昔、心と体は「二つで一つ」の存在と考えられていました。しかし、体の「からくり」(仕組み)が明らかになるにつれて、心よりも体を重視する考え方が当たり前になっていきました。病院では内科・外科・循環器科・胃腸科・泌尿器科・眼科・歯科・耳鼻咽喉科・皮膚科など、体に関する診療科目はバラエティーに富んでいます。しかし、心を扱う診療科は精神科(神経科)・心療内科など、少数です。
なぜ体の「からくり」を研究することが科学として「医学」になり、心の「からくり」が長い間科学の対象とされなかったのでしょうか。それは体は目に見えるけれど、心は目に見えないからです。(「心のかたち」(新世紀エヴァンゲリオン)なんて言い方もありますが、これは比喩ですね。)
科学は「経験」に与えられるデータを対象とする学問です。つまり、目に見える、耳に聞こえる、鼻で匂いを嗅ぐ、手で触る、舌で味わう、など、感覚で受け取れないデータは科学で扱うことができないのです。
遠い銀河の中心部にあるブラックホールからやってくる電波を観測したハッブル宇宙望遠鏡のデータも、コンピュータで二次元の可視光領域の映像に直して初めて、私たちの目に見えるのです。(電波が直接見えたり聞こえたりしたら便利ですが、「電波の指令が聞こえる」と言う人はすぐ診察を受けたほうがいいでしょう。)心がこれらのデータとして「観測」されない限り、心は科学の対象にはならないのです。
そこで、心が哲学の対象になった頃の考え方を見てみましょう。
西洋で科学を体系化した最初の人はアリストテレスでしょう。アリストテレスは「自然学」を著し、地球を中心にした宇宙の成り立ち(天動説)や、鉄のように重い物質は自分の本来属する場所(土の中)に帰ろうとして羽のような軽い物質よりも早く落ちる、という物理現象の原理を論じました。(これらの説は中世までカトリック教会の学問原理として絶対的な権威をもっていました。ガリレオはこの巨大な権威と戦わねばならなかったのです。)
アリストテレスは人間の肉体と精神を「質料」と「形相」(けいそう)と考えました。「質料」は英語のmatterの原語でmateria、「形相」はeidosの訳語です。「素材」としての物質は「質料」、素材によって作られる「形」や「機能」が「形相」です。紙の上に墨で文字を書いたとすると、「墨」や「紙」は質料であり、墨のしみこんだ跡が作る形は「形相」です。
アリストテレスは質料・形相の考え方を人間に応用してみました。人間は肉体をもっていますが、これは物質です。つまり質料です。それに対して、精神の活動は「はたらき」であり、形相です。紙や墨と文字の形が別のものであるように、精神の働きは肉体とは別のものであるとアリストテレスは考えました。このように精神の働きを肉体から独立した「機能」とする考え方を「機能主義」と呼んでいます。これに対立する考え方が「機械論」です。