用者は自分の情報ニーズを特定できず、情報は単なる大量生産の商品となり、同じ情報が出回るだけになる。また後者が欠ければ、ネットワークに流れる情報の収集・選択・理解と発信のための主体的な努力が忘れられ、思考を必要としない、受け入れやすい情報を大量に流した者が他のネットワーク・ユーザーを支配する情報ファシズムが出現する。つまり、資料3で批判されている現代の「情報最大・叡智最小」の社会とは、知識による問題解決が欠如している社会なのである。
さらに、「問題解決」の対象は具体的・社会的な問題だけに限定されるわけではない。資料4に「知識の二重性」として示されているように、主観的・精神的な分野の問題も、知識による問題解決の対象である。書物を読むこと、他者と知識・文化を共有することの重要性はここから出てくる。従って、そうして得られる知識に基づく個人の主体的受信・発信能力を、ネットワーク社会の情報流通が支援するシステムが、「知識」と「情報」のバランスをとる上で不可欠であると私は考える。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【97・総合政策】
「国家の役割」を考えることは、国家を「利害の調整組織」として考えることであり、六つの資料もこの側面から読み取ることができる。これらの資料は二組の対立項目によって分析できる。それは、第一に「欲望を規制する装置として機能し、権力への服従を促す国家」と「主体的意思決定を支援し、自己実現の自由を保障する国家」の対立であり、第二に「生活の量的充足を支える国家」と「生活の質的充足を支える国家」の対立である。
資料1、2は、それぞれ「規則による統治の公平と厳正さ」「生活の量的充足の必要性」を主張し、第一の対立項目では「権力への服従」、第二の対立項目では「生活の量的側面の充実」に対応する。しかし、古代においても生活の質的充実を重視する考え方はあり、資料3は「欲望の外的な規制」という点では資料1、2と共通点をもちながら、「生活の質的充足」を理想とする思想を表している。
資料4、5、6には、古代の思想には見られない「自律的な人間」という、近代の人間観に基づいた主張が述べられている。近代化によって「ナショナル・ミニマム」が充実し、国民生活は量的に豊かになる。しかし、それでもなお「福祉の質的側面の充実」という課題は残る。それは、現代社会では福祉の量的充足のための国家システムがかえって「外的規制」として働き、逆説的に古代のような「権力への服従・依存」を生み出しているからである。日本の高級官僚の汚職や先進国共通の「労働意欲の喪失」がその例であり、過剰な福祉を「隷属への道」と批判する資料5の主張はこうした根拠に基づいているのである。
それゆえ、現代の国家の役割とは、前述した二つの対立項目における「主体的意思決定の支援・自己実現の自由の保障」と「生活の質的充足の支援」にあると言える。本来、利害関係から見た国家の本質とは、「自律的な人間が自由に生きるため、他者との争いを調停するために作る共同の装置」である。資料4、5の「市民参加」「政府・市場・NPO・インフォーマル部門の協働による社会運営」は、こうした国家の機能を活性化させるために不可欠であるが、国内問題だけでなく、環境問題など、グローバルであると同時にローカルな問題に取り組むために、現代の国家は知識・意思決定・行動の面でも市民を支援するシステムでなければならないと私は考える。【98・環境情報】
四つの資料は、様々な側面で、表現における言語と視覚メディアの関係を述べたものである。文字を知らない時代、人間の経験できる世界は生き生きした具体的なものであったはずである。しかし、感覚の世界に対し、次第にシンボルの世界が優位に立つようになった。それは、人間が周囲の自然を解釈し利用する過程で、その経験が文字というシンボル表現によって法則化され、そこから宗教や文学が生まれたからである。
だが、言葉を使って表現することは同時に、資料2にある通り、言葉を支える論理の制約、また、人々の考え方の枠組自体がもつ歴史的・文化的な制約を免れることができないということでもある。その点で、絵画は資料3で詩人が述べるように、歴史と文化を超えた「永遠」の表現、またそこから無限の豊かな解釈を導く表現となる可能性をもつ。
その反面、視覚メディアによって表現が拘束されることもある。視覚メディアは特定の感情に訴える大きな力をもつが、主体的な思考はそこから排除される。資料4でへリングが作品の主題に挙げている「権力と力関係」とは、印刷物やテレビジョンなどの大量複製メディアを用いて一方的に大衆の感情を操作する、現代の「マスメディアという権力」を示唆しているのである。もちろん、コンピュータの発達によって生まれたインターネットやマルチメディアを使って表現しようとすれば、マスメディアと違って双方向的な表現は可能になるが、擬似現実の直接性によって再び同じ問題が生じるであろう。メディアが新しくなっても、使い方が変わらなければ、「表現」も新しくはならないのである。
そうした非言語メディアの力を「主体的な表現」として使うための試みが、へリングと資料1のクレーの作品に現れている。へリングは「落書き」という手法で、コピーに描き加えられ、コピーを相対化するオリジナルの表現、単純であるがゆえに見る人個人の豊かな解釈を許す表現を実践した。クレーは、意味から形態が、また形態から意味がどのように発生するかを、原初的なレベルから精密に問い直した。どちらの試みも、かつて言語から生まれた人間精神の豊かさを、より多様なメディア・表現方法で再構成しようとするものである。以上のように、どのようにメディアが発達しようと、送り手と受け手の主体性がそこで豊かに出会う表現が最も重要だと私は考える。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【99・環境情報】
解答(1)
私は「南北格差の生み出す紛争」について述べる。ただし、ここでの「南北格差」とは、20世紀的問題である「近代化の遅れ」より大きな枠組みをもつ。発展途上国はこれまで貧困や政治的不安定に苦しんできたが、そこには西欧的近代化という追いつくための目標があった。しかし、21世紀に問題となるのは「もう西欧には追いつけない」という不安である。特に、この四半世紀に成し遂げられた高度情報化は、教育やネットワークの物質的基盤の上に成り立っている。最低限の社会資本さえ整備されていない社会は、情報化に支えられた経済競争に参加することさえできない。それゆえ、一方で「教育・産業化の遅れ→人口爆発→飢餓・エネルギー危機・環境破壊」という悪循環は消えず、もう一方では「途上国にはかつての先進国と同様、環境を破壊する権利がある」「食糧・エネルギー・情報を独占する先進国はもはや目標ではない」という途上国側からの拒絶が生じるだろう。これが21世紀の新たな紛争である。
解答(2)
これまで「成長の限界」が議論される時、中心的な問題は「自然環境」であった。しかし、「環境」とは、単に自然環境にとどまらず、「社会環境」「文化環境」にまで広がっているものである。モノや科学技術中心の「途上国支援」は、こうした環境の多義性を軽視する欠点をもつ。その結果、富と情報の不均衡が「北の先進国による南の途上国支配」を生んでいる現状の裏返しとして、途上国は全面的に援助国の支援システムに依存せざるを得なくなる。21世紀には、それとは逆の「相互の自立に基づく南北の合意と協調」が必要になる。その基礎は「環境の多様なあり方に関する総合的理解」「途上国に対する教育・情報の側面での支援」「国家間の支配と従属を越えた民間交流(民際化)」「近代化原理の見直し」である。これらを実践することで、途上国は「先進国の模倣」からの、先進国は「限りない消費追求」からの脱却を実現できると私は考える。
解答(3)
*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【2000・環境情報】
20世紀の科学技術の特徴を課題文から読み取れば、「移動の技術の進歩」と言えるだろう。一つは「人・モノ」の移動であり、もう一つは「情報」の移動である。
アーミッシュの人々は自動車などの移動手段を認めない。そのため、生活範囲は狭くなり、生活必需品も自分で作らなければならない。また、彼らはテレビ、電話、コンピュータを遠ざけて生きている。それによって情報は少なくなり、コミュニケーションできる範囲も限られてくる。それに対して、私たちの生活は便利である。移動の「速さ・距離・量」が比べものにならないほど大きい。人やモノを大量に、早く、遠くまで運ぶことで、欲しいものがいつでも、どこでも手に入る。生活圏は世界中に広がり、海外旅行やビジネスが容易になった。また、マスメディアの発達で大量の情報を利用でき、電話やインターネットは情報の自由な交換を可能にした。これらが科学技術のプラス面である。
しかし、大量の情報はモノに対する所有の欲望と消費を限りなく増大させる。また、流通する知識が増えると、情報収集が自己目的化して、何のために情報を集めているのかわからなくなる。さらに、コンピュータは労働の質を変えた。機械に合わせて働くので「技術」が人間を支配し、単調な作業は労働の意味を失わせる。また、人間の移動が日常的になると、地域社会や家族はバラバラになり、個人は孤立する。アーミッシュの人々の家庭と地域社会を大切にする質素な生き方、伝統的なゆとりをもった働き方は、現代のわれわれの生活と全く逆である。これらは科学技術のマイナス面である。
21世紀の科学技術の発展と暮らしの関係は、これらのマイナス面を解決する方向に進むことが望ましい。最も需要なのは自律的に欲望をコントロールすることである。21世紀には、より多くの情報がネットワークを通じて流れる。我々がそれを主体的に選択しなければ、ますます情報に流され、無駄な消費に追われ、環境を破壊することになる。同時に、21世紀の技術は、新たな社会関係の創造につながる可能性も持つ。それはネットワーク社会の可能性である。地域や国境を超えて個人が連帯する社会が、これまでの国家システムから生まれる問題を解決し、かつて地域社会が持っていた連帯意識を回復させる可能性を持つ。これらの問題と取り組むことが21世紀のテーマであると私は考える。【2000・総合政策】
課題文で扱われている現代の技術革新で、最も重要なものは情報技術の革新である。資料1にあるように、技術革新は社会システム全体を変化させるが、情報技術の革新は社会全体を「ボーダーレス」に変化させたと言える。
経済における影響で最大のものは資料2の電子商取引であろう。ネットワークによる取り引きで企業規模の大小に関わりなく市場に参入でき、しかも国境を超えた取り引きが容易になった。これは「規模のボーダーレス」と「地理的ボーダーレス」の実現である。その結果、市場は文字通りグローバル化し、企業、個人を問わず、世界経済を視野に入れた経済活動が一般化した。
しかし、ボーダーレスな経済は個人や中小企業に広範な経済活動の機会を与えた反面、資料3の「多国籍企業・超国家企業」の権力を強大にした。例えば、マイクロソフトのような企業はネットワーク・システムを支えるディジタル技術を支配することで、商品取引・行政・教育など、あらゆる社会システムに影響を与えることができる。その結果、国家のリーダーシップが揺らいでいるのである。これは、国家のような中央集権的システムに比べて、ネットワークの分散システムが、現代社会ではより効率的に機能するということである。
しかし、それは国家が不要だということではない。むしろ、個人・企業が自由に活動するためには、国家の支援が必要である。資料3で扱われている国際的な競争ルールの問題はその代表である。グローバルな経済活動を可能にするのは自由化だが、国際的なルールがなければ、国際競争が各国の国内規制の差で不平等になったり、逆にルールが明確でない競争が資料4のような保護貿易主義への傾斜を強めることにもなる。こうしたルールは協調システムの必要性を意味するが、これからの国家は協調システムとしての役割を担うべきである。それと同時に、資料5にある「主権を持つ個人」の役割が重くなると言えよう。国家が協調のためのシステムになれば、そこでは個人の自律的な自己責任がより求められるからである。つまり、国家が個人に代わって決定を下すシステムから、個人が国家という支援システムを利用して決定を下すシステムへの変化が必要だと私は考える。【2001・法学部】
著者の指摘する「リアル」とは人間と環境との関わり方から生まれる感覚である。例えば、環境が我々にとって対立するものであり、その中で生き延びようとする時に抵抗感があれば、それは「生きる実感」であり、「リアル」を生み出すものである。
しかし、環境の側からの抵抗感が大きすぎて環境への働きかけが何の変化も生み出さない時、我々は「リアル」を感じることはない。例えば、第二次大戦後の東西のイデオロギー的対立は、そうした過大な抵抗感であった。冷戦が終わり、ソ連が崩壊することを予測できた者はいなかった。課題文にある「ベルリンの壁の崩壊」がすがすがしかったのは、「リアルな現実」がその沈滞を打ち破り、生きる実感が回復されたからである。
逆に、環境が思い通りに変わり、何をするのも自由で抵抗感がない時も、「リアルな感覚」は稀薄になる。例えば、ヴァーチャル・リアリティは「恋人探し」のビデオゲームのように、本来、全体的な感覚である生きる実感を視覚中心の感覚に変質させ、特定の欲望を肉体から分離して局部化する。全てを可能にする全能感はリアルの代用にはならない。その点では科学も夢も、未知の可能性への挑戦を忘れたイデオロギーや宗教も同様である。
それらに対し、リアルの最後の拠り所として著者は「死」を挙げている。確かに、我々は「生まれたもの」であると同時に「死すべきもの」であり、生と死の両者をもつ全体として「今、ここに」生きているという実感が「リアル」である。それに加えて、他人との関係では「自己が存在するだけでなく、他者もまた別の自己として存在する」という「他者に対する共感」が「リアル」であろう。しかし、医療技術の高度化によって死が実感から遠くなり、インターネットでは、他人と自分との関係がすべてデジタル化され、ファイルされた情報の出力としてしか経験され得ない。ここでもリアルは稀薄になっている。
「自分の生命のリアルとの触れ合い」は、おそらくイデオロギーでも宗教でもない、例えば地域の市民運動・ボランティア活動などの多様な経験を通じて、自分と異質な年代の人々、自分と異質な文化をもつ人々と交流して初めて回復されるものであろう。しかし「現実変革の可能性」のないリアルは、簡単に現実追認に堕落する。その意味で、多様な経験と同時に、新たな思想を生み出す努力がリアルの回復に必要だと私は考える。【問題分析】
・難易度…標準
・出題の傾向…テーマ的には頻出問題の一つ。同学部の97年度出題の類題である。小論文対策をしてきた受験生なら、だれにでも解答できる。SFC小論文ゼミの冬期1期第5回が類題。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【環境情報・2001】
(1)
21世紀のビジネス企画として、私は「モバイル・タウン」サービスを提案したい。それは携帯電話をメディアツールとして、街を歩く人々に周辺地域の情報を提供するものである。具体的には、GPSあるいはPHSの位置情報サービスと携帯電話を組み合わせ、街を歩くと現在位置の周囲の店の情報、地図情報、交通情報などが端末に表示される。レストランならメニュー、病院なら診療科や診察時間、商店ならバーゲン情報、その他地図や時刻表などを資料1にある全ての形のコンテンツで流せる。もちろん資料2、4にあるように、携帯電話・家電製品の機能進化に伴って、家庭内でもそれらの情報を自由に利用することができる。
このサービスは21世紀の社会を変える力を持っている。現代社会では個人が孤立し、一方で社会が合理化され、管理が徹底してコミュニティの活性が失われている。誰もが都市の中では「よそ者」になってしまうのだ。しかし、モバイル・タウンのサービスによって街に「よそ者」はいなくなる。街を歩く全ての人がその街の「情報通」であり、古くからの住人のようにコミュニティの一員になれるのである。情報提供者の側にとっても、個別の宣伝コストに比べて割安で、地域を超えた「縁」を作るメリットがある。
「縁」は単なるデジタルコンテンツによってできるのではない。実際に街を歩き、そこで出会う様々な出来事を経験して「縁」が生まれるのである。つまり、「縁」は資料3のエクスペリエンスである。エクスペリエンスは出会いによって広がるものであるから、モバイル・タウンのサービスは出会いの機会を増やし、出会いのレベルを深めると言える。それは資料5の示す21世紀型のコミュニティ創生の力を持つ。このサービスによって「見知らぬ街が、自分の街になる」のである。(2)
【問題分析】
・難易度…やや難
・出題の傾向…テーマ的には頻出問題の一つ。しかし、より内容が絞られ、専門性が増した。インターネットやiモードのコンテンツサービスを利用しているかどうかで理解度が大きく変わるだろう。広告デザインの図示は新傾向。SFC小論文ゼミの冬期2期第3回が類題。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【法学部・2002】
私は著者の「つるつるしたもの」に対置される言葉として「渡し合うもの」を選ぶ。課題文では「つるつるしたもの」が「隔てるもの」として捉えられている。それは物質的な例では川岸で土の土手と川の水を隔てるコンクリートの護岸であり、厠で自然と人間の触れ合いを隔てる白い磁器の便器である。さらに、「つるつるしたもの」は人間関係においては「受付の窓口」「知らないふり」として述べられている。それは必要に応じて人間と人間を切り離す役割をもっているのである。
それゆえに、「隔てるもの」に対置される言葉は「渡し合うもの」である。自然環境においては、コンクリートで固めていない土には水が染みこみ、洪水を防ぎ、植物を育てる。土は水と生命の媒介をする「渡し合うもの」である。厠では木の素材や掃き出し窓が自然と人間の間に「風情」や「思い」を渡し合って、そこに「風雅」や「陰翳」を生み出す。人間関係についても、相手への思いを「渡し合う」ことから「人情」や「思いやり」が生まれる。このように「渡し合うもの」は「つるつるしたもの」に対立する。
筆者は「つるつるしたもの」を否定しているのだろうか。そうではないだろう。彼は現代の社会で、自分自身を「つるつるしたプラスチック板」のような「隔てるもの」と感じているからだ。それは、筆者がメディアで発言するとかかってくる「無言電話」「嫌がらせ電話」と「人間関係の親しさ」の距離感が生み出す心情なのだと考えられる。そこには「私」と「他者」との関係の変質が顕れている。
「わたし=私」とは、ある意味で「わたし=渡し」である。私は他者と「言葉」を渡し合ったり「感情」を渡し合ったりすることで関係を取り結ぶ。時には「暴力」さえ「渡し合い」に使われる。しかし、電話を通じて一方的に送られる「天気予報」のような嫌がらせのメッセージは「渡し合い」を拒否する言葉である。白い磁器の便器やタイルに違和感すら感じなくなった現代の日本人は、自然や他者に対しても「つるつるした」表面を要求している。しかし、その一方で他者の意見を尊重するための「知らないふり」はまだ徹底していない。筆者は「つるつるしたもの」の向こう側に「渡し合い」の理想を見ているのだと私は考える。【問題分析】
・難易度…抽象的な問題という意味では「やや難」。
・出題の傾向…ここ何年かの傾向である「現代社会論」の文脈に属する問題文である。加藤典洋が論争的な問題提起をする作家であることを知らないと、何を述べたいのか全くわからないかも知れない。ただし、受験勉強をすれば加藤典洋の文章にはどこかで触れるはず。「情報社会論」「現代社会の人間関係」などのテーマ自体は小論文に頻出であるから、偽物でない小論文対策をしっかりしてきた受験生なら解答できる。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【環境情報・2002】
(1)
三つの資料から言えることは、歴史的に塔が人間活動の象徴であったということである。バベルの塔は「繁栄」の、アメリカの摩天楼は「自由と競争」の、そしてフラーのタワーは「ネットワーク」のシンボルである。これらが象徴する人間活動は、人間が自然を解釈し、改造し、支配しようとした歴史を示している。とりわけ近代以降、西欧では「遠近法」と「力学」が生まれ、世界を均質な座標系の中に閉じこめる科学技術が発展した。
資料2の「都市を計画するグリッド」はこうした座標系の一つである。資料では均質化と対立する契機として「競争=高さ」を捉えているが、座標系から考えれば、平面を見ていた人間が三次元に座標を拡張した結果として摩天楼が生まれたと言える。摩天楼が高さを追求するもう一つの理由は効率主義である。都市が平面的に広がらずに垂直方向へ伸びるのは、人・資本・情報をそこに極限まで集約できるからである。
しかし、効率主義を極限まで追求すれば、「効率化されない空間は無駄である」という原理によって自然環境は破壊され、都市空間は生命の多様性を排除した「強者だけが活動する廃墟」になってしまう。さらに、富と情報の集中によって世界的に貧富の差が拡大し、摩天楼が密集する先進国の都市は「現代のバベルの塔」になるだろう。実際、2001年9月11日に起こった摩天楼へのテロは、我々に古い伝説と教訓を想起させたのである。
経済成長をコントロールしながら人類が生き残るためには、フラーの言う「宇宙船地球号」の中での世界ネットワークが必要である。ただし、それは局所的な富の象徴としての摩天楼ではなく、地球全体を一つのドームとして覆うような発想によって可能であろう。そこで必要になるのは、専門化された極限的な技術ではなく、知のネットワークによる総合的な技術であると私は考える。(2)
CG画像 【問題分析】
・難易度…標準的。
・問題の傾向…現代都市論の基本的な問題である。SFCの多くの過去問とつながりがあるので、対策をしておけば戸惑うことはない。「プロジェクトの提案」は昨年に続く傾向なので、これも難しくはなかっただろう。(SFC小論文ゼミの二学期4回・冬期1期5回などが類題。夏期講習などでフラーの業績は紹介済み。)*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【法学部・2003】
「個人」の原語は「individual」である。その本来の意味は「不可分」であり、もうそれ以上分割できない社会の基礎として「個人」は定義される。しかし、その個人を「器官の集合」としてさらに身体的に分割し、しかも器官の「利用」については第三者が決定するのが、課題文で論じられている「医療化された社会」である。「公共化する身体」とは、このような医療化された社会における個人の分解・消滅を表現した言葉である。
イヴァン・イリッチは、かつて現代の「知識・能力によって個人を序列化する社会」を「学校化社会」と呼んで批判した。私は「公共化する身体」が学校化社会の帰結に他ならないと考える。例として「個性」について考えよう。「個人」の属性である「個性」は「他と区別される性質」言い換えれば「多様性」のことである。ところが、現代の社会で個人が識別・評価されるのは「他者との様々な違い」によるのではなく、学力など「共通のスケール」で比べて他者より優れているかどうかによる。つまり、本来の「個性」は「公共の基準による序列化」へと変質しているのである。学校化社会では「公共性」と「序列化」を切り離すことはできない。
しかし、近代的な民主主義の社会では、差別につながる「序列化」は許されない。そこで「価値による序列化を無効にする究極の公共性」が求められる。臓器の移植先が「生きるに値する人物かどうか」とは無関係に決定されるのは、この「究極の公共性」の一例である。また、国民全員に住民票コードをつけて「住基ネット」で管理するのも、それが「数列としての単なる数字」という究極の公共性をもつからである。このように、学校化社会の序列化は「序列の無意味化」に向かうのである。
ただし、「究極の公共性」には落とし穴がある。本来「公共性」は個人と個人の合意によって成り立つものである。自発的な合意が公共性を守る意志を支えているのである。ところが、「第三者による個人・個性の無意味化」が本来の公共性とすり替わると、公共性を支える「私」は、身体的にも社会的にも不要になる。「私」は存在しないのであるから、「私自身を傷つける行為」も「私中心の反社会的行為」も「否定的価値」を失って許される。こうして、本来の公共性が崩壊する恐れに我々は直面していると私は考える。【問題分析】
・難易度…抽象的な問題という意味では「やや難」。
・問題の傾向…昨年に続いて「公共と私」の文脈に属する問題文である。過去問を研究した受験生なら解答に苦労しないであろう。ただし、臓器移植問題にこだわりすぎると論旨が曖昧になりやすいので注意が必要だ。私の解答例は『これからでる小論文』の解答例を応用したもの。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【環境情報学部・2003】
問題1
私はフリーエージェントが日本では広まらないと考える。それは日本社会の構造と伝統的な社会意識に原因がある。
アメリカの社会は「契約」「自己責任」を基礎に置き、その限りで個人の自由を尊重する社会である。だからこそ「会社のためならどんなことでもする」のではなく、「会社と自分はあくまで契約関係にあり、契約以外の仕事をする必要はないし、契約が切れれば身分は自由である」という働き方が可能になるのである。
それに対して、日本の企業には家族的な結合を尊重する「ムラ社会」の構造が根強く残っており、社員は経営者の側から「滅私奉公」を要求される。それが「会社を離れると生きていけない」という意識を生み出し、会社中心主義が再生産されることになる。
そのような前提に加えて、現代日本の労働が均質化され、熟練労働者も不要になったことが独立への意欲を減少させている。特に現代の青年世代の職業選択の動機は「貧困からの脱出」や「仕事による自己実現」ではなく、企業が提供する「休暇の多さ」や「福利厚生施設の充実」である。こうした要因から、日本ではアメリカのようにフリーエージェントは広まらないと私は考える。問題2
私はフリーエージェントが日本では広まらないと考える。それは、まず第一に職業意識が「自己実現型」ではないからである。「自己実現型」とは、資料4−10の「理由」の中から選べば「自分の能力を十分発揮する」「やりがいを感じる」などであるが、これらは最も大きな転職理由ではないし、近年順位も下がっている。それに対して「会社・業界の将来が不安」「給与などの待遇がよくない」という転職理由が最も多く、特に「将来の不安」要因は増加している。同じ傾向は資料4−3にも見られる。資料4−1で最も独立意識の強い、30代前半の男性の独立阻害要因の上位は「資金難」に次いで「収入の不安定」である。資料4−2で最も独立意識の強い20代から30代の女性でも、独立疎外要因の上位に「収入の不安定」と「休みの不規則」が入っている。これは「仕事の面白さ」が日本企業における労働の誘因になっていないことの現れである。
自営志向が広がらない第二の理由は「社会的バックアップの不足」である。資料4−3によると、男女とも34歳以下では「仕事上の責任が負えない」「ノウハウ不足」「資金難」が大きな疎外要因である。「ノウハウ不足」は仕事の質が平均化して個人の「売り物」が差別化できないこと、「責任・資金」の問題は銀行などが小規模企業に融資せず、融資の条件も厳しいことを示している。図2、資料4−5は、いずれも景気動向の変化で自営業が減少したことを示し、そこから図1のような起業意欲の減少が出てくるのである。
ただし希望がないわけではない。資料4−7、4−9では女性の転職意欲が高いが、それを実現させるのは社会基盤のIT化であろう。図3で自営業が増えている国は、ネット上でウェブサイトが増えている国であるからだ。つまり、女性によるIT起業の支援などによって状況が変わる可能性があるが、日本の現状ではそれも難しいと私は考える。【問題分析】
・難易度…特に難しい点はなく、標準的。
・問題の傾向…試験時間変更に伴って様々な憶測があったが、これまでとあまり変わらない資料問題であった。(東大後期の文2に類似している。)資料利用に下限があるので、資料間の関係をよく考える必要がある。長くなった試験時間はそうした全体の構想に使うべきであろう。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【法学部・2004】
著者は経済と情報のグローバル化によって「国家の理念の相対化」が起きる一方で、既存の国家的秩序による対立も強くなると考えている。その原因を考えてみよう。
現代国家の性格は、幻想的な共同性としての「統合」から現実的な「多様性」へと変化したと言える。統合の面では、国民国家から国家を超えた結合へ向かう動きの上に、国連も位置づけることができる。しかし、多様化の側面では、旧ソ連地域や第三世界における自治運動の高揚が世界を「分裂」に向かわせているのである。だが、新たに自治を目指す国や地域の多くが先進国に援助を要請しているように、自治と同時にグローバルな協力が求められるパラドクスが、現代の世界像を複雑にしているのである。
このパラドクスは、広義のグローバル化に由来する。今日ではモノだけではなく、金融、サービス、労働力としての人間、情報が、国境を越えて大量に移動するようになっている。かつて国家の支配下にあった各国経済は世界経済の一部に組み込まれ、市場経済と同時にそれを支える民主主義のシステムが国境を越えて流れ込む。これが民主化と自治運動の高揚をもたらしたと言える。地域的な多様性と経済のグローバル化を、国家の主権で同時に制御することはできない。そこから、異文化間の摩擦と自然環境の国境を越えた破壊が引き起こされる。例えば、自衛隊によるイラク支援などの「武装した援助」は途上国の無力化の結果であり、熱帯雨林の減少などは先進国の無力化によるものと考えられる。
そこで、私はこれからの世界像として「環境としての世界」を考えたい。「自然環境」が世界と人間の間の交換過程を統合した「全体」であるように、国家のつながりである世界も「有機的」な、すなわち「部分が独立しながら、同時に全体の統一を失わない」調整力をもった存在であるべきだ。しかし、国家は「必要であるが不自由」な逆説的存在であるから、その「調整力」を担うのはNGO・NPOのネットワークである。ネットワークを中心にしたシステムは、小さな単位の問題と大きな単位の問題を同時に扱うことができる。例えば、紛争地域の民衆支援や地球規模の環境破壊に同時に取り組めるのである。このように、多様な生き方をする個々の人間と「環境としてのまとまりをもつ世界」の自由な交流が新しい世界像であると私は考える。【問題分析】
・難易度…標準的
・問題の傾向…昨年までのやや抽象的な「公共と私」の出題から、具体的な「グローバル化」の問題に内容が変化した。受験生にとっては解答しやすくなったと言えるだろう。94年度総合政策学部の出題『これからの国家像』に大変よく似た問題である。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【環境情報学部・2004】
【問1-1】
次に示すのは暗号の問題である。「1・11・2・11・7」という数字の列は「アカイカオ」と読めるという。では「3・5・13」はどう読めばよいか。【問1-2】
暗号に使われている数字が全て素数であることに着目すれば、素数の列「1・2・3・5・7・11・13…」が「アイウエオカキ…」と一対一に対応していることがわかる。従って解答は「ウエキ」となる。【問2】(図は略)
ABCDEFの6人がいる。その友人関係についてわかっていることは次の通りである。「AさんはBさん、Dさん、Eさんと友達である。」「BさんはAさん、Eさん、Fさんと友達である。」「CさんはDさんと友達である。」さらに、「友達の友達は友達である。」というルールを導入しよう。例えば、「AさんとBさんが友達である。」と「BさんとCさんが友達である。」が正しいとすると、「AさんとCさんが友達である。」も正しい。ただし、「友達の友達の友達」はもはや友達ではない。以上の条件から考えて、上の6人の中で「4人以上友達のいる人」を全て挙げなさい。【問3-1】
四つの文章では経験的・客観的な「データの蓄積」と「新しい理論の枠組み」が生み出す「新しい事実」が、一見、対立的に示されている。しかしこれらは対立するのではなく、連続した問題である。その間をつなぐのは「観測技術の発展」である。例えば、アインシュタインの相対性理論が生まれる契機になったのは、「光速度がどの条件下でも一定である」ことや「水星の軌道が太陽の周囲を公転しながらずれていく」ことが観測された結果であった。つまり、光速度や惑星軌道の精密な測定ができなければ、新しい「仮設」も生まれなかったのである。同時に、新しい「仮設」を生み出すためには「時間・空間が伸び縮みする」というような、古い考え方から自由な「新しい発想」も必要である。ここから、科学理論は「データの蓄積→理論化→新しい技術による新しいデータの発見→新しい発想→新しい理論の枠組みの提案→新しい仮設とデータとの照合→新しい理論」という経過で発展すると言える。「新しいデータ」の発見は技術的問題であるが、「新しい発想」は個人の資質や偶然性にも大きく左右される。それこそが科学における「新しい考え方」の創造性を支えていると私は考える。【問3-2】
理論・考え方の具体名:フラクタル幾何学私は小学生の頃から天文ファンで、小学生時代は自作の望遠鏡で月のクレーターを眺め、美しさに感動したりしていた。高校では天文部の部長も務め、本格的に天体観測をするようになった。しかし、「宇宙」とは 、知れば知るほどつかみどころのなくなる対象でもある。天体はあまりに遠く、あまりに巨大で、人間が物理法則で捉えられる姿は、その小さな一部分に過ぎないのである。したがって、私も「単なる物理的データ」の他は、子供時代と同じく「天体の美しさ」を鑑賞するしかなかったのである。ところが、1980年代以後にめざましく発展した「フラクタル幾何学」の入門書を読み、私の自然に対する見方は大きく変わった。「フラクタル」とは「部分の中に全体と相似な構造が繰り返しあらわれてくる図形」である。とりわけ、フラクタル幾何学の建設者であるマンデルブロが発見した「マンデルブロ集合」の細部を拡大すると、渦巻銀河のような図形が無数に見えてくる。その多様性は、どのような銀河や星雲の形でもその中から見つけられるに違いないと思うほどである。今まで「自然の神秘」としか思えなかった天体の複雑な造形には、驚くべきことに数学で簡潔に記述できる法則があったのである。しかも、フラクタル幾何学は天体の見方を変えてくれただけではなかった。パソコンでフラクタルを造形するソフトウェアを操作していると、ディスプレーに植物・微生物・生体組織・風景などに酷似したあらゆる「自然」が現われる。私には自然全体が「フラクタル構造」に見えてきたのである。そのような見方をすると、「多元的な世界の各々に世界全体が映っている」という密教の曼荼羅の考え方も「フラクタル」で理解できる。フラクタルを生み出す数学自体は19世紀に知られていたが、コンピュータの性能が向上して初めて、複雑なフラクタル図形が発見されたのである。技術と理論が不可分であることが私にもよくわかった。
【問題分析】
・難易度…創造性を見る問題なので超難問ではないが、制限時間と問題の量を考えると難度が高い。
・問題の傾向…「問題発見・解決型」の人材を育てる、というSFCの理念に基づいたユニークな出題である。今年の問題では特に「問題を発見する」というテーマが強く打ち出されている。いわゆる形式的な受験勉強で対応できる問題ではない。代ゼミのSFCゼミでは「フラクタル」「カオス」の紹介や創造性の問題を講義しているので、強力な対策になる。『論理学のことが面白いほどわかる本』も問1、2の参考になるだろう。95年度環境情報学部の出題「複雑さと問題解決の方向」が類題。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【法学部・2005】
著者は「共通善」の実現を国家の基本的な使命と考え、権力者や一部の集団だけが利益を得るような政治を「暴政」と定義している。しかし、こうした権力のあり方は、ある日突然現れたものではない。また、明らかな「暴力」によって国民に強制されたものでもない。我々が直面している問題は、課題文にあるナチス政権の暴政と同様、理想的な民主主義を掲げた憲法をもつ、戦後の政治システムから生まれたのである。つまり、権力による暴政を生み出すのは、民主主義を享受している他ならぬ国民自身なのである。
なぜ、このような逆説が現実化するのだろうか。本来、民主主義とそれに基づく自由な経済活動は生活を豊かにするものである。そして、国民全ての豊かさは「共通善」の一部であるはずだ。だが、豊かさが長く続き、その根拠を多くの人が意識しなくなると、二つの面で「視野の狭さ」が進行し、権力に対して無自覚になる。
一つは「時間的視野の狭さ」である。これは課題文にもある「過去を忘れ、現在を過去から切り離す」生き方につながる。人々は他国の軍事政権の横暴や無差別テロを非難するが、それは過去の日本人の姿、過去の戦争の実像でもある。それらに打ちのめされ、二度と同じ愚行を繰り返したくないと感じた世代からわずか一世代を経ただけで、既にそうした悲惨な過去は「見えなくなっている」のである。
もう一つの「視野の狭さ」は「空間的視野の狭さ」である。これは身近に多くの「貧しい人」「抑圧された人」がいるにもかかわらず、気づかないことである。今日、「身近」とは日本人だけのことではなく、日本に住む外国人、グローバル経済の中で先進国の影響を受ける途上国の人々も含まれる。市場経済における豊かさとは富の偏りであり、実は豊かな人々ほど貧しい人々に支えられているのであるが、「勝ち組」になることを夢見る現代の日本人にとって、その構造は「確かに存在しているのに見えない」ものなのである。
以上の考察から、国民の手で共通善を破壊する権力を生み出さないためには、すぐに狭くなろうとする自分の視野を、常に広く保つ努力が必要であると言える。それは自分の生き方を時間的・空間的に相対化して見直し、他者に配慮する「公共」の善を求める努力であると私は考える。
【問題分析】
・難易度…標準的
・問題の傾向… 昨年の「グローバル化」の問題から、再び一昨年までの「公共と私」に関するテーマに内容が戻った感がある。しかし、問題自体はよく出るテーマなので書きやすい。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【環境情報学部・2005】
【問題1】
事例1
クリーニングされた衣類が入ってくる大きな透明ビニール袋は、子どもにとって「すっぽりかぶる」ことをアフォードしている。小さな袋であれば中に入ろうと思わないが、大きな袋は中に入って遊ぶことを誘うのである。窒息事故を防ぐため、袋には「お子様がかぶらないようにして下さい。」と注意書きがあるが、子どもはこれを理解しない。こうした事故を防ぐためには、ビニールの袋に大きなスリットを空けるか、あるいは袋に目の粗いメッシュ素材を使えば、「かぶる」ことのアフォーダンスが避けられ、万一かぶった場合も安全である。事例2
ビデオなどAV機器の入出力端子は入力側も出力側も同じ形状をしているので、つなぎ間違いが起きやすい。どちらにも、同じ形・大きさのプラグとソケットが使われていて、アフォーダンスが不充分なのが原因である。例えば、水道の蛇口は突出しているから「水が出てくる」ことがわかり、排水溝は窪んでいるから「水が吸い込まれる」ことがわかる。同様に、「入力」のソケットは窪ませ、「出力」のソケットは突出するデザインにすれば、大きさや形が変わるので間違いが少なくなり、しかも端子自体がつなぎ方をアフォードしてくれる。
【問題2-1】
ヒューマンインタフェースが特に重要になる原因は二つある。一つは「機械やシステムの複雑度が増大する」ことであり、もう一つは「ユーザーの適応力が減少する」ことである。第一の原因は、私たちの周囲の製品やシステムに関して、「デジタル化」と「ネットワーク化」が進んだことから生じたものである。電話のような万人向けの道具や交通システムがデジタル化されると、誰もがソフトウェアで決められた手順に従ってキーボードを打たなければならず、その理由や構造がわからない大部分のユーザーには、機械やシステムが極めて使いにくいものになる。第二の原因は、人口構成の高齢化や障害者の社会参加を進めることから生じるものである。高齢者も障害者も、健常者の視点で設計された装置やシステムからは「動作の細かさ」や「作業に許された制限時間」のために疎外されてしまう。これらのことから、今ヒューマンインタフェースが重視されているのである。
【問題2-2】
私は医療システムの情報インタフェースについて考えたい。現在の医療システムでは、「情報」に関してほとんどの患者が不満を持っている。医療は高度化し「お金がかかるが、払っただけの効果が得られているのか」について患者が理解できない「忍耐力」が必要な段階にある。一方、高齢化社会、高度医療によって、医療のビジネス規模はますます大きくなっている。それが図のゾーンの意味である。現在の医療システムには「診療科、病院間の連携がない」「治療に関する情報が患者側に開示されない」などの問題がある。これらは紙のカルテを各医師が独立に管理し、しかも医学情報が専門語でのみ語られていることに原因がある。この問題を解決する一つの試みは、ユーザーにとって使いやすいデジタル化とネットワーク化である。例えば、患者がICカードを個人の診療カードとして持てば、診療、投薬、検査結果、画像の記録を全て電子カルテに入れ、その内容を診療カードに書き込むことで全ての医療従事者と患者自身が情報を共有できる。さらに、カードを使い家庭のパソコンから専門用語を使わない医学知識データベースにアクセスもできる。これが医療に必要なインタフェースである。
【問題分析】
・難易度…課題に関する理解ができれば容易な問題である。ただし、「使いやすさ」などについての本質的な議論に触れたことがないと、課題文の読み込みに時間がかかるかもしれない。
・問題の傾向…昨年同様、「問題発見・解決型」の人材を育てる、というSFCの理念に基づいた出題である。形式的な受験勉強で対応できる問題ではないが、93年度環境情報学部の出題「設計者が配慮すべきことがらは何か」(湘南キャンパスのSFCインテンシブ・コースで使用)と出典も重なる出題であり、過去問研究も非常に有効である。*解説は『オンライン参考書』にあります。
【法学部・2006】
一 筆者は「話を聞く」ことが「じょうずに問う」ことに他ならないと述べている。「問う」ことは「何が問題であるか発見する」ということであり、学問の基礎となる能力である。また「問う」ことは「自分にとっての問題は何か」をまず理解することであり、自己確認という意味をもつ。その意味で教育は問いを発する取材の場であり、その目的は情報を主体的に選び、自我形成に役立てることであると言える。このような筆者の見方を発展させて、私は「問う」ことが「情報主体性」の確立につながると考える。私が定義する「情報主体性」とは、「情報の収集・選択・理解・発信」を主体的に行う能力である。これからの時代、ネットを主体的に利用して他者と交流するにはこの能力が不可欠である。
二 私が重視する点は「聞きたいポイントを論理的に絞ること」と「相手の立場に立つこと」である。まず「聞きたいポイントを論理的に絞る」のは、質問相互の関係を予め検討し、重複する内容を避けるためである。これは相手の時間的負担を最小にすることにも役立つ。次に「相手の立場に立つこと」には二つの意味がある。第一の意味は「相手の文化的背景を考慮して聞く」ことである。なぜなら、誰にも自分が育った文化があり、その違いによって同じ質問も別の解釈をされることがあるからだ。第二の意味は「相手を単なる情報提供者として見るのではなく、共に生きる同時代人として尊重する」ことである。もし取材する側が相手を見下せば、質問者は信用されず、聞き取りはできないからである。
三 私は「生活意識の世代間比較」について調査したい。対象は20代から60代の人たちである。質問は「もし〜なら〜しますか。」という形式の問いを何種類か用意する。例えば、20代・30代の若い世代には「もしあなたの給料が毎年十パーセントずつ上がるなら、結婚し、子供をもちたいですか。」という質問をする。逆に50代・60代の人たちには「もしあなたが30歳で給料がこれから20年間変わらないなら、結婚し、子供をもちたいですか。」と質問し、世代間での意識の差を比較する。これらの例は少子化の原因について「なぜ子どもが欲しくないのですか」と相手に質問するより効果的である。なぜなら人々は他の世代の時代背景を想像し、自分の問題として答を出すからである。これらは「他者を知ることで自分に気づく問い」と言ってもよいだろう。
【問題分析】
・難易度…標準的
・問題の傾向…新傾向の出題形式であるが、書くべき三つの内容が明確なので難しくはない。受験生の「読み取り、まとめる力」「発想力」「表現力」を素直に問う問題である。*解説は『オンライン参考書』にあります。
【環境情報学部・2006】
問1
紙を大量に使う高度情報化が森林という自然資本を破壊している問題
問2
問3
私が「発明」したのは「ペーパーレス・システム」の総合サービスである。このシステムはネットワーク部門とハードウェア部門から成り、ネットワーク部門では「コピーライト・サーバ」の新設により、デジタル情報の著作権管理・保護と使用料授受を扱い、ハードウェア部門では紙媒体に代わるブラウザを提供する。これらの新しい技術とネットワークによって紙の使用量を劇的に減らし、森林資源を保護することができる。
問4
私はペーパーレス・システムの総合サービスを提案したい。簡単に言えば「紙のいらない出版」を普及させるということである。今、印刷物はデジタル編集しているのに、わざわざ紙で出版する。その結果、増え続ける新刊のために森林資源は浪費されている。この問題を解決するためには、紙の再使用・節約という発想から脱却して「紙の不使用」を追求しなければならない。しかしネットワークには「著作権保護」「情報の直接販売によって疎外される業者の保護」「読者にとっての読みやすさ」という三つの壁がある。
「著作権保護」は、本に「著作権暗号」をつけることで解決できる。暗号化情報は、解読チップ内蔵の機器だけでダウンロードし読むことができる。解読チップは違法コピーを防ぐ機能ももつ。この技術は印刷業・流通業・書店の保護にも役立つ。具体的には、印刷業者と取次業者が合体して「コピーライト・サーバ」を立ち上げる。これは著作権暗号を付与する組織である。書店やプロバイダはコピーライト・サーバから著作物を購入し、ネットや店頭で販売する。その際、書店は個人読者と契約し、著作物を書店のデータ・コンピュータにストックしておく。個人のPCと違い、外部のデータベースを使うことで大量の書物を保存できる。町の書店が「個人の本棚」になるのだ。これによって小さな規模の書店も生き残れる。最後に「読者にとっての読みやすさ」という問題は、新しい機器の開発で解決できる。これまでの液晶画面は小さすぎた。そこで「電子ペーパー」などの技術を応用し「薄く、軽く、柔軟で、B5以上の大画面、省電力」の端末を作る必要がある。
このサービスには「コスト激減で本や新聞が安くなる」「利益の少ない本でも出版できる」などのメリットに加えて、「エコロジー経済に貢献できる」というグローバルなメリットがある。21世紀のエコな知的生活を支えるには、このシステムしかないのである。
【問題分析】
・難易度…標準的
・問題の傾向…過去に出た「デジタルコンテンツの企画」と類似した問題である。過去問研究をしておけば難しくない。今回の問題は「デジタルコンテンツ」を「エコロジカルなモノやサービス」に置き換えたもの。普段の生活の中で気づく要素が多く、デジタル商品よりは書きやすいであろう。*解説は『オンライン参考書』にあります。
【法学部・2007】
筆者は「法」「政治」「歴史」の関係について、国際政治の軋轢を例に論じている。国際政治の軋轢とは、戦争被害を受けた国民と加害国の間で「歴史的真実」をめぐる謝罪や保障の問題が起きることである。しかし、学問では一つだけの歴史的真実が追求されるのに対して、政治で追求されるべきものは当事者によって解釈が異なる政治的正義である。政治は法と制度によって行われるが、法が拠り所とする真実は「学問的な真実」とは異なる「法的な真実」である。ゆえに、政治的正義も法的な真実に基づく。
法は個人と社会の対立する利益を調停し、相互の合理的な均衡を図るために、その目的に必要な範囲で真実を追究する。法的な真実とはこのように限定的なものである。一方、政治的正義の理想は社会の秩序と安寧を実現することであるから、そこでも限定的な「法的真実」が意味をもつ。法の精神に従えば、例えば東京裁判の司法取引で戦後の経済的発展という利益を得た日本人は、戦争責任という負の遺産をも相続したと言える。その上で、日本も含めた国際政治の当事者が目指すべきは、歴史の真実を追究することではなく、法的真実に基づいた当事者同士の「和解」である。以上が筆者の意見である。
課題文で筆者が述べている「政治的正義」「法的な真実」は、対立する当事者が合意するための「方便」である。しかし、国際政治の軋轢を解決する事実解釈が「方便」ならば、ニュルンベルグ裁判・東京裁判における「人道に対する罪」や「世界人権宣言」なども「方便」に他ならない。そうであれば、それらに普遍的な価値はなく、今後私たちが問題解決にあたって重視する必要もないことになる。これは妥当だろうか。
筆者の言う政治的正義は「過去に関する合意」としての側面を強くもつ。それに対して人道や人権は「倫理的真実としての正義」であり、「現在・未来に関する合意」に必要な普遍的価値である。「倫理的真実」が法的真実と違うのは、法が「起こってしまった結果」の補償であるのに対して、倫理は「今起こっている出来事」「これから起こるであろう出来事」への働きかけである点に基づく。「過去の和解」と同時に「現在・未来の和解」を可能にするために、これらの両立が必要だと私は考える。
【問題分析】
・難易度…標準的
・受験生の「読み取り、まとめる力」「論理的構想力」を問う問題である。要約は難しくないが、意見を述べる「手がかり」がつかみにくいかも知れない。入門書などを読んで、法には交通ルールなどの「事実問題の解決」と人権侵害など「権利問題の解決」という二つの役割があることを知っておくとよい。*解説は『オンライン参考書』にあります。
【環境情報学部・2007】
(1)
自己組織化適応システムを用いた全体性創造プロジェクト(2)
研究期間は3年。研究費総額は3億円。研究費申請先は経済産業省・財務省・文部科学省・全国銀行協会。(3)
現代社会の問題に共通の要素として「全体と部分の問題」がある。例えばインターネットによる情報共有を目指しても、ウィンドウズとマックOSの違いによって共通にアクセスできないウェブページができてしまう。また、通信ネットワーク、交通ネットワークなどにおいて、部分的な障害が原因で全体の機能が損なわれるトラブルが多い。さらに、株価や為替レートなどの経済現象は部分的に変動を続けながら全体としては安定している。しかし、それらの変動を予測することは難しい。人間が部分的な変動に気付いてから対策を練るような既存の問題解決システムでは、これらの問題に対処できない。そこで自動的にコンピュータ間の情報「通約」を行ったり、システムの一部が停滞した場合に全体が変化して自動的に「新しいシステム」が構築されるような「自己組織化適応システム」が必要になる。経済現象についても、経済全体がもつ自己組織的なパターン変化を法則化できれば、経済変動によるリスクを自動的に回避する投資システムなどが可能になる。社会的な合意システムも一種の自己組織化適応システムであると言えるから、多様なメンバーがどのように統一された社会を組織しているかを研究することで、現在の「多数決システム」や「官僚システム」の見直しができる。
研究手法としては、数学・統計学・コンピュータ科学・認知科学・生命科学・経済学・社会学の研究者が自由に意見交換しながら共同研究する形式を採用する。これまで自己組織系・複雑系の研究は脳科学から社会研究までの広い範囲で行われきた実績があり、「全体性」創造の研究にもこれらの分野横断的な発想が不可欠だからである。しかも、多様な専門家が所属の研究機関を離れず、日常的に共同研究できる環境はSFCにしかないから、このような研究手法が最適である。メンバーは学生を含めて30名程度とする。
研究計画として1年次には異なったOS間の情報共有・ソフトウェア共有、また既存のデータベース間の移動がシームレスになり、一つのデータベースとして扱える技術を研究テーマとする。2年次にはネットワークの「自己修復システム」を研究する。生物が怪我や疾患をどのように自己修復するかをモデル化して、通信・交通・災害支援などの「自己再組織化」を研究テーマとする。3年次には経済変動や社会現象の「全体パターン」を数学的に表現し、そこからリスク回避や合意形成の新たなシステムを構築することを研究テーマとする。
(4)
私は、このプロジェクトに参加を希望する学生に、科目として「自律・分散・協調」「問題解決とアルゴリズム」「人工知能論」「シミュレーションデザイン」「情報数学」「生命物理科学」「数理と社会」などの履修を勧める。まず、「自律・分散・協調」は自己組織化や全体的システムの基礎理論であり、プロジェクトの背景と目的を理解するのに役立つ。「問題解決とアルゴリズム」「人工知能論」は、システムに起こった問題を発見し、解決するための「考え方の枠組み」を教えてくれる。これらは「人間の頭の中身を知る」学問である。「シミュレーションデザイン」「情報数学」「生命物理科学」「数理と社会」などは、科学研究にとって共通の言語である数学とコンピュータの知識基盤を提供してくれる。これらを使いこなせて初めて、データを処理し理解しやすい形で表現することができるのである。【問題分析】
・難易度…標準的
・問題の傾向…99年度に出た「21世紀の問題と解決の視点」に類似した問題である。過去問研究をしておけば難しくない。既にSFCではAO入試で「志望理由書」「学習計画書」を書かせており、その延長線上の問題である。AOで受験した経験のある人には有利。*解説は『オンライン参考書』にあります。
【法学部・2008】
明治末期以降、知識・思想の意義が切実に意識され、担い手としての「知識人」が重視されるようになった。それは社会の西欧化による日本の国際社会における地位の安定が最重要の課題であり、西欧伝来の知識とそれを所有している知識人は天下国家のレベルで有用なものであったからである。それゆえ、当初は知識人自身も自己の社会的な存在意義に疑問を抱くことはなかった。しかし、西欧伝来の知識・思想は、日本社会の一般的な人々の生活条件や意識から遊離する面があった。そこから、知識人は大衆に知識・思想を伝達する啓蒙的な役割を果たすべきだとする立場と、知識人の有する知識・思想は大衆の日常と関わらないゆえに、その意義が稀薄で曖昧だとする立場が生じた。これが知識人に内面化されて優越感と同時にコンプレックスの原因となり、知識・思想の望ましいあり方、知識人と大衆との関係を問う知識人論のテーマが生まれた。筆者はこのように述べている。
近代日本に「知識人」を誕生させたのは「教育の格差」であった。高等教育を受けて西洋の言葉と知識を身につけられる人々はわずかであり、彼らは文字通り「特権階級」であった。筆者も述べる通り、外来の知識は当時の近代国家建設の骨格であり、政治・経済・文化のあらゆる面で知識人が優遇されたのは当然だと言える。また、大衆の側も、知識人の著作を通じて近代国家に適応し、自由と権利の意識を自らのものとしたのである。
しかし、現代の日本社会では、かつて知識人の地位を支えた教育格差が縮小している。大学大衆化によって大卒者はエリートではなくなり、大学の役割は主に就職の選別機構になった。知識人の特権だった留学機会も、今日では広く開かれている。その意味で、明治末期から敗戦まで社会の中枢を担った「知識人」は既に存在しない。今、高度な知識を所有している人々は限られた分野の「専門家」であって、いわば「技術者」の一種である。
この変化が原因で、現代の日本社会では「眼に見えない価値」の地位も低下してしまった。「思想」を提供してくれる知識人がいなくなって、多くの人が「生きるテーマ」を自分で探さなければならなくなったのである。このような価値の多様化と相対化は、「機会均等」の反面「生きがい喪失・刹那的生き方」をも生み出すという問題があり、「現代における知識のあり方」を問う新たな知識論・知識人論が必要だと私は考える。
【問題分析】
・難易度…標準的
・受験生の「読み取り、まとめる力」「論理的構想力」を問う問題である。要約は難しくない。しかし、近代日本の古典を読んでいないと、現代の文化状況が明治以降、敗戦までの状況といかに違うかを自分の問題として考えることが難しいかもしれない。*解説は『オンライン参考書』にあります。
【環境情報学部・2008】
問題1−1
1【プログラムを深く楽しむ】
01、05、08、23、24、25、30、31
2【人と人の出会いから全てが始まる】
02、09、10、19、34、45、47、50
3【生命という書物を読む】
04、11、12、21、27、28
4【いつでも・どこでも・何でも知りたい】
13、14、17、22、26、29、39、41
5【いつまでも共に生きたい】
15、18、33、37、43、49
6【不完全だから人間だ】
03、06、16、20、32、35、40、42、48
7【「私」と「私たち」の間をつなぐ】
07、36、38、44、46
問題1−2
類型の番号…7
私は50のテーマについて「精神的か物質的か」「個人的か社会的か」という二つの軸、四つの極を決め、それに従って分類した。図の中央にあるのは【いつでも・どこでも・何でも知りたい】の類型である。これはネットワーク論であって、個人と社会を結びつけ、デジタル技術であると同時に「使い方の技術」も必要とするので、物質的でもあり精神的でもある。それゆえ位置は中央になる。他の類型は全てこれと関係をもつ。【プログラムを深く楽しむ】はネットワーク技術を支える研究であり、「ものの見方、考え方」を重視する点でより精神的である。【不完全だから人間だ】は人間の知性と感性の原理を科学的に調べる分野であり、人間と機械のインタフェースを研究する点でネットワーク技術とつながっている。人間を物質的側面でさらに深く探求するのが【生命という書物を読む】の類型であり、ここで得られた生命科学の情報はネットワークによって世界的に共有される。ネットワークとデータベースは他方でグローバルな環境問題の研究に使われる。【いつまでも共に生きたい】は、同世代と世代間の合意を生み出すために必要な具体的条件を研究する類型である。ネットワークで情報交換しながら、現代社会における最善の生き方を探ることがテーマである。現代社会では個人が孤立しがちであり、環境問題を解決するための連帯は難しいとの見方もあるが、多様なメディアの力によって孤立した個人を結びつける研究が【「私」と「私たち」の間をつなぐ】である。私はこの類型について研究してみたい。伝統的なマスメディアとネットワークメディアを結んで、それぞれの力を新しい社会づくりに生かすことがテーマである。そうした試みの上に【人と人の出会いから全てが始まる】類型が位置する。現代の起業や町づくりには個人と社会の「つながり研究」が不可欠だからである。
問題2−1
自分のポジション…W
問題2−2
私は現代の溢れる情報に振り回されたくない、また、競争に勝ち抜いてトップに立つよりは自分の好きな仕事に職人的に熱中したい人間である。「時代遅れだ」とか「暗い」「オタクだ」と言われても、私は気にしない。Bの人は粘り強く自分のテーマを追求する一方で情報感度に優れ、情報収集力がある人である。Cの人は人の意見にすぐ振り回されることなく、目標達成を重視して計画的に行動する責任感の強い人である。Dの人は新しい環境にすばやく適応し、人がやっていないことに積極的に取り組む先進性をもった人である。
問題3−1
資料4から考えられるのは、メンバー各人が高い能力を持ち、自己責任の下で独立して行動しながら全体は統一されている有機的なチームである。各人は専門家であると共に全体を見渡す力が要求される。そのために知識が共有される必要があるが、言語化できない「場」や「空気」を読みとる力も重要である。
問題3−2
資料5から考えられるのは、メンバー各人の能力はそれほど高くなくても、それらが組み合わされた時に全く新しい力を生み出すチームである。そこでは個人が新しいアイデアを創造するのではなく、組織をプロデュースすることで新しいアイデアが生まれるのである。知識についても、「新しい知見を得る」のではなく「知識を編集し直す」という作業が大きな成果を生む。
問題3−3
資料6から考えられるのは、自分の持つ能力・知識を他者のため自発的に提供するメンバーから成立するチームである。上からの指示で活動する場合に比べて個人のモティベーションが大きく、様々なアイデアを自由に発展させることができる。その結果、広さと深さを兼ね備えた「集合知」が生み出される。
問題3−4
ルール名の番号…4
問題3−5−1
い
問題3−5−2
45p
問題4
私は「既存新聞のインタラクティブ化」というプロジェクトを提案したい。これは「私」と「私たち」、つまり個人と社会の間をつなぐ研究の一環である。
本来、新聞のようなマス・メディアでは、「制作者」から「購読者」へ情報は一方向的に流れる。このシステムは、多くの読者に同じ情報を提供するという面では優れている。その反面、読者の個性に合わせた多様な情報提供には限界がある。それは、表現できる紙面が限られているし、有限な記者が全ての分野を扱うことはできないからである。
一方、インターネットでは情報発信者と受信者の関係は双方向的である。受信者がいつでも発信者になれる。この特性によって、メディアのインタラクティブ化が可能になった。例えば、掲示板やブログは新聞・雑誌のインタラクティブ化であり、ポッドキャストはラジオの、無料動画サイトはテレビのインタラクティブ化である。
これらネットワークメディアの特性をマス・メディアである現行の新聞に取り入れてみたい。具体的には、「記者の記事、読者からの記事を平等に扱う」「編集に読者も加わる」「予め登録した読者の個性に合わせて異なった紙面を配信する」ことが目標である。これを実現するためには「あらゆるメディアによる記事募集」「ネットワークを使った共同編集」「少部数多種印刷用高速プリンタの開発」が必要となる。
研究方法としては、研究に参加するメンバーが自発的に得意分野を選び、アイデアがある程度集まったところで全員で検討し、その結果を再び各自の研究にフィードバックするというシステムを採用する。この方法によれば、資料に出てくるウィキペディアと同様に広くかつ深い「集合知」が生み出されるからだ。
研究の成果としては「読みたい記事だけの新聞が配達され、省資源になる」「プリントメディアの世界に新しい集合知が導入される」「デジタルデバイドの縮小」などが期待される。これらによって新聞は新たな社会を生み出すメディアとして再生されると私は考える。
【問題分析】
・難易度…やや難
・昨年に続いて「研究プロジェクトの立ち上げ」という問題。SFCのAO入試で課される「志望理由書」「学習計画書」の延長線上の問題である。しかし昨年と異なり、テーマ選択やプロジェクトチームの構成など、社会学的調査法を応用して論理的思考力を問う問題が加わった。問題数も多く、全ての問に答えるのは時間との戦いである。*解説は『オンライン参考書』にあります。
【法学部・2009】
筆者は政治的空間としての<公共空間>の特性を、古代ギリシアのポリス社会と現代のネットワーク社会を比較して説明している。ポリス社会では、「自由」とは自分の責任で公共の任務を成し遂げることであった。その根拠は、公共の場で責任を果たすことが自分の<個性>の主張と結びついていたことにあった。「自己」とは「他者の目から見た評価」に他ならなかった。それに対して、現代の社会では、「自己の意見と行動に関して自己が責任を負う」という<公共空間>は存在しない。それはあらゆる公共サービスが市民に代わって政治的活動を代行しているからであり、その結果、無責任な発言が許される「<公共空間>でもなく、私的空間でもない保護された雑種の空間」が成立してしまう。そこには社会的責任がない反面、社会的な「覚悟」に基づいた行動の自由もない。それが他者への不信と不安に基づく「セキュリティー社会」を生み出すと課題文では述べられている。
日本の社会に限れば、このような筆者の見解を裏付ける事例は確かに多い。しかし、「インターネットのような技術の進歩は、人間が<覚悟>を持たずに世界に<存在>することを増長させる手段でしかない。」という筆者の意見には私は反対である。もちろん、社会的責任意識は重要である。そもそも古代ギリシアで社会的自由と社会的責任が一体であったのは、ポリス社会では「市民」であることが既に「特権」であり、特権を守るための自覚も強かったからだ。それゆえ、日本の市民がこれから<覚悟>を持つべきだとすれば、「この社会に生まれてよかった」という何らかの「特権意識」が必要である。
この意識を育てる手段こそインターネットに他ならない。掲示板への書き込みが他者を傷つける力は、同時にそれだけ強く他者と関わり、他者を動かす力でもある。ネット上の公共空間は、権力を恐れていた人々が、権力と対抗できる自分の力を自覚する空間になり得る。ただし、ボランティア活動や環境問題におけるネットの力を認めた上で、<覚悟>の二面性を自覚することが課題である。ポリスの政治的自由が兵役の義務と切り離せないように、ネット上の表現活動という「特権」も「他者への責任を負う痛み」と一体のものである。その両面を担う自覚を持つことで、「他人任せではないセキュリティー」が成り立つのだと私は考える。
【問題分析】
・難易度…標準
・最近よく出る分野の問題なので、要約は難しくない。ただし、受験生にとって身近な問題だけに、議論の場合は論点を絞るのが難しいかも知れない。前もって小論文頻出テーマに沿った対策をしたかどうかで差が出る問題と言える。*解説は『オンライン参考書』にあります。
【環境情報学部・2009】
問題1
資料の共通点は「環境から独立した主体が、メディアを手段としてコンテンツを生み出す」という以前の考え方の批判である。Aが言う通り、問題を発見するには、環境から五感で情報を受け取り思考しなければならず、問題を解決するには、コンテンツを他者が五感と思考で受信できるように表現する必要がある。どちらの過程でも、メディアは主体の思考と協働している。さらにCによれば、表現主体である自己は環境から独立した存在ではない。自己が現在のあり方に関わるコンテンツを発信する時、それは他者に向けられたメッセージであると共に「他者に共有される自己」でもある。その意味で「自己は他者を含む環境によって作られている」と言える。その環境を知り、環境を超え出るための方策がメディアなのである。この自己と他者の関係をメディアの側から見たのがBであるが、「メディアによるコンテンツの現実化」を行うことが「制作」であり、「メディアによるコンテンツの流通」を支援することが「製作」であると言える。こうして、人間精神がより多様なメディア・表現方法で再構成されることによって、送り手と受け手の主体性が豊かに出会うことが最も重要だと私は考える。
(100字分のスペースに図)
問題2
『春を見つけよう』:私は「春の歌」につけるアニメによる映像コンテンツを提案する。この企画書はクリエーターに向けたものである。企画意図は、3〜10歳のこどもの発達課題である「自己と社会の関わりを知る」「周囲の環境を観察し、より深く理解する」というテーマに親子で関心をもってもらうためである。具体的な内容としては、第一に「自然の観察」をテーマとし、春になって気温が上がり、昼間が長くなり、外に出ればツクシや桜の花、虫の活動が始まることを示す。しゃがんでツクシを見たり、虫を追いかける映像を使う。第二に「暮らしへの関心」をテーマとし、冬から春への服装・食物の変化を街頭や家庭の食卓によって示す。暖かさや味を感じさせる動画を作る。さらに、節分・雛祭・入学式などの行事が季節の変化と共に行われることを示す。第三に「体を使って自分の生活を見直す」ことをテーマとし、背が伸びたこと、前より早く走れることなどをアニメで表現して自己の変化と成長を自覚してもらう。作品全体を通じて、現代のこどもたちに「自然は面白い」「体を動かすことは面白い」ということを感じてもらい、「五感で豊かに感じ、考えるすばらしさ」を提案する。
(100字分のスペースに図)
【問題分析】
・難易度…例年よりやや易しい。
・1998年度、2001年度に出題された「メディア・アート」系の問題と深いつながりがある。SFCのレギュラーゼミ、夏・冬のSFCゼミでも取り上げたテーマである。単に理論を述べるだけではなく、それを実践的に表現できるかということを問うている。入学すると実際にグループワークで演習するような問題であり、SFCの志望者ならば楽しんで答えられる問題だと言える。もちろん、過去問研究が大変重要である。*解説は『オンライン参考書』にあります。
【法学部・2010】
私がラケダイモーン人なら、第一にアテーナイとの協定の見直しを試み、それが成立しない時のみ、自国と同盟国を守るための限定的な出兵をすべきだと考える。その根拠は同盟を成立させるための条件である「共通の正義」が守られるべきだからだ。そもそも外敵と戦うのは、侵略が「正義」ではないからである。逆に隣国と同盟を結ぶのは、侵略に対抗することが「正義」だからである。ここで「正義」として定義されているのは「自分の利益を守り、自分と利害を同じくする他者の利益を守ること」である。
アテーナイとの協定も、当初はこのような「正義」に合致するものであった。ペルシア軍に対する恐怖から全てのポリスは団結し、特にアテーナイに戦争の主導権を預けたのである。そこでは全てのポリスが正義を共有していた。しかし、アテーナイも認めるように、戦争の勝利を契機に支配を正当化する「正義」の意味が変化し始めた。「侵略の恐怖に対抗するため」という支配の理由が「名誉・体面のため」に変化し、さらに「アテーナイの利益を守るため」の支配に変質したのである。アテーナイの主張は「アテーナイ人にとっての正義」に他ならない。
こうなると、最初に諸ポリスが合意した「自分の利益を守り、自分と利害を同じくする他者の利益を守る」という正義は成立しない。他方、コリントスが主張する「同盟国を援助する義務」の方がより「正義」に近いとも言えない。なぜなら、コリントスが始めたアテーナイとの戦闘がラケダイモーン人にとって利益になるとは限らないからである。このように、共有されるべき正義の内容がポリスによって異なる以上、どちらかの主張が正しいと決定することはできない。
そこで、新たな正義を定義することが必要になる。それは「合意としての正義」である。軍事力によらない法の支配が成立するためには「だれもが合意できる法」が必要だ。アテーナイが法による支配を尊重するなら、自らの利益だけでなく他者の利益も尊重すべきであり、ラケダイモーンとコリントスは共にアテーナイと交渉して合意点を見出すべきである。たとえ合意が不調の場合にも、出兵はあくまで合意までの現状維持に限定し、各ポリスの多様性を尊重しながら共通の利益を求め続けることが最善の策だと私は考える。
【難易度】
標準的な問題。【問題の傾向】
昨年に引き続き、ギリシャ古典の議論から政治と法の基礎づけを考えさせる出題である。今年は受験生の「論理的構想力」により力点を置いた問題になった。昨年の出題と本質的なつながりをもつ問題なので、過去問研究を十分したかどうかで差が出るだろう。
*解説は『オンライン参考書』にあります。
【環境情報学部・2010】
問題1
資料では電子的な図書館が「グローバルなデータベース」であることから生じる問題が扱われている。それは言語を用いるテキストデータの大半が英語で書かれることになるという問題である。世界共通のデータベースには共通語が必要とされ、それが現代では英語であるということ、また、英語圏でテキストデータのスキャニングが最も進んでいることがその原因である。その結果、日本語が直面する「翻訳」の問題が資料A−2とA−3に示されている。第一に、日本語使用者以外の人に日本語テキストをデータベース上で使ってもらうためには翻訳が必要だが、作家の意図や文化的背景などのニュアンスは翻訳が難しいことである。そのため日本語使用者は「世界中に発信できる」という電子的な図書館のメリットを生かせず、ネットワークの中で日本語が閉ざされた言語になってしまう可能性がある。第二に、学術の世界では英語の共通語化が進んでおり、日本人研究者も英語で表現しなければ世界に発信できない問題がある。そこでは翻訳の難しさに加えて日常生活で日本語を用いる意味が薄くなり、教育における日本語不要論なども生まれる恐れがあるだろう。
問題2
書物と比較した電子テキストの長所は、第一に自由に検索できることである。印刷物の索引には限定された項目しかないが、電子テキストでは長い文章から一文字単位まで検索できる。第二に電子テキストは単なる電子情報なので、更新、加工、流通、複製、蓄積が容易なことである。電子テキストの短所は、第一に端末機器を使うため書物より重く、使用場所が限定されることである。またディスプレイは印刷物よりも読みにくく、事故でデータが消える可能性もある。第二に、ネットワーク上の電子テキストは自由に発信できるため、内容の正確さや信用性に疑問があることである。第三に、電子テキストからは文化的背景を読みとるのが困難なことである。
問題3
電子図書館の意味は、第一に情報コストの削減である。例えば、普通の図書館の貸出期間は限られており、図書館に本がない場合は自分で購入しなければならない。研究書は高価なものが多く、学生には大きな負担である。しかし公開された電子図書館ならば、無料で新旧の専門書を読むことができる。さらに、電子図書館は時間と場所を選ばず、現地調査の間にもデータベースにアクセスして情報を検索し、時間を有効に使える。第二に、だれもが情報を共有できるので地域格差がなくなる。大学の図書館規模による研究環境の差がなくなるので、国内的にも国際的にも共同研究がしやすくなる。
電子図書館の使い方として第一に重要なのは、検索機能の特質を生かすことである。学生が限られた期間に多くの書物に目を通すことは難しい。しかし、検索機能が強化された電子図書館では横断検索が可能である。一つのテーマについて幅広い時代や地域から文献を探したり、異なった分野間の関連を調べたりする時、このような検索機能が力を発揮する。第二に重要なのは、書物による検証である。電子図書館には不正確な情報も多いため、データをそのまま研究に使わず、書物や複数の資料で確認する作業が不可欠である。第三に、英語以外の言語も学ぶ必要がある。資料Aにある通り、英語以外のテキストデータはその言語使用者の他には利用されない可能性が高い。しかし、異なった時代や異文化の文化的背景を理解するためには、そこで使われた、あるいは今も使われている言語の理解が必要である。これらの使い方に沿うならば、電子図書館は学習・研究活動を強く支えてくれるものになると私は考える。
【難易度】
例年よりやや易しい。【出題の傾向】
2001年度の「デジタルビジネスの企画」、2005年度の「インタフェースデザイン」、2006年度の「21世紀にふさわしいモノやサービス」などの類題である。特に私の2006年度の解答例では今年度の内容に近い「電子著作権」を扱っている。資料の理解を前提にして考えを述べるというオーソドックスな出題は取り組みやすかったであろう。出題の背景には、昨年日本の文壇を騒がせたグーグルの電子図書館・電子書籍問題、また、最近どの大学でも問題になっている「ウィキペディアのコピーによるレポート作成」などがある。デジタル関係のニュースに注意し、過去問研究をしておけば難しくない。
*解説は『オンライン参考書』にあります。
【法学部・2011】
筆者はまず、抵抗権を「良心の問題」と「法律的根拠の問題」に分けている。良心の問題としての抵抗権は道徳的・宗教的な「正しさ」に基づいており、そこでの抵抗とは倫理的な意味での不正に対する抵抗である。これが自然法としての抵抗権である。一方、法律に具体的根拠をもつ抵抗権は法の枠組みの中で定義されており、合法である限り権利を保障される抵抗である。これが実定法としての抵抗権である。
具体的に定められた法について正当性を研究する法実証主義の立場では、実定法としての抵抗権だけが法的に認められる。これが合法的抵抗権である。それに対して、法律で定められていない抵抗権もしくは法律そのものに対する抵抗権がある。法実証主義では、こうした抵抗権は認められない。これが超実定的抵抗権である。しかし、それが歴史上「市民革命」などの成果を生み出したことは事実である。超実定的抵抗権は今でも社会的な力として認められており、同時にそれは良心の問題に属している。良心の問題について議論するのは哲学の役目であり、それゆえに筆者はこれを「法哲学の問題」だと考えている。
最近、エジプトで独裁的な性格をもつ長期政権が市民の抗議行動で倒れた。近代的な憲法と民主的な選挙制度があるのに抵抗運動が生じるのは、制度が公平でない証拠であろう。例えば、日本でも国政選挙における一票の格差が大きかったり、地方自治体で知事や市長と議会が対立したりする。一票の格差が大きくなれば都市住民の意思が国政に反映されない。また、地方自治体の首長も議員も住民が選んでいるはずなのに対立が起こるのは、地域における利害関係が自由な投票行動を阻んでいるからだ。こうした問題の裁判は多いがなかなか市民の側が勝てないのは、課題文にある通り、権力をもつ側が自らの定めた法と権利を「力」で守ろうとするからである。
それに対する超実定的抵抗権は、民主的制度が機能している国でも意味がある。例えば非政府組織(NGO)の活動も、現実の政治や法律に欠陥があるために生まれるからだ。失業者が増え、若者も高齢者も福祉のシステムから抜け落ちてしまう社会では、待っていても生活はよくならない。そうした時に新しい政策立案や政治運動を生み出すのは超実定的抵抗権を支える哲学であり、現代社会にもそれが強く求められていると私は考える。
【難易度】
基本的な問題。【問題の傾向】
この数年の傾向を踏襲して、法と政治の基礎づけに関連する問題である。内容的関連としては、2007年の「法的正義」、2010年の「ギリシャのポリス社会における正義」に続いて「抵抗の正当性とは何か」を考えさせる問題である。課題文の議論が明確であり、対立項目の根拠(概念の定義)に目をつければ、議論を整理するのは容易だろう。具体例も最近の社会問題である「エジプト政変」「名古屋市の住民投票」「派遣切りやネットカフェ難民に対する非政府組織の援助活動」など、身近な問題が使える。過去問研究と時事問題理解が大切である。
*解説は『オンライン参考書』にあります。
【環境情報学部・2011】
問1
私は「生きがい」を測定し社会政策の基礎にしたい。今、日本では路上生活、ネットカフェ難民など、家を失った失業者が年々増加している。就業している人も人減らしの余波で激務を強いられている。大学生の就職状況も悪化している。社会全体が「生きがい」を感じられない状態になっている。自殺する人が年間3万人を超える状態が続いているのも、そうした社会情勢と関係が深い。ゆえに「生きがい」中心の社会づくりが重要である。
問2
「生きがい」を科学的に測定するために、私は「生きがい指数」を提案する。「生きがい」は主観的なものと考えられてきたが、それを客観化するために「脳の状態」「身体の健康状態」「表情によるコミュニケーション能力」の三つを測定し、それらを総合して「人が生きがいをどの程度感じているか」を表現したい。重要なのは「表情によるコミュニケーション能力」の測定である。人間にとって表情は心的内容の表現であり、コミュニケーションの基本である。心が抑圧状態にある時、表情は暗くなり、変化が乏しくなる。客観的測定のためには、それを数値として表現しなければならない。表情測定技術はカメラの笑顔検出に応用されている。この技術を発展させ、表情を構成する顔の輪郭線を三次元のベクトルデータとして精密に計測し、多様な文化に属する人々を含む十分な量のデータから表情とその変化がどのような心的状態と結びついているのかを理論化する。
問3
新しい単位は「生きがい指数」である。これは人が感じている「生きがい」を客観的に数値で表現するものだ。第一に脳の状態を脳内のセロトニン量と脳血流量の偏差値で表す。第二に身体の健康状態を睡眠時間と血液検査値の偏差値で表す。第三に表情によるコミュニケーション能力を単位時間当たりの表情とその変化で表す。笑顔が得点が高く、表情に変化があると得点が高い。以上の三つの要素の和が「生きがい指数」である。
問4
生きがいを感じている人は「笑顔になる時間が長い」「本や映画を楽しむことに関心をもつ」「人と接することに関心をもつ」などの行動における特徴をもつだろう。これらは心理学や精神医学の臨床的研究で積み重ねられた診断と関係が深い。しかし、実際の医療現場では個別のクライアントに相談時間がかけられず、「検査データではどこにも異常はない」と言われて失望する受診者も多い。「生きがい指数」を用いると、表情の読み取りによって「測定時点での気持ち」と「コミュニケーションによる気持ちの変化」を知ることができる。脳や身体の状態は偏差値で標準化されるので、特に脳や身体の疾患がない人の心の悩みを測定できることが重要である。人間関係の悩みや人生の見通しに関する悩みは本来「病」として扱われず、そのために自殺や傷害事件が起こる度に「なぜ手遅れになったのか」が問題とされてきた。「生きがい指数」が精神的に健康な人より低い場合、あるいは継続的に観察して低下している場合は「悩みがあり、生きる喜びを感じられなくなっている状態」と考えることができる。測定の方法も、表情をビデオカメラで撮影しコンピュータ処理するだけなので簡単である。このような測定システムは医療の場だけでなく、学校などでも使うことができる。それらのデータを元にして、個人にとっての「問題の深刻さ」を他者が知り、サポートに役立てることができると私は考える。
【難易度】
やや難。
【問題の傾向】
2004年度「問題発見と解決の方法」、2005年度の「インタフェースデザイン」、2006年度の「21世紀にふさわしいモノやサービスの発明」などの類題である。いくつかの資料を参考に示し、大学に入ってからの研究方法や研究の目的を述べさせる問題と言える。ここ数年続いている問題形式でもあり、過去問研究をし、自分で書いてみた受験生にとっては難しくない。「大学で何をしたいか」という意欲を表現する点では、一種の志望理由書とも言えるだろう。
*解説は『オンライン参考書』にあります。
【法学部・2012】
二つの課題文に共通する考え方は「法の否定」である。未来国家1では「脳を条件づけするプログラム」が法に代わって人々を支配し、未来国家2では「出生前選別」が犯罪傾向のある遺伝子を排除して法の扱う犯罪の可能性そのものをなくしてしまう。どちらも言わば「発生前犯罪」を防ぐことによって「法による処罰」を不要にしてしまうのである。その理想像は「法なき理想世界」であろう。
このような犯罪管理に意味があるとすれば、まず第一に「法コストの削減」である。違法行為が生じた場合、その摘発と解決には警察・検察・弁護士・裁判所・刑務所など多くの組織や施設が必要であり、裁判には長い時間がかかる。もし犯罪行為そのものの発生を防ぐことができれば、これらは不要になって莫大な税金を節約できる。第二のメリットは「処罰の公平性」である。犯罪行為は摘発されなければ存在しないのと同じである。「捕まらなければ処罰されない」ので、犯罪者は時効まで逃亡する。発生前に犯罪を消去してしまえば「見逃し」はなくなり、処罰される者とされない者ができる不公平は解消される。
しかし、法の意味を深く考えると「法なき理想世界」には根本的な問題がある。第一に「発生していない犯罪は犯罪か」という問題である。たとえ「犯罪前の共同謀議」を摘発できるとしても、それが犯罪になるのは凶器や逃走手段が現実に準備されている場合である。「犯罪の原因になる要素も犯罪だ」と考えると、課題文のように思想を摘発したり遺伝子を摘発したり、時間をさかのぼって犯罪を定義することになる。すると、ある人の犯罪可能性を無限にさかのぼり、その人の親族・友人・教師など、あらゆる関係を犯罪の原因としなければならないだろう。これでは犯罪に関わらない人はいなくなってしまう。
第二に「善と悪は時によって入れ替わる」という問題がある。武士にとって正義であった仇討ちが現代では犯罪であるように、社会の変化によって法は変化する。その根源は人間がもつ多様性と柔軟性である。コンピュータのプログラムはすぐ古くなるし、教養人の家系から犯罪者が出ることもある。さらに、高潔な人も時に過ちを犯す。そのような人間存在だからこそ、環境の変化に対応し、文化を積み重ねることができたのである。
以上の考察から、「法なき理想世界」はフィクションの域を出ないと私は考える。
【難易度】
基本的な問題。昨年より易しい。
【問題の傾向】
この数年の傾向を踏襲して、法の基礎づけに関連する問題である。課題文の議論が明確であり、議論を整理するのは容易だろう。最近の社会問題である「監視カメラの増加」「出生前診断」などがSFの世界だけでなく現実の法や国家の基礎と関わっていることに注意を促す問題である。
*解説は『オンライン参考書』にあります。
【環境情報学部・2012】
問1
私が印象的な関わりをもった製品としてすぐに思い出すのは「先割れスプーン」である。一時期は学校給食の場で広く使われ、現在でもコンビニエンスストアで弁当を買うと必ずついてくる。形態としてはスプーンの先に櫛の歯のような切れ込みを三つほど入れたものだ。発想の出発点は、おそらく「スプーン、フォーク、箸をそれぞれ準備し、洗うのは手間も費用もかかる。一本の食器で済ませたい。」「洋食でも和食でも、個体でも液体でもヌードルでも食べられる食器がほしい。」ということだったのであろう。
これを使って私が感じたのは「何でも食べようと思えば食べられるが、何を食べても食べにくい」ということである。つまり、汎用の道具を作ったが、不満も広がってしまったのである。なぜ私は先割れスプーンに不満を感じるのか。それは「すくう・刺す・挟む」というスプーン、フォーク、箸の機能から、個別の特徴を引き算して作った道具が先割れスプーンだからである。むりやり一本にまとめるために、伝統的な食器のどの機能も犠牲になってしまったのである。
問2
道具を考える場合に大切なのは、「作る技術」だけでなく「使う技術」である。課題文のiPodでは好きな曲を好きな順序で編集することが可能になり、だれでも「音楽ディレクター」になれる体験ができたのである。食器にもこの考え方は応用できる。「使いやすい道具に自分でアレンジできる」ことを目標にし、デザイナーはその基盤「プラットフォーム」を作ることで多様なニーズを満たすことができる。
この考え方に基づき、先割れスプーンの改良を考えてみよう。まず現在の先割れスプーンの素材であるプラスチックを、可塑性のある形状記憶プラスチックに変える。これは自由に曲げて変形でき、しかも湯につけると元の形に戻る素材である。リサイクルすれば他のプラスチック製品と同じように再使用できる。スプーンの形状としては、一本の食器の一端にスプーン、別の一端は切れ込みを一本入れたフォーク状にする。全体の長さはやや長めである。液体を飲む時、米飯などをすくう時はスプーンを使う。何かを刺す時は反対の端を使うが、中央部で二つに折り曲げ、ピンセット状にして挟むこともできる。可塑性があるので、一度曲げるとそのままの状態を保持する。箸の場合、一本だけ落としてしまうことがよくあるが、ピンセット状になればよりつかみやすい。何度も使う場合は、洗う際、湯にしばらく入れて元の形に戻せばよい。
社会の高齢化が進み、広い年代の人々がスーパーやコンビニを使うようになった。手の機能に合わせた食器を自分で工夫できる「変形自在スプーン」は、「先割れスプーン」に代わり、多くの人に役立つと私は考える。
【問題の傾向】
2005年度の「インタフェースデザイン」、2006年度の「21世紀にふさわしいモノやサービスの発明」などの類題である。日常生活の中で感じている不便さなどを振り返り、その解決方法をデザインという手段で述べさせる問題と言える。何度も出ている問題形式であり、過去問研究をし、自分で書いてみた受験生にとっては難しくない。
*解説は『オンライン参考書』にあります。
【法学部・2013】
明治前半の内閣制度発足当時、政治的問題は主に三つあった。第一に薩摩・長州出身有力者による藩閥政治、第二に有力者が牛耳る各省の割拠状態、第三に太政官制から議院内閣制への過渡期における不安定要素である。これらの問題に対応して、第一に内閣の大臣を薩長同数にしてバランスをとると同時に、寡占状態のメンバーから首相を選出することが要求された。第二に各省の大臣が同時に国政全体の決定にも参与するという内閣制度の下では、集団指導システムである太政官制のようには談合と調整のメカニズムが働かなかった。第三に内閣総理大臣が資質と投票によって選ばれるのではなく「維新の功績」や派閥力学で選ばれるために、だれに対して責任を負うのかが不明確であった。
課題文に示されている内閣制度誕生時の状況は、現在と似た側面をもっている。議院内閣制で首相が公選されることを除けば、大臣が政党内の派閥や連立与党との関係から「均衡」を主眼に選ばれる現状。また出身官庁や省庁間の利害対立を背景に特定の省庁と強く結びついた「族議員」の存在。そして何よりも総理大臣が「利害が対立しかねない問題が生じたときに発動する談合・調整の役割」を担っていることである。
だが、現在必要な首相のリーダーシップの強さは、過去のように金脈や官僚支配力を背景にした調整力ではない。なぜなら、グローバル化が進んで国家自体がもはや強力な統制力をもたず、その役割はすでに首相不要の「調整者」に近くなっているからだ。例えば緊急の政治課題であるTPP問題や領土問題は、ボーダーレスの時代に「ボーダー」を守ろうとする試みであるがゆえに、以前のような「調整」では解決が困難なのである。
したがって、首相には矛盾する課題に取り組む両義的なリーダーシップが必要だと言える。まず「平時の調整役・危機の指示役」を両立させることが必要だ。大震災からの復興や原発事故対応には利害調整と未来像の提示が必須だからだ。次に「全体に対して方向を示す・個々に対して妥協点を探る」役割を両立させることが必要である。現代社会では地域的問題がそのまま日本全体、さらにグローバルな問題へとつながっており、部分の独立と同時に全体の統一を実現する合意形成が常に求められているからだ。
以上が私の考える内閣総理大臣に必要なリーダーシップである。
【問題の傾向】
政権交代に合わせたタイムリーな出題である。2001年度に総合政策学部で出題された「21世紀日本の政治とリーダーシップ」の類題と言える。ジャーナリズムでもよく見かけるテーマ。ただ、求められるリーダーシップについて深く論じるためには「対決姿勢の独裁的リーダーシップ」や「戦前体制へのあこがれ」などを超えた、共生社会の目標を理解している必要がある。そうした内容で差がつくだろう。
*解説は『オンライン参考書』にあります。
【環境情報学部・2013】
問1
私が習得した身体知はギター演奏である。私は中学生の頃ギターを弾き始めた。教則本を買って基礎練習の方法を読み、ある程度上達すると好きなアーティストの楽譜集を見ながらコードを覚えた。ギター伴奏で歌うことが主だったので、後はいかに多くのコードを覚えるかが問題だった。しかし、ある程度弾けるようになったところで限界がやってきた。うまく弾こう、速く弾こうとすればするほど、ミスが多くなってしまう。今考えると、基本の段階で先生につくべきだった。なぜなら高校に入ってからプロのギタリストにレッスンしてもらう機会があり、私の欠点を教えてもらえたからだ。私はまず、全身に力が入り過ぎだった。弾き過ぎて指関節を痛めてしまったり、練習後の肩こりに悩まされたりしていたのだ。先生から必要な時だけ、必要なところに力を入れるというアドバイスを受けて実践してみると、力を入れずに演奏ができ、技術も少しずつ向上したのである。
問2
ギターの演奏を向上させるためには、適切な力の使い方が大切であることがわかった。今までの練習法では、まず弦を押さえ、弾くという「力を入れる」動作から入る。しかし、加減を知らない初心者は音を出すために力を入れすぎてしまう。そこで、私はバイオリンのようにフレットなしの電子ギターを提案したい。このギターでは弦を押さえる部分全体がセンサーになっている。指が触れる位置をギター内蔵のマイクロチップとセンサーが感知し、奏者がどの音を出したいのかを判断して電子音を鳴らす。押さえる位置がずれていても、力が弱くても、ギターの側で「奏者の出したい音」を読みとってくれる。また、編集機能でぎこちない演奏を聴きやすく直してくれる。こうすることで、手の大小や運動機能の差異を超えて、演奏を楽しむ姿勢が生まれる。それから通常の楽器に戻れば、難しくて途中で止めてしまうことも減るだろうし、新しい楽器だけを楽しむことも可能になる。
問3
私が提案する科目名は『自然な力の使い方をするための身体の脱力法と入力法』である。
授業では、第一に身体の緊張を知るために3Dスキャンで全身データをとり、標準的データと比較して「体の歪み」を知る。第二に動作による身体変化を調べる。その際の技法は、医学面では可動域に関する解剖学的診断、心理学面では動作訓練などの緩めと入力の練習、スポーツ科学面では筋力バランスや運動機能の測定である。第三に、伸ばしたい身体知のどこで自然な脱力と入力が必要かを各自が検討し応用する。ギター習得経験で言えば、ギターを抱える姿勢や左手と右手の力の入れ方など、あらゆる面で不要な入力をやめ、自分にとって最も自然な演奏法を見出すことができるだろう。他分野でも、キーボードの打ち方から安全なスポーツ練習法まで、広い分野で身体知が深まると期待できる。
参加学生数は20人程度。評価は各自が取り組む分野での技能向上に関して、履修開始時と修了時の映像や身体データの比較で行う。これは個人の身体特性に配慮しながら行なわれる。この科目では学生と教員が身体的経験を共有しながら学び合う。身体は多様性をもつから、教員にとって教科書的な一般論は通用しない。各人と向き合うことで、教員も毎回「身体」について新たな発見をし、学生も今まで気づかなかった自分の身体を発見する。このような学びのあり方こそ未来創造塾にふさわしいと私は考える。
【問題の傾向】
身近なところで問題を発見し解決の方向を述べるという出題である。過去の「問題を自分で作る」(2004年)、「研究プロジェクトの企画」(2007年)、「現代の問題を計量する」(2011)などに強く結びついた問題。ゆえに、過去問を研究してそれぞれに自分の解答を作ったことのある受験生にとっては「予想通りの問題」とも言えるだろう。
*解説は『オンライン参考書』にあります。
【法学部・2014】
課題文では「ケアの倫理」と「正義の倫理」が対立するものかどうかについて検討がなされている。政治の目的は正義の実現であるが、その内容は「他者の権利と競合する自らの権利の主張、権利の順列と調整」である。この「正義の倫理」は国家の権力に対して「個人」を守る人権の思想に基づいている。ところが、女性が家事労働に従事して家族外の社会で活動が困難になるような現実は、これまで正義の倫理では説明されてこなかった。それは個人の行為について「自由意志か強制か」という二者択一で説明する、古い政治的主体像に依拠してきたからである。
こうした筆者の分析は「子どもやサポートを必要とする大人」が「個人」の枠組みから抜け落ちていることを示している。近代的個人が「自立し、生き方を自己決定する存在」であるのに対し、ケアしてもらわなければ生きていけない人々は「国家に対立する個人」ではない。その人たちのケアに専念する(せざるを得ない)女性もまた、自立した個人とはみなされない。このように自立した個人を狭く規定する自由主義的制度の下では、多くの人が政治から排除されてしまう。非正規労働の若者、路上生活者、生活保護利用者などが「自立への努力が足りない」と決めつけられ、支援が切り捨てられているのはその実例である。
古い自由主義的政策を変えるために、「ケアする権利」を基本的人権として認める考え方は有効である。筆者はそれを正義の倫理に対立させるのではなく、正義の見直しにつなげようとしている。「他者への共感、自己批判、より弱いものへの視線」というケアの倫理が「世代・性差・能力・出自を超え、全ての成員をつなぐ」という行動につながるからである。
「ケアする権利」はフェミニズムの観点から提出された概念であるが、ケアの倫理はボランティアなど「自発的行動によって他者と深いかかわりをもつ」活動全般に通じる基盤である。女性の「自然・本性」による家族ケア論を超えた多様な家族のあり方、個人の孤立によって分断された地域社会を再生する活動、環境問題などグローバルな視点からの公共性など、そこから再検討できる問題は多いと私は考える。
【問題の難易度】
標準
【問題の傾向】
ここ数年続いている「正義」「権利」「制度」の理論的再検討に関連する問題。 生活保護見直しで「家族の扶養義務」が問題になったり、NHK経営委員の「良妻賢母発言」など、タイムリーな話題と合致する内容である。 課題文の読み取りは難しくないが、綿密に組み立てられた論文なので「内容のまとめ」に終始してしまう恐れがある。 二元論的な発想を批判する筆者の意見を読み取ると共に、それがどのような問題につながるかという応用力を問われる出題と言えよう。
【環境情報学部・2014】
問題1
A 当事者意識から生まれる合意
B 動的な利害調整システムによる合意形成
C 理論が現実を創る
D 多様な部分としての生物が生み出す綜合的環境世界
E ネガティブな想像力としてのSF小説
F 「聞く」ことから始まるボランティア
G 海岸線に見る日本の自然改造
H 観測と仮説の相互関係
I 成長か自足か、選択の時
問題2
(1)E G H
(2)
私がテーマとするのは「部分の多様性と自由な振る舞いを尊重することが全体のまとまりを生み出す」という考え方である。AとBは部分の自発的活動が利害調整システムを生むという内容。相手の立場を尊重するというFもこれに関連する。Dは生物多様性が綜合的環境を成立させると述べ、Iはそうした環境の安定と人間だけの利益の選択を問う内容である。これらの共通点は思想によって人間の行動が変わることであり、Cはその根拠を示している。これらに対し、Eのネガティブな想像力で書かれるSF小説、Gの日本における海岸線の改造、Hのオゾンホール発見の経緯は、いずれも「部分と全体」という主題が明確でないので私は採用しない。
問題3
この本を編集することになって、私がテーマとして考えたのは「部分の多様性と自由な振る舞いを尊重することが全体のまとまりを生み出す」ということだ。今年は第一次世界大戦の始まりから百年目である。この一世紀、世界は分裂から連合への激動を体験した。近代化を進める多くの国が自らの独自性を主張して競い合い、大戦につながった。その反省から国際連盟が生まれたが、それは強国の利益配分会議であった。第二次世界大戦は防げず、戦後の世界でも東西対立に見られる優劣と利益争奪の競争が続いた。
しかし20世紀の終盤、世界は新たな問題に直面した。それは地球環境問題である。その解決が難しいのは、一惑星の視点で見る時、大気や海洋には境界がないことである。つまり、環境問題では「私の問題」と「他者の問題」は常に連続し、人類にとってどれも「私たちの問題」なのである。大戦後の国際連合は、本来武力闘争を防ぐ目的で作られた。しかし、現代の課題は地球環境を守るための連合である。
この百年間、争いは「自分だけの利益を守る」ことが原因だった。だが、地球環境は多くの生物が互いに深く関わり合いながら安定を保っているシステムだ。「多様な部分としての生物が生み出す綜合的環境世界」の章はそれを説明している。人間は極めて利己的であるが、話し合って協力することもできる。その際に大切なのは「私たち」意識である。「当事者意識から生まれる合意」「『聞く』ことから始まるボランティア」の章はその実例である。各人の異なった利害を認め尊重すれば、利益重視の企業さえ自分の問題として環境問題を考える。それは「動的な利害調整システムによる合意形成」の章で示した。
私たちは「成長か自足か、選択の時」を迎えている。ただし、それは百年前の「自民族が生き残るか、他民族に服従するか」という支配関係の選択ではない。一人一人が自分で考え、自由な選択をし、しかも地球全体が安定して次世代を養える状態をどう実現するかの選択である。「部分が独立しながら全体は安定している」ような有機的社会の実現は不可能だという意見もあるだろう。しかし「理論が現実を創る」の章にある通り、理論によって行動を変えるのが人間なのである。今、この本を通して第一次大戦から百年目の年に、これからの「地球と人間」の百年を読者に考えてほしい。これが私の願いである。
問題4
『百年目の見直し 一人一人と調和的全体』
【問題の難易度】
標準
【問題の傾向】
年度によっては、環境情報学部の複数課題文を全部読む必要のないこともある。しかし今年はそれぞれの文章に見出しをつけ、関連を考えて自分なりに編集するという課題である。課題文を無視するわけにはいかない。「編集工学」と呼ばれる分野の問題と言ってもよい。難しくはないが、時間との戦いになる。読解力とまとめる力、自分の主張の文献的論拠を探索する力など、総合的な文章力が試される実力主義的な問題であると言えよう。
【法学部・2015】
「生物多様性」は生物種の保全の必要性と重要性を喚起する言葉だったが、生物多様性条約が作られると「保全」と「利用」という目的の対立が浮かび上がってきた。それは生物種の「共有財産」としての側面と所有・利用される「資源」としての側面の対立である。これが先進国と途上国の対立として顕在化し、「利益の公正かつ衡平な配分」という第三の目的が提唱された。その後「利用」の側面が強調されるようになり、生物多様性はグローバルな商品としての経済価値・交換価値で論じられている。しかし、生物多様性を守ってきた担い手は地域社会であり、そこで認められてきたのは使用価値である。生物相互のつながりに価値があるように、地域相互・地域と世界の関係が重要であり、各地域社会が生物多様性の保全・利用の主体として豊かになるべきである。そこから生まれる価値は「関係価値」であり、それは地域・世界あるいは生産者・消費者がつながることで豊かになる価値である。
筆者の述べる「関係価値」は、近代的思考の大きな枠組みを見直す発想である。西欧から生まれた近代合理主義は社会を分析して「個人」という最小単位を見出し、個人の自由や欲望の充足を優先してきた。それが生物多様性を危うくする経済発展の原動力でもあった。しかし、物質的に豊かになった現代社会では、地域社会や家族の結びつきが弱くなってしまった。一人一人の個人を見れば確かに多様ではあるが、人間同士のつながりは希薄になり、地方と都会の区別なく人々は孤立している。経済成長以外の生きる意味が見えず、生き方の豊かさ、つまり関係価値が失われているのである。
日本では、この二十年間に阪神淡路大震災と東日本大震災という二度の自然災害があり、「つながること」の意味が再検討されてきた。戦後の半世紀にわたって経済成長が社会の目標だったが、それが停止した時、何が重要なのか考えざるを得なくなったのだ。「地域興し」「介護」などは経済問題として論じられることが多い。しかしその本質は「つながりの回復」である。コストの負担以前に、他者の生き方を想像し、他者を支えることで「自分は何のために生きるのか」を自覚する契機が与えられることが重要だ。これが関係価値の回復につながると私は考える。
【問題の難易度】
標準
【問題の傾向】
ここ数年とはやや違う、社会関係を問い直す問題。課題文は自然保護の議論だが、社会問題につなげて考えるところがポイント。戦後70年、阪神大震災20年という節目の年らしい問題と言える。
【環境情報学部・2015】
設問1
A 「二輪の革命」 自転車が馬や人力車を過去のものにした
B 「インターネット40年」 使い手が作り手というシステムの誕生
C 「半導体のビックバン」 シリコンが人類に新しい光を与えた
D 「現代の魔術」 想像が形になる3Dプリンティング
E 「ムダから創造へ」 リサイクルは手の可能性を再発見させる
F 「冷凍で時間を止める」 食品保存の革命と環境への負荷
G 「セキュリティ社会を支える」 暗号技術がネットワークの安全性を守る
H 「だれもが起業家」 発想の転換でコストのかからない流通を実現
設問2
【課題領域】
分配の不公平
【未解決の問題】
世界経済において、食糧を代表として分配の不公平問題が生じている。先進国では食べ残しや期限切れ食品が大量に廃棄されているのに、途上国では慢性的な栄養不良や餓死が発生し、そこに生まれた人々の平均寿命を引き下げている。こうした貧困はテロによる問題解決への支持を高め、全世界的な社会的安全の危機にもつながる。
設問3−1
世界は相変わらず貧困とテロの解決に苦しんでいます。しかし改善への光も見えてきました。この30年、私は「無料化システム」を普及させるために世界30カ国で活動し、多くの仲間を得ることができました。食糧・エネルギー・保健・教育を無料化することによって、地球は本当にみんなのものになるのです。
設問3−2
私がSFCの学生だった頃、緊急の課題は格差拡大と無差別テロでした。この二つには密接な関係があることを私は大学での講義や研究会で学び、実際に南米へ旅行してストリートチルドレンの保護施設を訪ねるなどし、問題を自分の目で確かめました。問題解決のため、私はできることから始めました。卒業後まずNPOの職員となり、生活保護を受ける人たちの支援に従事したのです。そこで直面したのは「予算不足」でした。そこで私が目をつけたのは「無料化」です。インターネットがこれほど普及した原点には「無償の受信・発信」という原則がありました。ネットのコンテンツを「生活資源」に置き換えたらどうでしょうか。食糧・エネルギー・保健・教育サービスを無料化できれば、貧困に苦しむ人々に大きな支援を提供できます。
私はそれまでバラバラに行なわれていたフードサポート・自然エネルギー利用・医療ボランティア・教育ボランティアを統合するプラットフォームをネット上に作りました。これらはニーズの多さに比べて提供できる資源や人材が少ないのです。そこで「社会の副産物」を徹底的に回収し、提供する活動を始めました。商品にならない食材、製造工程で出る熱、型の古い機器、資格を活かせていない専門家など、社会には多くの「余力」があります。こうした余力を「足りない人々や地域」に分配することで生活資源の無料化が次第に広がってきました。最初、企業は非協力的でしたが、システムを「投資」と捉えれば違う見方もできます。例えば輸送や加工、人材派遣の費用負担をすれば、利用する人々との間に「新しい関係」が構築されます。格差社会ではありえなかった「人間という資源の対流」が起こるのです。それによって企業の側も「新しい発想」「新しい市場」を開拓することができます。協力企業は今も増えつつあり、これがシステムの原動力になっています。
今「無料化システム」は国境を越え、グローバルに利用されつつあります。世界中の貧しい人々が充分に食糧を得、電気などのエネルギーを使い、ネットで教育を受け、医療相談や診察もネットから始まります。今後はもっと人を動かし、「人材流動の無料化」を実現したいと考えています。あらゆる資源が公平に分配され、「だれもが能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」ような世界は夢でなく、見えるところにまで来ているのです。
【問題の難易度】
やや難
【問題の傾向】
昨年の「編集」問題の応用。今年もそれぞれの文章に見出しをつける課題だが、30年後を想定した講演資料を作るという新しい出題法である。作業として難しいわけではないが、時間との戦いになる。自分が大学で何をしたいのか、具体的な構想がないと時間内に仕上げることができない。過去問に取り組んで実際に書いてみる練習が特に重要である。
【91・文III・第二問】(これ以外の91年度解答例は『スーパー小論文』にあります。)
東京大学
(C)
孔子は「人間は道理に従って生きるべきである。勝手気ままに悪事を行なうのは一時的な満足をもたらすだけで末路は悲惨である。だからお前も善に従うのがよい。」と盗跖に説く。盗跖は「過去の聖人君子、孔子の弟子たちは賢人だったが人生の最後は悲惨だった。また自分は悪事を好むが災いは身にふりかからない。善行も悪行も、いつまでも長くほめられたり、長くそしられるわけではない。だから自分の好みに従って生きるべきだ。現に道理を重んじるお前も二度も魯を追われ、衛にもいられなくなった。お前の言うことはばかげている。さっさと帰れ。」と答える。孔子はこれを聞くと言うべき言葉もなく急いで帰路についたが、よほど気後れしたのか轡を二度も取り外し、鐙をしきりに踏み外した。これを世の人は「孔子倒れする」と言う。以上が課題文の要約であるが、作者は聖人としての孔子像を破壊することで、いかなる価値も相対的であることを主張しようとしていると考えられる。以下の文章で、私は反対する立場から盗跖の説を論じてみたい。
盗跖の説を言い換えれば、その価値が経験的に実証されない道徳は無意味だということになろう。ここに道徳的価値は普遍的か否かという問題が出てくる。問題は盗跖の主張する「賢人たちの悲惨な末路」があくまで他者から見て「悲惨」であることだ。当人たちは自らの人生を主体的に道理に従って生きたのであり、そこに後悔があったとは考えられない。彼等の生き方が為政者と相容れなかったりしたのは結果に過ぎない。それを「善行は報われなかった」と考えるのは盗跖の見方である。ここから、道徳的価値は主体的な生き方と強く関わり、他者が客観的に有用性を実証できるものではないことがわかる。それでは、主体的に選びとられる道徳的価値は、生きる時代や場所の違う一人一人にとって異なった意味を持つ個人的なものなのだろうか。もしそうならば、人生は自分の好みに従って生きるべきだという盗跖の説と同じ結論になってしまう。
私は、道徳的価値は個人的なものではなく普遍性を持つと考える。好みに従って生きることと主体的に道徳を実践することの違いは、社会的性格にある。つまり、道徳的価値は必ず社会的規範という性格を持つ。それに対し、「好み」に従って善や悪を行なう場合には、たとえその行為が結果的に善であっても社会的性格はない。それはあくまで個人的で恣意的な行為である。時代が変わり、場所が変わっても人間が社会的な生き物であることに変わりはない。従って、人間の社会性が変わらない限り、社会から生まれた道徳的価値には普遍性があり、守られるべきだと言えるのである。価値の相対性がこの説話の主題であると考えられるが、それは道徳的価値の否定ではなく、儒教的道徳規範が主体性のない、上から押しつけられる権威となることへの批判に重点を置いたものとも読み取れるだろう。【92・文IIA・第1問】
設問(1)
1970年代後半までの20年間の高度成長期に、高度成長政策に関連する既得権益をもとに「新中間階層」が成立した。新中間階層の特徴は生活様式と意識の均質化・平準化が著しいことである。消費様式の画一化、全国的な都市化、高等教育の大衆化、マスコミの発達などによって、新中間階層に属する人々の生活と意識の間に、かつて都市と農村、ブルーカラーとホワイトカラーを隔てていた基本的な差はなくなった。戦前の中産階級と異なり、現在の中間階層は自分を区別すべき下層・上層の階級を持たない。その点で新中間階層は政策依存的で不安定であり、既得権益を守るための分権システムを支持する現状維持的側面と、生活基盤の弱さと生活の均質化に不満を抱く現状批判的側面の二面性を持つ。新中間階層は脱産業社会を目指す最後の歴史的主体であり、その多面的性格を捉え得る新しい政治的思考の可能性も含めて、現在の日本社会は先進国中のテストケースである。設問(2)
この10年ほどの間に階層帰属意識に現われた変化とは、表1によると、自分の生活程度を「中の中」と答える人が減少し、「中の下」「下」と答える人が増加したことだ。またライフ・スタイルも「勤勉・上昇志向型」から「私生活・ゆとり重視型」へと変化したと考えられる。表2で物の豊かさより心の豊かさを重視する人が増加し、表3で仕事・勉強よりも私生活上の楽しみに充実感を感じる人が増加しているのはその現われであろう。
この変化の原因は新中間階層の二極分化にあると私は考える。新中間階層は経済が高度成長を続けている間は安定していた。しかし、1980年代に日本が世界的経済大国になり、高度成長が一段落すると共に、「大国」という名前からはかけ離れた貧弱な社会資本と不充分な社会福祉制度が強く意識されるようになった。勤勉に定年まで働き続けても家一軒持てず、僅かな年金では老後の生活も苦しい現実に、人々は新中間階層の中にも資産格差があり、「持たざる者」がいることを新たに意識せざるを得なかったのである。
生活様式から見ると、階級対立による帰属意識を持たない新中間階層は、高度成長期には「他人の持たない物」を所有することで自らを差別化した。しかし「物の豊かさ」が飽和状態になり、資産格差が越えられない壁であることがわかると、人々は「精神的満足による差別化」を求める。それが「心の豊かさ・私生活の充実」志向であると考えられる。【92・文III・第二問(A)】
「異文化理解」にはいくつかの側面があることを筆者は指摘している。それは場面に対応した行動様式の認知・行動の実行・情動の共有としてまとめることができるが、異文化に接して特に「理解」が困難なのは「情動」の側面である。筆者によれば、それは「情動」が各人の生きている意味空間と結びついているためなのである。
準則としての行動様式の認知・行動の実行に関しては、古くから「郷に入っては郷に従え」が有効な対策と考えられてきた。これは相手の模倣をして社会生活上の摩擦を回避する方法であり、異文化との接触が短期間に限定されている場合は実用的な効果が期待できる。しかし、異文化との接触が長期に渡る場合には、相手の行動の絶えざる模倣によって、行動主体の側に葛藤が起こってくる。なぜなら、そこでは「知っていること」と「感じること」が分裂しているからである。従って、異文化を理解する上で最も困難なこの問題を克服できるか否かは、異文化に属する人々と「情動につながる文化的文脈」までも共有できるか否かにかかっていると言える。次にその可能性について考察しよう。
ここで私が「情動につながる文化的文脈」と呼ぶのは、筆者が文化の「意味空間」と読んでいるものである。言い換えればそれは文化の有機的な全体であり、価値の体系・社会の体系・自然環境の体系にまで根を広げているものと言えるだろう。そこから一つの重大な問題が生じる。それは、そのような文化的文脈を共有するためには自文化の文脈を捨てなければならないのではないか、あるいは異文化と文化的文脈を共有する者はもはや異文化に属する人間になりきってしまったのではないか、という問題である。もしそうなら、「異文化理解」は「自文化の放棄あるいは破壊」の別名であることになってしまう。
この問題に対する答えは、文化の有機的な性格からすると「否」である。即ち、「自文化の文脈を捨てる」とは、その人をある価値の体系・社会・自然環境から完全に切り離すことであり、既に自分の「意味空間」を持った人間がそれを捨てるのは不可能であろう。それ故に、意味空間の共有・情動面での共感につながる道として考えられるのは、一元的な視点から逃れる努力をすることである。そもそも異文化の中で暮らして認知・行動面と情動面が分裂するのは、異文化体験が自文化の見直しにつながるからだ。異文化に対する時、人は自分の属する文化を基準として一元的な評価を下しがちであるが、自分にとっては正の価値であるものが、異なった価値体系の中では負の評価を受けることもある。その驚きこそ自文化を相対化する最初の体験であり、自文化の相対化を基に異文化の文脈に触れていくことが多元的な視点を可能にするのである。その時、意味空間の一部は共有され、認知・行動と情動の統一は「共感」として可能になるのだと私は考える。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【93・文III・第一問】
(A)
私は「色」を通して芸術を可能にする人間の精神活動の広がりについて考えたい。具体的には、「感覚」「世界認識」「意味づけ」の三つの面から「色」を見ていこうと思う。
まず感覚の面から見れば、色は可視光線の範囲で人間の感覚器官に与えられる情報である。この情報は生物が生きる上で不可欠のものであり、人間もまた例外ではない。例えば、毒を持った生物は、キノコからカエルやトカゲに至るまで、鮮やかな「警戒色」で自らの存在を敵に教える。色を提示する方の生物には自分を守ることになり、それを食べようとする敵にとっては危険を遠ざけることを教えてくれるのが「色」である。さらに、生命活動との直接的な関わりにおいて、色は人間を興奮させたり、静めたりする。心理的に感情と深く結びついたこれらの「色」は、呪術など、芸術の幼年期と結びついている。
感覚としての色は人間が一方的に「受け取る」色だが、世界認識の仕方を詳しく調べてみると、人間は色に対して能動的な関わり方もしていることがわかる。例えば、段階的に濃度を変えた色板を並べ、その中の一枚を取り除くと、人間はその両側の色板から中間の色を類推する。実際に感覚には与えられていなくともその色が「わかる」というのは、心の能動的な働きである。ルネサンス期以来の絵画技法は、このような人間の世界認識の方法を応用してきた。色を利用した空気遠近法では、遠くの風景をうす青くぼんやりと描くことで、我々は二次元の画面に奥行きを感じる。受動的な感覚が「自ら世界を構成する知覚」につながっているのである。芸術が単に「感情の表現」であったり、「見たままを記録する」ためのものであれば、色の機能もこれらのものに留まったであろう。しかし、呪術を超えた芸術が成立するには、さらに重要な精神活動がそこに加わらねばならない。
その精神活動が「意味づけ」である。例えば、宗教においては色が重要な意味を持っている。前述のルネサンス芸術を例にとれば、聖母マリアの衣服の色は図像学的な決まりを持つ。犠牲を表わす「赤」、威厳を表わす「青」、純潔を表わす「白」などがそれである。これらの色は単に感覚に訴えるのみではなく、シンボルとしての表現機能を担っているのである。その意味で、絵画という芸術はシンボルによる表現活動だと言えるだろう。宗教的権威と政治権力が分離した近代以後もシンボルとしての色は生き続け、フランスの三色旗や社会主義国の赤旗に「自由」「平等」などの理念が表現されている。しかし、これは同時に現代の芸術が政治や社会と関わりを持たざるを得ないことの象徴でもある。現代芸術は何を表現すべきかということがよく問われるが、豊かな色彩を楽しめる我々が社会的、文化的な面でも多様な現実を受容するよう求められている以上、現代芸術の使命も多様な理念の表現または再検討にあると私は考える。(B)
西洋と日本を比べると、「作品」としての自画像が多く描かれているのはどちらであろうか。おそらく西洋においてであろう。その理由を探りながら、「自画像」のもつ文化的意味について考察したい。
西洋の画家は近代以前から自画像、またはその習作を多く残している。それに対し、日本の画家が自画像を画家としての修行に組み込まなかったのはなぜなのか。それは主体と客体の対立という西洋精神の在り方に原因がある。西洋では、主体である人間が客体である自然から独立していると考えられた。言い換えれば、人間は自然を対象として知り得る立場にあり、その知識に従って自然を制御できると信じられたのである。ここから、自然界の秩序は主体である人間の主観によって与えられ、主体としての「個人」は、他者から独立した自立的な存在であると考えられるようになったのである。それゆえに、自己を他者の視点から見ることは、自己を客体の側に置く、厳しい自己確認であった。レオナルド・ダ・ヴィンチやデューラーの自画像からは、「科学する人間」「本質を探求する人間」の姿が感じられる。
それに対して日本が自画像の伝統をもたないのは、主客の対立という構図が文化の基礎になかったからである。確かに、明治以後、西洋の影響で洋画家は自画像を描くようになった。しかし、それが西洋の画家と同じく、他者の視点に立って自己を見つめる姿勢の現われだとは必ずしも言えないであろう。なぜなら、同じく西洋から輸入され、明治以後に書かれるようになった「私」の芸術表現としての「小説」は、自己を客観的に見つめ、相対化するのではなく、「私小説」となって自己の閉じた世界を露出するという方向をたどったからである。自己認識の点では、日本的な「自己に対する姿勢」は西洋のそれに及ばないだろう。
しかし、自然科学の成果をもたらした主体・客体の構図は、主観の及ばない自然環境の破壊に直面し、その限界を露呈することになった。また主観そのものに関しても、心理学の扱う「無意識」の領域は、心の中にさえ、自分の知らない部分があることを示している。「確かに知り得る自己」を中心に構成された「理解可能な世界」という西欧近代合理主義の信念は、内的にも外的にも揺らいでいるのである。さらに、「他の主体に関しては知ることができない」という主観の構造は、西洋的人間を、周囲から切り離され、自分も信じられない不安定な孤独に投げ込んでいる。フランシス・ベーコンやルドルフ・ハウズナーの描く歪んだ自画像は、こうした困難な自己の表現と考えられる。従って、近年、日本が異文化に属する西洋諸国から社会的・文化的な「自画像」を描くように求められているのも、主体・客体の構図を乗り越えようとする文化的文脈に深い原因があると私は考えるのである。【93・文III・第二一問】
(C)
課題文には「文化的システムは移植できるか」という問題が含まれていると思われる。ベルツは挨拶の中で、日本人の学ぶべきものが有機体としての科学的精神であると述べている。これは、言い換えれば、科学的成果の背景には時間的・空間的な西欧精神の広がりがあり、これらは全体として「一つ」なのであって、成果をその背景から切り離してはさらなる成長は望めない、ということであろう。近年貿易摩擦でも問題になっている「日本人は基礎研究や知的所有権を無視して研究成果の模倣により利益をあげている」という欧米からの批判は、既に明治期に行なわれていたのである。
ベルツの発言を読む限り、彼は近代科学をその背景となる精神と共に日本に移植できると考えているようだ。「背景となる精神」とはギリシャの自然哲学に始まり、キリスト教によって育てられ、近代合理主義となって花開いた西欧精神のことである。そこでは自然が神の秩序を反映したものと捉えられ、自然を研究することは神の偉大さを明らかにすることでもあった。科学的探求への意欲と献身は強い信仰に支えられていたのである。
仮に、こうした科学を支える精神が日本人にとって受け入れ可能なものであったならば、「和魂洋才」というスローガンが表わしているように、魂の問題と知識の問題を分ける必要はなかったのである。実用性優先の科学の受容は、日本の社会に内在する宗教的倫理規範が、ベルツもその一人である西洋人が「普遍的」と考える倫理規範と相容れないために起こったことに他ならない。ゆえに、文化のシステム全体を短期間で異文化に移植することは、一方の他方に対する文化的征服がない限り不可能であろう。
しかし、文化システムが一方的な移植ではなく「文化融合による新しい文化の生成」という形で他に伝えられるならば、課題文にあるように「日本で科学の樹がひとりでに生えて大きくなれる」可能性もある。その鍵は、西洋人にとっても日本人にとっても妥当する価値の基準・倫理規範を見出すことである。ベルツの言う通り、この基準は科学技術そのものの中にはない。また、一世紀前の基準をそのまま受け入れるわけにもいかない。なぜなら、神から与えられたはずの効率的なエネルギー利用の知恵があらゆる生物の絶滅をもたらす核兵器を生み出したり、命を救う医学の進歩による人口増加が環境を破壊し、逆に貧しい人々の生存を脅かしているからである。西欧精神はこの百年間に普遍的基準の座から転落したとも言える。今、新たな普遍的倫理規範を求めるならば、それは「自然と人間の対立」ではなく、「全てのものが互いに支え合っている」ことに基づき、自然の中の調和や精神的な価値の復権を重視するものになるだろう。日本人が西欧精神から真に学ぶためには、このような西欧と日本双方の精神的相対化が不可欠だと私は考えるのである。(D)
この物語を現在よく知られている物語と比較して気がつくのは、「残酷さ」「復讐譚としての性格」「嫉妬や敵意の荒々しさ」などが強く表われていることである。我々がディズニーのアニメーション映画などを通じて親しんでいるのは、伝奇的なロマンスを主題とした物語であるから、この差異は特に大きく感じられる。グリム童話初版の『白雪姫』が現在知られている形と異なっているのは、初版の物語が採集された原形に忠実であるからだろう。グリム童話に限らず、伝承されてきた民話は「因果応報」や「残酷な悲劇」を主題にしたものが多い。問題は、そうした民話の原形が持っている機能は何かということと、なぜそこに変形が起こるのかということである。
民話は年長者によって子供達に語られてきた口承文学である。第一にそこには寓話・説話の要素である道徳的教訓が入っている。『白雪姫』の場合ならば、うぬぼれや妬みに対する報いがそうした要素である。道徳的教訓を強く訴えるためには、復讐の恐ろしさを強調することによって、何が罪であるかを教える必要があるだろう。民話の残酷な内容は、まずそこに根拠を持つと考えることができる。
しかし、残酷さの根拠はそれだけではない。民話の第二の機能として「未分化な感情を満足させる」ことが考えられる。本来、子供の感情は原始的な荒々しさを持っている。例えば、花をむしったり、虫を殺したりする行為を、子供達は心から楽しむ。この成長に不可欠な一段階を充実させるのが民話の機能である。従って、この目的を持つ民話は生々しい残酷さや理不尽な悲しみに満ちている。この機能は人間の成長と共に悲劇に受け継がれてゆくのである。
民話が変形してゆくのは、これらの機能が弱められたり、取り除かれることによる。特に、子供が公的な教育を受ける社会では、過度の残酷さは心理的に悪影響を与えると考えられ、民話の原形は教材から排除されるのが普通である。
確かに「教育的配慮」にはそれなりの意味がある。しかし、「書き換えられた物語」はさらに民話の第三の機能をも奪ってしまう。それは「物語による死と再生の体験」である。例えば『白雪姫』は、まず白雪姫自身の死と再生の物語であり、次に「古い女王様」の死による「若い女王様」の再生という「代替わり」の物語でもある。「死」は消滅であり、別離であると同時に新しい秩序の創造であるという両義性を持っている。子供達に死の残酷さとそれがもたらす悲しみを予告し、さらに「再生への希望」という「死を乗り越える知恵」を与えることで死の両義性を体験させる。これが民話の重要な文化的機能なのである。ゆえに、民話の原形を尊重することは、生と死の意味を深く考えることにつながると私は考える。【94・文IIA】
設問(1)
権威に対立する場合、一人では弱いが集団になれば強くなる、という事実は心理学的な実験で説明できる。そこには「服従」と「同調」の要素が関わっている。ここでの「服従」とは「権威に屈服する行為」であり、「同調」とは「自分の行動を指揮する特別な権利をもっていない者についてゆく行為」である。エール大学で行なわれた「服従の実験」では、「権威」としての実験責任者に対する個人の服従が見られる。一方、アッシュによる「同調の実験」では、社会的圧力の下では人は自分の眼を信じるよりはグループの判断に従う、ということが確かめられた。服従と同調の共通点は「自分以外の者にイニシアティブを譲り渡すこと」であるが、両者の本質的な相違点は次の四点にまとめられる。第一に、服従はヒエラルキー構造の中で起こる。第二に、同調は模倣であり、行動の同質化を意味するが、服従は権威に対する模倣なしの屈服である。第三に、行動の指示は服従では明示的であるが、同調では暗黙のものにとどまる。第四に、同調は自発的なものと意識され、人は同調の事実を否認したがるが、服従は積極的に容認される。以上のことから、ヒエラルキーの転倒、つまり権威への服従を拒む「革命運動」などが、同調に基礎づけられた「集団行動」を必要とすることが理解される。これは「仲間の反逆が実験責任者の権威を弱める」という実験によっても確認できる。設問(2)
筆者は「服従は権威に対する模倣なしの屈服である」と述べているが、服従もヒエラルキー構造の中で「権威者の取る行動との同質化」を招く場合があるのではないか。それを確かめるために次の実験を計画する。実験の前半はエール大学の「服従の実験」と同じものである。そして実験終了後、実験責任者は被験者に「私は急用で席を外しますから、新しく来るアルバイトの人にあなたと同じことをさせて下さい」と指示する。ここから実験の後半が始まる。実験責任者は別室から気づかれないように被験者の行動を観察する。被験者は今度は自らが「権威」になったわけであるが、「人道的判断から実験を中止する」「実験責任者の指示を忠実に実行する」「より権威主義的で傲慢かつ尊大な態度を取り、冷酷な指示を出す」などの結果が考えられる。第二・第三の結果が多く得られれば「権威に服従する者は、下位の者に対しても権威者と同質の行動を取る」ということが言える。設問(3)
私は第二次大戦中の軍隊による残虐行為に「服従」のメカニズムが作用していると考える。例として日本軍による南方戦線での住民、捕虜の虐殺・虐待を挙げよう。戦後「極東軍事裁判」などを通じて明らかになったところによると、「スパイ掃討」の名目で確かに組織的殺戮の指令が出ていたようである。そして下士官や兵士は、命令を忠実に実行したのである。敗戦後、軍事裁判の場では、こうした残虐行為が「人道に対する罪」に問われた。ところが、まず下士官や兵士は、「ひどいことをするとは思ったが、上官の命令には逆らえなかった」と証言した。服従の「ヒエラルキー性」「権威に対する屈服」「明示的な指示」「自発性の否定」がここに現われている。さらに戦場での指揮権をもつ高官までが「やむを得ない状況下で職業軍人としての職責を果たしただけである」と抗弁し、「天皇の意を体現した命令」の権威が人道的な判断に優越したことを述べたのである。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【94・文III・第二問】
A
言葉が使い捨てられるのは、現代の「高度消費社会」で言葉もまた「製品」として捉えられているからであろう。本来、読み書きによって「言葉と関わる」ことは、課題文の筆者が言うように「過去や未来とつながる」ことへの欲望から出てくる行為に違いない。ところが、高度消費社会では欲望と消費の関係も逆転している。そもそも消費は欲望を満たすためになされるものだ。だが、物質的に満たされ、豊かになった社会では、人々の欲望は弱まり、多様化する。人々により多く消費させるためには、まず欲望そのものを産み出さなければならない。現代の産業が需要に応えて生産するのではなく、新たな需要を創り出すため、わずかに「差別化」した新製品の開発に追われているのはその実例である。言葉も例外ではなく、出版界では似たような新作が次々に現われては消えてゆく。
言葉の使い捨て現象の根底には、言葉はコミュニケーションのための「単なる」道具だという認識があるに違いない。確かに、言葉は表現機能を持つ「記号」という道具だと言えるだろう。しかし、道具を使いこなすためには練習が必要である。そして、人間が道具を用いると同時に、道具も人間を育てるのである。道具の側から見れば、熟練の過程が人間の成熟の過程であるということになる。道具が粗末に扱われ、道具を使うための技量が衰えてしまうと、人間は成熟する機会を永久に失う。
言葉という道具の場合も同様である。古来、言葉の持つ力を熟知し、言葉の使い方に熟達した者が宗教や文学の担い手であった。言葉の呪力を信じた古代から政治的宣伝や商品広告の効果を信じる現代まで、言葉に即して考えれば、やはり人間は言葉に育てられてきたのである。未知のものを言い表し、形のないものに表現を与え、伝えることの困難な内容を伝えようとして、人間は文化的営みを積み重ねてきた。筆者が指摘する「時間との対抗」は、言葉を使いこなそうとする「言葉への」努力と、精神的成長という「言葉からの」報酬の間の相互作用から生まれてくるものだと言える。これに対し、冒頭で述べた「使い捨てられる製品」としての言葉は、人間が相互作用を拒んで一方的に消費しているものなのである。その結果、人間は言葉を通じて自分自身を深く探求したり、他者の文化的背景を深く洞察したりする能力を失いかけている。
「使い、同時に育てられる」という言葉と人間の相互作用を回復するためには、使い捨てられる新製品ではなく、例えば古い言葉・異文化の言葉との格闘を通じて自己の言葉を見直す訓練が不可欠である。前者は自己を時間的に相対化し、後者は自己を空間的に相対化するからである。それゆえに、自ら古典と向き合い、自ら外国語を読むところから、「古典候補作」としての名作も生まれると私は考えるのである。B
課題文にあるボランティアの「つらさ」とは、「社会的連続性の自覚」と言い換えることができるだろう。この場合の「社会的連続性」とは「自己と他者のつながり」のことであるが、今日この「つながり」は広がりにおいても複雑さにおいてもますます規模が大きくなっている。その原因の一つは、現代の政治経済が国境を越えた力をもつことであろう。単にモノが取り引きされる国際貿易に留まらず、金融、サービス、情報、そして労働力としての人間まで、国境を越えて大量に移動するようになっている。かつて国家権力の支配下にあった各国経済は世界経済の一部に組み込まれ、市場経済と同時にそれを支える政治的なシステムが国境を越えて流れ込む。これが紛争の原因にもなっているのである。
これら政治経済的な世界の拡大は、外的な側面では自然環境の破壊と異文化間の摩擦を引き起こす。その一方、内的な側面では、世界の拡大が自己と他者の関係を見直すように働きかける。近代以降、人間主体が客体である対象世界(他者も含まれる)を一方的に捉え、利用するという主観主義的な構図が我々の世界観を支配してきたが、今や我々は環境破壊や文化摩擦が自己を圧迫し、しかも自己がその原因に深く関わっていることを知り、周囲の環境と我々自身の「交流」「交感」が欠けていることを自覚しつつある。
ここで得られる自覚は、「他者の不幸に対して我々の力があまりに小さいこと」である。この「不幸」とは、例えば「病」「痛み」「苦しみ」「死」などである。「病」を否定し「死」を遠ざける現代社会の中で、我々は他者の不幸をメディアによって浄化されたかたちで受け取り、自分だけは一生健康で生きられると思っている。しかし、我々は他者の不幸に対する無力感を通じて、人間が生と死の対立を同時に持って生きている存在であり、死がなければ生の輝きや尊さもわからないことを確認するのだ。言い換えれば、我々はこの「無力感」を通して他者の苦しみ、悲しみを知り、他者の側に立つことができるのであり、自らを縛っている生き方の枠組みにも気づくのである。
従って、現代社会に欠けている「豊かな生のあり方」は、自分自身の別の側面、あるいは「他者」を生き方の中に取り込んでゆくことだと言える。その意味で「自発性パラドックス」の渦に自らを巻き込む人、すなわちボランティアとは、「自己と他者との多様な関係の可能性」を自覚した人だと言える。他者について「知る」ことが行動の第一歩だとすれば、「知る」ことによって自己や自己の文化を相対化する苦しみが、同時に問題解決に向けた人間の新しい行動を導く第一歩なのである。日本ではボランティアが「自己犠牲」や「大胆な行動」と結びついて考えられがちだが、まず「知る」ことの重要性が正当に評価されるべきだと私は考える。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【95・文I・第二問】
課題文の主張が正しければ、「一国の市民としてのアイデンティティ」の崩壊という問題が生じるであろう。「一国の市民としてのアイデンティティ」は、近代的な国民国家と共に確立したが、国民国家の形成が近代的な工業化と結びついていたことは言うまでもない。しかし、近代的工業化が社会に及ぼす均質化・画一化の圧力は、同時に「近代化によるアイデンティティの否定」をもたらした。つまり、国民国家を支える「一国の市民」という擬制は、異文化に属する者の同化を前提とし、同化できない者、同化を拒否する者のアイデンティティは否定されたのである。
これと同じことが、世界経済において、より大きな規模で起こっている。各国の国民経済は世界経済の一部に組み込まれ、市場経済と同時にそれを支える共通の政治システムの圧力が国境を越えて流れ込む。この変化が社会主義圏を崩壊させ、アメリカの世界政治への発言力を弱め、発展途上国に民主化と民族主義の台頭をもたらしたと言える。そして、この経済的統合化の圧力が否定するのは「異文化に属する少数派のアイデンティティ」ではなく、より広範な「共同体のアイデンティティそのもの」である。
つまり、生産や取り引きの場が国外に移り、失業者が増加して貧富の差が拡大する結果、国民国家の理念であった「国民の権利としての自由と平等」が形骸化するのである。国家は世界市場に立ち向かう「一企業」としての存在理由しか持たなくなる。国家が企業化すれば、企業の論理で生きることができず、競争に敗れた市民は貧困化せざるを得ない。そこにはもはや、国家によって尊重される「一国の市民」としてのアイデンティティは成り立たない。そうなれば、新たな「身分制」の中で勤労意欲を失い、実質的平等を求めて社会保障に依存する人々、排外的な政治体制によって世界経済からの孤立を主張する人々が大量に生み出されるであろう。
このような問題を解決するためには、社会投資を通じて「富の循環システム」を見直すことが必要になる。本来、経済先進国は工業化を早くから達成した国であった。しかし、脱工業化の進展で情報やサービスの流通・消費が先進国の経済基盤になると、「市民たちの技能と能力」すなわち「モノやアイデアの生産力」は相対的に低下する。これを改善するためには、大量消費型の社会構造を変え、どのような市場の要求にも答えられるような創造的能力と勤労モラルを養成する教育の再編が必要になる。こうした課題を解決する中で、富の公正な循環・分配の一面として「国際分業のあり方」「貿易収支不均衡」などの見直しが行なわれていくであろう。その結果、新たな価値観に基づく政治経済システムが構築され、それによって初めて世界経済は安定に向かうのだと私は考える。【95・文III・第二問】
論題…独創性は教育で伸ばせるか。
敗戦後の日本の教育で特に重視されるようになったのは「独創性」である。大学入試の競争率が高くなり、詰め込み式の暗記学習が不可欠になってからも、「独創性」重視の声は絶えることがない。この「独創性」を支えるのが創造力であろう。従って、教育において「独創性」が重視される以上、教育の目的の一つは「創造力を伸ばす」ことでなければならない。課題文によると、これは右脳をよく働かせる訓練をするということである。
しかし、図形認識の能力や音感は小学校中学年程度の年令までに完成してしまうと言われている。事実、幼児向けの音楽・絵画教室はもうありふれた存在になっているし、名門小学校受験用の幼児塾までが大繁盛である。すると、そこから二つの問題が出てくる。一つは「公教育の段階では、もはや創造力を伸ばすには遅すぎるのではないか」という問題であり、もう一つは「右脳を鍛えた日本人は戦後に増えたが、日本人は以前に比べて独創的になっているのか」という問題である。
日本が現在批判されている点の一つに、「日本人は外国の研究者の業績を利用するばかりで、外国の学者に引用されるような独創的な学問的貢献が少なすぎる」というものがある。これは二番目の問題に対する否定的な答えであろう。だが、そこから直接、第一の問題にも否定的な回答をしなければならないわけではない。意識的に右脳を鍛えることは大切かもしれないが、普通に育った人ならだれでも、一人前の図形認識能力とプロの音楽家ほどではないが一応の音感を備えているはずである。言い換えれば、中学校に入る頃には、「ひらめき」や「直観」の能力は、ほとんどの人に充分備わっているはずなのである。それでは、なぜ外国の学者から「日本人は独創的でない」と言われてしまうのか。
それは、生徒の「独創」を尊重する教師や、「ひらめき」を形にするためのシステムが日本の学校に欠けているからである。具体的に言えば、形式重視で内容を問わない教育が横行しているということだ。そこから「基礎の軽視」と「型の押しつけ」が生まれる。「基礎の軽視」とは、習熟のための手間を惜しむことである。学問でも絵画、音楽などの芸術でも、基礎的な訓練を終えなければ、その上に自分の独創性を表現することはできない。口だけで「独創」を唱え、必要な知識や技法の習得を軽視すれば、むしろその結果は独創ならぬ凡庸の大量生産になるだろう。そして実は、それは「型の押しつけ」にも都合がよいのである。「上からの管理」を基本原理とする学校で、古い枠組みから外れる本来の「独創性」が歓迎されないのは当然である。もし、これらの点が改善されれば、公教育の場でも充分に創造力の発揮が支援されるであろうし、日本から多くの「権威」「達人」「スーパースター」が輩出すると私は考える。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【96・文IIA・第2問】
設問1
「アメリカの大災害と比べて日本人は非常に冷静であった」「日本人は自然災害と折り合いながら生きてきたため、災害を受け入れる力をもっている」などの論評は、「被災はしたが、自分たちは価値の高い文化をもっている人間だ」という考え方につながる危険性をもつ。その結果、文化の差異を越えて人間が抱く感情を無視し、選ばれた人であるかのように黙々と耐える日本人の姿を一般化して、自らその多様な内面を研究しようとはしない。これは戦争責任に関連して、自らの残虐行為と主体的に向き合うのではなく、それを外的条件のせいにして深い自己理解をしてこなかった過去の日本人の態度に通じるものである。人間が自らもつ精神的危機からの回復力を導くためにも、こうした論評の背後にある姿勢は問題だと二人の対談者は考えている。設問2
精神的危機を通して自己理解を深めることと、精神的危機を不快なものとして外の原因によってのみ説明することは、「自分を深く知ることによって豊かな生の可能性を開く」ことと「頑なに自己を守ることでかえって生き方を見失う」ことを意味すると考えられる。個人について考えれば、前者が課題文のベトナム帰還兵にあたる。後者は敗戦を境に政治的立場を正反対に変えた「アメリカ迎合」や「ソ連崇拝」の日本人にあたるであろう。
二つの態度の違いは社会により大きな影響を与える。1985年、ドイツのヴァイツゼッカー大統領は敗戦記念日に『荒れ野の40年』と題する演説を行った。大統領はドイツ人が敗戦の日を記念するのは、ユダヤ人虐殺を故意に無視した罪を各人が反省し、若い世代が前世代と助け合って過去の責任を負い、過去を直視することで二度と罪を犯さないよう現状認識を鋭くするためであるという。これは社会の成員全てが精神的危機を通して自己理解を深めることであろう。これに対して、「過去の世代には戦争責任があるが、私たちの世代は別である」とか「戦争は歴史の必然であるから、個人に責任はない」という考え方をもつ人が日本には多い。これは精神的危機の外在化だと言える。
前者の考え方は日本では少数派だが、だからこそ私は「個人としての自覚に基づく責任」を負う側に立ちたい。なぜなら、現代の世界は多様な連続性をもつボーダーレスなあり方をしているからだ。例えば、日常のあらゆる経済活動が、途上国の貧困や世界的な環境問題と関わっていることを私たちは知っている。私たちが他の国の人々や次の世代に対して影響を及ぼすことを「知っている」以上、そこにはナチズム下の市民と同じ責任が生じるのである。それを考えることは確かに苦痛であるが、自己の精神的危機と対決し自覚することは「一人一人の現在」に対する自覚につながるゆえに重要であると私は考える。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【96・文III・第二問】
A
課題文から人間の不死について二つの問題をとりあげよう。一つは「人間の同一性とは何か」という問題であり、もう一つは「不死と生殖は同じか」という問題である。
ディオティマは同一性を人間の成長を例に説明しているが、これは人間を構成する部分の連続性に基づいた議論である。例えば、一台の自動車の部品が全て交換されたとしても、新旧の部品が同種のものであれば、その自動車は「同種のもの」という意味で以前と同一物と考えられるであろう。しかし、機能や形態が大きく異なった部品が用いられれば、もはや部品交換後の自動車は以前と同一物とは言えない。それは、ある自動車を特定する「個別性」が機能や形態によって成立しているからである。
それでは人間の「個別性」は何によって成立するのであろうか。それは自動車とは違って、部品の同一性によるのではない。なぜなら、事故などで身体の機能が大きく損なわれても、「人格」の同一性は保たれるからである。その意味では、細胞培養の技術によって遺伝子レベルで全く同一の個体が生まれたとしても、それは「同じ人」ではない。つまり、人間の個別性は「人格」という「諸要素の全体的統一」によって成り立っているのである。従って、人間の同一性は「全体として成立する人格の連続性」であると言える。
このことから、不死と生殖が同じかどうかを考えよう。肉体に生成と消滅が絶え間なく起こっているのは事実である。それは個体の死によって中断するが、遺伝子レベルで見れば、子孫に同じ過程が受け継がれる。また、人間の感情と知識は、そもそも「誰もが同一の感情を心に抱いている」あるいは「誰もがある言葉に対して同一の概念をもっている」という前提の上に成り立つものである。それらが真実であるかどうかは、他の人格にはなれないので、確かめようがない。これらの論拠に立てば、不死と生殖はほとんど同じことになる。
しかし、問題は「全体としての人格の連続性」である。遺伝的つながりがいかに強くとも、親と子が別の人格であることは明らかである。不死は同一性が保持されることであるから、「人格」という観点から見れば生殖は不死ではない。ただし、人格を構成する要素の中には感情や知識も含まれる。これらは世代が代わると断ち切られてしまうものではない。それは、その同一性に前述したような曖昧さがあるからだ。だが、逆にこの曖昧さによって、我々は感情や知識が時間的・空間的な隔たりを超えて「伝えられる」と考える。それゆえ、「不死」を求めるとすれば、その可能性は個体の血のつながりにあるのではなく、人格が他者の感情や知識に影響を与え、それが伝えられることの中に、言い換えれば広い意味での「文化」にあるのだと私は考える。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【97・文III・第一問】
歴史上の人物の判定基準に関する対立は、課題文では、それらの人物の行動を「世界精神の業務執行」として肯定的に捉える立場と、彼らの行動を「煩悩・欲望に根ざし、通念・慣習から逸脱した不道徳な行動」として否定的に捉える立場の対立である。
私は歴史上の人物の判定基準として、二つの相対的な視点が必要であると考える。一つは現代から見た歴史的意義という視点であり、もう一つはその時代の価値基準という視点である。なぜなら、いかなる評価もその時代の価値観から自由ではなく、それは学問的な評価についても同様だからである。例えば、古代ギリシャ、アテナイの「民主制」は、現代でも高く評価されている。それは、我々が我々の時代の政治的理想に従って「民主主義」を評価しているためである。それゆえに、実際にはアテナイの政治制度が奴隷制に支えられたものであったとしても、我々は、「民主制」を実現したという、我々が考える歴史的意義の点で、アテナイと現代を連続した基準で結びつけ、評価するのである。
これに対し、ヘーゲルの「世界精神」のように、評価の絶対的基準を求める立場がある。前述の例で言えば、民主主義は普遍的な善であるから、民主主義を推し進めた人物が偉大な人物である、とする考え方である。この場合、我々は「封建制度の中でより民主的な人物」などを探さなければならない。結果的に、そのような試みは「過去に溯るほど人間は不完全であり、現代こそ最も進歩した時代である」という結論に結びつかざるを得ない。ヘーゲルやマルクスの歴史観はその一例であるし、科学の進歩史観もこれに含まれるだろう。しかし、この場合には、評価の基準自体が既に現代を「過去と比べて善」とする相対性を含んでいるのであるから、このような基準は「絶対的」ではあり得ないのである。
ここから「その時代の価値基準」という視点の重要性が導かれる。織田信長もナポレオンも、虐殺者であると同時に解放者であり、革新者であった。現代では断片的にしか記録されていない彼らの実像を捉えようとすれば、失われた素材をできるだけ集め、「その時代」を再構成する必要がある。しかし、断片的な記録だけからでも、過去の文化がいかに現代の文化と異なっていたかということがわかり、しかも人々の生活感情などは復元の手段がないから、言わば現代の「異文化理解」と同じ問題が、そこに生じる。この点からも、現代を善とする絶対的な視点では、人物の全体像を捉えられないことがわかる。課題文にあるような、人物の日常の性癖・習慣が記録に残っていたとしても、それがその時代の価値基準からどう評価されるかですら、簡単には断言できないのある。
従って、「現代から見た歴史的意義」という視点、「その時代の価値基準という視点」の二つが歴史上の人物の評価に不可欠であると私は考える。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【98・文IIA・第2問】
設問(1)
過去の歴史をふり返れば、飢饉の主な原因は天候不順による不作であった。これはまさに天災であり、人為による対処は難しい。しかし、ベンガル飢饉では食糧の生産量が減少したのではなかった。たとえ食糧が充分にあっても、それを買えなければ飢えてしまう。つまり、貧富の差が極端に拡大することによっても、飢饉は起こるのである。現代の社会で貧富の差を広げる要素にインフレーションや失業率の増大があるが、これらは経済的な政策や社会福祉的な政策によって対処可能な要素である。しかし、ベンガル飢饉ではそのような対策がとられることはなかった。それゆえ、社会政策が取られなかったために生じた飢饉は「社会的失敗」であると言える。
設問(2)
社会とは、経済、文化、制度、自然環境などの諸要素が深く関わりあった組織である。「経済開発」が追求される時は、国民総所得のような、抽象化された側面だけが目標になる。これは「平均すると国民は豊かになった」という考え方である。だが、実際には言語、宗教、身分制度など、歴史的文化的に「社会的差異」を生み出してきた要素は数多くある。それらは文化を支え、伝統的社会の中に深く入り込んでいる要素であるだけに見えにくく、また変化しにくい。これらの要素が経済に反映したものが経済的差別や貧困である。したがって「経済開発」はまず社会的に抑圧された人々に影響を与えるのだという視点は、飢饉などを防ぐという点で重要である。
設問(3)
経済開発の目標は「近代化」である。それは伝統的な社会を「古い社会」と見なし、それを解体して「新しい社会」を作ろうとする動きである。伝統的な社会には、宗教や言語、身分などの異なる多くの社会集団が存在する。それらが多様なまま固定化されているのが「古い社会」である。それに対して「近代化」の動きは、小さな地域に分散した社会集団を統合して大きな「国」を作ろうとする。制度上は、そこには地域による差別はなく、国境の内側に住んでいる者はすべて「国民」として扱われ、「平等」な権利をもつ。しかし実際には、近代化によって権利だけは平等だということになっても、伝統的な社会的・文化的差異は残る。それが一方では経済的側面も含めて社会に根強い差別としてあらわれ、もう一方では国家による社会集団の多様性の否定としてあらわれる。課題文の「国づくり」と「国民づくり」は、このような近代化の圧力、開発の圧力を表現した言葉である。
*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【99・文II】
第1問
設問(1)
クラウゼヴィッツの「絶対的戦争」概念とは、戦争を純粋に「独立した現象」として捉え、研究する立場である。そこでは戦争は政治的目的のための手段であり、一種の道具として、他の要素から切り離されている。クラウゼヴィッツが戦争の手段としての側面を絶対化=抽象化して捉えたのは、国家が国民国家として一般化され、強力な国民国家形成が政治の普遍的目的と考えられた時代背景に基づいている。それに対して、カイヨワは戦争を人間存在の「全体性」から捉えている。それは、戦争が人間の本性に根差すものであり、政治・経済の領域に限定できない「社会的・文化的な総体」だという考え方である。カイヨワの戦争論は、人間を取り巻く世界の様々なシステムが相互に関連をもち、「絶対的な基準」としての学問が不可能になった時代から生まれてきたと言える。二つの戦争論の相違は、戦争の自己目的化である現実の「世界戦争」を反映しているとも考えられる。
設問(2)
「ヒューマニスティックな反戦論」とは、戦争に伴う暴力、殺人などが倫理的に「悪」であり、それゆえに「非人間的なもの」であるとして戦争に反対する議論である。著者が問題にしているのは、こうした反戦論が戦争を「存在すべきでないもの」と捉え、過去に起こり、また現在起こりつつある戦争を否定することによって、人間の「人間的営み」の一部に他ならない戦争についての考察が放棄されてしまうということである。
設問(3)
例えば「自由」と「民主主義」を政治の理想としてもつ現代の政治活動について考えると、現実社会の不正を正し、正義を実現するという意味では、この活動の目的自体は「善」である。しかし、利害関係の対立する集団が出会えば、両者は自分の側の「善」を主張する。その時、善なる目的実現に向けて集団の行動を統制するために、目的は「普遍の原理」として絶対化される。一度目的が絶対化されると、それを実現する手段は「目的実現のためにどれほど有効か」という基準でのみ評価されるようになり、それがどんなに暴力的なものでも手段自体の正当性は問題にならなくなる。こうして、第二次大戦のホロコースト・核使用や東西対立時代の核弾頭競争、また最近の民族紛争での大量虐殺など、「善」であったはずの動機から、コントロールできない戦争が生まれてしまう。イデオロギーの対立が終わり、多様な「善」があり得る現代は、むしろ「世界戦争」の危機の時代である。
第2問
設問(1)
日本の大部分の女性は高等学校までの教育を終えてから就職する。しかし、20歳代から30歳代にかけて結婚によって退職し、育児に手がかかる期間は就業しない人が見られるのが、他の先進国と比べると際立った特徴である。その反面、子供が中等・高等教育を受けている年代では就業率が上がり、他の先進国では年金生活に入る人が多い60歳代を越えても、なお働き続ける人の割合が比較的高いと言える。
設問(2)
日本における男女別賃金格差と女性の年齢別労働力率の関係を考えるためには、日本女性の就いている職業の大部分が企業での賃労働であること、日本の賃金体系が終身雇用と年功序列を前提に形成されてきたこと、日本の家族では育児を含む家事労働の大部分を女性が担っていること、という三条件を考慮しなければならない。第一の条件から、賃金格差は企業の女性労働力軽視から生じると言える。それは、就職後数年で結婚退職する女性に研修の手間と費用をかけても、得られる利益が少ないためである。第二の条件によって、結婚による職歴の中断が賃金格差を生み出す原因になる。勤続年数によって昇給する賃金体系では、中途退職・中途採用が多い女性の賃金は低くなる。第三の条件は企業にとっての「非効率的」な要素として前の二つの条件による格差を強めると共に、「家族で唯一の働き手」としての男性に、女性より多くの賃金配分をするという考え方につながる。
設問(3)
1880年頃の地方村落では、主な就業の場は農業であったと考えられる。主な労働の場が農業あるいは商業や家内工業の時代には、仕事場と家庭が近接し、しかも大家族が家事を分担し合い、生業と家事という異質の仕事を両立させることが可能であったので、女性も主要な労働力であった。他の先進国と比べても年齢別の労働力率は高く、「元気なうちは働く」のが普通であったと言える。しかし、産業構造が変化して製造業・サービス業が主体になってくると、効率化を求める企業原理の上に「仕事か家庭か」を選択しなければならなくなり、既婚女性は生産現場から切り離されていった。他方で「核家族」への変化が進行し、家事の担い手が一家に一人になると、既婚女性は「専業主婦」にならざるを得なくなる。さらに、女性を支援する託児施設の不足がその傾向を固定する。それは、アメリカやスウェーデンで女性の社会進出が進むと共に、かつて日本とよく似ていた育児期間の労働力率の低下が見られなくなっていることからもわかる。こうして、日本女性の労働力率は百年を通じて全体的に低下すると共に、結婚・育児期間の労働力率が特に低くなる特徴を持つようになったのである。
【2000・文II】
第1問
設問(1)
旧植民地諸国では、独立以前は支配者である西欧諸国の言語が共通語であった。地域によって様々な言語が使われていたが、政治的支配力が強かったため、西欧語が共通語として定着した。その結果、独立後は一つの自国語が公用語とされたにもかかわらず、自国内の多様な言語集団間の意志疎通や、西欧を手本にした高等教育にはなお西欧語が必要であり、さらに、それがエリート層と非エリート層の差を拡大するという問題が生まれた。設問(2)
「民主主義」の前提は「全ての個人が等しく権利を認められ、尊重されること」であると言えるだろう。それが可能になった現実的根拠の一つは「国境の内側に住む人々は同じ国民であって、同等の権利をもつ」という近代国民国家の誕生である。
近代に、地域的な多様性をもっていた多くの小共同体は中央集権的な統治機構を備えた国民国家に統合されていった。その際、多様な集団をまとめたのが「国境の内側は文化的に同一である」という考え方である。つまり、国家統一の文化における現れが文化的同化政策なのであり、その象徴が「言語の統一」であった。
旧植民地諸国では、植民地時代には言語の統一は上から押しつけられ、独立後はそれが自主的に成し遂げられた。どちらにせよ、共通語は、全ての国民が対等な話し合いによって合意を形成するという民主主義的社会の基礎である。
しかし、国内が英語を話す少数のエリートと英語を話さない多数派とに分裂してしまうと、「対等に話し合う」という原則が崩れ、国家としての統一性も揺らぐ。そこでは経済的に恵まれ、高度な教育を受けた少数派が権力を握り、貧しく、教育も充分に受けられない多数派の民衆と対立するという植民地時代に似た政治状況が現れるからである。これが下線部で示されている問題の構造である。設問(3)
私は英国内での北アイルランドと英国政府の対立について述べたい。英国は元来複数の言語、文化をもつ国である。しかし、北アイルランドでは連合王国成立以来長い間、英国からの独立を求める運動が続き、戦前、戦後を通じて武力衝突やテロが絶えなかった。その原因は、アイルランドが本来ケルト的な文化をもつことに加えて英国国教会と異なるカトリックの文化を維持し、それが政治的・経済的な差別待遇にもつながっているからである。一般に、社会の中の周辺マイノリティがもつ文化、言語、生活習慣などは、中央の権力が定めた「国民共通」の基準に合わせるよう強制されやすい。しかし、国境を越えて人・モノ・情報が移動する現代では、文化のアイデンティティを固定されたものと捉えるのではなく、多様性を尊重し、違いを認めた上での合意が世界的に必要である。それゆえ、地域自治を広く認め、独立しながら協力関係を築く道を模索すべきだと私は考える。【2001・文II】
第1問
設問(1)
気温が高い時、私たちはその暑さから逃れようとする。洞窟や木陰に入ったり、水浴したりする物理的な対策も、風鈴の音や朝顔の花を楽しむ精神的な対策も「苦痛を避けて不愉快を回避しようとする自然な態度」から生まれた工夫である。そこには自分が主体的に行動することで周囲の環境に適応し、環境と調和しようとする努力がある。それに対して、空調装置によって気温そのものを下げることで「暑さ」という苦痛を発生させないようにするのが「不快を呼び起こす元の物(刺激)そのものを除去して了いたいという動機」である。こちらの対策は環境を一方的に変更するものであり、適応への主体的な努力が不要な代わりに、莫大なエネルギー消費と廃棄物による環境汚染や温暖化を招く。その結果、新たな不快の原因が発生し、際限なく環境破壊が拡大する。現代の環境問題の根底には、このような「不快の原因の根絶」という動機があると言える。設問(2)
自己中心的に生きる時、人は自己について反省することがない。それゆえに、「自己の自由」は同時に他人の自由を抑圧しているのである。しかし、忍耐しなければ自分が生きられない時、人は初めて自分を省みる。それは自分が自由を抑圧されて苦しいように、他人もまた自由を奪われて苦しいという自覚である。ゆえに、「忍耐を内に秘めた安らぎ」は、自己を抑制して他人の自由と自発性を尊重することにつながると言える。設問(3)
現代の消費社会に生きる人間は、自分で必要な物を作ることはない。何か不便があれば、それを解決する方法は商品の購入である。その結果、「商品を購入しなければ生きていけない」状態になるのが「安楽への隷属状態」である。例えば、「幸福な家庭を築く」という目的をもつ人がいるとする。彼は家族間の心情的葛藤と取り組み、経済的に苦労してはじめて目的を達成できるであろう。だからこそ、その達成の喜びも大きいのである。しかし、消費社会では「幸福」とは「商品を楽に手に入れること」である。彼は家族のために商品を買い、家族も商品購入が家族の絆だと考えるであろう。そこには商品を手に入れた時の「享受」の感情はあっても、本当の喜びはない。さらに、絶えず供給される新商品のために彼の消費への欲望は満たされることがなく、幸福の追求は欠乏感に悩まされながら新しいモノを追い続ける行動にすり代わる。それが「安楽への隷属」のコストである。◎概評
内容的にはやや易しい。言うまでもなく、頻出の課題文である。どの設問も、受験生が内容を理解しているかどうか、具体的問題に即して説明させる意図をもっている。消費社会論の基本的な問題であるから、小論文を練習してきた受験生には易しかったであろう。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【2002・文II・第1問】
設問(1)
社会問題の例として、私は発展途上国の援助問題を挙げたい。途上国は大部分が現在の先進国の植民地であった。植民地時代には本国の搾取によって経済・社会の近代化が進まず、その影響で、独立後も途上国は近代化の遅れに苦しんできたのである。経済のグローバル化は、こうした途上国の抱える問題の解決をより困難にしている。モノ・金・人・情報が国境を越えて移動するようになると、途上国も先進国と同じ経済競争にさらされる。しかし、スタートラインで既に差が大きく、途上国は先進国に敗れて債務を負い、飢餓・環境破壊・低い衛生や教育レベル・政情不安などに直面している。その結果、先進国が経済競争で勝利すればするほど、途上国から生まれた地球環境やテロの問題が先進国に影響を与えて援助が必要になるという矛盾が生じるのである。設問(2)
第一の行動方針は個人的な援助である。個人で途上国のある地域に出かけ、金銭援助や労力、技術の援助をする。日本人にとってはわずかな金額でも、現地では学校や病院を建てることができ、人々に喜ばれるであろう。しかし、援助できるのは一つの村など小規模に限られ、大部分の人々には無関係である。第二の行動方針はボランティア組織や政府機関による援助である。援助の規模は大きくなるが、地域の特性はつかみにくくなり、また全ての途上国を援助することはできない。第三の行動方針は国連などの国際機関による援助である。例えば、環境スワップによる債務免除で環境破壊を最小限にし、負債を減らすことができる。しかし、緊急を要する個別の問題は解決されない。第四の行動方針は、途上国の自立のために、先進国のグローバルな経済活動そのものを規制することである。しかし、そのような規制は合意が難しく、先進国間に新たな対立が生じることもある。設問(3)
私は第二の行動方針を選択し、それが第四の行動方針につながるように運動したい。それは私が先進国の市民として「同世代への責任」と「次の世代への責任」を負っているからだ。同世代への責任とは、途上国の問題は先進国の経済支配によるものであり、先進国で豊かさを享受している私にも責任があるということだ。私はボランティア組織を通じて私が住む地域で行動を始め、途上国の地域社会との連帯感を築きたい。同時に、次の世代に問題を先送りしないため、問題の本質的解決を探る必要がある。それは教育援助などを通じて途上国の自立を支援することであり、先進国の経済活動を地球規模で持続可能なものに変えることである。それによって、途上国の人々の豊かな生活が可能になると共に、先進国の人々も競争中心でない生き方を享受できると私は考える。◎概評
内容的には基本的問題である。昨年に続き、どの設問も受験生が内容を理解しているかどうか、具体的問題に即して説明させる意図をもっている。ただし、昨年に比べて、問題自体が何を指しているのかがわかりにくい。「経済のグローバル化の影響」「環境問題をめぐる先進国と途上国の対立」「地球的規模で考え地域で行動するというボランティアの原則」などの基本理解がなければ戸惑うかも知れない。問題はこちら→代々木ゼミナール
【2002・文III】
「思考とモノの境界としての文字」
三つの作品に共通する要素がある。それは、どの作品も「モノから思考が立ち上がってくる限界点」について表現しているということである。ここで「モノ」とは自己と区別される対象世界の存在を指し、「思考」とは自己の意味づけによる世界の把握を指すことにする。
まず、「モノ」の側面から三つの作品を眺めてみよう。Aでは画面に散らばるアルファベットが描かれている。厳密に言えば、「アルファベット」は思考の側から対象をまとめた言い方であり、実際に画面に描かれているのは様々な線の集合に過ぎない。BではAと同じく様々な線の集合が描かれているが、それらは一定の規則で整列し、画面が自由に回転するようになっている。Cも同じく線の集合である。しかしABとは違って、Cの様々な線は複製されたものであり、共通の形式を強く感じさせる。整列の規則性もBに勝っている。
次に「思考」の側面から三つの作品の意味を考えてみる。Aは「思考のアルファベットとしての文字」であろう。白い画面に黒い手書きの線で文字が描かれている。文字の形や位置は全て異なっている。しかし、文字がどのような形で描かれているかは問題ではない。問題は、描かれている文字の組み合わせによって「語」が生まれることである。そして、語を生み出すためのアルファベットは、ここに描かれているだけで充分なのである。So FANG Es heimlich an はこの文字群から構成された語の集合としての文を示している。言い換えれば、このドイツ語は文で表現された思考である。文は意味をもつ。その構成要素である語も意味をもつ。では、アルファベットの一文字は意味をもつか。もし一文字が全く意味をもたないのなら、無意味から意味が構成されることになり、矛盾が生じる。従って一文字は意味をもつと言える。ただし、その意味は、極めて微かなものである。それは未だ思考にならない思考である。ゆえに、一文字は思考の限界であり、思考のアルファベットであると言える。
Bは見る者の意表をつく作品である。芭蕉の四つの俳句が書かれた円盤を一八〇度反転すると、全ての俳句が「ふるいけや〜」の句になってしまう。その視覚的事実を受け入れるのに、私も時間がかかった。絵画の世界では、上下を逆転させても意味のある絵に見える作品を「だまし絵」と呼んでいる。その意味では、この作品は「だまし字」である。私たちはなぜだまされるのか。まず、日本の文字を読めない異文化の鑑賞者にとって、この作品は単なる回転盤であろう。そこには意味がほとんどない。次に、印刷された文字は読めるが毛筆を読めない鑑賞者にとっては、この作品は有名な四つの俳句が書かれた色紙であり、俳句の意味はわかっても回転することの意味は理解できない。最後に、毛筆を解読できる鑑賞者によって初めて、この作品が独自にもつ意味が生まれる。つまり、「だまし字」が成立するためには、ただ俳句を知っているだけでは不充分であり、「文字」を自在に読み取る思考の力が必要なのである。しかし、私たちは文字を組み合わせた文章に思考の働きを認めても、普通は「文字の読み取り」自体を思考とは呼ばない。つまり、「だまし字」は思考が働き出す下限を表現しているのである。
Cの印刷文字は、文章としての内容だけを重視して表現されたものである。従って表現の個性は強くない。しかし、ここに書かれている内容は、「文字」に関する独自の思考である。筆者は一文字を書き、一文字を消すという操作の中に、「自己が記号を書き、自己が記号を消す」ということの意味を読み取っている。同種の記号はどのような書き方をしても共通の記号として用いられる。つまり同種記号の共通性と異種記号の差異性に記号の意味がある。記号から構成される言語が、自己の言葉でありながら、だれにも通じる共通性をもつのはそのためである。それに対して、自己は「今、ここにいる」という一回性をもつ。自己は二人いない。その自己が「な」というたった一文字を書くこと・消すことによって、思考する存在としての証を他者に認められたり、認められなかったりする。その意味で、印刷や手書きやパソコンのディスプレーによって表現される文字「な」は、思考の要素であることを超えて、思考の担い手である自己そのものの要素になってしまう。いつの間にか「な」という文字は、思考の限界を超えて、自己と自己以外のモノの限界・境界線上に書かれている。
こうしてみると、文字そのものは物質性をもつ「モノ」によって支えられていながら、どんなに文字から精神性をはぎ取ろうとしても、そこには「思考」の微かな分子が必ず残っている。物質の側から文字の書かれた紙や印刷のインクを削ぎ取っていくと、最後には「形」という抽象的な性格が現れる。逆に、精神・思考の側から文字によって書かれた言語を解体し、意味を削ぎ取っていくと、最後には文字の原型である「対象」という物質的な性格が現れる。こうして、「思考」と「モノ」の境界に、両者の切断面として「文字」が立っているのである。今、私たちの社会では、書く手段が多様になるにつれ、書くことの責任が軽くなっている。だからこそ、一文字の素材や書き方の違いが、思考の多様性、自己の多様性を生み出し、人間とモノの世界との関わりを豊かにしてきたことを振り返り、新たな思考をその境界から始めることに意味があると私は考える。◎概評
出題の形式は昨年と同じであるが、内容的には昨年よりも抽象的である。それゆえ「やや難」と言えるだろう。しかし、BやCの作品が様々な問題を連想させてくれるので、手がかりは多い。昨年と同じく、美術・文学・哲学など、広い範囲の読書によって豊かな素材を身につけておく必要がある。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【2003・文II】
設問1
日本社会のメリトクラシーは「トーナメント型人生モデル」によって支えられている。このモデルは絶えず地位上昇のために選抜を必要とするが、その結果、遠い目標よりも目先の生き残りが重視され、野心や目標の喪失が起こっている。既に大正から昭和初期にかけて、学生の勉学動機が将来の野心よりも目前の学歴獲得にすり替わり、受験の自己目的化が見られた。第二次大戦後、職業の多様性がなくなって給与労働が一般化すると、トーナメント型人生モデルはサラリーマン・モデルとして受験生の人生モデルになった。サラリーマンの生活では機械的な事務が仕事の中心で明確な職業意識が生まれにくく、しかも会社組織を維持するためには協調性が重視される。現代の日本では、こうして無目的な受験勉強に精を出す人間像がサラリーマン型人間像と対応している。
設問2
職業モデルとは「自分が将来どのような職業を選択するか」という動機によって成り立つモデルである。特定の職業には特定の知識と技術が必要であるから、そうした知識と技術を身につけるために「どこで何を学ぶか」言い換えれば「特定の学問とそれを修行する学校」が重要になる。さらに特定の職業は社会での役割が明確なので、自分がどのようにその役割を担うべきかという行動目標も明確で重視されるべきものになる。
設問3
私は日本型メリトクラシーの定礎が揺らぎはじめたという筆者の見解に、基本的には同意する。筆者が指摘するように、日本のトーナメント型社会は受験競争とサラリーマンの地位獲得競争が連続することによって支えられてきた。「いい成績をとり、いい学校へ進学する」ことは「いい会社へ就職し、死ぬまで楽をする」ことと連続していたのである。しかし、この連続性の根拠であった「終身雇用」と「年功序列賃金制度」が崩壊しつつある。終身雇用も年功序列賃金も、まず団塊の世代の昇進・退職金支給が企業経営に及ぼす圧力を契機に崩壊し始めた。企業は中堅社員に複数の将来モデルを選択させたり、実績評価賃金制度を導入している。他方では人口の高齢化と少子化が「安楽な老後像」を崩壊させ、多くの人が退職後の人生に不安を感じている。現在の不景気が「リストラ」などの形でサラリーマンの理想像破壊を加速しているのは言うまでもない。こうしてサラリーマン・モデルは根拠を失いつつある。しかし、「いい大学へ入れば様々なチャンスがありそうだ」という受験の自己目的化の構造に変化が見られない限り、現代青年の人生設計の動機が「遠い目標」にはなり得ないと私は考える。
◎概評
受験システムと職業選択の関係を問う問題は社会系小論文の基本。練習を重ねてきた受験生なら自信を持って解答できるだろう。今年度慶大・環境情報学部の出題とよく似ているが、これはサラリーマン社会から独立起業社会への転換問題が現代日本の課題であることによるのだろう。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【2003・文III】
ABC三つの文章では、「滑稽な笑い」の本質に関する考察が述べられている。そこで共通に指摘されていることは「おかしさは、おかしくないこととの落差から生まれる。」「滑稽な笑いの本質は理知の生き生きした活動である。」という二点である。
Aの文章でベルクソンは、滑稽な笑いに不可欠なものが「無感動」であると主張している。ここでの「無感動」とは一時的に感情をコントロールし、全てのものを「理智の対象」として見ることである。これを言い換えれば「理智の力による相対化」と言えるであろう。全ての対象を相対化することによって、そこには情緒から離れた、新しい視点が生まれる。その視点が日常的な情緒から離れていればいるほど、「普段ならば厳粛な出来事」が落差の大きい「滑稽な出来事」へと大きく変貌するのである。
Bの文章にある「秩序のズレ」も同様の考え方である。しかし、Bの議論の特徴は「滑稽ならざるもの」を「秩序に従ったもの」と捉えているところにある。秩序は人間の知性が生み出したものである。つまり、Aでは「理智」が「滑稽を生み出す相対化の力」として捉えられているのに対して、Bでは知性が「現実の秩序化を求める人間の根源的欲求」として捉えられていると言える。これは正反対の主張ではない。知性はまず「全体的な秩序」を構築するのであり、その上にややズレた「新しい秩序」を生み出すのである。「新しい秩序」から見れば「古い秩序」が相対化され、よく見えるようになったと言える。だからこそスウェイビーは滑稽が「理解を高める力」だと述べているのである。
Cの文章ではBの「秩序のズレ」が「緊張からの解放」と考えられている。Cの筆者によれば「秩序」とは「意味づけの固定化」である。ところが、固定化された意味づけは同時に「意味を強制する力」を獲得し、秩序の権威を生み出してしまう。そこには「解釈の自由」はなく、知性は自由に活動できなくなる。これが「緊張」の状態である。そこに「意味の逆転」が生ずると秩序の権威が崩壊し、知性は束縛から解放されて自由な解釈が可能になる。一面から見れば、これは「秩序のズレ」であり、「落差」である。そこに「笑い」「滑稽」が生まれるのである。しかし別の面から見れば、自由な解釈は「思ってもみなかった意味や可能性」に我々の目を開くものである。そこでは解放された知性が自由に活動し、その結果として古い秩序や権力が否定されるのである。
これらの主張を踏まえて資料Dを見よう。「赤ん坊がマッチを飲みこむ」という事態は、日常生活では心の動揺をひきおこす。しかし、この笑い話では母親が冷静に「マッチがないならライターがある」という他の選択肢を示すことで、日常的な「動揺」という情緒を相対化している。我々は赤ん坊の心配をするよりも、母親の「意外な返事」が対話として確かに成立していることに「おかしさ」を感じるのである。この話を読んで「不謹慎だ」と怒らない人は、日常的情緒から離れて知性の働きを楽しんでいる点で文章Aの場合に該当する。また、「こんな母親は実際にはいない」という点では「秩序のズレ」として文章Bの場合にも該当するだろう。同様に「まあ大変」という期待される反応を裏切るという点では文章Cの場合に合致する。資料Eの漫画も「忍者は任務を完璧に遂行するものであるのに、穴が小さすぎて荷物が入らない」「忍者に気づいた武士が槍で天井を刺すはずなのに、落ち着き払って説得している」という日常的な類型との対照が面白いのである。
私はABCのどれもが「滑稽」の本質を言い当てていることを認めた上で、さらに考察を進めれば「滑稽の本質は価値の相対化がもたらす自己否定である」ということを主張したい。滑稽が生まれるのは既存の秩序・意味が相対化された時である。行動に影響を及ぼす秩序・意味を「価値」と呼ぶことにすれば、「滑稽」は「価値の相対化」でもある。問題は、その相対化が自分にも及ぶことである。文章Aの見方から言えば、「理智」は自分の行動や人格をも客体化して「自分で自分を笑える」のである。文章Bの見方では、我々は「常識がわかっている人ほど、自分がどれほどズレているかがわかると面白い」のであり、文章Cの見方では「固定観念から抜け出せれば、今までの自分がいかに滑稽だったかわかる」ということになる。資料Dの冗談が理解できる人は、「赤ん坊はかわいく、何よりも保護されるべきだ」という常識にうんざりしている自分を発見し、世間的な価値観に従う自分を否定しているのである。同じく、資料Eを楽しめる人は、「時代劇の定型シーン」を思い浮かべながら、細部を少し変えるだけで全体の意味が全く変わってしまうことに驚き、真面目に時代劇を見ている自分を否定しているのである。
しかし、「滑稽という自己否定」は「自己卑下」や「他者の絶対化」とは全く違う。「自分を笑う」とは「自分をより高い位置から見て客観的に評価する」ことである。さらに、それによって新しい視点・新しい視野を獲得することができる。つまり、滑稽は「古い自己を否定し、新しい自己の視野を楽しむ」という「自己肯定」につながっているのである。資料Dのような「ブラック・ユーモア」、資料Eのような「パロディ」がもつ諷刺の力は、そうした自己肯定の力である。かつてスウィフトやボルテールは、諷刺の手法によって自己の所属する社会を痛烈に批判し、笑い飛ばした。それは当時の権力者の怒りを買ったが、彼らの著作には新しい社会にとって必要な自己否定と新たな自我の形が提示されていたのである。ゆえに、我々は、常に自分を正義と考えて他者を笑う滑稽ではなく、自己をも笑いつつ新たな知性のあり方を求める滑稽を求めていく必要があると私は考える。◎概評
昨年はかなり斬新な資料も使われていたが、今年は驚くほど難解なものはない。資料Aは現代文の問題によく使われてきたもの。資料Eの漫画は慶大SFCで過去に使われた作者(いしいひさいち氏)のもの。そうした点から見ても、基本的な読解力と思考力、文章構成力を問うことに重点が置かれていると言えよう。問題はこちら→代々木ゼミナール
【2004・文II】
設問1
国民主義全盛の19世紀末に、国際語による世界平和を目指したエスペラント語の運動が一例である。
設問2
思想は戦うべき敵の批判として成立するものであり、敵の変化が思想自体を本質的に変えてしまうということ。
設問3
思想家は独自の視点で世界を解釈し思想を築く。これに対し、思想仲買人は今の世相の動向に合致しそうな既存の思想を探し、加工し、理解の容易な商品として提供する。
設問4
「あべこべ」は、思想仲買人が宣伝する新しい潮流を思想家が後から研究テーマとすることである。これは、深い考察による思想の熟成よりも社会の変化が速いために起こる。
設問5
私は下線部の状況と現在の状況は似ていると考える。「持てる国」と「持たざる国」の対立は南北問題に、「民主主義国家」と「全体主義国家」の対立はテロ支援国家に対する戦いに姿を変えただけだからだ。第二次大戦直前には、欧米の大国と近代化後発国である日本などの利害が対立し、「自らの自由と独立は武力で勝ち取るしかない」という思想が双方を戦争に導いた。同様に、現代のテロは、政治的経済的に困難を抱える「持たざる国」の中から、格差で利益を得る先進国に対して向けられた悪意である。これを話し合いや協力によって解決せず、「暴力には暴力で対応する」という政策をとるならば、「主導思想の予定調和」もまた過去と一致する。
◎概評
林達夫の『思想の運命』はかつて現代文の頻出問題であった。ここのところ、東大文二では過去によく使われた文章からの出典が目立つ。内容は難しくないが、「自分が現在生きている社会の問題として捉えることができるか」という点を問う問題なので、問題意識がなければオリジナリティーのある答案は書けない。今、どの大学も「新しい分野の研究に脱皮する」ことを目標としているが、そうした傾向に対する批判的な意図も読み取れる。受験生も目先の新しさだけを追うのではなく、基礎としての学問的な力を鍛えることが必要である。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【2004・文III】
「現代社会における教養の意義」
私は現代社会における教養の意義を考察したい。
ABC三つの文章は、共に「教育の目標」として「偏らないこと」「全体性」を挙げている。福沢は古典の解釈や文芸に偏って形骸化した学問を「実なき学問」と批判し、それまで重視されてこなかった日常の役に立つ学問を「実学」として提唱している。和辻は一般教養を人間的成長と円熟を助けるものと捉えている。自然に生まれる衝動・欲望に偏らず、「全的に生きる生活」を実現するために、特に青年期に「教養」が必要なのである。アーレントは教育の独立性と一般性を主張し、若者を「限定された部分」に導く「専門化」とは区別して、「全体としての世界」を教える「教育」が重要だと考えている。
もちろん、これらの主張は、それぞれ異なった背景をもつ。福沢の時代は日本にとって近代化が第一の目標であり、それまでの古いシステムを変えることが急務であった。そして古いシステムの代表が「学問」だったのである。江戸時代の学問は一方に古典の暗記があり、もう一方に現状肯定的な幕府公認の思想研究があった。それを外れる研究は容赦なく弾圧された。その結果、日本の学問は現実世界との関わりを失い、西洋近代の自然科学、社会科学との間に大きな差が生じたのである。福沢はその差を埋めるために、それまで重視されてこなかった実学を重視していると言える。それは過去の世界だけでなく、現在の世界をも広く捉えることのできる全体的な視野を求める考え方であった。
和辻の時代は戦争と敗戦、戦後の豊かさにまたがっている。和辻が青春期の欲望と教養を対立させて考えているのは、やはり「教養の衰えによる欲望の暴走」を見たからであろう。しかし、これは同時に青春期をめぐる普遍的な問題であるとも言える。豊かな感情は熱狂的行動に結びつき、芸術や政治を動かす大きな力となる。だが、同時にその力は流されやすく、時には他者によって操られ利用されることもある。教養は感情と理性のバランスをとり、自分の位置を教えてくれるものである。「歪にならない」「全的に生きる」とは、このバランスを示しているのである。これもまた全体的視野につながっている。
アーレントの主張は一見、福沢の主張と正反対に見える。福沢が生活と結びついた実用的な学問の必要性を唱えたのに対して、アーレントは学校の機能を「生きる技法を指導することではない」と述べているからだ。しかし、アーレントが教育すべき内容と考えている「権威の概念と過去への態度」「所与としての世界」は福沢の「地理学」「究理学」「歴史」「経済学」などと重なっている。すなわち、福沢の「実用」は単なる「生活」を指すのではなく、「今の世界とはいかなるものか」を知るための学問は、全て「実用的」な「実学」なのである。ゆえに、アーレントが教育に求める「全体としての世界に若者を導く」という役割も、福沢と同様に全体的視野を重視したものと言えるのである。
これらの主張がそれぞれの時代や社会の状況の中で重要な意味をもつことは言うまでもない。しかし、現代の社会においては新たな問題も起こってくる。福沢は「身分制度」に対立させて、学問が社会的地位に結びつくような「実力主義」を唱えたが、それは「学歴社会」に結びつき、社会の流動性を妨げている側面もある。和辻の「一般教養」に関しては、若者が本を読まなくなった時代に、だれにも同じような教養が必要なのか、そもそも、そうした一般教養の教育を「受ける力」がだれにでもあるのか、という大きな問題がある。例えば、日本では大部分の人が高等学校教育を受け、そのうち半数近くは大学へ進学する。しかし、それらの人全てが豊かな教養を身につけたとは言いがたいのが現実であろう。さらに、アーレントの考える公的政治的生活から独立した学校は理想であるが、社会の側が全体性を失っている中で、教育は社会の圧力と無縁でいられるか、という問題もある。
私は、現代の社会においてこれらの疑問に答える力をもつのは、やはり「教養」しかないと考える。現代の社会は「役に立つか立たないか」という価値判断に呪縛されている。ただし、ここで「役に立つ」というのは福沢の言う「実用」とは異なって「金儲けにつながる」ということである。多くの場合、学問は直接の金儲けにはつながらない。したがって、大学のほとんどの学部は「役に立たない」ということになる。その結果、大学では教養科目が廃止されたり、伝統的な学部を縮小し「企業と共同研究する学部」が新設されたりしている。だが、それはますます「役に立つ」学部での学歴が社会での地位を決定することにつながるし、本来の「教養」を否定することになるだろう。若者の読書離れは、社会のこうした傾向が初等教育にまで影響を与えている証拠と言える。つまり現代の学校は社会の縮図であって、独立した場ではないのである。
このような社会では、教養とは「全体性」と「中立性」の理想である。なぜなら教養は「役に立つもの」だけでなく「役に立たないもの」にも光を当て、別の考え方もあることを示唆するからである。かつてオウム真理教に多くの高学歴の青年が集まり、テロ事件の加害者となった。彼らは「尊師はどんな疑問にもすぐ答えてくれる」ことに感動して入信したのである。たとえ専門的な知識や技術があっても、生と死をめぐる疑問と向かい合うのに充分な「全体的教養」がなければ、だれでもこのように容易に操作されてしまう。今、必要なのは、教養がもつ「呪縛を相対化する力」である。学校に限らず、出版やネットワークを通じて、もう一度「教養」を再建する努力が極めて重要であると私は考える。
◎概評
今年は比較的オーソドックスな問題に戻ったと言える。東大も新しい大学院が多く新設されて「最先端」に中心が移っているが、そうした中で「教育の全体性」や「一般教養」に目を向けさせるところが文三らしい。しっかりとした読解力で課題文の主張の本質をつかむ必要がある。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【2005・文II】
設問1
環境破壊 貧富の格差の拡大設問2
医学の進歩のおかげで寿命が伸びた反面、延命装置による苦痛の長期化も生じた。設問3
ペレストロイカは自発的に現われたソ連の「体制内変革」ではなく、西側の自由主義的民主主義の圧力に旧体制が耐え切れず出現した「西側的なシステム」であり、ソ連崩壊に連続するものであると著者は考えている。設問4
オウム真理教による「地下鉄サリン事件」のように、「思想、信条の自由」という民主的システムから、民主主義を否定する思想やそれを実践するテロ行為が生まれること。設問5
次世代の負担の増大設問6
国連の承認なしにアメリカ一国だけで軍事行動を起こすこと。設問7
冷戦期には資本主義陣営と社会主義陣営が互いに相手を「悪」と決めつけて対立したが、冷戦後もアメリカを中心とした市場支配とそれに対抗するイスラム原理主義などの二元論的対立は克服されていないということ。◎概評
昨年度より設問当りの解答字数が少なくなり、より解答しやすくなった。内容的には具体性が増して、現代の国際政治・世界経済の基本的な理解を問うものとなった。社会系の小論文対策をしていれば容易に解答できる。問題はこちら→代々木ゼミナール
【2005・文III】
人間の再定義として考えられる「感情からの自由」の両義性について
私はAB二つの文章から「人間を定義するものは自由である」ということと、「ただし、その自由は両義性をもっている」ということについて考察したい。
Aの文章では、チンパンジーの観察を通して、人間とチンパンジーとの動物行動学的な連続性が述べられている。人間も進化に従って登場した生物である以上、祖先である動物から遺伝学的な影響を受けている。従って、人間の祖先と共通の祖先をもつチンパンジーと人間の間に、感情や社会生活の共通点があっても当然である。現代の動物行動学は「先入観なく、全ての動物の行動を相対化して観察し、評価する」という立場をとっているから、動物の行動が人間に似ていたり、逆に人間とかけ離れていても、それを「善」や「悪」と結びつけることはない。
しかし、それでもなお、課題文の筆者は動物の行動を「和解」や「友情」と名づけることに対する反発を経験している。このような傾向は「人間は神に似せられて創造された特別な存在である」というキリスト教的な人間の定義と無縁ではないだろう。また、例えば16世紀の思想家モンテーニュは、著書「エセー」の中で人間の知恵が「ミツバチの巣作り」などに到底かなわないことを述べ、「人間の特権的地位」について疑問を呈している。これらは、人間を高く評価するか低く評価するかに関しては正反対の意見であるが、人間を「特別な存在」として扱っている点では共通である。現代の我々が「人間とは何か」を考える場合、そのような「特別」という意識を克服することが課題となるであろう。
Bの文章では、人間の独自性として考えられてきた定義である「言葉を使う存在」「道具を使う存在」などが、現代科学の研究の結果揺らいでいることが示されている。言ってみれば、モンテーニュの思想が現代に復活したのである。しかし、Bの筆者は「人間とは何か」という定義そのものが、人間存在の特質であると主張している。つまり、人間とは常に自らの存在について疑問をもち、それを探求する存在であるというのである。しかし、「自己探求」や「学問」が人間の特質であるとしても、それを支えるのは言語であるから、結局それは「言葉を使う存在」という人間の定義に還元される。すると人間と他の動物の連続性の程度は「どのくらいのレベルで言葉を使えるか」で区別されることになり、「言葉の使用が苦手な人」は人間の領域から追い出されてしまう。それを無理に人間の仲間に入れようとすれば、やはり「人間だけは特別にすぐれている」という意識を再生産することになる。
これらの問題に答えるために、私は「人間とは感情から自由な存在である。」という定義を提案したい。感情から自由であるとは、第一に「感情から離れた理性をもっている」ということである。感情だけに着目すれば、人間とチンパンジーに大きな差はない。文章Aと図版に示されている通り、チンパンジーと人間には「友情」「愛情」「嫌悪」など多くの共通する感情があり、人間はチンパンジーに共感することができる。しかし、同時に、人間はそうした感情から離れて理性的な判断をなし得る。例えば、我々は相手を好きか嫌いかに関わらず、挨拶したり同じ職場で仕事をすることができる。他の動物が感情の動きによって行動を決定しているのに対し、人間は感情から自由になることで理性的に行動を決定しているのである。17世紀の思想家ホッブズは『リヴァイアサン』の中で、恐怖からなされる行為も、それが自発的になされ、あるいはそれをしない「自由」がある時、「自由な行為」と言えると述べたが、恐怖の感情から行為を決定する時、それは動物のもつ本能的な自己防衛なのである。それを自由と言うなら、全ての行為から自由と不自由の区別はなくなってしまう。やはり感情から自由であることが重要だと言える。
しかし、そうすると「感情をコントロールできない人は人間ではないのか」という疑問が当然生まれてくる。例えば、怒りに任せて他人を殺傷する人は、感情から自由になれず、理性を働かせることができなかったので人間ではない、ということになる。しかし、それこそが「感情からの自由」の両義性なのである。他人と争う時、人間は怒りや憎しみを感じる。だが同時に、自分が優位にある時、相手に対する憐れみや罪悪感も感じる。通常はこのような感情が争いの激化を防いでいる。多くの動物種で仲間同士の闘争が限定的なものであるのは、そうして種の生存を守るためであろう。これに対して人間は、仲間を殺害したり、時には、周囲の親しい人々の自分に対する感情を無視して自殺を決行することもある。「感情からの自由」は、時として、他者と自己に対する無慈悲な暴力として現われるのである。
こうした「感情からの自由」は、人間を定義する特質ではあるが、人間の「特別にすぐれた点」ではない。すなわち、「感情からの自由」は、一方で理性の領域として人間を他の動物よりも自己意識的な高い視点に置く。しかし同時に「感情からの自由」は、暴力の領域として人間を他の動物よりも自己否定的な低い視点に置くのである。世界的な環境破壊や激しい経済格差、大小のテロリズムなどは「感情からの自由」がもつ両義性から生まれる現象である。我々が両義的な「感情からの自由」を人間の再定義として理解するならば、これらの解決困難な問題に対処する新たな足場を得ることができると私は考える。
◎概評
一見具体的な問題であるが、その具体的事例から問題点をつかみ取るのがやや難しいかもしれない。「人間はどこまでサルか」などの問題にあまり深く立ち入ってしまうと、文化や思想から離れて俗流の科学論議になってしまいがちだ。抽象的ではないからといって、書きやすいとは限らない問題の例である。この解答例は2005年の「東大後期対策特別セミナー」の内容を応用して書いたものである。*問題と解説は『オンライン参考書』にあります。
【2006・文II】
設問1
自然現象を対象とした誤差法則は観測者と観測条件が原因であるが、ケトレが社会現象に適用した誤差法則は観測対象である人間の多様性が原因となって生まれる法則である。設問2
「社会的レアリティ」とは、具体的な個人から独立し、その根拠を個人に還元できない社会的性質や社会的な力を意味する。ケトレの社会的レアリティは、多様な個人の誤差を相殺して成立する「平均人」というイデア的実在である。それに対してデュルケムが考える社会的レアリティは、自殺や犯罪などの異常な事態の増加を抑え、複雑で多様な社会を正常な状態に安定させる社会的影響力である。設問3
どの個人とも一致しない全体・平均と考えられていた統計分布を分割して、部分集団や個体の偏差を表現した。設問4
ゴルトンははじめから、個人を超えた社会の力や、個人の生活や道徳性を外部から規制する社会的なるものには関心がなかった。設問5
私が「平均」という言葉を聞いた時、まず想起するのは「平均点」と「中流意識」である。同一の試験問題に関して「クラスの平均点」を比べることがある。この場合、平均点の高いクラスほど「学力が高い」と私は考えてきた。しかし、試験問題を変えれば平均点とクラスの順位も変わってくるから、平均点の差とは試験の「誤差」と言ってもよい。例年、平均点に大きな変動がない場合、「学力(という平均的な力)が安定している」と考えるのはデュルケムの発想に近い。また、人々の中流意識は「自分は平均的な生活をしている」という安心感につながっている。これは「平均人」を理想化するケトレの発想である。こうした「神聖なる平均」を排したのがゴルトンであるが、本来、与えられたデータの中で位置づけを行う手法である偏差値が「受験生の目標」になっている日本社会では、ゴルトンの意図に反して「高い偏差値の理想化」が生じていると私は考える。◎概評
昨年度より設問が少なくなり、より解答しやすくなった。受験生にはおなじみの平均点や偏差値に関する文章なので、内容的にも取り組みやすいと言える。問題はこちら→代々木ゼミナール
【2006・文III】
生きるための時間の厚み
課題文はどれも「生きるための時間の厚み」について述べている。ここで私が定義する「時間の厚み」とは「過去・現在・未来を切り離さず、連続した不可分な時間として絶えず経験すること」を指す。
Aは20世紀を特徴づける科学技術とイデオロギーについて、それらが「人々の間の過去の関係、現在の関係、未来にありうる、またあるべき関係」という倫理学的な発想から始まったことを指摘している。科学技術は過去の理論との対決の中で発展を繰り返してきたが、その背後には「古い世界観との対決」があった。西洋近代の力学的世界観はそれ以前の神学的世界観との緊張関係から生まれたと言えるし、力学的世界観も相対論や量子論の世界観によって根底的に批判された。それは社会観についても同様である。進化論がマルクス主義や功利主義の基盤となって20世紀のイデオロギーを生み出したのは、その一例である。これらの思想的運動は過去と対決し、未来を構想する知的営みの一面であった。
Bは日本生まれの韓国人が感じる「ふるさと」について、「生まれ育ったところ」と「先祖が長く住んでいたところ」の分断によって、「ふるさとは半分しかない」という意識が生まれることを述べている。それと対置されているのは、筆者の母の「(日本は)つらかっただけ思いも深い」という言葉である。親子でありながら、過去への思いに差異があるのはなぜか。それは「先祖という遠い過去」「生まれてからの自分の人生という近い過去」「現在」という時間的つながりの有無による。旧世代はこれらのつながりを強く意識していた。だから父祖の地である韓国の星州も、子どもを生み、また失った日本の可部も、自分の生きる現在と強く結びついていたのである。それは恨みを超えて二つの国の未来を構想する力にもなる。しかし、その子どもの世代になると、日本で生まれて「先祖の地」を知らないばかりか、韓国へ戻って「自分が生まれた日本」とも断絶した生活を送り、過去と現在の連続性は断ち切られている。それが国交再開によって「罪がゆるされたような」気がした原因なのである。
Cは戦後の「博覧会」について、そこが「過去を忘れる場」であったこと、さらに非日常的だった博覧会が今日では日常化し、社会全体が過去を忘却している現実を述べている。筆者は、現代の我々が過去もなく、また未来もない「時間が平面化した」「時間が奥行きを失った時代」に生きていることを指摘している。しかし、現代にもいわゆる「歴史観の対立」はある。それは「過去の忘却」と矛盾しないだろうか。そのヒントとなるのは文中の「アメリカ博覧会」であろう。敗戦からわずか五年で会場から排除された「戦争の記憶」は、会場の外で「モノ不足」「住宅不足」として生々しく生きていた。だからこそ博覧会は「非日常の場」として盛況だったのである。その頃の歴史観の対立は、少なくとも「戦争」という共通体験の上に立った「現在と連続する過去の評価」であった。ゆえに例えば「戦争責任の軽重」に関する議論はあっても、「戦争はなかった」という議論は存在しようがなかった。しかし、現在の「歴史観の対立」は、体験していない空白の過去について「現在の立場から何を書き込んでも自由」というような議論になっている。その点でこれは「過去の忘却」と変わりがないのである。
そもそも我々が自分自身の問題について考える時、対象である自分たちの時代を正確に捉えていると言えるだろうか。今、ここに生きている我々は、我々のものの見方で対象を捉えざるを得ない。すると、「我々のものの見方」以外の「ものの見方」は、そこから排除されることになる。例えば、鏡がなければ自分の顔を見ることができないように、人は自分の外側にある「他者」の視点から眺めなければ、自分自身の「考え方の枠組」には気づかないのである。
それゆえに、時間的に「既にない過去」あるいは「歴史」について考えることは、現在の自分のものの見方を自覚するために必要だと言える。いわば過去が現在を照らす鏡になってくれるのである。また、空間的に「ここにないもの」、すなわちBで述べられているような異文化の視点に触れることで、我々が「ここ=中心」と考えている自文化も、他者の視点から照らし出される。こうして、我々が絶対に正しいと信じて疑わない価値の基準も、別の基準に照らせば相対化され、多くの価値基準の中の一つになる。Aで述べられている「倫理学」の視点は、こうして捉えられた人間関係の本質だと言える。
こうした「時間の厚み」の中で生きて初めて、我々は「いま」「ここに」ある「現在」を評価することができる。言い換えれば、自分を縛っている考え方の枠組から離れて自分を見ることができるのである。この「時間の厚み」は未来との連続性も生み出す。なぜなら、我々が現在を批判し、よりよい未来を建設しようとすれば、現在の考え方・生き方そのものを変えなければならないからである。今の考え方・生き方のどこをどのように変えればよいのか。それを知るためには、「いま」「ここに」あるものを離れて、過去の歴史や異文化の視点から我々自身の現在を見直すことが必要である。しかもその「見直し」は、絶えず経験との結びつきを検証しながら行われなければならない。こうして得られた「生きるための時間の厚み」が、合意を必要とするどの分野でも、今、重要な課題となっていると私は考える。
◎概評
昨年に引き続いて「人間とは何か」「人間はどう生きるべきか」に関連する出題である。文章の性格(ジャンル)が様々なので、三つの資料から共通の問題点を読み取るのがやや難しいかもしれない。解答例は実存主義的な時間の捉え方を背景に議論を展開した。芯となる思想がないと書けないが、過去問を検討すればヒントは多い。*解説は『オンライン参考書』にあります。
【2007・文II】
設問1
武士道が非経済的であることを重視したのは、行動を重視する武士にとって重要な価値が「美」だったからである。この「美」は、倫理的な規範性と言い換えられる。倫理的な規範に合致しているか否かは精神的な価値の問題であって、その物質的な損得を計量することはできない。ゆえに行動の「美」は非経済的でなければならないのである。例えば、プロ野球のスカウトがアマチュア選手に将来の入団を密約して現金を渡したことが問題になっている。もしプロ球団の経済的利益のために特定の選手への金銭供与が許されるなら、だれもが参加できるはずのアマチュアスポーツに金銭的格差が生まれ、公平性が失われる。アマチュアスポーツは非経済的であるからこそ、機会の平等や公平な競争によって参加者の人間的成長が可能になるのである。このように、非経済的であることは、現代においても精神的な価値とそれに基づいた行動の規範が重視される場面で大きな意義を持つ。設問2
教師の職業は品性と霊魂を扱い、人格の美的完成を目的とするものである。したがってその仕事は一切の世俗的価値を超越するがゆえに神聖な性質を帯びると考えられている。設問3
武士道にかなった報酬の制度とは、「高度な専門性」「高度な職業倫理」に対する敬意という精神的報酬である。現代の企業では仕事に対する報酬が昇進と賃上げに限定され、仕事の目標や「生きがい」は高収入を得ることにすり替わってしまう。この状況を変えるためには、ドイツのマイスター制度つまり「親方制度」のようなシステムが必要である。売り上げ実績ではなく、顧客の評判や部下の信頼、ボランティア活動による社会貢献歴などですぐれた社員を「社内マイスター」に指名するのである。武道の段位のように、段階化した資格を設けてもよいだろう。社内マイスターに金銭的報酬は不要だが、経験と見識を生かして社員の相談相手になる、企業の社会的責任について意見を述べるなどの重要な役目を担ってもらう。希望者には定年後もアドバイス役として出社してもらう。この制度によって、企業も社員も武士道的な高い精神性を維持できると私は考える。【難易度】
標準的な問題。【問題の傾向】
昨年度より設問が少なくなり、より解答しやすくなった。最近、報酬と勤務時間を切り離そうとする「ホワイトカラー・エグゼンプション」や団塊世代の大量定年退職が大きな話題となっているので、仕事や「生きがい」について考えたことのある受験生なら難しくない。問題はこちら→代々木ゼミナール
【2007・文III】
「ネットワーク社会における他者との失われた連続性の回復」
課題文を参考にして、私は自己と他者との連続性について考察したい。まず、自己と他者の連続性とは何かを定義し、次にそれが失われている情報社会のあり方を考察する。その上で、いかにして連続性を回復するかについて論じたい。
三つの文章が共通に論じているのは、自己と他者の連続性とは何かという問題である。この「連続性」とは、自分の問題として他者の心情に共感し、心情を理解し、分かち合うことである。そして、どの文章の筆者も「身体性」や「情緒」が自己と他者をつなぐと考えている。
Aでは人間と他の生物を平等に扱うことの根拠として「苦しんだり悲しんだりする能力」が挙げられている。普通、人間の特質として論じられる知性などは人間と動物を恣意的に区別する基準であり、実際は身体の快楽や苦痛を通して、人間も動物も共通の「利害」をもつ点でつながっているのである。ここでは自己と他者の連続性は「苦しみや悲しみ」によって支えられている。
Bでは人間同士の出会い、つまり連続性が論じられている。自己と他者との出会いは母と子の間に「密着と距離」の対立が生まれることから出発する。その関係は人間一般の出会いや神仏との出会いにもあらわれ、筆者はそのあり方を「現成」と呼ぶ。現成は、自己と他者の連続性が、身体を通じた「信」のやりとりによって確かなものになるということである。そこでは、自己が他者をどう信じるかによって相手は神仏にも木石にもなる。つまり、他者は自己そのものに還ってくるのであり、出会いにおける自己と他者は強い連続性をもっているのである。
Cでは一見否定的な感情である「怒り」が、実は他者志向的な情緒であることが述べられている。「怒り」は、他者の干渉によって自己がもつ独自の価値を否定されることから生じる。それゆえ、「怒り」は他者による働きかけから始まり、自己の身体に起源をもつ他者への攻撃へと広がっていくのである。そこには自己と他者の間に心情的なやりとりがあり、連続性が成立していると言える。
以上のように、自己と他者の間には、本来「身体性」や「情緒」によって構成される連続性が成り立つはずである。しかし、高度情報化によって出現したネットワーク社会では、この連続性が危機に瀕している。
第一に、ネットワーク社会では「身体性」が希薄になる。連続性にとって不可欠の「快楽と苦痛」「密着と距離」「他者からの身体的干渉」などは、自己の身体と他者の身体が触れ合い、自己の身体に起こる「感じ」が他者の身体に起こる「感じ」と同じものであると意識されるところに成立する心的状態である。ところが、ネットワークを介したコミュニケーションが日常の大部分を占めると、一人一人の自己は孤立し、他者はどこにもいなくなる。ネットワーク上の仮想空間では身体的快楽も苦痛もなく、他者はいないから密着も距離も身体的干渉もない。パソコンや携帯電話でいつでも誰とでも連絡がとれるにもかかわらず、そのつながりは身体性を欠いていて「連続」していないのである。
第二に、ネットワーク社会では「情緒」が限りなく内面化される。自己と他者をつなぐものとしての情緒は、「快楽・痛み・身体をもつ感覚・怒り」などが他者と共有されているからこそ関心を相手に向けさせ、「相互の承認」を基礎づける。だが、他者が見えない場で自己の内部に生まれる情緒は反復かつ増幅され、「自分だけで負わなければならない痛み」「どこにぶつけたらよいかわからない怒り」に変質する。これらは他者との連続性が欠如した結果生まれる感情であるが、その内面的な激しさは他者を拒絶し、ますます連続性を失わせる。
その結果、ネットワーク社会は携帯電話や携帯メールに一日中依存する人々を生み出し、「出会い系サイト」には真の出会いはなく、ネット掲示板やブログには自己完結的独白と他者への中傷が溢れている。ネットを通じたいじめも自殺も、自己と他者の連続性が絶たれたことに原因がある。
このような状況の下で、我々はいかにして自己と他者の連続性を回復すればよいだろうか。連続性喪失の原因から考えれば、「身体性と情緒の再発見」が必要であることは明らかである。例えば、課題文Aをヒントにすれば「環境問題の中で生命の連続性を考え、実践する」という行動が考えられる。人間以外の生物の苦痛を人間が共有し、相手を尊重することで、我々は自分自身の「痛み」とも向き合うことができる。自己の「痛み」は、困難な状況にいる他者の「痛み」でもある。人間が互いにその自覚をもつ時、我々は自己と他者の連続性を再発見できたと言える。また、課題文Bにある通り、他者に配慮し他者を尊重することは、自己を深く知ることでもある。さらに、自己の関わり方によって相手のあり方が変わるということは、たとえネットワークが契機であっても、実践の場で相手と出会い、新しい社会関係を築くことが可能だということである。これらの認識はボランティア活動の情緒的基礎でもあるが、ネットワーク社会で希薄になる家族や地域、さらに大きな領域の人間関係を再評価・再構築する力になると私は考える。
【難易度】
やや難。【問題の傾向】
倫理学的な情緒論である。出題意図としては、知性や論理優先の現代社会を相対化するという課題。抽象的な議論と現実の人間社会の問題をどう関連づけるかがやや難しい。しかし、コンピュータ社会と人間の問題としてよく出題される内容でもあるから、現代社会の大きな問題を整理しておけば十分対応できる。*解説は『オンライン参考書』にあります。
【2008・第3問】
第一問
問一
この裁判は、宗教的信条から輸血を拒否する意志を表明していた患者に対して医師が手術中に輸血し、手術後に患者と家族が「治療方法に関する患者の自己決定権の侵害」があったとして六名の医師を訴えたものである。医師側の「死につながる自己決定権」を否定する主張に対して、裁判所は個人には「生き方を自己決定する権利」が基本的に認められるとし、医師は手術に際して十分な説明をした上で患者の同意を得る義務があると述べている。事実として患者は診察、入院の過程で宗教的信条によって絶対的無輸血を選択する意志を表明し、手術前にはそれを文書化していた。患者と日常的に接していた三人の医師には患者に対して輸血の必要性を説明し、その上で入院と手術に対する患者の同意を得る義務があった。しかし、十分な説明と合意がなされないまま輸血を伴う手術が行われ、三人の医師は患者の自己決定権を侵害したと裁判所は判断した。同時に、患者と接する機会のなかった他の三人の医師には説明義務がなく、権利の侵害もなかったと判断した。
問二
傍線部の主張について考察するためには、「権利」の意味を定義する必要がある。権利とは、社会生活をする上で、社会の成員間に成立する「相互に相手を尊重し共に行動するという合意」である。この定義から考えると、「成員Aの自己決定権」とは「Aが自分の意志によって人生を生きようとする時、他の人々がその意志を尊重し、意志の実現のために共に行動する」ことである。これを「生死の選択」に適用するとどうなるだろうか。例えば、健康な人が権利として「自殺」を選択する場合、他の人々はその人の自殺の意志を尊重し、自殺を助けるために共に行動することになる。しかし、我々の社会は「自殺幇助」を罪と考えており、この場合に社会的合意があるとは言えない。一方、重病で余命の短い人が「安楽死」や「治療を受けない」ことを選択する場合、周囲の人々はその意志を尊重し、麻酔薬の点滴やホスピスなどの看取りでその人を支えることになる。この場合については社会的合意があると言える。
従って、「自己決定権」は「何を選択し決定するか」によって合意の有無が別れる、矛盾を含んだ権利であると言える。ゆえに「自己の生命の喪失につながるような自己決定権は認められない」という主張と「あらゆる自己決定権は尊重されるべきだ」という主張はどちらも普遍的ではなく、それぞれ限定的に正しい場合があると私は考える。
第二問
問一
「自己」と言えば普通は「自分が一番よくわかっている人間」のことである。しかし、「見られる自己」は他人が自分を見て、他人のものの見方から作り上げられる自己像である。それは若者の生物的発達とつながる「根元の自己」や反省的に自分を見る「見る自己」とは違い、自分の生き方とは異なる場所で生まれる「自己」だと言える。それゆえに「見られる自己」は、自分の中にありながら「自分のふりをしている、自分ではよくわからない人間」である。それを筆者は「一個の他者」と表現しているのである。
問二
筆者は「性格」を「見られる自己」として捉えている。それは他者から見た自己であり、自己の一側面に過ぎない。それゆえに「性格」は「他人用のハカリで計測された自己」として、生きるエネルギーやその現れである「ふり」とは無関係なものだと言われている。私は筆者が主張するような「自己の重層的なあり方」を認める。しかし、「見る自己」と「見られる自己」を完全に分けることはできないと考える。
筆者の「根元的な自己」とは「因果的な自己」である。そこでは身体的・物質的な「刺激と反応の関係」が支配している。この自己も意識では制御不能であり、その意味で「他者」であると言えるだろう。我々は背の高さを自分で決めることはできないし、性的衝動を消去することもできない。例えば「意志によって性的衝動を抑える」と言うが、実は衝動は芸術表現やスポーツなど文化的な闘争行為に形を変えているだけだとも考えられる。
これに対して、「見る自己」「見られる自己」は「関係性の中で生まれる自己」である。もし我々が自分一人の世界で生きられるならば、「見る自己」も「見られる自己」も生まれないだろう。誕生間もない新生児のように、そこには快と不快に反応する「因果的な自己」があるだけである。
だが、「見られる自己」が形成されるにつれ、人間は変わる。最初は外から「名前」が与えられ、兄や妹などの家族関係、社会経済的地位、自然・文化的環境など、様々な外的要因が「因果的自己」と衝突する。この衝突によって初めて「思い通りにならない世界」が意識される。これこそ筆者の言う「他人用のハカリ」である。
しかし、筆者の言う「他人用のハカリ」は、自己を外側から見る唯一の手段でもある。我々は絶対に他人にはなれないから、他人が何を考えているかを知るためには「他人用のハカリ」を比較するしかない。それによって世界の多様な姿が見えてくる。それと同時に「他者による自己の様々な評価」も見えてくる。言い換えれば「多様な世界の中で、自分は何者なのか」というアイデンティティの意識が生まれるのである。これこそ「見る自己」の誕生に他ならない。従って、「見られる自己」としての「性格」は「見る自己」と連続しており、アイデンティティ形成の重要な一段階であると私は考える。
【難易度】
やや難。
【問題の傾向】
社会科学的な第一問と人文科学的な第二問を組み合わせた問題であるが、権利や自己形成の本質に関わるテーマが議論されており、どちらも抽象度が高い。特に第一問は法律用語で書かれた判例であり、読みとりにくい。説明問題はどちらも標準的だが、課題の内容を深く読みこまなければ理解できない。それだけに普段から同様のレベルの読書をし、専攻を横断して過去問に取り組む練習が必要である。
*解説は『オンライン参考書』にあります。
【2009・第3問】
第一問
問一
(1)
ピナゴが十七歳の一八一五年にプロシア軍が村に侵入したのはナポレオン戦争におけるフランス戦役である。一八一三年にナポレオンがロシア遠征で敗北し、プロイセンはフランスに宣戦する。第四次対仏大同盟によってフランス軍が敗北、一八一四年にはナポレオンが皇帝を退位し、エルバ島に追放される。しかし、ウィーン会議における戦後処理の混迷と王政復古の不評を見て、1815年2月にナポレオンはエルバ島を脱出しフランス本土へ上陸して再び帝位につく。これに対して第五次対仏大同盟が結成され、プロイセン軍は6月にワーテルローの闘いでイギリス・オランダ軍に合流し、フランス軍は敗れる。ナポレオンの復活は百日天下に終わり、再び退位した彼はセントヘレナ島へ流され、ナポレオン戦争は終結した。
(2)
ピナゴが七十二歳の一八七〇年にプロシア軍が村に侵入したのはドイツの統一の過程でおこった普仏戦争である。一八六八年に空位となったスペインの王位継承をめぐってナポレオン三世とプロイセンの首相ビスマルクとの間に対立が生じた。プロイセン王ヴィルヘルム一世の電報が書き換えられたエムス電報事件をきっかけに、一八七〇年7月フランスはプロイセンに宣戦する。戦争準備を整えていたプロシア軍はフランス軍を圧倒してセダンで包囲し、9月にナポレオン三世は将兵とともに投降し捕虜となる。翌年1月にはプロイセン王がヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム一世として即位し、ドイツの統一が完成した。敗戦の結果フランスでは第二帝政が崩壊して以降は共和制となり、アルザス・ロレーヌ地方はドイツに併合された。
問二
私はコルバン氏の試みを「歴史とは何かを捉え直す」という意味で高く評価する。それを三つの視点から述べたい。
第一に、「個人性は権力の立場から正当化された歴史を相対化する意味をもつ」という視点である。これが傍線部にある「メーンストリームの社会史、歴史学へのアンチテーゼ」の意味である。「歴史的事実」は主に文書で残された資料であり、文書を作成し長く保存できるのは、それぞれの時代で大きな権力をもつ人々である。権力をもたない人々を「無名の人々」と言うが、本来「無名」の人はいない。「歴史」が人を無名にしているのだ。歴史の「個人性」はそのことを我々に教えてくれる。
第二に、「歴史資料の自由性」という視点である。歴史家EHカーは著書『歴史とは何か』の中で、歴史的事実に基準はなく、歴史家が選んだ事実が歴史であると述べている。カーが言うように、通常、権力者の行動や戦争の記録が「歴史」と言われるのは、多くの歴史家がそれらを「歴史的事実」と認定しているからである。ゆえに「それについての資料が多い出来事」「復元しやすい出来事」が歴史的事実になってしまう。逆に「名もない個人」の資料は少なく、復元しにくい。しかし、個人の歴史は「存在しなかった」のではなく「書かれなかった」に過ぎない。歴史家がそれに目を向け、普通の人が生きた時代像を再構成することで、「個人性の復元」が歴史となるのである。したがって、通常の歴史と個人性は矛盾しない。
第三に、「今、ここに生きることと歴史の関わり」という視点である。自分が経験した戦争や災害の記憶は生々しい。しかし、時代を大きく隔てた歴史的事実は「単なる記述」になり、読む人に訴えかける力は小さい。その一方で歴史を題材にした小説や映画が好まれるのは、そこに「歴史を生きた個人」が描かれているからである。「個人の生き方」は時間と空間を超えて人々に訴える力をもつ。したがって、過去に生きたあらゆる人の「個人性」に着目することは、歴史を「今、自分が生きている現在」に関わらせることである。それは歴史家にとっても、歴史を学ぶ人にとっても変わらない歴史の意味づけである。
無名の人に個人性を与えることの意味を、以上のように私は考える。
第二問
著者が主題としている「直接経験」と「情報経験」の差異とは、「リアルさ」についての差異と言い換えられる。私は「リアル」とは人間と環境との関わり方から生まれる感覚であると定義する。例えば、環境が我々と対立するものであり、その中で生き延びようとする時に抵抗感があれば、それは「生きる実感」であり、「リアル」を生み出すものである。直接経験がもつこのような抵抗感を、著者は「身に迫る力」と表現している。
それに対して、著者は情報経験を「実物のコピー」「疑似経験」と捉えている。著者が情報経験を表層的だと考えているのは、一九八〇年代初頭のメディアが「単一の感覚に訴える表現手段」であると共に「参加者を限定する表現手段」であったからだろう。例えば、電話は聴覚に依存する一対一のコミュニケーション・システムで、特定の相手を想定したメディアであるため、二次元的な広がりがない。一方、新聞やラジオは視覚または聴覚を用いる一対多のメディアであり、「だれもが共通に知りたがっていること」をテキストや音声で広く訴えることに優れている。テレビならばマルチメディアなので、視覚と聴覚の両方を使って表現ができる。しかし、これらのメディアもマスメディアの一方向性のため、個人的な多様性のある情報ニーズには応えられない。これらの問題点はインターネットで克服された。
それでも、課題文が書かれた時代、既に筆者は今日の情報経験が量的にも質的にも直接経験を圧倒していること、また虚偽の情報を区別できず情報洪水に流されやすいことを指摘している。この傾向は、一九九〇年代以降、インターネットが普及してからも変わらないどころか、より程度が増していると言える。
しかし、「情報経験の世界と地球環境の有限性・自然的身体がもつ諸条件との衝突」という臨界点を回避するために著者が提案する「身体の量的・質的拡張」または「感覚の拡張と深化」は容易ではない。なぜなら、今、直接経験がネットワークとセンサー技術が提供する仮想現実の情報経験にすり替わりつつあるからだ。ネットワークを通じて仮想現実の世界で他者と交流したり、ゲーム空間でセンサーを身につけて運動したりする経験は、抵抗感に基づく「リアルさ」をもつ点で直接経験に近い。そこでは身体が仮想現実の中に拡張され、感覚も時間と空間の制約を離れる。
それでは、高度化する情報経験は直接経験と等しいものになるのだろうか。そうはならないと私は考える。それは、仮想空間・仮想世界での経験が個人的に操作可能なものであり、自由度が大きいからだ。直接経験の抵抗感で最も大きなものは「他者」と「他者の連続体である社会」だが、仮想世界ではこれらを避けることができる。その結果、自分と他者の関係・社会は何も変わらないのである。現実変革の可能性のない「リアルさ」は、抵抗感のない現実追認と同じであると言えよう。
「リアルさとの触れ合い」は、他者と出会う活動の多様な経験の中で、自分と異質な年代の人々、自分と異質な文化をもつ人々と交流して初めて、心身の全体によって感じ取られるものであろう。さらに、そうした「リアルさ」は社会関係の広がりを感じることから自然と交感する感覚の回復にまで連続している。情報社会における世界経験が生きる意味を深めるものになるためには、このような努力が必要であり、それが「思考と感覚を貫通し、往来すること」にもつながるのだと私は考える。
【難易度】
やや難。【問題の傾向】
歴史の意味を問う第一問と情報社会論をテーマにした第二問を組み合わせた問題である。昨年の問題と比べると、従来の文科一類と三類の小論文を組み合わせたような構成で題材的にはわかりやすい。第一問の歴史説明問題は、どの程度まで詳しく説明するかで受験生は迷うであろう。その点でもう少し絞り込みがほしかった。普段から同様のレベルの読書をし、専攻を横断して過去問に取り組む練習が必要である。*解説は『オンライン参考書』にあります。
【2010・第3問】
第一問
問一
紀元前五世紀、春秋時代の中国では氏族制度が揺らいで、諸侯が独自の勢力を築くようになった。それと共に大小の国家が並立し、自立できるようになった農民を支配基盤とする諸侯は、土地と農民をめぐって他の諸侯と争った。例えば長江流域の呉・越と楚が争い、大国であった晋が滅んで魏・韓・趙の三国に分かれたのはこの時代である。文化的にも諸侯が富国強兵のために人材を広く求め、身分に関わりなく登用したので諸子百家が登場した。この時代に司馬遷が生きていたら、歴史を綜合的体系よりもむしろ「多元的な事実解釈」という点から叙述したであろう。司馬遷が実際に生きた漢の武帝の時代には権力や学問の統一が思想的基礎であったのに対し、春秋時代には社会が下克上とも言える不断の変化を続け、歴史的な出来事にも伝統や権威に捕らわれない多様な見方が可能だったからである。
問二
中国とギリシアの歴史家を比較する前に、まず「歴史の成立」とは何かを定義する必要がある。課題文では司馬遷の業績が「弁証法的歴史哲学を基礎にして世界を綜合的に把握する」という点で評価されており、その父司馬談の業績も「道の哲学を中心にすえ、他の諸学派の長所を綜合しようとした」ことと説明されている。これらから、筆者は歴史を「哲学的観点に基づき、多様な世界を綜合的に解釈すること」と捉えていることがわかる。
この視点から司馬遷の歴史叙述を考えると、「統一的世界秩序を求める」ことが歴史研究の目的であり、諸学を綜合する前提として「春秋を継ぐ」ことと「易伝を正す」ことの両立が前提されている。つまり、歴史を捉える場合、世界が不断に変化することと、変化しながらも無限に連続するという二つの側面を綜合し、それによって多様な出来事に統一的解釈を与えることが重視されているのである。これは「世界史としての歴史の成立」と考えてよいであろう。
それに対して古代ギリシアの歴史家の仕事は、事実の調査・原因の探求においては古代中国の歴史研究と共通するが、歴史の捉え方が全く異なっていた。第一に、古代ギリシアの学問の根底には「変化しない普遍的存在に価値を認める哲学」があり、常に変化する歴史は論証すべき科学的認識の対象とは考えられなかった。第二に、たとえ歴史叙述がなされても、それは時間と場所に限定された視点に基づいており、他の諸学派の長所や多様な世界の綜合的解釈ではなかった。つまり、同じギリシアでも異なった時代の視点に立って歴史を考察したり、異文化の視点まで含めて歴史的事実を解釈したりすることはなかった。そこでは世界の多様性どころか、ギリシア全体を見渡した歴史研究もなかったのである。ゆえに、ギリシアでは世界史はおろかギリシア史さえ存在しなかったと考えられる。
第二問
問一
福田氏は、平和を「戦争の不在」と消極的に考えると平和追求とは「自分が生きてさえいればよい」ことになり、「何のために生きるか」という視点が欠落すると考える。そこから、積極的な生き方とは「自分を犠牲にしても守るべき価値をもつ」ことであると考えられ、それはナショナリズム的性質を帯びる。「平和学」の立場では戦争の不在を消極的平和と捉える点では福田氏と同じだが、それだけでは幸福実現はできないと考える。それに加えて貧困や人権侵害をなくし、社会正義を実現することが「積極的平和」の状態である。これらと著者の立場の違いは「戦争の不在」を積極的に評価するところである。「不在」という言葉の使用法自体を消極的に捉えるのではなく、「病気の不在」や「事故の不在」のように、人生にとって必要な条件は積極的に評価すべきである。生きること自体に価値があり、生きるという目的のために他の手段が必要なのである。生きるという目的と手段が一致している場合、我々は幸福を感じるのであり、その意味で「平和に生きること」「平和を支える社会的努力をすること」「努力を生き甲斐と感じること」は密接に結びついていると筆者は考えている。
問二
まず平和の逆の「戦争」とは何かを考えてみよう。例えば英国の哲学者ホッブズは、個人が自由に行動すれば必ず他の個人の自由と衝突するから、社会の自然な状態は「万人の万人に対する闘争」に至ることを指摘した。実際に戦争状態にならないのは、国家という強制装置が争いを止めているからだという。福田恒存氏は、「戦争不在」の平和により、人生の意義や国家・自文化への愛着が見失われると考えている。しかし、ホッブズの議論に従えば、結局「自分を守るために国が必要」なのであるから、国のために戦うとは自分のために戦うことに他ならない。つまり、「戦争なき平和」という定義が常に正しいわけではない。一方、平和学者が人権や貧困対策までも含めて「平和」を定義するのは、宗教・民族紛争が純粋に思想や信条の違いから起こるのではなく、それらが貧富の格差や政治体制と結びついて起こるからだろう。つまり戦争不在という消極的平和の基礎の上に積極的平和の「人間らしい暮らし」があるのではなく、むしろ「人間らしい暮らし」の実現が戦争を防ぐのである。ここでも「戦争なき平和」という定義は十分でないことがわかる。
これらに対して「病気の不在」と同様に「戦争の不在」も生きることの本来的な価値を支える手段だと著者は言う。その結果「平和に生きること」「平和に生きる努力」「努力を生き甲斐と感じること」が結びつくのだから、平和が生の意味と不可分であることはよくわかる。しかし、戦争の不在という平和の定義は「多様な平和の現実」を十分説明できていない。例えば病気不在の状態が健康だとすれば、我々が健康でいられる期間は一生のうちわずかしかない。人間は本来病気と回復を繰り返しながら生きるものだからだ。
同様に「どのような戦いもない」ことが平和ではない。国家が孤立して平和を守ろうとしたり、誰もが豊かな家庭に生まれ、一生他者と争わない社会を目標としても、実現は不可能だろう。もちろん歴史においては戦争のない期間の方が長かった。しかし、戦争のない時代はなかったし、戦争にも侵略戦争・革命戦争・解放戦争など、様々な意味をもつ戦い方がある。その対立物として平和にも多様なあり方があると言える。ゆえに、平和とは様々な「戦い」も含めて他者と共生していくことである。たとえ争っても他者を理解し、受け入れて互いに全滅を回避できることが真の「平和な生き方」であると私は考える。
【難易度】
やや難。
【問題の傾向】
歴史記述の差を問う第一問と平和論をテーマにした第二問を組み合わせた問題である。昨年の問題と比べると、第一問は歴史をどう見るかというテーマが踏襲されている。昨年も出題された問一の歴史説明問題は、今年の方がわかりにくい。「時代の機運」という記述が本文にあるので、春秋時代の文化的雰囲気を類推しながら答えるしかないだろう。問二は比較的答えやすい。第二問は「戦争の不在としての平和」について、問一で要約、問二で考察が要求されている。明確な意見をとりあげており、議論のまとめは容易。問二は知識よりも自分で組み立てた議論を重視する設問であり、過去問を解いて議論の構成を相当研究する必要がある。
*解説は『オンライン参考書』にあります。
【2011・第3問】
第一問
問一
古代ギリシアに「社会」に相当する言葉がなかったのは、私的な行動と公的な行動の区別がなく、全てが「公共空間」だったからである。ポリス社会では「自由」とは自分の責任で公共の任務を成し遂げることであった。アレントが古代ギリシアの都市国家を「十全な公共空間」と考えるのはこのためである。ローマ時代に「社会」という言葉が生まれたことは、公共空間から分かれて「私的空間」が生まれたことを示している。これは近代法の起源となったローマ法が生まれたこととも関連している。すなわち「公共に対する義務と私人の権利」が対立的に現われ、私的空間の生活と公共空間の生活とは区別されることになったのである。第二次大戦下の「全体主義」は、一見古代ギリシアのように全てが公共空間に一元化される体制のように思える。しかし、公共性とは本来「自分の責任で公共の任務を成し遂げること」であり、そこには「覚悟」や自発的な「勇気」が伴っている。全体主義では「市民の義務」はあくまで「上からの強制」であり、人々は私的空間を守りたいから権力に従うに過ぎない。ゆえにそこに公共空間があるとは言えないのである。
問二
公共サービスが広い意味での政治的活動を代行する現代社会では「公共空間」は存在しない。その反面、人々は「私的空間」に閉じこもっているわけでもない。「私的空間」とは、公共空間に対立する「個人の自由」という覚悟に基いて行動する空間だからである。現代の人間は「自由」に発言しているように見えるが、それは無責任な発言が許されるメディア環境に安住しているからである。「第三の空間」とは、そのような「公共空間でもなく私的空間でもない保護された空間」である。私は「第三の空間」も「十全な〈公共空間〉」として機能する可能性があると考える。その条件は、市民が新たな「覚悟」を持つことである。例えば、ネット掲示板の書き込みが他者を傷つける力は、同時にそれだけ強く他者と関わる力でもある。ネット上の仮想空間は、権力を恐れていた人々が自分の力を自覚する空間になり得る。ただし、「覚悟」の二面性を自覚することが課題である。ポリス社会の政治的自由が兵役と切り離せないように、ネット上の表現活動という「自由」も「他者への責任を負う痛み」と一体である。その両面を担う自覚を持つことで、「新たな公共空間」が成り立つのだと私は考える。
第二問
問一
徂徠は、役人の仕事とは年貢を集めることだけではなく、地域と人民全体の面倒を見ることだと述べている。罪を犯しても金さえ払えば不問に付したり、外聞を恐れて処分を行わなかったりするのは公の法を無視していることになる。それゆえ法に則した処分が必要である。しかし同時に、領民が逃げ出すのは政治が悪いからに他ならない。領民の行動の原因を深く追求すれば、それは為政者にたどりつく。「将軍が朱子学に傾倒されていたので、儒教的道徳論に基く心情的な問題を中心に議論をしていた」ことに対し、徂徠は政治を道徳から区別する視点で意見を述べる。例えば生活が苦しく、村を捨て、道中で母親をも捨てることは儒教道徳からすれば「悪」である。しかし、その根本的な原因を作ったのは為政者であるから、むしろ村と母親を捨てた本人の罪は軽い。ゆえに罰するよりも根本原因の生活苦を解消すべきだというのである。道徳より因果関係を重視する徂徠は、最下層の身分差別も本来は病気の隔離から始まったこと、見捨てられる人々が増加すれば社会不安を招くことなどを挙げ、儒教道徳に基いた不合理な差別や問題の放置をすべきではないことを主張している。
問二
当時の社会は幕府の財政破綻によって貧困が蔓延していた。貧しさが原因で農民が故郷を逃げ出し、仕事を求めて都市へと移動した。主家を失った浪人なども含め、都市では浮浪人が増加する状況が続いていた。徂徠は本来病が原因で隔離され、身分が固定された最下層の浮浪人と新たな浮浪人である「新こもかぶり」を区別し、新たな浮浪人の増加を懸念している。浮浪人は一般社会から隔絶され、さらに生活が不安定で死と隣り合わせているので、心が荒んでくる。それを為政者が人の嫌がる仕事に使うので、より人間が荒れてくる。このような人たちが社会に増えれば不測の事態も生じうる。一方、武家の浪人は手に職もないので、悪事に手を染める者もある。このような問題を解決するには、原因から改善しなければならない。村を捨てる者には経済的援助をして故郷に戻し、武士の場合にも生活の資を得るための仕事に就くことを妨げるべきではない。利潤が目的ではないから武家の道徳には反さない。これらの問題は政治に非があリ、為政者の罪と言える。ゆえに政治に責任がある立場の人間が解決のために努力しなければならないと徂徠は考えている。
【難易度】
標準的。
【問題の傾向】
公共性について問う第一問と政治と道徳の関係をテーマにした第二問を組み合わせた問題である。
第一問は2009年度の慶大法学部の問題と出典が同一で、出題箇所、問われている内容ともに関連が強い。東大後期と慶大法学部の問題は過去にも同様の例があった。普通に使われる「公共性」という言葉が、古代ギリシア文化の文脈では「個人と社会のあるべき姿が一致していること」であり、現代のネットワーク社会の人間のあり方とはかなり違うところがポイントであろう。
第二問の説明問題は、これも例年のことであるが、資料をどの程度まで詳しく説明するかで迷う問題。歴史的知識を問うわけではないが、資料だけでは説明不足の感もあり、受験生は迷うかも知れない。
*解説は『オンライン参考書』にあります。
【2012・第3問】
第一問
問一
第一次世界大戦によって混乱するドイツでは一九一八年に皇帝ヴィルヘルム二世が退位し、一九一九年一月に社会民主党・中央党・ドイツ民主党のワイマール連合による政府が成立した。八月には共和制、州による連邦制、基本的人権の尊重などをうたうワイマール憲法が公布され、ワイマール共和国が成立した。敗戦国ドイツにはヴェルサイユ条約で領土の削減、軍備・産業の制限、多額の賠償金が課された。フランスにルール地方を占領されたドイツ経済は一九二九年の世界恐慌によりさらに悪化し、一九三〇年九月の選挙で第二党になったナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)は、ヴェルサイユ体制とワイマール共和国に対する国民の不満を吸い上げて勢力を拡大した。一九三二年七月の選挙でナチスは第一党となり、翌年一月にヒトラーが首相に就任した。二月の国会議事堂放火事件の際に発令された緊急大統領令が憲法の基本的人権を停止、ナチス以外の政党を無力化し、さらに、三月の全権委任法でヒトラーはワイマール憲法を空文化した。一九三四年八月にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは国家元首と首相の地位を兼ねる総統となり、ワイマール共和国は崩壊した。
問二
政治権力が芸術作品の制作に介入したり利用したりする目的は「大衆の意識形成」である。本文のオットー・ディックスの作品は戦争の悲惨さをありのまま描いたため、厭戦・反戦の意識が国民に広がるのを恐れる勢力が作家を弾圧し、作品を没収したのである。
同様の例は日本にもあった。制作の弾圧という点では一九二〇年代から敗戦までの間、プロレタリア作家の小説が発禁になったり、シュールレアリズムの画家が「理解不能」ゆえに思想犯として取り締まりを受けたりしたことが挙げられる。これらは「表現してはならない内容を禁止する」という排除の論理である。その結果、多くの作品が失われた。
逆に「表現すべき内容を奨励する」という迎合の論理も使われる。例えば日本の有名画家や作家が従軍芸術家として戦地に送られて制作された「戦争絵画」や「従軍文学」である。これらは「強制によって制作した」という作家自身の思いから戦後は封印されたものが多い。
しかし、排除と迎合によっても失われない芸術性が作品にはあり、その力は政治的意図を超えるものだと私は考える。
第二問
問一
日本における基層信仰とは神道である。その性格は第一に自然崇拝の多神教であり、自然のカミは祭祀の対象である樹木や岩に宿ったり、山自体が「御神体」として崇拝され、一帯が聖域とされたりする。記紀神話でも太陽神として高天原を支配するアマテラス、夜の世界を支配するツクヨミ、海を支配するスサノオなどに自然への信仰が見られる。第二の特徴としては祖霊崇拝がある。重要人物が死後にカミとして祭られるだけでなく、非業の死を遂げた人物が怨霊として祟ることを避けるためにカミとして神社に祭られることもある。仏壇に親族の位牌を祀ることも、その一端である。さらに、土地のカミ・氏神など、地縁や血縁の結びつきを守る土着のカミも信仰の対象となる。
これらのカミに供物を捧げ、祝詞を唱えることが呪術的な祭祀の共通点であるが、それぞれが日常の中で区別されることなく、年中行事などを通じて折々の生活に取り込まれているところに日本的基層信仰の大きな特徴がある。特に農耕社会の生産サイクルと結びついた年間暦の祭祀は現代にも残り、寺院の行事にも取り入れられている。
問二
普遍宗教が基層信仰を包摂した例として、キリスト教によるゲルマン民族の信仰取り込みを考えてみる。紀元三九二年にキリスト教はローマ帝国の国教となり、ヨーロッパ全域で広く信仰されるようになったが、西ローマの滅亡後も新たな支配者であるゲルマン民族に広がった。
キリスト教が異教徒であるゲルマン人に受け入れられる過程で、ゲルマンの基層信仰である多神教の神々や年中行事もキリスト教に包摂されることになった。例えば、復活祭(イースター)はイエスの処刑後の復活を祝う行事だが、冬が過ぎて生命活動の復活を祝うゲルマンの春分祭とキリスト教の復活祭が融合したものと言われる。十二月二十五日のクリスマスも本来はキリストの誕生日ではなく、多くの宗教の冬至祭と重なっているため祝われるようになった。
しかし、仏が神の姿をとる本地垂迹説とは逆に、ゲルマンの神々はキリスト教の中に魔女や悪魔のような否定的要素として取り入れられた面もある。それでもなお、ヨーロッパ言語の中に北欧の神「テュール」の日(火曜日)ゲルマンの神「ウォーダン」の日(水曜日)北欧の神「トール」の日(木曜日)のような日常生活と結びついた形で基層信仰は残っている。
【難易度】
やや難。
【問題の傾向】
芸術表現への政治的弾圧について問う第一問と普遍宗教の形成について問う第二問を組み合わせた問題である。例年出題されている第一問・問一の歴史説明問題は易しくなった。本文中にワイマール共和国の出来事が書かれているので、補足説明すれば解答になる。
第一問、第二問の両方とも例年のように考察を必要とする問題ではなく、知識中心の解説を求められる問題になった。論理的思考力の試験と言うよりはクイズに近い。
ただし、美術や宗教についてある程度の教養がなければ答えられない点で、やや難問と言える。
*解説は『オンライン参考書』にあります。
【2013・第3問】
【解答例】
第一問
問一
課題文によれば、地図に典型的に現われる空間概念の転換期はルネッサンス期・大航海時代である。それ以前の時代には、アリストテレスに代表される求心的空間のイメージが支配的であり、空間は意味と密接に結びついていた。場所にはそれぞれの意味があり、さらに世界全体が事象の包括者としての宇宙的な意味をもっていた。従って、ある場所に存在するということはある秩序の内にあるということであり、場所の意味が人間の行動の規範にもなっていたのである。それに対して、ルネッサンス以後の空間概念は測定されるべき対象としての世界に基づいている。デカルトの座標系に数値として客観的に表されるように、空間は意味から切り離された等質なものと捉えられ、観測者である人間の外部にある理想的な基準となった。近代以後の人間は、まず理想的で絶対的な空間を設定し、それを背景に具体的な事象を説明する。これが近代科学の基礎となった一方、絶対空間における事象の記述は、ある視点から見た断片的なものにならざるを得ず、事象全体を空間に即して記述することは不可能となった。
問二
一九七〇年代以降の大きな社会的変化は、コンピュータの導入と情報のデジタル化によってもたらされたと言える。それによって生み出された空間概念が「仮想空間」である。仮想空間は「仮想現実感」の技術によって可能となった。仮想現実の世界とはコンピュータ画面上に構成されるリアルな立体像である。デジタル画像の基礎がデカルト的座標空間であるにもかかわらず、それは私たちに「実在しない想像が現実化される空間イメージ」を提供する。近代以降の科学が対象化し客観化した世界が、デジタル技術によって「新しい意味づけの可能な世界」に生まれ変わりつつあるとも考えられる。さらに、ネットワーク技術の発展で人間のグローバルなつながりが形成され、意識の上では近代的な時間と空間の限定が相対化された。最近では連続的にネットワークと接続されるユビキタス技術が進歩し、移動中でもネットワークにつながって情報の受信と発信ができるようになった。それは現実世界と仮想空間の境界を取り去って「拡張現実空間」のイメージを創出している。3Dプリンタの普及なども加わり、将来的にデジタル空間が私たちの現実空間を大きく変化させることになると私は考える。
第二問
問一
1853年7月、ペリー提督が国書を持って浦賀に来航し江戸幕府に開国を迫った。翌年日米和親条約が締結されて鎖国体制は終わる。58年大老井伊直弼は勅許のないまま日米修好通商条約を締結し、同時に「安政の大獄」によって反対派を弾圧した。攘夷を唱える水戸藩や薩摩藩の浪士は60年3月、登城途中の井伊を桜田門外で暗殺する。井伊死後、老中の久世広周・安藤信正らは失墜した幕府の権力を復活させるため公武合体を画策し、将軍家茂と孝明天皇の妹・和宮との結婚を実現させる。これが尊王派を刺激し、62年2月、老中安藤は江戸城坂下門外で襲撃され、失脚する。同年9月には生麦村で薩摩藩主島津久光の行列を横断しようとした英国人が斬りつけられる生麦事件が起こるが、その後の下関事件、薩英戦争などで攘夷派が諸外国に屈服し、攘夷の非現実性が明らかになる。67年11月、徳川慶喜は大政奉還を明治天皇に申し出、68年1月3日に王政復古の大号令が発せられて慶喜の将軍職辞職と新政府樹立が発表された。その後、一連の戊辰戦争の戦闘が行なわれたが、いずれも新政府軍の勝利に終わり、71年8月に廃藩置県が断行されて幕藩体制は終わった。
問二
課題文によると、「攘夷」というキリスト教排斥に対して用いられた言葉は、幕末期に外国勢力への対抗という新たな意味を担わされた。しかし、「攘夷」の具体的内容は曖昧である。条約破棄・外国人追放という鎖国の継続も考えられるし、逆に西欧近代国家と肩を並べるためには、西欧から最新技術や近代的制度を輸入することが不可欠である。こうした「攘夷」の矛盾する性格の上に「乱世的革命」が進行したのである。従って、それが「革命」であったかどうかは当事者によって変わる。幕府の内部が混乱しながらも明治の近代化が成功したのは、大商人たちの経済力が成熟していたからであろう。彼らにとっては「攘夷」の定義より、開国と経済活動の自由が重要であった。これは一般の民衆にとっても同様である。一方、維新によって封建的身分制の根拠を失う武士たちは、実力のある下級武士や外様の諸藩が攘夷を幕府批判に利用したのに対し、既得権をもつ支配階層は諸外国の要求と保身の間で場当たり的な対応しかできなかった。「攘夷」を理想化した人々は後者の勢力に属し、全体から見れば少数派に過ぎなかったため、彼らにとって維新は「裏切られた革命」だったと私は考える。
【難易度】
例年よりやや易しい。
【問題の傾向】
第一問はかつて現代文でよく出題された文章。問一の空間イメージの変化は明解な説明がなされているので難しくないだろう。問二は「70年代以降の社会や技術の変化」というポイントから「デジタル化」と「ネットワーク化」に気づく必要がある。そうすると空間概念の変化として「仮想現実」を論じるしかない。
第二問は大河ドラマにもなっている幕末史である。問一は難しくないが、500字制限で幕末史を出来事も入れてまとめるのは大変である。出題意図に疑問が残る。問二は本文の記述をヒントにして自分の言葉でまとめればよい。
*解説は『オンライン参考書』にあります。
【2014・第3問】
【解答例】
第一問
問一
近代国家すなわち国民国家の富の源泉は労働できる多数の人民であった。そのため、明治政府が近代化を進める過程で、労働と兵役に就くことが可能な人口を増やし、国民の「健康」を管理することが国家の基本的な政策となった。その担い手となったのが西洋近代医学である。近代医学はまず国家の法制度と並ぶ社会統制システムとして採用され「制度化」された。医学は国家によって公認され、医師は国家資格となった。その結果、出生から死亡までが法令によって管理される、国家の人民統制システムとしての医療が生まれたのである。制度化された医学の主な役割は、戦前は優生政策、戦後は健康増進政策の推進であった。どちらの政策においても「健康」と「非健康」を区別し、健康でない国民を排除または「治療」することが医師の任務であった。さらに戦後は予防医学が重視され、日本独自の「成人病」「生活習慣病」などの概念が官僚によって作られた。それに従い、国民は国家が指示する「清く正しい」日常生活を送らなければならない。西洋医学は今も予算によって国家支配されているため、新たな人民管理の政策が立案される度にそれを追認し、意味づけする役割を担わされている。
問二
「健康」は本来「病」の対立概念である。しかし、現代の日本社会では医学的な「健康」がきわめて限定された状態と考えられている。血圧、血糖値などにとどまらず、内臓脂肪、腹囲、社会性に至るまで「正常範囲」が定義され、はみ出す人は全て「異常」で治療を要すると医師によって指導される。理想の健康モデルは、酒やタバコの習慣がなく、標準体重で毎日運動し、栄養バランスがとれた低カロリーの食事をし、悩みやストレスがなく、よく眠れて高齢になっても生活の質が高い人である。もちろん、そんな人物は実在するとしても少数であろう。つまり、「健康」は現実的な状態ではなく、観念的な理想に変質しているのである。その結果、日常生活を理想化しようとする人々は「健康食品」や「健康情報」に敏感に反応する。もちろん観念的な健康など得られないから、人々は新しい健康商品が出るたびにいつまでも追い続けるしかない。同時に、達成されない健康への不安も日常化し、それに対して様々な保険商品が提供される。「健康」を自分らしい生き方と考えれば、それは一人一人異なる状態である。人間の多様なあり方を認め、個性を尊重できる社会の実現が必要だと私は考える。
第二問
問一
著者の述べる「知識人」像は独特のものである。その中心的な定義は「少数派」であることと「自分の専門外の知識をもつ発言者」であることだろう。「少数派」は社会に警鐘を鳴らし、かつ党派性のない存在であることに通じ、「アマチュア的発言者」は理論家と実践家の媒介者であること、学問の枠組みを相対化する力をもつことに通じる。近代日本ではドレフュス事件のように公開の場で政府と対立する言論が行なわれることがなかったため、課題文のような意味での知識人はほとんど見られない。あえて探せば、大逆事件で幸徳秋水が処刑されたことに批判的で「時代閉塞の状況」を発表した石川啄木は、著者の「知識人」にやや近いと言える。しかし、明治以後の近代化の時代に言論の中心だった知識人の多くは夏目漱石のような学者か福澤諭吉のようなジャーナリストであり、どちらも幕末以来の党派性と無縁ではなかった。それに加え、近代の知識人は高い学識をもつエリートの特権層であった。こうした条件から、日本近代の知識人は立場にかかわらず「権威」を帯びており、「素人として自由に発言する」ことからは遠く、使命を果たせば静かに退場することもできなかったと考えられる。
問二
近代の日本では難しかった著者の「知識人」像は、むしろ現代社会において大きな意味をもつ。それは第一に「専門性」が変化したからであり、第二にメディアが多様化したからである。まず、知識の細分化によって専門家の扱う領域が狭くなり、総合的な知見が難しくなった。例えば、ある実験が生命倫理に反していないかどうかを検討するためには、影響を受ける当事者として一般人の合意が不可欠である。その際「素人代表」としての知識人の発言は、一般人が参考にし得る、核となる意見の形成を助けるという点で有効である。次に、ネットワーク時代のメディアは多様化し、パブリックな意見表明が自由にできるようになった。社会的に発言することが特権ではなくなったのである。それだけにメディア上での議論は玉石混交で拡散しがちであり、論理的な意見、対抗意見の必要性が高まっている。そこに既存の学問的な枠組みを相対化できる「知識人」の新たな役割が生まれる。原発事故などでは専門家の対応力に限界のあることがわかった。今後の政策を考える上で様々な視点から問題と解決法を提案することが必要であり、この面でも「知識人」の言論は有効性をもつと私は考える。
【難易度】
標準的なレベルの問題。
【問題の傾向】
第一問は現代の管理社会論。問一のまとめは要点をチェックしていくだけで完成するから難しくない。問二も文意を理解していれば難しくないが、具体的な状況を挙げることができるかどうかが重要。
第二問は知識人論であるが、やや抽象的な文章で具体像がつかみにくい。問一は著者の言う「知識人」と近代日本の「知識人」の実像を区別して論じるべき。伝統的な知識人論を知らないと書きにくいかもしれない。問二は著者の「知識人」像を現代において考える問題。ネットでだれもが発言できる時代だからこそ「少数派」の意見にも光が当たりやすい。出題意図はそこにあるだろう。
【2015・第三問】
【解答例】
第一問
問一
課題文で「非対称性」と言われているのは、「正義」に対して人々が発言することが少ないのに比べ、「不正」に対しては多くの人々が発言し関心も極めて高いことを指している。非対称性の原因として、著者はまず正義が「当たり前の行為」として関心を引かず、「過剰な正義」や「不正義」が人間の生活により密接な関わりをもつ「意味のある問題」であることを検討する。しかし、それは「正義漢の冷たさ」への反発や「正義への不信と不正への憤りの共存」などによって否定される。次に筆者は「正義とは何か」という正義の定義・正義概念が明確でないことを指摘している。それに対して「何が正義か」という正義原則・正義観は具体的であり、捉えやすい。しかし、具体的な正義観は文化や時代によって変わり、それらの優劣を決定することはできない。ただ、その根底には何らかの共通的な正義概念があって、その上に多様な正義観が成立している。多様な正義観を可能にしているのは「正義感覚」であり、不正を感じた時に、人はその正義感覚を顕わにして憤るのである。つまり、正義と不正に対する態度の非対称性は、正義感覚の発現のしやすさに依拠していると言える。
問二
日本人犠牲者も出したいわゆる「イスラム国」によるテロ活動は、イスラム教の厳格な教義解釈に基づく「正義」だと主張されている。これに対してアメリカ、欧州の先進国は「民主主義の正義」を対置し、テロ活動を非難している。こうした紛争について「宗教対立」と捉えるのは正しくないだろう。むしろ「何が正義か」という正義原則・正義観の違いなのである。もちろん、誘拐や殺人を「正義の行為」と主張する集団は理解できないし、対等な交渉の相手と考えることも難しい。しかし、彼らの主張や行為に共感する人々が少なからず存在するのも事実である。その人々は「正義感覚」によって共感しているのであろう。課題文の筆者は正義感覚に訴える要素として「不正」が重要であることを指摘している。自己と自己を取り巻く社会の「不正」を強く感じた時、不正の犠牲になっている人々は、それを正すことのできる「正義」を強く支持するのである。ゆえに、紛争の基礎にある対立を「正義概念」に訴えて解消するのは困難である。人々を暴力に駆り立てている「不正」や「不当な格差」を最小化する努力によって、それぞれの正義観を近づけていく努力が必要だと私は考える。
第二問
問一
「害虫としての生」は、文字通り「それが生きていることが健康なものの生を害する」という生である。それは第一に、父親の立場のような「健康なものと接触させない」活動の対象である。「害虫」は、最初「隔離される生」として遠ざけられる。身体的接触だけではなく、健康なものの眼に触れることも拒絶されるのである。その末路は「存在することも許されない生」として暴力的に断絶させられる生である。第二に、この生は母親の立場からすれば「期待を裏切った生」である。本来「頼もしい存在」として一家を背負う役割を期待されていながら、害虫に変化することで家族を失望させ、「過ぎ去った思い出」としてのみ生かされる生である。本来、医療は生を回復させる可能性をもつが、医療が無力な場合、この生は忘れられ、切り捨てられてしまう。第三に、この生は妹に介護される「自立できない生」である。家族の一員として扱ってくれる妹さえ、最後は世話に疲れて厄介者扱いするようになる「迷惑な生」である。そこでは生が介護する側とされる側の交流ではなく、一方的な「苦役」になってしまうと言える。
問二
課題文のような生のあり方として、かつての「ハンセン病者」の生き方を考えてみたい。ハンセン病は科学の未発達な時代には「忌まわしい存在」として、科学の幼年期には「不治の病」として「健康なものの生を害する」と考えられた。それゆえ患者は社会から隠されて「療養所」に隔離され、所内で結婚する人は断種されたり、妊娠中絶を強制されたりした。本当に「存在することも許されない生」だったのである。現在、ハンセン病は治療法も発見され、隔離と差別の制度が誤りだったことが明らかにされている。しかし「障碍をもつ人」という、より大きな視野で病を捉えてみると、病者は今でも「期待を裏切った生」「自立できない生」「迷惑な生」としてのあり方を様々な形で押しつけられている。彼らと病者でない人の関わり方は『変身』の父、母、妹以外にあり得るのか。その答えとしては「渡しあう」生き方があるだろう。そもそも害虫とは人間中心の見方であり、どの生も自然の中で何らかの役割を果たして生きている。同様に、私たちは弱い立場の人に一方的に何かを提供するだけではなく、彼らの思いや生き方を受け取り、新しい生き方の視点を見出すことが重要だと私は考える。
【難易度】
標準的なレベルの問題。
【問題講評】
第一問は正義論である。問一のまとめは要点をチェックしていくだけで完成するから難しくない。問二も文意を理解していれば難しくないが、具体例を挙げることができるかどうかがポイント。
第二問は福祉社会論。カフカの「変身」を題材に、「害虫」というセンセーショナルな比喩で現代社会の排除の論理を批判している。問一のまとめは難しくないが、問二は具体例に「排除された人々」を挙げるのがやや大変。
【97・第一文学】
早稲田大学
課題文で述べられている「国名を付した文化」の成り立ちは、「空間」と「時間」の側面から分析することができる。
まず、「空間」すなわち地理的側面から考えると、「国名を付した文化」は「他と区別できる地域の文化」ということになる。しかし、この「区別」の根拠は様々である。例えば、筆者が問題提起している「日本文化」を独自のものと見なす視点は、日本が地理的に孤立した島国であることから生まれるのであろう。それに対して、「フランス文化」など大陸の文化の独自性は、フランス語圏という「言語共同体」を他から区別することによって意識されると考えられる。だが、この言語共同体は「国境」と一致するわけではない。フランス語を公用語の一つとする旧植民地は全世界に広がっており、国境の内部にも「バスク語」など、異質の言語をもつ共同体がある。
そこで、「時間」すなわち歴史的側面からも考えてみよう。そもそも「国境の内側は文化的に同一である」という考え方が生まれたのは近代である。近代とは、地域的な多様性をもっていた多くの小共同体が「中央集権的な統治機構を備えた国民国家」に統合されていった時代であり、「近代化」の文化における現われが「文化的同化政策」なのである。この点では、地理的に孤立し、自然の国境をもつ日本は、「近代化=文化的同一性」の幻想を広める上で有利であった。歴史的には、このような「近代化」の圧力によって「国名を付した文化」が生まれたのである。
以上のことから、近代的な「国名を付した文化」が伝統的でも絶対的でもないことは明らかである。明治以後の日本で「標準語」によって方言が消えていったように、社会の中の「周辺マイノリティ=中央から離れた少数派の人々」がもつ文化、言語、生活習慣などは、中央の権力が定めた「国民共通」の基準に合わせるよう「矯正」され、それが「○○文化」と言われているのである。
それゆえ、国境を越えて人・モノ・情報が移動する現代に生きるわれわれには、自文化のアイデンティティを固定されたものと捉えるのではなく、国内・国外を問わず、異質な他者との出会いの中で「相互の独自性と共通性」を確認しながら生きることが必要であると私は考える。
スーパー小論文ホームページ